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藤田嗣治アンソロジーR5
<藤田嗣治アンソロジーR5>
私のプロフィール写真は知っている人は知っている・・・この猫の絵は、藤田嗣治の絵なんです。
このたび、過去の記事をもとに藤田嗣治のアンソロジーのようなものを作成したので・・・ひとりで悦に入っています♪
・『藤田嗣治 手紙の森へ』
・『藤田嗣治と5人の妻たち』
・『もっと知りたい藤田嗣治』
・『戦争画とニッポン』
・はじめての藤田嗣治
・藤田嗣治手しごとの家
・藤田嗣治画文集 猫の本
・小さな職人たち
・藤田嗣治、本のしごと
R5:『藤田嗣治 手紙の森へ』を追記、文字数を見直し
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【藤田嗣治 手紙の森へ】
林洋子著、集英社、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
藤田嗣治は1920年代のパリを拠点に、油彩画の本場ヨーロッパで勝負し、相応の成果を果たした最初の日本人美術家として知られます。画家の没後半世紀。彼が残した作品だけでなく、遺族の手元以外から、手紙の存在情報が明らかとなり、多くの書きもの=日記や手紙の存在が確認され、整理公開、復刻が進んでいます。彼から手紙をあてられた人が、もしくはその遺族や関係者が守っていたのです。本書は生前の画家が書いた手紙をテーマとします。インクでぎっしり書かれた文字群には相手への思いのこもったイラストレーションも添えられることがしばしばで、こうした紙の上の「手しごと」を知ることが藤田の多面性の理解につながるのです。
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、自筆絵画のカラー画像、挿し絵、書簡など多彩でビジュアルである・・・新書で1200円と高価であるが、コスパは悪くないでぇ♪
rakuten
藤田嗣治 手紙の森へ
『藤田嗣治 手紙の森へ』2
:1910年代のパリにおける藤田
『藤田嗣治 手紙の森へ』1
:「はじめに」
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<『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』>
図書館で『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』という雑誌を、手にしたのです。
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪
【藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)】
雑誌、新潮社、2018年刊
<商品の説明>より
◆特集◆藤田嗣治と5人の妻(おんな)たち
フジタの絵は、妻が替わるたびに変容を遂げた。
妻たちとの関係、そして秘蔵の手紙や日記、写真などから、名画誕生の秘密を探る。
●妻たちを通して振り返る画家の軌跡
1.とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛
2.フェルナンド フランスへの同化を誘った女流画家
3.ユキ 絶頂期を共にした“トロフィー・ワイフ"
4.マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ
5.君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻
●奈良美智がカメラでたどるフジタの愛した場所
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると・・・
藤田の作品はもちろん秘蔵の手紙や日記、写真など満載で、ええでぇ♪
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藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)
人魚
『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』3
:フランスで藤田の住んだ家
『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』2
:戦中や戦後の藤田
『藤田嗣治と5人の妻たち(芸術新潮2018年8月号)』1
:君代
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<『もっと知りたい藤田嗣治』>
図書館で『もっと知りたい藤田嗣治』という本を手にしたのだが・・・
とにかく、大使一押しの画家について、もっと知りたいということで、借りたのです。
連作<小さな職人たち>を見てみましょう。
p82~83
<連作<小さな職人たち>>
1958年秋から翌年の春にかけて、藤田はおもにパリを舞台にさまざまな仕事に従事する子どもたちの姿を数多く描いた。連作<小さな職人たち>に登場する子どもたちは、それぞれの仕事に真剣に取り組んでいるものの、そのしぐさはどことなくユーモアが感じられる。
■街に生きる人々への共感
連作<小さな職人たち>における重要なモティーフのひとつは、左官や指物師、椅子職人のような手先の技術によって物を製作する職人たちであり、そのほかには古くからパリの路上でみられた馬車の御者やガラス売り、アパルトマンの管理人や掃除夫などさまざまな職種がみられる。
各作品はタイルのような正方形の世界に表され、そこに藤田自身の空想が重ね合わされており、彼の子どもを描いた作品のなかでも、ひときわ異彩を放っている。
<小さな職人たち>は、当初はアトリエのアンティークの木製扉を装飾するために描かれたが、しだいに点数が増え、藤田が「私の巴里のアトリエの壁面には二百何枚かのこの小品を張り付けた。あたかもタイル張りの如くにした(中略)皆釘付けであった」と述べているように、彼は他のタイル状の小品とともにモンパルナス、カンパーニュ=プルミエール通りのアトリエの壁一面に飾り、それらに囲まれていることを喜びとしている。
何よりも技術そのものを重んじ、作家はアルティスト(芸術家)である前に、腕利きのアルティザン(職人)でなければならないと語った藤田。本連作には、彼の職人仕事に対する敬意、そしてパリという街への特別な思いが凝縮されている。
装丁関係について見てみましょう。
p46~47
本の仕事
より
藤田は1910年代末から最晩年まで、継続的に本の挿絵や装丁に関わり続け、その総数は90件を超える。なかでも1920年代のパリと30年代の東京に集中しており、採算を度外視した趣味の領域で、彼の文学者との人脈の広さを物語る。
■パリでの日本、日本でのパリ
藤田は生涯で50冊を超える挿絵本をパリで手がけたが、1920年代がその3分の2を占め、残りは50年代以降の戦後となる。
その大半がオリジナル版画を伴う限定版の豪華挿絵本で、愛書文化豊かなこの街で、作家、出版人、版画職人に恵まれ、20年代にはとくに日本の文化や伝統をテーマとした本に次々と関わることになる。30年代、昭和初めに母国に帰国した彼には、パリでの実績もあって、続々と書籍の装丁や高級雑誌の表紙絵の依頼が舞い込む。ここで求められたのはパリのイメージを表象することで、留学経験のある著者の本や仏文学の翻訳本、豪華なグラフ雑誌や婦人雑誌、そして自らのエッセイ集3冊まで彩っていく。日本での出版物はいずれも機械による印刷物だが、一部には普及版以外に特装版もあり、少数部数限定で手描きの表紙なども残している。
【もっと知りたい藤田嗣治】
林洋子×内呂博之著、東京美術、2013年刊
<「BOOK」データベース>より
【目次】
序章 フランスへの憧れー1886―1912(0~26歳)(パリを目指す画学生)/第1章 パリー乳白色の誕生ー1913―1929(27~43歳)(失われゆく「パリ風景」の発見/パリの異邦人美術家コミュニティーで ほか)/第2章 旅する画家ー1929―1938(43~52歳)(中南米での2年間/極東の街頭風俗を描く ほか)/第3章 戦争画の時代ー1938―1948(52~62歳)(戦場への旅/空想への旅フランスへの思い ほか)/第4章 晩年ーレオナール・フジター1949―1968(63~81歳)(ニューヨークでの創作活動/理想の家 ほか)
<読む前の大使寸評>
とにかく、大使一押しの画家について、もっと知りたいということで、借りたのです。
rakuten
もっと知りたい藤田嗣治
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<『戦争画とニッポン』>
図書館で『戦争画とニッポン』という本を手にしたのです。
戦争画といえば、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》などが想起されるが・・・
この絵で戦意高揚できるのか?と思ったりするわけですね。
そのあたりについて、お二人が語っています。
p38~40
<藤田嗣治の巨視的視点>
アッツ島玉砕 1943年
喀爾喀河畔之戦闘 1941年
椹木:
改めて、当時の戦争画を見てみても、やっぱり藤田は他の画家たちとは明らかに違いますね。今話に出た《アッツ島玉砕》もそうですが、サイパン島での住民まで巻き込んだ玉砕図《サイパン島同胞臣節を全うす》では、バンザイ・クリフから飛び降りて自決するところまで描いています。今回はふだんあまり出ないニューギニアの死闘のほうを載せました。
会田:
先ほど「暗い叙情」と言いましたが、僕には太平洋戦争に対して漠然と抱いていたイメージがあって、それはひと言では言い表せない、非常に混沌としたものなのですが、最初に《アッツ島玉砕》を見た瞬間に、「ああ、これは近いかもしれない」と思いました。
椹木:
《アッツ島玉砕》をはじめとする一連の藤田の「玉砕図」は、見方によっては「反戦画」と言ってもおかしくないくらい、厭戦的な気分が漂っていますよね。あれを見て誰も、こんなふうにむごたらしく死にたいとは思わないでしょう。当時、《アッツ島玉砕》を実際に見た野見山暁治さんも、藤田の戦争画は「戦争がすべてを奪って死の世界へ引きずり込むようなまさしく反戦的な雰囲気を醸し出していた」と書いています。
(文字数制限により省略、全文は
ここ
)
【戦争画とニッポン】
椹木野衣×会田誠著、 講談社、2015年刊
<「BOOK」データベース>より
70年目の「戦争画」と向き合う。たんなる研究や評論だけでは決して割り切れない、絵描きならではの宿命。
【目次】
太平洋戦争の記憶/暗い叙情/70年目の「戦争画」/やさしい戦争画/藤田嗣治の巨視的視点/裸婦と戦争画/画家たちの歴史/近代の超克/頭蓋骨が描けないと/肉が足りない/国家とモニュメント/美術家の節操/戦争画のDNA/もうひとつの戦争画ーある画家の絶筆を訪ねて/再録 陸軍派遣画家ー南方戦線座談会/作品解説
<読む前の大使寸評>
戦争画といえば、その存在自体がキワモノあるいは傍流であるが・・・興味は尽きないのです。
rakuten
戦争画とニッポン
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<はじめての藤田嗣治>
朝日の文化欄で「はじめての藤田嗣治」を見つけたが・・・ええでぇ♪
日本画壇からは冷たくあしらわれ、フランスに帰化した藤田であったが・・・
日本での評価が落ちたわけではなかったようですね。
はじめての藤田嗣治
より
おかっぱ頭にヒゲと丸眼鏡の奇抜な外見と、美しい乳白色の裸婦像が印象的な画家、藤田嗣治(つぐはる)(1886~1968)。パリでの成功は一見華やかだが、戦争の影と歩んだ人生でもあった。
「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎がうたった1913年、藤田は26歳でパリへ渡った。
ピカソが活躍し、シャガール、モディリアニら様々な国の画家が個性を競う「エコール・ド・パリ」の時代。初めて見る前衛美術に驚きつつ、交流を深めた。
渡仏翌年には第1次世界大戦が勃発する。創作でも私生活でもフランスに根を張る努力の結果、西洋の画家と対等に渡り合い、美術史に名を残す成功を収めた。
他人の手法の「反対反対と狙って」(『腕〈ブラ〉一本・巴里〈パリ〉の横顔』)、和と洋の融合に行き着いた。日本画の面相筆で細い輪郭線を描く。透明感のある下地をつくり、浮世絵のように下地をあえて残して、肌として見せる。それが20年代以降、藤田の代名詞「乳白色の下地」となった。
私生活では、日本に残した妻と離縁してフランス人画家と結婚。奇抜な扮装で舞踏会に出没し、目立つおかっぱ頭やヒゲも手伝って社交界の花形となった。
*
裸婦の代表作の一つ、22年の「ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)」。画家の奈良美智さん(54)は20歳の時、パリの市立近代美術館で見た。「どっしりと量感を持ちつつ、繊細で気品があり、価値あるものという光を放っていた。習っただけの西洋絵画ではない独自のスタイルがあった」
