外資系経理マンのページ

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北京出発


中国の列車は硬座、硬臥、軟座、軟臥の四種類があり、当時の中国だと改革開放も緒についたところで、軟座とか軟臥に席を取るのは外国人か、共産党の高級幹部か、それこそ一部の特権階級。一般の庶民は硬い椅子。日本のB寝台に似たベットでもあるが、多くの人は固い座席で何昼夜も過ごす。したがって、乗り込む前に、足を伸ばして仮眠をとっておこうというわけだ。むろん、寝ている人ばかりではない。ひまわりの種とかを、食べながら、ひたすらおしゃべりをしているものもいる。

広場に座り込んでいる人々の合間をぬって、国際列車乗客用の待合室を通り抜けて、ホームまで行く。その風景はあまりに薄暗く、よくみえなかったが、何人かが座っていたような気配はあった。売店もあったが、店員はみえず、ショーケースには白い布切れがかけられ、開店休業状態であった。

北京駅の一番ホームは、この1983年当時、国賓もしくは幹部クラスか、私が乗ろうとしている国際列車しか、利用されていなかった。国際列車は、満州里経由、モンゴル経由のモスクワ行きと平壌行きがあるだけで、ハノイ行きの国際列車も、中越紛争の経緯もあり、運休状態であった。そして、このモスクワ行き国際列車が外国人に開放されたのが、ちょうどこの年だった。ただし、全車両がモスクワにいくわけではなく、中ソ国境の町、満州里までの車両も連結され、週に一度だけ、一番線に入線する。それ以外は別のホーム。さらには途中、北朝鮮からは平壌発モスクワ行きも連結される。

列車には、ロシア人の車掌がドアのステップのところで、出迎えてくれた。満州里経由の列車編成はロシア車両の運用。ちなみに、あともう一本、モンゴル経由のモスクワ行きは中国の車両がモスクワまで行く。このモンゴル経由のほうは、あさ早く北京駅を出発するが、北京駅をでて直後、車窓からみえる万里の長城は絶景らいしい。満州里経由は、長春、ハルピンといった、都市をとおって、中ソ国境をめざす。車中三泊で、まずは目的地のイルクーツクをめざすことになる。

ロシア人車掌は、口ひげを、はやし、多少垂れ目で愛嬌あるキャラクターで、任天堂のゲームキャラであるスーパーマリオに似ていたような趣をかんじさせた。そんな彼がイルクーツクまで我々の面倒をみてくれる。お茶をたのめば、お茶を、そう、ロシアンテイーを入れてもってきてくれる。

団体旅行ではなかったが、日本人客はひとつの車両、コンパートメントに集められていた。同じコンパートメントになったのは、イギリスに行くという、私と同年代の男性、Hさんだった。あと、大学生3人組、OLという組み合わせであった。

コンパートメントは2段式で、ベットの上には白いシーツ、まくらが置いてある。窓のスクリーン式ブラインドは夜のために下げられていた。窓際のテーブルにはレースの敷物がかけてあり、その上に一輪挿しの花瓶がおいてあったが、なぜか、花は入っていなかった。

車掌の詰め所の脇には、ロシアでは有名なサモワールが備え付けられていて、常に熱い熱湯がとれるようになっていた。

気が付くと、列車はゆっくりと北京駅を離れだしていた。ブラインドをあげ、窓も少しだけあけてみる。ゴットン、ゴットンとゆっくり、17両にもおよぶ巨大編成の列車がゆっくりと、北京の空気をわずかにあいた窓から、コンパートメントに取り込みながら、進みはじめた。

9000キロの旅のはじまりであった。


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