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(久志若按司御位牌安置所)沖縄本島北部に名護市「久志集落」があります。この集落の中央で祝女殿内と神アサギに隣接した場所に「久志若按司御位牌安置所」「ニーブ神・裕参郎キナヤヒノカン」「フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子御霊安置所」の3つの祠が建立されています。「久志之若按司」は1889年に「琉球浄瑠璃」に掲載された組踊「久志の若按司」で広く知られるようなりました。この3つの祠が合祀されている場所は集落の聖域とされ、住民により大切に崇められています。(久志若按司御位牌安置所)(久志若按司御位牌安置所の石碑)(久志若按司御位牌安置所の仏壇)(久志若按司の位牌)(久志若按司御位牌安置所の火の神)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカン)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカンの石碑)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカン)(フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子御霊安置所)(フェーク子/シンマ子/ナカウカイ子御霊安置所の石碑)(フェーク子/シンマ子/ナカウカイ子御霊安置所の内部)「久志若按司御位牌安置所」は「久志之若按司元祖屋」とも呼ばれ、木造瓦葺の祠内部には「久志之若按司」と「久志之按司父子」の名前が併記された位牌が安置されています。昭和18年、区民総意により若按司の子孫と言われている赤平屋の同意を得て現在地に移され村で管理し崇めています。「ニーブ神・裕参郎キナヤヒノカン」の祠は1987年8月10日にニーブ屋敷にあったニーブ神と裕参郎屋敷にあったキナヤヒヌカンが移設されて拝されています。そして「フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子」の三神を祀った祠には、三子が部落創始として神格化され崇拝するために合祀されています。(シチャヌカー/ウブガー)(シチャヌカー/ウブガーの石碑)(シチャヌカー/ウブガーのウコール)(シチャヌカー/下の川)(下の川橋/しちゃぬかわばし)(下の川橋/しちゃぬかわばし)(タカトゥジー/高頂の石碑)(タカトゥジー/高頂の森)「久志若按司御位牌安置所」の北西側に「シチャヌカー/下の川」の拝所があり「ウブガー/産川」とも呼ばれています。集落で子供が産まれた時の産水(ウブミジ)や正月の若水(ワカミジ)に利用され、生活用水としても欠かす事が出来ない川でした。この拝所は現在、河川工事により道路脇に移設されました。「シチャヌカー/下の川」には「下の川橋/しちゃぬかわばし」と呼ばれる橋が掛かっています。この拝所の東側で屋号「徳森家」の後方の森は「タカトゥジ/高頂」と言われ、かつて頂上にはお祭りの広場があり祭事が行われていました。また、昔は特に大きな老松があったとの言い伝えがあります。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.29
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(ヌロドゥンチ/祝女殿内)沖縄本島北部の名護市に「久志集落」があり、その昔は「久志間切」に属していました。この集落の東側に「ヌロドゥンチ/祝女殿内」と云う祝女が居住した屋敷があります。一般的にはノロドゥンチと呼ばれる祝女殿内ですが「久志集落」では「ヌロドゥンチ」と称されています。この「ヌロドゥンチ」がある一帯は「アタイ」と呼ばれる古島から現在の部落に移って来た時の最初に集落が出来た場所だと考えられています。戦前から1983年(昭和58)に92歳で逝去されるまで「久志ヌロ」を勤めた大城マツさんが住んでいました。ちなみに、この屋敷の屋号も「殿内」でした。(ヌロドゥンチ)(祝女殿内の表札)(ヌロドゥンチの内部)(ヌロドゥンチの仏壇)(歴代久志ヌロの位牌)(ヌロドゥンチのヒヌカン)(ヌロドゥンチのトゥクヌカミ)(ヌロドゥンチ中庭のヌロガー)(ヌロドゥンチ)「ヌロドゥンチ」の内部には正面中央に「ヒヌカン/火の神」が祀られていて、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『久志巫火神 久志村 毎年三・八月、四度御物参之時、有祈願也。稲二祭三日崇、且、年浴・柴指之時、仙香・花米五合宛・五水四合宛・神酒五器宛 久志・辺野古 二ヶ村百姓、供之。久志巫祭祀也。』との記述があります。「ヒヌカン」に向かって左側の仏壇には歴代ヌロの位牌が祀られています。さらに、このヌロドゥンチの中庭には久志ヌロが生活用水として利用したと考えられる井戸が現在も残されています。(ナーギムイへの遥拝所)(ナーギムイ/見揚森)(ナーギムイの入り口)(ナーギムイの石碑)(ナーギムイの御嶽)「ヌロドゥンチ」の中庭に東側にある「ナーギムイ/見揚森」を遥拝する拝所があり、コンクリート製の拝み場にはウコールが設置されてヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「ナーギムイ」は「琉球国由来記」に『ミアゲ森御イベ 不伝神名 久志村 久志巫タカベ所。』