藤田は下地の作り方を隠していたが、近年は研究が進む。
00年に調査した東京芸術大の木島隆康教授によると、下地の上層は鉛白(シルバーホワイトの絵の具)とカルシウム化合物の混合。さらに、ベビーパウダーなどに使われるタルク(滑石粉)をこすりつけて風合いを出していた。土門拳が撮った藤田の写真に「シッカロール」の缶が写っていることが、タルク使用の傍証となった。
*
29年の世界恐慌を機に、16年ぶりに帰国。日中戦争、次いで太平洋戦争が始まると、軍部の要請で戦線を取材し、戦争画にのめり込んだ。そのため、後に戦争責任を追及されたが、単純な戦意高揚と思えない作品も。例えば43年の「アッツ島玉砕」。暗い画面に敵味方も生死もわからない兵士が折り重なる。
大原美術館(岡山県倉敷市)の林洋子・特別研究員は「記録や報道を超えて普遍性を備えた芸術」と評価する。「反戦・厭戦画とみる人が増えた。新たな視点での審判が待たれます」
終戦後は妻・君代と渡仏して仏国籍を取り、カトリックに改宗。戦争協力者扱いされ、故国に絶望したという見方もあるが、林さんは「フランスへ戻りたい気持ちは絶えずあったのだろう」とみる。
晩年は世間と交流を絶ち、空想上の子供の絵と宗教画に没入した。激動の人生の終わりに、愛らしいもの、聖なるものに心ひかれたのだろうか。(安部美香子)
<読む> 人物を知るには自筆エッセー集『腕一本・巴里の横顔』(講談社文芸文庫)、近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社文庫)を。絵を見るには、林洋子・内呂博之『もっと知りたい藤田嗣治生涯と作品』(東京美術)は代表作を網羅。作品と時代に踏み込むには、林洋子『藤田嗣治作品をひらく』(名古屋大学出版会)が充実している。
<見る> 東京・銀座のポーラミュージアムアネックスでは28日まで、「フジタ、夢をみる手」展(無料)を開催。「校庭」ほか第2次大戦後の子どもの絵など約40点を展示する。秋田県立美術館では来年1月18日まで、「藤田嗣治と土門拳の交差」展を開催。写真約50点、常設の壁画「秋田の行事」ほか油彩4点も展示する。
■いかに目引くか考えた 俳優・オダギリジョーさん
来春完成予定の小栗康平監督の映画「FOUJITA」で藤田を演じます。藤田は絵、僕は芝居ですが、自己表現という点では共通点を感じる。自分を理解して、その自分を使って、いかに作品に投影するか。もっと言えば、自分をどうプロデュースするか。
僕もアメリカで俳優の養成学校に通っていたころは、げたをはいたり、ランドセルをしょったりした。ビジュアル的な、日本的個性みたいなものを通して、自分をアピールしたかったんでしょうね。
藤田の場合、世界中の画家が集まるパリの中で、注目されて初めて、作品を見てもらえる。みんなの目をいかに引くかを、すごく考えたんだろうなと思います。
パリに行ったのは結婚後、20代後半ですよね。一人で行ってしまって帰って来ない。なぜ結婚したのかわからない。でも、絵に関してはとても真面目に向き合って、自信もある。夢も希望も、すべて絵を中心にあったのでしょう。
なぜ戦争画を描いたのかは、一番ひっかかったところです。国に背くことは考えられない時代だったのと、それを利用して自分の表現の場を作ろうとしたのでしょうか。そういう藤田の太さ、強さを描き切れればいいと思います。
オダギリジョーが演じる映画「FOUJITA」は、個人的には必見でんな♪
オダギリジョー、日仏合作映画で初欧州
より
オダギリジョー(38)が、日本フランス合作映画「FOUJITA」(小栗康平監督、来年秋公開予定)に主演することが21日、分かった。1910年代後半からフランスで活躍した画家、藤田嗣治を題材にした作品。世界的にヒットした01年のフランス映画「アメリ」を手掛けたプロデューサーが本作を担当。オダギリの本格的な欧州進出をバックアップする。
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<藤田嗣治手しごとの家>
図書館で『藤田嗣治手しごとの家』という本を手にしたが・・・・
インテリア、裁縫、絵付け、木工、収集、装丁、写真など手仕事に対する藤田の職人気質が見えるわけです。
それから・・・
新書ヴィジュアル版と銘打っているとおり、カラー画像満載で嬉しい本でおま♪
【藤田嗣治手しごとの家】
林洋子著、集英社、20094年刊
<「BOOK」データベース>より
