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恭子
【恭子】
「ここのところに影が見えます」
医師のことばを遠くに聞きながら、河田隆平はずっと妻の顔を思
い浮かべていた。淡いブルーに塗られたパイプの手すり、病室の無
機的なベッドで眠る妻の顔は、20年間連れ添った、自分の知って
いる妻とは、どこか違うように見えてならなかった。
「このくらいの大きさなら、場合によっては自然に吸収されて消え
ることもありますし、とにかくもう少し様子を見ることにしまょう」
とりあえず大丈夫なのだろうか、ほっとしたというよりも残念に
近い、そんな不謹慎な気持ちを心の隅に感じながら、隆平は医師に
会釈をして診察室を出た。廊下では、ぱたぱたとあわただしくスリ
ッパの音をさせながら、看護婦が行き来する。所在なげにロビーの
いすで膝をゆすっている老人、やたら乳飲料の並んだ自動販売機、
受付の呼び出し、自動ドアが開くたびに聞こえる蝉の声。
足元にちいさく影を引きながら、隆平はクルマのドアを開けた。
いちだんと暑い空気がむっとこぼれる。立ったままキーをひねると、
一呼吸おいてエアコンがうなりだした。運転席に座り、熱くなった
ハンドルをやっと握り、ゆっくりと動き出す。ふたつ目の角を曲が
ったあたりで、室内は涼しくなった。
妻をうとましく思い始めたのは、いつのころからだろう。一緒に
いることが楽しくて仕方がなかったのは、ほんの1,2年だけだっ
た。地方の国立大学で知り合った妻は、賢くて美しく、お互いを理
解しあって一生を暮らせる理想的な伴侶であると、あの当時は疑い
すらもたなかった。
最初のつまづきは、タバコだった。喫煙の害をかたることが流行
りだしたころ、恭子は、あなたを愛しているからよ、と前置きをし
ながら、判事のように彼の喫煙を責めた。どこぞのタレントの強引
な理屈を受け売りして、吸えばたちどころに命を落とすかのような
口調で喫煙を責めた。正義を語るものに特有の使命感に燃えた冷酷
な目で彼を蔑み、彼女なりの「愛」で彼を包もうとした。
次は健康食品だった。ワープロで書かれたたくさんのビラをふり
かざし、彼が好んでいた食べ物の害を真剣な顔で語り、危険だから
とそれらを捨てた。いかにもまずそうな食品、能書きがなければ売
れそうにもない古くさいセンスの商品をどこからか買い求め、血が
きれいになるだの、身体の毒素が抜けるだのというおおげさな効能
を、熱に浮かれたように読み上げた。
その次は地球環境だっただろうか、それともボランティアだった
ろうか、とにかく恭子は、時代の最先端を行く「賢い主婦」に自分
をなぞらえようとして、必死であるように見えた。学生時代から論
の立つ彼女は、隆平の意見をことごとく論破し、議論に疲れた彼は、
いつしか恭子のことをほっておくようになってしまった。そして、
寂しさのためか、恭子はさらに激しく、いろいろな運動へと自分を
駆り立てていった。
その恭子が、倒れた。
子供に恵まれず二人きりで暮らしていた隆平は、着替えや身の回
りのものをスーツケースに詰め込み、恭子の入院する病院へ走った。
命に別状はなかったが、しかし、脳内のわずかな出血は、彼女の
人格に重大な障害を引き起こした。運動機能の軽い麻痺だけでなく、
精神的な退行をももたらしたのである。
●
「しゅうちゃーん、ね、せなか、かゆい・・」
もうすぐ48になる恭子の目に映る自分は、どうやら幼なじみの
誰かの姿であるらしい。あちこちに残る麻痺のせいで寝たきりの彼
女は、勤めを終えてやってくる隆平だけが話し相手だった。恭子は、
幼児言葉でいろいろと語りかけ、他愛もないことに喜び、あるいは
すねた。これがあの聡明で勝ち気な妻であるかと思うと、隆平は目
頭が熱くなった。
だが、最初の頃こそとまどったものの、無邪気な恭子の世話をす
ることは、彼にとって、まるで小さな子供を育てるような、ほっと
する息抜き、いや、生きがいにすらなりつつあった。隆平は、幼な
じみの「しゅうちゃん」として恭子に接し、ぼけてしまった彼女に
合わせて笑い、叱り、そして愛した。
●
「あ、あなた、わたし、いったいどうしたの?」
リハビリが進んだある日、一瞬だけ妻の意識が戻った。何か考え
込むようなしぐさを見せていた妻は、その一言だけはっきりした声
で言うと、やがて中空の一点を凝視して、また幼女にもどった。
医師の話によると、運動機能の回復につれて意識が戻るのはよく
あることらしい。このぶんでいくと完全に回復するのも夢ではない、
彼は明るい声でそう言った。
「しゅうちゃーん、どうしたの? へんなかおしてぇ」
一瞬だけ見えて消えてしまった妻の表情を求めて、隆平は恭子の
顔を必死でみつめていた。治癒の見込みが立って嬉しいはずなのに、
心のどこかになにか、ひっかかるものを感じた。このままいつまで
もぼけた妻の世話をしていくことは、もう限界に近かったはずなの
に、なぜか、あまり喜べなかった。
●
「はい、これ、しゅうちゃんのぶんね」
恭子は、ペアになっているペンダントのキーのほうを自分がとる
と、ハートのほうを、隆平に渡した。隆平がそれを首から下げると、
それはそれは嬉しそうな顔をして微笑み、満足そうに眠りについた。
48歳の誕生日、漫画雑誌の裏表紙の広告の商品だった。
●
妻の意識はときどき戻り、次第にその間隔が小さくなってきた。
友人たちがぽつりぽつりと訪れるようになり、記憶の回復に拍車が
かかった。もう、あのあどけない恭子の表情は、眠っている時にす
らあまり見られなくなってきた。隆平は、これからもまた、いさか
いの絶えない生活が始まるのかと思うと、少し気が重かった。
3ヶ月の入院期間が過ぎ去り、MRIの検査の結果も良好で、妻
は家に戻ってきた。妻は、隆平が心配したように、何から何まで元
通りになった。何かにせかされるように活発に動き回り、ボランテ
ィアに市民運動にと、熱心に活動していた。
●
冬の近くなってきたある日、夏物の服や布団を片づけていた恭子
は、小さな箱に入ったペンダントを見つけた。それは小さな鍵の形
をしていて、何か、とっても懐かしいような気がした。
そっとつけてみた。胸の奥がきゅんとなった。
何か、とっても大切なことを忘れていたような、そんな気持ちに
なった。
「ただいま」
隆平が帰ってきた。典型的なサラリーマン、学生時代のあの輝き
はいつしか失せ、かつては蔑んでいた日和見主義の「おとな」に成
り下がったしぼりかすのような男、心の底でいつも小馬鹿にしてい
た夫が、いつもの通り帰ってきた。
ごそごそと靴を脱ぎ、上着を脱ぐとネクタイをはずし、風呂場へ
入っていった。がさがさと衣擦れの音、やがてざざっと水音がして
静かになり、いつもの鼻歌。恭子は、食事の準備をしたテーブルで、
ぼぅっとしていた。
風呂からあがってきた夫を見て、恭子の目が釘付けになった。ざ
っくりしたセーターの胸元にのぞく安っぽい鎖、そういえばいつも
つけている。
不安そうな顔でつかつかと歩み寄る恭子をいぶかしげに見る隆平、
かまわず恭子は、鎖をそっと引っ張った。メッキがはげてくすんだ
ハートが出てきた。ハートには、鍵の形の切り欠きがあった。
震える手で、恭子は自分のペンダントの鍵を当ててみた。鍵は、
ぴったりとハートに食い込んだ。
不意に、涙がこぼれた。
心の奥のどこかで、何かが恭子をゆさぶっていた。いつまでもペ
ンダントを握って震えている妻に、隆平はなにか言おうとした。そ
の言葉をさえぎるように、恭子はちいさく叫んだ。心の奥の知らな
いところからやってきた声だった。
「しゅ・・う・・ちゃん!!!!」
何か言おうとする夫の首に手を回し、恭子は、目に涙をいっぱい
浮かべたまま、おもいっきりキスをした。
背中に回った手が、恭子を、なだめるように撫でていた。
(了)
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