と記されています。「ナーギムイ」の頂上には拝所が祀られており、ウコールが設置されています。この御嶽は「アガリムイヌウタンカドゥクル/東森ノ御嶽所」とも呼ばれています。(神アサギ)(神アサギの内部)(神アサギの天井)(神アサギ)「ヌロドゥンチ」に隣接してヌロが祭祀を行う「神アサギ」が建てられています。古島から「ヌロドゥンチ」と同時に移動して来たと言われており、御拝で行ってきた村の平和、五穀豊穣、海の安全を祈る祭事を行う神殿とされています。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 久志村 稲二祭之時、五水四合宛 惣地頭、シロマシ二器・神酒二宛・花米九合宛・肴四器宛 百姓。大祭之時ハ赤飯一器供之也。年浴・柴指之時、神酒二宛・肴四器宛 百姓、供之。久志巫祭祀也。』との記述があります。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.15
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(久志の観音堂)沖縄本島北部の名護市「久志集落」に「久志の観音堂」が建立されています。この観音堂が設定されたのは1688年で、そのことについて琉球王府の歴史書である「球陽」には『尚経(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)が久志間切の総地頭の時に観音様の石像を貰い受け、それを納めるお堂を久志の村に建て、それ以降村の人々は毎月一日、十五日、十八日、二十三日に観音堂を拝むようになった』との記述があります。(久志の観音堂)(観音様の石像)(観音様の石像に向かって左側)(観音様の石像に向かって右側)(観音様の石像)(観音様の石像に設置されたウコール)(久志観音堂の扁額)地元では、この観音堂を「ティラ」観音様の石像を「ティラヌタンメー」と呼び親しんでいます。特に旧暦の一月三日、一月十八日、九月十八日、十二月二十四日には「久志集落」をあげて観音堂を拝み、地域の繁栄と住民の健康を祈ります。その他にも、旅に出る時の安全祈願や子供の誕生、合格祈願、住民が亡くなった時に魂が残らないように祈る「ヌギファ」の時も拝れています。近年は集落外からの参拝者も多くなりました。(久志古島遺跡/久志の古島)(久志古島遺跡/久志の古島)(久志古島遺跡/久志の古島)(久志の観音堂)観音堂の前には名護市教育委員会により設置された案内板があり『現在のお堂は昭和四八年(一九七三年)に修復されたもので、建材には主にチャーギ(イヌマキ)が使用されています。』と記されています。この観音堂が建つ場所は地元で「アタイ」と呼ばれており、この周辺一帯に「久志集落」の古島があったと伝わっていて「久志古島遺跡」と呼ばれています。YouTubeチャンネルを解説しました!↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.07
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(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓)沖縄本島中部のうるま市に喜屋武と仲嶺が合併した「喜仲集落」があります。この集落の北西側で県道75号沿いに「シンカムイ」と呼ばれる深い森があり、森の中には琉球石灰岩が隆起した丘陵が佇んでいます。この丘陵の中腹には洞穴を利用した古い掘り込み墓が構えており、この墓には「喜屋武按司」と「イミナイビ」の墓が合祀されています。「ウミナイビ」とは貴族の姫を意味し、王女を指す言葉でもあります。この墓の場合は喜屋武按司の妻である事が推測出来ます。(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の標識)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓に向かって右側)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓に向かって左側)(シカンムイの森)(シカンムイの森)(シカンムイの森)墓の前方には「喜屋武按司之墓 平成元年4月吉日」と記されている石碑が建立されています。この墓に葬られる「喜屋武按司」は15世紀ごろに喜屋武グスクを築城した「安慶名大川按司一世」の四男、もしくはその長男の「喜屋武按司二世」であると考えられます。喜屋武グスク一帯で勢力を拡大していった「喜屋武按司」は首里王府軍に警戒されて滅ぼされ、喜屋武グスクは廃城となった歴史があります。その際に「喜屋武按司」の遺骨をグスクから運び出し、隣接する「高江洲集落」の「シカンムイ」に葬ったと推測されます。(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の石門)(喜屋武按司之墓の石碑)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の標柱)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の門石)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の霊石)(シカンムイの森)(シカンムイの森)(シカンムイの森)墓の前方には「喜屋武按司之墓 平成元年4月吉日」と記されている石碑が建立されています。