日本人の美術家として初めて国際的な美術界と市場で成功を収めた藤田嗣治。彼はまた、当時の男性には珍しく、身のまわりのものをことごとく手づくりし、暮らしを彩った、生活の芸術家でもありました。裁縫、大工仕事、ドールハウス、写真、旅先で収集したエキゾティックな品々…。本書では絵画作品にも描かれた、藤田がこよなく愛したものたちに焦点を絞り、そのプライベートな非売品の創作世界を解きあかします。本邦初公開の藤田撮影の写真、スクラップブックなど、貴重な図版多数をカラーで掲載。ここに現代美術の先駆者としての藤田嗣治が、蘇ります。
<読む前の大使寸評>
インテリア、裁縫、絵付け、木工、収集、装丁、写真など手仕事に対する藤田の職人気質が見えるわけです。
それから・・・
新書ヴィジュアル版と銘打っているとおり、カラー画像満載で嬉しい本でおま♪
rakuten
藤田嗣治手しごとの家
藤田が最晩年を過ごした家を見てみましょう。
<私たちの家>よりp17~22
2000年9月、パリ南郊に位置するエソンヌ県は、県内の小村ヴィリエ=ル=バクルに残る藤田最晩年の家を「メゾン=アトリエ・フジタ」として一般公開しました。そこは、藤田が1961年秋から68年1月の死の直前まで君代夫人とともに暮らした、小規模ながら画家の記憶あふれる場所です。現在でも鉄道の便が悪く、パリ市内から車で一時間程度を要します。
このヴェルサイユにほど近いパリ南郊は、1950年代にはパリの芸術家や文化人たちが週末を過ごす「田舎の家」を好んで持った地域で、彼も知人に招かれて近隣を訪れ、緑豊かな田園風景に魅せられたのがアトリエをかまえたきっかけといいます。しかし、藤田夫婦のように定住した例はめずらしく、パリの喧噪を離れ、70歳半ば過ぎてからの「隠棲」の場として選んだと思われます。
瀟洒で慎ましいこの家は、藤田後半生の代表作《礼拝》にも描きこまれています。洗礼を終えた夫妻がマリアに帰依する姿の背景に広がるのは、画面左手、藤田の後方に見えるヴィリエ=ル=バクルの家とそこからシェヴルーズの谷へとつづく丘陵地帯です。
(中略)
移り住んですぐに75歳の誕生日を迎えた彼は、その後の6年余りを過ごすことになります。1955年にフランス国籍を取得して日本国籍を抹消した藤田が、59年に洗礼を受けたのち、「フランス人、キリスト教徒」として住まった家です。確かに、ここでは1966年に完成するフランス北部の都市ランスの礼拝堂ノートルダム・ドゥ・ラ・ペのフレスコ画の構想が練られるなど、キリスト教を主題とした絵画が数多く描かれました。
この本を作った著者の思いが述べられています。
<おわりに:林洋子>よりp193~195
集英社から藤田で新書をというお誘いをいただき、新書のヴィジュアル版という媒体に美術書としての新たな魅力と可能性を感じました。画集や展覧会カタログと比べて、サイズが小さくとも手に持って間近に見ることができる点で、いたく近眼だった画家が手元で愛でていた「もの」をたどるには理想的な版型だろうと。そして、前の本で画家の公的な側面を浮かびあがらせた自分が、これでその「合わせ鏡」となるべき、彼の私的な領域に踏みこむことができると確信しました。
当初、著作権交渉の難航を覚悟しましたが、関係者の尽力もあって君代夫人のご理解を得て、2009年2月に出版が決まりました。直後に夫人が人事不省に陥り、4月2日に亡くなられました。98歳でした。たいへんご壮健で、誰もが100歳までお元気だろうと思っていたところの急逝でしたが、亡き夫の没後40年関連の行事を見届けた彼女を、藤田がそばに呼んだのでしょう。満開の桜が舞い散るなかでの葬儀でした。
こうして、君代夫人が抱える藤田の遺品について書こうと準備していた間に、その持主が亡くなったことで、藤田の遺品は二重の意味での遺品となりました。遺品とは多くの場合、家族にとって故人の身代わりを意味します。だからこそ君代夫人には遺品でも、第三者には意味を持ちにくいものもありました。彼女は亡き夫の下着や羽根布団まで残していました。明治人らしいものを捨てない、ものを大切にする始末のよさと、そして藤田への無限の愛情のなせるわざでしょう。
(文字数制限により省略、全文は
ここ
)
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<藤田嗣治画文集 猫の本>
図書館で借りた本であるが、とにかく、猫好きにはたまらない本である。
【藤田嗣治画文集・猫の本】
藤田嗣治著、講談社、2003年刊
<「BOOK」データベースより>
