ことば 0
全185件 (185件中 1-50件目)
第28回東京国際映画祭のオープニング上映作品はロバート・ゼメキス監督の「ザ・ウォーク」でした。レビューを「Cinema Art Online」という映画情報サイトに書いています。「ザ・ウォーク」はハリウッド映画ですが、取上げているフィリップ・プティという綱渡り名人のことをドキュメンタリーとして映画にした「マン・オン・ワイヤー」も2008年に公開されていて、そちらのレビューも、かつてこのブログで書いています。併せてお読みくださいませ。こちらからどうぞ。
2015.10.26
コメント(0)
新年最初の映画はテレビ視聴で「ショーシャンクの空に」でした。名作です。何度観ても引きこまれる。そして2作目もやはりテレビ視聴で「マトリックス」。こちらも大好きな映画。前に書いたレビューはこちら。以下、ネタバレがあるので、観たことのない方はご覧になってから読んでください。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私はこの映画シリーズの哲学的なところと、ハイテクの理論の明快なビジュアル化にしびれていたんですが、今日観て初めて気づいたことがある。ネオは一度死んで、復活して、そして「救世主」になったんだね。預言者もいるし、宗教的な文法を踏んでいるんですね。(今頃それかい! 気づけよ!)…と突っ込まれそう!そのほかに、「人間は、やれると思えばできる」という能動性を示していることにも始めて気がつきました。「自分で限界を置かない」「恐怖という概念を捨てる」バーチャルな世界だからこそ、普通なら絶対届くはずがない向かいのビルにジャンプできる。実際、高所恐怖症を治すソフトがあるんですよ。部屋の床に吊り橋の映像を映して、その上を歩くという・・・。実際は部屋の中だとわかっていても、怖くて足がすくむ。バーチャルでできるようになると、実際の吊り橋も渡れるようになるという、訓練。自分が「やれる」と思えることがどれだけの力をもたらすものなのか。テニスの錦織選手がマイケル・チャンコーチに教わったのはこのことですね。「今、自分が勝てない選手はいない」と思えなければ、世界チャンピオンにはなれないのです。このことが前出の「宗教的な部分」を凌駕する場面があります。預言者を置きながら、その預言者に「運命を信じるな」と言わせる。答えは自分が持っていることに気づかせます。ネオは最初、他人から「お前は救世主だ」と言われれば自分は救世主なのかと考えていたけれど、預言者からは明確に否定される。でも自分からそうだと確信したそのときから、彼は救世主への一歩を踏み出す。ここは、視聴者が自分の人生への指針にできる部分としてよくできています。けれど、ネオは自分を信じて救世主になれたかといえば、失敗した。さっきとは逆で、「いくら信じても、不可能なことはある」ことを示しています。ところが!死んだはずのネオが息を吹き返す。ここが、ネオを「英雄」ではなく「救世主」と名付けた由縁だろうと思う。「一度死んで、復活する」という儀式を経なければ本当の「救世主」にはなれない。観る側にある「キリスト教的」思考回路に、見事に訴えかけているのです。ネオが超人的な力を持つためには、人間ではいけないのです。ネオが「スーパーマン」のように全速で空を飛び回るのは、もはやネオが人間でないことを示しています。見出され、巻き込まれ、何もわからぬまま仲間の力を信じ、やがては自分の力を信じて戦ったネオですが、「復活」の後、ネオの瞳や表情からはそうした人間的な「不安」や「熱」あるいは「喜び」が感じられません。彼は、すべてを「見切った」から。キアヌ・リーブスのそうした演じ分けもまた、見事だと思いました。
2015.01.01
コメント(0)
今日は、終戦記念日です。私が小学生のころは、8月15日は夏休み中も登校日でした。たしか、8月6日と8月9日もそうだったような気がします。(どちらかだったかもしれない)ちょっといって、点呼して、プールに入ったり、花壇の世話をしたり、すぐに帰るだけだったから、なんで登校日があるのかもわからず、めんどくさいな~、と思ったものです。別に説教くさい講義があるわけでもなく、一定の時間に黙祷するわけでもありませんでしたが、この日が日本人にとって大切な日であることが、身体にしみついている世代です。そんな私たち世代にとって、「終戦のエンペラー」はとてもわかりやすい映画になっていると思いました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「終戦のエンペラー」という映画は、外国映画です。外国映画だけれど、日本のことを丁寧に描いている。単に日本人の俳優が多く出ているというだけではなく、日本人にとって、天皇とは何か、という問題を、日本人のメンタリティをアメリカ人がひもとこうとする形で描いているのです。日本が大好きで、日本人の恋人もいたアメリカ人が「日本をよく知っている」から差し向けられた終戦直後の日本で、「天皇を東京裁判にかけられるよう、証拠かためをしろ」と命じられます。この「(昭和)天皇に戦争責任があるか」という命題は、昭和天皇が生きている時代、つまり、「昭和時代」の間、ずっと論じられていたことでした。一国の元首に戦争責任がないわけはない、責任をとって退位すべき、天皇制そのものをやめるべき、という考え方、いや、退位はしたほうがいいけれど、皇太子に譲って天皇制は続けるべき、という意見、いや、悪いのは軍部であって、天皇に責任はない、という考え方、じゃあ、天皇は無力で単なる傀儡だったのか?という意見、戦争責任うんぬんではなく、天皇の地位が守られたからこそ、その後の日本の復興があった(天皇が精神的支柱だったから、これがなぎ倒されたら多くの日本人は生きていけない)など、など。いろんな意見が出ていたけれど、これを日本人が真正面からとりあげると、どうしてもイデオロギー論争になってしまうところから、水掛け論だったり一方通行だったりして、なかなか「話し合う」「深め合う」というところまでいかないのが常でした。「天皇の戦争責任を証明しろ」といわれても、日本人が口を開くはずがない。それでは、と、「天皇を救うには、戦争責任はなかったという証明が必要だ」というふうにして「天皇に戦争責任はなかった」と思う人間たちに証言させようとする。そういう手法で、天皇と太平洋戦争を描こうという、ある意味、日本人にはなかなかできないことをやってのけたのでした。それを、日本びいきのアメリカ人がやる、というところがミソで、私たちのように「戦後」ナイズされた私たちは、少なからず彼と同じような異星人でもあるのです。「なんで当時の日本人は、アメリカと戦争するなんて無謀なことを考えたのか」「なんで誰も止めなかったのか」当時の日本人には当たりまえのことが、私たちには当たりまえではない。日本は好きだけど、本当のところは理解できてない。だから、彼は私たちの疑問を背負って8月の日本に降り立ちます。でも、「進駐軍として」降り立つ。こんなに日本びいきでも、やっぱり占領側です。私たちは、占領される側。その線引きの恐ろしさもまた、身に染みるオープニング。よくできています。沖縄の人たちは、返還されるまで、ずっとこんな中で生きてきたのでしょう。そして、今でも。話は、マッカーサーと天皇が並んで撮った写真のことで終わります。「天皇」に初めて会ったマッカーサーが何を思ったか。日本人でさえ、天皇と会える人間は指で数えられるくらいだった時代です。実像がまったく知られていない「天皇」という人が発した言葉は如何に?この場面、昭和天皇役の片岡孝太郎が非常に素晴らしく、私は思わず落涙してしまいました。日本人が、「天皇」という「象徴」に求めるものは何か。もっといえば、「天皇の赤子」と言われた戦前の「臣民」たち(決して「国民」ではない)がどういう主君(リーダー)の下でなら命を懸けようと思えたか。誰も顔を知らず、見てはならず、それでも自分たちの主君だとされた天皇に皆が作り上げた「こうであってほしい天皇」。それと、現実の天皇との融合の具合が非常に絶妙なところが、この映画の妙味となっていると思います。誰かが悪者ではなく、誰かに正義があるのでもない。二つの国が戦い、憎みあい、傷つき合い、その中で、皆いかに恩讐を越えて生きてきたか。自分のなかの加害と被害、信念と過ちに、どう折り合いをつけたのか。そんなところまで感じさせるところが、単なる実録ものでもなく、イデオロギーでもなく、エンターテインメントとして上質な作品になっているのだと思います。
2013.08.15
コメント(9)
久々、映画のご紹介。現在、東京・京橋の「銀座テアトルシネマ」で公開中の「塀の中のジュリアス・シーザー」、超おススメです。特に、シェイクスピア好き、舞台好きの方には2度おいしい作りとなっております。刑務所の囚人たちに更生プログラムとして演劇をやらせ、発表会のさせているところを知ったタヴィアーニ兄弟が、彼らに「ジュリアス・シーザー」をやってもらうそれまでの過程を映画にしたもの。イタリア人がやるジュリアス・シーザー、すごいですよ!その緊張感のあるやりとりを見ながら、あるときは、織田信長に謀反を起こす明智光秀を、あるときは、中大兄皇子らが蘇我入鹿を宮中で誅した乙巳の変を、思い出さずにはいられません。予告編はこちらこの迫力は、かつて自分も様々な抗争の中にあって悩んだり直面したりしたことが内的な声となってリアルな表現につながっているんだと思う。しかし、元マフィアとかの人たちで、なかには終身刑の人もいるという彼らに「暗殺」とか「戦い」の場面をやらせるって、日本じゃできないだろうな~。とにもかくにも「一直線」なこの映画、さすがタヴィオーニ兄弟!彼らのつくった「パードレ・パドローネ」、大好きです。
2013.02.05
コメント(2)
【送料無料】ゲーテの恋 ~君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」~ [ アレクサンダー・フェーリング ]命がけの恋が、文学青年を脱皮させた監督:フィリップ・シュテルツェル配給:ギャガGAGA★ストーリー●18世紀のドイツ。ゲーテは法律を学んでいるが、実は作家を目指している。意気揚々と出版社に作品を送るも、「才能が感じられない」との返事に落胆。夢見がちな息子に堅実な生活を求める父親は失意の息子に対し、田舎町ヴェッツラーに赴いて裁判所の見習い実習生として働くことを命じる。ゲーテは退屈な日常の中、シャルロッテと出会って激しい恋におちる。だがシャルロッテには縁談が進んでおり、その相手はゲーテの上司ケストナーだった。ドイツの文豪ゲーテの初期の作品「若きウェルテルの悩み」は、その大半が彼の原体験をもとにして書かれたことでも有名だ。映画はゲーテの当時の実人生を丁寧になぞりつつ、社会に羽ばたいたばかりの若者の、いかに人生を生きるべきか、果たして自分は今のままでよいのか、と夢と現実のはざまで葛藤するエネルギッシュな姿を描いている。「若きウェルテル…」の主人公は失恋から自殺してしまうが、実際のゲーテは、この「挫折」を作家への肥やしとして立ち直る。薄暗い独房でペンを走らせるシーンは、ゲーテの熱情、すべてを失っても湧き上がる創作への意欲を感じる鬼気迫るシーンだ。美しいドイツの森の中で繰り広げられる恋人たちの胸の高鳴り、仕事場での鬱屈した雰囲気、若者たちのバカ騒ぎなどなど、18世紀を舞台にしつつも現代に通じるものがあって、若い人にも、かつて若かった人にもおすすめの、青春の薫り高い作品である。
2012.09.06
コメント(0)
【送料無料】【DVD3枚3000円5倍】対象商品ブラック・スワン [ ナタリー・ポートマン ]私の中の「悪い子」が解き放たれるとき監督:ダーレン・アロノフスキー配給:20世紀FOXストーリー●ニナ(ナタリー・ポートマン)は長年在籍しているNYのバレエカンパニーで、ついに「白鳥の湖」の主役の座を射止める。幼いときから二人三脚でニナを支えてきた母親(バーバラ・ハーシー)も大喜びだ。しかし振付家は「白鳥は完璧だが黒鳥に魅力がない」と厳しい。さらに新入ダンサーのリリー(リラ・ミクス)が黒鳥を完璧に踊り、主役の地位を脅かし始める。ニナは焦るが、同時にリリーの生き方にあこがれも感じ、黒鳥の役作りのため、母親の言うままに動いてきた自分の生活の殻を破ろうとする。主役の座を競い合うステージもの、それも任命権のある振付家との恋がからみ……と一見ありきたりな構図だが、恋愛や成功譚のほかに親子の葛藤やサイコサスペンス、精神の混乱など、テーマが幾重にも織り込まれ一筋縄ではいかない。なかでもニナを追い詰めていく閉じた母子の絆の危うさには注目。「いい子」の人生を歩いてきた娘とステージママとの関係は、短いが印象的なセリフや行動がちりばめられ、不気味な伏線となっていく。もちろんモチーフは「白鳥の湖」。ニナの心理に添ってバレエや音楽が使われる。オデットが湖に飛び込む場面の練習風景は、ニナに「跳ぶ」勇気を促すようで興味深い。ずっと抑制的に描かれるニナが、最後に踊って見せる舞台上の「黒鳥」は爆発的に躍動し、そのコントラストは見事である。
2012.08.18
コメント(0)
Bungee Price DVD英国王のスピーチ スタンダード・エディション 【DVD】悩める吃音王子、まことの王となる監督:トム・フーバー配給:ギャガGAGA★ストーリー●1936年、イギリスは揺れていた。父王の死で即位直後のエドワードが、離婚歴のあるアメリカ女性との結婚を認められず退位してしまったのである。次の王となるのは弟のジョージ。しかし彼は長年吃音症に悩み、人前でのスピーチが苦手だった。すでに王室は象徴的存在。ラジオ普及もあり、王の威厳を示すには「剣」より「スピーチ」が重要視されていた。吃音矯正のための絶望的な「名医」巡りの果てに、ジョージは「ことばの専門家」ライオネルと出会う。平民でオーストラリア人の彼は、城でなく自分の診療所で訓練することと、訓練中は常に二人が「対等」に呼び合うことを要求する。この話が人の心を動かす理由は3つある。一つは、コンプレックスから解放されようと努力するジョージと、彼を支える妻やライオネルの愛。二つ目は、任の重さに震えながらも王になろうとするジョージの覚悟。三つ目は、特異な設定でありながら、私たちが日常経験する感情が散りばめられていて、非常に共感できる点である。さらに「人間の真の価値は何によって測るべきか」という問題提起も重い。折りしもヒットラーの台頭期。「スピーチ(演説)」の天才といわれ、広報宣伝に力を入れたナチスに煽動された大衆への警鐘を忘れない。 この映画が実話に基づいているという点も、驚きである。
2012.08.16
コメント(0)
◆現品限り◆【中古】【洋画DVD】シマロン※吹替なし/リチャード・ディックス、アイリーン・ダ...ひっさびさに映画の話題。古い映画で、長い映画でもありますが、西部開拓時代のアメリカの良心を描いて素晴らしい作品です。いうことやることは大したものだけど、家庭を顧みないお調子者とその妻の理想と現実を、この時代に、この時代背景を利用してつくったアメリカ人に拍手!数少ない西部劇ジャンルのアカデミー賞受賞作品だそうです。ただの西部開拓劇とあなどるなかれ。今見ても、現代の男と女そのままじゃん、と思える普遍性がすごい。江戸時代あたりのキップはいいけど奥さんは大変、的な歌舞伎にだってなりそう。故郷を捨てて夫についてきた女の気持ち、働く女性の気持ち、子どもの将来を考える母親の気持ち、糟糠の妻の夢、夫の長い不在を生きる女の気持ち、分かり合えたのか、分かり合えないのか、など、など、など。男と女の間の深くて暗い川のお話である。最後の最後まで見て、味わってほしいです。
2012.05.21
コメント(0)
