川柳で人生を二倍に生きる

川柳で人生を二倍に生きる

PR

プロフィール

ゴリョウケン

ゴリョウケン

バックナンバー

2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月
2025年07月

カレンダー

2008年01月24日
XML
カテゴリ: 川柳
 日川協から総会の案内状が届きました。
 住所には、個人会員の私の名がラベルにありましたが、併せて同一住所ということだったからでしょう、

  尾藤一泉 様方
  川柳公論 御中

 という名称だけのラベルが貼られています。
 これを見た、尾藤三柳事務所スタッフが「いつから一泉が公論の代表になったんんだ…」と騒ぎが起こりました。
 これは、まったく私が意図したことではなく、一通の案内状が起こしたトラブルです。

 さっそく、日川協の事務局に問合せをしました。すると、2枚葉書が入っている1枚を三柳に渡してくれという。昨年までは、別々に案内が来ていたので、そんがどんな意味を持つかは解からなかったのですが、事務の「合理化」という事なのでしょう。同じ住所の川柳公論を私の「様方」で送ってきてしまったのです。

 今日、川柳界では「師弟」という認識が薄れていますが、私の所では古い師弟関係があります。私たちは、親子である以前に「師弟」です。

 しかし、川柳という世界の中で、育まれてきた師弟関係は、切っても切れません。

 三柳の師・前田雀郎は、三度(みたび)その師・阪井久良伎の門を追われました。いわゆる<破門>です。川柳における時代感覚が、江戸趣味から抜けられなかった久良伎をして、雀郎を破門にしたのです。
 しかし、雀郎は死ぬまで、久良伎を師として、その著述にも温かく破門を受け入れています。それは、師を越えるためのやむおえぬ道であり、久良伎を乗り越えたからこそ、雀郎があるのです。

 三柳は、雀郎から破門されることはありませんでしたが、雀郎の教えをさらに広く、さらに深め、川柳の体系を大きく日本の言語文化における問答の中に位置づけました。しかし、雀郎の個人誌であった、「せんりう」を継承することはありませんでした。これも、師の教えからそれを越えた領域へと進めたのです。

 一泉は、三柳が師というより、もっと間近な「門前」として川柳を身につけてきました。したがって、親子として生きてきた時間より、物心ついた頃から、川柳界に連れ回され、自然と川柳に目を開いたといっていいでしょう。直接、三柳から教わることは、ほとんどありませんでした。三柳が、第三者に教えたり語ったりするのを間近で見ていて、何時の間にか盗んでいたのです。
 二十歳からは、「川柳公論」委員として、師弟という関係を明確にされました。

 したがって、「尾藤一泉 様方  川柳公論 御中」などという記述は、あってはならないことで、こんな公文書が出てくると
 「一泉、お前は何様だと思っているんだ…」
 と、破門されても仕方ない状況になってしまいます。

 「川柳公論」は尾藤三柳の個人誌です。
 個人誌とは、主宰者が、隅から隅まで責任を持ち、その主張がページの隅々まで行き渡っているものです。単なる同人雑誌とは意味が違います。
川柳公論 」の編集業務に関わっていますが、私のデザイン的提案を受け入れるかどうかは三柳の匙加減一つで、すべてが編集作業を行っている者に権限があるのではなく、主宰者の裁断を待って、作業をしているに過ぎません。

 日川協の方は、軽く「一泉さんが事務なんだろ…」と言っていましたが、師弟関係では「事務」職はありません。年を取った三柳の補佐的な仕事は進んで行っても、それは私の師に対する思い入れであり、師は、決してそれを喜びません。「俺がルールブックだ」と言うでしょう。

 「川柳公論」は、三柳なくして「川柳公論」ではありえないでしょう。
 よく、「一泉さんが公論を継ぐんでしょ…」とも言われます。しかし、公論に集まっている方々の大半は、「三柳」という存在に集まっているものであり、私もその一人にすぎません。親子だからといって、継ぐ立場に無いのは、三柳やその中間が、雀郎の残した吟社を継がなかったことといっしょです。

 師系とは、師が明確であってこそ、はっきりとした脈を描きます。


 それがしたければ、自分の主宰誌を持たねばならないのです。

 私は、 川柳250年 次業を通じて、川柳が社会と一体とならなければ、どんなに吟社の会員を増やしても、それは社会からかい離した、自己満足の文芸でしかないと感じました。
 それを、具体的に主張するには、残念ながら「川柳公論」という枠では無理と感じ、玄武胴川柳道場を創設しました。今年の1月1日をその創立日とします。
 2月には、その機関誌 川柳 さくらぎ」 が発行されます。わたしが生きてきた川柳界ももちろん大切にしてまいりますが、もっと社会と一体となれるような活動の拠点にしたいと思っています。

「さくらぎ」 のコピー.jpg
 かといって、もちろんのこと、もちろん、「川柳公論」から出るわけではありません。三柳の弟子として、三柳が身罷るまでは、その元で学びつづけます。これは、かつての絵画工房と似た感覚かもしれません。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは言います。
「師を越えない弟子はやくざ者だ」
 と。すべての面で師を超える事は難しくとも、自分の特徴を生かし、ある部分で師を乗り越えることが弟子の役割でしょう。

 さあ、川柳を生活に密着した文化として、私たちと一緒に川柳を通じた自分探しの活動に入りませんか。本当の自分というモノを見つける契機となり、さらに自分たちが作った川柳作品が、社会への共感として人々の心に残るような活動を、 玄武洞川柳道場 からはじめてみませんか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年01月24日 23時29分01秒
コメント(0) | コメントを書く
[川柳] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: