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男の子には、やっぱり父親がついていくんですね。青木のみんなもそうでした。
今頃は、試験が終わった頃でしょう。
みんな、ほっとしていることでしょう。
【先週木曜日に本当にあったちょっと不思議な話】
本、とは物語を含んだ書物であることは言うまでもないことですが、本との出会いというのも、すでにひとつの物語になっているのかもしれないと、最近しみじみ感じます。
前回のコメント欄で、オルゴールさんに本との出会いのエピソードを教えていただいたその日の午後、本当にあったちょっと不思議な物語─どうぞ聞いてください☆
まず最初に、二年前に引っ越したこの街の、少し奇妙な偶然について語らせてください。
以前の日記で、引越し先についての エピソード
を書かせていただきました。出会うべくして出会った物件だったのだと、私は今も信じています。
そして、娘が一年生に上がり、駅までの登下校の送り迎えをするようになったのですが、このルート上のとある家の表札に、スバリ楓の姓を発見したのです。
皆さまご存じのように、楓の姓はそうありふれたものではありません。調べてみると、 361世帯
しかない姓なのだそうです。楓は実父の姉(つまり伯母)夫婦に引き取られていたので、実父の妹尾姓ではなく伯母の嫁ぎ先の姓を名乗っていました。となると、全国に361世帯しかない姓の表札の主は、あるいは楓の伯母の嫁ぎ先の遠縁に当たる方なのかもしれません(意外に近い血縁者だったりして;)
しかもこの家、どっかで見たことがある…;
「ねえママ。このおうち、うちとおんなじ!」
娘の指摘に、私も我が意を得たりと頷いた。
たぶん…施工会社が同じなのでしょう。家の外観から外壁まで、そっくり─笑。
歩いて五分以上離れているので、こちらの楓姓の方が双子の住宅に気づくことはないと思われますが、私にとってはすごく不思議で、親近感あふれる事実発覚、といったところですv
我が家は建売りではなく、注文住宅です。なのに、これだけ外観が似るということは、お互いの「シュミ」がとっても似ているのではないかと─しかも思いっきり楓姓だし
。
こういうことって、あるんですね☆
さて、本題です。
その日、私は『オルゴール』という本のことを思いながら書店に向かっていました。
道すがら、とある家の前に今日も小さな看板がかかっているのを見つけました。それは、通りがかるときにいつも気になっている看板です。手書きで、「こども図書館」と書いてあって、毎週木曜日の午前中に掲げられ、午後の早い時間にはもうしまわれてしまうのです。
私はふと、今日は中に入ってみようと思い立ちました。
紹介者もなく、通りすがりに家の人を見たこともなく、ましてや知り合いでもない─でも勇気を出してドアの前に立ってみました。すると、いきなり玄関の扉が自動ドアのように左右に開いたのです。いえ、実際に自動ドアだったのでしょう。そして、その向こうにはさらに重厚な扉があり、中から人の声が─
笑い声です。楽しそうにおしゃべりする声。
私は思い切って扉を開けてみました。
日が燦々と差し込む小部屋の中には、車椅子の若い男の子。中学生くらいに見えます。そして、その母親らしき人。二歳くらいの小さな女の子。その若いお母さん。
年上のお母さんが、小さな女の子に松谷みよ子の本の読み聞かせをしています。女の子のお母さんも笑顔で耳をすませています。
闖入者に、ふと絵本が読み止められました。
「はじめまして。こちらは図書館ですか? 本をお借りできるのでしょうか」
なんと言っていいのかもわからず、私はとりあえず声を出しました。
「どうぞどうぞ。本も借りられます。ここで本も読めます」
答えてくれたのは、車椅子の男の子です。
見れば、窓を除く部屋の三面いっぱいに設えられた本棚に、児童書が何百冊も詰まっています。
「娘が一年生なのですが、学校では一冊しか借りられず、公共の図書館も遠いので、こちらでお借りできれば大変嬉しいのですが─」
「一冊だけ!? それは少ないですね! うちでは七冊まで借りられますよ」
七冊!!! 一日に一冊読めるなんて!
