幸福


幸福の証明 - Unconditional faith in unconditional meaning -



ところで、僕は、よい本とおいしいラーメンがあれば、それで満足な人間だ。

いや、よい本とおいしいラーメンがなくても、とても満足な人間だ。

独りでいるときも、人といるときも。

人生の儚さに思いを馳せているときも、目の前の事で頭がいっぱいのときも。

虚しさや憂鬱や悲しみや気だるさや絶望を、心の友として生きている自分がいる。

単調な快楽が続く日常は退屈だが、単調な虚無感に襲われる日常には、少なくとも
それに抵抗する楽しみがある。


“ 淋しさこそが、創作の魂だ。”

              ―― 魯迅


かつて、ずっと以前働いていた職場に、ほとんど毎日のように癇癪を起こしている
とても短気な同僚がいた。

彼は常に不機嫌で、他人に対しても、物事に対しても、自分に対しても、些細なことで
怒っていた。

彼の言い分が正しいことも多かったが、しかし、それほど怒るべきことでもない
ということが、実に多かった。

こんな人生を続けていたら、疲れるだろうな、不幸だろうな、楽しくないだろうな、
と思いながら、毎日、僕たちは、この怒る同僚に同情していた。

しかし、あるとき、彼を観察していて、ふと気づいた。

この人は、怒っているときが、実は「楽しい」のだ、と。

怒っても意味がないことに対して怒ることに、ある種の快楽を感じる人だったのだ。

確かに、怒ることが自分にとって不快なことなら、とっくに止めていただろう。

人間は、虚しさも鬱も怒りも寂しさも痛みも苦しみも、人生の楽しさの一部に変えて
しまうことができる生き物なのだな、と感心したものだった。


"That will make everybody happy."
"It won’t make ME happy."
"....Maybe you’re incapable of being happy."

「そうすれば、みんなハッピーになる」
「私はハッピーにならないわ」
「・・・たぶん、君にはハッピーになる能力がないんだね」

                     ―― 映画「ハンニバル」より


そう。

人が幸せになるには、明らかに才能が必要だ。






話は変わって、小学2年生のときのこと。

下校時に、校門の前で日本語のうまい外国人宣教師が紙芝居をしながら熱心に
布教活動をしていた。

「なぜ、キリストは水の上を歩いたり、病気の人を治すことができたのでしょう?」

「神さまだから」と1人の子どもが答えた。

「はい。そのとおりです」と宣教師。

「え!?」と、僕は思った。

さっき、「キリストは神の子」って言ってたのに、、、「キリスト=神さま」??

もちろん当時は、「三位一体」なんて概念を知ってるはずもなかった。

素朴な疑問を糺そうと思って、

「どうして、キリストが神さまなの?さっき、、、」と言いかけた。

すると、質問をさえぎるように、

「キリストが神であることを疑ってはいけません。キリストが神であると信じる人
だけが、天国に行けるからです」と言う。

いや、そこが聞きたいんじゃなくて、、、と思ったが、その答えに、また別の理由で
びっくりした。

「正しいから、信じる」のではなくて、「信じることが正しいから、信じる」と言うのだ。

前提と結論が、学校で習う順序とはまったく逆だったことに、子どもながら無意識に
衝撃を受けたのだった。


“この絶対的な自信、動くことのない確信は何よりも私たちを圧倒してしまう。”

                           ―― 遠藤周作「イエスの生涯」


しかし、今では、そういうのも十分、「あり」なんじゃないかな、と思う。

何もかも、その「正しさ」を証明する必要なんてないのではないか。

いや、むしろ、人間に何もかも証明できるなんて考える方が傲慢だ。






たとえば、とても晴れた日に。

待ち合わせ場所で、V.E. フランクルの「生きる意味を求めて」を読みながら、
ふと目を上げると、遠くに彼女が現れる。

時間に遅れたわけでもないのに、僕を見つけて小走りにやってくる彼女。

その瞬間。

その姿を見るだけで。

僕は人生的な幸福感で満たされる。


“人間に求められているのは、無意味な人生を我慢する能力なのではなく、
      意味に満ちた人生に気づかない自分の無能さを我慢する能力なのだ。”

                        ―― ヴィクトール E. フランクル







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