ことば 0
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私が本を買うか買わないかは、この「最初の数ページ」で決まるということは、前にも何度か書いたかと思う。書き出しがすべてとは思わないし、そこで作品の価値がわかるとも思わない。でも少なくとも、作品と自分との相性の良し悪しは、多くの場合、この数ページで占うことができると思っている。世界に認められたムラカミハルキ。評判を報じるニュースやたくさんの書評に接し、「一冊くらいは読んでおかないと」といつも思っていた。「村上春樹ってどうよ?」と問われても、読んでいないと持論も展開できない。食わず嫌いは自分の世界を狭くするもと。だから、いつも手にとってはみていた。けれど、その「2~3ページ」で吸い込まれるように作品に入れたためしがなく、「そのまま書棚に戻す」が常だった。新作発売日の4月11日。その朝、私は大手町の丸善の前でたまたま人と待ち合わせていた。丸善の入り口の前には、新刊本が特別に陳列されている。発売仕立ての本をとって、私はいつものようにページをめくった。初めて、読めそうな気がした。このさきどうなるのか、「多崎つくる」という人物とその人生に興味がわいた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私が最初の数ページを読んで「その先が知りたい」と思ったわけの一番大きな理由はおそらく「親友だ、友だちだ、先生だ、と心から信頼していた人からある日突然無視されるようになった経験」を私自身が何度も経験しているからだと思う。なぜK先生は私を叱ったのか。なぜTさんは、みんなに「あの子としゃべったらダメ」と言ったのか。なぜFさんは、「用もないのに電話してこないで」と言ったのか。なぜSさんは、1週間学校を休んで出てきた途端、突然私を避け、無視し続けたのか。なぜYさんは、文通をやめ、貸した本も返してくれず、そして「ねえ」と叫ぶ私を振り返ってニヤリと笑ったのか。私の、何が気に食わなかったの?何か、いけないことを言ったり、やったりした?「自分で考えなさい」とK先生は言った。考えても考えてもわからない。だからおしえて!・・・・・・小学校3年生の私に、そう言い返すことはできなかった。わからないまま関係を切られ、その理由を知れないまま、その理由を聞いても答えてくれないという経験は、何重にも巻かれた包帯の下で、癒えることなく熱を持ち、何十年たっても疼き続ける。それらの人とは、もうほとんどが音信不通だし、連絡をとれる人にだって、「あれはなぜ?」と蒸し返そうとは思わない。今さらその「理由」に触れてどうなるのだ。今、この文章を書きながらだって、私の胸はズキズキと痛みを発する。いつもは忘れているその「痛み」を思い出させた一冊だったから、私は多崎つくるの物語を買った。この先私がその「理由」を探る「巡礼」の旅に出ることはない。でも、代わりに多崎つくるの「巡礼」を見届けたい。そうすれば、私にも、新たな地平が見えてくるのかもしれないから……。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ということで、めでたく読了。ムラカミハルキ本、初の読了です。以下、ハルキ本チョー初心者のレビュー。ご笑納ください。ネタバレありです。ご注意のほど。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うーん、どうなんだ? この消化不良。ハルキ本って最後まで読んだことないんだけど、こういう、オチのないのがフツーなの?たしかに、この物語は「事実がどうか」はまったくどうでもよくて、「心の持ちよう」っていうか「自分はどう考えるかで人生は決まる」みたいな話。そういう作風なのでしょうか。これだけ読んでハルキさんを論じるのは失礼なのでわかりません。でも、なにこの理由にならないもっともらしい理由づけ?文中のセリフじゃないけど、そこまで「つくるはそんなことするわけがない」と思っているなら、少なくとも一度くらいコンタクトとれよ!のけものにした方がこういう言い訳するのはままあるだろうけど、3人が3人とも同じような言い訳するところも、逆に信憑性がなかった。きっと何かある。それは何なのか?本当はどうだったのか。連絡とれないほどパニくってた状況などをおしえてくれ~!そういう気持ちでページをめくる。めくってもめくっても、そんなものは全然現れない。とうとう最後まで、この気持ちの着地点は見いだせないままだった。つくるをのけものにしたのは、ほんとにこんな理由だったんだろうか。これだったら、「名前に色の漢字がついていないから(スケープゴートに選んだ)」っていうふうなオチのほうが、ずっと感情移入できたと思う。つくるのほうも「色のない自分の漢字」にそれとなくコンプレックスを感じていたわけだから、それ以来色の漢字が名前についている人は自分から去っていくと思い込み、だから灰田青年に去られてもなんとなく納得していられたが、今度は名前に色がついていない沙羅にも去られそうで、コワくてコワくてしかたないっていうそういう話として書いてくれたら、もっと世の中の理不尽さがリアルになったと思いました。それにしても…。登場する女性に、人間味が感じられないな~。イロケもないな~。人物描写が記号のように簡素化されて、登場人物の誰一人からもねっとりと汗を感じないところ、にじりよるような生命力を感じないところが私としては作品に没頭できないところなのかもしれません。男も女も、名前に「色」がついているわりに、みな個性がないというか。生き方はいろいろ違うのに、喋り方はみな同じ。そして一番気になったこと。レイプされて妊娠して流産して、その罪をまったく無実の人になすりつけて、その前後から精神を病んでいて被害妄想で、回復した後、殺されてしまうものすごい数奇な運命の女性シロについて、あまりにも最後まで淡々と描写している。ていうか、描写してない。つくるにも読者にもこれだけの情報しか与えられないのに、つくるは彼女が自分を陥れた理由が「わかる」という。その理由が、あまりにも「アタマで考えただけ」なのが気になる。つくるが「わかる」というその理由を聞いて「なるほど」って思った読者、いるのかな?このとってつけたような「理由」で読者納得する、と村上さん本気で思ったのか?ていうか、つくるは犯罪をなすりつけられているのに、「今ならわかる」っていう結論自体がちょっと……。「わかる」っていったって、「死人に口なし」でまったく事実が判然としない。彼女の代わりにそのいきさつを語ってくれる人もいないし。アオ、アカ。クロのとことに行きながら、シロのところ(周辺)に行かなかったんじゃ、ほんとの意味での巡礼にならないではないか。もう一歩突っ込んで言わせてもらえば、クロに会ったあとのチャプター「18」(P331)くらいから、この物語は破たんしていると思う。冒頭で蒔いた種を、最後きっちり刈り取ろうという気が作者にない。つくるくんは、アツくならない人っていう設定で、だから「そんなもんか~」ということでいいのかな~。でも、せめて沙羅という女性と会って最後どうなるかは書いてほしかったな。ここまで読者の興味おきざりっていう展開を「そこは想像してください」っていう部類のものと考えられるかどうか、ですな。沙羅はなんで自分のことを話したがらなかったのか、そこもナゾ。人の過去にはこれだけ踏み込んできて、「私とあなたの間にソレがある限りセックスできない」とか言っておいて、自分のことを聞かれても、「私のことはいいから」とか、フツーじゃない。セックスしてるけど、つくるは沙羅のことを求めているけれど、でもこれは恋人じゃなくて、一種のメンターと弟子の関係でしかない気がする。あ!沙羅は精神科医かカウンセラーなのか?そう考えるとしっくりくるな~。でも、それは私が読みたかった物語じゃないな。生活のなかで、出会ったふつうの人との中で、自分の暗部と向き合い、あるいは自分のよさを確信し、歩いていけるような話が好きなのかもしれない。「あなたは昔から魅力的だから自信をもって」と言われて「そうかな~。そうなのかも。でも、名前には色がついてないし…」みたいなつくるくん。巡礼した割には、何も変わってないように思います。*参考amazonのレビューが本作より話題になっているのをご存じですか?ドリーさんのレビュー「参考になった」が2万を超えてます。そのレビューに対するコメントが数百って、尋常じゃない。
2013.05.10
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【送料無料】エルナニここのところ、読書三昧。今日はそのうち、外国文学関連のものを。以前「鶴屋南北とユゴーには共通点がある」と思いつき、、「エルナニ」読んだのがきっかけで、「クロムウェル序文」にも手を伸ばすこととなりました。私はフランス文学を専攻していたのですが、ここでおそわったもので「仏文学史」と「演劇史」がめちゃくちゃ面白かった。ここで、たくさんの古典の「さわり」を知ったことは、今の私にものすごくプラスになっていると思っています。その中で「ヴィクトル・ユゴー」といえば「エルナニ事件」と「クロムウェル序文」がとっても有名な事象として出てくるので、「名前」は知っていたのですが、私は大学卒業して30年、この「エルナニ」も「クロムウェル序文」もどちらも作品をきちんと読んだことがありませんでした。今回読んでみて、「エルナニ」は、戯曲全体としては古色蒼然というか、今の時代にこれをこのままやってもまったく受けないだろうと思いつつ、場面場面ではけっこうぐっとくるところがあって、そういうのは、ユゴーの筆力というか、詩的な文体とエネルギーの賜物だと思った。この作品は、戯曲として完成度が高いとか低いではなく、それまでの演劇のお約束をどんどん破っていったことへの評価なんだと思う。今見ればまったく当たり前のことを彼はこれでやった。今まで女は馬に乗ってはいけないと言われたのに初めて乗った、とか、くるぶしを見せるのもいけないといわれていたのに膝を出したとか、その類のものだと思う。じゃあ、ユゴーはどうしてそんな「掟破り」をやったのか。それが書いてあるのが「クロムウェル序文」。【送料無料】ヴィクトル・ユゴ-文学館(第10巻)これは名文!戯曲「クロムウェル」は全幕で6時間半くらいかかるという代物で、まったく上演に向いてなかったらしいが、この序文は長く生き残った。残っただけのことはある。名調子にして理路整然、この序文を読んでから演劇史を習ったら、全部わかる、みたいな感じです。面白いのは「先人はちゃんと約束事を守って名作を作っているじゃないか」という声に対し、「鬼才たちは、 あんな約束事から自由だったら、もっと傑作を書いていた」と断言しているところ。以前も書いたけど、「三一致の法則」というのがあって、それは時の一致、場所の一致、筋の一致なんだけど、とにかく24時間以内、同じ場所っていうのはムリってはっきり書いてある。「ラシーヌもコルネイユも、場所が一つじゃなかったら、 その事件を報告する場面じゃなくて、臨場感あふれる事件現場を芝居にしてた!」「僕たちもそういうのが見たかったよ!」って。ものすごく共感することが書いてあります。でもそうした法則がおかしいっていうんじゃなくて、ギリシャ時代にはそれがよかったけど、そのまま金科玉条のように18世紀にもってきたってダメ。今の時代に合った形に変化していく「自由」を認めろってことなの。抒情詩のギリシャ演劇、叙事詩のホメロスを経て、今はドラマを描かなければならない、という一種の唯物史観的な演劇進化論を若き日のユゴーは情熱的に訴え続けます。古典をリスペクトしながらも、「そのままなぞる=コピーする」だけでは芸術にはならない、と。「言葉は変化するもの。変化しないものは死んでるのと同じ。 だから、今のフランス演劇は死んでいる」すごくわかりやすい。演劇が好きな人、シェイクスピアが好きな人、フランス文学が好きな人は必読です。
2011.08.21
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「うちの庭で測ると、今も2.4(μSv/時)くらいはあるんですよ」7月23日、紀伊国屋ホールでの舞台「アセンション日本」のアフタートークでそんなふうにおっしゃっていた佐藤栄佐久元福島県知事。【送料無料】福島原発の真実価格:777円(税込、送料別)この本は、佐藤氏が3月11日に、自宅で震災にあったところから始まる。慌てて飛び出した庭先で、道行くひとから「避難所はどっちですかっ?」と聞かれて学校をおしえたが、数分後に戻ってきて「ガラスがひどくて入れないと言われた。元知事なのに、避難所もわからないのか!」と叱咤された、とか、けっこう生々しい描写が続く。在任中、ずっと「原発の安全性担保」のために闘ってきた佐藤氏でさえ、この大きな揺れの直後に「原発は大丈夫か?」とは思い至らなかったという衝撃的な一文もある。この本を全部読みなおしてから、改めてこの一文を思い起こすと、ああ、人間というのは、いかに日常に流され、慣れてしまう動物なのか、思い知る。ウソでも100回言われれば、ホントに思えてくる、という話もある。私たちは「原発は安全」を連呼されてホントと思い込み、疑問をもっても原発が存在し続ける毎日に慣れさせられてきた。チェルノブイリがあって、20年経って急にフクシマがあるのではない。この20年、原子力発電所でいかにたくさんの事故や不手際があり、それがいかに隠ぺいされ、教訓として生かされず、今回の事故にまでなってしまったのかがわかる本である。こんなに頑張っていた福島県なのに、どうして、犠牲になってしまったのか。引き返すポイントは、いくらでもあったのに。原子力安全・保安院と政府との関係とか、東電本店と現場の関係とか、電力会社と下請けとの関係とか、今、私たちがこの目で目撃していることと繰り返し闘ってきた人の記録である。「今」読むと、よくわかる。そういうことなのだと思う。この中で「日本病」という言葉が出てくる。「責任者の顔が見えず、誰も責任をとらない日本社会の中で、 お互いの顔を見合せながら、 レミング(*)のように破局に向かって全力で走っていく、という決意でも 固めているように私には見える。 大義も勝ち目もない戦争で、最後の破局、そして敗戦を私たちが迎えてから まだ70年たっていない。」今、なかなか「国か動かない」ことにいら立っている人は多い。「国」と対峙するということが、いかなるものか、そのシミュレーションとして読むというのもあるだろう。福島第一原発3号機にプルサーマルがあるのかないのか、そういう噂が立つ要因もまた、これを読むとわかってくる。議会での「福島ではプルサーマルはやらない」という宣言を作りながら、佐藤氏の失脚後にはその「宣言」も反故にされた経緯など、まさに「破局に向かって全力で走っていく」日本の脆弱な民主主義が透けてみえてくる。なぜ同じ敷地に「1号、2号、3号、…5号、6号」と原発が並ぶのか。「原発」という甘い囁きに手を出した地方都市が「原発」を作り続けなければ財政を維持できなくなるようなしくみについても、この本は語っている。アフタートークでも佐藤氏は言っていた。「原発はきっかり30年、地域を栄えさせる。しかし産業は育たない。 そして原発をもってくれさえすれば、という考え方に陥らせる。 そしてすべての負の遺産は、次の世代にツケまわされる。 世代をまたがって豊かさを享受することは不可能だ」まるで麻薬か覚せい剤のように、禁断症状が表れて、「もっと原発を!」と叫ばなければならなくなる、というのだ。ここまで尽大な被害にあって、その被害もまだ収束の目途が立たない。だからこそ、今度こそ、失敗しないために。私たちはこの本から何を得ることができるのか。それは、読む人、それぞれに課せられた命題でもある。(*)レミング=野ネズミの一種。 大量増殖、大量減少、群れをなしての集団移動という習性から、 群れをなして海に飛び込むなどの集団自殺をする動物と思われていた。
2011.07.27
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この前大阪に行ったときは、国立劇場の前の古本屋さんで6冊買ってしまいました。1冊100円の文庫・新書が3冊と、けっこうなお値段のハードカバーを3冊。そのうち4冊は読破。今5冊目です。もうすぐ最後の一冊に手が届く・・・というときに、奈良で、またまた買ってしまいました。今回は、1冊200円が8冊で1600円とお値打ちなんですが、…重いんですよ。全集なんで。結局、宅急便で送りました(汗)。もちろん、ほかの荷物も一緒に詰めましたけど(笑)。それを含めても1冊あたり400円にしかならないよ~!「歌舞伎十八番」「近松浄瑠璃集」(上下)「曽我物語」「西鶴集」(下のみで上はなかった)「方丈記・徒然草」「歌舞伎脚本集」(上下)方丈記は、今読むべき本、と聞いたので、またじっくり読みたくなり、思わず。あとは、なかなかお目にかからないものなので、思わず(笑)。いずれも、昭和30年前半配本の日本古典文學大系(岩波書店)です。この時代に1冊450円~1000円って、すごいな~。さて、これは読み終わるのか??とりあえず、方丈記→曽我物語は読んでみよう。
2011.05.05
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【送料無料】團十郎の歌舞伎案内昨日は病気と向き合う團十郎さんの本を紹介しました。こちらは、彼が高校まで通った青山学院の大学で行った授業のまとめです。團十郎さんの言葉は大変明快ですが、この本は学生向けの講話スタイルになっているので、さらに読みやすい。読みやすいが、中身は非常に濃い。市川宗家のこと、代々の團十郎のこと、歌舞伎十八番のこと、「日本の芝居」の歴史のことが知りたかったら、この本を読めばいい、っていうくらい、とっても中身が詰まった1冊です。團十郎さんという人が、いかに頭がよく、勉強熱心研究熱心で探究心が強いか。俳優としてだけでなく、演出家として、作劇家として、不断の努力をしていることが、この1冊でわかります。お芝居が好きな人は、ぜひ手にとってみてください。いろいろな発見がある楽しい本です。
2011.02.27