カンヌ映画祭でパルム・ドール賞を獲得!ブラッド・ピット、ショーンペン出演!監督は伝説のテレンス・マリック!鳴り物入りで公開された「ツリー・オブ・ライフ」。観に行ってきました。すごいです。映像がものすごくシャープ。色彩が美しい!他の映画と同じカメラで撮ったとは思えないくらい。映像に関心を持っている人は、絶対観るべきだと思う。どうやったらこの色が出せるの?どうしたらこのカット割りを思いつけるの?今まで観たことのないものを見たような気持ちになりました。もう一つの特徴が、セリフの少ないことです。というか、これは、主人公ジャック(ショーン・ペン)が自分の心と対話する物語なので、ほかは心象風景であり、自分が頭の中で考えていることが映像となっていくわけです。昔のことを思い出すところでは(そのとき、ジャックは子役)それは「事実」や「記憶」なので父親のブラピなどとの会話があるシーンとして成立しますが、ほかは「不安な気持ち」であったり、「無限とは何か」であったり、「神はどこからくるか」であったり、「この世はどうやってできたか」であったりして、それはそれは哲学的な問いかけを映像化しているわけです。それを面白いと思えるか否かで、この映画の評価は分かれるのだと思います。でも。幼い頃に感じた親への反発とか、そうはいっても親に愛されたい(たとえば兄弟の誰よりも愛されたい)思いとか、兄弟げんかの後の気まずさとか、住み慣れた家を離れなければならない寂しさとか、悪いことをしてしまった後の泣きたくなるほどの恐ろしさとか、そういうことを、大人になって振り返って、自分の浅はかさを思い知ったり、親を親としてでなく、一人の人間として見られるようになり、親は親で、思い通りに行かない人生の中でもがきながらも必死に子育てをしようとしていたな、とその背中が突如見えてきたりして、でも今さらそれがわかってもすでに取り返しがつかなくて呆然としてみたり、逆に昔は思いもつかないところに救いを見出したり、絶対に許せないと思ったことが許せるようになったり、自分の情けなさを受け入れられるようになったり、そういう心の動きをスクリーンに映し出してくれる映画です。キリスト教(特にヨブ記)をテーマに据えていますが、キリスト教と関係なく、入っていけると思います。もっと大きな、宇宙的な、超自然的な規模で、「自分を超える何か」をみつめ、「自分」をみつめようとする映画です。生きるとは、なぜ苦しいのか。あんなにもきらきらとした時間があったはずなのに。そんなことを真正面から問いかけていく、映画です。
2011.09.09
コメント(0)
【25%OFF】[DVD] クロムウェル昨日、舞台「クロムウェル」の序文について書きました。けど「クロムウェル」って何?って思った方もいらっしゃるかも。世界史を学校で習うとちょこっと出てくるんだけど、イギリスで唯一、王様じゃなくて国を統べた人です。私が連載している映画紹介のページ「気ままにシネマナビ」で一度取り上げています。(「英国王のスピーチ」とのカップリング)短い紹介ですが、私はとっても大好きになった映画なんです。「護国卿」という称号の意味は、この映画を観て初めて知りました。その称号を守り通したクロムウェルの覚悟の重さが胸に迫るラストシーン。カエサルもナポレオンもその誘惑を断ち切れなかった「戴冠」を退け、初志貫徹したすごい人です。このクロムウェル、世間的には昔から評価が大きく割れているのですが、ユゴーはその「割れ具合」こそ、人間の多面性の魅力と考え、またわかっていることが少ないからこそ、創作の腕が篩える、とこの題材にぞっこんです。ユゴーの「クロムウェル」は失敗作とされていますが、こちらの映画は一見の価値あり。歴史物好きな人はぜひ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「クロムウェル」英王室と議会を愛し、そして壊した独裁者監督:ケン・ヒューズ販売元:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントストーリー●1642年、絶対王政を守ろうとするチャールズ1世と、王権を狭めようとする議会のピューリタン派は衝突、ついに内戦にまで発展する。議会側の軍を率いて勝利したクロムウェルは新王にと請われるが、辞退する。だが彼は、王政を廃してまで守った議会がまたぞろ権益を優先して腐敗していくことに、深い絶望を覚える。歴史の教科書で「清教徒革命」として知られるイングランドの内戦は、実はイギリス初の共和制誕生期でもある。ほどなく王政が復活したため、共和制の立役者クロムウェルは残酷な独裁者と評されることが多いが、現在につながる民主政治の基礎を作ったとも言われる。この映画をみると民主主義の理想と危うさが、よくわかる。
2011.08.22
コメント(0)
ニューヨークの行き、帰りで映画を何本か観ました。「バーレスク」と「英国王のスピーチ」はすでに観ていたので、ほかのものを。「ナルニア国物語 第3章 アスラン王と魔法の島」「ガリヴァー旅行記」「トロン レガシー」「ザ・ファイター」私、イヤホン(ヘッドセット)ってちょっと苦手なんです。それで、飛行機で映画を観るときは、イヤホンを使いません。字幕があるのが一番いいけど、なくても音なしで観る。すると、ふつうに観てるときとちがったものが見えてくることがあります。映画の本質とか、俳優の表情の深さとか、そういうものを感じられる。逆に次への展開があっさり見えてきちゃったり、底の浅さがわかってしまうときもあります。さて、観た中でもっとも面白かったのは「ザ・ファイター」。アカデミー賞各賞に多くノミネートされただけのことはあります。筋は単純なのに、一人ひとりの人物の考え方や人生が、本当によく描かれていて、「描かれていて」というより「それを想像させるシーンがあり」物事はそう単純じゃない、ということが体感できます。その上でのたたみかけるようなクライマックス、そしてハッピーエンド。なぜハリウッド映画は「ハッピーエンド」なのか、その理由がわかるような映画です。人間は、人が幸せになってほしいようにできているんだわ。努力は実ってほしい。挫折から立ち直ってほしい。悔い改めた人にはチャンスを与えたい。世の中はなかなかそうならないけれど、そのギリギリの不幸を描きつつ、最後に勝ち取るハッピーエンド。これこそがカタルシスなんだな、と。同じ格闘技もので「レスラー」もよかったですが、これは、絵に描いたハッピーエンドにはなっていない。ラストは「負けいくさと分かっていても挑んでいく」という形になっている。けれど、主人公の気持ちの上では、「ふっきれた」というところがカタルシスにつながる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「トロン レガシー」も面白く観ました。けれど、人物相関図が、まんま「スターウォーズ」だな~。キャラクターも展開も典型的すぎて。舞台が「電子」なだけで、そこで行われていることにまったく新しさがない。それを「人間は変わらないものさ」と「典型」を楽しむ人ならOKな映画でしょう。いわゆる「安心して見られる」感じ。3Dの大画面で見なくても、そこそこ楽しめました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「ナルニア物語」の映画は、私は何度も言うけどアスランが白いライオンじゃない時点でもう60点マイナスなので、これまでの作品も映画館には一度も足を運んでおりませんが、テレビなどでは観るとはなしに観ております。その中では、今回のものが一番原作の匂いを残しているような気がします。(日本の題名は「アスラン王と魔法の島」っていうハリーポッターみたいなタイトルですが、 この第3章の原作タイトルは「朝びらき丸東の海へ」です)さて「ナルニア物語」はC・S・ルイスが戦時中に疎開している子どもたちを楽しませようとして書いたファンタジーです。親と離れ、空襲を恐れ、物資は乏しく、子どもらしい笑顔や瞳の輝きが失われるのを悲しんだから。絵の中に引きずり込まれる、という最初の展開も、逆にいえば、「さあ、想像の翼で今のこの灰色の世界から飛び出していきなさい!」というルイスのプレゼント。ナルニア物語の最終章「さいごの戦い」のそのまた終盤に「内なる世界は外の世界よりも大きい」という言葉が出てきます。子どものころは理解できなかったけれど、今は、「あなたは想像さえすれば、どんな世界にもいけるんだよ。 たとえ行く場所をさえぎられ、閉じ込められても、 心の中、頭の中ではどこにだって行けるのだよ」というメッセージなのだと気付きます。たわいもないお話ですし、予定調和で単純明快かもしれません。でもそのなかに、自分のなかの弱い心、いやしい心が何をもたらすか、誰にでもそういう弱い部分があるけれど、逆に勇気を持ったり、人を支えたりすることがいかに素晴らしいか、そういうメッセージが、説教くさくなく、ファンタジーとして表現されているのです。これは、子ども向けのお話ですからね。戦時下では、子どもは弱者です。大人の足手まといです。半人前でしかありません。そういう「子ども」がイニシアチブをとり、大きなことを成し遂げようと主体的に考え、行動できる場をナルニア物語は彼らの心の中につくってあげているのです。今、罹災して子どもらしい生活ができない子どもたちに、「ナルニア物語」の本を送ってあげたいな、とも思います。電気がなくても、本は読めます。(夜はダメだけどね)大人たちが読み聞かせるのもいいな、と思う。自分たちも避難所から飛び立てるのではないかしら。…ただ、「海にのまれる」という最初のところは、今はちょっとつらい。「想像」させること自体が罪かもしれない。ダメだな、こりゃ。(注)「アスランと魔法の島」の公式サイトで流している予告編を見ると、 ほぼ全容がわかってしまい、ワクワク感がまったくなくなってしまいますから、 その点ご注意くださいませ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今見るには「こりゃダメだ」と思ったのは「ガリヴァー旅行記」も同じ。これも船が嵐に巻き込まれて遭難するシーンがあります。全体が喜劇なだけに、余計つらい。それとこの映画、別の意味からしても「こりゃダメだ」でした。正直言ってほんとにつまらなかったです。現代のニューヨーカーがガリヴァーになる話ですが、話のひねりがまったくない。発想が安っぽすぎです。いわゆる子ども版「ガリヴァー」の部分しか使ってないし。「現代におきかえて」っていうから、興味津津だったのに。これじゃスイフトの原作に忠実に作ったほうがずっと「現代的」だと思います。
2011.04.04
コメント(1)
【33%OFF!】第9地区 【WARNER THE BEST ¥1500】(DVD)噂の「第9地区」、未見だったものをWOWOWで視聴しました。最後まで見せる力はすごいですね。また、人間の本性のいやらしさをどこまでもえぐっているところがハリウッド映画とは違う部分かもしれません。あちこちに散りばめられている言葉や行為はそのまま、これまでの人間が人間を差別してきた歴史を映しています。でも……。好きな映画かって言われると、どうかな~。白人、黒人の描き方がステロタイプすぎないか?差別主義者だった白人男(ヴィカス)は最後の最後、自分の命を投げ捨てても「友」を助ける。しかし黒人はヴィカスが持った「力」を得ようとどこまでもハイエナのように追いかけてくる。黒人はまじないを信じ、「力」を得るために「肉」にかぶりつく……。「差別する人間」を描いている作品ならば、こういうディテールにもっと注意を払ってほしいなって思う。それだけでなく、登場人物すべてが記号のように「何か」の象徴で、人間としての「揺れ」がほとんど描かれていないのが気になる。「揺れ」るのはヴィカスだけだもんね。そこが物足りなかった。前評判が大きかっただけに、ちょっと失望。でした。
2011.02.14
コメント(0)
【送料無料】 DVD/洋画/クレイマー、クレイマー コレクターズ・エディション/TSAD-10038これまでも、テレビで何度も見てきたけれど、今回、まったく違う面を発見した。これまではこの話を「子育てといえば母親がするものと思われてきたが、 父親にも子育てはできるし、その権利がある」ことを示した映画だと思っていた。今でこそイクメンなどといって父親の子育て参加は当然のように言われるが、この映画の中で「あなたは大事なクライアントとの打ち合わせをすっぽかして大損害を与えた」と裁判中に相手方の弁護士に切り込まれ、「息子が40度の熱を出しているのに、仕事をしていろっていうのか??」とテッド(ダスティン・ホフマン)がくってかかるところなど、今だって病児保育体制が不十分で多くの母親が同じ叫びをあげたい現状から見て、1979年の男の声としては、ものすごーく斬新だったのである。そもそも、主人公は妻に出て行かれた夫のテッドのほうだからどうしたって見る側はテッドに肩入れ。「逃げた女房に未練はないが」の憐憫が、そこにはあった。ただ、この映画を見ていて、私はいつもひっかかることがあった。妻ジョアンナ(メリル・ストリープ)は、あまり主張をしない。特に裁判中、まったくといって言葉を発しない。ただ、苦しそうに黙っている。なぜなのか。弁護士の助言に忠実だったのか。そんなふうに思っていたが、今回、ハタと気がついたのだ。ジョアンナは、子どもを取り返したいわけではなかった。ジョアンナの申し立てで、ジョアンナが親権を自分に、と言ってこの裁判は始まった。けれど、ジョアンナは子どもと暮らしたいわけではなかった。そりゃそうだ。「妻でも母でもない自分」を取り戻すために家を出たんだから。子どもと二人になったら、また「母」をやらねばならない。ではどうして裁判を起こしたのか?親権を争うなどということをしたのか?それは、自分も子どもを愛している、ということを認めさせたかったから。父親が子育てすることが認められないと同じように、母親が子どもを放棄するなど絶対に許されない時代だったのだ。だから、ジョアンナは「自分は鬼母ではない」証明をしなければならなかった。自分は「本当は子どもと暮らしたい。暮らす用意がある。夫には渡さない」と世間に示す必要があった。つまり、子どもを愛していることにお墨付きをもらってから、子どもを「仕方ないわ、子どものためだから」と父親に引き取ってもらうのである。その証拠が、ラストシーンである。ジョアンナは約束の日に息子を引き取らず、「あの子の家はここしかない」と言ってテッドを喜ばす。テッドにとっても、子どもにとっても、大ハッピーエンドだ。しかし、この映画の冒頭、ジョアンナが家を出た時と、状況はまったく変わらない。テッドが子育てに目覚めたことが唯一の変化ではない。何より、世間のジョアンナに対する見方が変わったのだ。「子どもを置いて出て行った鬼母」から「泣く泣く子どもを手放した悲劇の母親」に。テッドの喜びようで見逃されがちだが、これはジョアンナにとって筋書き通りの大ハッピーエンド、なのである。もしテッドが「何言ってるんだ? 裁判に勝ったのは君だ。 僕は養育費を払うから、君が子育てはやってくれ」と言ったら、ジョアンナは一体どうなっただろう?ここで思い出されるのが「検察側の証人」である。殺人の嫌疑をかけられた夫を助けるために、妻はまず夫に不利な証言をする。「検察側」の証人になるわけだ。そして自分の証言の不確かさを「弁護側」に突かせる形で、夫の無罪を勝ち取る。この話には「その後」の悲劇もあるのだけれど、どうやって「裁く人々」を味方につけるか、その方法は同じである。ジョアンナは、「時代の非常識」を勝ち得るために「時代の常識」に乗ったふりをしたのである。いつも目を真っ赤に泣き腫らしたような、ジョアンナの強いまなざしの理由はここにあった。絶対に手の内をさとられまいとした武装が、あの沈黙のなかにあった。深すぎるぜ、「クレイマー、クレイマー」……。
2011.02.10
コメント(0)
予告編を観て、絶対行きたいと思った「バーレスク」。音楽好きにはたまらない映画です。とにかく、アギレラ。アギレラ、アギレラ、アギレラ、の魅力満載ビデオクリップ、とでも申しましょうか。圧倒的な声量と変幻自在の声色で次から次へと歌がつながっていきます。もう至福。シェールもいいし、振付もいいし。こんな小さなキャバレーじゃ、現実にはこんなにカッコイイ振付でショーが構成されるとは思えないし、何より、アギレラ級の歌手はあっという間にいなくなってしまうだろうけど、そんな凄いアーティストたちが小さな空間で大爆発するんですから、もうたまりません。ストーリーとか関係ない。とにかく、音楽に浸るのみ。それがこの映画の正しい見方、です!
