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前回の日記で古くから出羽・陸奥の地域に東国の人たちが移り住んだことを取り上げたが、その逆に蝦夷の人たちが東国などに移りすんだこともあったことをとりあげたい。 すべての具体的な年代は分かっていないが、”陸奥の俘囚(蝦夷)144人を伊予(四国)に、578人を筑紫(九州)に、15人を和泉(大阪)に移配した(移住させた)”など、725(神亀2)年を初めとした資料がある。しかし、その以前からその後も何回となく各地に移住させられたことがあったようだ。ちなみに724(神亀元)年が多賀城が創建(完成)された年になる。 はっきりした定義はむずかしいのだが、”農耕を主としないような蝦夷のことを俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ)”といった、とされる。俘囚は、奥羽以外にもいたのだが、多くが征夷としてとらえられたりした蝦夷と考えられる。ある時期の俘囚の移住させられた地域(国)をみると、近江(滋賀)、下野(栃木)、常陸(茨城)、播磨(兵庫)、甲斐、筑前、武蔵を主として全国各地に及んでいる。 移住の目的は、強硬で反抗的な蝦夷の人たちを現地から隔離することだった。そうして狩猟的な生活風俗から、農耕の生活風俗に順応させ、同化させることだった。 移住させられた蝦夷の人たちには、その後、順化して位をあずけられたり公民化したりした人も多かった。しかし、狩猟などの生活様式が合わなかったのか、不満があったのか、”諸国夷俘等、朝制に遵(したが)わず、多く法禁を犯す(812(弘仁3)年)””朝化に従うといえども、未だ野心を忘れず。・・・遂に叛逆を致す(813(弘仁4)年)”など、反乱をおこす人も少なからずいた。 蝦夷の人の特徴である強さはよく利用されて、宮廷の特殊労役奉仕集団(親衛兵)になったり、鎮西(大宰府の外寇防衛など)の防人として派遣されたり、地方の治安維持をさせられたりもした。それは南の隼人と似ている。 しかし、蝦夷の人たちの各地での反乱は根本的な解決は見ることはなく、特に坂東では10世紀前半の”武士の反乱”、中世的内乱の時代に入っていくことになる。
2005年07月31日
院の御所での後白河法皇と丹後局との会話に、「頼朝が鎌倉に都を造ろうと画策している、武士の分際で恐れ多いことを思いつくものである・・・」というやりとりがあった。そこで、頼朝は法皇に”東夷(あずまえびす)”と蔑称で呼ばれている。 ”夷(えびす)”は、恵比寿(えびす)や毛人(えみし)、蝦夷(えみし)と同じ意味で、古代から東方にすみ まつろわざる人(朝廷に従わなかった人びと)のことをいった。”えみし・えぞ”というと、東北やアイヌの人をイメージしがちだが、時代・地域によってその呼び名は異なる。古代の朝廷政治の復活をめざす後白河法皇にとってみれば、”頼朝”も”えみし”ということなのだろう。 遣唐使の時代(659年)、ある遣唐使が蝦夷の男女2人を同道し唐の高宗と謁見したことがある。その時、唐の高宗に「蝦夷は何種類あるか」を尋ねられ、「類(種類)に3種あって、遠き者を都加留(つかる)、次の者を麁蝦夷(あらえびす・荒々しい蝦夷)、近き者を熟蝦夷(にきえびす・従順な蝦夷)という。これは熟蝦夷である。」と答えたという。 都加留は津軽だろうか?東方の蝦夷の種類を限定することは今ではむずかしい。 ところで、出羽に郡が建てられた頃(714年)、尾張、上野、越前、越後から農民が移住したという記録もあるように 古くから出羽、陸奥には少なからずの東国人が移住していた。また、武装植民(柵戸)や”夷をもって夷を制す”の政策(元慶の乱など)で駆りだされた兵士には東国(坂東諸国)人も多かった。陸奥と東国は関わりが深かく、朝廷からみればともに”夷”とみられていたことがくみとれると思う。 義経の時代は、平安貴族社会の終焉の時代。今回の放送での法皇のやりとりは、朝廷の東国に対する見方が古代からの流れもくんでうまくあらわされている。 東国には平将門の乱があり、陸奥には前九年、後三年の役(戦争)という大きな内乱があった。”頼朝”の決起を後押ししたものには、西の朝廷に振り回されてきた歴史を変えて、東国(武士)が自立(独立)するという意味合い(悲願)もあったのだと思う。
