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プレ更年期真っ只中。一般的に45歳〜55歳頃を更年期と言うそうだが、少しずつ少しずつさまざまな体の衰えや異変を感じ始めるようになっている。最近では立ちくらみが何度か起こり、頭がクラクラする。当たり前だが何もかもが初めての経験であり、戸惑いを覚えつつも、受け入れてなんとか対処していかなければならない年齢となった。それに引き換え、精神は成熟する一方だなということも感じ始めている。私の場合は読書や映画や美術館だが、学べば学ぶほど知識は増え、ただ毎日息をして歳を重ねるだけでもそれが知恵や経験となり、こんなのんべんだらりんの生活だろうが頭の中は肥えてゆく。これが乖離というやつか。衰える体と成熟する精神。こんなことを感じるようになったこと自体が既に中年期へと突き進んでいる証なのだろうと思うが、私、やっぱりここ数年でガラリと変化したんだと思う。明らかに心も歳を重ねている。そもそも人間はその場にじっと立ち続けることはできない生き物だが、いつの間にか日々のすべてが血となり肉となっていた。皮肉にもそれが今の私の明日を生きる活力へと繋がっているんだと思う。八方塞がりの檻のような家に住み、母との生活はほとほと神経擦り減らす日々だが、どんなことであれ捉え方とそれをどう生かすかは自分次第であるなと痛感する毎日である。
2022/01/31
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私は、早々に社会からあぶれた人間である。まず高校生の時に脱落し、発病した時は脱落どころか転がり落ちて谷間に挟まって身動き取れなくなってしまった。という訳で、競争社会とは無縁の人生を送っている。他人がどうこうとか、心底どうでもいいと思う。それ以前に同じ土俵に立つことすらできない訳だが、目にも留まらない。自分が対峙するものはただ一つ、自分自身だった。明けても暮れても私はいつもそこにいて、鏡には自分の顔が映り、逃れたいのに逃れられない。影はいつまでたってもひっ付いてくる。自分という人間と縁を切るにはどうしたらいいのだろうか。この頃真剣にそんなことを考えたりする。生まれ変わらない限り無理だ。いえ、たとえ生まれ変わったとしても、それはたぶん無理だ。考えれば考えるほど、諦めなさい、という声が天から降って来る。
2022/01/30
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かれこれ10年間ほど声を出さない生活が続いている。声を出す時と言えば、カフェで注文する時ぐらい。家では一切口をつぐんでいるし、一日中声を出さない日なんてそれが私にとっては日常で、そもそも誰とも関わって生きておらず人間関係の一切を絶っているのだから(このご時世においてはこれが功を奏した)、それが当然と言えば当然である。最近声が出にくくなっているらしい。ふとあるメロディーを口ずさもうとしたら、自分の声ってこんな声だったんだとびっくりしたのと同時に、のどが詰まってガラガラと引っかかった。むせる。一応音楽が専門だったので声楽も学んだが、当時から元々高い声は出ない体質だった。今、その時よりも一段と声域は狭くなり、半分ほどになったんじゃなかろうか。おそらくせいぜい1オクターブしか出ないな。その内、老いで食べ物をのどに詰まらせたりし始めるんだろう。のどって鍛えないと衰える一方だからね。なんとまぁ、こんなことになるとは。自業自得である。改善しようという気もなくこんな暮らしを続けているのだから文句の言いようもない。むしろ食べ物をのどに詰まらせて息絶えることができるのなら、そんな幸せなことはない。
2022/01/29
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先日、ある若いフランス人俳優の訃報が流れた。あれ?この人この間観た、と思った。なんと、その亡くなったとされたまさにその日に、私はこの俳優の出演する映画にどっぷり浸っていたのであった。これは、あ、私の例の「勘」が完全に戻ったのだなと感じた瞬間だった。ここ数年、我が人生において最も頼りにしている勘が一切働かなくてなってしまい右往左往して日々のたうち回っていたが、きっと今すっかり復活していると思われる。私が言う勘とはこういうことなのである。その些細な一つ一つの勘が、あらゆる場面あらゆる状況でピンと閃き、私という人間そして私という人生が創られてゆく。