2011.01.05
コメント(0)
ブエナビスタ・ホームエンターテイメント サイモン・バーチ父親が誰だかわからない、ということが非常に負い目で優秀なのに自分に自信が持てない主人公。彼のことを励まし、認め、そして口さがない奴らに毒舌を吐いて黙らせるのは、サイモン・バーチ。先天的な疾患を持って生まれ、外見的にもハンディを持つ同級生だ。サイモンは自分を卑下しない。まっすぐ前を向いて、そしてマジメでもない。イタズラはする、ヒンシュクは買う、文句はいう、反省はしない。ショーガイシャだからって、誰にもメーワクかけないで生きなきゃならないって法律はない!そんな「ごくフツーの」高校生として、彼は日々を過ごそうとしている。自分の身体的な疾患について、何のひっかかりもなく生きてるように思えたサイモンが、クラスメイトたちと一緒にアクシデントに見舞われたとき、彼は目を輝かせて言う。「僕はこのために、小さく生まれてきたんだ!」と。そうなのだ。彼はずっと問い続けてきた。「なぜ、僕は、こんな身体に生まれてきたの?」と。その答えが、アクシデントの中にあったのだ。彼は、皆を助けるために、嬉々として「役目」を果たす。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大好きな映画なのだが、このラストが納得できないでいた。「あんな」ことのために「小さく」生まれてこさせた「神様」って一体なによ??あまりにも可哀相すぎて。その「Mission」にすがり付いて存在意義を見出そうとするサイモンがあまりにも哀れで。そうじゃないでしょ、そこじゃないでしょ、あなたの存在意義は。そう言ってあげたかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日、私は自分の「Mission」を自覚した。それは、電撃的な瞬間だった。まるで雷に打たれたような。自分がこの世にある意味を知る。「なぜ生まれたか」「なぜ今までのような人生を送ってきたか」あの小説も、あの映画も、あの舞台も、あの勉強も、あの体験も。すべてはこの戯曲を書くために必要な布石だったのだ、とすべてが私の中で一つになった。これを書くために、これまでの日々があった。一つたりとも、不要なものはない。どんな回り道も、全部必要だった。そう思うことができた。特定の神様を信じていない身なので、「神の啓示」とは言わないが、これは、きっとそういう類の衝撃なのだ、これを身に浴びたらすべてを捨てて巡礼者になってしまう、なってしまえると確信した。リクツやで、神様にも皮肉まじりに物申していたサイモンが自分の一番のハンディを、誰よりも素晴らしいものとして心の底から認めることができたそういう至福の気持ちを、さいお私は今日、初めて理解ができた。もう一度、観てみようか。サイモン・バーチの生き方を。また違った見え方がするかもしれない。そして、私は私のMissionに邁進するぞ!
2010.12.15
コメント(0)
【40%OFF!】私の中のあなた(DVD)娘ケイトが白血病だった。条件が適合するドナーを必要とするため、次の子を産む。それも「適合するドナー」として遺伝子操作をして、という念の入れよう。そうして生まれた次女アナが、11歳になったとき、「もう私の身体を姉のドナーとして使わないで!」と訴訟を起こす。というストーリーである。訴訟を起こした次女の視点で描かれる映画だが、本当のテーマは「人の死を受け入れること」。キャメロン・ディアス扮する母親は、長女ケイトの難病を「治そう」とやっきになる。そのために弁護士の職もやめ、娘の治療にかかりっきりだ。ケイトのためにもう1人子どもも産む。アナだ。10年たっても、それ以上たっても、難病は「治らない」。でも、彼女は「治してみせる」と譲らない。病気の本人であるケイトが、すでに達観し始めているというのに。これは「勝ち組のカンチガイ」に対するアンチテーゼなのだと感じた。この表現は行き過ぎかもしれないが、どんな母親も、そして父親も陥りかねない、ものすごく普遍的な「カンチガイ」をとらえた映画だ。別に移植を必要とする難病や死に至る病に限ったことではない。自らの人生を、自らの意志と希望通り、順風満帆に送ってきた人間にとって、「自分ではどうしようもない結果」というものをつきつけられたときの戸惑いは計り知れないものがある。たとえば、不妊。結婚すれば、子どもをほしいと思えば、子どもは授かるものと思い込んでいる人は多い。しかし行き詰る場合がある。「必死で努力すれば、必ず希望はかなう」という図式にあてはまらなくなる。そのときに「あきらめる」という行為は非常に難しいものだ。「あるがまま」「ありのまま」を受け入れるというのは、本当に勇気のいる決断であり、人生観、価値観を変えることでもある。また、「ありのまま」を受け入れるっていうのは、「何もしない」と同義語ではないから、受け入れた後、どう立ち向かうか、それはまた別の葛藤を生むことになる。特に子どもをめぐって重要な決断をしなくてはならないとき、まだ意思決定を委ねられない子どもに責任を持ち、子どもの代わりに決断をし、親として最善を尽くしながら子どもの主張にも耳を傾け、それは本当に大変なことです。私も経験ありますが、大きくなったときに、「どうしてあんな手術を受けさせたの?」とか「なんであんな病院でやったの?」とか、逆に「なんで手術を受けさせなかったの?」とかくってかかられるかもしれないな、と思いつつ一つひとつの治療を選んでいくその難しさ、厳しさ。治療とかに限りませんよね、何か習い事をさせるとか、進路を決めるということも、最近は子どもがまだものすごく幼いときに親は「決断」を、迫られています。映画の中では「訴訟」を通して様々なことが分かってくるのだけれど、母親は最後まで、容易には自分の姿勢を崩そうとしない。そんな母のかたくなな気持ちをやわらげるのは、ケイトである。余命いくばくもないケイトが、嘆く母の背中をさする様子は、あたかも天使が下りてきたかの光景である。「赦され」て生きるキリスト教のお国柄だからかな~。ただただ、死にゆく子どもに赦され、癒やされて幕が下りるのだ。もっといえば、ケイトとアナ、2人の子どもたちによって問題が浮き彫りにされ、その上その子どもたちに赦され癒やされて、母は次の道を歩めるようになる。一緒に観ていた夫はべしょべしょに泣きながら、「いい映画だった」と感動していた。私も時折涙するも、手放し、というところまではいかなかった。なぜなら。やっぱり疑問に感じるのだ。これは、親として、どうよ?病気や治療や死と直面するだけでも子どもは大変なのに、その上親の心のケアまで子どもに引き受けさせて。親って大変だよ。でも。でも、それでも。私は、子どもにゲタを預けてはいけない、と思う。子どもに赦されておありがとうございます、っていうのは、どっちが子どもかっていう話ですよ。最後は親として、子どもの背中をさすっていかせてやりたいものです。*原作と映画は結末に違いがあり、 そのために「私の中のあなた」という題名が、映画にはちょっとそぐわない。
2010.11.23
コメント(4)
【23%OFF!】血まみれギャングママ(DVD)ちょっと風邪気味。めまいと熱で家で起き上がれず、家でテレビを見ておりました。WOWOWでやっていた「血まみれギャングママ」。1970年の作品ということですが、途中からだったのですが引き込まれまして、最後まで行ってしまいました!売春婦との会話がいいの。コトの終わった直後、男「オレのこと、愛してるか?」女「何くだらないこと聞くわけ? これは仕事なのよ」そしてややあって、こう加える「愛してるわ」クールすぎる彼女の素っ気ない言葉のなかに、愛が見える!セリフってこうでなくちゃね。その彼女にダイアの指輪をねだられて、男は宝石店に強盗に。大きなダイヤの指輪をはめてやった指の持ち主は…なんと、母親のケイト!こういうシーンのつなげ方が、またオシャレ。カラマーゾフの兄弟をモチーフにしたようなところもある。長兄は粗暴(上の「男」)。ほかに、頭は回るけどヤク漬けの神経病みとゲイと素直な男の子の4人を率いて、肝っ玉母さんここにあり、「あたしが法よ!」てなママ、ケイトがマシンガン撃ちまくりです。冷酷で、粗野で、非論理的で、何かといえば「賛美歌を歌いましょう」的矛盾した人生。子どもには愛情深く、それは溺愛し、異常な愛もあり、そんなモンスターな女なのだけれど、本当に哀しいっていうか、なぜか感情移入してしまいます。すべての母親が陥っておかしくない落とし穴がそこにある。その「落とし穴」を自分も息子たちも自覚しているけれど、避けられない。誘拐した富豪を最後殺すか殺さないかのところが、また泣かせるの。「その落とし穴の名前は、必然」というアガメムノンのセリフを思い出してしまう。「B級映画」って銘打たれてるけど、そんなことないな。一級のアメリカングラフティだ。これを見ていると、アメリカっていう国が分かる気がした。今ちょっとしたブームの「白熱教室」の東大版で「家族が殺人を犯したら警察に通報するか?」っていう質問が出てたのだけど、ああ、アメリカは絶対的に「家族」が先だな、と確信。何をしたって家族の結束は強い。そうやって生きる国なのだ。ハーバードのセンセ的にいうと「コミュニタリアン」ここに極まれり、です。そのよさと悪さをどちらも理解している人が作った映画だから、心に響くのだろう。つくづく、フィクションとは「ありえない皮袋」に「リアルな酒」を入れる作業だと思った。
2010.11.22
コメント(0)
今の若い人にとって、「アラン・ドロン」という俳優の名前がどれほど魅惑的に響くかは知らない。けれど、これらの映画を見れば、たった今、2010年の10月からでもアラン・ドロンの虜となるだろう。美しいから。危険な美しさだから。触れたらスッと手が切れてしまうほどの、その殺気立った瞳。でも、哀しい瞳。東京・新宿南口からすぐ。大塚家具の向かいにできた新しいミニシアター「K's Cinema」で今週末10月23日から。上演作品は『黒いチューリップ』『若者のすべて』『地下室のメロディー』『世にも怪奇な物語』『あの胸にもういちど』そして、ここからの特典がふるっている!上記作品のうち1作品を観て、映画祭パンフレット1冊か、映画祭ポスター1枚を買うと、スタンプを1個押してくれ、それによって上記作品とは異なる「特別上映作品」の鑑賞券をもらえる、というもの。2スタンプで1作品分、3スタンプで2作品分、4スタンプで3作品分、5スタンプで4作品分の特別上映作品鑑賞券(日時指定)をくれる。 〈特別上映作品〉『危険がいっぱい』 11月1日(月) 16:15~『暗黒街のふたり』 11月2日(火) 16:15~『アラン・ドロンのゾロ』 11月8日(月) 16:35~(野沢那智吹き替え版)『ショック療法』 11月9日(火) 16:35~アラン・ドロンの「ゾロ」は見てみたいな~。これは野沢那智の吹き替え版だそうな。私にとって、「ゾロ」といえばそれはアラン・ドロンであり、アラン・ドロンの声といえば、野沢那智だもん。とはいえ、座席数に限りがあるので、早めに行ってスタンプもらって、早めに鑑賞券に引き換えないとならないらしい。無理かな~。
2010.10.22
コメント(3)
ロバート・デニーロ、エドワード・ノートン、ミラ・ジョヴォヴィッチ。すごい布陣。ということで、試写を観てきました。刑務所に8年入っていて仮出所したい男、ノートン、ノートンの妻で「エイリアン」なほどセクシーな女、ジョヴォヴィッチ、ノートンが仮出所できるかどうか、決定する会議に出す書類を、ノートンにいろいろ審問しながら作る刑務官がデニーロ。ノートンvsデニーロの審問でのかけひき、デニーロを誘惑して夫を出してもらおうとするジョヴォヴィッチとのかけひき、焦りからか、長年のムショ暮らしからか、気持ちに「変化」が訪れるノートンと、妻ジョヴォヴィッチとの関係、そしてデニーロと43年連れ添った老妻との、これまた危うい関係…。手に汗、は握らないけど息詰まる、というか、うーん、これ、デトロイトが舞台だけど、ほんとにアメリカ映画??いわゆるハリウッド的な「あー、すっきりした!」を求めている人にはおススメしません。どこまでも、くらーくおもーい穴に落ち込んでいく感じで、私自身がものすごーく疲れていたこともあり、鑑賞後は思わず「うつになりそう…」と口走りそうなくらいどよーん(汗)。役者のせいじゃないです。役者はすごかった。特にミラちゃんはいい!彼女がいてくれて、本当によかった!いちばんわかりやすいキャラクターを、薄っぺらくなく演じた彼女は、本当にすごいと思う。ノートンの「変容」にも吸い込まれていきます。ただその「変容」のわけ、そして行き着く先がよくわからない。そして、もっともわからなかったのがデニーロ扮する刑務官。もうちょっと踏み込んで彼のことが描かれていたらと思う。感情移入しにくいんだな、彼に。本当は、彼のような人生がもっとも身近なはずなのに。脚本はアンガス・マクラマン。劇作家で舞台俳優だそうです。「ストーン」は東京国際映画祭にも特別招待作品として参加しています。封切りは10月30日から。ミラの囁きにくらくらしたい人は、必見。
2010.10.12
コメント(2)
本日、熱発中にて、「仲野マリの気ままにシネマナビ」に掲載した文を転載します。「オーケストラ!」は、東京・渋谷のbunkamuraル・シネマで3ヵ月のロングランを記録したヒット作品です。音楽も良心も、忘れてはいなかった監督:ラデュ・ミヘイレアニュ配給:ギャガGAGAストーリー●ボリショイオーケストラで天才指揮者と謳われたアンドレイは、ソ連共産党時代にユダヤ人楽団員の一斉解雇に異議を唱えて立場を追われ、以来30年、劇場清掃員として不遇の日々を送っていた。ある日、パリ・シャトレ劇場からボリショイへの出演依頼FAXを支配人より先に目にした彼は、当時解雇された仲間を引き連れてボリショイになりすまし、パリに行くことを思いつく。シャトレ劇場とのニセ交渉で、彼は共演ソリストにパリ在住のアンヌ・マリー=ジャケを指名。彼女でなければならない理由が、アンドレイにはあった。(4月GW、Bunkamuraル・シネマ、シネスイッチ銀座他全国順次ロードショー)基本、コメディである。非現実的である。そもそも音楽家に練習は不可欠で、楽団を追われ、底辺の仕事しか与えられず貧窮した生活を30年も送ってきた人が、かつての音色をすぐに出せるはずがない。しかし「お前はこれまでに、いったい何百回、何千回、頭の中でチャイコフスキーを演奏した?」というセリフに象徴されるように、彼らは決して音楽を忘れていなかった。そこを丁寧に描いているから、多少のご都合主義は、かえって痛快に思える。それがこの映画の幸せなところだ。根底に流れるのは、生きるために無理やり封印してしまった過去を、取り戻す勇気である。終盤に流れるチャイコフスキーのバイオリン協奏曲演奏は圧巻。登場人物のみならず、観客の心まで浄化してくれる。