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【送料無料】團十郎復活私は難病ものが苦手である。当時者にその気がなくても、どうしたって「同情」路線か「感動」路線かのどちらかになってしまいがちだ。病気であったり障害であったり、何かしらハンディを負って生きる人を語るとき、「かわいそうねえ、お気の毒ねえ」という対岸の火事的憐れみでもなく「勇気をありがとう!」的な無責任な楽観主義でもなく、どうしたら当事者の真実を語れるものなのか。市川團十郎という人は、白血病という病を得、闘病し、復活し、再発し、またまた復活し、今に至る。しかし彼の最近の活躍ぶりを見ると、そのことを忘れてしまいそうだ。今回この「團十郎復活」という本を読んで、彼がいかに大変な道のりを歩いてきたかを思い知るとともに、その道を淡々と、客観的に、だが自分のこととして、しっかりと描ききっているその筆致に本当に感服した。白血病という病とその治療法をひもといた本としても秀逸。闘病記としても一流。そして、その病とともに生きる舞台人としての覚悟と発見の日々があますところなく披露されている。病してますます芸が、徳が、深くなる。生きるとは何か、死ぬとは何か、生きがいのある人生とは何か。そこに哲学がある。読む価値のある本だと思った。
2011.02.26
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シアタートラムで上演中の「現代能楽集」では、パンフレットのようなものはなく、見開きの、ほとんどフライヤー的代物がほんとのフライヤーと一緒に席に置いてある。けれど別売りの「SPT07」(=Setagaya Public Theatre・最新号)は、「古典のアップデート」という特集を組んでいて、今回の公演の演出をした倉持裕、監修をした野村萬斎をはじめ、多くの演劇人の「古典」あるいは「現代における古典」について意義深い話が満載である。特に美輪明宏の語る三島作品の演出プランは、その意図の明確さと教養の深さにノックアウトである。また、倉持裕の言葉も非常にフランクで、「ストーリーはシンプルのほうがいい」「演劇は自由」という二つの言葉は、「古典」に身構えてしまいがちな現代人へのよき提言であるとともに自身の戯曲の可能性の再認識であり、さらに現代日本の演劇への警鐘にもなっていている。ほかにもいろいろ。1000円は安すぎる。聞けば1年に1度出しているという。バックナンバーもロビーで売っていたが、手に取るとどれも面白そうで、とうとう5冊も買ってしまった。おかげでただでさえ重い荷物がさらに重くなり、「もうあと藁の1本も増えたら倒れそう」と思いつつ帰途についた。紙って、重い。でも、紙で見られるって、素晴らしい。
2010.11.18
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塩の街ある日突然、東京湾に突き刺さった塩の隕石。あっという間に広がる「塩害」で、人は「塩の柱」になってしまう…。そんな荒唐無稽な設定でありながら、中身はまっすぐに恋をみつめるウブな男たち女たちの、純なラブストーリー。そして「この世の終わりが見えたとき、 人は他人を押しのけても生きることができるか」という命題を、とっても真摯に提示している。今やライトノベルの大家の1人、有川浩がデビュー時に書いた作品。非常に完成度が高い。伏線の張り方、魅力的かつミステリアスな登場人物の造形、語り手の視点を変えながら綴る手法がアマチュアっぽいのに効果的。穏やかな時間と急展開による緊張が作るリズムは、ぐいぐいと読者をつかんで離さない。そして、ありえない話なのに、リアル。これ、素晴らしい。オムニバス的に短編が連なって、一つの作品が仕上がっている。中高生から大人まで、幅広い年齢におススメです。
2010.09.28
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友達/棒になった男安部公房といえば、「棒になった男」「砂の女」「箱男」。タイトルだけで奇妙奇天烈。若くてとんがっていると、読んでみたくなる。でも、読んでもいっこうにわからない、というのが安部公房。私もむかーし、いろいろ読んだが、「どんな話だったか」と聞かれても、ぼーっとした心象風景だけが、1枚の古ぼけた写真のように思い出されるだけだ。「棒になった男」は、教科書で読んだ。高いビルから下を覗き込むような映像だけが脳裏に残っている。ほかはきれいさっぱり記憶からすり抜けている。「どんな話だったっけ?」息子によれば、「人が棒になって落ちてきたところに男と女がやってきて、 この棒は有罪か無罪かって話が始まるんだよ」え?そんな話だったっかしら??そんな話だったかよりも、私はほんとに何も覚えてない自分に愕然とした。それで再読してみた。再読してまた驚く。すごくわかりやすくて面白い話じゃないか!なんで、これがわからなかったんだ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上から落ちてきた人が、「棒」で現されている。そこに、「地獄」から派遣されたような男女が来て、その「棒」の「形状」について観察し、総括する。「どんな棒か」=「どんな人生だったか」人間、死んだら生きた人生のような「もの」になる、という想定だ。つまり「棒になった」時点で、その人間は「道具扱い」された人生だった、と。それも、すりきれてたり、あちこちけずられてたり、などなど、いい扱いはされてなかった。そこに、人を人とも思わない社会への批判がある。一方で、その「落ちてきた棒」に無関心な若い男女も描かれている。(今の人、フーテンって言われて、どんな風体かわかるかな?)人の命を命とも思わない風潮への皮肉もある。ただ1人、「棒」を「人間」として見て、ビルの上からそのゆくえを追う人がいる。「棒になった男」の小学生の息子だ。父親の「飛び降り」を、目撃した小学生の息子の心中は…。そして、どぶのような、汚い側溝に落ちて息絶える「棒」の思いは…。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中学生や高校生のとき、ぜーんぜん体に入っていかなかったこの話、今読むと、ものすごくわかりやすい。大人の悲哀のようなものがつまっている感じだ。その上、この「棒になった男」、戯曲じゃないか!そうか。まず「戯曲」の読み方を知らなかったな、当時は。「ハムレット」もチンプンカンプンだった頃だから。字面だけを追って額面どおりに受け取るだけじゃなく、ちゃんと想像力を使って舞台空間の中で人物を動かさないと、本当の奥行きとか、可笑しみとか、見えてこない。私が読んだ本には、初演の記録が添付されていた。初演=昭和44年(1969年)11月1日劇場=紀伊國屋ホール演出=安部公房演出助手=渡辺浩子装置=安部真知照明=秋本道男配役第一景「鞄」女 市原悦子客 岩崎加根子旅行鞄 井川比佐志第二景「時の崖」ボクサー 井川比佐志第三景「棒になった男」地獄の男 芥川比呂志地獄の女 今井和子棒になった男 井川比佐志フーテン男 寺田 農フーテン女 吉田日出子ものすごいメンバーである。見てみたかったっていうか、今だってやってほしい!
2010.07.28
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私の紅衛兵時代「黄色い大地」や「さらば、わが愛/覇王別姫」などで有名な映画監督、陳凱歌(チェン・カイコー)が自分が少年のころ目の当たりにした文化大革命時代の体験を赤裸々につづっている。自分の親が断罪されることを「恥ずかしい」と思う陳少年は、たとえば日本占領下の朝鮮半島で創始改名が進み、「どうしてうちは日本の名前にしないの?」と訪ねる子ども(「族譜」)にも似て、いつの時代も子どもから洗脳されていく過程をよく示している。日々続く壮絶な暴力の狂気を陳は「磁石から落ちる恐怖」がなせるわざだとも表現している。彼は前書きで「文化大革命が引き起こした根源的な破壊は、 社会のデッドラインを突破してしまったことだ。…(中略)… 洋の東西を問わず、人々が世代を越えて命をかけて守ってきた 普遍的な価値さえも、覆されてしまったのだ」と綴る。そして、現代の中国のインターネットに見られる「激しい憎悪」「氾濫する怨み」を見て「過去の熱狂は、現在も変らない。 ただ熱狂の対象が、政治から金銭に変っただけ」だと結論づける。それは「集団から放り出されるのを恐れる原初的な恐怖の中に、 人々が今も生きているからだ」と。彼は本書の後半で、下放された雲南省での生活を描いている。奥深い山の、そのまた奥の原生林の、仕事の合間に手を止めて見やる、もやにけぶった森の描写が美しい。彼は映画監督だけれど、文章だけでも色が、映像が、たちのぼってくる。しかし「現地の農民のため」のゴム栽培と思っていた自分たちの労働によって、結局はそこにあった広大な原生林をすべて失くしてしまったことへの悔恨の念が痛い。しかし一方で、辛く苦しい時代ではあったが、自然の厳しさの中で生き抜く力もおそわったと書いている。陳は、この本を「懺悔の書」として書いた、という。それを書いたタイミングは、天安門事件の直後である。彼のみならず、今を生きる中国の人々が内面に抱く、私たちには計り知れない体験の重みを、改めて思う。非常に読みやすい本なので、ぜひ一度、手にとってほしい。
2010.07.26
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【中古】【古本】変身/フランツ・カフカ「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、 自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。」この衝撃的な一文から始まる有名な小説「変身」。「変身」といえば、カフカ、カフカといえば「変身」というほど、「巨大な虫に変身した男の話」は異様なインパクトとともに頭に残る。不気味で、わけがわからなくて、恐ろしくて、悲劇的な…。でも、息子は言うのだ。「あれってカンペキなコントだよ。 気がついたらベッドの上で虫になってて、 それも仰向けだから寝返りも打てなくて、 どうしようどうしようと思っていると、 父親や母親や妹や仕事の上司が部屋のドアをドンドン叩いて どうしたんだ開けろ、開けなさいってうるさくて、 本人はこのざまじゃ見せられないと思って必死でドアを押さえる。 これ、お笑いでよくあるパターンじゃない?」…そんなふうに考えたことなかった。それで、もう一度読み返してみる。ほんとだ。…笑える…。筆致がとても淡々としていて、この話自体に悲劇性を帯びさせようという意志がない。グレーゴルは「虫」になった自分をものすごく客観的に観察している。最初驚いていた家族も、当たらず触らず彼と同居するし。彼は一家の稼ぎ頭で、ほかの家族は彼に100%依存していたのに、「虫」が日銭をもたらさないとわかった途端、老け込んでいた父親が急にシャキシャキして働き出すところがまたリアル。たまたまドアを開けたら、廊下に立っていた父親と鉢合わせした場面は笑える。ドアを半分開けて外を覗き見る、でっかいゴキブリ着ぐるみの男と、「ぴっちりとした紺色の、金ボタンのついた制服を着て、 以前は櫛も入れたことがないほどの白髪頭は念入りになでつけられ、 金モールの頭文字が入った制帽をかぶった男」。目が合う。沈黙。ストップモーション。お父さん役は、伊東四朗だな、絶対。ほかの家族のやりとりも絶妙。「虫」としての兄に最善の環境を作ってやろうとする妹と、「そんなことしたら、人間に戻ったときにかわいそうじゃない」という母親。母親のあの子に「もう人間としての自分は期待されてないんだ」と落胆させたくないという思い、すごくよくわかる。母親として、普遍。そう、この話は「巨大ゴキ」という着ぐるみで再現すると、ホントにコメディだけど、「虫」というところを、「妊婦」とか「ひきこもり」とか「オタク」とか「オカマ」とか「ウツ」とか違う言葉に置き換えて読むと、また全然違うイメージに「変身」する小説なのだ。グレーゴルは、旅から旅の外交販売員。いわば歩合の営業マンである。毎朝4時に目覚ましを鳴らし、5時の汽車に乗る。けれど、今日はなぜか起きられない。もう4時15分だ。30分だ。起きられない。次の汽車にするか。6時の汽車なら何とかなる…起きられない…。そんな朝は、私たちにもやってくる。家族を養うため、ほんとの自分らしさはぐっと隠してがんばって働いてきたが、こんな人生を自分は歩きたかったのか?もっと自分らしく生きられないか?他人から見たら非常識で、理解できなくて、おぞましい人生であっても、自分らしく生きてはいけないだろうか?休みたい。休みたい。自由になりたい。グレーゴルは、自分のありのままを外に現した。本当は、その姿のまま、外の世界に飛び出したかっただろう。親も、妹も、しがらみを全部捨てて家を出る。身軽になって生きたいように生きる。しかし現実は…。家族はグレーゴルを部屋に閉じ込めた。誰にもその姿を見せなかった。飼い殺しである。そして、グレーゴルもそんな「仕打ち」を受け入れた。「だって俺は何の役にも立たない。 稼げず、家事もできず、人のやっかいにしかなれない。 生きててごめんなさい。 みんなの迷惑になって、ごめんなさい…」そんな思いで肩身せまくして生きている人は、多いと思う。カフカの「変身」が今も読み続けられるのは、そしてそれが「コメディ」じゃなくて、どこか物悲しい物語としてとらえられているのは、ありのままの自分を自覚しながらも、世間様のジョーシキの中で育ったがためにまず自分からして自分を心から愛せない、私たちが陥りやすいそんな気持ちをグレーゴルが体現しているからではないだろうか。一生懸命グレーゴルの世話をしていた妹が、「もう放り出すしかないのよ」というところとか、グレーゴルが死んだあと、「親子三人で電車に乗った。 この数ヶ月以来絶えてなかったことである…(中略) 暖かい日ざしがさんさんとさしこんでいた。 ゆったりとうしろによりかかりながら、 三人はこれから先のことをあれこれと語りあった。」という描写には、たとえば長いこと家庭内で寝たきりの人を介護してきた人たちが、懸命に介護したがために限界に来てしまった叫びとか、彼の死によって家族が解放されたような空気が漂う。カフカの目は、どこまでも冷徹だ。「虫」という特異な状況で見えないものがこの小説にはいくつも隠されている。「変身」のこれだけの深みと重みを感じつつも、もう一度ルミネよしもとに行って水玉れっぷう隊のゴキちゃんコントをじっくりと味わいたいと思う私であった。
2010.07.13
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いまいち使いこなせていない人のためのiPhone10秒テク若い子なら、使ってるうちに使えるようになるんでしょうが、(私もある程度はそうなんですが…)ちょっとのことがわからずイライラするのはつまらない。そこで、本屋さんで目にとまったこの本を買ってみました。ポケットサイズでほとんどの項目が1ページか見開き2ページでおさまり、小さいながらも写真や図解を駆使してわかりやすいです。スイッチの説明から入力の仕方まで基本のキも書いてあるけれど、パソコンとの同期や、メールの更新を早くする、などこれ聞きたかった~、ていうのもあれば、外出先からiphoneを使って自宅のパソコンを操作するっていう「はやぶさ」並み(?)のテクまでいろいろあります。「画面をそのまま画像として保存する」なんて、急いでスイッチ切らなきゃいけないときなんか、知っておくと便利ですよね~。使っていてわからなくなったら、というよりも「ふう~ん、こんなことができるんだ」っていう面白さが先。楽しみながら読むつもりです。
2010.06.21
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毎週日曜日は「龍馬伝」の日。坂本龍馬が好きだから、という人のほかに、福山雅治が好きだから、という人も多いでしょう。龍馬好きで見たら、「あ~ら、フクヤマ、なかなかステキ」と「龍馬伝」を通じてファンになった方もいらっしゃるのでは?そんな方に贈る、フクヤマ本を2冊。なぜ福山雅治は俳優でも一流になりえたか福山雅治という生き方いずれも、さくら真さんの本です。さくらさんは、「福山マニア」として長年ブログ「マシャ研」を主宰しています。誰かのことをずっと追いかけるって、私に似てるでしょ(笑)。いつか私も、「熊川哲也という生き方」っていう本を出したいものです。
2010.05.16
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昭和史発掘(7)新装版昭和11年2月26日未明の午前3時ごろから、それは始まった。今や「ミッドタウン」となり「国立新美術館」となった東京・乃木坂の元防衛庁敷地に、当時は歩兵第一部隊や歩兵第三部隊の兵舎があった。そこから500人あまりの兵士たちが隊列をなし、足元に積もった雪の明るさだけを頼りに音もなく進む。一隊は六本木交差点を左に折れ、溜池から特許庁の手前を通って首相官邸へ。一隊は赤坂御所や交番を巧みに避けながら、外苑、信濃町、四谷仲町三丁目の斎藤内府私邸へ。もう一隊は千鳥が淵の侍従長官邸へ。塀を乗り越えるため、はしごを三つに切って持っていったり、雨戸をまさかりで打ち壊したり、暗闇の中で「尊王」「討奸」と合言葉を放ったり、踏み込んだ寝所で無人の布団の中に手を入れ「まだ温かい」など、それはまさに忠臣蔵の世界。吉良邸討ち入りの再現そのものである。それらは清張の、というより現場に居合わせた当事者の回顧録としてすでに書かれたものの集大成の文章である場合も多いが、それら複数の人間の目を通したいわば多元アングルによる「実況中継」にすることで、行き詰るほどの臨場感が紡ぎあがっている。瀕死の夫・鈴木侍従長のそばに凛として静かに正座する鈴木夫人、やはり血まみれの斎藤内府をわが身で覆いつつ、「護衛はどうしたの!」「私を殺しなさい!」と叫ぶ斎藤夫人、単衣の白い寝巻きで雪の庭を逃げながら「誰か!」と問われて「総理大臣だ」と答え、影武者さながら身代わりになって果てた松尾伝蔵。殺された斎藤内府が前の日アメリカ大使の家に招かれ、「トーキー」映画を初めて見た、という時代である。現場にいた誰も本当に岡田首相なのかわからず床の間にあった写真と見比べて首実検したという。「吉良かどうか」額の傷だけで確認したのと変わりはしない。なにもかも忠臣蔵だが、一つちがうところがある。中心人物たちは別として、大半の兵士たちは靖国参拝だ、演習だ、暴動鎮圧だといわれて駆り出され、道の途中で「政府の重鎮たちを殺すのだ」と実弾を配られた。彼らの多くはほんの1ヶ月前に入営した新兵たちだったのである。どの現場にもドラマがあり、とっさの判断があり、偶然が生死を分けている。読書はまだまだ途中。この先、どうなる??
