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そして、体の周りを漂っていた暖かい血の匂いのする風が無くなった。
冷たい風が吹き、壊れたビルの、例えようの無い腐った匂いが僕を包んだ。
『ザザザザザ…………』
「――――――え?」
顔を上げて血の海をよく見ようと眼を凝らした。
『碇く……いか………碇君……寂しいの?碇……碇君…………』
眼にはハッキリ見えないけれど、そこには綾波がいた。
血の色によく馴染んだ白い肌。
全裸の女の子、それが綾波だった。
『何を求めるの?何を望むの?何が欲しいの?』
綾波は、ちょうど水面が膝ぐらいの所に無表情で立っていた。
「……ついにこの時が来たか」
カヲル君はそう言い残し、立ちあがって僕に目を細くして微笑み、綾波の方へ歩み出した。
悲しそうな面持ちで、背筋をしっかり伸ばして、ただひたすら綾波の方へ歩いた。
「カヲル君………?」
僕はまだカヲル君の行動が理解できていなかった。
急いで立ち上がり、彼の許へ駈け寄った。
「カヲル君?……どうしたの!?……ねえッ!!どうして……綾波のトコロへ……行っちゃうんだよ!!」
息も絶え絶えに、僕は必死の形相でカヲル君の開襟シャツのすそをつかんだ。
カヲル君は振り向いて、優しくそして、悲しそうに微笑み僕の手を解(ほど)いた。
「悲しいよ、シンジ君……。どうやら時間切れらしい。僕は、綾波レイの許へ還らなければならない……。この赤い海は言うなれば、彼女の子宮とも云える。僕は、死ぬわけではない。そして、この世界から消えるわけでもない。僕も、彼女に還るだけなんだ、シンジ君。彼女は今再び、急速に総てを一つにしようとしている。閉塞された世界から君を逃がさないように……。だが僕は、君が幸せになるのを期待して、そして嬉しく思っているよ……」
これが、カヲル君が僕に告げた最後の言葉だった。
カヲル君独特のことば達。僕は理解するよりも、彼を凝視することしか出来なかった。
そしてカヲル君は波打ち際までの道を、ただ名残惜しそうに進んだ。
「何故だよ、カヲル君!!綾波に……綾波に還るってどういうこと?教えてよッ!!」
カヲル君はそれ以上答えてはくれなかった。
そのかわり、何度も何度も僕を振り返り、笑顔をプレゼントしてくれた。
そして、僕は相変わらず瞬きも忘れて彼を凝視していた。
カヲル君は赤い海に脚を入れ、綾波の前へ立った。
そして綾波を抱きしめる仕草をして、カヲル君の制服と靴だけが残された。
赤い海はゆらゆらとそれを弄んでいた。
「カヲル君……」
この数日間僕はカヲル君だけが、僕と他人とのボーダーラインだった様な気がしていた。
心の底から絶望感だけが込み上げてきている。
手を砂に押し付け、何度も擦った。
頭を抱え、寝そべってただ何度となく砂を擦った。
砂はその度に痛そうな音を出した。
白い砂は、僕の眼から大粒の涙が落ちる度に、黒くなっていった。
そんなにカヲル君が大事なら、彼が海に入った後でも追いかけて呼び戻せば良かったのに、僕にはそれが出来なかった。
―――綾波が怖かった。僕がカヲル君を呼び止めている時も、何を思って僕達を見つめていたのか………。
僕は結局、怖くて何も出来なかっただけなんだ。
「………カヲル君……。どうしてなの……?」
さめざめと泣き出した僕の前に、全裸の綾波が立った。
『碇君……』
僕は涙と鼻水を啜(すす)りながら綾波を見上げた。
「綾波……カヲル君はどこへ行ってしまったの?……悲しい……淋しい……」
怒りでもない、自嘲でもない、ただやるせない気持ちで、右手に砂を握った。
『碇君……あなたは誰が欲しいの?セカンドチルドレン?葛城三佐?……それとも、私?』
一見無表情な綾波でも、今の綾波は少し微笑んでいるような気がした。
いや、カヲル君のまとっていた悲しみの空気も周りにあった。
「綾波、僕は何も求めていなかったんだ。カヲル君と……彼と過ごせれば、総てはそれで……良かったんだ………」
涙を拭いて、血に染まった海を見つめた。今までにないぐらい、静かで穏やかだった。
『碇君……』
「綾波は、何を望むの?何が欲しいの?何を、願っているの……?」
僕は、同じく血に染まった綾波の瞳を見た。いや、カヲル君と同じ瞳の色……。
『私が欲しいのは絶望。私は無へと還りたい。でも還りたくない。碇君と一緒になりたいの。でも、碇君は私を求めていないから、私を望んでいないから、私が欲しくないから。だから……だから、誰か他の人を探すの。碇君が幸せになるように』
そう言った綾波は僕の前に座って、僕の口に軽くキスした。
「……僕は幸せになっちゃいけないんだ、綾波。カヲル君も、アスカも、そして綾波も大事に出来ない僕は……」
『淋しいのね……碇君。私と一つになりましょう、ココロもカラダも一つになりましょう……』
綾波は僕のシャツに手を伸ばして少しずつボタンを外していった。
呆然自失状態になっていた僕には恥ずかしくも無い行為だった。
裸にされた僕は、綾波に連れられて血の海に入った。
――――総てだった。そこには命の総ての源があり、総ての終わりがあった。
僕の予想もつかないモノが、そこにはあった。
目にはぼんやりとしてしか見えないけど、確実にその海の中では、ミサトさん、アスカ、加持さん、ケンスケ、トウジ……そして、カヲル君が居た。
皆幸せそうに笑っていた。皆が口々にしている言葉を、僕はきちんとキャッチすることが出来なかった。
「え………?希望………?」
その言葉が、僕の個体としての発する言葉の最後だった。
後はもう言葉にならない言葉が僕の口からあふれては消えていった。
カラダが溶けていくような感触。自分が大きく大きくなっていく……。
快感が僕を包み込み、幸せという名の虚言が僕を満たしていく……。
――――僕は幸せかもしれない……。
僕がこう思ったとき、何かを口に出してみたかった。
そうか、パンドラの箱って……カヲル君……ようやく判ったような気がする……パンドラの箱って……
カヲル君にそう言いたかったけど、言葉にならなかった。
でも何故か、カヲル君が微笑んだような気がした。
補完
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