2010.07.25
コメント(4)
ブラック・ボックス~記憶の罠WOWOWで見ました。事故で記憶があいまいになった男が、人事不省だった時に発したうわごとを看護婦が記録していて、その「言葉」を頼りに「自分」と向き合う話。関連のない映像が次々と現れ、どこまでが幻想で、どこからが本当かが交錯している上に、同じ状況で人が入れ替わっていたりするので、どれが真実なのか、最後の最後まで疑って見続けることとなる。ふつうの映画なら「ここで終わり」からもう3回くらいは展開がひねって進むので、最後のほうはちょっと食傷気味だし、その「ひねり」の複雑さに比べると、ラストの陳腐さはどうよ、っていう不満は残るけれど、面白く見ました。カメラワークが好きでした。マリオン・コティヤールが非常に魅力的な看護婦とCAとで登場。派手な人物も地味な人物も、とても魅力的に演じる女優さんだ。、この人は本当に人を引き込む力があるな~。医学的な症状としての「記憶障害」の種類は全然ちがうけれど「自分の記憶を探す」という意味では同じ匂いのするのが「メメント」。こちらもめっぽう好きな映画です。[DVDソフト] メメント
2010.07.19
コメント(0)
今日はアーノルド・シュワルツネッガーの出演作品がWOWOWで特集されていた。というか、「トータル・リコール」「シックス・デイ」「ターミネーター」「ターミネーター2」「ターミネーター4」でして、20年前に見たきりの「トータル・リコール」永遠の名作「ターミネーター」未見だった「ターミネーター4」どれも楽しめました。(全部は見られなかった。私もそこまでヒマではない)トータル・リコール(DVD) ◆20%OFF!「トータル・リコール」は、「脳内記憶」だけで「行った気になる宇宙旅行」を楽しめる、「トータルリコール」というシステムを試そうとしたシュワちゃんが、これを機に自分がかつて火星にいた時の記憶が消されていることを知る。「本当の自分」を求めて火星にやってくるシュワちゃん、しかしそこに待っていた「かつての自分」の記憶は……というどんでん返しに次ぐどんでん返し。だれが味方でだれが敵だかなかなかわからないところがよくできている。20年前、話がとても面白そうで、期待したのだけれど、いざ映画館で見てみるとCGとかセットがちゃっちくて、そのギャップでかなりがっかりした覚えがあり、その後は見直そうともしていなかったのだけれど、思いのほか緊迫感があって、楽しめました。【50%OFF!】ターミネーター4 コレクターズ・エディション(DVD)「ターミネーター4」はスカイネットと人類との闘いの日々を描く第4作。第3作がちょっとヘタレだったので、もう4はいいや、と未見でしたが、いやはや、よくできてました。ミッシング・リングをしっかりつなげるために、「ターミネーター」でのカイルの闘いぶりとコナーの闘いぶりをだぶらせ、「ターミネーター2」で機械でありながら人間の味方をする、という複雑な部分をマーカスという男を登場させることで膨らませ、単なる「機械vs人間」の勧善懲悪に終わらせないところがまた憎い。「ターミネーター」を理解し、愛している人が作った作品だと思った。それでもなお、最初の作品「ターミネーター」は金字塔のごとく輝き続ける。大好き!ターミネーター (2枚組)(期間限定出荷)(DVD) ◆20%OFF!
2010.06.20
コメント(2)
【新品DVD】【5000円以上送料無料】★20%OFF!★マンマ・ミーア!/メリル・ストリープ【GNBF ...ギリシャの小さな島で結婚式を挙げようとするシングルマザーに育てられた娘・ソフィア。母親ドナの日記から自分の父親である可能性のある3人の男性に母にナイショで結婚式への招待状を送る。ソフィアの夢は、本当の父親に手を引かれ、ヴァージン・ロードを歩くこと。ところが3人が3人とも「可能性がある」とわかり、大混乱!…という話を、ABBAのヒットソングに載せて作ったミュージカルを、メリル・ストリープをドナ役にして映画化したのがこの作品。この作品が成功したポイントとして、私は3つを挙げたい。一つめは、なんといってもABBAの歌。ヒット曲が多く、耳なじみがよく、という音楽的要素もさることながら、何十曲という歌の歌詞、それもABBAの歌詞だけを並べて、よくぞここまでのストーリーを考えた、という意味で、台本を書いたキャサリン・ジョンソンという人を讃えたい。ABBAのビヨルンでさえ、「この話のために私は歌を作ったように思える」と言っている。ABBAの歌はリアルタイムで聴いていたが、「歌詞カードと首っ引き」にまではのめりこんでいなかったので、一つ一つの言葉がとても新鮮だった。もう一つ、この物語の舞台をギリシャにしたこと。映画で観ると、それは風光明媚な場所がロケ地としてビジュアル最高!みたいな理由で選ばれたように思えるけれど、これは「ギリシア演劇」への絶妙なオマージュとなっている。それは映画ではエンディングにちょこっとギリシアの神々が出てくることでちょこっと匂わせているのだけれど。ギリシア演劇の基本ともいえる「三一致の法則」や、その他の構造がちゃんと踏襲されている!・演劇の開始から終了までがおよそ一日。(結婚式前日から当日までの話)・場所は一つの島の中だけ。・コロスがいる。(主要人物が歌い出すと、その他大勢がまさに「コーラス」参加する)・神殿がある。(この島はアフロディーテの泉があったところとされる)・神様の「気まぐれ」で話が始まる。(ソフィの父親候補3人ソフィに呼ばれてやってくるが、 ドナにとって不可抗力、という意味でギリシャ演劇によくあるバターン)・ディオニュソス的祝祭劇男女入り乱れての歌と踊り、結婚式(宴会)、などなど本能のままに現世の楽しみを享受することの幸せを描いている。最後の一つは「ヒッピーの同窓会」1999年、ABBA結成25年に合わせて発表されたミュージカルなので、20歳のソフィの出生は「20年前」の「1979年」。1970年代といえば、カリフォルニア・サウンド全盛で、その頃ヒッピーとかロッカーとかそのグルーピーとかやっていたイカれた若者たちがソフィの結婚式で「20年後の再会」を果たす。「バカやっていた」青春時代を懐かしみ、「今」の自分たちをみつめる。日本でいえば、全共闘時代のガチガチな学生運動家が、今や右翼の論客だったり資本主義の権化みたいな経営者だったり、あるいは未だに青臭い主義主張を盾に時代に抵抗していたり。人生に失敗した人、成功した人、いろいろいるけど、あのころはやっぱり永遠に宝物だよ、というつくりになっている。ABBAは直接的に「彼らの音楽」ではないかもしれないけれど、ABBAの音楽を使う理由は単に「歌詞に物語を得た」というだけでなく、「懐メロによって自分の人生を思い出す」という人間誰しも持っている回路を全開にする仕掛けでもあるだろう。つまりこの作品は、定番の上に定番をなぞり、そこに大ヒット曲という鉄板ミュージカルなのである。シェイクスピアでいえば、「真夏の夜の夢」のような大団円もあり、非常にオーソドックスな劇に仕上げていると思う。よくできた作品だが、しかし、感動したか?といわれると、…うーん…。舞台は本場のものも劇団四季のものも未見なので、本物のミュージカル俳優がやったら、あるいは本物のロックミュージシャンが歌ったら、また違う印象になるのかもしれないけれど、メリル・ストリープとピアーズ・ブロスナンの歌を聴きに、映画館に行きたいとは思わないし。このキャスティングでやる意味がよくわからなかった。「かつてイケイケだった女性とその娘の結婚をめぐる かつての女友達との同窓会」物語としては、スーザン・サランドン、ゴールディー・ホーン、ジェフリー・ラッシュがやった「バンガー・シスターズ」のほうが数段上である。
2010.06.05
コメント(0)
関西に来ています。USJに初めて来ました。歩いていると、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のあの時計台のある見慣れた広場が見えると、懐かしい街に戻ってきたみたいなうれしさがあります。今回衝撃的だったのが3Dを駆使したアトラクションです。「アヴァター」が映画作品としてどうだったかは別として、アクション映画はもはや3Dと切り離しては語れない、と痛感しました。特に「ターミネーター」のアトラクションは圧巻。「ターミネーター」という作品自体の完成度の高さ(脚本力、キャラクターの魅力)にプラスして、その特性を生かした3D加工、さらに映像と舞台(ライブアクション)との合体、客席が受ける効果(風、客席が動く、冷たいガスなどの噴射、など)が映画館で映画を「見る」から「五感で体感する」に大きく転換することを物語っています。この技術の飛躍的な躍進は、USJというアミューズメントパーク」の存在価値を、大いに高めるのではないかと思います。映写のみの映画館に特化して、舞台つきの映写ホールは、家でレンタルDVDを見るのとはまったく異なる楽しみを観客に与えてくれるでしょう。心理描写で勝負する映画はまた別ですが、「アクション」がすべてのものに関しては映画の一つの時代が終わったと思います。とりあえず、本日はもっとも衝撃的だったことのみ。
2010.05.24
コメント(0)
ボーン・コレクター 【DVD】デンゼル・ワシントン扮するリンカーンが名うての警察官。彼は事故のために寝たきり状態だが、その頭脳と経験で今もベッドの上から捜査に参加している。アンジェリーナ・ジョリー演ずるアメリアは、青少年課の警官。彼女がある事件の初動段階で現場の証拠保存に力を尽くしたことから、リンカーンの目に留まり、彼に代わって現場の証拠を集めてくるよう指示される。自分の才能を封印しようとしていた彼女は、最初はリンカーンの高飛車な指示に反発を覚えているが、自分の迷いや戸惑いを受け止め、解放してくれるリンカーンによってのびのびと捜査に携わるようになる。二人は協力して連続猟奇殺人事件を追うが、犯人は必ず被害者の骨をえぐり、また必ずメッセージを残していく。用意周到な犯人がわざと残していくその証拠を辿って行き着いた先で、アメリアは思いも寄らないものを発見するのだった!最初はアメリアの心の葛藤に比重がかかっているのかと思いきや、最後は完全にリンカーンの物語。アメリアが警官として捜査に積極的になるまで、もっといろいろあるかと思ったけれど、このあたりは高速でクリア。科学捜査や電子機器、そして優秀な仲間とともに、ベッドの上ながら「現場」にいるもの以上に謎に迫っていくあたりは非常に面白かったのだが、犯人の動機とか、最後のほうは尻すぼみの様相。特定の人への怒りと、不特定の人への猟奇的な殺人の仕方とがあまり結びつかなかった。
2010.05.11
コメント(0)
鳴り物入りで封切られた豪華キャストによるミュージカル映画「Nine」。蓋をあければ、かなりな不入り。「単に有名どころを並べただけ」「主人公に感情移入できない」「こんな浮気男キライ!」「日本人はあそこまでボンバーな男女関係はムリ」「ストーリー、わけががわからない」「結局何が言いたかったの?」などなど、さんざんな感想をいろいろなところで耳にするにつけ、見に行くのがコワくなるくらい、でした。でも去年は東宝ミュージカルアカデミーの試演会から始まって、G2演出の「Nineザ・ミュージカル」まで、Nineづいていた私。観ないっていうのもちょっと…と思っていたところ、ニコール・キッドマン好き、ミュージカル好きなダンナからお誘いが!ということで、ほとんどの主要な映画館で最終上映週となる5/6、観てまいりました。結果!不評の波を掻き分けて、私、この映画「好き」なのでありました。もっとも感動したのは、マリオン・コティヤール。あっちゃこっちゃに女を抱える映画監督グイード・コンティーニの妻ルイザ役です。たくさんの女性キャラのなかで、この妻役がもっとも地味でもっとも難しい役、だと私は思っています。沈黙の演技が多いし、口を開けば夫をなじったり、自分の境遇を嘆いたりするばかり。ギスギスな女性になりがちだから、魅力を感じにくいし、「じゃあ、なんで離婚しないのよ?」って思っちゃう。彼女がどんなに夫グイードを愛しているか。監督グイードをどれだけ尊敬しているか。夫グイードに自分という存在がどれだけ必要か。そういうことをすべて自覚しながら歌う。「マイ・ハズバンド・メイクス・ムービーズ」は最高にせつなく、彼女は血を流すより涙を流すより、あふれる愛をとめられない。そんな夫婦の絆をちゃんと表現している。美しい声だ。深みのある、懐の深い声。もちろん、ミュージカル俳優でも歌手でもないから、「うまい」と感じられない人も多いかもしれない。でも、こんなに情感たっぷりに声と歌をコントロールできる人は少ない。大体、ものすごく歌が難しいんだから。「Nineザ・ミュージカル」の新妻聖子より、断然コティヤールの勝ち。ジュディ・デンチの「フォリ・ベルジェール」もよかった。ダンナは「007のMに歌歌わせてどうするんだよ??」とおカンムリだったけど、私は好きだ。シャンソンらしさを前面に出し、パリのシャンソニエの香りを醸してオリジナリティで不得意な歌を仕上げるところは、さすが。彼女がちょっとハスにかまえて歌うから、すべてが同じトーンにならずに済んだ。老いも若きもあれもこれもフェロモンたっぷり肉食系女子じゃ、ちょっとおなか一杯すぎるから。ファーギーの演じたサラギーナの歌が一番よかったっていう人が多いけど、私はあまり感心しなかった。東宝ミュージカルアカデミー4期の菅原奈月が演じたサラギーナのほうが、ずっとよかった。少年グイードに対し喰らいつくほど挑発的に歌い踊るファーギー。まだ子どもだよ、グイード9歳。娼婦一辺倒すぎて、これにやんやの喝采を贈る9歳っていうのにもちょっと首傾げちゃう。9歳の男の子に「女といえばサラギーナ」というイメージを決定付けた、いわば彼女の女神様。野生的で本能丸出しで肉食系の、オトナの女の魅力も大事だけど、同時に聖母のようなやさしさ、すべてを抱きとめるおネエサマ的な安らぎも絶対サラギーナにはあったと思う。そこを菅原はちゃんと表現していた。だから彼女は、私にとって最高のサラギーナなの。「シネマ・イタリアーノ」も楽しかった。豪華で、かつコンティーニのスタイルのキッチュさをうまく表して、大人数やインサートカットをうまく使って、映画ならではの演出が光った。ケイト・ハドソンは歌も踊りも一流じゃないけど、でも下手じゃなかったし、コンセプトがそれを上回ってわくわくさせた。