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一昨年行ったイタリアの映像です。クリスマスシーズンには、あちこちでプレゼピオが見られます。12月24日の夜東方三博士が星の導きによりイエス・キリストの誕生の場を訪ないます。その光景をあらわしたものがプレゼピオアッシジにある聖フランチェスコ寺院では野外に大掛かりなプレゼピオが展示されていました。それもそのはず、この寺院こそがプレゼピオ発祥の地なのです。この寺院の二階には聖フランチェスコの事跡を描いたジオットのフレスコ画が描かれているのですがそれまでの様式的な宗教画を一歩抜け出て人物や事象をさながら生命あるものとして描いた西洋絵画の祖といわれるジオット彼の描いたフレスコ画のシーンを再現しようとした試みがこのプレゼピオなのだそうです。☆ ☆ ☆ メリー・クリスマス ☆ ☆ ☆
2008.12.24
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ランスの街を訪れた2001年の夏この時点では、藤田の絵の展示はおろか画集も出版することは叶わなかった。著作権者である君代夫人が日本での一切の公開を拒んでいたのである。「自分が祖国を捨てたのではない、祖国が自分を捨てたのだ」と、藤田は常々周囲に漏らしていたという。その騒動の元となった「戦争画」その画業事態が、未だに「アメリカ国防省の永久貸与品」という、わけのわからないロジックのまま作品としても、精神史としても総括されないまま現在に至っている。その著書の名「腕(ブラ)一本」の通りに自身の画業で世界に伍してきた画家に対して、あまりにも祖国は冷たかった。しかし、第二の祖国であるフランスは、藤田を暖かく迎えるランスでの受洗の際、離婚経験者のある藤田は自身の資格について思い悩んでいたという。しかし周囲は、「それは異教徒であるときの所業である。カトリック教徒として神に誓いを立てるためには何ら支障はない」と、暖かく、「洗礼を受けたい」という藤田を迎えてくれたという。この暖かい気持ちと、ランスの街のゆったりとした雰囲気が礼拝堂の建立を願い立てるまでに宗教的な高みにまで藤田を導いていったという。今回「レオナール・フジタ」展で公開されたパリ郊外エソンヌ県にある藤田のアトリエ、ラ・メゾン・アトリエ・フジタはミシンを操る写真が残っているようにすべての小物やインテリアなど、隅々まで藤田の息吹が感じられる素晴らしい空間である。そして、ランスのシャペル・フジタ(平和の聖母礼拝堂)大掛かりなフレスコ画やステンドグラスだけでなく聖具室の扉にも藤田の手書きの小品がちりばめられている静謐な空間その安息の日々が今回の展覧会の一つのテーマとしてこの稀有なマエストロのなしえたこととして賞賛されている。それはまた、一人の偉大なる藝術家がその画業を全うするためには身を切るような思いで、祖国と決別することを選んではじめてなされたことでもあったのである。
2008.12.23
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ランスの大聖堂は、壮麗なゴシック様式まさに大聖堂というにふさわしい威容をもってわたしたちの前に聳え立っている。古くは、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世の戴冠式を行なったところでもあります。正面の扉は神様の出入り口聖人の像が一杯並んでいます。ランスのシンボル「微笑みの天使」の像とガーゴイルにもお目にかかりました。この大聖堂でフジタは先例を受け、カトリックに改宗した。また、フジタの葬儀も、この大聖堂で行なわれ、フランスの貴顕に伍して唯一日本人として羽織袴で出席したのがだれあろう、フジタに「秋田の行事」を描かせた秋田の大地主、平野政吉氏であった。フジタの遺体はここ、ノトルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に葬られたという。
2008.12.20
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Reimsと書いて、「ランス」と読みます。シャンパーニュ地方及びマルヌ県で最大の都市(と、いっても人口20万人ほど、ということですが)古くはジャンヌ・ダルクが、シャルル7世の戴冠式を行なった大聖堂でも有名です。旅のお供は、ミシュランの赤本向って右の大きな十字架が大聖堂、左隅に小さく「シャペル・フジタ」本来はレストランやホテルのガイドのためなのですがその正確さのため、街歩きの格好の案内図となります。で、本来ならカテドラルからシャペル・フジタをご案内しようと思ったのですが、約二名ほど、シャペルの道向こうに興味のある方がいらっしゃったので(笑)道向こう のご案内を先にいたします。G.H.Mumm社のカーヴの見学ツアーに参加しました。