「ぜひ貸してください。娘も喜びます。今、学校に行っているのですが、私がお借りしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ。だいじょうぶです」
気がつくと、読み聞かせがいつともなしに始まっています。
「ここにご住所とお名前と電話番号…あと、Eメールのアドレスがあれば教えていただけると便利かな。こちらが急にお休みの日や、そちらがいらっしゃれないときなどにご連絡ができますから」
用紙とペンが差し出され、私は娘の名前を書き込みました。
「これはお嬢様の名前ですね」
笑顔で指摘され、私は慌てて「母・小夜子」と娘の名前の横に書き込みました。
惜しむらくは、娘の帰宅時間が近づいていて、ゆっくりとお話しすることができなかったこと。
「ごめんなさい。娘が帰ってくる時間になってしまったので、今日はこれでおいとまさせてください。初めてうかがったというのに、バタバタしてしまって大変失礼致しました。次回はぜひ、ゆっくりうかがわせてください」
「あ。もうお帰りですか─本は借りていかないんですか?」
「えっ、いいんですか?」
「どうぞ。一年生の女の子なら、あっちの本棚に入ってる本がいいかな…時間がないのなら、僕が選んでもいいですか?」
「お、お願いしますっ!」
さっと選んでくれた七冊は、
『こんとあき』
『きいろいばけつ』
『車のいろは空のいろ』
『雲のピアノ』
『ふしぎなかぎばあさん』
『ちいちゃんのかげおくり』
『マザーテレサのおねがい』
私は男の子の顔をじっと見つめてしまいました。
みのりはあまんきみこさんが大好きです。ミッション系の学校に通っているので、いきなりマザーテレサの本を読んでも、違和感をおぼえないことでしょう。
しかしなぜ、彼はみのりの情報を知ることなく、この七冊を不可分なく選んだのでしょうか。
「本の背表紙の裏にあるポケットからカードを出して、ここに置いていってください。これで手続きはおしまいです。期限を書き込むこともありません。来週までにみのりちゃんの箱を用意しておきますから、箱に入っているカードを借りていた本に戻して、返却手続きは完了です。次回からは同じ手順で本を借りていってください」
「ありがとうございます。来週、必ずうかがいます」
「ではお気をつけて」
私は大切な本を携え「こども図書館」を後にしようと扉に手をかけました。
「あら。かわいいわねぇ。見てくださいな」
見てくださいな、と声をかけられたのは私です。男の子のお母さんらしき婦人が、私にほほ笑みかけています。指先を、小さな女の子の方に向けて、私の注意をひきました。
「あのマフラー、かわいいわねぇ」
見れば、小さな女の子も帰り支度をしていて、いちごの柄のマフラーをお母さんから巻いてもらっているところでした。
「あら。かわいいですね」私もそれに和すと、女の子のお母さんもほほ笑み返してくれました。
「またお待ちしていますね」
「ありがとうございました」
それから本を抱えて走った走った──ギリギリセーフで娘をゲットし、三時過ぎに同じ道を帰ってくると、すでに「こども図書館」の看板は下げられていました。
魔法の家を訪れてしまったかのような、不思議な気持ちが今もしています。
でも、手元にある七冊の本と、男の子からもらった「会員証」が何より現実の証拠です。
そして、その日の四時頃、なんと私の携帯にメールが届きました。
「今日はいらしてくださり、ありがとうございました。
アドレス登録いたしました。どうぞよろしくお願いします。
新しい出会いに感謝」
来週、私は七冊の本を返しに、またあの家を訪れることでしょう。
春休み、娘を連れて、あの家の扉を開けてみたいと思います。

2月10日、ドラえもんおにぎりv

2月9日、とっとこハム太郎のキラキラおめめランチv
◆ 応援ありがとうございます!
次回更新は2月15日(月)です。
◆フリーページの方に新しい連載を始めました。
【Pi:e:ta】第二節をアップしております。
よろしければ、ぜひ一緒に歩いてあげてください。
先日も七歳の男の子が親の虐待によって命を落としました。
子供が苦難に遭うとき、当の本人は苦しみを苦しみとして受け止めていないことがままある─ヒロのことを思うとき、そんな印象を強く持ちます。食べ物を与えられないことを苦しむのではなく、「お腹がすいたなぁ」「お腹がすいたなぁ」と死んでいく子供。ぶたれて痛かったことを、自分は愛されていなかったのだと理解するのは大人になってから。大人になれば、恨んだり憎んだりすることが、生きるエネルギーにかわることもあるかもしれない。ただ、それまでは、自分がなぜこういうめに遭っているのかということすら、疑問に持たない─逆に言えば、かれらは子供だから疑問を感じない。疑問にできないくらい子供なのです。
キリシタンの嫌疑をかけられて殺された与一のことを調べていると、自然、江戸の禁教時代のキリシタン史に触れることになります。
あるキリシタンの五歳の少年は、二度と手を合わせて祈ることができないようにと、親の前で両手首を斧で切り落とされる拷問に遭いました。でも、その子は刑の後、血のしたたる両手を掲げて、「お花みたいできれい…」と言ってじっと眺めたそうです。
一番小さい十字架を見つけて「あれがぼくの十字架?」と確かめ、そうだという返事を聞くや、駆け寄って自分が磔にされる十字架を抱きしめたルドビコ茨木など、幼いキリシタンの話は美談として語り継がれていることも多く、どこまでが事実であるのか疑いを要するところではあります。また、信仰に裏打ちされた行動を、そのまま一般論に結び付けてはいけないのかもしれませんが、かれらの一連の情動を鑑みると、ひとつだけ思い至ることがあります。それは、幼い心を持つ者たちは、自分の身の上にふりかかった苦難を、苦難そのものとして感じていないことです。苦難の意味するところ、それに至る原因、そしてそれを回避する術──これらはいつも、かれらの考えの外に置かれています。
助けを求められない、否、助けを求めることを知らない子供たちだからこそ、誰かが守ってあげなければならない。しかし、もしそのとき誰も守ってくれなかったのならば、未来の私たちが今、かれらの思い出の中で一緒に歩いていくことは許されるでしょうか。
私たちがしなければならないこと。しなければならなかったこと。これからは私のライフワークとして、長く考えていきたいと思います。