一緒に体が踊ってしまった。ダブル不倫の愛人カルラを演じたペネロペ・クルスは期待を裏切らないフェロモン放出。彼女って、自分が何を求められているかよくわかってる。でも、こんなにアタマの悪い女に描かれて、カルラ可哀想。描き方次第で、もっと奥行きの出る役なんだけどな~。でも世の男性はマリリン・モンローにもおバカな役しか望まなかったし。それに徹したペネロペの女優根性に拍手、なのでしょう。一番不満だったのは、ニコール・キッドマン扮するクラウディアの描き方。クラウディアは、グイードのディーヴァだったはず。彼女がくれば映画ができる、と思ったのは周りじゃなくて彼自身。その「彼女さえくれば」という思いの強すぎるところに、クラウディアは応え切れなかったのだ。グイードが勝手に描く理想の女性像ではなく、女優としてもっと役の幅を広げていきたいクラウディアとの一騎打ちが、きちんと描かれてなかった。それは、クラウディアと妻ルイザとがまったく交錯しなかったことによる。ルイザは女性としてクラウディアに嫉妬しつつも、監督の妻として、映画のディーヴァを夫に与えようとする。映画では、ただ監督がルイザに「映画のためにあれやれ、これやれ」と命じるだけで、ルイザ自身がこうする、ああする、という面がカットされていた。もう一つ、カットされていたのは宗教的な音楽。美しい天使の歌声、空から降ってくるようなハーモニー。そういうものはなかったなー。少年グイードも歌わなかったし。純なもの、清らかなものは、すべてカットですか??っていう構成。これだと、世間では反道徳、Sex一辺倒の監督と思われているグイードの中に神さまや教会文化という底流があることがまったく匂わなくなる。「Nine」というのは、さまざまな音楽のジャンルが混在していて、そのバラエティの豊富さと難易度の高さで聞かせる部分がある。音楽もグイードという人間も、振り幅の大きさがなくなって、そのぶんダイナミズムさが失われ、人間が矛盾だらけだからこそ愛すべき生き物なのだということが言外に感じにくくなり、ただ「わけのわからなさ」だけが突出した、そこが不評の一因かもしれない。何せ、もとがフェリーニの「81/2」である。スランプの映画監督の頭に浮かんだ切れ切れのインスピレーションの映像化だ。筋なんてない。産みの苦しみが、断片的名「現実」と断片的な「創作」とでつづられる。そこが「Nine」の真骨頂でもあり、切れ切れだからこそもっと大きな世界を体感できるはずなのだ。そういう意味で、ミュージカルにしたのは正解だったんだろう。ミュージカルって、キホン、筋を追うだけだと頓挫するから。そのシーンを楽しむ。そのシーンの暗示しているものを読み取る。それに慣れていない人には、苦痛だったろうな~。この映画。最後に。ソフィア・ローレンだけは、どう解釈してもミスキャストだと思いました。「Nine」に出てくる女性たちは、男性の欲する女性のキャラクター一つひとつを一人ひとりが体現している、という考え方もできる。私としては、ママにはカルラと対照的な、清楚さがほしかった。グイード少年を教会付きの寄宿学校に入れるママですから。もうしょうがないんだけどね。日本でも、「女優といえば吉永小百合」とか、あるでしょ。替えがきかないというか。歌が歌えなくても、イメージ違いすぎても、彼女しかなかったんだと思います。ソフィア・ローレンこそサラギーナのイメージですよ。老いてもサラギーナ。そのほうが魅力的だったんじゃないかしら。といっても、歌は歌えなかったろうし。ママ役だけは、なんとかしてほしかったです。
2010.05.09
コメント(0)
思わず見入ってしまい、気がついたら11時、でした。名作っていうのは、すごい魅力を持ってるな、とつくづく。特に「時計仕掛けのオレンジ」とチャップリンシリーズは、1カットだけでもインパクトあり。ミュージカルもたくさん入っていました。一番上は10位の「オズの魔法使い」。以下「雨に唄えば」「サウンド・オブ・ミュージック」「ウェストサイド・ストーリー」「キャバレー」など。アニメは上位に「白雪姫」。あとは「トイ・ストーリー」が99位でした。なかなか味のある2作の取り合わせです。どっちも大好き!サウンドトラックもオリジナリティあふれて、ちょっと聞いただけで映画の世界に溶けていきます。とっても心地よい時間を過ごせました。
2010.04.27
コメント(0)
アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの競演という、その1点に惹かれて観に行きましたが、やっぱりその1点だけだったかな~。原題は「Righteous Kill」。パチーノとデ・ニーロは長年コンビを組んで事件を解決してきた刑事たち。辣腕だが、それでも法の裁きを免れている悪者がいる。そういう悪者が、次々を殺されていく。彼らに鉄槌をくらわしているのは、一体誰か?という話。「それは誰か?」というつくりだったら、もう少しのめりこめたと思うんだけど、「それはこいつか? それとも違うのか?」という展開だったので、行き着くさきはほとんど二通りしかなく、ラスト近くにどんでん返しはあるものの、謎解きの楽しさは半減してしまった。同じような話として鎌田敏夫の「眠れない夜を数えて」が脳裏にちらつく。はっきり言って、このドラマのほうが、三田村邦彦や春田純一や鶴瓶をミステリアスに使って、ずっと奥深く複雑なストーリーだった。
2010.04.08
コメント(1)
私がコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」ものにはまったのは、小学6年生くらいのときだったか。まずは「怪盗ルパン」シリーズ、次に「シャーロック・ホームズ」シリーズと、図書館にある本をかたっぱしから読み、ないものは買ってまで読んだ覚えがある。私がホームズでもっともよく覚えているのは、訪ねてきた女性の職業を音楽教師かピアニスト、と言い当てる場面。「なぜわかったのですか?」と驚く婦人に対し彼は「あなたの指を見ればわかります。 そういう指をしている人は、ピアノを弾くか、あるいはタイピスト。 あなたの教養深い物腰から、ピアノではないかと推測しただけです」と、答えます。当時私が一生懸命ピアノを稽古していたこともあり、この場面はものすごく鮮明に覚えています。(何の話の導入だったかすら忘れてしまったのに)私にとってホームズとは、思慮深く、物静かで、ちょっと皮肉屋だけど知的なジェントルマン。そんなイメージでした。だから、今回の映画「シャーロック・ホームズ」の主人公は、てっきりジュード・ロウだと思い込んでしまっていたのです(笑)。違いましたね~。ホームズ役はロバート・ダウニーJr.。ライオン丸っていうか、ワイルドなホームズです。ホームズって確かに変人かもしれないけど、ここまで好戦的でハナつまみ者に描かれるとは思ってませんでした。ジュード・ロウはワトソン役だった。「彼はワトソン、彼はワトソン…」と念じ続けながら観たものの、かっこいいとかそういうことはおいといて、どうしても違和感が先に立つ。私のワトソン像は、A型ホームズに対するO型ワトソン的存在。アタマはいいけどおおらかで、「ま、いいじゃないか、そんなことは」みたいな。「あんまりコンをつめすぎるなよ、人生は楽しまなくちゃ」「へえ~、そんなこともわかるか、こいつはすごい!」みたいなノー天気な感じでした。ほんとはそうじゃないかもしれない。単なる私の思い込みかも。とはいえ、脳内で長年培われてきたイメージは、そう簡単に拭い去れない。だから、なーんか違うの。今度の映画。場所はロンドン、ベーカーストリート。しかしほとんど、ハリウッドのアクション映画でありまして、それもカルト宗教がらみの国家のっとり計画みたいな壮大な話で、巷の殺人事件や失踪事件、盗難事件を見事な推理でスマートに解決する、みたいな話ではございませんでした。私のような「ホームズ幻想」を抱き、あるいは典型的なホームズの活躍を期待してこの映画を見んと映画館に足を運んだ人が多かったようで、周りには老夫婦の割合が高かった。ちょっと…テイスト違ったんじゃないでしょうか。観客に謎解きという知的なゲームを楽しむような「時間」をまったく与えてくれずに次から次へとアクション、アクション、アクション。あとから「答え」をもらっても、ひざを打って「なるほど~!」みたいな快感がありませんでした。ガイ・リッチーが監督だ、ということを完全に忘れていた私がいけなかったのかもしれません。続編ができるような匂わせ方で終わりますが、探偵小説というよりも、悪の枢軸との戦い志向です。ホームズをものすごく深く愛している人は、そこのところ、了解して映画館へ。
2010.04.03
コメント(0)
ブレードランナー ファイナル・カット スペシャル・エディション(DVD) ◆20%OFF!AMNのモニターキャンペーンに当選したので、ワーナーオンデマンドに登録しました。オンデマンドにはレンタルとセルがあり、レンタルは48時間以内の視聴、セルは売り切りです。映画のほか、海外ドラマなどもありますが、私の好きな「ミュージカル」は、項目はあるものの作品が1個もなく、ちょっとがっかり。「ハリー・ポッター」シリーズはかなりありました。「そんな彼なら捨てちゃえば」とかも。そんななか、私は「ブレード・ランナー」のファイナルカットを購入してみました。この映画に関してはいろいろ評判を聞きながらも、まことに恥ずかしながら初見であります。まず音楽がいい。ヴァンゲリス。闇と光と、洗練された夜景と雑然とした路地と。どこか夢の世界のような浮遊感を、ヴァンゲリスの音楽が助長する。1980年台の映画とはとても思えない。それ以降の映画が、この作品を模して、あるいは影響を受けて作られたということがよくわかる。こちらを後に見てしまったから、逆に既視感さえ生まれるほどだ。主役はハリソン・フォード。地球に紛れ込んだレプリカント(精巧なロボット)を「処理する」ブレードランナー、デッカード役だ。しかし、「処理される」ほうの男・バッティ(ルトガー・ハウアー)のかもし出す哀愁のほうが、たまらなくカッコいい。ハリソン・フォードがどちらかというと20世紀型の田舎のカウボーイ的だとすれば、バッティは間違いなく21世紀的ヒーロー。透明で、寡黙で、知的で、残酷で、クール。話が進めば進むほど、人間でありながらレプリカントの味方をしたくなる私。それに、デッカードだって、もしかしたらレプリカントなんじゃない?って感じたりして。視聴後いろいろなレビューをネットサーフィンしていたら、やっぱりそういう考え方あるのね。ファイナルカットはナレーションとかそぎ落とされていてわかりにくいけど、ほかのヴァージョンではもっとそれが匂うものもあるとか。原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も面白いらしい。著者のフィリップ・K・ディックは「トータル・リコール」や「マイノリティ・リポート」の原作者でもある。彼は「瞳」にこだわる人だな~。それにしても。日本語や漢字がガンガン出てくるこの映画、本当に21世紀を先取りしている。「強力わかもと」にはしてやられた。「コカ・コーラ」とともに、世界の「わかもと」だったのね…。「ブレード・ランナー」も初でしたが、PCで映画を2時間見続ける、というのも初で、いつも映画はソファにもたれて(あるいは寝そべって)見るので、前傾姿勢を保ちながら2時間、それも画面のすぐそばっていうのがちょっと大変だったかなー。といいつつ、次は何にしようか、と考えるのでありました。
2010.02.24
コメント(0)
イワン雷帝監督: セルゲイ・エイゼンシュテイン映画:イワン雷帝(第一部・第二部)発売元:アイ・ヴィー・シーストーリー●モスクワ大公イワンは、ロシア最初の統一皇帝となるが、自分たちの権益を守ろうとする大貴族の妨害にあい、思うような政治を行えない。唯一の心の支えであった皇后の死は、イワンをさらに孤立させ、疑心暗鬼の中、裏切りと毒殺の連鎖はエスカレートしていく。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・暗い城の中、ろうそくの火に照らされた皇帝イワンの影が、白い壁に映る。覆いかぶさるようなその大きさが、皇帝への畏怖と権力を物語る。第二部の撮影途中でスターリンから批判を受け、修正を余儀なくされたといういわく付きの作品。「逆臣の排除」それは、16世紀も20世紀もそして21世紀も、何ら変わっていない。
2009.11.27
コメント(0)
試写で「シャネル&ストラヴィンスキー」を見てきました。カンヌ映画祭のクロージング作品ですが、フランスの映画祭のクロージング作品にふさわしい、密度の濃い映画でした。おすすめ。特に、バレエや音楽など、芸術に関心のある方は必見。シャネル生誕125周年とかで、舞台に映画にとシャネル関係の作品の上演・上映が続きました。「ココ・アヴァン・シャネル」は未見ですが、ほかは舞台も映画もいろいろ見たおかげでココ・シャネルの一生にものすごく詳しくなってしまった感あり。相乗作用で一つの映画では空白となっている部分も、ほかの作品で背景を知っているのですんなり入ってきます。もちろん、作品ごとに登場人物の描かれ方は微妙にちがいますけどね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回の「シャネル&ストラヴィンスキー」は、シャネルの生い立ちとか人生とかはほとんど触れられていない。どちらかというと、時間軸はストラヴィンスキーにある。「春の祭典」の初演時から始まって、数年後の再演に終わるという形が見事。「春=発情=恋」の不安と爆発を予感させるストラヴィンスキーの音楽が効果的に使われている。バレエや音楽を知るものにとって、映画の冒頭、「春の祭典」の初演の雰囲気に居合わせられる幸せが、まずすごい。「眠れる森の美女」みたいなバレエや音楽しか知らない人たちが、そういうものを期待して着飾って劇場に行ったら、ビナ・バウシュの作品を見せられた、みたいな衝撃。時代より先を行く、とはこういうことだろう。今見たって、「わかる」っていえるのか。その「胸騒ぎ」や「混乱」をジェットコースターに乗っているときそれを快感と認識できるかそれとも単なる恐怖、単なる嫌悪と感じるか、それだけの違いでしかないのかもしれない。20世紀初頭のパリ、馬車と車に象徴される、19世紀の世紀末の文化の爛熟と20世紀の新しい芸術運動の予感の渾然一体とした雰囲気が、本当に素晴らしいセットや衣装、小道具によって再現されている。まるでタイムスリップして芸術に「新しい言語」がもたらされたその瞬間を体感する。それだけでもこの映画を見る価値があった。中間は男と女の恋の鞘当。ロシアの大地と信仰とともに生きた妻と当時世界でもっとも自立した女と言っても過言でなかったろうシャネルの間に散る火花。そして最後、話は「男の自立」へ。ストラヴィンスキーが一皮むけていく、その過程を、ほとんどセリフを排しシャネルとストラヴィンスキーそれぞれの「生みの苦しみ」を追うことで描いていくその力強さにこの映画の真骨頂がある。かなりきわどいベッドシーンがあって、思わず息をのんだりするんですが、歴史の中で積み重なったフランスのリッチなたたずまいと洗練されたシャネルのデザインと深く静かに潜行する隠微な恋のぬめりと人間のどうしようもない欲望と…。芸術とは、それらすべてを肥やしにして一つの結晶にしている。創作者たちの葛藤とエネルギーが見えてくる映画だった。そして。私はこのフランス映画を見ながら、この前歌舞伎座で見た近松の「河床」を思い出していた。シャネルと妻と、二人の女がストラヴィンスキーにつきつけたものってまさに「河床」の世界なんだよね。一人前の男をきどってるけど、あんた、女がいなくちゃ何もできないの?退路を断って決断したのは、女。ストラヴィンスキーさん、そこ、わかったの?古今東西、やっぱ男と女の営みこそが、すべての始まりなんだなー。「河床」、もう一回みたい。今度は違う目で見られそう。*「シャネル&ストラヴィンスキー」の公開は、来年お正月第二弾。 また初日が決まったらお知らせします。