2005年07月24日
今日のテーマは「悠久のシルクロード幻の国と謎の商人」、ソグド人の歴史を紹介した。ソグド人は、タジキスタン(サマルカンドを中心)を祖国とする民族であったが、アレクサンダー大王の遠征をきっかけとして、シルクロードを交易とする商人としてヨーロッパから中国まで広範囲に活躍したという。 ソグド人は中国では”胡人”といわれ、独自の言語、文字、通貨などを持ちそれらを駆使した。ヨーロッパにはソグドの織物や紙を売り、中国には仏教を伝えたりした。中国では胡麻、胡椒、胡瓜など、故という漢字を使うものは西から伝えられたことを意味するが、ソグド人が伝えたものが多いらしい。 また、ソグド人は「ゾロアスター教(拝火教)」を信仰していたが、この火を崇拝する風習は日本にも影響を与えていた。日本で古くから中国より伝えられたと思われていた"お盆"の風習はソグド人からのもので、盂蘭盆(うらぼん)という言葉は、ソグド人の言葉の"霊魂"という意味の"ウルヴァン"という言葉が原語(語源)だという。(※ゾロアスター教:善悪2元論、善の神の象徴として"火"を礼拝する。起源は紀元前6C以前に遡る世界最古の一神教。後の多くの宗教に影響を与えたと考えられている。) ソグド人の街はイスラム教が興るとそのアラブ勢力に征服されていくが、最後はペンジケントのクム山で「デワシチ」が抵抗をしたのを最後に民族がばらばらになってしまう。 http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery_1.html「”デワ”シチ」などというとちょっと反応したくなる言葉が入っている。 *** *** *** *** *** ところで、ゾロアスター教が古代日本に大きな影響を与えていただろうことは、最近いろいろなところでも言われているようだ。この本もその一つ。 ゾロアスター教を信仰する「扶桑国」が古代東北・北海道にあったが、その王はトルコ系の蘇我一族であった。彼らは中国東北部から東北(秋田)に入り国を立てその後南下、継体天皇とともに大和に移る。ゾロアスター教などのペルシャの文化を日本に伝えた、と言う内容のもの。 一見、突拍子もない内容のようであるが、結構納得させられる面も多かった。ゾロアスター教を伝えたのがトルコ系としているが西方の人という意味では"ソグド"人と共通する。 とくに、いろいろな神社や古墳などの向きを分析していて、真北から東に20度であることがこのゾロアスター教の影響を受けているかどうかの判別の仕方だというのはおもしろい。今まで、気にも留めていなかったことだが、最近は少し影響を受けて神社を参拝する時には時々方位磁石で方角を確認したりしている。
2005年07月02日
今日、「高松塚古墳 石室を解体」の見出しが読売新聞に載っていた。 「飛鳥美人」の極彩色壁画は教科書にも載っているし、服装や思想感など、この時代を理解する上で 基礎的な考古学資料ともなっている古墳だ。 1972年、発見された当時、「飛鳥美人」は、約1300年もの長い間、土のなかに閉じ込められていたにもかかわらず、色鮮やかだったそうだ。 しかし、発見されて ほんの33年間で絵や漆喰には カビが生え、劣化、変色してしまったのだそうだ。石室を解体保存するということは、壁画だって空調設備のあるところで保存するのだろうから 維持にもお金はかかるし、文化庁が責任をもって何百年も保存し続けられるのだろうかという不安が残ると思う。 現代の保存科学は 一般の人が思っているより、技術力に乏しいのなのかもしれない。もっと言えば、1300年前の保存技術の方が”保存”の目的からすれば進んでいたのではなかろうかとさえ思えてくる。 石室解体の練習をしている写真も載っていたが、平らな場所で しかも直角に切ってある石を使ってのシュミレーション・実験で、実際のさらに状況の悪い現場でうまくいくかどうかは 素人だからなのか、私には 少し不安を感じる内容のものだった。 それでも何もしないよりはいいのかもしれないが、今回は 特に文化庁の決定の方法と 修復への遅い対応に、問題があったように書かれている。読売新聞の記者の怒りが伝わってくる。 発掘しても、発掘したものを保存・維持管理できないとなれば、歴史の遺産を台無しにしてしまうし 言い方は悪いが 文化財の破壊行為ではないかとさえいわれかねない。しかし、発掘しなければ、歴史の事実は わからないし、時とともに劣化している保存すべき埋蔵物を知ることもできない。 歴史は知りたい、しかし、そのための文化財は触らないで永久保存したい、という2つのジレンマの中にあると思う。