2022/01/28
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「自転車泥棒」という映画を観た。いつぶりだろうか、映画を観て泣いたのは。これまで観た映画の中で10本の指に入る傑作だと思う。そしてまた曲が良い。哀愁を帯びたメロディーがよりこの映画を彩っていて涙を誘い、胸にグッと来た。最近なかなか会えないねこちゃんたち。みんなどこ行っちゃったんだろう。私が人生で目指しているのはのらねこちゃん。自由気ままで我が道をゆく、だけど気丈で逞しい。そしていっぱい寝る(笑)いつ飼えるだろうか、ねこちゃん。1年前と同じ場所で会えました♪
2022/01/27
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詰まるところ、私は孤独をこよなく愛す。春と秋冬に、一年に二度、咲くのですって。
2022/01/26
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また今週末に友達の結婚式があるとか言っていたが、妹は年がら年中人付き合いに翻弄されている。同じメンバーで行ったり来たり、物も行ったり来たり、似た者同士の集団にどっぷり属する。あのね、妹はその内に体を壊すと思う。日々ローン返済の為の仕事と双子育てに追われ、とにかく毎日が分刻みで忙しなく、休日はもんもんを連れて今話題の商業施設へ遊びに行かなきゃいけないし、最新の電化製品を買わなきゃいけないし、友達付き合いも頻繁、物理的に体を休める時間がない。という理由ももちろんあるが、それ以前に、最大の理由は、妹は、何事も基準が「世間」だから。妹は昔からよく「みんなそうしてる」という言い回しを遣うことが多かった。みんなそうしてるから自分もそうする、大勢の意見ならそれが正しい、だからみんなが右を向けば左だと思っていたことすら忘れて我が心を顧みることなく疑うことなくコロッと右を向く。あたかも以前から私も右の意見だったかのように。世間から少しでも外れることが屈辱である妹は、世間にまみれて常に一般的な道を進むことがステイタスであり、その他大勢でい続けることが人生をかけての目標であるのだから仕方ない。極論すれば、頭で何も考えずに済むからそれが一番楽なのだろう。それが良いとか悪いとかそういうことではなくて、これが妹という一人の人間の立派な思想なのだから、別に避難するつもりはない。ただ、自分を基準にしていないという点に問題があると私は思わざるを得ない。本当はそんなことしたいの?本当はしたくないのに、まるで義務であるかのようにそれをやってるんじゃないの?そのぎっしり詰まったスケジュールは何の為?誰の為?そこに意志はあるの?それ、必要?働くって意味は?怒涛の如く過ぎ去ってゆく妹の日常。その内病気になるよ。この私が言うのも滑稽だけど、近い将来きっと何かしらの異変は現れると思う。だって、妹は自分自身に嘘を付いているから。嘘を付いていることすら気付いていないから。でも、体はちゃんと知っている。それを私は知っている。なぜかって姉だから。
2022/01/25
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私は生まれ付き神経がちょっとばかしアレで、満員電車や狭い密室になるエレベーターに乗れなかったり、真冬でも滝のような汗を流したり、おそらくはっきりと自律神経失調症だった。それに加え発病し、いわば神経が狂っていた。皮肉なことに、ピアノを弾くにはもってこいだった。冷静沈着な者にピアノなんて弾けない。朝から晩までジャンジャン鳴り響くピアノと共に過ごし、気が触れたような興奮状態が常に保たれ、そういうハイの時にはめちゃくちゃ上手く弾ける。そして薬物が切れたようにぐったりと疲れ切って気分がどん底まで落ち込むと、発作的に死にたくなる。そんな激しい感情の波を繰り返す日々が当たり前だったが、おかげさまで今はその“冷静沈着な者”に成り下がった。いや、言い方が良くないな。それを目指して自分をそうさせた。私はもうピアノは弾けない。いや、弾かない。なぜなら神経が変わったから。今はあの時のような神経の状態には微塵も戻りたくないと思う。ここまで来るのにどれだけ努力したことか。得たものはもちろんあった。それ以上に失ったものもあった。どちらを選ぶかって?そりゃあもちろん今の神経に決まってる。のらりくらりとした曲を弾けばって?それは以前弾いていたような曲より格がぐんと下がるってことを認めるということ。過去の栄光は時に足枷となるが、過去の栄光としてそっと胸に秘めておこうではないか。今更わざわざほじくり返すこともなかろう。昔の私はもういない。神経は人格をも変える。今はこの今という瞬間を今の私と共に生きているのだから、これから先の人生はこの今の私で歩みたい。今年で発病して15年。26歳で人生の第二章が始まったと思ったが、心も身体も思考も、何もかも、私を取り巻くすべてのことが大きく変わりました。
