話芸と朗読の違いについての議論が心に残って離れない。7月初旬に開催されたブックフェアでの話しである。併催されているデジタルパブリッシングフェアに社外取締役をしている顧問先の会社が出展しているのと、ラジオデイズのためのデジタルコンテンツビジネスに関する情報収集を目的としてブックフェアに行った。金曜日の午後、東京ビックサイトは人で溢れていた。いつものことながら広大な会場に圧倒され、さてどこから回ろうかとたたずんでいたとき、声を掛けられた。東京電機大出版局の植村さんであった。なんと局長になったという。しかもeBookのフォーマット標準化の国際委員会の議長になってしまったということだった。彼は、もう20年以上も前から忘れた頃に再会して、その都度面白い情報をもらっているという私の情報源である。10年ほど前私が会社を辞めたとき、今は大阪市立大大学院の教授をしている友人と彼との推薦で出版学会に入れてもらった。デジタル出版部会に誘われ、よく出席していた。実は二次会の飲み会がインセンティブだった。月日は過ぎ去ってみんな偉くなる歳になり、自分だけ取り残されていく感慨にひたる。出家の身には世間の名利は関係ないのだが。。。 最近は年に1回くらいしか参加しない幽霊会員なので植村さんに声を掛けられ、展示会は後回しにしてお茶しましょうとなったのである。
近況を話すうちに、私がコンサルとは別に音声コンテンツ制作とダウンロード配信のための会社をやっているという話から、議論が展開し始めた。
「ビジネスとして考えると朗読ものが売れるかどうか心配している。落語や講談のような話芸には人に噺を伝える力があるけど、朗読にはそういう力が弱いみたいだ」と私。この日の前日、私はある有名女優の朗読の会を聴きに行っていた。たいへん上手いと思うのだが、一向にその内容が記憶に残らない。一言一言は確かに聞こえており、頭に入ってくるのだが、一向に定着しないのだ。これは、私がラジオデイズの企画に関わってから参考にしようと聴いた大手出版社やレコード会社などから発売されている多くの有名俳優による朗読CDの試聴後感と同じものであった。
植村さんは「それは口承と、文字による文学の違いだ」と言う。落語、講談、浪曲や昔話は、そのルーツからして琵琶法師の平家物語のような口承であり口誦の芸だったというのである。口承というのは、口移しに伝える口伝ということであり、口誦というのは声を出して読むことである。
なるほど、言われてみればその通りだ。落語や講談は今は速記本などで文字でも読めるが、演者が語るのを聴衆が聴くのが本来の形だ。対して朗読は文字として表現された文章を読み上げるというものだが、例外はある。詩は和歌が本来そうであるように声で読み上げて行くものである。歌を詠むとは、和歌を創ることであると同時に読み上げる、詠(うた)うことであった。近・現代詩でも北原白秋や萩原朔太郎などの自作朗読の録音盤が残っている。宮沢賢治や中原中也、今も元気な谷川俊太郎の詩を好む人が多いのも、読み上げて心地よいからである。それに対して、多くのすばらしい現代詩が極めて少数の読者しか得られないのは、それらの詩が朗読という本来機能を喪失しているからではないかと思う。詩より一段低く見られがちな歌詞が、音楽の力もあるとはいえ非常に多くの人の心を掴むことができるのも、文字で読むのではなく口誦が原則だからだろうと思う。文学が上等で、大衆文学や世俗的な口承、歌が下等であるなどという黴臭い教養主義には私はくみしない。
口承・口誦のメリットは、音声として発せられるコンテント(内容)そのものに感情や万感の思いなどのコンテクスト(暗黙知)を込められること。それを補完する演者の表情やしぐさなどがあることである。しかしSPレコードの昔から現在のCDやダウンロードのデジタルコンテンツまで落語や講談、浪曲の録音が聞きやすいのは、音声そのものに充分な表現力と伝達力が備わっているということの証左である。植村さんの話を機縁として私は日頃ハッキリしない脳細胞が覚醒して来る爽快感を味わった。
「人類の歴史からしても、文字発明以降の文学の歴史より、それ以前の口承文学の歴史の方がずっとずっと長いことは明らかであり、文字による文学が口承文学より上等だと思われるようになったのはさらに新しいことなのではないか」と、彼は言った。
そういえば、仏教のお経も口承されていた経典が先にあり、文字化されたのはお釈迦様の入滅後2,3百年を経た後にパーリ語という当時の北インドの口語によるものであった。今でもスリランカやタイなど南伝の上座部仏教では、口承が重んじられているという。原始仏典には、お釈迦様の言葉が正しく伝えられないことに心配した弟子たちが、教えを文字にしたいと申し出たことが記されている。しかもバラモン出身の弟子たちはこれを神の言語であるサンスクリット(梵語)という文語で記すように薦めたという。しかしお釈迦様は、これを退けられたのである。文字に記されたものは真実を伝えがたいというのが、その理由であった。相手がいて相手に応じて教え導くのがお釈迦様の対機説法なのだから当然であろう。お釈迦様は最後まで口語で説法していたということである。その声を聴くだけで、多くの人が悟ることができたという。たとえ極悪非道の殺人鬼でも彼の声を聴いて懺悔し仏弟子になったのである。
後に入滅後500年近く過ぎて(西暦紀元前後)から大乗仏典が創られたが、それらは初めからサンスクリット語で書かれることになった。お釈迦様は永遠のブッダとして神格化されたのである。
同様なことはキリスト教にも当てはまる。新約聖書が編纂されたのは、直弟子の使徒たちが死に絶えた頃のことであるし、それはギリシア語で書かれ後にローマ帝国の公用語だったラテン語に翻訳されてカトリックの正典となったのだが、中世にはそれは神父のみが理解できるものとなっていた。人々は神父の口を通して神の言葉を聞いたのである。一般民衆が直接聖書を自分たちの言葉で読めるようになったのは、ルネサンス以降グーテンベルグの活版印刷による聖書の普及によるのである。
何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言ってしまうことが可能か。たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが信仰や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始まる。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。」
亀井がここで言葉といい、表現といっているのは、彼が文筆を生業としていた以上、文字であり文章であることは明らかである。彼が悲しいほど思い迷うのは万感の思いを文字に託して表現することの難しさを言っているのだが、その他人の著作を自分のものとして表現しようという朗読というものの、気の遠くなるような困難さを感じざるを得ない。
朗読は文字で書かれたものを読み上げるということ。口誦ということでは同じでもそれは文字からどのくらいの情報を読み取れるかという読解力と、どのくらい伝えられるかという表現力に個人差があり、それをまた聞き取るのにも個人差があるということなのだ。つまり、行間にあるコンテントの広がり~コンテクストが、伝わりにくいのだ。もともと相当なハンデを負っているのである。
昨今の落語ブームにもかかわらず、それは多くの地域や世代の認知を得るには至っておらず、私は落語や講談などのコンテンツビジネスは充分にニッチであると思っている。しかし朗読は話芸以上にニッチな分野なのか。ビジネスとしての可能性は暗いのか?
前述のeBook標準化の国際委員会で年に2回海外に行くことになったという植村さん、朗読のビジネス化に疑問符を感じている私に良いことを教えてくれた。米国ではオーディオブックの市場が1千億を超えているという。車社会で車での移動時間が長く、キャリアアップに熱心な人々は自己啓発や教養の充実に熱心だからということだ。これはラジオデイズ企画中から私も知っていた。Apple社のiTunes Music Storeのオーディオブックは結構売れているというのがブックフェアでの噂だったが、我が国のCDブックなど音声コンテンツの市場は10億円程度だと言われている。一方ヨーロッパでは、我が国の琵琶法師のような吟遊詩人の伝統があり、特に冬の長いロシアでは、娯楽の少なかった昔から家族団欒で朗読レコードを聴く習慣があって膨大なコンテンツが出回っているということだ。
我が国にももともと長い歴史がある話芸や口承文学があったのだ。それは近代以降も絶えることなく、SPレコードやラジオの時代まで続いていたのである。寄席も数は減ったが存続していた。驚くべきことにもうすぐ52歳!?になってしまう私はTV時代の申し子だが、それでも子供の頃、落語や講談・浪曲は耳に馴染んでいたように思う。与太郎や清水の次郎長、吉良の仁吉を知らない友達は誰もいなかったのである。今思えば高度成長期、TVが巨大なマスメディアとなって視聴率至上主義に陥り、放送時間が女子供?(失礼)に媚びへつらう低俗な時間潰し番組に埋められるに及んで、それらはいつしかテレビから姿を消していた。話芸を知らない若い制作者に言わせれば、一人の演者しか出ない、それもいい歳したおっさんや爺さんばかりの地味な画面では持たないのだという。差別や公序良俗に反する言動、ストーリーが厳しくチェックされる放送コードが強化されるに及んで、我が国伝統の話芸が風前の灯火となってしまった。落語や漫才はまだましな方で、講談・浪曲は天然記念物トキのような絶滅危惧種になっている。復活できるかどうか、日本の文化の多様性と多重階層性を保つことができるかどうか今が正念場なのだ。
あれ、朗読が飛んじゃったって? そうでしたね。朗読は今、まったくビジネスにはなっていない。しかし朗読教室や読み聞かせ運動など、その人口は20万人とも30万人とも推定されている。少なくとも朗読コンテンツを聴いてくれるかもしれないベースはありそうである。現在は、自分で朗読したいと思って習っている人が多いのかもしれない。あるいは聴覚障害者向けのボランティアの朗読者として活躍している方も多いのだろう。しかし落語や講談、浪曲では好きになればなるほど、プロの技を聴けば聴くほど恐れ入って自分でやろうなどとは思わなくなる。それほど芸の力は眩しく偉大なのである。朗読の場合は敷居が低い分だけ、誰でもできそうに思う。だからこそ、お金を払ってまで聴きたいということになりにくい。落語やかつての講談、浪曲がそうだったように、ここはやはり眩しいスターの存在・育成が不可欠ということか。当面は、質の良いコンテンツを制作して世に問うことしかないのだ。もちろん着々仕込み中ではあるのだが。。。ラジオデイズに、乞うご期待!
音声コンテンツビジネスの憂鬱
ヒロ伊藤でした。
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