2009.11.20
コメント(2)
クイズ・ショウ(DVD) ◆20%OFF!インテリ青年がはまった「やらせ」の罠監督:ロバート・レッドフォード 発売元: ウォルト・ディズニー・ジャパンストーリー●1956年、アメリカのテレビ界では「クイズ21」が大人気だった。しかし視聴率が伸び悩むと、スポンサーは連戦連勝のチャンピオン・ステンペルを切ろうとする。新チャンピオンになったマイクはセレブ出身に加えルックスもよく、時代の寵児となっていくが、やがて番組の「やらせ」が発覚する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・教養深くまじめなマイクも、「やらせ」の渦中に巻き込まれて身動きがとれなくなる。次第に麻痺する良心。テレビ局やスポンサーの力の巨大さとともに、WASP系のマイクとユダヤ系のステンペル、そして事件を調査するディック(ユダヤ系だがハーバード大卒のエリート)の3人の描写にも、当時のアメリカ社会が表れている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「気ままにシネマナビ」で、「スラムドッグ$ミリオネア」紹介のカップリング記事として書きました。大好きな映画です。日本のクイズ番組でも、「やらせ」は深く静かに潜行しているとのウワサが絶えません。答えそのものを教えなくても、何気なく「その」分野に関心を抱くようにスタッフが話題を持っていったり、そういう操作があっての「常勝」だ、とも言われます。この映画の主人公は、自分の力だと思っていたものが、実は「操作」されていた、知らない間に「加担」していた、というその事実に愕然とします。そのとき、彼はどうしたか?そこが見所ですね。
2009.11.16
コメント(0)
母親が踏み越えた一歩の代償監督:ギジェルモ・アリアガ配給:東北新社ストーリー●シルヴィア(シャーリーズ・セロン)は海辺の町で、次々と男を取り替えながら生きている。少女時代、母親が不倫相手と密会中に事故死した記憶が、彼女を虚無で投げやりにしていた。そこへ10年前捨ててきた自分の娘マリアが会いに来る。最初は自分が母親失格だと逃げるシルヴィア。やがて娘と暮したいと考え始め、彼女はこれまで封印してきた自分の「罪」と向き合おうとする。(9月26日より、全国順次公開中)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母親の行動一つで子どもがいかに傷つくか、という話だ。子どもとは母親に母親役だけを求めるもの。母にとって夫が仕事で長く家を空ける暮らしや、乳房切除による喪失感がどんな意味を持つかなど理解できるはずもない。愛憎混じりあい、シルヴィアは思春期の潔癖さと残酷さで母の不倫を決して許さなかった。一方マリア(テッサ・イア)が見せる、自分を捨てた母シルヴィアに対するクールさは、シルヴィアとはまた違った心の傷を感じさせる。彼女もまたいつか爆発するときが来るのだろうか。そう思うとせつなくなる。本来は、シルヴィアがトラウマと闘って本当の家族を得ようとするのが作品の本筋なのだが、母・ジーナ(キム・ベイシンガー)の若さを失う中で感じる不安と焦燥、ありのままの自分を受け入れてもらった時の至福の涙など、一見幸福な家庭の中、実は孤独をかこつ専業主婦像が実にリアルで、心情に思わず感情移入してしまう。*「あの日、欲望の大地で」の公式サイトはこちら。*「気ままにシネマナビ」では、封切り映画1本の紹介に対し、 テーマの類似性に着目したDVDを合わせて紹介しています。 この映画のカップリングが、 昨日紹介した「マディソン郡の橋」。 自分を解放してくれる男と、今まで築き上げた平穏で幸せな家庭。 てんびんで「男」の反対側にかけられるのは、 決して「夫」ではなく「家庭」であり、 もう一つのてんびんにかけられるのは、 「自分らしさ」と「母親らしさ」なんだということを、 この二つの映画はおしえてくれます。 本文にも書きましたが、 私にとって、この映画の主人公は、キム・ベイシンガー扮するジーナです。
2009.10.19
コメント(0)
マディソン郡の橋 特別版彼女が選択した「それから」監督:クリント・イーストウッド販売元:ワーナー・ホームビデオストーリー●日々家事に追われるアイオワの主婦フランチェスカにとって、夫と子どもがステートフェアに行く四日間だけが、自分の自由な時間だった。その最中に、屋根付の橋の撮影に来たカメラマン・ロバートが家に立ち寄る。運命の出会いに身を委ねた二人は四日後、決断のときを迎える。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「女はいつも何かを選び、何かを捨ててきた」。イタリアという故郷も、教師という職業も、大好きな音楽も情熱にほてる肉体も、すべて夫と子どもとの平穏な日常を得るためにあきらめた女性の言葉が重い。車で買い物に立ち寄った雨の街角でロバートを見掛け、信号待ちの数分間、運転席の夫を捨てて彼のもとに走ろうかとドアノブに手を掛けるシーンが秀逸。*右手の小指と薬指を怪我してしまいました。 骨折はしていないけど、マッサオに内出血。 パンパンに腫れて、指が曲がりません。 ということで、 今日はこの10月に「Wife」に掲載された文章です。
2009.10.18
コメント(0)
鳳蘭と大地真央と、二人のココの舞台を見た後でこの映画を見ると、二つの舞台が融合されてここにある、という感じがする。シャーリー・マクレーンはさすがの演技。真っ赤なルージュをひいた口元に深く細くたくさん刻まれたシワは特殊メイクだろうが、「70歳」を表現する勇気に脱帽。ココの若い時代を演じたバルボア・ボブローヴァは、70歳のシャーリーココをそのまま若くした感じでまったく違和感なし。ただ、ものすごく田舎娘っぽくって、こういう言い方は失礼だけど、いろんな殿方からアタックされるようなフェロモンはあまり感じられなかった。「労働者階級の人」というイメージなのかもしれないけど、そこは、最後までひっかかったかなー。この映画は10月9日で終わるので、ご注意ください。でも、シャネル関連の映画はまだまだ続く。現在上映中の「ココ・アヴァン・シャネル」に続き、「シャネル&ストラヴィンスキー」も来春公開。ネタは尽きない、という人生なんですねー。
2009.10.03
コメント(2)
【21%OFF!】新学期 操行ゼロ(DVD)この前、フレッド・アステア主演の「トップ・ハット」を観に行ったとき、二本立てだったので一緒にみたのが古いフランス映画の「Zero de Conduit」。「操行ゼロ」という訳がついてますが、英語でいうと、「Out of Control」なんだから、言うことを聞かない悪ガキたちの話、と解釈してよいのでは?学校(ここでは寄宿学校)で規則と体罰と権威主義によって教師たちに子どもらしさをふみにじられた生徒たちが、最後に式典をめちゃくちゃにして、学校の屋根に自分たちの旗を立てる話です。今私たちが見れば、単なる子どもたちのかわいらしいイタズラだったり、ハラスメントに対する抗議だったり、修学旅行の枕投げみたいなものだったりにしかすぎなくて、一言でいうと、フランス版「ぼくらの七日間戦争」という感じ。ところが。この映画は、1933年代に作られたけど、なんと1946年まで上映禁止だったそうです。つまり、「生徒が教師に反抗する」は、反社会的だというわけです。寄宿学校という生活の場も含めての場だからかもしれないけれど、ヨーロッパの昔の「学校」っていうのは、日本の学校に比べてものすごく厳格っていうか、「ああよしよし」みたいな甘さがなくて、「子どもは大人のいうことを聞け!」の一点張り。そこにちょっとでもものわかりのいい教師がやってくると、もうカオスになってしまう。この映画を見ると、だからこそ1968年のパリの五月革命っていうのは、学校の雰囲気を一変させたんだなって、ものすごく納得してしまいました。監督はジャン・ヴィゴ、撮影はボリス・カウフマン。トリュフォーの「大人は判ってくれない」にその精神が引き継がれていく、フランス映画を語るに欠かせない一本、なのだそうです。
2009.09.15
コメント(1)
「華麗なセットを背景に、アーヴィング・バーリンの名曲とともにフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズのゴールデン・コンビがスクリーン狭しと踊りまくる華麗な姿は、もはや芸術の域に達している」…と紹介されてしまっては、見るしかありません。以前に紹介した東京・渋谷のシネマ・ヴェーラでやっていた特集「映画史上の名作2」の最終日、ようやく念願叶い、全盛期のフレッド・アステアに会ってまいりました!「トップハット」のあらすじは、フレッド・アステアばりのアメリカのスターダンサー・ジェリーがロンドンでの初のステージを成功させようとマネージャーと乗り込んできて、そこで出会った女性・デールに一目惚れして始まる恋の物語。デールが、まだイギリスでは公演をしたことがなく面が割れてないジェリーの素性を同行しているマネージャー(彼は既婚で奥さんはデールの親友)の素性と取り違えてしまうことからカンチガイ・すれちがいの連続が起きるラブコメで、まあ、結果はわかりきっているわけですけど、とってもおしゃれだし、とにかくアステアがすごいんで、ほかのことなんかどーでもよくなります。細い。手足が長い。てのひらが大きい、手の指が長い。しなやか。スピーディー。動いても、止まっても、絵になる。まるで鳥が羽ばたくように、素早く、しかしふわっと軽く、やさしい音がどこまでも続くタップは心地よく、気づくと微笑んでいる。魔法だ。癒やしだ。ただただ心地よい。それもそのはず、まずはアステア自身が気持ちよさそう。「いつでも踊りだしたくなる」というセリフそのままに、アステアは踊る、踊る、踊る。ステッキとタップと、まるで二つの楽器をあやつるように、音楽をまとってくるくると、目にも止まらぬほどに、踊るのが楽しくて、楽しくて、しょうがない、というように。ホテルの部屋をところかまわず(そして夜なのに時間もかまわず)踊りまくるから「うるさい」とどなりこんできた階下の女性(デール)に一目惚れして部屋に帰った彼女をゆっくり眠らせてあげるために、床にタバコ消しの白い砂をまいて砂浜を波が洗うがごときタップを披露する。見て引き込まれ、聞いてとろける、そんなタップだ。映画では、ロンドンでのショウを劇中劇のようにして映すのだが、シルクハットに燕尾服のバックダンサーを従えて踊るやはりシルクハットと燕尾服にステッキというアステアはもうダンディっていうか、決まってます。スターのオーラです。でも重鎮ではなく、あくまで爽やか、そして軽やか。ああ1930年代に生きていたかったって思います。でも、この時代に舞台なんか見られる人は、貴族とか大金持ちとか、そういう人だったろうなー。私が1930年に生きてなかったことを恨むより、アステアが「映画」というもののある時代に生きていてくれたことにまず感謝しなくては!DVDになってます。タップダンスをしている人は必見。ミュージカルやバレエ、ダンスの好きな人も必見。アステアもすごいけど、相手役のジンジャーも負けてないから脱帽です。でもリードしてるのは、アステアです!*連想その1*時々、アステアの顔が安蘭けいに見えてきたんです。大きな目と口元、小柄なわりに大きな掌、針金のようなピンとした立ち姿。似てる…。*連想その2*ラスト近く「ピコリーノ」という曲でたくさんの人が踊るんだけど、その曲の間奏というか一部分(6拍子がラララ・ラララ・ラシ・ドシ・ラソと3-3-2-2-2に分かれるところ)がアレンジも含め「大江戸捜査網」のテーマメロディとおんなじ!…っていうか、こっちが先ですが。「水戸黄門」のテーマは「ボレロ」で、「大江戸捜査網」は「トップハット」か、と感慨ひとしお。
2009.08.28
コメント(0)
