FUNKTOWN  J.T.

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MY DISCO 1982 

■ MY DISCO STYLE 1982 ■

爆発的なサーファーディスコブームで、どのディスコも熱気むんむんだった1981年も終わり、いよいよ激動の1982年に突入した。
トピックはなんといっても、あの「キサナ」が閉店し、新たに 伝説のディスコ「ナバーナ」がオープン したことだ。
この店のユニークなところは、日替わりで女子大生がタダになるところ。
これは、集客が悪くなる平日の埋め合わせをする店側の工夫だったが、これが見事に的中。
ナンパ目当てのオトコが、お近づきになりたい女子大の無料デイを選んで来場するようになり、瞬く間に六本木一の人気ディスコになった。

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一方、自分のディスコイベントビジネスは頭打ちになった。
学園祭ディスコはコネ作りと下準備がけっこう大変だったし、ダンパの集客も口コミ頼りで骨が折れる。
それに、どっちともやればやるほど「金儲けにに利用された」として、後々人間関係が悪くなる。
口コミ以外に なんとかまとまった客をノーリスクで獲得できないか?
ということで、折からのスキーブームに目をつけ志賀高原のホテルでシーズン中バイトで働くことにした。
そうすれば、スキーも楽しめかつホテルの客と大量に知り合えて、ディスコビジネスの集客に結びつくだろう。
でも、その読みは見事にはずれて、早朝5時起きで朝飯の配膳、昼はレストランでホール、つかの間の休憩をはさんで、すぐ夕食の配膳。それが終わればホテル併設のディスコの店員。営業終了は午前1時。
つかの間の休憩といっても2時間弱。
スキーやる時間も、ナンパする時間もない。

しかし劇的なメリットがあった。
ある日、そのホテルのレストランに大量の女の子を引率してきたやつがいた。
「なんだ、あの集団は?」
さっそくホテルの従業員の特権を生かし、その引率者に話をしてみた。
すると、それはその頃めちゃくちゃ人気のあった、 学生ツアー のスタッフ(添乗員)だったのだ。
「MERRY LOO」というツアーの名前だった。
それでスキーシーズンの途中でホテルのバイトをやめ、その年の春には自分自身がそこのスタッフになっていたのは言うまでもない。

そして1982年夏に、サーファーブームの究極を行くイベントが組まれた。
それは 「与論島往復 船貸切りツアー」
当時「関東学生ツアー連盟・通称関ツー連」という団体があった。
最大手「ナッツベリー」を筆頭ににした学生ツアーの集合体だ。
この関ツー連と東海汽船が提携して「波之上丸」という船を全て学生だけで貸切ってツアーを組むというもの。
これがすごかった。
女子大生・女子高生 約1000人、スタッフは20人程度。
つまりスタッフ一人に対し約50人のメイト(ツアー客:女の子)という割合だから美味しいこと極まりない。
片道2日かかる旅程では、船上ディスコ、JUNONやFINEと提携してのファッションショー等が繰り広げられ、朝まで寝ずに盛り上がったものだ。

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ツアーが終わればメイトはお目当てのスタッフに付くので、知り合ったメイトをそのままディスコイベントに流し込んで、目論みどおりのビジネスモデルができた。
さらにこの メイトのアタマ数を最大限に活用 し、テレビ局にキャスティングやエキストラとして送り込んだり雑誌の素人モデルを斡旋したりと、女子大生や女子高生の顔が札束に見えたもんだった。

夏が過ぎると、ディスコ曲にも変化があった。
長年のウエストコースト風ファンクが飽きられ、 ボーイズタウンギャングの「君の瞳に恋してる」の大ヒット によって、往年のミュンヘンサウンドが復活した。
あとはDo You Wanna FunkにLet’s Get Started・・・
なお、当時はミュンヘンサウンドとは言わず、ボーイズタウンディスコと呼ばれていた。
それと同時にニューウェイブやロックがかかるようになった。
ヒューマンリーグ、ABC、YAZZにトンプソンツインズ・・・
しかしこの頃からディスコ自体が往年の輝きを失い、遊びの多様化により平日は閑古鳥が鳴くようになった。
平日・休日問わず連日連夜芋洗い状態だったディスコブームは、過去のモノとなった。
私のディスコ通いも、この年でジ・エンドだった。

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