2010.04.21
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赤と黒(上)書くのは好きだが読書が苦手な娘が、学校の課題でスタンダールの「赤と黒」をそれも1週間で読まなければならなくなった。読書は自分のペースで味わいつつ読むのがベストではあるけれど、そういう読書なら嫌いなもの、苦手なものは読む必要がない。「宿題」だからこそ、教科書だって辞書だって年表だって読む。彼女にとって今回は「読破」にこそ意味があるので、「フランス文学を読むコツは、 最初の3分の1はナナメ読みでいいからとにかくページをくくること」と、おしえた。物語の中にいったん入り込めば、あとは加速度的にのめりこむはず。「赤と黒」、私には思い出深い小説のひとつだ。大学生のとき、3年からの専攻決めを前に、入学時の進路(史学)のままでよいのか疑問を持っていたころ、私は学校の図書館や近くの古本屋に通っては、フランス小説や、それに関する評論ばかり読んでいた。読んではいたが、それは「知っておく」といったいわば勉強のため、知識欲のための読書だったような気がする。最初はミュッセとか、短編ばかり読んでいたところ、「とりあえず、スタンダールの1冊くらい、読んでおかねば」と名前だけは有名で私も知っていた「赤と黒」に手を出す。日本文学でも長編は苦手意識があった当時の私にとって、文庫でも上下巻という長さは、初めてだったかもしれない。電車の行き帰りなどでブツ切れの時間で読むつもりが、途中からはまり出して止まらなくなり、最後まで読まなければ、夜も眠れない状態に!結局2日か3日で読み終わったような気がする。さて、本をひもといて1日目、「1ページしか読めなかった」娘は、私のナナメ読み指南が功を奏し、二日目「上巻の半分まで読めた」そうだ。いわく、「これは、読めるね」そう。この話は面白いのである。ジュリアン・ソレルなるイケメンで若い家庭教師に美貌の人妻がよろめくハナシなのである。本当は、もっといろいろあるんだけど、一言でいえば、こういうハナシ。家に勝地涼とか小栗旬とか海老蔵とかが来て、「奥さん……」ってアツい視線を送ってくるハナシなのである。ダンナは角野卓造、奥さんは、ちょっと前なら黒木瞳あたり。それで、娘の第一声。「メロドラマだね。女がタルい。『あなたがいないと生きていけないワ』って、お前子どもいんだろ! 浮気しちゃってごめんみ、みたいな(笑)」*ちなみに、「ごめんみ」というのは、Gacktが浮気がばれちゃったときに、 すねてる女性に言う決まり文句なのだそうだ。 Gacktのキャラと「ごめんみ」のギャップで、 すべてが丸くおさまる、らしい。 たしかにたしかに。娘には、読了後、もう一度感想を聞いてみたいものである。何百年も生き残っている小説の力をどのように感じたか、非常に興味がある。私はこの「赤と黒」をきっかけに「長編嫌い」を克服し、ほどなく「失われた時を求めて」という大長編に出会って魅了され、専攻をフランス文学にシフトすることになる。スタンダールは、その後何十年もほかに読まなかった。あんなに興奮し、あんなに「面白かった」けれど、心に残ったものは何か、と問われると、今答えられるものがない。同じスタンダールでも、「パルムの僧院」は読み終わった後、体中がしびれるような感覚があった。内容の深さではこちらがおすすめ。パルムの僧院(上)改版ただし、若いころは何度も挫折した。読書には内的成熟もある程度必要なのだ、ということを私は歳を重ねて実感することが多い。若い人の読書離れが叫ばれて久しい。本だけが偉いわけではないけれど、昔は映画もテレビもゲームもなくて、エンターテインメントな才能は、ほぼ演劇と小説に集中していたはず。ホメロスは36mmスコープ的超スペクタクル映画だし、ジュール・ヴェルヌはETだったりスターウォーズだったりするし、そうい意味で、昔の本は珠玉のエンタメ宝庫であって、、昔の人は、頭の中にバーチャル映画館を持っていたのである。だからこそ、さまざまな古典は映画の原作となる。この「赤と黒」も名優フィリップ・ジェラール主演でどうぞ。ジェラール・フィリップ/赤と黒「パルムの僧院」もジェラール・フィリップ。私はこれを見て、若いときに読み止した本をもう一度読み始めた。映画としても、私は「赤と黒」以上によくできていると思う。【メール便なら送料無料】【DVD】パルムの僧院【完全版】 [IVCクラシックフィルムコレクション]...
2010.04.19
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昭和史発掘(6)新装版ふらりと立ち寄った三軒茶屋のアンティークショップで、旧版全13巻のうち、3~12巻を1冊50円で買ったのは、2007年7月のこと。新装版で抜けている部分を補って読み始め、しかし「五・一五事件」が終わったところで一段落、それから1年くらいはまったく進展のないままいつのまにやら足掛け4年に。今年になって、また読み始め、ようやく「二・ニ六事件」が始まる直前まで読み進みました。新装版では全9巻ですが、私が買った旧版は全13巻で、その9巻まで読んだことになります。第8巻の最後のページに「以上で、二・ニ六事件前、在京舞台の~中略)~動きを一応終わることにする。 次巻からは、いよいよ在京青年将校らによる謀議の最終段階に移りたい。」とあったので、さあ、ようやく二・二六事件に突入!と思い、勢い込んで第9巻の目次を見ると、そこには「二月二十五日夜」が最後の項になっているではないですか!この1冊読んでも、まだ当日には届かないのね~、と軽いジャブくわされて始まった読書でしたが、この「前夜」の物語、ものすごく中身が濃かった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・言ってみれば、それは「忠臣蔵」の討ち入り前夜の緊張である。二・二六事件も吉良家討ち入りも雪の夜、というのは、決して偶然ではない、という。雪の日には老人は動かないものだから、襲撃したときもぬけの殻、という確率が低いと考えるのだそうだ。もちろん、他にもいろいろな要因や偶然もあるが。彼らは自分たちの行動を「昭和維新」という名で「明治維新」と重ね合わせるとともに、赤穂浪士の討ち入りを引き合いに出すことも多かったという。「国の一大事」を引き起こそうとする興奮が、彼らをヒロイックにしていた部分がある。秘密を誰に打ち明けるか、誰には打ち明けないか、そんな駆け引きから始まって、いよいよというときに、人間はどう行動するか、などなど、多分にドラマチックである。しかし、それをここまで浮き彫りにしたのは松本清張の筆致と取材力あってこそ。裁判調書に加え、関係者の手記、そして執筆当時生きていた関係者の談話などから浮き彫りになる信念をもって行動した人、流された人、やむなくついていった人、だまされて巻き込まれた人、偶然が運命を分けた人、毅然と反対意見を述べた人、黙認した人、それぞれの横顔。獏とした「歴史」がそこを生きた一人ひとりの人生として描かれた、群像ノンフィクションとなっている。私が注目したいのは、この二・二六事件であっても、その前の五・一五事件でも、具体的に「行動」を回避させたのは、人間一人の「意見表明」だった、という点である。自分の意見を持ち、自分には納得できないことをはっきりと言う。軍隊という上意下達、命令服従は絶対、仲間意識の濃密な社会にあって、国とは、軍とは、軍人とは、について日ごろから考え、体を張って止めるべきは止める、と覚悟した人の周囲では、「こと」が起こらずに済んでいる。二・二六事件に関しても、それを予測し危惧し警鐘を鳴らしていた人は、ある程度いたのだった。しかし、肝心のところで、肝心の立場の人間が動かなかった。あるいは、甘く見た。あるいは、反対しきれなかった。どうせ自分ひとりが反対しても、何も変らない、と思ったとき、あるいは、自分ひとりが逃げたら卑怯である、と思ったとき、そして朋友と袂を分かち、彼らの敵になることはできない、と情に流されたとき、すべてはなし崩しに進んでいくのだった。「いじめは、いじめる人といじめられる人だけでは成立しない。 いじめを黙って見過ごしている人がいて、初めて成立する」という言葉を聞いたことがある。大事を前にして、大半の人間は一人で声を上げられない。だからこそ「最初の一声」をみな待ち望む。リーダーの「一声」を。誰かが「だめだよ」と言ってさえくれれば、「そうだよ」と呼応する準備はできているのだけれど。その「だめだよ」が発せられないと、「そうだよ」は流れの強い方向に引っ張られる。数日前まで「時期尚早」と「決起」を否定し、幾晩も深く悩む姿が目撃されていたという安藤大尉が一転「行動する」と決めたとき、歴史の時計の針は動き出した。彼の人望は厚く、「彼にならついていく」「彼の判断に間違いはない」と自分の運命を託した下士官は多かったという。安藤大尉は深く考え、責任をもって覚悟の決断をした。たらればの話は歴史に禁物であるが、彼が首を縦に振らねば、「軍」として「兵」が出ることはなかっただろうという。いよいよ、「襲撃」の項へ。なんの奇遇か、昨日は東京ドイツ文化センターに行く道すがら、「高橋是清翁記念公園」を発見。雨の夜であったが思わず石碑の文字を必死で読んだ。石碑の正面には、赤坂御所の高い石垣がどこまでも続く。日本でも「テロ」が身近にあった、昭和11年の話である。決してフィクションではない。
2010.04.17
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文藝春秋 2010年 04月号 [雑誌]1冊1500円の月刊誌(「ダンスマガジン」)はそう高いと思わないのに、1冊750円の月刊誌(「文藝春秋」)を高いと思うのはなぜ。写真かな~。でも、今月(四月号)は絶対の「買い!」です。私は【松本清張生誕100年特集「昭和史発掘」を再発掘する】にひかれて買ったんですが、他の記事がどれもこれも面白くて、本当に充実の1冊です。グラビアは倉本総と尾上菊之助。「富良野塾」最後の公演を控えた倉本の姿が写し出されます。菊之助は歌舞伎の舞台となった地を訪れ、その作品にも触れ、で充実の記事。(文=長谷部浩)。バンクーバーオリンピックでメダルを獲った浅田真央と高橋大輔の記事も。真央ちゃんは山田コーチが語る真央ちゃん。真央ちゃんを暖かく見守りながらも、「彼女のコーチはタラソワですから」と自分に言い聞かせるように連発するところに山田コーチのプライドと寂しさとが垣間見えます。大ちゃんのほうは、スポーツライターの松原孝臣が長光コーチとの二人三脚の日々を追います。高橋にとって、「バンクーバーのキス&クライではモロゾフとツーショット」というイメージを捨て一から立て直さなければならなかった、そこがある意味ではケガより大変だった、というくだりは、非常に興味深いものでした。ピリリと効いた文章としては、塩野七生の「密約に思う」。「一度失った領土を戦争以外の方法で取り戻すというのは大変なこと」で密約を結んだ当事者の苦悩と覚悟と胆力を称えつつ、それを「80年代になって以後もずっとウソをつきつづけたのは別の問題」と、近年の政治家たちの「自己保身」を糾弾することも忘れない。うすうす気付きながらも「臭いものにフタ」してきたメディアや国民にも容赦はしない。「北方四島がいまだに還ってこないのは、密約づくりができなかったから」かも、という皮肉りようもまた、塩野らしい。そしてもっとも楽しく読んだのが【「事業家」竜馬こそ私の手本】という、ソフトバンク社長・孫正義の竜馬論。今の大河ドラマへののめりこみようは尋常ではなく、日曜どころか「土曜のあたりからムネがドキドキ」してツイッターに「もうすぐぜよ! 皆、準備はよいかーっ」などとつぶやいてしまう、とか、第一話しょっぱな、岩崎弥太郎が竜馬のことを聞かれ「大っ嫌いだった、あんな男は」と叫ぶのを見て「もう、涙が止まらなくなりました。それほどまでに岩崎は竜馬が好きだったんだ、竜馬に憧れ、竜馬になりたくて…(後略)」と書く孫さんがいかに竜馬に心酔しているか。今までに5回、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を全巻精読したという孫さん。それはすべて人生の岐路にあったとき、という。「竜馬だったらどうするか?」これを考え抜いて決断してきた、といいます。特定の歴史上の人物を自分のモデルとして成功した事業家は多いですし、よく聞く話ですが、この孫さんの手記は、まず文章がいい。簡潔でリズムがあり、過不足なく、理論とエピソードのバランスにたけている。まったく飽きることなく最後まで読み通せます。難しいことは一切書いていないけれど、彼が何を目指して事業を展開しているかがよく理解できます。「武市は起業家、竜馬は事業家」「二人のすごい日本人、信長と竜馬の違い」などなど、スパッと書いていくところが小気味いい。1983年に病気に倒れ「余命あと5年」と言われたときに、竜馬が死ぬ5年前、竜馬はまだ土佐藩を脱藩したばかりだったことを思い、まだまだやれることはたくさんあると意を決して病床で数千冊の本を読んだ、というくだりは圧巻。どこまでも前へ前へと進むエネルギーには頭が下がります。竜馬のいいところをガンガン書いている孫さん。「そうなりたい」とあこがれるだけでなく、近づくために努力を惜しまない。そこが凡人と違うところだなー、と思いました。孫さんの立身出世譚ではありますが、それをおしつけがましくなく、身近に感じさせ、面白く読ませるというこの文章力に脱帽です。「(ドラマだけではわからない)本当の岩崎弥太郎伝」(成田誠一・三菱史アナリスト)もあるので、併せて読むと面白い。香川さんの顔がアタマに浮かびます。*松本清張の特集については、また後日。
2010.03.18
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今、2種類の本を並行して読んでいる。一つは松本清張の「昭和発掘史」。おもに電車の中で読んでいる。かなーり前に古本屋で買った。レビューにも書いたことがある。全13巻のうち、第6巻くらいまでは一気に読んだものの、(5.15事件あたりまで)。相沢裁判のあたりでちょっと足踏みしている間に他の本を読んだりして、そのまま1年くらいほったらかしだったのをまた読み出した。今第9巻に入ったところ。8巻の最後に「いよいよ2.26前夜へ」と書いてあったので、すぐに2.26事件に入るかと思いきや、9巻の目次を見たら、最後の項目が「2月25日」なので、10巻まで当日の話は出てこないらしい。もう一つが「炎の人 ゴッホ」である。こちらもレビューを書いたけれど、ものすごいぶ厚い本なので、ある仕事場に置いてあって、そこに行ったときだけ読んでいる。でも今日、ゴッホがパリについて、弟のテオに励まされるところで、胸が熱くなって、涙が出て、もうこの先を一週間なんて待てない!と思い、ぶ厚いのにバッグに持って帰ってきてしまった。前にも書いたけれど、書いてあるセリフをいうのは、市村正親のゴッホ、そして今井朋彦のテオなのである。これがまたハマル。パリ時代のゴッホについては、三谷幸喜の「コンフィダント・絆」でも扱っていた。だから、ゴッホは断然市村さんなんだけど、スーラは中井さんだし、ゴーギャンは寺脇さんだったりする。それまで奇人変人狂人ダメ人間扱いされていたゴッホがパリに来たらいい絵を描く男たちはみな狂人扱いで、みな経済的に一人立ちできていず、みな今までの画法やしきたりを無視していて、彼らに出会ったとき、ゴッホはどんなに救われただろう。まばゆいばかりの才能に出会うことの大切さを知りつつも、「自分がしっかりと出来上がる前に見てしまえば、のみこまれてしまうから」と長いことパリ行きを勧めなかったテオの見識にうなる。ゴッホの物語を語る上で、弟のテオの存在は欠かせないが、逆にテオを中心にすえてもいいくらい、彼は魅力的。なぜテオは兄ゴッホを支援し続けたか?弟だったから、ではなく、画商として彼の才能を見抜いていたから。そこが、胸に迫ってくる。弟として兄を尊敬しつつ、絵画のプロとして、兄に過不足のないアドバイスを送る。できた男だ。キレまくり、パニックになるゴッホの背中をさすりさすり、ゴッホを自分らしい仕事に向かわせた。すごい。若いのに。ほかの画家たちの才能も見出しているのだから、テオの眼力はウソじゃない。「兄さんは、ずっと前から印象派として書いていたんだよ」テオのこの言葉は、本当に感動的だ。パリで兄弟で生活していた時期は終わりを告げ、いよいよゴッホはアルルへ。油絵と色彩を身につけたゴッホが一回り大きくなるために脱皮する。読み進むのが楽しみ。とても楽しみ。