この墓に葬られる「喜屋武按司」は15世紀ごろに喜屋武グスクを築城した「安慶名大川按司一世」の四男、もしくはその長男の「喜屋武按司二世」であると考えられます。喜屋武グスク一帯で勢力を拡大していった「喜屋武按司」は首里王府軍に警戒されて滅ぼされ、喜屋武グスクは廃城となった歴史があります。その際に「喜屋武按司一世」の遺骨をグスクから運び出し、隣接する「高江洲集落」の「シカンムイ」に葬ったと考えられています。また、喜屋武グスクが首里王府の火打峰や狼煙台として利用された事により「喜屋武按司二世」の遺骨を「シカンムイ」に祀ったとも推測されます。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.03
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(合祀された大工廻拝所)沖縄本島沖縄市の「嘉間良集落」にある「尚宣威王の墓」の西側に合祀された「大工廻(ダクジャク/ジャクジャク)拝所」があります。この小高い森の広場には、かつて「大工廻集落」に点在していた「クボー御嶽」「ナカムイ御嶽」「ガキジョー御嶽」が合祀された赤瓦屋根の祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には、それぞれ『ゴバウノ嶽 弐御前 大工廻村 壱御前 神名 イシナカゴフ御イベ 壱御前 神名 真南風石司ノ御イベ』『中森 神名 コバヅカサノ御イベ 大工廻村』『ウラウシノ嶽 マネヅカサノ御イベ』と記されており、付け加えて『右四ヶ所、大工廻巫崇拝所。三・八月、四度御物参之時、有祈願也。』との記述があります。ちなみに、祠内部に記された「ガキジョー御嶽」は『ウラウシノ嶽』に相当すると考えられます。(合祀された大工廻拝所)(合祀拝所の祠正面)(合祀拝所の祠内部)(祠内部のウコール)(祠内部のウコール)赤瓦屋根の祠に向かって右側に「ビジュル」が祀られておりウコールが設置されています。さらに向かって左側には「地頭火ヌ神」が祀られていて、ヒヌカンの霊石3体とウコールが設定されています。この「地頭火ヌ神」はかつて「大工廻集落」にいた脇地頭のヒヌカンであると考えられ、歴代の「大工廻親方/ダクジャクウェーカタ」や「大工廻親雲上/ダクジャクペーチン」が脇地頭職に就いていました。また、赤瓦屋根の祠の後方には「久保御嶽」と「久保井戸」が祀られる拝所があり、それぞれウコールが設定されています。「大工廻集落」の先祖は500〜600年前に「倉敷ダム」周辺にかつて存在した「倉敷集落」に住んでいたという言い伝えがあります。ちなみに「倉敷」という名前は首里王府に上納する産物の倉屋敷があった事に由来しています。「倉敷ダム」の湖畔には現在も「大工廻」の拝所である「久保御嶽」が残されており、ダムの湖底には「倉敷集落」の井戸や田畑が残っています。(ビジュルの拝所)(ビジュルの拝所内部)(拝所内部のウコール)(地頭火ヌ神の拝所)(地頭火ヌ神の拝所内部)(拝所内部の霊石とウコール)(久保御嶽の拝所)(久保御嶽の拝所内部)(拝所内部のウコール)(久保井戸の拝所)(拝所内部のウコール)「大工廻集落」の拝所について琉球国由来記には他にも『大工廻巫火神 大工廻村 河陽村 麦穂祭之時、花米九合・五水四合 大工廻・河陽二ヶ村百姓中。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水2合 大工廻地頭、花米九合・五水2合・神酒一器 粟・肴一鉢 大工廻村 百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。其時、盆壱通七組、大工廻地頭ヨリ、同壱通七組、河陽地頭ヨリ、大工廻里主所ニテ巫馳走仕也。』と記されています。さらに『大工廻神アシアゲ 大工廻村 河陽村 稲二祭之時、五水二合宛・神酒壱宛・備後筵壱枚・盆二通宛七組 大工廻地頭、五水2合宛 河陽地頭、五水壱沸・備後筵二枚・神酒八宛 三米、五芋・盆二通宛七組 大工廻・河陽、二カ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の拝所)(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の祠内部)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)大工廻の合祀拝所の敷地に「ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井」が祀られた拝所があります。このうち「前ヌ井」は「琉球国由来記」に『前之川 大工廻村 河陽村 稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合 大工廻地頭、花米九合・五水壱沸・神酒一器 粟。大工廻・河陽二ヶ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』と記されています。「大工廻集落」は戦前までサトウキビ栽培が盛んな村でしたが、沖縄戦により集落全域が米軍の軍用地として土地が接収されました。住民は周辺の村に離散し、この「嘉間良集落」に移り住んだ人達により「大工廻の合祀拝所」を造り、生まれ島の「大工廻」を遥拝したと考えられています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.24