2022/01/24
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「芸術家ってのは、なにしろひとにしばられるのを毛嫌いなさるんで」「芸術家をつないでおくことはできませんし…」「つなごうとしても綱をかじっちゃう!」「婚期がきても結婚しない娘って、まじめな親にとっては、とても担(かつ)ぐのに重い十字架だってことが」「下を向いて、水がまっすぐ川へ流れこむみたいに、だまってお墓まで行くよりしかたがないわ」「でも、やっぱり、太く短くってのがわたしのモットーでね」「わしは、長く面白くといきたいね」「お前はまだ世間を知らないが、世間というのはずいぶん意地悪なものなんだよ」「われわれは誰でもみんな、過ちを犯したときには、内心それを自覚しているものである」「なぜ死のうとした?」「退屈だからさ」
2022/01/23
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今日は久しぶりに足の話を。今現在、足のしびれはまだ遺っている。おへその少し下をウエストにしてタイツを履いたように、下半身がすべてしびれたまんま。26歳で発病してから約15年間1秒たりとも止まったことはない。が、そのしびれの度合いは極めて小さく、発病時を10としたならば、今は0.5ほどまで良くなった。だから、日常生活には何ら問題はなく、至って普通である。ただ、やっぱり歩く速さは遅いし、走ることはご勘弁、下半身に違和感があることが毎日なので慣れたとは言え、ビリビリとしびれ続けている足は気持ち悪いに決まっている。その日の体調や天候によっても日々変化する。どうにもこうにも足が前へ出てくれない日もあれば、比較的サッサと足取り軽く歩ける日もあって、それは自分でも予測できない。精神的なことも大いに影響するので、まぁ気まぐれだ。この足と共にこの先も生きてゆく。別にどうってことない。私は五体満足なのだから。
2022/01/22
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「人の命は神から授かった尊いものであり、自死は決してあってはいけない罪深きこと」「多くの可能性に向かって生きろ」「それまでの人生でどれだけの本を読んで、多元的に物事を考えてきたか。自分が得意とする分野とは関係のない知識、教養、経験を、どれほど貪欲に積んできたか」「心配したり、気分的にくさくさしたりしないで、楽しくすごすよう」「ああ、あのころの楽しかったことといったら!」「こんなふうにしてまた、みじめな、黒い、重苦しい夜が訪れた。そうするとまた、みじめな、灰色の冬の朝が来る」「人生というものはまことに奇怪かつ不可思議なものでありまして、」「物の価値って永遠には続かない」
2022/01/21
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半身浴をし始めて5年半。湿疹が出ていることに変わりはない日々だけど、一昨年の今より、昨年の今より、皮膚は確実に良くなっている。湿疹の出ていないところは、本当にきめ細かくツルツルだ。アトピーは完治しないものだけど、完治に限りなく近付けることはできると思ってる。すべては自分の努力次第。このままがんばろう。が、そろそろ厄介な花粉の季節がやって来るという…。背中と両耳の中は停滞。手は荒れる。あかぎれ現在2こ。共に年を越したヘルペスはようやく治ってくれたけれど、皮膚は赤いまま。が、その2cm下に新たなヘルペスができた。どういうこっちゃ。毎日寒いけど、私には過ごしやすくてありがたい。冬は大好き。また美術館にも行けないから、小説と映画三昧です。が、どうしても一つだけ行きたい美術館があって、うーん、行くか行くまいか悩ましい…。
2022/01/20