2005年06月28日
「義経記」は、室町時代初期に書かれた軍記もので、義経の生涯を中心に描かれている。物語性が強く、歴史書としての信用度はあまり高くないそうだが、この本の中には出羽の国の記述があり興味深いことに今では 聞くことがなくなった地名がいくつかでてくる。その中の清河という川について考えたい。 義経が頼朝に追われ、京都から日本海沿いに北上し、鼠ヶ関(念珠の関)を越えて出羽の国に入った場面。 “弁慶は あけなみ山(特定できず)にかかりて清河へ参りてあふ(会う)。・・・(中略)・・・此の清河と申すは、羽黒権現のみたらし(御手洗)なり、月山のぜんじょう(霊山の頂上)より北の腰に流れ落ちけり。熊野には 岩田河、羽黒には清河とて流れ清き名河あり。是にて こりをかき・・・” とある。 現在、清河という川はないが清川という地名がある。“清川”は最上川と立谷沢川の合流する地区(名)。東西に流れる最上川に北に向かって南北に流れる立谷沢川が“Tの字に合流した地点”のの町だ。しかし、この義経記によると 清河は地名ではなく“清河という川”だったことになる。それは、現在のどの川を指すのだろうか。(清河と清川は時代的な表記の問題で同じものとする。) “月山から北へ流れる川”・・・というと 現在の、“立谷沢(たちやざわ)川”が その条件にあてはまる。立谷沢川は山形県有数の清流で、月山の山頂から真北へと流れている。まさに、名河で北の腰に流れおちている表現にピッタリだ。結論としては。 昔地元の先生に聞いた話の受け売りにだが、「立谷沢川は昔は”清河”といわれていたので、その川岸の町も清川といわれるようになったと考えられる」・・・となりそうだ。 ところで、羽黒山を登るときには 五重塔の前の”祓川(はらいがわ)”という川の上に架かる赤い橋を渡り、石段を(東側へと)向って、羽黒山の神社へたどり着く。神社を通り過ぎ、さらにさらに東側の方向へ向かって行き山を下っていくと ”立谷沢川(清河)に出るという位置関係になる。 羽黒山には、”諸々の罪穢(つみけが)れ 祓(はら)い禊(みそぎ)て 清々(すがすが)し”という祓詞があるので、羽黒山を中心にして、西側にある川が 祓川で、東側にある川が 清河、だとすれば、道理的で覚えやすくないだろうか。 ちなみに、この清川地区は、幕末の志士、清河八郎(本名は斎藤正明だが、出身地の名前を名乗った)の産まれたところで、戊辰戦争では、庄内藩と薩長連合が、まさにこの清河(立谷沢川)をはさんで対峙し、戦った歴史の里でもある。【30%OFF】オランダせんべい だだちゃ豆入り 15袋入(箱入)【山形県 お土産 煎餅】
2005年06月25日
出羽の国、庄内地方には、”弁慶めし”と呼ばれる 焼きおにぎりがある。 少し大きめに握った白米のおにぎりに味噌をぬり、それを体菜(青菜)の漬物の葉の部分で包み込む。次に、金網で両面を念入りに焼く。体菜の葉が”パリッ”っとしたらできあがり。とても、シンプルだ。 体菜が パリパリしているのと、味噌が焼き固められるので こおばしくておいしい。 難点は、大きくにぎるため 中のご飯が食べているときにくずれてしまうのと、おにぎりの中に 何も入っていないこと。 弁慶めしの名に惑わされず、小さめににぎり、中身に体菜などを刻んで入れたら さらにおいしくなるように思う。コンビニのおにぎりに加えてほしい(^!^)。 小さい頃は、おにぎりと言えば、この体菜巻きのものをいった。 これが、”弁慶めし”ということを知ったのは、20歳ぐらいの時。 この地方では、居酒屋でも ふつうに おにぎりを頼めば、味噌ぬり、体菜巻きのものがでてくる。 ちなみに、体菜は巻いていない、味噌焼きだけのものもおいしいが 弁慶めしというらしい。両方、食べ比べて見てはいかがでしょう?マルハチ 青菜漬 190g 【冬季限定】
2005年06月16日
