FUNKTOWN  J.T.

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MY DISCO 1981 

■ MY DISCO STYLE 1981 ■

1981年・・・この年はサーファーディスコが最も一般的になった年だった。
猫も杓子も六本木で踊り明かすのが当たり前になった半面、当初の洗練された雰囲気は薄れていった。
そうは言っても、やはり全盛期は全盛期。
スクエアビル を中心に、どの箱も満員御礼。
曲はシャラマーやウィスパーズ等のソーラーレーベルを中心とした、口ずさみやすいファンクが流れている。
あとはリックジェイムス、BBQバンド、シェリルリンにカメオ。
今のダンクラシーンでヘビーな曲は、ほとんどこの頃の曲といっても過言ではない。
それだけ、日本人の心に響く名曲が多かったという証だ。
そうそうモダンロマンスやヘアカット100を忘れちゃいけませんね。
今ではあんまり聴かなくなったが・・・

STUDIO2MAGGIE

私自身のライフスタイルは、1年間の浪人生活を終え「花の大学生活!」と思いきや、意外な展開になった。
自分が入学した大学は男女共学で、文学部があった関係で女子学生の比率も高く、場所も渋谷だったので非常に華やかであった。
そこまでは期待どおりであったが、当時流行の冬はスキー・夏はテニスにサーフィンみたいな「○○同好会」の勧誘に追っかけられて、ちょっと顔出すと、どこもかしこも二次会はディスコ、ディスコと大騒ぎする。
サークル全員で行くから人数にして30人~40人の束でスクエアビルに行く。
でもなんか違う。
つきあいでいっしょに行っても、踊りはとにかくヘタクソだし、ただひたすら騒いでるだけ。
踊り方もニワトリ踊り「ジゴロ」に代表されるようなサーファーダンスがいくつかあったが、ワンパターンで同じ踊りが延々続き、決して踊っていて楽しいとは言えなくなった。
選曲もツナギ重視だったためか 似たような曲が延々にかかり 退屈極まりなかった。
そんなわけで、ちまたではサーファーディスコ全盛期として、どこに行っても芋洗いで大盛り上がりであったが、ディスコの黄金時代を体験してきた自分にとっては「今さらディスコ?」と心のどこかで冷めていた。
それだけ、なんかディスコへ行くことのステイタスが消えたというか 「踊りが上手い=女にもてる」って図式が消えた ことで、往年の楽しさがなくなってしまった。

1981-1

ディスコに行くだけじゃ飽き足らなくなったので、仲間とディスコで金儲けしようって話になった。
具体的には 大学祭ディスコの出前
自分は高校3年から大学祭ディスコビジネスのスタッフだったので、ノウハウはバッチリで話は早かった。
まずは、使い回しが利くようにミラーボール・パトランプ・可変式ストロボ等の照明一式とマイクやミキサー等DJ機材一式と壁に貼る銀紙を買い揃えた。(オーディオ一式は高くて保管場所もないので自前)
あとは知人や知人のツテを伝って、その人に紹介料と売上マージンを支払うことで名義を借り、 自分の大学以外の人気大学の大学祭にディスコを出店 した。
さらに踊りが上手い高校生・大学生を集めてきてダンシングチームを結成した。
その目的は出前ディスコの設営+前売券販売+当日のサクラ。
その「サクラ」がミソで、ダンスフロアが閑散としていても、「サクラ」が踊ればダンスフロアが賑わう。
ダンスフロアが賑わっていると、客が客を呼んでさらに盛り上がる。
その必勝パターンで、早稲田・学習院・東大・日大・跡見・國學院等、毎週どこかの学園祭にディスコを出店し、全部で300万円近い純利益を稼ぎ出して幹部3人で山分けした。
もうひとつの柱はダンパで、ディスコを貸切って200人程度集客したら70万円ぐらい稼げた。
このように、ディスコイベントビジネスは「楽しくて儲かる」ので病みつきになったが、一方では「友達を利用して自分だけいい思いをしている」と批判され、多くの仲間を失った。

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