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部屋では暖房は付けず、ホットカーペットだけで過ごしている。毎日雪だるまのように着膨れていて、タートルネックも着ているが、外出する時は絶対に着ないことにしている。暑いことが最大の苦痛だし、急に汗が出て息苦しくなってパニックに陥ったらどうしようもなく困るから。首元はいつもすっきりと開いた服を着てマフラーで調節するのが長年のルールだった。が、先日こちらでも雪がちらちらと舞い寒かった。要するに寒かった。折り返して二重になるタートルネックではないが、ほんの少しだけ襟が高くなった首の根元だけ覆うハイネックを、なぜか着て出かけても大丈夫なような気がした。暑いと感じることもなく、首元が詰まって苦しいと感じることもなく、至って冷静に帰宅。そんな自分に心底驚いた。こんなハイネックを着て外に出るなんて、人生初めてなんじゃなかろうか。いえ本当に大げさではなく初めてだと思う。私にこんな日が訪れるとは!見事である。神経が整ったというか、治ったんじゃない?私。41歳、一筋の光明が差し込んだ。こんなに寒いのに満面の笑みで咲く梅。散歩している時に梅を見つけるとすっごくうれしくなります。
2022/01/19
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少しだけ昨日の続きを。現時点での考えだが、私は自分で自分の死を選ぶことは必ずしも悪いことではないと思っている。この考えは、小学校低学年の時に祖父を亡くしたのをきっかけに死に興味を持ち始め、高校生の不登校の頃からははっきりと我が心に根付き、むしろ乞い願うかのようにそればかり考えるようになっていったのだが、結局今巡り巡っても変わらないこの場所へ辿り着く。人生100年時代だとか言われる。目眩がして気が遠くなってぶっ倒れそうになる。子は親を選べないとか、あるいは子はその親を選んで生まれてきたとかも言われる。そんなこと言われたって誰も知る由もない。この世に顔を出してしまった。生を受けてしまったのだから。これは人類が誕生した遥か昔から予め決められていた宿命なんだ。私たちは人類滅亡までの筋書き通りに歩かされているだけなんだ。それを知らないのは私たちだけ。ただ一つこれだけは誓っていることがあって、それは父の年齢までは必ず生きなければならないということ。何があっても父よりも早く生を終わらせることだけは絶対にしちゃいけないということ。つまり53歳なのだが、私も父のこの年齢になって、我が目でこの殺伐とした世の中を俯瞰して見る。子である私が親であった父と同じ目線に立つこと。父の目になるまでは。以前から生に何の未練も何の執着もなく、いえそもそも生に意義も希望を見出せず、願わくば今すぐにでも向こうからこちらへやって来てくれるのであればそんなありがたいことはないと思い続け今に至っているが、これだけはなぜか必ず成し遂げなければならない義務であるかのように、私の人生の一つの到達点であるかように、漠然とずっとずっと感じ続けている。
2022/01/18
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私は幼い頃からあまりテレビを見ずに育った。NHKのおかあさんといっしょなど幼児番組は見ていたけれど、バラエティー番組や歌番組などはほとんど知らず、クラスの友達の昨日何見た?という会話に入っていけなかったことや流行りの歌が歌えないということもしばしばあった。夕食時に付いている番組と言えばニュースのみ。ちょうどファミコンやゲームボーイが流行った時代だったが、ゲーム機というものとも無縁で、今でもスマホゲームなどはしたことがない。そうやって育ったせいか、やっぱり動画にも興味がない。SNSもしていないし、そういう世界に生きることは根本的にできないらしい。唯一、外国人しかしていない地味極まりない写真のSNSだけをかれこれ10年間ほど続けていて、愛くるしいのらねこちゃんを載せるだけで十分満足している。最近では、テレビというものは私の人生のおいてなくてもいいものだな、とつくづく思う。テレビのない無音の空間ほど創造力をかき立ててくれるものはないし、無音の空間こそが人生を豊かにしてくれるものだと思う。いわゆる現代で言う妄想と呼ばれるファンタジーの世界観は私の中には一切存在しないが、あれこれ過去や未来へと考えを巡らせて、生や死などの哲学的なことにじっと耽り熟考する時間は、少なからず私にはなくてはならない時間である。いえ、むしろ私は生とはなんぞや死とはなんぞやということを延々と我が心に問うて彷徨い続けている人生であるので。そもそも私は相対音感を持っていて耳が敏感だということもあり、あまりに騒々しい番組や人たちを見ていると息切れ動悸が始まり、精神にもよろしくないのであった。往々にして時代遅れ甚だしいが、これが私だ。神経擦り減らして不快な思いをしてまで、無理矢理時代に合わすつもりはない。