群馬県太田市にある、巨大古墳をみて来た。 東日本最大、墳丘全長210m、というから、巨大だ!群馬と栃木にまたがるこの地域は毛野(けぬ)といわれ、古墳の数も多い。 これを見れば、日本には国王と呼ぶにふさわしい人物が何人かいて群雄割拠していたであろうことを想像するのはむずかしくない。内壕の中を県道が突っ切って(なんで道路を迂回させないの?)いて、そこから古墳にのぼることができる。渡良瀬川の川原石で表面を葺いているそうなのだが、登るときにそれらしい石が表面に出ていてみることができた。 大変、残念なことに、すでに盗掘を受けていて棺の一部が転落し、縄をかけるための突起の部分がはみ出しているのだそうだ。その部分は見ることができなかった。 国の指定史跡とはいうもののあまり整備されている感じはしない。宮内庁の管轄でないので予算がないからなのか、もう少し大切に管理されていたらと思った。神話や文献にでてくるものだけが歴史的に価値あるものということはないのだし、この古墳の貴重さは畿内の天皇陵に負けないものだと思う。 ところで東毛歴史資料館に行ったが、消毒作業のため特別休館だった。楽しみにしていたのに残念。
2005年06月12日
出羽三山の湯殿山を蜂子皇子が開山して1400年になるという。それを祝って今日、開山祭が行われたというニュースをみた。 湯殿山には、松尾芭蕉も訪れていて、その御神体が、他言厳禁にされている、という内容を含んだ次のような歌をよんでいる。 ”語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな”御神体は、今はそんなに秘密にはされていないが、ここにはあえて書かないでおきたい。 ちなみに、1995年(平成5年)には、羽黒山の開山1400年祭が、開かれている。
2005年06月01日
今年の初詣で、茨城の息栖神社に行ったが、近くで平泉という地名を見つけた。偶然、奥州の平泉と同じだ地名だなあと思いながら、めずらしい地名なので、写真を撮った。 出羽の国のテーマと、直接、関係ないので、そろそろ消去しようかとも思ったが、”義経”の話が盛り上がっているので、ご紹介したい。 奥州の平泉の人たちが関東に移り住んだ(落ちのびた)場所だったら・・・などと、想像をかきたたせてくれる地名でもあるが、その由来は、よくわからない。 落人の里は、関東では栃木県栗山村などが有名であるが、奥深い山の中の場合が多い。ここは北浦東岸(昔は利根川はここを通ってなかったが)で息栖神社の近くなので、人里はなれた感じはしない。 やはり、ただの偶然か・・・とも思いながらも、日記に追加。
2005年05月28日
源氏と平家の単純な2つの勢力で語られることが多い源平の時代だが、源氏どうしでの争いもあり、そう簡単な話ではなさそうだ。このドラマでは、ところどころでそれらをとりあげている。 今回は、頼朝と木曾義仲の争い。さらに行家、信太義弘との戦いも出ていた。頼朝が、なかなかすぐに京へ平氏打倒の挙兵ができなかったのは、陸奥の藤原氏の存在のみならず、甲斐源氏、下野の足利氏、常陸の信太氏の存在もあった。 信太義弘は、常陸の国、霞が浦の西側の信太郡に居を構えていて、頼朝のおじさんにあたる。今回、信太は、”しだ”と読むことを始めて知ったが、出羽の国に志田さん、信田さんが多いのは、この信太郡と関係があるのだろうか? 平将門、北条氏などが有名なように、東国にも平氏はいた。古来から、中央・公家政治に対する不信感の強い地域がらだったともいわれている。東国は 最初から頼朝をよりどころとして強くまとまっていたわけではなかったことがみてとれる。
2005年05月22日
世界ふしぎ発見は、お気に入りのよく見るテレビの1つだが、先週は韓流の世界遺産めぐりの特集がテーマ。 今、韓国がブームだけれど、正直いってあんまり興味がない。 ただ番組のなかで、古代・新羅が唐・高句麗や百済との対立の中で、国際的な孤立をさけるため、はるか西のローマ、ダキア(現ルーマニア)や、ケルトと交流をはかったというのは、興味深かった。 7C後半までのことらしい。新羅時代のマグ・カップなどヨーロッパ風の品物を紹介。 その中で一番、興味を引かれたのはケルト巴やペイズリー形文様のある品々。 そういえば、羽黒山などの神社の社紋も三つ巴だな・・・。関係ある???