ヴァカンス前の7月中旬だったためか、人影はまばら社員ガイドのマリアンネさんについて、カーヴの中を見学(英語)料金は試飲つきで、60FF(当時、約1000円)最初にシャンパーニュのぶどう畑や製造工程などの映画(英語)を見た後カーヴの中へ昔のビン詰め工程や器具などを見学しいよいよ、お待ちかね、試飲ですよ、Pippiさん、ばっちゃんさん同社の普及品コルドン・ルージュから、1990年のヴィンテージまで心置きなく味わいました。もっとも、他の方は「おかわり」が出ていましたが、われわれ夫婦は、「二人で一杯で結構です」と言ってマリアンネさんに不思議がられました。この試飲コーナーは、売店も兼ねていてわれわれは、1990年のヴィンテージをお土産に購入。この時点では、Mumm社のシャンパーニュはほとんどが国内及びアメリカむけで日本ではあまり手にはいらないということでしたが最近は、サントリーが輸入元となってあちこちで、お目にかかれるようになりました。機会があったら、ぜひお飲みになってみてください。
2008.12.19
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1945年、日本の敗戦により、日本は連合国の占領下に置かれる。Ocuppied Japanの始まりとともに、戦犯の追及が始まる次第に大きくなっていく「戦争協力藝術家の一番の戦犯は藤田である」という声1950年、追われるように藤田は日本を出国しフランスへフランスで、日本国籍を返上し、レオナール・フランシス・ルネというフランス人となる。尊敬してやまないレオナルド・ダ・ヴィンチと聖フランチェスコあくまでも真摯に藝術に生きようというフジタにひとつの出遭いが待っていた。個展に出品したバラの絵を一人の紳士が求めたいと申し出るこの紳士こそ、ランすのシャンパーニュメーカーG.H.Mumm社のオーナールネ・ラルー氏であった。以後ラルー氏とフジタは親交を重ねフジタがキリスト教に改宗し、ランスの大聖堂で先例を受ける際の代父をラルー氏が努めるまでの間柄となる。そして、1960年フジタは、その全精力を傾けて、ラルー氏の全面的な資金提供のもとノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設にまい進することとなる。この礼拝堂は、古都ランスのG.H.Mumm社の敷地内にひっそりと建っている。2001年の夏、主人とともに訪れた「シャペル・フジタ」通りを隔てた向かいは、G.H.Mumm社の本社及びシャンパン・カーヴであった。
2008.12.18
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一昨日降った冷たい雨は、翌日の富士山を冬の山に変えました。昨日の富士山は、裾野の広い部分まで雪に包まれ一面の雪世界となりました。雲の下の方まで雪が見えているのが、ご覧いただけるでしょうか?いよいよ、冬本番です。
2008.12.16
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上野公園は、銀杏が黄金の輝きを放っていた。その葉っぱが降り敷く道を上野の森美術館に進むレオナール・フジタ展戦後のいざこざから祖国を捨て、フランスに帰化した藤田嗣治はレオナール・フジタとして歩み始めるその歩みを追ったこの展覧会は日本とフランスのふたつの国に大きな足跡を残した稀代の天才画家を、その生活風景を含めて集約した、とても意義ある展覧会だった。まず第一部は、習作時代からエコーウ・ド・パリの画家として「すばらしき乳白色」と異名をとったフジタの裸婦の展示そして、第二部は、1928年に制作され、その後所在不明であったものが1992年パリオルリー空港郊外の倉庫で発見され,その後修復が行なわれたキャンバスに描かれた「構図」「争闘」の大作各二枚の一挙公開この1928年という年は、非常に興味深いなぜならば、フジタは、パリでディエゴ・リベラと親交がありそのリベラが関わっていたのが、メキシコ大壁画運動であるからだ。シケイロスの呼びかけに応じ、1921年に祖国メキシコに帰郷したリベラは民衆のための芸術活動としての壁画制作に携わっていくイタリアのフレスコ画やジェリコーなどの叙事詩的絵画に感銘を受けたフジタが後に大画面の戦争画を描いているがこの時代のリベラとの出会いや、1931年の南米歴訪それも叙事的絵画としての戦争画を描きたいというフジタの思いの原点になっているのではないかとひそかにわたしは思っている。南米歴訪を終えて帰国したフジタは大作「秋田の行事」を1937年に制作するしかし、時代が彼を翻弄し一挙に戦争画制作の戦犯としてフレームアップされることとなったのだった。
2008.12.15
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アップが遅くなってしまいましたが、12月の富士山です。冬の寒さの訪れとともに富士の山頂も白雪が随分下までさがってきました。今日は冷たい雨の降った一日でしたが前日の8日は雲ひとつない絶好の富士山日和こんな景色を見ると、富士の麓に生まれた幸せをしみじみ感じてしまいます。年の瀬のあわただしい中みなさま、御身ご大切におすごしくださいませ。
2008.12.09