2022/01/17
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馬の蹄の音が耳にとっても心地良い。ポッと頬がほころぶほど落ち着く音。パッカパッカ。こんなに心安らぐ音なんだ。映画を観るようになって初めて知ったこと。アニメに加え、日本映画とホラーとファンダジーとラブストーリーは観ない。ただ一つだけ例外があって、コロッと笑いたい時にはトムとジェリーを観る。少し気分下がる時はスカッと爽快になりたくてアクションやスリラーを観る。そもそも推理小説が大好きなので、サスペンスはよく手に取る。ヒューマンドラマはいつ何時でも。どんなジャンルのものでも最新のものにはほとんど興味はなく、古いモノクロ映画が特に好き。映画は今ではなくてはならない趣味となった。狭い世界を生きてきた私を未知の世界へと誘ってくれたのも映画だった。心に響く素晴らしい映画はたくさんある。映画と出会えたことに感謝。趣味として楽しみつつ、もっと教養広げ感性を養っていきたいと思っている。
2022/01/16
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つくづく時代に付いていけていないなと感じる昨今。私を基準にするのはちゃんちゃらおかしいが、この年齢でそう感じるのだから、年上の方たちはもっともっとそう感じていらっしゃるんじゃなかろうか。私、SNSの文章ってどうも理解できない。著名人とか言って、まぁ名の知れている人でも、まどろっこしい言葉を遣って何やら難しそうな文章を書いている割に全然的を射ておらず、結局何を言いたいのかさっぱりわからない。そして特に思うのは、新聞がそういう文章になってきたということ。新聞はパラパラめくる程度でほとんど読まないのだが、ふと記事を目にした時に、俗な言い回しをする文章だなと思うことが増えた。そういうことって本当につい最近の話で、これまではそんなことなかった。新聞がこういうSNSのような文章を書き始めたらついに終わりだと思う。と言う自分が時代に付いていけていない。そんなふとした些細な時代との違和感が少しずつ少しずつ増えている。屁理屈ばっかり言ってる私。26歳で思いもしなかった隠居生活が始まったが、もうこのまま死ぬまで時代に乗らず隠居だな、と思ってしまう。
2022/01/15
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ふらりと初詣に行ってきた。このご時世、間隔を空けてお参りの順番を待つ。新年なのにまるで葬式行列のよう。しーんと、皆背を丸め下を向いて誰もしゃべらない。静かに身を潜めて、いえ、身を消して生きる時代である。神社なので2礼2拍手1礼。2拍手まで皆小さい。湿った、気の抜けた、覇気のない、それならそっと手を合わすだけ方が神様は喜ぶよ、と言いたくなるような死んだような拍手。妙に腹立った私は、敢えて大きな拍手をしてやった。パンッパンッ!静かにしなきゃいけないからって、なんで拍手まで小さくしなきゃいけないんだ。最後にしっかりと1礼。胸を張って立ち去った。
2022/01/14
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さて、次は何を読 も う か な、と考える時、読みたい小説リストの中からどれを選ぶか。これが結構悩ましい問題であって、どうせいずれは読むんだからどれだっていいじゃないかと言われるとそれまでで何の反論の余地もないのだが、ピンと勘が冴えてくれない時には正直困る。いや、本当に順番はどうでもいいと言えばどうでもいい。どうせ読むんだから。ただ、その時の気分というものがあり、例えば同じ作家を2冊続けて読むのは避けようとか、書かれた時代を少しずらそうとか、グッとその世界に入り込みたいから短編より長編が読みたいとか、私なりにいろいろと考えていたりして、くうを見上げ、それで?となる。候補は10冊。どうしても選びきれず、わざわざあみだくじを作って決めた。そんな自分に笑えた。
2022/01/13