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(イジュナーガー)沖縄市の南側中央に「嘉間良/カマラ集落」があります。この集落は丘陵中腹にあり、急勾配の坂道が多数存在する区域となっています。かつて「嘉間良集落」に住んでいた、明治43年生まれの仲間良樽さんが残した伝承が残されています。「嘉間良集落」は上がったり下がったりの非常に悪い地形で、当時残っていた嘉間良で一番古い屋敷は屋号が「下ヌ当/シチャヌトー」の「大仲間/ウフナカマ」さんでした。「嘉間良集落」に一番初めに住んだ人物は具志堅さんという首里から移住して来た人で、屋号「首里屋宜/スイヤージ」の近くに住んでいたそうです。集落にはしばらく具志堅さんの一軒のみでしたが、仲間良樽さんの5代前の先祖が移ってきて二軒になり、三軒目が大仲間さんだったと伝わっています。(イジュナーガーのウコール)(イジュナーガー/向かって右側)(イジュナーガー/向かって中央)(イジュナーガー/向かって左側)(イジュナーガーの祠)仲間良樽さんの畑の角に「具志堅小ガー」と呼ばれる古い井戸がありました。仲間さんが子供の頃に父親が屋敷の石垣を積む為の石を集めていて、この古井戸の石垣は手をつげずに残していました。その事について疑問を持った仲間さんが父親に理由を聞くと「これはね、うーんと昔、具志堅小ガーの家がこっちにあり、その人が掘った井戸で、一番初めに来た人が使った井戸だからね、埋めてはいけないという。昔の最初のカーとの言い伝えもあるから、そのまま残しておこう」と言われたそうです。「具志堅小ガー」はニーブガーと呼ばれる柄杓で水を汲む井戸でした。今はその土地は、よその人のものになっていて井戸も埋めてしまったそうです。ちなみに、仲間良樽さんが当時「前ヌカー/メーヌカー」は立派に保管して今もあると語っていた井戸は「イジュナーガー」を指していると考えられます。(八重島茶城原遺物散布地の階段)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地の拝所)(拝所のウコール)(八重島茶城原遺物散布地付近の石敢當)「嘉間良集落」は「前組/メーグミ」と「後組/クシグミ」に分かれていて「後組」は大正の頃から「西組/イリグミ」と「東組/アガリグミ」に分割されていました。仲間良樽さんは「前組」で、九軒ほどあった「西組」のほとんどは「普久原/フクバル」だったそうで、他にも「ナーグシクグヮー」「マンナカフクバルグヮー」「加那普久原/カナーフクバル」「マシー」「又吉小/マテーシグヮー」「新屋小/ミーヤグヮー」がいました。「東組」は「首里屋宜/スイヤージ」「仲西」「ハンタ仲間小/ナカマグヮー」「江洲小/イーシグヮー」「幸地小/コーチグヮー」「山名嘉真/ヤマーナカマ」「徳仲間/トゥックナカマ」「石根/イシンニー」の八軒が暮らしていました。仲間良樽さんが子供の頃の昭和5年くらいまで「嘉間良集落」には二十八軒があったそうです。(ヤシマガー)(ヤシマガー)(ヤシマガーの拝所)(ヤシマガーのガジュマル)(ヤシマガー)(ヤシマガーの霊石)(ヤシマガーのウコール)八重島公園の西側に「ヤシマガー」と呼ばれる井戸があり霊石とウコールが祀られています。小規模ながら現在も井泉が湧き出る井戸は、拝井戸として周辺住民に拝れています。この井戸の周辺には「八重島貝塚」が広がっており、琉球石灰岩の丘陵を形成しています。この貝塚からは伊波・荻堂式と考えられる土器片が散布し、貝塚の南側では宅地造成工事中に炉跡が確認されています。さらに、小型斧も出土していて八重島式土器として形式設定がされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.16
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(大城賢忠之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓)沖縄市中央に「センター公園」の丘陵があり、この深い森は「センター公園内遺物散布地」と呼ばれています。隆起した琉球石灰岩と亜熱帯植物に覆われた公園一帯は古墓群となっており、静かな雰囲気に包まれています。この公園北側で沖縄市立コザ小学校の南側に切り立つ崖の上部に「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」と記された3体の石碑が建立される合祀墓があります。東側に向けられて造られたこの合祀墓には、合計6つの石製ウコールが設置されています。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地)(越来按司二男之墓)(越来按司二男之墓のウコール)「越来按司二男」とは伝承によると、勝連グスク城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は中城村の「伊集集落」に逃げ延び、この集落の「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。