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今日は久しぶりのお出かけ、東京へ美術館を三館まとめてアート三昧の一日でした。まず、最初に上野の森美術館「レオナール・フジタ」展日本人の洋画家藤田嗣治(つぐはる)は東京美術学校(現東京藝術大学)に入学し、画家を志すが当時の洋画界で絶大な権力を持った教授黒田清輝とソリが合わずその作品を完膚なきまでに貶され新天地をそのころの藝術の中心地であるパリに求め、渡仏した。パリで、彼は「エコール・ド・パリ」(パリ派)といわれる絵画集団に所属した。「エコール・ド・パリ」は、主としてユダヤ系の人々により構成されていた。モディリアニ、キスリング、パスキン、スーチンこれらの画家たちに影響を受けつつ、藤田が開発したものは「素晴らしき乳白色」という技法だった胡粉を混ぜた、と伝えられる、藤田独特の乳白色の下地に面相筆を持って、さながらに日本画のように引かれる細い線墨絵のようでありながら西洋的な物質感を持つ陰影東洋的でありながら、西洋絵画でもあるそんな絵画が評判を呼び、藤田は一躍パリ画壇の寵児となるその凱旋を持って、藤田は旧師の黒田や彼の弟子たちを見返そうと思ったであろう。「完膚なきまでに貶された俺の絵が、けれどどの日本人画家にも出来なかった絵画的成功を本場のパリでおさめたのだ。」しかし、その藤田も時代の波に翻弄される第二次大戦の勃発と、それに従軍画家としてかかわらざるを得なかった状況敗戦後、戦犯探しが始まる最大の戦犯は、最高の評判を取った戦争画の絵描き手、藤田だ!当の藤田は、ただ驚くのみ自分のこの絵が、どこに戦意昂揚の意図があるというのだ!自分が書いたのは、玉砕する兵士たちばかりだ一大叙事詩として、ジェリコーのような画が描けないものか、こころみただけ題材として取り上げたのは、戦争の痛ましさを描いた題材だというのに---現在も、この戦争絵画は、アメリカ合衆国の占領品としてただ、身柄だけは国立近代美術館への「永久貸与品」として年数回の公開がなされているだけの非常にはぎれの悪い物となっている。このようにして、藤田は故国を失う。彼を迎えてくれたのは、青春を過ごした地、フランスだった。藤田は日本国籍を離脱し、フランス国籍を取得Leonard Foujita(レオナール・フジタ)が誕生する。
2008.12.05
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ニューヨークのロックフェラーセンターのクリツマスツリーが点灯された。ロックフェラーセンターといえば、バブル期の1989年三菱地所が買収し、金満日本の象徴ともいえる存在だった(その後のバブルの崩壊で持ちこたえられなくなり、手放してしまったこのことにより、アメリカ企業のしたたかさを我々は思い知るのだが)そして、あくる年1990年ニューヨークのサザビーズのオークションでゴッホの「医師がシェの肖像」とルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の二作が125億円と190億円というオークション史上まれに見る高額で日本人の個人コレクターが落札したというニューズが世界を駆け巡った落札したのは、大昭和製紙(当時)の斉藤了英会長(当時)「ほんの小遣い」とか「ワシが死んだとき、一緒に荼毘に付してほしい」など思い上がった言動で顰蹙をかったものであるがこれも金満日本の象徴ともされた事件であった。しかし、おごれる平家は久しからずロックフェラーセンターは、管理会社の破産を経て、格安でアメリカ側に買い戻され大昭和製紙も業績不振で日本製紙に合併され齋藤氏にいたっては、刑事被告人と成り果てご自慢の絵画は金融機関の管理となり、おそらく散逸の憂き目にあったであろう。その一連の流れの中、58億円という高額でゴッホの「ひまわり」を取得した安田火災海上保険(当時)も、時代の荒波に揉まれたがこちらは、「損保ジャパン」と名前を変えただけで「ひまわり」は、その本社に併設された美術館にいまだ健在である。その「ひまわり」のある損保ジャパン東郷青児美術館で「丸紅コレクション」展が開催されている。その企画の目玉が、これ ↓日本にある唯一のボッチチェルリ「美しきシモネッタ」この作品のモデルと伝えられるシモネッタ・ヴェスプッチは1475年にロレンツォ・ディ・メディチ主催の「大騎馬試合」で美の女王に選ばれた絶世の美女1969年に絵画輸入部門を設立し絵画ビジネスに乗り出した総合商社丸紅しかし、1979年第二次石油ショックで絵画ビジネスは不調となり子会社化していた絵画部門の買い求めた作品は丸紅本社に移管され、「丸紅コレクション」として保管されたそのため、この作品も散逸をまぬかれ現在に伝えられている。その後のバブル期に信じられない値段がついた印象派絵画でなかったためであろうかはたまた、目利きが居なかった、(もしくは居た)ためであろうか奇跡のように日本に残されたイタリア・ルネサンス期の宝石である。
2008.12.04
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