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このご時世になって、結構な時間が経った。最初のうちは皆戸惑い、世界中が闇に包まれたけれど、人というものはたとえどんな境遇であれ順応できる生き物なのだなと今改めて感じる。私が発病した時もそうだったが、この病気であることが遥か昔からそうだったように、このご時世もずっとずっと昔からこうだったような気がしてしまう。このご時世以前の記憶が瞬く間に目減りしていき、もはや思い出せないこともあるよね。新たな模索。これが一番ふさわしい言葉かなと、私なりに考え出した。今年15年を迎えるこの病気の身体はもう私にとっては当たり前であるが、それに加えて老いの訪れを自覚し始めた。病気が土台となった上に、老いという新たな土台が積み重なる今後。文字通り、新たな模索なのである。MS +老い。普通の人にはできることでも、もしかしたら私にはできなくなることがあるかもしれない。ふと気付いたら、杖をついているかもしれない。ここ数年の心と体の変調期を経て、そして40代半ばへ更には50代へ向けて、2022年はこだわりや執着や不要なものは潔く捨て去り、新たなものをその都度取り入れられる柔軟性を持ち、でも自分にはどんな時も素直で優しく、そして心は内に向けず外へ向ける、そんな風な模索を始めてみようと、そう心新たにした。
2022/01/12
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以前も書いたけれど、コーヒーを辞めて1年以上が経ち、なんだか細々したことまで変わってきた。苦いコーヒーから真反対に位置する甘いチョコレートまでの振れ幅が180度だった趣味がなくなったので、もっぱら中庸を保っていることがこの上なく素晴らしい。最近の刺激物と言えばせいぜい紅茶ぐらいのものなので、今の振れ幅は半分の90度ほどなんじゃなかろうか。これはつまり神経の振れ幅も90度ということ。体質と病気から、私の生涯の目標が日々神経穏やかに過ごすということなので、自分でも最近は神経が落ち着いて整っているなと感じている。中庸、そう、何事も中庸が大事なのである。
2022/01/11
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いわゆるプレ更年期にさしかかっている。我が身体の老いの始まりの自覚。認めたくなかったけれど認めるしかない。が、そんな老いを感じ始めてから、自分に対してある感情が芽生えた。「自分にもっと優しくしてあげよう」病気になって以来、自分治療と銘打っていろいろと励んできた。半身浴や、靴下をたくさん履くことや、薬を一切辞めたりそれなりには日々努力してきたつもり。でもそれはあくまで病気に対してであり、つまりは以前の生活が原因で病気になった訳なのだから、以前の生活に戻ったら結局再発して悪循環を繰り返すだけだと思ったから。すべては病気の為だった。が、病気とはまったく違う身体の変調をどこからともなく感じる年齢となり、実際数年前から明らかに老いが始まっている。戸惑い、迷い、それを経てようやく受け入れられる段階へ進んだと心が納得し、そんな矢先に思ったこと。自分に優しく、よしよしと労ってあげること。これって何よりも一番大切な自分治療なんじゃないかしら。私は義務も果たしておらず社会貢献もしておらず、毎日なんで生きてるんだろうって思ってる。寝て起きて、また次の日も寝て起きて、毎日毎日、意味なんてあるのだろうか。いくら考えてもこの問いに関してだけは一向に答えを見出せない。特に今すぐどうなっても構わないし、この世に未練なんて一つもなく、むしろ本望だ。そうやって心が首の皮一枚で繋がっているように生きてきた。でも、皮肉にも老いが私のこのひねくれた考えを少しだけ改めてみようかと感じさせてくれたのである。老いが始まった自分をうんと優しくしてあげようよ。私の場合、どうしてもまず先に病気が先頭に立って大きな壁のように存在しているが、これからは病気の為だけではなく、病気でありそして老いも始まった身体へ対しての自分治療と考えを方向転換。病気と老いの始まりは同じだけ私の身体の中にあるのだから。そんな心の変化があった。
2022/01/10