2005年05月17日
今日の読売新聞にこのような見出しが載っていた。 今さらというべきか、やっぱりというべきか。 歴代天皇や皇族の陵墓などについて、宮内庁(旧宮内省)が戦前~昭和30年代にかけて、1部指定の見直しを本格的に検討していた・・・という。 宮内庁の内部の人も天皇陵などの呼称が事実とあっていないということに疑問をいだいている人がいたということか。 森浩一氏が「巨大古墳の世紀/1981.岩波新書」でも、指摘していた内容だ。例えば、エジプトのピラミッドより大きく世界最大の墓、と小学校でもならった、仁徳陵についても、「仁徳稜」から「仁徳陵古墳」という遺跡名を使い始めたことについて、”それは「宮内庁が仁徳陵に指定しており、世間でもその名でよんでいる古墳」という意味であった。もちろん、言外に「これは仁徳陵かどうか学問的な問題は別ですよといいたかったのである。」”と書いている。 仁徳陵古墳は、なんと呼ばれたらいいかについては、もともと「大山(だいせん)古墳」と近隣の人たちに呼ばれていたのだからとして、森氏はこの名称を使用している。さらに”現在のように墳丘内への立入り観察すらも禁止されているのでは(大山古墳が確実という前提つきで誰の陵と特定できる)そのいつの日かがずっと遠い日になるだろう”と、残念そうに書いている。 仁徳陵に 仁徳天皇が葬られているということさえ疑わしいのだ。古墳・陵墓名と天皇の割振りをした当時、その割り振りに関して 根拠のないいい加減なものが いかに多かったかということがうかがい知れる。 今日の新聞には、宮内庁陵墓課のコメントも載っていて、”100%確実な資料が見つからない限り、陵墓や参考地の変更はむずかしい”としているが、事実がはっきりしないだけでなく、事実とも明らかに違うとわかっていながら、違った天皇名を冠にした古墳名をこれからも使用していくのは、いかがなものかと思う。 これらは、情報公開法による閲覧でわかったことだというが、情報の公開というのは本当に大切だと思う。
2005年05月08日
最近、古代史関係の本を読んでいて、大和側の資料は、意図的で、歴史や神話を自分たちに都合のいいような内容にして書いた部分が多いのだなー、と感じた。 伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)780年の乱などは、宮城県北部で起こった乱だけれど 宮城県中部の国府・多賀城をも焼き、政府軍は有効な打撃を打てないままの状態になる。 そんな大和側の負け戦でさえも、蝦夷征伐しているのだと言い続つ゛ける。蝦夷側の資料というのがないので、資料的には、貴重なのかも知れないが 内容的には真実性に欠ける。 なんだか、太平洋戦争時の大本営発表にも似た感じが・・・。たしかに日本には、少し、歴史をねじまげ ようとする伝統があるのかもしれない。 中国などは、どうなのだろうか?伝統的に次の時代を受け持った国がその前の国の歴史を編纂すると聞いたことがあるが、こっちほうが少しは、フェアーな歴史書になるのかも。 時代的な道徳観や権力側の意図など、本当にフェアーな歴史書などないとは思うが、なるべく本当のことを知りたいし、残してほしい。 新野直吉さんの言葉に、目からうろこ。この本は、古本としてAmazon.co.jpから買った、読書本に追加。
2005年04月30日
頼朝は、鶴岡八幡宮造営に功績のあった大工に、褒美の馬を贈るための馬引きの役に義経を指名する。頼朝は、まだ義経を心から弟とは認めてはいなく、味方としての信用さえしていない様子である。 この舞台となった鶴岡八幡宮のある鎌倉に行ったことがある。もう7.8年前になるだろうか。鎌倉の大仏、建長寺、頼朝の墓などをまわった。修学旅行の定番なのかも知れないが、正直、それまで行ったことがなかった。 私は、親”蝦夷”派なので、”よくも藤原氏を滅ぼしてくれたな~”などと少し、今のアジアの反日感情に似た(?)ような気持ちで訪れた。 そして、鶴岡八幡宮の入り口近くだったと思う。看板があって、確か、鎌倉の寺々の多くは、奥州攻めの後に平泉に感かし作られ、永福寺などは、奥州の合戦の戦没者の慰霊のために、平泉の寺院をまねて作られたという内容が書いてあった。 なんとも、複雑な思いがしたことを覚えている。やっぱり戦争はよくないね。