【送料無料選択可!】郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル・リマスター 完全版 / 洋画ふらっとやってきた男が人妻とデキてしまって、日常に倦んでいた人妻は夫殺害を男に持ちかけ、そして二人は…という話だ。映画の原題は「妄想」といい、行きがかり上女の夫を殺してしまった主人公ジーノは、もとの自分を取り戻せぬまま罪悪感にさいなまれる。それに対し女は自分が自由になったことでの達成感でいっぱいだ。殺した夫の記憶満載の家で暮らそうとする女の神経をジーノは理解できない。「殺してしまった」ことに押しつぶされ、すべての人が自分の罪を知っているように思え、自滅の道を一直線の男の話である。監督は名匠ルキノ・ビスコンティと聞けばすわ名作?しかしストーリー的にものすごく感銘を受けるものではない。映画化の許可もきちんと取らずに映画化してしまったとのことで、公開後すぐにお蔵になってしまったといういわくつき。「一目会ったその日から」の物語だが、会ってすぐ寝て、一度寝た直後に「絶対私を捨てないわね?」と念を押す人妻っていうシチュエーションが、どーにも理解できず、だからといってジーノの身勝手さにも共感しがたい。ただ、この若くて官能的な女性ジョバンナが太っちょで無神経な酒場の店主と結婚しているその「理由」は1942年のイタリアを映して人の心をつかんだのかもしれない。貧しかったのである。生きていかねばならなかったのである。ジョバンナは、ホテルに「食事」に誘ってくれた男と結婚した。住む家と、食べるものと、着る服がほしかったからだ。ジーノは、放浪しながら日々を生きている。人の車の荷台に勝手にしのびこみ、汽車には無賃乗車、何か口があれば働き、その日の食い扶持を見つける毎日。「行きがかり上」の殺人で、自分にはその気がなかったように主張するけれど、「浮浪者」はやめて「定住」したかった、とその本音はところどころに表れる。1942年の映画である。砂埃り、土埃り、汗の匂い、じりじり焼き付ける太陽。人の物語、というよりも、野生の匂いが漂う映画だった。*作品中、「郵便配達」は「一度」も出てこない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後年、リメイクされたものがこちら。郵便配達は二度ベルを鳴らすジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングの顔合わせで、濃厚でワイルドなベッド・シーンが話題をさらった。予告編は映画館で何度も見たけれど、本編は未見。
2009.08.21
コメント(1)
コーラス メモリアル・エディション第二次世界大戦が終わって4年の1949年。日本でも昭和24年といえば、まだまだ「浮浪児」と呼ばれた戦争孤児があちこちにいて、靴磨きをしたり、ヤミ市で使い走りをしたりして懸命に日々を過ごしていた。戦争が終わって4年も経てば、立ち直れる人は立ち直れる。必死で戦争の傷跡を消そうとがんばった結果、戦争を思い出させるものは後ろに、後ろにと追いやられる。この映画は1949年のフランスの片田舎の、「沼の底」という名前をつけられた寄宿制児童更正施設でのお話。もう、こいつら、沼の底に沈んじゃえ!みたいな感じ?「ミス・サイゴン」でジョーがアメラジアンたちを「ゴミため~♪」と歌う感じ?いわゆる孤児院ではなく、なんらかの理由で子どもを預けている、というところ。子どもがいては働けない母親とかね。戦争で夫を亡くした人もたくさんいただろうし。今でいえば「児童養護施設」なんだけれど、「養護」してない。「更正」が目的。だから先生というより監守、学校というより少年院、の匂い。入れられている子どもたちは、大人に信用されてない。そこに「いる」だけで罪な存在なのだ。そこにあたらしく赴任してくるのが、マチューだ。本当は音楽の道を歩みたかったが、挫折して身過ぎ世過ぎの生業として寄宿舎の監守になる。でも、子どもたちへのあまりにキビシい対応に、マチューは心がついていけない。「こいつらは何をやらせてもダメなんだ」と決めつけ、子どもたちにひとかけらの愛情も持たない校長の目を盗み、マチューは「合唱」を教えていく。子どもたちにすれば、今まで大人は決めつけと体罰とでしか自分たちと向き合ってくれなかったのが、いきなり自分たちを肯定したり、かばったり、やさしい言葉をかけたりしてくれるので、最初は戸惑うばかりだ。真意がわからない。けれど、てんでバラバラでイタズラで投げやりで騒々しかった子どもたちが、合唱を通して次第に一つになっていく。心が落ち着いていく。生きることが喜びになる。明日が待ち遠しくなる。笑顔になっていく。瞳が輝く。子どもらしくなっていく。美しい楽曲のハーモニーと天から降ってくるようなボーイソプラノが本当に心地よい映画である。「おしえられていた」音楽を、最後「自ら」歌う、というのもそこに自主と自律の精神も見えて、学校ものとしてうまい。フランス映画らしい皮肉っぽいところとか、ユーモアのあるところとか、ところどころにアクセントはあるものの、全体的にのどか。ある意味、今の時代に似合わないほど牧歌的。だから、へんにこじつけて設定を現代にせず、この話を「現在音楽家として成功している元生徒ピエールの帰郷」を発端としたマチューの日記の再現、という形で昔語りにしているのは非常に成功していると思う。昔「ウィーン少年合唱団」の映画を観たときの印象に似てる。でも、あれは最初から「天使が神に捧げる歌声」なのに対し、こちらは「悪ガキだって、ちゃんと愛してあげれば、子どもは本当は、誰でも天使なんですよ」の話です。大人の寓話として、ほのぼのしたいい映画だと思いました。小規模上映から始まってフランス全土に広がり、世界的にもヒットした、という理由がよくわかります。人間、時には美しいものを見ないとね。ピエールがソロを歌うんだけど、いい声してるんですよー。マチューが「この子はすごい!」って思うの、わかります。歌はリヨンのサン・マルク合唱団が引き受けてます。【送料無料選択可!】サン・マルク少年少女合唱団のリサイタル / サン・マルク少年少女合唱団映画のサントラも売れに売れたとのことオリジナル・サウンドトラック コーラス
2009.08.11
コメント(4)
【20%OFF!】スピード・レーサー 特別版(DVD)「スピード・レーサー」は日本のアニメ「マッハGo、Go、Go」の実写版リメイク。このアニメの大ファンであるタランティーノが作った。 タランティーノがどれくらいファンかというと、ほかの映画でインタビュー受けてるのにも拘らず、水を向けられれば嬉々として主題歌までソラで歌っちゃうくらいコアなファン。そんなタランティーノがどんなふうに作るのか? かつて毎週「マッハGo、Go、Go」を見て、三船郷のジェットコースター人生をともに生き抜くのが楽しみだった私です。そりゃ判定はキビシイですよ!だから、カーレースやクラッシュがセガサターンのヘッジホッグかっていうくらい重量感のなさで、(ぶつかったら金の輪っかがはじけてチャリンチャリン♪っていいそう)ちょっと気が抜けてしまったのですが、でもタラ兄貴、やっぱホンモノのファンだった!人物設定に破綻がない。郷もお父さんもお母さんも、弟も恋人も、似てること似てること!お母さんなんてスーザン・サランドンなんだよ!なんてゼイタクなんだ!覆面レーサーも、ハリウッド映画やアメコミにはない寡黙さと哀愁が漂い、いいわ~!見た目だけじゃなく、精神性が踏襲されているところにタランティーノの腕前と愛を感じました。最初はそんなに似てないと思ったのに、お話が進めば進むほど似てると思うのは、全員にタマシイが宿っているからだわ!名前が違っても、目の色が違っても、タマシイが私の記憶から彼らを呼び出してくるんです。 カーレース・シーンのチャッチさは、もーのけぞるしかありませんが、(そこだけアメコミです) ストーリーはしっかりできているので、 すごーくすごーく楽しめました。さみしかったのが真田広之。ちょっとしか出番がありませんでした。それでも唯一の日本人キャストだもんね。(韓国人テジョの妹の名前がハルコっていうのが どうも解せない…)ただ、えらそうに本家本元といっても、かつてのアニメ「マッハGo、Go、Go」だって、ありえない系・ご都合主義の破綻しまくり子ども向けアニメですから。そこにある冒険とワクワク感にリアルな味付けをした分、カーレースの場面ではチャリチョコ並みのはじけ方をしました!っていう感じです。アニメを見る感覚で、肩の力を抜いてご鑑賞あれ。
2009.08.10
コメント(0)
東京・渋谷にある小さな映画館「シネマ・ヴェーラ」。Bunkamuraのある東急本店の奥の、円山町の坂の途中にあります。このあたりは昔は花街で、今もラブホが多いところなんですが、この坂には「シネマ・ヴェーラ」のほかにも映画館とかライブハウスとかがあって最近はけっこういろいろな人が行き交うようになりました。この「シネマヴェーラ」で、8月1日から「映画史上の名作2」という特集上映をやっています。すべての作品は16mmフィルム。サイレント映画も含め、あまり見る機会のない昔の作品が目白押し。どこかでその名声は耳にしたものの、今まで「ホンモノ」を見られなかった人は、お見逃しなく。どんな映画をやるかは、スケジュールをご覧くださいませ。
2009.08.05
コメント(0)
今年のアカデミー賞は「スラムドッグ$ミリオネア」だった。いい映画だけれど、「アカデミー賞」にふさわしいほどずば抜けていたか?といわれると、私はちょっと小粒かな、と感じた。「スラムドッグ&ミリオネア」は、よくも悪くもエキゾチシズムというヴェールに包まれて痛さも辛さも緩和されてしまう。それよりは「ミルク」のほうが問題作だし、「レスラー」のほうが衝撃作で、どちらもアメリカ人がアメリカと向き合わねばならない重さがあった。特に「レスラー」は、ミッキー・ロークが不死鳥のようにカムバックした映画として一躍マスコミの口にのぼるようになったけれど、そんな華やかな話ではなく、身も心もフトコロもボロボロになって落ちぶれたレスラー・ランディが、それでもリングの上が忘れられない、リングの上しか生きる道はない、と「最後の花道」を自分で仕掛ける話である。行ってみれば、アントニオ猪木がダイエーの食品売り場の奥で、ハムやポテトサラダを量り売りしてました、みたいなそんな日常。「あれ?どっかで見た顔だよな」とか言われながら、黙々と働かなければ、トレーラーハウスの家賃さえ払えない。体中はテーピングだらけ、心筋梗塞で倒れて薬漬け。それでもリングに上がろうっていう、そのココロは??こんな無茶なことをしていても、私はランディに共感できる。人間は、「生きてる!」って思える瞬間がなければ死んだも同然だ。自分の居場所はスーパーじゃなくて、リング。そう吹っ切れてからの彼は、哀しいまでに美しい。過去の栄光を背負い、過去の栄光の蜜の味を忘れられずに老いさらばえてもそこに来てしまう……。愚かだし、懲りないし、先のこと考えられずにバカみたいだし。それでも、こんなに人間がいとおしくなる映画もあまりない。プロレスなんて、好きじゃないけど、八百長じみた「ショウ」だから、スポーツって言えるか疑問だけど、そんな「ショウ」にイノチ賭けてる人たちの気が知れないけれど、それでも、この映画を見ながら、声を限りに「がんばれ!」と応援したくなる。ギリギリの人たちの、ギリギリの物語。見たあと、ちょっとの間、沈黙の中を迷子になってしまう、そんな映画です。ミッキーのために、二つ返事で書き下ろした、というブルース・スプリングスティーンの曲も心にしみわたる。おすすめ。
2009.07.13
コメント(2)
「グラン・トリノ」はクリント・イーストウッドが主演と監督を同時にこなしている。それも78歳という年齢で。「ハリウッド映画でクリント・イーストウッドの映画なら見てみようかな」という方には、強くおすすめだ。緊迫感はあるし、同時に静かな洞察と深い人生経験も光る、秀作である。しかし、それにしても各方面絶賛の嵐。膨大な予算を使い、だからこそヒットさせなければならない使命を帯びたハリウッド映画にして娯楽に徹するというより人々に感銘を受けさせ何かを考えさせずにはいられない作品なのだから、「絶賛」は当然のことかもしれない。パンフレットには、新藤兼人・木村威夫(映画監督)、鳥越俊太郎(ニュースキャスター)、内田樹(思想家)、蓮見重彦(映画評論家・元東大総長)などが寄稿し、いずれも高く評価している。だから、これから私が言おうとしていることはトンチンカンの極みなのかもしれないし、非常に無礼で、映画のことなど知りもしないで吐く暴言なのかもしれない。それでも、正直に言おう。ストーリーに目新しさはない。誤解をおそれずにいえば、この程度の物語は、今までにたくさんあったと思う、と。・頑強な偏見を持った差別主義者が、 今まで「観念」で差別してきた人々を「直接」知ることで理解を深める話。・自分の子どもとどう接してよいかわからない親が、 他人の子どもとの間で親交を深め、父親としての振る舞いに目覚める話。・直接的な暴力ですべてを解決してきた男が、 それ以外の力を頼んで行動しようとする話。・スラムやゲットーの中で埋もれまいとする純粋な若者が、 這い上がろうと努力すればするほど不幸な目に遭う話。・死期の迫った男が、自分の人生の清算をしようと動き出す話。・神に不信を抱き、教会から遠ざかっていた男が、 ある日、重大な行動の前に、決意をもって教会へ赴く話。・経験不足の聖職者が、頑固者の年配者との交流のなかで、成長していく話。私は映画を見ながら、「次はこうなるだろう」「次はAかBになるだろう」と思い、そしてほとんどその推理の通りに話は運んだ。だから、「どうやったらこんな映画が作れるのか?」という評には疑問である。(追記:予告編などで紹介されていたニューヨークタイムズ紙評で 「どうやってあんな傑作を生み出すのかわからない 」が正確。)今までどんな映画を観てきたのか?と問いたい気持ちだ。しかしながら、私はこの映画を別の意味で高く評価している。それは、これがアメリカを舞台に、アメリカで、アメリカの白人監督によって作られ、それが興行的にも迎え入れられた、という点である。侵略し差別することにかけてはアメリカも日本も同じだが、日本人は戦争に負け、占領され、差別されたこともある。移民して苦い経験をもった方々も多い。だからこうした物語は比較的容易に理解することができる。しかし、一部のアメリカ人には難しい。クリント・イーストウッドというかつて西武劇のヒーローや問答無用の刑事として一世を風靡した「アメリカの男の中の男」が落ちぶれて、うらぶれて、それでも矜持を高く持ち、当然のように白人以外を下に見た生活を続けながら、少しずつ変わっていくさまは、同じくらい偏屈な人々にとってみればアンビリーバブルな光景のはずである。そこに監督の仕掛けた罠が、「神様」なのだ。暴力の連鎖から抜け出すには、いったいどうすればいいのか。自分たちが謳歌したような古きよき時代を未来に復活させるために、ブツブツ口の中で憎まれ口をたたく代わりに何をすればいいのか。映画が提示した解決法は「原罪」に対する「懺悔」と「犠牲」である。「同じ人間なのだから、差別はいけない」などという「言語」は外国語のようで何を言っているかまったくわからない人々にも聖書にある言葉ならわかる。クライマックスに出てくる「十字架」に心動かされないクリスチャンはいないだろう。ここが非常に巧妙なのである。もしかしたら、「いきついてしまった真実」なのかもしれないけれど。そして……。クリスチャンではない私がこの映画でもっとも感じ入ったセリフはこれである。「命令されたからではなく、自分でやったことだからこそ、おそろしい」戦争という異常な状況下であったとしても、責任を他に転嫁せず自分の行動に責任を持とうとする主人公。たとえ神が赦してもこの自分が赦せない、という強い罪の意識。彼の苦悩の深さとともに、人間の尊厳を失うまいとする気高さを感じ、こんなふうに逃げずに自分と向き合えたらいいな、と思った。