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寝込んでいたが、ようやく体が回復した。吐き気と下痢から始まった今年。幸先良いのか悪いのか、まぁどっちでもいいけれど、うんうん唸っている間に一月ももう十日である。ヘルペスで年を越し、新年早々の吐き気と下痢とで、ほらね、年末年始はいつも調子が悪いでしょ、って話。七草粥を食べた。もう大好き!次は小豆粥ね♪少食になり、最近以前よりも増して和食がおいしくてたまらないのだが、結局は精進料理のようなものが一番好きなのだと思う。欲する食べ物も変わってきて、というより逆に体に取り入れたくないものが少しずつ増えてきていると思う。コーヒーを辞めてから舌が変わったのかしら。コーヒーって限りなく味が濃いからね。化粧もまったくしていない。まもなく2年になる。じっと考えに耽っていると、不快なマスク生活も私にとってはベストなタイミングで訪れたような気がしてならない。湿疹が出ているのに、紫外線から皮膚を守る為だと無理矢理化粧をして何してるこっちゃと思っていたから、このご時世を利用して今は皮膚を蘇らせるチャンスなのである。果てしなく続くマスク生活。ということはつまりは化粧をしなくて済む。ちょうどいい具合に顔の湿疹が治るのかもしれないなって思う。物事は実に自分の考えよう一つなのであった。
2022/01/09
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「…だが決して朝まだきでもなければまた月を待つほどの夕暮でもなかった」「もっと眠りたいと思ひ、揚句に死の味を計画するほどに疲れ果てた。思へば、激しい夜更しをしたものだ」「私は無暗に威厳を保たせようと強いる都会の着物を脱ぎ捨てた」「死にたい!何處でもかまはぬ。ところが生きながらへて、私は此處にゐた」「…私の歩いてゐる路は私の路であり、辿るべき路を歩いてゐるのだと私は信じてゐる」「ああ!人類は睡りの渇望と悦楽の渇望とに挟まれて疲れるものだと私は思ふ」「私は過去を回想するのを好まない。碌でもない思ひ出が石ころのやうに落ちてゐるだけだから」「生きとし生けるものの中で、置き換へのきかぬものを、身を以て創造し給へ」「わざわざ自分からこさえなくたって、いやなことは十分あるんだ」
2022/01/08
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なぜか年に2回定期的に強烈な吐き気に襲われるようになってしまって数年。実際に嘔吐することはなくなったけど、ズキズキする頭痛と共に寝込む。さて、お正月にもひどい下痢と吐き気に見舞われてしまい、未だに不調は続く。明らかにその発作の間隔が狭くなり回数が増えていっている感は否めないのだが、これは一体何なのだろう。おそらく身体に溜まった毒素を一気に出しているんだと自己分析しているのだが、こっちはそれはそれはしんどくてたまったもんじゃない。本調子に戻るまでしばらくかかりそうである。ある意味、新年早々解毒できてめでたいとでも言おうか。
2022/01/07
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右鼻の下には、今できているヘルペスの大きなかさぶたがまるで鼻くそのよう。左鼻の下には、一つ前にできていたヘルペスの色素沈着が。左口角の下には、も一つ前にできていたヘルペスの赤黒いまぁるい跡形の皮膚がカサカサ。ヘルペスの跡形が絶えず、次から次へと増えてゆく。さて、お次はどこですか?
2022/01/06
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半身浴をし始めて5年と5ヶ月と半月。年末年始は私にとって非常にストレスを感じる時期なので、漏れなく鼻の下にできたヘルペスと共に年を越す。そして新年早々ひっどい下痢をしてしまい、心身共にぐったり寝正月。背中がまた悪化。えー、原因は季節が秋から冬へと変わったからなのである。まったく…。湿疹が出ている時に季節の変わり目を迎えたら、必ずやひどくなる。これは約5年半に及ぶ湿疹生活の経験から得た知識だが、間違いなくぶり返す。またまた背中が四六時中ヒリヒリしている状態になってしまった。今回は30%ほどのぶり返しといったところか。膝の湿疹はだいぶん良くなってきた。黄色い汁が出ることはもうないし、まだかゆくてかいているものの、ちょっとした湿疹というだけのことで、何ら問題のない程度。一ヶ所湿疹が楽になってくれるだけで、その何倍も心が安定する。皮膚がかゆいという心的ストレスは、私の人生の中で常に上位を占めているから。そして両腕はほぼ完治した。色素沈着はひどいけれど、ようやくここまで来た。延べ6年かかった。ということで、今私を悩ましている湿疹は背中と両耳の中かと思う。背中は、両腕の経験上、後1、2年はかかるんじゃないかしら。両耳の中はピーク時ほどではないものの、特記することもなし。例のごとく手のあかぎれはちらほらとできていて、これから数ヶ月は続くな、と覚悟を決めている。みなさんは手洗いや消毒で手が荒れませんか?私はズタボロです。そういえば、全然風邪を引かなくなった。幼い頃は体が弱く、スーパーへ日々の買い出しに行くように近所のお医者さんへ行っていたが、もう何年も風邪とは無縁だ。これも1年365日の半身浴のおかげだと思う。その日の老廃物はその日のうちに、それが私のモットーだから。新しい年が始まった。いつまで書くのかな、この湿疹日記。