2010.03.10
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アウトローノンフィクション・ライター・神山典士が、フリーになって初めて出した本が、この「アウトロー」。現在ノブリンことピアニストの辻井伸行や、昨年亡くなった忌野清志郎について、長期の取材をもとにいくつもの記事を書いている神山は、何ヶ月あるいは十数年、取材対象にはりつくこと、その過程で、取材対象のみならず、その周辺の多くの人々に、綿密な聞き取りをしていくことが持ち味である。今は取材対象のジャンルを決めず、自分の得意不得意に関係なく、ありとあらゆる魅力的な人間について取材している神山だが、フリーになって初めての企画は、彼の「神様」であった吉田拓郎のインタビューだったという。また、大学の卒論が、演劇部への張り付き取材だった。その延長線上に、この「アウトロー」がある。ある種のエキセントリックさをオーラのように発する人々について、あるときは真っ向勝負、あるときはひねりを利かせた質問、そして結局は長期の取材で勝ち得た信頼によって、「大御所」でもある人々が、本音をぽろっと打ち明けていく。舞台人では、大竹しのぶ、つかこうへい、マルセ太郎、映画人では、伊丹十三、勝新太郎、ミュージシャンでは、小沢健二、大黒摩季、レスラーでは、藤原喜明。1997年に発刊された本である。初出は92~95年の記事が多いが、加筆されている。勝新太郎については、書き下ろしである。たとえば映画「This is It」が出なければ、多くの人たちが「マイケル・ジャクソン」について、長いこと素晴らしい音楽を提供してきた彼のエンターテイメント性より小児性愛あるいは異常なまでに白い肌にこだわる整形マニアとしてしか記憶していなかったように、「勝新太郎」は、「玉緒の夫」とか「パンツ事件」でくくられることのほうが多くなった今こそ、この本は読まれるべきだと思う。勝と雷蔵の売り出し期の話、映画製作へのこだわり、、そして三味線への思いなど、もう知る人ぞ知る、レアな情報になってしまった。大竹しのぶも、「さんまの元妻」までしか知らない人が多いだろう。最初の夫服部晴治が、がん治療のため入院していることを内密にして、看病のためと言わずに「午後5時開演」という、ある意味社会人にケンカを売るような条件をのませて「奇跡の人」のサリバン先生役を引き受けたくだりなど、ジェットコースターのような人生を必死の形相で生き抜く大竹が目に浮かぶようである。今年、私は「虫明亜呂無になる」と宣言した。虫明が取材対象あるいは事象を通して自らの哲学を語るタイプであるのに対し、神山は、取材対象の人生を、もう一度編みなおすタイプである。私たちは、神山という舟にのって、神山というタフな漕ぎ手に身をゆだね、大竹の、勝の、藤原の、つかの、マルセの、伊丹の人生の川を下っていく。下って、そしてまた上る。戻ってみると、彼らを見る目がまったく違っていることに気づく。神山の文章には、そういう魔力がある。
2010.02.20
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昨年は、素晴らしい演劇がたくさんありましたが、その中でも市村正親主演の「炎の人 ゴッホ」は大変見ごたえのあるものでした。かつて民藝で大当たりをとったこの舞台は、三好十郎の脚本です。三好十郎(1)さて、劇場で思わず買ってしまったアーヴィング・ストーンの原作小説「炎の人ゴッホ」。中公文庫つまり文庫本なんですが、なんと全部で800ページ以上!片手で持つのが大変なくらい分厚い!普通なら(上)(中)(下)くらいの分冊になるところです。あまりの厚さに、買ってはみたものの、そのまま「つん読」になってはや半年。今日、読んでみたらこれが面白いのなんのって、序章・一章だけで180ページ。ここまでで、一本映画ができちゃいます。劇を観た人にはわかると思いますが、あの炭鉱での悲惨な伝道生活のなかから絵を描く、ということを見つけるまで。ここまでで180ページです。でも決して読みにくいことはなく、ぐいぐい引き込まれてしまいます。名家の生まれながら、どうしても他の人のように俗世で成功できず、自分だけがぬくぬくと豊かであることが心苦しく、人の不幸には敏感だけど、思い込みが激しく人の気持ちを察することに疎い。そんなフィンセント・ゴッホが絵を描こうと思い立ち、弟のテオがこの兄の願いをかなえると決意するまで。本の中で、というか私の脳内で市村さんや今井さんが演じてくれますので、さらに劇的であります。舞台を観た人にはもちろんおススメですが、何をしてもうまくいかない、人生の意味がわからない、自分の将来が不安、うまく人と関われない、世の中の不公平さや汚さに嫌気がさす、など今生きることに悩んでいる人にもぜひ読んでいただきたい。彼が何度も何度も挫折する姿と、彼を取り巻く人々の言動とに、いろいろ考えさせられます。…まだ、ゴッホの物語は始まったばかりですけど、すでに私はひとつの作品を読み終えたくらい充足してます。*読売演劇大賞で、市村さんはこの「炎の人」で最優秀男優賞を獲得しました。 おめでとうございます!(大賞の詳細については、明日書きます)
2010.02.03
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エッセイストとして、スポーツや芸術、エンタメなどについて幅広く論評をしてきた虫明亜呂無氏が書いた短編小説集。最初この本を読んだとき、「これは小説? それともノンフィクション?」と、戸惑う自分がいた。冒頭の作品「海の中道」は、福岡国際マラソンの実況中継のような感じで始まる。コースの説明、参加選手の人数、天候・気温、5キロ地点を通過したときのラップ、先頭集団のかけひき、ついていけぬ者の見せる一瞬のゆがんだ表情…。あー、これはノンフィクションだ、と思った途端、「私がコーチをしている氏家茂は…」と、オリンピック選手候補を育成している指導者が語り手とわかり、そして話はその男の日常へ、そして過去へと飛ぶ。マラソン、サッカー、野球、ボート、そして競馬。ありとあらゆるスポーツに造詣の深い虫明氏の細密な描写が冴える。そして、あるときはアスリート本人が主人公となってスポーツに向き合う不安と高揚とを語り、あるときはそれを眺める観客の内面とその目にうつるスポーツ選手たちとの奇妙な邂逅の意味を探る。私はかつて熊川哲也のバレエを見て本当に感激し、その気持ちを形にしたくて小説を書いた。バレエを見ている観客の話である。そこには、舞台の上で繰り広げられるバレエも描写する。やっぱり、共通点があるんだな、と思った。芸術と自己とが一体化する瞬間というものを、作品に吸い込まれながらも自我が無限大に膨らむ体験を、彼も、私もしている。そこを文章で表したい、と思っている。彼の作品の中に、きっと私が獲得すべき何かがあるはずだ。それを見つけ、さらに自分らしさを生み出していけたらいいと思う。まだまだ虫明作品初心者の私。これからもいろいろ読んでいきたいと思っている。「シャガールの馬」収録作品一覧「海の中道」(マラソン)「連翹(れんぎょう)の街」(サッカー)「黄色いシャツを着た男」(プロ野球・引退のとき)「タンギーの蝶」(プロ野球)「アイヴィーの城」(テニス・引退のとき)「ふりむけば砂漠」(陸上・短距離)「シャガールの馬」(競馬)「ぺけレットの夏」(ボート)
2010.01.13
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野を駈ける光 虫明亜呂無の本・2 玉木正之編a:楽オク中古商品今手元にある虫明亜呂無の本は、5冊。そのうち買ったのが2冊で図書館のが3冊。図書館の返却日が1/15なんで、まず図書館の本から読んでます。最初に読み終わったのが「野を駈ける光」編者はスポーツライターの玉木正之氏である。彼自身が虫明氏の文章に触れて感激したのが始まりで、過去の作品を読もうと思ったらほとんどが絶版になっていることを知ってなんとか彼の作品をもう一度若い人に読んでもらいたい一心でこの本は編まれた。すでに、虫明氏は病床にあり、全3冊の最初の1冊が出たところで、氏は帰らぬ人となった。今をときめくスポーツライターの玉木氏をして「自分の拙い文章を綴るよりも氏の文章を復刻することこそ重要な仕事であるという思い」にかられた、という。それほど、虫明氏の文章は情熱に満ちている。詩があふれている。情緒的であると同時に論理的。小説的であるとともに最高のノンフィクション。競馬場の向こう、霧にけむる緑を1枚の絵を舐めるがごとく描写したかと思えば、その地の地形やら歴史やら、洪積世まで遡ってはばからない。かと思えば土のすえた匂いから少年時代の雨の遠足の述懐にとび、あるときはパリのモンマルトルのホテルの一室にさえ話が及ぶ。しかし、圧倒的なストーリーを持つのは馬である。競走馬の、競馬場の、それを見る観客の、細密な解剖学や造園学の講義のようでもあり、馬と調教師が織り成すドラマでもあり、馬とファンとの間にある恋心でもある。どうしてこんな文章が書けるのか。読み出すとのめりこんで電車を乗り過ごしてしまう。JRAも、大量に人気俳優をつぎこんでCMやるばかりじゃなくて、素晴らしい馬の走りや競馬場を背景に、虫明亜呂無のエッセイを流せばいいのに…。行きたくなるよ、競馬場に。馬を観に。競馬をしに。競馬の話だけでなく、スポーツの話もある。女性スポーツについてのくだりが秀逸。「女」の強さ、たくましさこそが女性の生命力であり、それこそが本来の女性の魅力なのだという一般の男目線とまったく異なる分析は、書かれたのがまだ札幌オリンピックやミュンヘンオリンピックのころだと思うと、なんと先見の明があったことだろう。始まったばかりの女子マラソンについての記述なども今の女子スポーツの隆盛を予言するかのようだ。ほかに「みんおん」や「レコード芸術」に掲載された演劇・オペラ・クラシック音楽についての記述もある。戦前からクラシック音楽に親しみ、ベートーヴェンの全曲を所有したいと少年時代に決意したというくらいこの分野にも造詣が深い。その上、常に順風満帆な人生を歩んできたわけではなく、文章の端々に、世の中への恨みのようなものが現れる。そして、売れっ子な分、毎夜毎夜徹夜の続く仕事ぶり。その合間をぬって、全国の競馬場へ、牧場へと向かう、その競馬に対してやまぬ熱情……。恐るべし、虫明亜呂無。まだ数日なのに、「虫明亜呂無になる」宣言したことを撤回したくなるほどだ。でも、がんばるぞー!とにかく、今は読みまくります。一つだけ。編者の玉木氏が虫明氏に傾倒し始めたのは1980年くらいらしい。私は1974年だー! 私のほうが早い。それだけです、ハイ)
2010.01.07
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今年は年末年始のお休みが短かったですね。私の場合は12/29が仕事納めで、明日1/5が仕事始めですから、まだいいほうです。会社員の方は今日から出勤の方が多いと思いますけれど、スーパーなどは1/1からお店を開けていたところも見られ、そこへ訪れれば、衣料品などメチャクチャ安くなっていて、一日も休んでいられないというのが景気浮揚の掛け声というより悲壮感漂う感じ。大丈夫なのか? 今年の日本…。正社員じゃないと、守ってもらえないから正社員に、という時期はすでに通り過ぎ、正社員にもさまざまな波が押し寄せててきている今日この頃。職場で生き残るために必要なノウハウが知りたくなりません?新年早々現実的なお話で恐縮ですが、この景気低迷社会で生き抜くための一つの参考になりそうなご本を紹介します。あの日、「負け組社員」になった…出世なし!逃げ場なし!希望なし!社内で完全に孤立した人たちの、些細なきっかけとは?「負け組社員」24のノンフィクションから学ぶ、自分の身の守り方。…というコピーが鮮烈なこの本は、「非正社員から正社員になる!」や「年収1000万!稼ぐライターになる仕事術」を書いた吉田典史氏の新著です。彼自身、会社でのさまざまな経験を経て現在フリーになっていることもあり、ただの「お話」で済ましてはいません。辛口だけど、愛があります。「会社」という名の「社会」をどう泳いでいくか。そこに人間としての弱さや未熟さが露呈し、人間だからこその意地と克服力が試されるのかもしれません。翻弄されてムダにあがくのではなく、真に力を発揮すべきときにその力は残しておきましょう。そんなアドバイスが聞こえます。以下、目次です。第1章 上司とぶつかると、まずい(気がついたら「転籍」に…。上司が仕掛けた「出向」という罠;女が女を潰すとき…。上司の「嫉妬心」に潰されたMBAホルダーの悲劇 ほか)第2章 会社から利用された挙げ句…(知らないうちに「スケープゴート」に…。“出世欲”を見透かされ、利用されただけの悲しきプロパー社員;カネの切れ目が、縁の切れ目に…。会社再建後、「お払い箱」にされた元銀行マン ほか)第3章 「会社を変えよう」なんて思うから…(行き過ぎた責任感が裏目に…。出世コースから「左遷」へ、ある幹部候補の転落劇;上司のトラブルに首を突っ込み、自滅。中堅社員が10年のキャリアを棒に振った瞬間 ほか)第4章 これは、あなたが悪いんです…(組織よりも自分優先のツケ…。職場の「透明人間」と化したジコチュー社員の末路;いまや「ウザいだけのKYオバサンに」!?“時代遅れのジャンヌダルク”と化した女課長の末路 ほか)第5章 こんな上司の下で働いたら、たいへん…!?(“退職強要”で墓穴を掘り、人生が暗転!部下との闘争に負けた「元全学連」上司;お坊ちゃま社長がいきなり敵前逃亡。上場直後の身売りで社員全員「負け組」に! ほか)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・非正社員から正社員になる!年収1000万円!稼ぐ「ライター」の仕事術
2010.01.04
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長大かつ濃密な舞台「コースト・オブ・ユートピア」。すばらしい演劇空間を体験した後で、もういちど奥深いセリフたちを反芻したいと思った人はきっと私だけではないだろう。この戯曲全編が、来年2010年1月下旬ごろ、ハヤカワ演劇文庫に収録・発行されるはこびとなった。それに先立ち第二部「難破」が現在発売中の早川書房月刊「悲劇・喜劇」1月号に掲載されている。悲劇喜劇 2010年 01月号 [雑誌]今号はトム・ストッパード特集が非常に充実。ストッパード、河合祥一郎、野田秀樹の対談から始まり、「コースト・オブ・ユートピア」を翻訳した広田敦郎、ゲルツェンを演じた池内博之、ロンドン・バージョンも見た秋島百合子がそれぞれの視点からこの舞台を「体験」した興奮を綴る。ドストエフスキー作家でロシア通の亀山郁夫も寄稿、ほかに「ローゼンクラツとギルデンスターンは死んだ」や「恋に落ちたシェイクスピア」を書いたストッパードの、シェイクスピア作品への取り組み方を松岡和子や喜志哲雄が書いている。ほかに市川染五郎のインタビューや演劇時評も「奇跡の人」や「蛮幽鬼」「真田風雲録」その他読みどころ満載なので、かなり楽しめる1冊となっている。おすすめ。
2009.12.17
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わたし、このままでいいの?人間、転機というものがある。今の自分ではいけないと思いつつ、現状と理想のギャップに苦しむ毎日。あるいは、自分の理想なんか思い描けず、ただただ、「今」にからめとられて立ち往生するだけ。悩んでいても口にできない、そんな悶々とした日々。そんなときに、1冊の本に出会う。ちょっとした広告に目が吸い寄せられる。そして、絶対に無理だと思っていたその「一歩」を踏み出すことができる。アイム・パーソナル・カレッジというところは、変わりたいけど変われない人、今の自分に本当の自分が押しつぶされそうな人の迷いを、ベリベリっとはがしてくれる場所です。そのアイム・パーソナル・カレッジが創立20周年を記念して作られた本が「わたし、このままでいいの?」です。20年の間に卒業した生徒たちは1600人にのぼります。創立10周年で作られた「平成おんな大学」のpart2として作られた「わたし、このままでいいの?」は、この10年の卒業生を代表する25人の手記。アイムでの濃密な1年間を必死で学びぬき、自分の作ったオリの、自分でかけた内側のカギを開け、自分を救った人たち25の物語が、この本につまっています。・毎日がなんとなく不満なあなたへ・ただのOLで終わりたくないあなたへ・主婦業界になじめないあなたへ・好きなことを仕事にしたいあなたへ・介護があって働けないあなたへ・今の自分を変えたいあなたへ・「もう年だから…」と思っているあなたへ・何かしたいけど、何をしていいかわからないあなたへ・離婚を迷っているあなたへ・健康に自信が持てないあなたへこれらは、この本の目次です。何歳でも、主婦でも独身でも離婚してても、キャリアがあってもなくても、自分らしく生きたいと思っている人には誰にでも、自分らしい明日が待っている。まず自分が、自分を信じて行動する勇気を、そして行動するパワーを、この本は、そしてアイムはプレゼントしてくれます。11/28、アイム・パーソナル・カレッジ創立20周年の記念パーティーに出席し、たくさんの先輩・後輩・そして同期と会い、そしてこの本を読んだら、ああ、もっともっとがんばらなくっちゃ!と本当に卒業生たちのパワーに感服してしまいました。そしてああ、ここの卒業生だということを、私は誇りに思えると、心底思いました。「女は窮屈だと思っていたけれど、 女は何でもできるんですね」昨日同席した方(在校生のご家族)の一言が、奇しくもすべてを語っていると思いました。いろいろな可能性を見せてもらった一日でした。
2009.11.30
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東京板橋区のグリーンホールで 児童文学作家、イラストレーターの原ゆたか先生を囲んで、 おはなし・おえかき会と講演会があります。 「かいけつゾロリ」の作者です。 10/31(土) 第一部12:00~ おはなし・おえかき会(小学生対象、保護者同伴可) 第二部15:00~ 講演会「子どもにとっての楽しい読書」(対象中学生以上大人まで) 無料です。 10/15必着で往復はがきで申込み。 1)「第一部申込み」「第二部申込み」のどちらかを明記。 どちらも希望する場合は、ちがう往復はがきで別々に申し込む。 2)参加人数 3)参加者全員の名前(ふりがなも)と年齢 4)代表者の住所・氏名・電話番号 5)返信用はがきの宛先にも代表者の住所・氏名を明記 抽選ですが、 第一部50名、第二部は定員が200名で、 特に二部はまずOKみたいですよ。 ご近所の方、関心のある方にお声をかけてみてください。 抽選結果は10/28までに全員にはがきで知らせるそうです。 問い合わせ 成増図書館 03-3977-6078(第3月曜、月末日休館)
2009.10.13
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ローマの休日とユーロの謎この本の著者、経済学者にして映画好きの宿輪純一氏。彼は27歳のときに自分のこれからの人生の目標を決めた。曰く、「エコノミストになる」「映画の仕事をする」「本を出す」「学校でおしえる」それから20年足らずの現在、そのすべてを実現した宿輪氏は、まさに有言実行の人。しかしまたの名を、努力の人ともいう。銀行マンをやりながら年に250本以上の映画を見、大学で教え、そのほかに月に一度、ボランティアで経済ゼミをやり、(最近はゲストの講演会もセットし出したので月に二度)、さまざまな雑誌に記事を書き、経済系の著書のなかには銀行マンの教科書になっているものもあるという。「時間だけはどの人にも平等に与えられている」というのが信条で、だからこそ時間を無駄にしないでがんばる人である。ではすべての時間を仕事に振り向けているかと思えば、レモンの木やバラの花をベランダで丹精し、健康のためにマラソンをする、人生の幅の広い人でもある。「ローマの休日」や「ティファニーで朝食を」が大好きな、ロマンチストだ。私が宿輪氏と接点を持ったのは、ある名刺交換会で「経済とか映画とかの記事を書いています」と自己紹介したら、その日知り合った人の一人が「ボクの知り合いに映画と経済とやっている人がいるよ」と後日紹介してくれて、月一のゼミに参加したのがきっかけ。オープンマインドで偉ぶったところが全然ない、きさくな人である。「難民映画祭」の支援もしている。「シネマ経済学」というネーミングは彼が考案し、現在商標登録中とのこと。彼が朝日新聞に「スクリーン経済学」の連載を持ったことは以前にも書いたが、ほかにも「映画に学ぶ負けない勇気」「シネマ経済学」など、多数の雑誌に書き、テレビにも出演している。そんな宿輪氏が満を持して刊行したのが、この「シネマ経済学入門・ローマの休日とユーロの謎」で、これまでに記事にした映画を中心に、80を超える作品について、「経済」という切り口で語っている。経済といっても、あるときは格差社会、あるときはブランド力、あるときは映画業界のからくり、あるときは車業界の浮沈、という具合で、映画とは、常に時代を写す鏡だということを改めて実感する。多くのハリウッド俳優や監督とのインタビューを経験していることもあり、こぼれ話的な楽しさも満載だ。一度も「シネマ経済学」に触れたことのない人は、切り口が新鮮で、「へぇ~、映画ってこういう見方もあるんだ」「経済って難しいと思っていたけど、自分の身の回りにすごく関係あるんだなー」など面白い発見がある本だと思う。一つひとつの映画がコンパクトにまとめられているので、たとえば通勤通学の電車の中で、一駅で1作品分読める感じ。駅に着いたら気になる映画をレンタルして帰るっていうのもいいかも。ただ、私はちょっと物足りなかった。これまで氏の記事はけっこう目にしてきたので、この本には今までのものプラスアルファの展開を期待していた。記事の初出が書いておらず、またすべてが初出原文のままなのか加筆修正したのか、いくつか書き下ろしたものがあるのかが不明なので断言はできないのだけれど、一つひとつの記事がおそらくはその時々のニーズに応じて書かれているだろうし、あらすじ→経済的なポイント→発展→結論という同じ起伏を持つため、小さな山が連なるばかりで、一つの「大きな山」になっていない印象だ。全体を「時代」「経済」「金融」「経営」「映画産業」「人生」の6つの章立てで区分してあるので、もしかしたら、「時代」に始まって「人生」で終わる、というように起承転結が想定されているのかもしれないが、成功しているか微妙なところ。どこをどう斬っても「シネマ経済学」である以上、「人生」の章でも結局経営について書いてあったりするし、一つの映画の中でもいろいろな面を引き出しているので、読み終わったときに、章立てによって全体がよみがえってくる感じがない。うーん、本って構成のしかたで見え方が違ってくるんだなー。私もいつかは「本を出したい」と思っている身なので、いろいろ考えさせられ、非常に勉強になりました。人生の悲哀に心を痛め、ラブコメにときめき、好きな映画を「ここが好きだ!」と楽しく明るく書きながら、ポイントポイントで経済を語る宿輪氏の筆致が「垣根」を作らない彼のひととなりをあらわしているような気がします。
2009.08.13
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平成関東大震災「いつか来るとは知っていたが、 今日来るとは思わなかった」という副題がついている。2006年の9月から11月にかけて、「週刊現代」に連載されたフィクションだ。阪神・淡路大震災をはじめ、これまでに起きた大地震の被害状況やその結果や原因の科学的考察、経済的影響などお役所やシンクタンク・研究所の類がはじき出した「数字」をプロットにそれを一つの小説として著したいわばシミュレーション・ストーリーである。「西谷九太郎」という男が東京都庁のエレベーターの中で被災、東京都墨田区京島の自宅に歩いて帰る。マイホームは去年建てたばかりで30年ローンが残っている。妻と二人の子どもとは、災害時の集合場所や連絡手段など、何も話し合っていない。「それより、今夜の接待が~!」なんて考えちゃうヤツである。「ま、大体の流れは読む前からわかってるし。 すらすら読めそうだから、ま、一度読んでみるか」……そんな軽い気持ちで手にとったのだけれど……。不覚にも、途中から涙、涙、涙。熱いものが体中からこみ上げてくる。西谷氏のフラストレーションも絶望も迷いも感動も、気がつけばすべて自分のものになっている。著者は「亡国のイージス」の福井晴敏。さすが、なのである。防災感覚ゼロの西谷につきまとって防災ウンチクをいちいち披露する「甲斐」という男も最初は、「説明しよう!」の男の子みたいな、ただの便利な解説キャラにすぎないと思っていたが、最後の最後に、深いストーリーが明らかになって体の奥を貫くような余韻を残していく。新書版であっという間に読める。書きおろしのコラムは、ナナメ読みでOK。(「数字」より「人生」にひかれる人間の性質が、ここにも表れる)読み終わって、そういえば、離れて暮らし始めた娘との連絡手段をまったく考えてなかったな、と気がついた。感動して、役に立つ本です。
2009.06.11
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クルマが鉄道を滅ぼした増補版アメリカの自動車メーカー・GM(ゼネラル・モーターズ)がとうとう破産に追い込まれました。昨年トヨタに抜かれるまで、GMは「売り上げ世界一を誇っていた」と言っても、1970年代のオイルショック以降、低燃費を心がけた日本車が徐々に市場に受け入れられ、「図体ばかり大きくてガソリンを食う」アメ車は、一部の愛好家をのぞき、「流行」とはほど遠くもはや凋落傾向の一途をたどっていました。だから、「ほんとに破産しちゃうんだ」という感慨をもったりその経済的社会的影響の大きさに心を痛めたりはするものの、どちらかといえば驚きよりも、来る時が来た、という感じのほうが強いです。ここまで時代に逆行して経営していれば、ある意味、破綻は当然。じゃあ、どうしてそこまで強気でふんぞり返っていられたんでしょうか?その秘密の一端がわかるのが、「クルマが鉄道を滅ぼした~ビッグスリーの犯罪」です。アメリカがクルマ社会なのは、ビッグスリーとりわけGMの、壮大な戦略によってもたらされていた、というのです。まずはバス・トラックを製造してバス会社、トラック会社と契約を結ぶ。ここまではフツーです。次にバス会社を買収、あるいは設立して、運営にもあたるようになります。これもまあ、フツーかも。そしてここからがすごい。ライバル会社である鉄道会社も買収して傘下におさめちゃうんです。そして鉄道の路線を少なくしたり、料金体系を高く設定したりして、「バスのほうが便利」「トラック輸送のほうが低コスト」な状況を作る。使い勝手の悪い鉄道は客離れを起こし、やがて廃れていきます。つまり、会社をのっとっておいて、その会社をつぶしにかかったわけ。次に、バスと自家用車の競争。せっかく鉄道に勝ったバスの路線網を、今度は縮小していきます。「バスより自家用車のほうが、便利」な状況を作るために。そうやって、低コスト、低エネルギー、大量輸送が可能な公共交通は、アメリカから次々と姿を消していったそうです。「それしか選択肢がない」状態をつくり出し、GMの自動車がいいと思わせる。本当に消費者が望むものではなく、周りのパフォーマンスを意図的に抑制した結果の、「相対的」なクルマ優位なのに、人々は気づかない。自分たちがちゃんと考えて、「いいもの」を選んだ結果だと思っている。著者のブラッドフォード・C・スネルは、あまりに寡占状態の自動車産業で、企業間の競争力がまったく働かないことにより、企業の目的(=もうかる)によって社会が造りかえられてしまったことをこの本で実証しようとしています。もちろん、国の優遇政策も大きく働いています。日本もこの経済危機にあって、抑制にかかっていた「ハコモノ」行政がどーんと予算に組み込まれたり、高速道路を使ってください!と料金を安くしたり、前時代的な政策に逆戻りしている感があります。いいのかね?これで。「京都」議定書っていう日本の都市の名前がついているプロジェクトで省エネルギー技術の最先端を行く日本がリーダーシップをとる、などといきまいていたのに、中間目標が4%「増」なんて試案が出てたりして、「そんなこと、世界の笑いものになるから言えません!」って環境大臣が記者会見で言っちゃうっていう……。環境立国っていうには、あまりにもおサムい。国がどっちを向いているか、企業が、国をどっちに向かせているか。つくづく、政策とは哲学だと感じます。ビッグスリーの「犯罪」は対岸の火事ではなく、身近にあるのかも。私たちの気づかない、いろいろな仕掛けがあるかも、と背筋がぞっとした本でありました。
2009.06.04
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明治天皇(1)ドナルド・キーンの著作「明治天皇」の第一巻は、明治天皇の誕生から幼少期に焦点をあてているだけに、父親である孝明天皇についての記述が多い。つまり幕末の動乱について、朝廷側の動きが非常に具体的に書いてある。もちろん、フィクションではなく、「明治天皇紀」「孝明天皇紀」など、歴史的な資料に基づき構成されている。おもしろーーーーーーーい!!この前の大河ドラマ「篤姫」では無言で笛ばっか吹いてた孝明天皇(扮したのは東儀秀樹)ですが、実際はとってもハキハキした人だったのね~。手紙もガンガン書いて、それらはたくさん残ってます。「よきにはからえ」的に、おろおろする天皇ではなく、自分の、そして天皇というものの、役割と使命をしっかり自覚していて、ただそれだけに「絶対外国人を入れない!」っていうそこに固執したために、いろいろと軋轢が生じてしまったのねー。面白かったのは、異腹の妹・和宮を興し入れさせた徳川家茂(「篤姫」では松田翔太)に、親しみを感じて接していた、というところ。当時、孝明天皇は30歳を過ぎたころ、家茂に至ってはまだ18とか19とかでありまして、若くして一国をとりまとめねばならない苦労とか、けっこうお互い共感できるところ、あったのかも。孝明天皇は、「攘夷」論者だったけど、決して幕府を倒したいと思っていたわけじゃないし、公武合体が成功しないと、和宮だってかわいそう、と思っていたみたい。「今までと同じ、これまでと同じ」。つつがなく、伝統を受け継ぎ、次世代にバトン・タッチする。これが、天皇の使命の一つなんですものね。とってもアタマがよかったのに、それに対処できない自分が情けなくて、「こんなことになっちゃったのも、家茂くんが悪いんじゃないんだよ、 ボクがちゃんとしてないから。ボクの責任だ」という手紙もあります。(天皇が「ボク=僕=仕える人」って絶対使いませんけど、 シチュエーションわかりやすくするための意訳です。お許しを)自分こそ、この日本を統べている人間だ、という自覚が、孝明天皇にはあったわけですね。徳川の世が300年続こうっていう末の天皇で、その間、朝廷には政治的なこととは無関係に過ごしてきたというのに、です。そこだけ見ても、この天皇の自負と責任感がわかります。でも、うまくいかなくて……。そして孝明天皇は、酒と女色におぼれていく、のだそうです。そんな孝明天皇は、なかなか祐宮(さちのみや・後の明治天皇)を立太子しません。子どもたちがどんどん早世してしまう中、ただ一人10歳を過ぎて育ちゆく男の子、祐宮なのに、どうして次の天皇になる人=皇太子と認めないのか、これはすごく興味深いです。「あいつは、オレが重く用いる者を悪く言い、 オレが遠ざける人物を賞賛する。 わが子ながら理解不能。油断してはならない」という言葉(もちろん、オレなんて言いませんが)も残っており、同じ屋根の下で生活することなく、時々会うだけの息子があんなにかわいがっていた息子が、側近の影響なのか女官の影響なのか、自分の意に反する育ち方をしてしまったことへの苦悩がにじみ出ています。だからこそ、けっこう気の合う家茂との語らいが楽しかったんでしょうね。家茂が上洛すると、なかなか江戸へは帰さなかったみたいです。その家茂が20歳の若さで急死したとき、孝明天皇はきっと、ものすごく落胆したことでしょう。そして、孝明天皇自身もまもなく急逝。彼もまだ35歳でした。そして、祐宮が次の天皇に決まります。まだ元服も済ませていない13歳。孝明天皇の時代に関白だった人がそのまま祐宮の摂政に横すべり、「今までとは、何も変わりません」で始まったのですが……。さてこれからが「明治天皇」の時代ですね。まだ第一巻の半ばです(汗)。いったい、いつ読み終わるんでしょう?