2005年04月24日
先月、ドキュメンタリー映画を見に行ったときに、中野に寄った。 中野には昔、友達が住んでいたし、"ヨーロッパ"というハードロックのバンドが大好きでそのコンサートを中野サンプラザに見るために友達のマンションに泊まった思い出もあった。その友達は、もう中野には住んでいないが、そのときの懐かしさも手伝って、商店街をぶらぶらしたりした。そして、ある古本屋を見つけ、この本を含め、何冊か本を買った。 昭和38年に出版された本なので、何といっても、カビくさい。カバーがついていたがボロボロだった。今では、時代的に古くなってしまった内容もある。しかし、蝦夷を中心として的確に内容がまとめらていて、とてもためになり、面白い。古い文献を忠実に解釈しようとする姿勢も、貫かれている。内容的に、とても貴重な本だと思う。買ってよかった。 定価は580円だったが販売価格は600円だった。約41年で20円上がったことになる??? 読書本に追加。
2005年04月17日
新郎十郎義盛の名は、世界遺産登録で有名な熊野古道の中の熊野の新宮に住んだことに由来するという。彼は、源行家と名前を変えて、木曾義仲、源頼朝、源義経らに平氏打倒、源氏の決起を呼びかけた。東国への旅の道中での身なりは、源の姓に改めたにもかかわらず、熊野の山伏の服装だ。後に、義経が頼朝に追われた時に、羽黒山の山伏の服装で 奥州に逃げのびたように、山伏は 関所や国境を自由に越えられる特権を得ていたようだ。 実際、山伏は武力も持っていた。山伏が、山武士と書かれたりしたのも、うなづける。義経の時代は、まだ 武士の社会が確立されていない時代だが、武士は古くから”もののふ”と呼ばれてきた。今回、北条家の人たちが、その”もののふ”という言葉を連呼するのが、とても印象的だった。 ちなみに、山伏修験の三大拠点は、羽黒山(出羽三山)、熊野三山、英彦山。熊野といい、羽黒といい、山伏と源氏との繋がりが深いことが読み取れるように思う。
2005年04月11日
義経は、平泉に到着、秀衡の伽羅の御所の宴の席で、秀衡の子、泰衡、国衡、忠衡と家臣団の紹介を受ける。 家臣団には、河田次郎、照井高道、佐藤元治、田川太郎、金剛別当秀綱らが登場するが、このうちの田川太郎の一族は、出羽の国、現在の庄内地方東田川郡・西田川郡を所領していた。 また、秀衡の妹は 徳子、徳前とよばれ、岩城次郎太の未亡人とだったので、徳子尼(トクコアマ)、徳尼公、徳尼さまともよばれた。平泉が鎌倉に敗れた後、彼女の一族でもある、田川太郎をたよろうと大勢の従者とともに一時、立谷沢地区に隠れ住んだ。そこは、妹沢(イモトサワ)と呼ばれ 現在では集落はなく、徳子尼の遺跡や伝説のみが残る。 徳子尼は、さらにその後、酒田へと移り住んだ。泉流寺のある場所といわれている。そのときの従士、子孫らは、36人衆と呼ばれ、徳子尼を祀り、酒田の街つくりをした。三十六人衆 純米酒 出羽の里 限定品 720ml 【山形県】価格:1155円(税込、送料別) (2020/12/28時点)
2005年03月19日
ドキュメンタリー映画「修験・羽黒山秋の峰」を東京・中野で見て来た。羽黒山の修行の様子は、地元の人にもよくは知られていない。甚深秘密の霊峰で親子・兄弟・夫婦・朋友たりとも他言は固く厳禁とされてきたからだ。 しかし、今回、長年の厳禁を解いてドキュメンタリー映画化されたのだそうだ。「人は、死んで山に入り、山を胎内として再生する。」といわれ、入山前に自らの葬式をし、受胎というシンボリックな儀礼により、胎児になった修験者たちは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という世界と、過去・現在・未来の世界をめぐり、再び産まれ清まるというその内容は、とても厳しい9日間の修業のように見えた。山伏修験は羽黒山とともに、熊野も有名であるが、この秋の峰は、以前は熊野でも行われていたのだが、現在は、行われていなく、ただ「山がけ」と言う形で残るのみなのだと言う。いまでは、日本では羽黒山にしか残っていないそうだ。 キリスト教にしかないと思っていた受胎思想が、古来日本にあったというのはとても興味深いという、キリスト教関係者の話、若かったら私も参加してみたかったという熊野修験の高齢の偉い人の話、などが最後に直接 製作監督から説明された。 「秋の峰」の厳しい修験を終わって街に帰っていく修験参加者の姿は、何か清清しさを感じられた。古来日本の文化の継承という意味や、歴史的な文化遺産の映像保存という意味でもとても貴重な映画だと思った。