その後、この「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の「伊集集落」の屋号「東利」で初代「東利門中」だと言われています。「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」の「ムートゥヤー/本家」には「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代「大城賢忠」から7代までの子孫が祀られた仏壇があり、7基のウコールが設置されています。しかしながら「大城賢忠」の亡骸は、越来間切であった現在の沖縄市中央の墓に葬られています。(國直城之御墓/嘉良川山之御墓)(國直城之御墓/嘉良川山之御墓のウコール)「大城賢忠之墓」と共に「國直城之御墓」と「嘉良川山之御墓」が合祀されており石碑が建立されています。「國直城」とは国道58号線の嘉手納ロータリーから南東側に約2キロの場所にある標高94メートルの岩山で、かつて「國直村」で崇められていたグスクでした。現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあり、レーダー施設が建設されてグスクの原型は留めていません。第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏王統初代王/尚円王)に反乱し、第一尚氏再興を目指して「大城賢忠」は「安谷屋接司」と「伊波接司」と共に文字通り"國を直す"為に「國直城」の築城に着手しました。しかし、その企ても半ばにして新王朝軍に攻め滅ぼされてしまったのです。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地のガマ)(センター公園/センター公園内遺物散布地)「嘉良川村」沖縄市八重島集落の西側に位置していた村で、こちらも現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。かつて「嘉良川村」は廃藩置県後に首里の士族が開墾した「ヤードゥイ/屋取集落」で「嘉良川山」はこの村に存在した村人の拠り所として守護神を祀っていた丘陵の森山であると考えられます。「國直城」にも「嘉良川山」にも両村の「ムラバカ/村墓」があったと推測され、沖縄戦により摂取された村墓の魂を「センター公園」の現在の場所に移設して祀ったと考えられます。この「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」の合祀墓は、琉球王国の時代から沖縄戦の混乱の時代までの歴史を知る重要な資料として大切にされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.08
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(門たんかー歌碑)沖縄本島中部のうるま市に「川田/かわた集落」があり、南北に通る県道16号を中心に集落が広がっています。「川田集落」は北側に隣接する「大田集落」にもともと属していた「タサバル/田佐原」と「ユナバル/与那原」のヤードゥイやチンジュと呼ばれる小集落が1941年に分離して独立しました。「タサバル」にある「川田公民館」の南側に隣接した場所に「門(じょう)たんかーの歌碑」が建立されています。この民謡は「知名定繁/ちなていはん」の代表曲で「具志川小唄」とも呼ばれています。「知名定繁」は「川田集落」の生まれで「ネーネーズ」をプロデュースした「知名定男」の父親としても知られています。1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、作詞・作曲家としても活躍して名曲の数々は現在でも沖縄県内外で広く歌い継がれています。(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって右側)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって左側)(知名定繁顕彰碑)(知名定繁顕彰碑)(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑)『門たんかー 美ら二才小やしがよー 七門八門 越ちん 緑どう遊ぶ からじ小に一惚り 目眉小に一惚り 腰小に一惚り ちんとぅ三惚り サーびんた小やたらち まーかいめーがウマニよー 赤野原 喜屋武小 ヤッチー忍びいが 我んね門に立てぃてぃ チョンチョンとぅ雨に濡ち 開きてぃ入りる事 ならんばすい サー大田バンタ毛遊び 唄声小や田佐原ちる小 三絃小弾ちゅしぇ よーがりウサ小』(川田公民館)(慰霊碑)(慰霊碑の石碑)(慰霊碑のウコール)(字川田創立五十周年記念碑)「川田公民館」には沖縄戦戦没者の名前が刻まれた慰霊碑が祀られています。さらに「字川田創立五十周年記念碑」が建立されており、集落の歴史が刻まれています。この記念碑には、『昭和十六年四月一日字太田から分離、部落有志の発議により与那川原の川と田佐原の田をとって時の村長に具申 川田と命名された 平成三年(一九九一年)十一月吉日建立』と記されています。(川田印部石)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸のウコール)(タサバル/田佐原の拝井戸の階段)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガーの石碑)「川田公民館」に「川田印部石/かわたしるべいし」と呼ばれる石碑があります。