エコール・ド・パリの巨匠が描いた猫たちが初めて一冊に。フジタの猫たち130匹余!画集未収録作品を中心に約90点の猫の絵とエッセイ。
<大使寸評>
とにかく、猫好きにはたまらない本である。
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藤田嗣治画文集猫の本
藤田嗣治画文集猫の本/画像
巻頭のエッセイの一部です。
盛り場から夜遅くパリの石だたみを歩いての帰りみち、
フト足にからみつく猫があって、
不憫に思って家に連れて来て飼ったのが、
1匹から2匹、2匹から3匹となり、
それをモデルの来ぬ暇々に眺め廻し描き始めたのがそもそものようです。
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<小さな職人たち>
日本から冷遇されて居場所を失ったかのように、フランスに帰化したレオナール・フジタでしたが、絵本の挿絵のような<小さな職人たち>シリーズを描いています。
彼自身が技法に拘るアルティザンだったので、しがない職業でも名もない職人でも敬意を持って描いたものと思われます。
【レオナール・フジタ】
ポーラ美術館監修、東京美術、2011年刊
<「BOOK」データベースより>
美術館監修で発売するニッチな本には、「BOOK」データベースの説明がありません。
<大使寸評>
レオナール・フジタに注ぐ温かい眼差しが感じられる本である。
この本の感想とエッセンス
です。
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レオナール・フジタ
この本よりエッセンスの一部を紹介します。
<芸術の都パリへ>
p14~15
1913年8月、26歳のフジタは、フランスの港町マルセイユに到着した。はじめ3年間という期限付きで渡仏したフジタは、西洋絵画の研究を目的とする他の日本人と留学生と同様、本場のフランスで絵画を学び、箔をつけて日本に帰る予定であったと思われるが、まもなく「すべてを棄てて自分だけは少なくとも本場所の土俵の上で大相撲をとろう」との思いから、10月にはモンパルナスのアトリエ兼住居、シテ・ファルギエールに居を構え、パリに長くとどまる覚悟を決めた。
フジタはパリに着いてまもなく、すでにモンパルナスの住人となっていたパブロ・ピカソやキース・ヴァンドンゲン、アメデオ・モリディアーニらと知り合い、キュビズムなど前衛美術を知り、またピカソを通じて素朴派のアンリ・ルソーの作品から影響を受けた。渡仏直後にフジタは《葡萄の帽子の女》のようなピカソのキュビズム作品に刺激を受け、キュビズム風の静物画などを多数描いたとされるが、現時点で確認できる作品の数は限られている。それは、1914年夏はじまる第1次世界大戦の混乱に際し、暖を取るために多くの作品を燃やしてしまったからである。一方、モリディアーニとはともに戦渦を避けて南仏旅行に出かけるなど、彼がなくなるまで親交は続き、当時のモティーフの選択や構図の取り方、長方形を組み合わせたようなキュービックな対象のとらえ方などに、モディリアーニの影響が認められる。とりわけ《ルニア・チェホフスカの肖像》にみられるような、首の長い円筒状に引き伸ばした描き方をこの時期に試みており、モディリアーニのお気に入りのモデルであったルニアを描いたとされる作品も残っている。
(中略)
戦況が落ち着き、パリに戻ったフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲンなどモンパルナスの画家たちと交流を深めるなかで、独自のスタイルを確立する必要性を肌で感じるようになる。「その時分(1910年代)は絵具をコテコテ盛り上げるセゴンザックという大家の流儀も流行っていた。それじゃ俺はつるつるの絵を画いてみよう。また外の者がバン・ドンゲンというような画を大刷毛で描くなら、俺は小さな面相、真書のような筆で画いてみよう。また複雑な綺麗な色をマチスの様に付けて画とするならば、自分だけは白黒だけで油画でも作り上げてみせよう」と後に語っているように、フジタは周囲の画家の模倣を避け、日本で培った技術と美意識を油彩画の表現に活かすことを考えはじめる。フジタの1910年代は、西洋美術の源流と歴史を研究しつつ、同時代の前衛的な美術に接近し、時にはそれと距離を置きながら、自ら進むべき道を模索する時期であった。
<「素晴らしき乳白色」の誕生>
p15~16
第15回サロン・ドートンヌ出品作《ジュイ布のある裸婦》のモデルもキキであった。フジタはキキをモデルにするにあたり、「白はただ物の明暗、それの遠近の明るい意を現すために用いられておるが、僕は白を白色として、その白色の美わしさを土台に使って生かし」ながら肌の白さを表現するとともに、「やわらかい、押せばへこむような皮膚を通して画のもっとも重大な条件である『質』」を描くことを課題とした。そして「皮膚という質の柔らかさ、滑らかさ、そしてカンバスその物が既に皮膚の味を与える様な質のカンバスを考案する事に着手」し、その結果として「すばらしい白い地」もしくは「素晴らしき乳白色」と賞賛されることになる独自の下地(地塗り)を生み出すにいたった。
フジタはまた、自分が考案した白い下地の美しさを最大限に活かす ために、対象の描写を黒い線によっておこなう必要があると考えた。フランスに渡ってから「日本の毛筆に不思議な魅力を感じ」るようになったフジタは、日本画様の毛筆、なかでも極めて細い面相筆と日本の墨を用い、毛髪のように細い黒の輪郭線を滑らかな白い下地の上に施そうとするが、「日本の水を使った墨でかくことは油の上に水を載せるむずかしさがあった」ため幾度も失敗を重ねる。
つまりフジタの試みは、油性の下地のうえに水性の墨をのせようとするものだが、彼は執拗に実験を繰り返すことによって不可能を可能にしようとしたに違いない。そしてついに「タルクをキャンバス全面にふりかけて、油っ気を取り去ることに成功」したことによって、「乳白色の肌」とも呼ばれるフジタの独自の裸婦像が完成したとされている。ただし、「乳白色の肌」を生み出す技法については、フジタは生涯秘密にしたため、科学的な調査・分析が可能な現在においても多くの謎をはらんだままである。
<小さな職人たち>
p75
1920年代に「乳白色の肌」を特徴とする裸婦像によって、パリのサロン・ドートンヌなどで衆目を集めたレオナール・フジタは、1930-1940年代には人物群像や戦争画などの大画面の分野に挑戦し、それによって人体の描写力と画面の構成力の高さを日本の国民に示した。一方、第2次大戦を経て、再渡仏を果たした1950年以降は、比較的小さな画面を選択する傾向が強まり、彼自身の内面世界に美を求めつつ、それを子供の姿を通して表現したように思われる。
(文字数制限により省略、全文は
ここ
)
『レオナール・フジタ ―小さな職人たち』
私のパリ、私のアトリエ
ギャラリー イスクラ
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<藤田嗣治、本のしごと>
この本には、「本のしごと」に対して藤田嗣治がそそいだ執着と愛着がよく表れています。
・・・・晴走雨読の大使が奨める1冊でおま♪
「挿絵本の豪華版」のくだりを見ると、挿絵自体が芸術作品として取り扱われたようです・・・・本の価値判断基準に利得、美しさが加わるところが、フランスたる由縁か♪
<パリでの挿絵本、「豪華版」との出会い>
p26~27より
1890年代から画家に版画制作を依頼して好評を得たアンブロワーズ・ヴォラールは、その後、詩集や小説本を美術家に発注したオリジナル版画を入れた限定版として出版しはじめました。ボナールを始まりに、ピカソ、デュフィ、ルオー、ブラック、シャガール、ドランらが名作を手がけます。彼らのなかには「版画」を単なる複製技術ではなく表現手段のひとつとしてとらえ、紙や活字、テキストの選択にまで関わる者もいました。
(文字数制限により省略、全文は
ここ
)
【藤田嗣治、本のしごと】
林洋子著、集英社、2011年刊
<「BOOK」データベースより>
画家・藤田嗣治が80年を超える生涯のなかで、母国日本や第二の祖国となったフランスなどで関わった「本のしごと」-書籍や雑誌を対象とした表紙絵や挿絵-から約90冊を、新たに公開された彼の旧蔵書を核として、国内の公共図書館、美術館や個人のコレクションを交えて紹介。パリ時代のオリジナル版画入り豪華本から、日本でのモダンな女性誌や戦時下の出版まで、そして愛妻のために見返しに少女像を描いた一冊など、貴重な図版を200点以上収録。
<読む前の大使寸評>
この本の編集、掲載した資料の多彩さ、内容が今でもハイカラなことなど、この本自体がビジュアル的にええでぇ♪
rakuten
藤田嗣治、本のしごと
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