日々徒然に

日々徒然に

2008年に劇場で観た映画

「母べえ」


 山田洋次監督の最新作「母べえ」を観てきた。時代が戦争に向かって動き出すと、自分の主張を唱えようとするものは、容赦なく踏み潰されるのだなと感じた。

 特高警察も検事も、一人ひとりは善人であっても、国家が軍国主義に傾けば、自分の保身のために拷問だって平気でする。

 吉永小百合演じるところの野上佳代の夫(坂東三津五郎)は、映画の最初の方で特高警察に逮捕される。治安維持法違反の容疑だ。別に破壊活動をしたわけでもないのに、彼の書くものが当時の日本では受け入れられなかっただけだ。

 それからずっと、娘を二人抱えた佳代の苦難の歴史が始まる。そんな中、夫の教え子の山崎(浅野忠信)という青年が、陰になり日向になりして、一家の面倒をいろいろと見るようになる。

 夫の妹(壇れい)も、二人の娘達の世話をやいてくれる。奈良のおじさん(笑福亭鶴瓶)も、暫く滞在して佳代の話し相手になる。しかし、夫は獄死してしまう。

 やがて山崎青年にも召集令状が来る。また、妹も広島に帰っていく。そしてみんな死んでしまう。

 映画を見終わったあと、こんな時代に二度としてはいけないと思った。しかし、昨今の報道機関のニュースの伝え方は、NHKから民放まで何処の局も判で押した様に、同じ切り口だ。新聞も大体同じだ。

 政治家と来たら、次の選挙の自分の当選のことばかり考えている。有権者も政治に興味を持たなくなってきている。

 この様な状態が一番危険だという。昭和の軍国主義の前に、大正デモクラシーと言われる自由な日々があったと言われている。その時、多くの国民は政府や軍部の動きに、無頓着だったのではないだろうか。

 これではいけないと思ったときには、日本は軍国主義に突き進んでいたのだ。反対するものは、治安維持法違反で投獄されていった。

 この映画を昔の話と捉えるのではなく、今の日本もこのまま行くと引き返せないところに行くかも知れないと言うことを、考えてみる一助にしたいと思う。

 この映画の中で、笑福亭鶴瓶がいい演技を見せていた。私は、昨年のテレビドラマ「華麗なる一族」の中で、素人が一人浮き上がっていると感じて、今回も心配だった。

 この映画では、奈良の小金持ちのおっちゃんで、デリカシーに欠ける言葉遣いをして、上の娘に嫌われると言う役を、肩の力を抜いて見事に演じていた。彼の演技を引き出したのは、やはり山田洋次監督だろう。

 このおっちゃんは、時代に流されずに正直に生きている。こういう人達も全て時代が飲み込んでいった。

 山口から上京してきた、佳代の父親役(中村梅之助)の長州弁も悪くなかった。彼はその昔、NHK大河ドラマ「花神」で大村益次郎を演じたことがある。その時は1年間、長州弁で通したので、今回のセリフにそれほど苦労しなかったのではないだろうか。

 この映画は娯楽映画ではないので、映画でワクワクしたいという人には向かないが、個人と時代をじっくり考えてみたいという方には、お薦めの一本だ。



「チーム・バチスタの栄光」


 先日、原作を読んで面白かった「チーム・バチスタの栄光」を、期待して観にいった。主人公の設定が中年の男性から若い女性に変わっているので、だいぶ作品の雰囲気が変わっているだろうと思っていた。案の定、かなり変わっていた。

 主人公 田口医師と厚生労働省技官 白鳥の出会いから、原作には無い場面設定だった。この設定は、ラストシーンにも出てくる。青春ドラマのラスシーンと見紛うような、終わり方だった。これは何を主眼とした映画だっけ?と、思ってしまった。

 主役の二人の演技は、流石にベテランらしく上手い。その他の人物も、演技は合格点だが、原作の緊迫感がなかった。演出と言うより脚本に、もう一工夫欲しかった。

 人物の掘り下げ方も不十分だ。犯人捜しのテンポの良い面白さが、映画では半減している。映画と本の違いかも知れない。

 手術の場面は、迫力があった。心臓が停止したり、動き出したりと芸が細かい。心臓を縫合していく場面は見事だ。専門の心臓外科医の手元を撮ったものだろう。

 映画の内容を、ある程度しぼった方がより原作に近くなることだってある。観た限りでは、原作に取り上げてあることが、ほぼ入れてあった。広く薄くでは無く、狭くても深い方が緊張感を出せると思う。