印部石は首里王府が1735年から1750年にかけて行った検地(土地測量)の際に、図根点(基準点)として設置したもので「原石/はるいし」とも呼ばれています。印部石は首里王府の測量技術や当時の地名、土地情報等を読み取ることが出来る貴重な歴史資料です。元の設置場所は与那原バス停付近にあったと言われており、家を改築する際に屋敷内の石積みの中から発見され、現在の場所に移されたとの記録が残っています。印武石には「チ」と文字が刻まれていますが、その後に続く原名(ハルナー)は摩滅状態で読み取る事が出来ません。「タサバル」と「ユナバル」のチンジュには3つの拝井戸が残されており、現在も集落の人々が水への感謝を捧げるウガン(御願)を行っています。(川田劇場跡)(川田劇場跡)(川田集落の風景)「川田公民館」の南側に、かつて映画館として賑わった「川田劇場」の跡地があります。1951年2月以前に開館したと言われており、閉館の時期は不明ですが1953年3月の興行が確認されています。1951年2月15日の「うるま新報」によると、劇団「新生座」の巡回公演の日程が掲載されています。この日程には1951年4月11日〜4月17日に「川田劇場」で公演が行われる予告が記されています。1953年3月には東映「ひめゆりの塔」の上映記録もあります。(護岸の銃座/川田〜前原)(護岸の銃座/川田〜前原)(川田のマングローブ)集落南側に「護岸の銃座/川田〜前原」と呼ばれるライフルピットが構築されています。この銃座は1944年頃に日本軍第24師団歩兵隊89連隊山部隊によって構築されたものだと伝わっています。銃座は護岸のコンクリートの頂部を大型ハンマーなどで割って造られたもので、外側(海側)約20センチ、内側(陸側)約30センチのハの字状で、約10〜20メートル間隔で造られています。銃座の内側には人が1人入れる程の掩体壕(たこつぼ)も掘られていました。その掩体壕は川田集落から前原集落のシチャバル(下原)一帯の住民を動員して造られたと言われています。さらに、その後方には護岸と平行する形で敵戦車用の戦車壕(落とし穴)も住民を徴用して掘っていたとの記録もあります。沖縄戦では米軍が西海岸から上陸したため、この銃座からは結果的に一発の弾丸も撃たれませんでした。現在、この護岸にはマングローブ林が形成される憩いの場として整備されています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.02
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(ウフタビラ/大田坂)沖縄本島「うるま市/旧具志川」に「大田/ウフタ集落」があり、大田公民館の南側丘陵に急勾配のビラ(坂道)があります。この坂道は「ウフタビラ/大田坂」と呼ばれ!現在の「大田集落」と「川田集落」を結んでいます。「ウフタビラ」は今から約200年程前に「あかばんた掟/アカバンタウッチ・玉城親雲上/タマグスクペーチン・上門小ビニー/イージョウグヮービニー」の企画と設計で施行され、地元や近隣の住民の協力や集めた資材を用いて完成したと伝えられています。(ウフタビラの川田集落側入り口)(ウフタビラの階段)(ウフタビラの標識)(ウフタビラの階段)(ウフタバンタからの景色)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)「ウフタビラ」は幅が2〜3メートルで、南北全長約300メートルにおよび、琉球石灰岩を敷き詰めた石畳の道となっています。坂を登ると眺めの良い「ウフタバンタ/大田バンタ」があり、このバンタ(崖)の上から隣接する「川田集落」と製糖工場の「ゆがふ製糖」が眼下に広がり、その先には美しい「中城湾」が一望出来ます。また「具志川集落」に番所ががあった頃、首里王府から各間切への情報伝達に利用されていた事から、宿道として整備された歴史の道となっています。(ウフタビラの丘陵)(ウフタビラの亜熱帯植物)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの坂道)(ウフタビラの大田集落側入り口)(ウフタビラの大田集落側入り口)(ウフタビラの大田集落川入り口)(ウフタビラの案内標識)(ウフタビラの大田集落川入り口)その昔「大田集落」の区域内に属していた「タサバル/田佐原」と「ユナバル/与那原」にあった小集落ヤードゥイからは、集落の中心地区は「本部落」と呼ばれていました。1970年に発行された「具志川市誌」によると、1925年には大田本部落70戸、田佐原52戸、与那原48戸と記されており、本部落と比べてヤードゥイ集落の規模の方が大きくなっていました。そのため1941年にヤードゥイ集落は「川田集落」として分離して独立したのでした。「ウフタビラ」の北側にかつて集落の「アシビナー」があった場所が現在も残されています。さらに「大田公民館」の敷地内には沖縄戦の戦没者を祀る慰霊碑が建立されており、戦死者33名の芳名が刻まれています。(旧アシビナー/遊び庭)(大田集落の石敢當)(大田集落の石敢當)(慰霊碑の階段)(慰霊碑)(慰霊碑のウコール)(慰霊碑)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.19