2009.06.03
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あ・うん新装版「百年読書会」は、朝日新聞上で月一回課題の図書を決め、作家の重松清氏とともに感想を言いあっていく、という新聞読者を巻き込んだ読書会。課題の本を選んでいるのは、誰なんだろう?重松さんかな。「斜陽」→「楢山節考」→「あ・うん」と、選書の基準がよくわからん。敢えていえば、「家庭」「家族」なのかしら。文部省選定の「良書」とはちょっと違った、多少ブラックの利いたホームドラマ。そんな小説たちである。第3回の「あ・うん」も、一筋縄ではいかない。男と男の友情、夫婦の絆をまっすぐで清廉な表向きと、隠微でどろどろした内面を同居させて描く。著者の向田は、読者が抱くであろう胸のざわつきを、「絶対に解消させないからね!」といわんばかりに決して本心を明かさない女たちの不気味な含み笑いと、男たちの瞳の中に置き去りにしたあきらめとを絶妙な「やじろべえ」の上において物語を進行させる。向田を天才的だと賞賛する同業者は多い。私も、その描写力、鮮やかなシーンのしつらえ方には舌を巻く。時折見事にさしはさまれる登場人物たちの交わす「ジョーク」な会話は、本当に絶妙で、思わず吹き出してしまう。けれど、これって「ブンガク」なのかなー。「シナリオ」とは違う形態にはなっているけれど、やはり映像を前提とした作品ではないか、向田の頭の中で、一度映像化されたものを、ノベライズしたもの、という印象がある。その証拠に、金持ちで、遊び人で、無二の親友・水田を大事にしながらその親友の奥さんを好きで好きでたまらない男・門倉は最初に出てきたその1行目から、どこをどうみたって杉浦直樹だし、その門倉の夫人で、夫の遊蕩の数々も、本当は水田の奥さんのことが好きな夫の心のうちも、ぜーんぶお見通しだけど顔色一つ変えない君子は、やはりどうしたって加藤治子でなければいけない。大人の階段を昇ろうとしている内気な、しかし大胆な水田の娘は岸本加世子だ。口をすぼめ、大きな目を見開いて、父と母と門倉の、プラトニックだが隠微な三角関係をじっとみている。穏やかで、時間とお金の豊かさ加減がちょうどよい具合の昭和初期・中流家庭の平和な時間が金魚鉢の中の騒動で右にゆれ、左にゆれしている間に気がつけば戦争は進んでいて、町の景色は灰色に、人の気持ちも未来が描けなくなっている。そんな絶望の中に咲く、「恋」という名の真っ赤な花の狂い咲き…。「激情」という、すべてをのみこむ洪水の潔さ…。最後のページを終える私の脳裏には少しゆったりとして、少しさみしい、だけど長調の、エンディング・テーマが流れる。やっぱりテレビじゃん。私の脳内ではみごとにテレビドラマに変換されてこの本は消化されていきました。どっちが上とか下とかいうことではありません。私が「小説」に求めるものとは違い、「ドラマ」に求めるものと合致した魅力が、この本の中に詰まっていた、ということです。
2009.06.02
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「アメリカの国民のわずか3%に満たぬユダヤ人が、アメリカの中東政策を左右している。それはなぜ可能なのか」そう書かれてあったので、その答えが書いてあるかと読みました。ユダヤ人社会というものが、どう形成されているか、「国を持たない民族」にとって、イスラエルという国家がいかに心のよすがとなっているか、宗教でつながった社会扶助組織が「選挙」でいかに力を発揮するか。「所得の1割は困っている人のために」というユダヤ教のおしえがその組織をいかに堅固なものにしているか。「ユダヤ人の金持ちがアメリカを牛耳っている」というわかったような見方をしちゃいけないな、と思った。「ユダヤ人大好き」だった著者が、イスラエルのパレスチナ人への対処に疑問を持ち始め、そこから何人もの生身のユダヤ人を取材してまわった。一次資料の具体性が、この本のいいところだ。「およそユダヤ人というものは」といった観念的な話ではなく、「この人は」の集積がここにある。だから、一口に「ユダヤ人」といっても、いろいろなタイプがあるのだ。ただ、なんといっても「9.11」以前の話なので、読んだあと、「今はどうなってるのかな」を考えずにはいられない。その点が、なんとももどかしい読後感であった。
2009.05.26
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ネトゲ廃人「ネトゲ」とは「ネットゲーム」の略である。「ネトゲ廃人」とは、つまり、ネットゲーム中心の生活から抜け出せず、リアル(現実社会)での生活に支障をきたした人々のこと。ネガティブな意味だけでなく、「そこまでやりきった!」勲章的にも使われるとか。この本は、「ネトゲ廃人」的生活を送ったことのある人々に直接話を聞いて人々は、なぜ生活がこわれるまでネットゲームにのめりこむのか?という素朴な疑問から始まってネットゲームの長所と短所、ゲームにはまる個人的な理由と社会的影響などを非常にわかりやすい言葉でまとめている。「ネトゲ廃人っていうからヲタクだろ」という予想を見事に裏切る、キレイなおねえさんのインタビューから始まるのがミソ。若い女性、主婦、夫婦ではまった人、少年、などなどさまざまなタイプの「ネトゲ廃人」経験者が登場する。さまざまな理由でハードゲーマーになり、紆余曲折あって今は「リアル」でも居場所を取り戻している人たちがほとんどなので、筆者がいうように彼らほどの意志の強さや絶対にあきらめずに支えてくれた人がいない場合(おそらくそういう人のほうが多いかも)のことを想像すると、胸がいたくなる。興味深いのは、子どものときからネットゲームに依存した生活をしてきた人たちが「自分がいうのもなんですが……」と前置きしながら口をそろえて「自分の子どもには絶対にネットゲームをさせない」と言っている点である。彼らが「ネットゲームで失ったもの」として挙げるものの多くは「時間」だが「リアルの人間関係」とか「まっとうな人生」というのもある。グループを作って協力して敵(モンスターなど)を倒すゲームが多く、6人集まらないとゲームが始まらない、途中で抜けるとグループとしての戦力がガタ落ちになる、など連帯責任的な部分があるため、「途中で切り上げる」ことに罪悪感を覚え、抜けられなくなる。そして、ネットゲームでの人間関係や約束を守るためには学校や会社に時間通り行くとか、友人たちとの外出などリアルの世界での約束を反故にしてもかまわない、と思うようになる。「私が眠ると、みんな死んじゃう」というコピーは、そういう状況を端的に表している。かくいう私の息子も「7時に待ち合わせだったのに、一時間遅刻してきたヤツがいた」などと話すので、「え? 今日どこか行ったの?」と尋ねると、「いや、ネットの話」だと。もうリアルもバーチャルもないのである。そんな息子にちょっと不安を覚えながらも、(私だってmixiとかブログとかで、けっこう友だち作ってるし)などと軽く考えていたのだが、その息子が、やっぱりいうのである。「子どもにはやらせちゃいけない」深夜、小学生くらいのがやってるらしい。リアルでの自我が確立する前にバーチャルにはまると、「ゲームは所詮ゲーム」と割り切る思考がはたらかず、もう引き返せない、と息子はいう。所詮、ゲーム会社がもうかるようにできている商業的な面なども子どもにはわからない。日本よりずっとネットゲームが盛んな韓国で今何が問題になっているかも紹介されている。(彼は韓国にも取材に行き、各方面の人たちをインタビューしている)子どもたちのネットゲーム依存をなんとかしようとして、ただやみくもに「禁止」するのは逆効果で、まずは「時間制限」から、だそうだ。「ゲーム自体が面白いから」「ほしいまま昼夜逆転生活ができる環境があるから」といった側面だけでなく、ゲーム依存の裏に隠されている現実社会から逃避したくなるような要因にも目をむけなければ、この問題は解決しない、という面にも注目したい。どんなものにもメリット・デメリットがある。そのどちらをも受け入れつつ、それでも「これは大変なことが起こっていやしないか?」というジャーナリストとしての嗅覚が書かせた本である。ネット環境・携帯環境を是とする人も非とする人も、子どもを持つ親は、必読。
2009.05.14
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朝日新聞の「百年読書会」の2回目お題。知っている話だとタカをくくっていたが、なんと初見だった。映画を観ているために錯覚したんだと気がつく。映画とはまったく違う印象をもった。以下、ネタバレあり。というか、作品の性質上、読む前からネタバレ必至だが、ディテールに関しても、ネタバレをご容赦いただきたい。ご自分の感性との出会いを大切にしたい方はまず小説を読んでから以下をお読みください。短い小説です。楢山節考改版よく、小説とは「それ以上、何を足すことも何を引くこともできぬ完全な世界」と表現される。この「楢山節考」を読むと、まさにそのような、自己完結した硬質なものを感じる。いかなる予断も、論評も挿しはさむ余地のない強い覚悟と隙のなさだ。主人公はおりんという村の老婆である。69歳になっても歯がしっかりしている自分を「老人らしくない」と恥じるようなしゃきっとした女性。やもめの息子・辰平に後添えが来るかどうかと、3人の孫のこれからを、心配している。おりんの語り口の中から村で70歳になると「楢山まいり」に行くという、その「楢山まいり」は毎年行なわれる盆の祭り「楢山まつり」と同じように、最初はめでたい日として記憶される。そのうち「楢山まいり」には言うに言われない「くるしみ」がついていることが少しずつ垣間見えてくる。辰平が、「楢山まいり」の話を避けたがる。辰平の後添えの玉やんも、「ゆっくり行けばいい」とひきとめる。「早く行け」という孫のけさ吉の言葉が、残酷に感じられる。誰もおりんを憎んでいるわけではない。やっかいだと思っているわけでもない。ただ、食べ物が足りないのだ。誰かが増えれば、誰かがはみ出す。そうでなければ共倒れだ。食べ物を盗んだ村人への集団リンチは壮絶で、リンチに加わったけさ吉が嬉々として戦利品の芋を持ってくるかたわら、辰平は、一つ間違えば明日はわが身と心を硬くする。おりんの願いは一つ。どうせ「いく」なら「正しく」「美しく」いきたい。今まで後ろ指一つさされず、笑いものにされず生きてきたその集大成が、儀式にのっとった「正しい」楢山まいりの敢行なのである。嫁であれ姑であれ、家族として村人として、最後まで「やっかりものになりたくない」これが、おりんの生きがいだ。おりんと対比されるのが、隣りの家の又やんである。おりんとほぼ同い年。又やんは、「いきたくない」。辰平とちがい、又やんのせがれはそんな親父をなんとしてでも「いかせよう」とする。これもまた、同じ村にいての結果である。どういう道筋を通っても、「いかねばならない」ことに変わりはない。圧巻は、最後の「楢山まいり」の道程の描写だ。「山へ入ったもの」だけが見る光景が壮絶。それはまさに「地獄まいり」の旅である。地獄に置いておかれる者も苦しいが、背板に親を乗せて連れて行く者も苦しい。その「苦しさ」が辰平にしても又やんのせがれにしても、非常にリアルに描かれており、空の背板を抱えて村に降り、再び日常生活に戻る者たちの心の重さがさらに偲ばれる。「山へ入ったもの」だけが酒を振舞われ、伝授するという儀式の意味が彼らを畏敬の念で特別視する村人の気持ちがわかってくる。そして。「楢山節」とは、歌である。営々と続く村の暮らしのなかで、人々が口にできない悲しみと感謝を歌におしこめて語り継ぐのである。だからこそ、おりんは「きれいに」「正しく」いきたかったと知る。自分を「きれいに」伝えてもらうために……。けさ吉がおりんのために歌う楢山節がいちだんと美しく描写されるのは、へらず口をたたき、祖母おりんのことなど屁とも思わぬけしきのけさ吉の心の内の内ではおりんを慕っていることを皆がわかっているからだ。私がこの小説でもっとも好きな場面は、辰平がおりんを置いて村に帰ってきたときの、家族の描写である。人が死に、その人の死を乗り越えて生きていく「live」というより「survive」に近い感じ。玉やんの不在も心にしみるが、一見残酷に語られた帯や綿入れがおりんという人の記憶を保存し、村の生活に残るだろうと感じれられる幕切れである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それにしても、深沢七郎という男の経歴には、興味を抱かずにいられない。写真を見る限り、温和で柔和なおじさんでしかないが、「少年時代からギターをはじめ、戦時中にリサイタルを17回、 戦後は日劇のミュージックホールにも立つ」から始まるプロフィール。その後1956年、第一回「中央公論新人賞」に当選したのが、この「楢山節考」なのだ。そのときの選者が伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫だったと聞くと、当時の文学が持っていた厚みと華やかさが知れようというもの。その後自作が事件を誘発したということから放浪生活に入り、「ラブミー牧場や今川焼きの店などを経営」って何のこっちゃ??でも創作はちゃんと続け、1979年「みちのくの人形たち」で谷崎潤一郎賞を受賞している。うーん、ナゾだ。泉谷しげるみたいな人かなー、などと妄想してみる。心の叫びを歌にして、歯に衣着せないから誤解もされ、ぶっきらぼうだけど優しくて、世の中を斬って捨てるようなそぶりをしながら人なつこく、孤独を強いつつさみしがりやのような。じいさんのような子どものような。新潮文庫に収録された他の作品「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」「白鳥の死」を読んで、そんなふうにも想像した。
2009.05.08
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旅先の宿で出会った素敵な写真集をご紹介します。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジがよく見渡せる場所に引っ越してきた写真家・Richard Misrachは、数年にわたり、定点写真を撮り続けます。海・空・太陽・月・虹・雲・そして霧。時間が作り上げ、神が描き給う一つとして同じものはない自然のキャンパス。あまりに美しく、心奪われたので、帰宅後すぐさまamazonにて購入。空や雲を描いたものとして、先人の絵画が解説されている文章も興味深い。ゴールデンゲートブリッジ付近の地形の説明や、この地で人間が積み重ねてきた歴史も紹介。英語ではあるが、いきなり「ロラン・バルト」から始まる文章も味わいがある。かつて東京・お台場に住んだとき、家の窓から見える海・空・レインボーブリッジ・富士山・東京タワーという構図と、毎夕日暮れに繰り広げられる七色のグラデーション、陽光を反射して金色に輝く海面、赤い月が妖しく残る夜明け前など絵心のない私にさえ1枚の水彩画を描かしめた自然の美しさをこの写真集は思い出させてくれた。けだし、自然は美しい。ドル安円高の今、お買い得です。
2009.03.31
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「非正社員から正社員になる!」時節柄、なんともタイムリーな本である。ただし、著者はここまで経済が落ち込む前から取材を始めている。だから、「派遣切り横行! これからは何がなんでも正社員!」みたいな集団ヒステリー状態のような口調の本ではない。冷静で、分析的。1の事例をもって全体を語るような水増しがなく、自分の足で稼いだ数々のインタビューに説得力がある。特に、「非正社員の正社員化」を進めている6社への取材と分析が素晴らしい。情報・金融、衣料・小売、食品・外食と立場や事情の違う産業からピックアップ、それぞれがもつ特殊な事情と「正社員化」とのつながりをきちんと示す。しかし、異なる立場の企業であっても、ぶつける質問はみな同じである。質問を平準化しているだけに、共通点と独自性とが際立ってよどむところがない。企業にとって「正社員とは何か」「正社員に何を望むか」が手に取るようにわかる本となっている。その一方で、自身が企業内での自分の立場を守るために、会社を相手取って実際に長く苦しい闘いをした経験があるだけに、「正社員は本当に守られているか」についての記述はなまなましい。泣き寝入りはするな、しかし安易に会社と対立するな。周りの人たちに支持される戦い方を選べ。会社と戦うときは、やめる覚悟をしてから。やめる前に、次の働き先を決めておけ。このあたりは、「経験者は語る」の極致。一見冷徹な本のようでいて行間にぬくもりを感じるのは、そこに「痛み」が存在するからだろう。著者は『年収1000万円!稼ぐ「ライター」の仕事術』の吉田典史。「稼ぐ」ことの厳しさを知っているだけにサラリーマンに対しても、ただ安定をむさぼるだけの正社員に明日はないことをしっかり指摘。「♪サラリーマンは~、気楽な稼業と~きたもんだ~♪」と植木等が歌うような無責任男が正社員をやれる時代ではない。単に「正社員になれば人生バラ色」な本ではないところが彼の著作たる真骨頂でもある。若い世代をターゲットにした光文社のペーパーバックスBusinessはヨコ書き左とじ。最初はちょっと違和感を感じるが、内容に圧倒され数ページでヨコでもタテでも何でもよくなってくる。若い世代だけでなく、出産・子育てを経てパート再就職をしている人におすすめ。中断前のキャリアを生かし、あるいはパートで積み重ねた実績を評価してもらい、正社員になる、安定した収入と立場を得る、やりがいのある仕事を任されるためのヒントが満載だ。「会社」というものを知っている人にこそ響くものがつまっている1冊である。『年収1000万円!稼ぐ「ライター」の仕事術』については、こちらにレビューを書いています。
2009.03.18
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ようやく、出てまいりました!諸葛孔明。ここまで読んで思ったこと。とても人の好い男(玄徳)の周りに、とても力の強い男たち(張飛、関羽、超雲)が慕い集まる。ひとつひとつの戦いでは強いのだが、人を信じすぎて計略にひっかかったり、単純すぎたりして、どうもうまくいかない。やっぱり、策士が必要なんだ。という感じで、二人目の策士として諸葛孔明が出てきます。アタマとカラダとココロが力を合わせて、これからどのくらい伸びていくものか、興味津々です。
2009.02.18
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映画「レッド・クリフ」のPart1を観て、今まで敬遠していた「三国志」にちょっと興味が出てきた私。「レッド・クリフ」のPart2が封切られる前に、ちょっとは「三国志」に強くなっていたい!でも……「三国志」、長いんですよね~。…と思っていたところ、古本屋さんで見つけたのが「物語三国志」。社会思想社の教養文庫643、文庫1冊のお手軽三国志です。「原文70万字、和訳すれば400字詰原稿用紙4000枚になる長編『三国志演義』を1冊にまとめる困難をあえて引き受けた」という訳者・芦田孝昭氏の前書き(「はじめに」)がふるってます。機械的な圧縮は避け、原文の味わいを出しつつしかも読みやすく、という意気込みは、十分結果を出している、と思う。実はまだ途中までしか読んでいないのだけれど、(諸葛孔明、まだ出てません)ひとつの戦いが3行くらいで終わっちゃうくらいダイジェストなのにも拘らず、面白いんです、三国志。「レッド・クリフ」を観ているせいで、曹操、玄徳、関羽、張飛、超雲、などといった登場人物の顔が浮かび、特に関羽や張飛は文に書いてあるとおりの顔だったので、とっても親しみがわきます。このダイジェスト版を読み終わったら、原作もちゃんと読んでみたいなー。とりあえず、ダイジェストを読み終わらなくっちゃ!
2009.02.17
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ヴィクトル・ユゴーといえば、『レ・ミゼラブル』。そして『ノートルダム・ド・パリ』。どちらも大好きですが、ユゴー好きの人のコミュニティをちょっとのぞいたら、「『九十三年』が好き!」という人がけっこういたんです。『九十三年』って、何??「九十三年」とは「1793年」のこと。1789年にフランス革命は勃発したのですが、一日暴動があって王政がひっくり返って、翌日から平和になったってわけじゃございません。ルイ16世やマリー・アントワネットが捕らえられてからも、王党派との内戦があったり、他の国からの干渉があったり、共和派の内部でも穏健派から急進派へと権力が移り、恐怖政治へと突入、きのうまで「フランス」を動かしていた英雄が、次の日は断頭台へ。Aを断頭台に送ったBも、翌週には断頭台送り、というふうに、政局はめまぐるしく変わっていくのでした。そうした狂った季節の中でも、「93年」は特別な年なのだ、とユゴーは考えた。ノルマンディー地方を中心とした王党派の大きな反乱、ロベスピエール・マラ・ダントンの三傑のそれぞれの思いと行く末、それらを通し、「93年」の理想と現実、友愛と冷酷を、一つの物語の中に結界させて「革命」とは何なのか、人間の営みとは何か、時代は正しかったのか間違っていたのかを、厳しく問うたのでした。非常に政治的で生臭い話でありながら、突然赤子のみずみずしさをぽんと提示するようなチェンジ・オブ・ペースが見事。テンポのよい詩的な文章と、ギリシャ神話など古典の一場面になぞらえるなど、比喩の豊かさ。そして、次々と起こるドラマチックな事件。容赦ない冷酷さを見せ付けた男がふと垣間見せる優しさや、正義の人だと思っていたのに、ずる賢さが背中にべったりついていたり、時には指導者の孤独、あるいは無学な者が経験豊かな賢者であることへの驚き、などなど、登場人物は皆、微に入り細に入り丁寧に描かれてありとあらゆる立場と階層の人たちにとって「革命」とは何だったのかが伝わってきます。特に終盤、3人の幼子の命をめぐっての攻防は、手に汗握ります。末っ子の金髪の巻き毛の女の子が、無邪気に独り言を言っては笑うところなどを挿入しているので、「あの子はいったいどうなるの~???」ユゴーは、「どんなに高邁な理想をくっつけたって、人の命に鈍感ではいけない」と言って「革命」の冷酷さ、愚かしさを糾弾します。でも一方で、「その残酷さがなければ、革命は完遂されないのだ」と革命を擁護もするのです。王党派も共和派も、93年に生きた人々は誰も、ただ冷酷だったり、ただ優しかったりでは1秒も生きていられなかった。自分の中に矛盾を抱え、十字架を背負い、身を引き裂かれながら、一歩一歩進んだ。血を流し、泣きながら、苦しみぬいて進んだ。そのおかげで、今がある。私たちが、「人権」を当たり前のように要求できる社会に暮らせている。人間とは決して完璧なものではない。完璧でないのに、答えを出さなければならない。よきものも悪しきもののために捨て、悪しきものもよきもののために使い、人を殺し、人に殺された先人の苦悩する魂と累々たる死体に敬意を評する物語である。政治に、責任をとろうとした人々がこの物語の中には、いた。
2009.01.27
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昨日の関連本です。学生社発行。シンポジウムのまとめですが、内容もりだくさん!古代史に興味のある人に大オススメです!今日も熱下がらず。風邪薬を持つのを忘れて外出してしまいました。
2009.01.14
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「難波の宮」読書中。山根徳太郎物語にして、感動的。すみません、熱発中です。今日は詳しくは書けませんが、とても読みやすくわかりやすいです。
2009.01.13
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カラマーゾフの兄弟(5(エピローグ別巻))4月から始まった「カラマーゾフの兄弟」の読書会。7回のうち、行かれたのは初回、二回目、そして最終回の今日。中抜けも甚だしいのだが、この読書会に参加していたからこそ、ひと月に2章は必ず読むというリズムができたし、何より、「カラマーゾフを読もう」と思わせてくれた。ありがたい。今日は、12章とエピローグについてそれぞれが「もっとも気になった部分はどれか」また、最後ということもあり、全体を通じて「もっとも気になった人物は誰か」を発表しあいました。また、12章は陪審員の前で裁判が繰り広げられ、状況証拠だけで人を裁けるか、という命題がふくまれています。日本でも裁判員制度が始まり、「もしこの裁判に関わったら、自分はドミートリーを有罪にするか、無罪にするか」ものすごく自分の身に置き換えて読んだ人が多かったのが印象的でした。同じく、「ドミートリーの弁護士はやり手だし、言っていること、筋道はよく通っているが、ドミートリーの無実は信じてない。無実は信じていないが無罪にする、という技術に走っていないか」という指摘も興味深かったです。何度も読むと、また印象も変わってくる、という人もいて、一度読んだだけでは見えないものをおしえてくれるのも、読書会ならでは。最後に参加できて、本当によかったです。来年は「ファウスト」に挑戦しませんか?とお誘いを受ける。・・・どうしよう・・・。来年のことは、来年、考えよっと。とりあえず、手塚治虫のマンガを紹介しておきました。何事も才気煥発、スピードが要求される忙しい世の中ですが、エッセンスだけをかいつまんでわかった気になるのではなく、ディテールをまるごと知ることで開ける地平というものを大切にしよう、という話で、今回の読書会はお開きとなりました。得るものの多かった半年。みなさん、ありがとうございました!
2008.12.09
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この前、私は「カラマーゾフの兄弟」を「3000ルーブルと女と神」の三題話というとらえ方をしました。これは、間違ってないと思います。でも、一番肝心なことが抜けてますね。それは「父殺し」です。ごうつくばりで、女好きで、悪態つきで、そんな老人・フョードルが、殺される。父・フョードルと、女(グルーシェニカ)を争い、「殺す、殺す」とわめきたて、金属の杵(きね)を片手にフョードルの元へ乗り込んだドミートリー。見咎められて、使用人のグリゴーリーをその杵でめった打ちにしてしまいます。その直後、父からふんだくろうとしていた3000ルーブルに匹敵する金を、血みどろの手でわしづかみにして大判盤振る舞い。宿場あげてのどんちゃん騒ぎをやらかします。どうみたって、状況証拠が指しているのは「犯人はドミートリー」。ところが、彼は否定する。「殺意はあったが、ギリギリのところで神様が助けてくれた。 俺は悪人だが、親殺しじゃない!」これを、12人の陪審員が裁くわけですよ。ドミートリーの弁護人が、けっこうやり手で、「状況証拠」のアナを次々と指摘、「彼の行いの数々はほめられたものではないが、父親は殺していない」を力説。傍聴人席は、「こりゃ、有罪にするのは難しいだろう」という空気に包まれる。そこで出た陪審員の評決は、なんと「有罪」!真犯人の「告白」を聞いて(読んで)いる読者にすれば、いわゆる「冤罪」事件の目撃者となってしまうのです。その上、「カラマーゾフの兄弟」は、冤罪の理不尽さや残酷さを告発する物語ではありませんでした。ドミートリーは「実行」はしていませんが、「殺意」を抱いたことはある、その一点で、裁判の結果を甘んじて受けます。「殺意」によってさばかれるのは、ドミートリーだけではありません。真犯人から「あなたの手足となった」と言われる次男のイワン。「やれ」と言ったわけではない。それなのに、「あなたは心の中で、それを望んでいた」と言われたイワンは、グウの音も出なくなって罪の意識にさいなまれ、いつしか神経を病んでしまうのです。父親を軽蔑していた。早く死んでほしいと思っていた。今、グルーシェニカと再婚なんかされたら、元も子もなくなる・・・。今死ねば、遺産がころがりこんでくる。ドミートリーが殺して捕まれば、彼の遺産相続権はなくなるし。倍増だ。そんなふうに思っていた。イワンは、自分を「有罪」だと思う。「実行」はしていないけれど。ストーリーを追っているときは、ミステリー小説を読むように、「そうとわかる証拠や伏線は、どこに隠されているか」を考えながら読み進んでいました。そのゴールが「冤罪」。真犯人にも嫌疑はかかりますが、証拠不十分です。一文一文に出てくるものや、表現に注意しつつ、「一体誰が真犯人なのか?」を求めていた身にとっては、なんだか肩透かしをくったようで、消化不良。胸にもやもやがつかえます。でも、今、読み終わって、亀山郁夫の「解題」も読んでみると、この「父殺し」というテーマは、単なる「殺人事件」ではなく、もっと心の奥深くにある「親との対峙」なのかもしれないとも思うのです。ドストエフスキーも、実は父親を突然亡くしています。強権な地主だった父は、領地のはずれで、農奴に殺されたのです。しかし、証拠はなく、事故扱い。ドストエフスキーは、ペテルブルグの工兵学校にいました。「親孝行 したいときには 親はなし」といいますよね。そばにいすぎて、干渉されて、押し付けられて、人生捻じ曲げられて、底の浅さが透けて見えるような、俗物人生歩んでるのに大きな顔して、うざったくて、重たくて。そんな「親」から逃げたくなる瞬間は、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。でも親に死なれてみると、いかに自分が親に理不尽なことをしていたかを痛感するものです。「俗物」に見えたけど、矛盾だらけの世間と折り合いつけながら、けっこうがんばってたこともわかってきます。「あの時、俺が殴ったのが原因じゃないか?」「あの時、家出して心配かけたせいじゃないか?」「あの時、なんでやさしい声かけてやれなかったんだろう?」「あの時、どうして返事一つしなかったのか」親の死が自分のせいじゃなくても、自分のせいに思えること、たくさんあります。憎しみの霧が次第に晴れていって、思いもかけず、自分が親を慕っていたという事実を突きつけられる。そのとき、心が痛むのです。そして、もう、取り返しがつかない、と思うと、どうしようもなくやるせない。ドミートリーは、罪は引き受けたけれど、その分心は晴れやかです。「やってない」と自分の良心に言え、愛する人たちが、それを信じてくれている。そこに魂の安息がある。イワンは、人に裁いてもらえなかった分、自分の良心と対峙しなくてはならないのです。それも、彼は「神」に信を置いていない。だから、「神」に許してもらって楽になることができない。自分の知りたくない自分と真っ向対決する。それに、イワンは耐えられるのか?真犯人もそうです。ドストエフスキーの小説に出てくる罪びとは、最後は自分の罪の大きさに潰される。ドストエフスキーは、暗い、とか、陰惨とか、そういうふうに思われがちですが、こう考えてみると、彼は非常に人間の良心を信じていたのではないだろうか。そんなふうに思いました。
2008.09.30
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カラマーゾフの兄弟(5(エピローグ別巻))亀山郁夫・新訳の「カラマーゾフの兄弟」は全5巻ですが、これはドストエフスキーが考えていた構想「4部+エピローグ」をそのまま形にしたものだそうです。最後の「エピローグ」はものすごく短くて、だから5巻目として独立させたのは初めてだったとか。第5巻は、この「エピローグ」のほかに、「ドストエフスキーの生涯」と「年譜(ドストエフスキーの年表)」、そして「解題『父』を『殺した』のはだれか」が収められています。この「解題」がすこぶる面白い。「カラマーゾフの兄弟」を読んできて、どうもひっかかったところ、なぜかすんなり進めなかったところ、合点がいかなかった点について「へー、だからかー」と思わせてくれるんです。もし、今までに「カラマーゾフ、途中で挫折しちゃった」とか「どこが面白いんだかわからない」とかそんな感想を持った方は、ネタバレ必至ではありますが、この「解題」を読まれるとすこしスッキリして、もう一度読んでみようかな、と思われるかもしれません。それに先立ち「ドストエフスキーの生涯」もぜひお読みください。作品を理解するために、著者の生涯を引き合いに出すのは、ある時代までは当たり前のことでした。今は「作品は作品、作者の人生とは切り離して、作品として評価する」が主流。作品を読み解く鍵を、すべて作者の生活の中に答えを見出そうというのはある意味安易なやり方かもしれません。実人生は実人生、フィクションはフィクションです。でも、生みの親を100%切り離すことなんて、どんな芸術もできないはず。ましてや、自分の体験を多く織り込んである作品ならなおさらです。「カラマーゾフの兄弟」は、波乱の人生を送ったドストエフスキーの最晩年の作品。彼は、自分のすべてを賭けてこの長編を書き上げたようです。そうした、「彼の芸術の集大成」という面とともに、「未完」という側面も見逃せません。序文にははっきりと、この物語の13年後の話こそメインだと書かれています。でも、「13年後」は書かれないまま、ドストエフスキーは死んでしまいました。伏線だけが周到に置かれ、永久につながらないまま取り残されている。それが、「カラマーゾフの兄弟」なのです。大作だとか、名著だとか、ドストエフスキーだからだとか、そういう先入観を捨てて読み、自分なりの素直な感想を持ってから亀山さんの「解題」及び「ドストエフスキーの生涯」を読むと、もう一歩この小説が身近に感じられる気がします。やっぱり、1人の作家に生涯をかけて研究する人はちがうなー、とつくづく思ったのでありました。そんな研究家を向こうにまわして、何をかいわんや、ではありますが、明日は私なりに感じたことを書いてみようと思います。
2008.09.29