「あの空をおぼえている」


 久しぶりに胸にしみる映画を見た思いがした。死に行くものの悲しみ、そして残されたものの悲しみ、この両方が伝わってきた。

 写真館を営む幸せな4人家族。息子と娘が交通事故に遭い、その幸福な家庭は一気に壊れてしまう。最愛の娘を失い、息子も生死の境を彷徨う。

 やがて息子は回復して学校生活を送るようになるが、親はショックから立ち直れない。特に父親の心は亡くなった娘の方を向いたままだ。

 一緒に事故にあった息子は、そんな父親の態度にある思いを持ち続けている。

 残されたものの深い悲しみ、生き残ったものの辛さ、それらがラスト30分の中で交錯する。

 その悲しみを乗り越えたとき、この家族の絆は一層強いものになる。

 ここで題名の「あの空をおぼえている」の意味を話すわけにはいかないが、生と死、この二つは極近いものだ。



「明日への遺言」


 B級戦犯を裁く横浜法廷だけが舞台の、ごく僅かな間の物語だ。この裁判で、主人公の岡田 資(たすく)中将達は、B29の搭乗員11名を斬首した罪で裁かれた。

 B級戦犯とは、捕虜に対する虐待行為、C級戦犯とは、民間人に対する非人道的行為を犯した者とされている。

 私は、この 映画 を見るまで、この様に正々堂々と連合国側と法廷で渡り合った軍人がいたことを知らなかった。多くの高級将校は、部下に責任をなすりつけて、命を長らえようとした者も多かったと聞いていたからだ。

 作家の大岡昇平氏は、丹念な取材を続けて、岡田資中将の生き様を「ながい旅」という一冊の書物に纏め上げた。

 岡田中将は、この裁判を「法戦」と名付けて最後まで戦い抜き、全ての責任は自分にあり部下は命令に従っただけだと言い続けた。

 搭乗員11名は捕虜ではなく、民間人への無差別爆撃を行った犯罪者だとして処刑したと主張した。彼の人柄は、連合国側の検事や判事の心をも動かした。そして、連合国側に無差別爆撃の事実を認めさせた。

 判決は、岡田中将を絞首刑に処するというものだったが、部下達の命は救われた。岡田中将は、法戦に勝利したのである。絞首台に向かう姿は、晴れやかなものだったという。

 B29の搭乗員の家族にしてみれば、一人ぐらいは死刑にならなければ気が収まらなかっただろう。無差別爆撃を行ったとしても、上からの命令で行ったものだから仕方ないとも言える。

 パラシュートで脱出し、捕虜になるや充分な裁判もなく首を刎ねられたB29の搭乗員も可哀想な気もする。銃殺ならまだしも、幾ら日本では軍人に対しての礼を尽くした処刑だったとしても、その死に至るまでの恐怖と苦痛は如何ばかりであったかと思う。

 こんな事を言えるのも、我々が平和な時代を生きているからだ。戦争という極限状態は、人間を狂わせる。我々は、現在の平和な日本の有り難さを、再認識しなければならない。



「靖国」


 映画は、ある刀匠のインタビューを中心に進んでいく。靖国神社の御神体は、一振りの日本刀だそうだ。

 その合間に、小泉元首相の記者会見、陸軍の戦闘服姿、海軍陸戦隊の制服姿、一見自衛隊の制服姿で参拝するグループが、解説無しで映し出される。

 変な外人もいた。アメリカ人なのに「小泉首相の靖国参拝に賛成します」と書いたプラカードを掲げている。何故か、星条旗を持っている。やがて警察官が、混乱を招くからという理由で退散させる。

 刀匠にいろいろと質問をする。言葉に訛りがあったので、恐らく中国人監督自身だろう。何も考えずに観ていると、非常に客観的で親日的な映画のようだ。

 しかし、日本刀を単なる武器としてしか見ていないことに気付く。監督が刀匠に質問する。
「直ぐに刃こぼれして、切れなくなるのではないか」
こう聞かれると、刀匠のプライドとして「簡単には刃こぼれしない」と応えるのは当然だ。

 すると次のシーンでは、日本人将校2人による100人切りの写真入りの記事が映し出される。首を刎ねられる瞬間の写真も出る。

 最後の10分間は、記録写真のオンパレードだ。全ての写真に日本刀が出てくる。日本刀を馬に付けた昭和天皇の姿、敵地を占領して抜刀して万歳をする前線の将兵、竹刀で剣道の練習をする子供達、そして首を切られる人々。