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(ウフタガー/ウブガー)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「大田集落」があり方言で「ウフタ」と呼ばれています。「大田公民館」の東側に「ウフタガー/大田ガー」があり集落の「ウブガー/産井」として大切にされてきました。村で赤ちゃんが産まれると「ウフタガー」から汲んできた水に中指に浸し、赤ちゃんの額を3回撫でる清めの儀式である「ウビナディ」が行われ、この出産儀礼は「ミジナディ/水撫で」とも言われていました。また「ウフタガー」の水を沸かしたお湯は産湯として使われ、これらの儀式は赤ちゃんが健康に成長出来るように願いが込められていました。更に集落の拝み行事として旧暦正月2日の「アマンチュウガン/天美久御願」では無病息災を願い「ウフタガー」で祈願が行われていました。(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの平場)(ウフタガー/ウブガーの飲料水標識)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーのウコール)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーのウコール)「大田集落」で葬式はチュヤックヮー(親戚)を中心に挙げられ、村総出で儀式を手伝ったと伝わっています。遺体を納めた棺を運ぶ「ガン/龕」は集落の青年達により担がれ、墓地へ向かう葬列は旗、天蓋、ガン、遺族、参列者と続きました。墓からの帰りは「ウフタガー」へ行き『ヤナムヌヤ ニレーカネーカイ ハリヨー』(悪いものは ニライカナイへ 行きなさい)と言いながら井戸の水を掬いこぼし「ゲーナ」と呼ばれる植物の先端を結んで作った覆いを潜って厄払いしました。「ウフタガー」の東側にかつて綱引きの際に使われた「チナヒキミチ/綱引き道」があり、1964年に大野顕氏により著された『大田のあゆみ』によると、明治後期まで盛んだった旧6月の綱引きは集落の「ナカミチ/中道」によって分けられた「アガリ/東」と「イリ/西」の区分で綱が引かれていたと伝わっています。(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの水路)(ウフタガー/ウブガーの洗い場)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(チナヒキミチ/綱引き道)(チナヒキミチ/綱引き道)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.10
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(エードゥンチの拝所)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」の県道10号線(伊計平良川線)を中心に「大田/おおた集落」が南北に分布しています。「大田集落」は1649年に作成された「絵図郷村帳」には『大川』の名で、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『大田』の名が記されている古村で、方言で「ウフタ」と呼ばれています。県道10号線沿いに「エードゥンチ」と呼ばれる拝所があり「太田親殿内」と「太田村火之神」の祠が建立されています。「琉球国由来記」には『殿 里主所 大田村 麦・稲穂祭之時、花米九合宛・五水二合宛・神酒一宛・筵一枚宛 地頭、穂・神酒一宛 百姓中、供之。上江洲巫ニテ祭祀也。且、祭毎ニ巫へ地頭、一度、食有賄也。』との記述があります。(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所の入り口)(太田親殿内)(太田親殿内の祠)(太田親殿内の祠内部)(太田親殿内の祠内部)(太田親殿内の石碑)(太田親殿内の祠/表)(太田親殿内の石碑/裏)「太田親殿内」の祠内部には石造りウコール1基、陶器製ウコール3個、霊石が数体祀られています。また「太田親殿内の石碑」の裏面には『太田村賛歌 世立初めたる 太田大主と 地組始めたる 高嶺之子が 風水組まさる 村つくりされて 太田産井泉の湧水を前成し 親殿内ぐしく鎮座ませ召しょち 太田村繁栄見守やれいめむ 詠 大野顕』と刻まれています。(太田村火之神)(太田村火之神の祠)(太田村火之神の祠内部)(太田村火之神の祠内部)(太田村火之神の石碑)(太田村火之神の石碑/表)(太田村火之神/裏)「太田村火之神」の祠内部にはヒヌカンの霊石3体と陶器製ウコールが1個祀られています。さらに「太田村火之神の石碑」の裏面には『太田村火之神は村の守護神で村の安全平和と繁栄の祈願および祭祀や公共行事の無事成就を祈願するときは、先ず村火之神に御願して天地の神々に仲介の取次をして頂き、神々の御加護を賜りますように信仰尊崇されています』と記されています。(エードゥンチの拝所の門柱)(エードゥンチの拝所の門柱)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(カンジェークビラ)(カンジェークビラのワイトゥイ)(ウシクルシモーの亀甲墓)(カンジェークビラとエードゥンチ)旧暦正月2日の「アマンチュウガン/天美久御願」は無病息災を願い、集落の「大田公民館」の南側にある「大田バンタ」の丘陵から「浜比嘉島」に向かって祈願をして、集落の「カミヤー/神屋」である「エードゥンチ/親殿内」を拝みます。旧暦2月と11月2日は「シマクー」と呼ばれる行事が行われ、集落の入り口4箇所にしめ縄を張り、牛や豚の肉や血をつけた小枝を吊るして無病息災を祈願しました。「エードゥンチ」の拝所の北側にある「カンジュークビラ」を登った先にある「ウシクルシモー」と云う森で牛や豚を殺して、その肉や血を「シマクー」の行事に利用したと伝わっています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.06