2022/01/05
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冬でも電車の窓が細く開けてあって、隙間風が入ってくることがうれしくて仕方ない。このご時世になって、私にとっては一番ありがたいことかもしれない。できればこのままずっとずっとそうしてもらいたい。部屋も閉め切ったままにしておくことが本当に耐えられないので、冬であっても風通しを忘れない。クローゼットも常に開け放しているし、引き出しもきっちり閉めることはせず少しだけ隙間を作っておく。臭いが籠ったりして、何事も滞ることが一番良くないと思っているから。だけど、夜寝る時には一斉に閉める。窓はもちろんだが、引き出しもクローゼットも閉められるものはすべてぴったり閉める。夜はみんなでおやすみの時間。
2022/01/04
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私は幼い頃から牛乳が嫌いだ。給食で毎日牛乳を飲むことが本当に苦痛で苦痛で、今とは違って何があっても全部残さずに食べないといけない時代だったから、非常に痩せこけていて偏食で食が細かったこともあり、掃除の時間になっても一人食べていた。大人になってもやっぱり好きにはなれず、いえ、今でも牛乳だけを飲むことは絶対にしない。料理に入っているものなら食べるのだが、シチューなど決して好きとは言えない。だから、コーヒーにミルクを入れることもしなかったし、最近では紅茶を飲むようになったが、ミルクティーにすることもしなかった。コーヒーならブラックが一番おいしいと思うし、紅茶も砂糖もミルクも何も入れないストレートティーが一番おいしいと思う。が、いつだったか、紅茶専門店へ行った時、紅茶を注文したらもれなくミルクも運ばれてきたのである。カップと変わらない大きさのピッチャーに並々と注がれて。しかもなんとミルクがあったかい。紅茶専門店が勧めているのだから、あまり気乗りしなかったことは否めないが、試しにミルクを入れてみることにした。で、これがまた素晴らしくおいしかった!へぇっ、ミルクティーってこんなに旨味があるものなんだ。ほんのりと甘いのである。まさに目から鱗が落ちた体験だった。それ以来、その日の気分によってミルクティーを飲むことが少しずつ増え、とてもおいしいと思う。そのたっぷりのミルクは必ず使い切ることがミソで、なんとも言えない腹の中が暖かくなる幸福感に満たされる様はなぜか病みつきになる。どこのメーカーのミルクなのだろう。おそらく店主が試作に試作を重ねた結果このミルクに辿り着いたはず。喫茶店に苦いコーヒーによ〜く合う一口の甘いおやつがあるのと同じように。ということで、ある専門書のロイヤルミルクティーの淹れ方なるページを立ち読みしてきた。ほほぅ、ミルクは後から入れるのではなく、ミルクも茶葉と一緒に煮立てて作るのですね。私も家でチャレンジしてみようかしらん。
2022/01/03
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2022年は、父が他界して20年、多発性硬化症(MS)を発病して15年、といろいろと節目の年です。どんな一年になるかわからないけれど、何事もなく、再発もなく、心穏やかに過ごせればそれでいい。心を内に向けず、常に扉を開け放しておくことだけは忘れずに。
2022/01/02
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地元で久しぶりにのらねこちゃんに遭遇した。最近めっきり見なくなってしまって、みんなどこへ行っちゃったんだろう。左のねこちゃんは会うの2回目です。美人ちゃん。実は他にも2匹いて、4匹で団子になってました。かわいかった〜。今年はねこちゃんでスタート。今年もよろしくお願いします。
2022/01/01
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