 この映画では、日本人が持っている日本刀の精神的意味が抜け落ちているように感じた。ドキュメンタリー映画には、言いたいことを前面に出す手法と、一方だけを紹介してもう一方を隠す手法があるようだ。この映画は後者のようだ。

 この映画は、親日的な顔をして心に入り込み、日本人が大切にしている日本刀の魂を踏みにじっているように感じた。

 これは危険な映画だと言える。我々が、靖国神社や日本刀に持っている思いを、心の内側に入り込んで破壊する。

 果たして、映画を見た人の何パーセントが、このトリックに気付くだろうか? この映画に賞賛の声を上げている文化人と言われる人に、不信感を抱いた。



「アフタースクール」


 今が旬の俳優達が出ている「アフタースクール」を観てみた。大泉洋、佐々木内蔵之介、堺雅人の3人の演技がいい。

 女優陣の常盤貴子、田畑智子も持ち味を出していた。更に脇を固めているのは、伊武雅刀、山本圭、北見敏之といった個性ある俳優達だった。

 最初の1時間ぐらいは、話がバラバラで面白くなかった。テレビのドラマだったら、とっくにチャンネルを変えられるだろう。

 ところが、後半にはいると前半のセリフや行動が、全て意味があったことが分かってくる。そして大どんでん返しが待っている。見終わった後、もう一度ゆっくり味わいたいと思った。こんなに計算し尽くされた映画に出会ったのは、久しぶりだった。

 最初に中学校の下駄箱のシーンが出てくる。女子生徒が男子生徒に、手紙を渡している。次のシーンでは、その女生徒は常盤貴子になり、男子生徒は堺雅人になって朝食を取っている。ああ、この二人は幸せな結婚をしたんだなと思う。しかも常盤貴子は、臨月を迎えた大きなお腹を抱えているのだ。

 堺雅人はエリート商社マンだ。彼は、その日、横浜に行くと言ったきり姿をくらました。同じアパートには中学校の同級生で、母校の中学教師になっている大泉洋もいる。

 そんな設定で始まるこの映画、話が面白いだけでなく、中学時代の初恋も絡んでいて、ちょっぴり心にジーンと来る映画でもあった。



「つぐない」


 前半は、第2次世界大戦が起きる前のイギリスが舞台だ。のどかなイングランドの田舎に建つ、城とはいかないまでも大豪邸が舞台になっている。

 ここに2人の姉妹がいた。妹は13歳で小説家志望だ。その日も戯曲を書き上げて、得意満面だった。姉は大学を出たばかりで、その家に一緒に暮らしている。

 もう一人、使用人の息子だが頭が良く、姉と同じ大学を出た男性がいる。彼は、更に医学を志して進学するという。姉とその息子は、その日、互いに愛し合っていることに気付く。

 兄の友達や従姉達が、晩餐をしているときに事件は起きる。双子の従弟達が家出をして、みんなで手分けして探すことになった。

 暗闇の中で、従姉が暴行されているところを妹が見つける。ここで妹は大変な嘘をついてしまう。使用人の息子が犯人だと。

 時は流れて、第2次世界大戦が始まった。その息子は、刑務所から軍隊に入れられ、フランスの地にいる。今、まさに英仏連合軍がドイツ軍に追いつめられたダンケルクだ。

 ダンケルクの戦場が見事に再現してあった。これが洋画の凄いところでもある。

 その後、姉はナースになり、彼に再会して無事の帰国を願う。5年後の妹もナースとして戦傷者達を看取るようになる。

 妹は、ダンケルクから命からがら帰ってきた彼と、英国本土で待っていた姉に、再開して、自分がついた嘘を詫びる。

 ここで舞台が現在になり、一人の老女流作家が登場する。この私の最後の小説「つぐない」は、全て実名で本当のことが書いてありますという。この作家こそ、嘘で姉と恋人を引き裂いた妹だった。

 ただ、この作品の最後だけはフィクションだとも言う。姉の恋人は、ダンケルクから撤退する最後の日に戦病死し、同じ年に、姉は防空壕の中で溺れて死にましたといった。

 この老作家は、私はこれから死ぬんです。医師から脳血管性認知症だと診断れました。と話して、この映画は終わる。

 たった一つの嘘が、3人の運命を変えてしまった。姉と恋人は過酷な時代の渦に飲み込まれ、妹は一生を贖罪に捧げることになる。

 思春期の少女、少年もそうだが、凄く残酷な面を持っている。これも大人になっていく過程なのかも知れない。



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