2005年03月13日
最近感銘を受けた言葉に伊達政宗の家訓がある。家訓と書いて”かくん””かきん”と読むのだそうだ。『仁に過ぐれば弱くなる。(人を思いやり過ぎれば自分が弱くなる。)義に過ぐれば固くなる。(なすべき正しい道を貫き通せば頑固すぎる。)礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。(礼儀を重んじすぎれば、諂っているように見られる。)智に過ぐれば嘘をつく。(知恵がありすぎれば嘘をつくようになる。)信に過ぐれば損をする。(相手を信じすぎると損をする。)気長く心穏やかにして、万に倹約を用いて金銭を備ふべし。倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり。この世に客に来たと思えば何の苦も無し。朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。元来客の身なれば好嫌は申されまじ。今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、しやばの御暇申すがよし。』夏目漱石の『草枕』にも、似たようなのがあったような気がする。時代が変わっても、上手く生きようと悩みを持つことは変わらないのだなあ・・と思う。【ふるさと納税】B070 【食べて応援、米沢牛!】赤身&カルビ(焼き肉用)300g<丸川精肉店>
2005年03月11日
陰明師・鬼一法眼(美輪明宏氏)の呪文(じゅもん) 牛若の武道の師匠とも言うべき、鬼一法眼(きいちほうげん)は、その いでたちからして、山伏である。遮那王との別れの際に唱えていたのは、「ざんげ・ざんげ・ろっこんしょうじょう(懺悔、懺悔、六根清浄)」と聞き取れた。ある漢和辞典によると、懺悔も六根清浄も仏教語で、”懺悔”は過去の過ちを悔い改めること、”六根清浄”は、六根(目・鼻・耳・舌・身・意)の迷いを捨てて汚れの無い身となることらしい。修行者が 山に登るときに唱える文句でもあるという。神仏習合の宗教徒との山伏つながり、天狗との修行の伝説など、やはり、義経は、山の民や山伏などとのつながりが深い設定とされている。
2005年02月03日
去年、北陸の方では台風のせいで熊が食べるどんぐりがないというニュースを聞いたが、会社の敷地に植えられている木のどんぐりは、大豊作だった。その木は、常緑樹でこの図鑑によると、粗樫という種類らしい。枝は、引っ張るとすっぱりと裂けるように折れ、幹の太さは2、30cmもある。常緑樹で冬でも落葉しない。関東に来て初めてみる木だった。常緑樹というと低木、どんぐりは落葉樹のみと思っていたので、この図鑑をみて、へぇーと言う思いだった。読書本に追加。
2005年01月30日
息栖神社(茨城県鹿島郡神栖町)を参詣した。この神社は 祭神として、岐神(クナドノカミ)を主神とし、相殿に天鳥船神(アメノトリフネノカミ)、住吉三神をまつる。天鳥船神(アメノトリフネノカミ)は、古事記で天照大御神がタケミカズチノ神を葦原中国に遣わす時に一緒に副えさせた神。参拝し、破魔矢とお守りを買ったあと、神社の歴史の本を買おうと思い、巫女さんに そのような歴史の本はありますか?と聞くと無料で”息栖神社略記”をくれた。よかった。この神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに「東国三社」といわれる。
2005年01月03日
初詣に行った。参拝し、破魔矢を買った。
2005年01月01日
『日本神話の考古学』 森 浩一 氏著を追加しました。
2004年12月05日
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