2009.05.09
コメント(2)
ある夜、事件があった。麻薬常習者が銃で撃たれ即死、その場を通りかかったピザの配達人も同じ銃で撃たれ、意識不明の重態。同日、一人の女性が駅のホームから線路に落ちて死亡。彼女は国会議員の助手であり、愛人でもあったことから、国会議員はスキャンダルにまみれる。この議員の旧友であり新聞記者でもある男は、二つの事件に関連性があることを偶然知る。そして、「軍隊の民営化」という国家的大問題に関わる陰謀の渦中に身を投じ、一方でスクープを獲得し、一方で旧友の命を救おうと奔走する。手に汗握る緊迫感。最後の最後まで先が読めない展開。スケールの大きさと脚本の緻密さが合わさって、見るものを飽きさせない。そしてどんでん返しにつぐどんでん返し。しかし…。最後のどんでん返しによって、すべてが矮小化されてしまった。なんでそうなるの??個人と国家、マスコミと政治、巨大な力に一矢を報いんと精魂傾ける主人公に感情移入し、「風穴を開けたか?」と達成感を味わったその直後に、ものの見事にはしごをはずされる。「無力」に泣くなら、まだ無念さの持っていきようもあるが、このオチは、正直私は許せない。あれも、これも見せかけの伏線だったってわけですか?こんな個人的な話を見たくて来たんじゃございません。だまされた私が悪うございました。2003年にイギリスBBCで放映された連続テレビドラマのリメイク。映画の舞台はアメリカで、内容もかなり変更されているといいます。もとになったドラマを私は見ていないので最初からこういう結末だったのかどうかわかりませんが、社会派、正義派の映画を観ようとしている人は、最後にものすごく落胆すると思います。カタルシス・ゼロです。単に殺人ミステリーとして見れば、非常によくできていると思います。「消されたヘッドライン」は5月22日封切りです。
2009.05.04
コメント(0)
人生がくれた「ファイナル・アンサー」監督:ダニー・ボイル 配給:ギャガ・コミュニケーションズストーリー●インドの人気テレビ番組「クイズ$ミリオネア」はその夜、最高の盛り上がりを見せていた。ムンバイのスラム街で育った無学の青年・ジャマールが、番組至上初めて、あと1問で全問正解というところまでたどり着いたのだ。しかし彼は不正な手を使ったと疑われ、警察に送られてしまう。厳しい尋問を受けながら、ジャマールは解答できた理由を1問1問語り始める。そこには、インドのスラム街にある厳しい現実と、彼の目指す幸せとが秘められていた。(4月18日より全国公開)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・暴動に巻き込まれ、孤児となったジャマールと兄サリームが、やはり孤児の女の子ラティカと3人で、スラムと裏社会を生き抜く話である。あるときは離れ、あるときは再会しながら3人が直面するエピソードから、インドの「今」が透けて見える。長じたラティカが「夢くらい見てもいいでしょ」とうつろな目でみつめる番組が、「クイズ$ミリオネア」なのだ。日本でもみのもんた氏の司会で有名だが、世界80か国以上で放送されてきたという。あの「ファイナル・アンサー?」という言葉も、セットも音楽も驚くほど変わらない。変わるのは、賞金金額だ。日本では1000万円だが、なんとインドでは日本円にして約4000万円!「一攫千金で人生大逆転」番組が人気なのは、現実の社会に機会均等がない裏返しでもある。イギリス映画だが、音楽も含め多分にインド映画の熱気を帯びた作品だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上が、雑誌「Wife」の「気ままにシネマナビ」に書いたレビューです。今期アカデミー賞で各部門最優秀賞総なめだった「スラムドッグ$ミリオネア」の封切りがいよいよ明日に迫りました。とにかく「活気」と「エネルギー」に満ちた映画。たとえスラムであろうが何だろうが、大人も子どもも前を向いて生きていく。今そこにある「楽しみ」を精一杯楽しむ。そうした理屈なしの生命力が、この映画には溢れています。アカデミー賞の授賞式で、最優秀音楽賞に輝いたラフマーンのメイン・ミュージックを聞き、あの太鼓のリズムや朗々としたメロディに体が勝手に動いてしまった人も多いと思いますが、出だしからガンガンいきますよ~。そこに「クイズ$ミリオネア」をかぶせた構成力がこの映画を垢抜けさせているのでしょうね。この「枠」があってこそ、二重三重のスリルとサスペンスが味わえ「どうなるんだ?」のハラハラがスパイスとなって見る者をひきつけます。マッチ売りの少女ではないけれど、出題の一つひとつをきっかけに繰り広げられるオムニバス、のようになっていて、最終問題で番組も、ジャマールの人生も、映画も、道筋が一つに集約されていく手法。よくあるパターンかもしれないけど、「なるほど、そうきたか!」のまとまり方で、小気味いいです。苦しいこともたくさんあるけど、ハッピーになれる。このインド映画の勧善懲悪と生命賛歌にこそ、人間の求める娯楽と癒やしがあるんじゃないか?そんなふうに思ったイギリス人が作った映画、ともいえますね。世の中、先が見えずに気持ちが暗くなることの多い今日このごろ。「まっとうに生きていれば、いつかいいことがある!」と元気をもらえます。ちょっとしたインド映画入門編ともいえる。映画館を出たとき、顔がほっこり笑ってる、そんな映画です!
2009.04.17
コメント(4)
今年のアカデミー賞の各賞は、「スラムドッグ$ミリオネア」が総なめだったなか、2部門で最優秀賞にくいこんだのが、この「ミルク」。アメリカにおいて自分がゲイだと初めて公言したうえで公職についたハーヴィー・ミルクのカミングアウトしてから10年間の軌跡だ。アカデミー賞で最優秀主演男優賞を獲ったとき、ショーンペンは壇上で「アカデミーの人たちは、みなホモかコミュニスト」と過激なジョークを言って謝辞に代えていたが、本編を見て思うのは、本当に、こうしたゲイ擁護一辺倒の映画がよくノミネートされ、賞も獲れたものだと隔世の感を覚えた。ミルクが戦った1970年代は、黒人が公民権を獲得してから数えたって、まだ10年かそこらの時代。同性愛が罪であるという考え方が支配していたところにミルクはどう風穴を開けていったのか。と同時に、多くの人々が、ミルクを支持したのはなぜかにも注目したい。ミルクがアメリカの独立宣言や自由の女神の台座の文言を引用して「平等」を説くところは説得力がある。選挙をするのも「勝つ」より「知ってもらう」ことに意義を見出そう、と人々の力を結集していったところなど、マイノリティーがマジョリティーにどう理解を得るか、その本質を映画が貫いているから、この映画は支持されたのだろう、と想像する。とはいえ、いきなり男と男が街角でブチューですから。アップですから~。「ラ・カージュ・オ・フォール」「ニュー・ブレイン」そして「ミルク」と、昨年から見るもの見るものゲイの話が多いです。*俳優陣では、「イントゥー・ザ・ワイルド」のエミール・ハーシュと「告発のとき」にも出ていたジェームス・フランコが印象に残りました。4月18日より、渋谷のシネマライズや新宿バルト9、シネカノン有楽町1丁目などで公開。同4月18日より、渋谷アップリンクにて、1984年度アカデミー賞長編記録映画賞を受賞したドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」が公開されます。(20:50よりの1日1回上映)ショーン・ペン主演の映画にも、記録映像はかなりでてくるし、このドキュメンタリーも参考にしたようなので、見比べてみると面白そう。
2009.04.06
コメント(0)
Part1を見る前、私は「三国志」をよく知らなかった。Part2を見る前に、ダイジェスト版とはいえ、まがりなりにも「三国志」を読んだ私。ものすごい長編を文庫1冊に凝縮したものには一切のムダがなく、登場人物の性格描写やそれぞれの絡み方は一筋縄ではいかない。それを知ってしまってからPart2を見たせいか、多少物足りなさを感じてしまいました。アクションシーン、戦闘シーンはすごいんですよ。特に今回は「火」が主役。そのあたりはCGも違和感なし。けれど、武将たちに戦略家として裏の裏の、そのまた裏を読みあうような兵法を知り尽くしてなお諸葛孔明がその先を行く、みたいな重層性がちょっと足りなかったかなー。これは、日本の最近の時代劇などにも共通するんだけど、「役者が武人の顔をしていない」んですよね。つるんとしてて。ぽよんとしてて。それで、現代の世相を写しているのか、女性が男性をしのぐ活躍。「傾城」という言葉があるくらいだから、大軍も女性でほころびが、というのはあるだろうけど、正面きって女性があそこまで活躍しちゃうのは、ていうか、女性2人で戦いを制したみたいな書き方は、いかがなものか、と……。もう1点、曹操が率いる魏の軍は、体を鍛えるため、といって「蹴鞠」をやるんだけど、この「蹴鞠」、日本の平安時代の風雅なものじゃなくて、おもいっきり「サッカー」なんですよ。Part1でも出てきたけど、Part2ではかなり時間を割いてる。キーパーがいないこと、ゴールに見立てた穴が3つあることは違うけど、観客の観戦も含め、絶対「サッカー」だろ、これ。入れる必要、あったの?本当に、こんなものだったの?なーんか、他のシーンとギャップがありました。それにしても、周愈役のトニー・レオン、名高達郎に似てた。曹操役も、西岡徳馬似で、じゃあ、超雲はあの人で、などなど、日本の役者さんをあてはめたりしてました。Part1は、人物紹介なども含めてだったけど、Part2は、本当に「赤壁の戦い」だけで見せるわけで、それで2時間40分は、少し長いかな、と思いました。
2009.03.25
コメント(2)
「タイタニック」以来の“あの”二人の共演で話題になった「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで」。でも、内容は、甘いラブストーリーの再燃、ではありません。「結婚と恋愛はこれほど違うの?」っていうくらい一筋縄ではいかない、心の焦燥をえぐり出されるような作品です。監督:サム・メンデス 配給:パラマウント ピクチャーズ ジャパン家庭と自己実現のはざまでストーリー●1950年代アメリカ。郊外の新興住宅地「レボリューショナリー・ロードに住むセールスマンとその妻の家庭は、2児に恵まれ一見「幸せ」を絵に描いたよう。だが夫妻には、それぞれ満たされない思いがあった。夫フランクは平凡なセールスマン生活に飽きたらず、妻エイプリルは女優をめざしていた若い頃が忘れられない。2人は憧れの土地・パリへの移住を本格的に計画し始めた。そんな矢先、エイプリルは3人目を身ごもったことに気づく。(1月24日より全国公開)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「大好きな人と結婚して子どもができた。家も買った。私は幸せだ。でも、どうしてため息が出てくるんだろう」。日常の中でそんなふうに思う瞬間はないだろうか。もし子どもがいなかったら、もし人の妻でなかったら……結婚と引き換えに捨てた自己実現への夢が、かつて封じ込めたはずの欲求が、内側からこみ上げ、何かのきっかけで臨界点を越えてしまう。それは妻だけに限らない。夫もまた、家庭を支えるために何かをあきらめ、「死ぬほど退屈な都会の仕事と死ぬほど退屈な郊外の家庭」を往復していたりする。しかし、そんな「家庭」を選んだのもまた、自分なのである。どちらも手にしたいが相容れない二つの宝の前で悩み、闘い、傷つく若い夫婦を、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレッドが演じる。原作は61年に発表された小説だが、現代にも通じる問題を多くはらみ、考えさせられることが多い。
2009.03.23
コメント(1)
ある日仕事から帰ったら、家にいるはずの子どもがいなかった。「外で遊んでいるのかしら?」「もう帰ってくるわ」でも、胸騒ぎ。警察に電話すると、「そのうち帰ってきますよ。規則により、朝までは動けません」そして、朝。帰ってこない。どこにもいない……。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・子どもが帰ってこないことの辛さは、プチ家出(といっても、けっこう深刻)をされたことのある私にはまさに胸が痛くなるほどよくわかる。生きてるのか、死んでいるのか。何もする気が起きないのに、朝はまたやってくるし、食事のしたくはするし、仕事には行かなくちゃならないし。「そんなことはどうでもいいこと」なのに、「どうでもいい」日常は淡々と進み、「どうでもよくない」ことは全然進まない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・数ヶ月してようやく自分のもとに帰ってきた「わが子」が自分の子じゃなかった。でも、警察は「あなたの子だ」という。「混乱しているだけだ」という。こんなこと、あるんだろうか。実話だから、あったんでしょう。どうしてこんな理不尽なことがまかり通ったかといえば、きっとそれは、「彼女」がシングルマザーだったからだと思う。映画では、電話交換手のチーフとして働いている。閑静な住宅街の一軒家に、息子と二人で住んでいる。でもきっと周囲は彼女を本当には受け入れてなかったんだろう。息子は父親のことで、いじめられもしている。彼女が「この子は私の子じゃない!」と言ったとき、「そうよ、違う!」とすぐさま声を上げた人がいなかったというのが、なんとも不気味なのだ。彼女に味方する牧師さんでさえ、「この教会の信者ではないが」という言い方をする。職場では地位もあり、人望もあるかもしれないが、地域のコミュニティからは切り離されて生活していた孤立無援の女性なんだ。だから、警察もなめてかかる。娼婦も、シングルマザーも、赤子の手をひねるごとき容易さで精神病院にだって入れてしまう。この話は、男性と女性では感じ方が違うかもしれない。ひたすら子どもを探し続ける母親の、意地のようなもの、それが生きがいのようになってしまう経緯は男性にはこっけいに映るかもしれない。でも、それが母というもの。映画に行く約束を果たせず、子どもを一人留守番させてしまった自分に対する永遠の贖罪の旅なのだ。
2009.03.10
コメント(4)
全185件 (185件中 1-50件目)