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カラマーゾフの兄弟(1)5月から読み始めた「カラマーゾフの兄弟」(4巻+エピローグ)、ようやく読み終わりました!ひとことでいうと、これは「3000ルーブルと女と神をめぐる三題話」だった感じがします。ちょっと「三人吉三」を思い出しました。内容に踏み込んでのレビューは後に譲るとして、今日は、「大河ドラマでやるとしたら、配役は誰?」で迫りたいと思います。まだ読み始めて日の浅かった5月、私はやはり同じようなことを5月28日の日記で試みています。全部読み終えて考えた配役は、以下の通り。カラマーゾフ家・殺されてしまう父・フョードル=佐藤慶・父殺しの嫌疑でつかまる乱暴ものの長男・ドミートリー=佐藤浩市・ドミートリーとは腹違いの次男・イワン=今井朋彦・イワンと母を同じくする三男・アレクセイ=藤原竜也カラマーゾフ家の使用人・忠実な下男・グリゴーリー=壌晴彦・フョードルの庶子ともいわれるスメルジャコフ=筧利夫女たち・フョードルとドミートリーの運命の女・グルシェーニカ=秋山奈津子・誇り高く、自分の心にウソをつけない女・エカテリーナ=鈴木京香・噂好きで、誰にでも好かれたい女・ホフラコーワ=大竹しのぶ・ホフラコーワの娘で自己顕示欲が強く、愛をおしつける女・リーザ=鈴木杏アレクセイの修道院関係・アレクセイの恩師・ゾシマ長老=仲代達矢・ゾシマを信奉しない見習い僧・ラキーチン=山本耕史以上です。ゾシマの仲代達矢、ドミートリーの佐藤浩市のイメージは不動でした。ドミートリーは奔放に暴れ、女に恋して何も見えなくなり、本当は泣き上戸の純粋なヤツです。エカテリーナは最後の方になって、けっこう印象が変わりました。上品さの中に、「女」が暴れている、そんな感じですね。アレクセイは、けっこう食えないヤツっていうか、正論まっしぐらのところがオソロシイ。そのあたりは、藤原竜也、真骨頂ではないでしょうか。スメルジャコフは、難しい役です。華があってはいけない。腰が低くなくてはいけない。でも目だけはギラギラしていないといけない。筧さんの不敵な笑みに期待です。フョードルも、スメルジャコフ同様、ヘビのようないやらしさがほしいです。それから、恰幅がいい人はダメ。やっぱ、佐藤慶。彼しかいない。ラキーチンがもっとも悩みましたが、アレクセイと同年代で頭の切れるスマートさの一方、傲慢で人を論破するのが好き、出世や金のためなら年上の女にもすりより、人を裏切ったり出し抜いたりするのもいとわない上昇志向の感じです。ということで、読んでいる人、読んでいない人、いろいろ空想していただければ幸いです。
2008.09.28
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「カラマーゾフの兄弟」の新訳が売れに売れているという。ものかきたるもの、ドストエフスキーの「カラマーゾフ」くらいは読んでおかねば、・・・と思いつつ、これまではなかなか手が出なかったのだが、「あらすじで読む名作劇場」で興味をおぼえ、お友達から読書会に誘われて、全5巻の最初の1ページに手をつけたのは、今年の春だった。読書会は1回目にお邪魔したきり、なかなか都合がつかず行けていないけれど、読むほうはちゃんと進んでる。現在第4巻も半ばに入った。新訳は非常に読みやすいので、「わけがわからない」「さっきのページからもう一度読まないと」みたいな苦労はない。ただ、これは若いときに読む本かもしれないなー、という気がする。ドストエフスキーは登場人物の揺れまくる心の変化を隠さない。そして、登場人物の「衝動的」ともいえる行動をそのまま書く。振り幅の大きい分、人物像を類型化することが難しい。そういう文章の一つひとつは、大きなエネルギーとなって迫ってきて、がさついた感触を残す。ディテールはものすごく提示されているのに、心の底の、そのまた底は、なかなかみつけにくい。私も歳をとったかなー。文章を「浴びる」前に、「考えて」しまうのだ。自分の中で、登場人物の「本心」を造り上げようとしてしまう。竹やぶをガシガシ進み、ひじやすねや頬に切り傷負いながら、それでもかきわけかきわけ前に進むような読書が出来ていない。あと数日すれば、4巻も読み終わるだろう。そして、5巻にたどり着けば、あとは一気に最後まで。最後に、私の心に残るのは何?今、ちょっと不安です。カラマーゾフの兄弟(4)
2008.09.19
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パリ燃ゆ(1)新装版私が「パリ燃ゆ」の第1巻を買ったのは、1983年。大佛(おさらぎ)次郎も知らず(オオフツとか読んでた。フランスだから仏か?とか)、何でパリが燃えたかも知らず、ただ「パリ燃ゆ」という題名に惹かれて買った。読んだのは、つい数年前。2003年くらいである。20年もほったらかしにしていた。なぜ思い出したように読んだかというと、引越しのため本棚を整理して、その存在に気がついた、という次第。「そういえば、1巻だけ買って、面白かったら次を買おう、と思ったんだっけ・・・」以来、1ページも読まずに本棚へ。その1ページをひもといてみると・・・・・・あまりの面白さに、1巻など、すーぐに読み終わってしまった。「パリ燃ゆ」の冒頭には、ヴィクトル・ユゴーについての記述がある。ユゴーはフランスの国民的作家だが、多くのフランス作家と同じく政治的発言を多々発表、当局からにらまれることも多い人生だった。ナポレオン三世時代には、亡命生活を余儀なくされているくらい。私は2000年ごろからユゴーという作家に目覚め、「ノートルダム・ド・パリ」「レ・ミゼラブル」を読んだ。だからこそ面白く思う「パリ燃ゆ」だったかもしれない。20年前にはわからなかったかも、とも思う。人は歳をとるといろいろ見えてきて、人生が楽しくなるものである。問題は、次の「2巻」を買おうにも、絶版になっていた点。私は図書館で借りて読破した。その「パリ燃ゆ」が、今年、復刻したというニュースに遭遇!私が買った当時は1冊440円の文庫でしたが、復刻版はお高いんで、万人に「買いましょう!」とはすすめられませんが、図書館で借りてならタダなので、ぜひ読んでほしい作品です。歴史好き、フランス好き、政治好き、浪花節好き、男のロマンが好き、そしてNHKの大河ドラマが好きな人には特にオススメ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「パリ燃ゆ」は、1871年に起きた「パリコミューン」について書かれた歴史物語です。フランスの歴史というと、1789年のフランス革命がダントツに有名ですが、実はフランスという国は、その後の100年で、次から次へと政治体制が変わりました。「人権宣言」を高らかにうたい、王政を捨てたものの、行き過ぎた「革命委員会」の恐怖政治があり、周りの国々からのしめつけもあり、気がつけば軍人ナポレオンも「皇帝」になってしまって、もとのもくあみ。するとまた「七月革命」「二月革命」などの揺り戻しがあって、「やっぱ庶民が王様ってのはダメ。血筋が大切」とばかりに王政復古も経験。最後はまたナポレオン人気で甥っ子が皇帝になるというドタバタが60年くらいの間に起こった勘定。国民はその嵐の中をかいくぐって生き延びたのでした。ミュージカルの「レミゼラブル」の「バリケードのシーン」は、このあたりのことを描いています。そして1870年、当時の支配者であるナポレオン三世は、ドイツと戦争を始めます。いわゆる「普仏戦争」。パリには物資が入らなくなり、現在の北朝鮮かそれ以上の飢えがパリ市民を襲いました。そしてナポレオン三世はあっというまにドイツに捕らえられてしまいます。フランスは、負けました。勝てる見込みのない戦争であったとしても、「勝てる」という意見が国民を魅了するところは、日本を見ているようです。そんな中で「パリコミューン」が興ったのです。1871年3月26日から5月20日まで、たった2ヶ月かそこらの短命だったこと、最後にコミューン兵士たちが惨殺されて終わること、などから、よその国の私たちは、花火のような単なる「事件」の一つとしてしか認識しないことが多いです。あるいは、「人民による政治体制」が共産主義の旗印として持ち上げられたことで、今や、かえってきな臭い印象を与えてしまっているかもしれません。けれど、この「パリ燃ゆ」を読んでいくと、ここには「自分たちの生活を自分たちで決めたい」という私たちにとっては当たり前の感情、「お上」ではなく、「市民」の1人ひとりが政治に参画していこうという気構え、自分たちで正当かつ健全な選挙を実行しようという意欲が見えてきます。もちろん、穏やかな話し合いだけで、ことは済みません。スパイもいる。押さえが利かず、突出するのもいる。カネに流れるヤツもいる。清廉潔白だけに、他人に厳しすぎる人もいる。百戦錬磨の往年の貴族政治屋たちにいっぱい食わされたり、まさかと思うような寝返りに、背筋を寒くしたり、そこに繰り広げられるエピソードは様々に折り重なって、まさに大河ドラマとして迫ってくるのです。
2008.08.30
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「お金」崩壊私は2006年から、「ファム・ポリティク」という定期購読誌で財政についての記事を連載させていただいています。(詳しくは、フリーページの「ファムポリティク執筆一覧」をご覧ください)この集英社新書『お金崩壊』の著者・青木秀和氏は、その記事の監修をしてくれている方。ファムポリティク編集長・田中喜美子さんは、「おカネのことって、わからないから勉強しよう!」と月に1度勉強会を開き、その講師として青木さんを招きました。当時は小泉改革真っただ中。今「埋蔵金」などといわれている「特別会計」とか、「年金問題」とか、日々ニュースで「?」と思ったことの「わからない」を解決するため、「何もわからない」を前提に内容の濃いお話をしてもらえました。その勉強会のテーマをもとに、記事を書くのが私の仕事。詳しくは、フリーページにまとめてありますが、「財政に強くなろう」というシリーズとして、2006年9月~2007年12月まで続きました。今も勉強会は2ヶ月に1回のペースで続き、「サブプライム」も「石油高騰」もお話をうかがって理解を深めています。そんな青木先生が、満を持して発表したのが、「『お金』崩壊」かなりの金融通でも「そこはブラックボックスなんだよね」などといってきちんと把握せずに済ませてしまう特別会計のからくりを、「このお金はどこから来ているのか?」と最後の最後まで追いかけた執念が書かせた一冊です。象牙の塔で抽象論だけを探求しているタイプではなく、会計学と財政学をリンクするような、実際的な学問の使い方をするのが彼の特徴。だから、噛んで含めるように私たちの疑問を一つひとつ解いてくれます。青木先生、オチャメなところもあり、語るとアツくなる。そんな青木先生の「声」が、今夜ラジオに流れます。「Daily Planet」という月~木の帯番組の中の“Hammingbard”というレギュラーコーナーにゲスト出演。生放送番組なところがちょっと心配。気持ちが先に行っちゃって、コトバが置いてきぼりをくうことがある人なので~(笑)。出る時間帯は、8月21日(木)21時~21時30分(正確には21:10分頃から21:30分くらいまで)。「所得格差是正と低炭素社会を同時に実現するアイデアについて、話してみたい」と語っておられました。おカネの専門家ですが、実はロマンチスト。「マジメな人が幸せになれる社会」「みんなが共存できる社会」が理想。バーチャルなマネーの世界が、生産性のある実質社会を脅かすことを、もっとも憎んでいます。お時間のある方、ぜひラジオを聴いてください。本屋さんに行ったら、集英社文庫の棚を、ちょっとのぞいてみてね。
2008.08.21
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ワーニャ伯父さん「かもめ」を新潮文庫で読んだ私。「ワーニャ伯父さん」も収録されていました。「かもめ」と「ワーニャ伯父さん」は、同じような土地が舞台です。田舎の領地みたいなところに住んでいる、真人間と、彼らからの仕送りをガンガン使いまくる都会人。都会人が田舎に来ると、田舎はてんやわんやになって労働そっちのけになってしまう。そんな中で、グチっぽいワーニャ伯父さんの長年の恨みつらみが、最後に大爆発しちゃう、そんなお話です。借りたほうは無邪気に借金を忘れているが、貸したほうは死んでも忘れないっていう、アレです。やっぱりお医者さんがからみます。チェーホフはお医者さんだったからなんでしょうかね。「かもめ」では、医師のドールンがソーリンに向かって「60歳にもなって、自分の人生悔やんでみても仕方ない」みたいなことを言います。ワーニャ伯父さんは、まだ47歳ですが、人生悔やみっぱなし。完全に「負け犬」決定!みたいに自認。この人のグチっぽさには呆れますが、そのグチを聴きながら(読みながら?)あ! これ、太宰の世界だ! ・・・と感じました。年の離れた男の後妻になっちゃった自分に満足できないエレーナと地味で器量もよくなく、黙々と働くだけの先妻の子・ソーニャのやりとりは、ちょっと「斜陽」を彷彿とさせます。先妻の兄であり、姪のソーニャをこよなく愛するワーニャ伯父さんは、実はエレーナに昔から惚れていた。「なんであの時、プロポーズしなかったかなー」・・・後のまつりです。医師のアーストロフが、エレーナに迫るところは、かなりエロいです。私の中では、「かもめ」の配役がそのままよこすべり。麻実れいさんのエレーナに、中嶋しゅうさんのアーストロフがいんぎんに、強引に、キス!そして最後は、エレーナのほうが、アーストロフに・・・。女のしたたかさがよく描かれてます。黒澤明の「夢」に出てくるセリフにもありますが、「それまでかたくなだった女が(肌を)許す時」は、すでに心は離れていたりするもので。ソーニャは小島聖さん。ワーニャ伯父さんは、勝部演之さん。こうして、特定の人を想定して戯曲を読むって、また味わいがあります。エレーナは、涼風真世さんあたりだと、また艶やかかも。あと「三人姉妹」「桜の園」の文庫も買ってあるので、こちらもがんばらなくては。
2008.07.05
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先月末より急に読むようになったトーマス・マンの作品。最初は「トニオ・クレーゲル」「ヴェニスに死す」などの短編でしたが、めざすは岩波新書3冊に及ぶ「ブッデンブロークの人々」。1835年から始まるこのお話は、70歳になる祖父、祖母、父母、10歳に満たないトーマス、アントーニエ、クリスチアンの3兄弟と彼らが住む大邸宅の詳細な描写から始まります。私は誰がどんな風貌でどんな服装で、家の壁が何色で机の上には何が置いてあって…みたいなところは、けっこう飛ばして読んでしまうクセがあるんですが、現在あるゼミで勉強している関係もあり、小説では「描写」に注意して読もうと思っているのでちょっとまどろっこしかったけど一つひとつの文章が表すイメージを一つひとつ頭に浮かべながら、ゆっくり読み進みました。でも、モタモタしていたのは最初の50ページくらい。その後はもうマンガか映画を見るような感じでストーリーの中を登場人物がするすると動いていくのです。面白すぎ! 次の展開が知りたくて、本を置くことができません。昨日第一巻を読み終わり、今日は第二巻にとりかかってとうとう読み終えてしまいました。すでに時代は1869年。34年の間に、二組の祖父母はとうに亡くなり、父も亡く、ブッデンブロークの当主はトーマスが引き継いでいます。最初のページで8歳だったアントーニエは42歳にして孫娘がいます。トーマスの息子、つまりブッデンブローク家の跡継ぎとなる息子は8歳ですが、この子は父親のような商才ではなく、ピアノの才能があるようです。ハンザ同盟に属している自由都市の大商人を誇るブッデンブローク家の中に起こるある意味どの家でもあるようないざこざと、決して経験することのできないような貴族的階級の豪奢さと特有の悩みと、そして貴族の時代、ブルジョワの時代から、市民の時代へと移り変わる19世紀の大きな流れの変化とが、美しい町並みや海辺の保養地の描写、季節の移り変わりとともに少しずつ、少しずつ、しみわたるように読者に伝わってくる物語です。最後の最後まで読んでみると、また違った感想が湧いてくるかもしれません。あと1冊。読み終わるのが楽しみです。
2008.06.25
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