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(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「我如古/がねこ集落」があり「我如古公民館」の南側に「トゥンヤマグヮー合祀拝所」があります。この祠には「トゥンヤマグヮー・ジトゥーヒヌカン/地頭火の神・ヒジャイガミ」が祀られており霊石とウコールが設置されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『我如古里主所之殿 我如古村 麦・稲四祭之時、五水六合宛・神酒壱宛 我如古地頭、稲三筋宛・神酒二宛 麦大祭之時麦神酒。同村百姓中、供之。宜野湾巫ニテ祭祀也。且、麦大祭之時、饅頭壱籠飯・和物壱重。稲大祭之時、炒米一升・和物一重、同所ニテ地頭、巫馳走也。』ときされています。なお、この拝所には沖縄戦の戦没者を祀る慰霊之塔が建立されています。(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)(トゥンヤマグヮー合祀拝所/我如古慰霊之塔)(トゥンヤマグヮー合祀拝所の祠)(トゥンヤマグヮー合祀拝所の祠内部)(トゥンヤマグヮーの拝所に祀られたウコール)(ジトゥーヒヌカン/地頭火の神の霊石とウコール)(トゥンヤマグヮー合祀拝所のヒジャイガミ)(ヒジャイガミのウコール)(我如古慰霊之塔)(我如古慰霊之塔に祀られたウコール)(我如古集落の石敢當)(我如古集落のフクギ並木)「我如古公民館」の西側約150メートルの位置に「イリヌカー」と称する井泉があります。この井戸は「我如古集落」で子供が生まれた時に産水として利用されていたため「ウブガー/産井」とも呼ばれていました。かつて「イリヌカー」は旧暦3月3日の「サングヮチャー」の行事で拝れており石造りのウコールが現存しています。湧き出た井戸水は敷地内のガマ(洞穴)に吸い込まれ、北西側約150メートルの場所にある「ウプガーヌシッティー」と云うガマに繋がっています。このガマは「クシヌカーラ/志真志川」沿いにあった洞窟で地下に大きなクムイ(池)があったと言われています。さらに「我如古公民館」の南側約100メートルの道沿いに「仲里家の屋敷獅子」が現在も残されています。(イリヌカー/ウブガーの入り口)(イリヌカー/ウブガーに降りる階段)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガーのウコール)(イリヌカー/ウブガー)(イリヌカー/ウブガー)(ウブガーヌシッティに続く洞穴)(ウブガーヌシッティに隣接するアパート)(ウブガーヌシッティのガマ入り口)(仲里家の屋敷獅子)(仲里家の屋敷獅子)(仲里家の屋敷獅子)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.02
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(クーグスクの拝所)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の東海岸沿いにある「具志川火力発電所」に隣接した場所に「クーグスク」が構えています。「ガンジバル/岩地原」と呼ばれる地域にある「クーグスク」は金武湾に舌状に突出した標高約16メートルの岩山で、標高4〜5メートルの砂丘で連結されています。この砂丘上には弥生式土器と鉄斧を出土した「宇堅貝塚群/岩地原B地点」が立地しています。「クーグスク」は碗を伏せたような景観をしており、その頂上部の形状は幅6メートル、長さ28メートル程の長楕円状を呈しています。表面調査の結果では石垣遺構などは確認されておらず、グスクの三方は海に囲まれ北西側一方のみ砂丘を通じて陸と繋がっています。「クーグスク」の北側には拝所があり石碑とウコールが祀られていますが、このグスクは地元の人々の間でもよく知られていない謎に包まれた岩山となっています。(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所に設置されたウコール)(ウコールと賽銭)(クーグスクの拝所に祀られた石碑)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの浜の入り口)(クーグスクの浜)(具志川火力発電所のパイプライン)(具志川火力発電所のパイプライン)(パイプラインとクーグスク)「宇堅貝塚群」は勝連半島北側の付け根にある「宇堅集落」の海岸線(岩地原・荒吹原・目長原)約2キロの範囲に分布する弥生〜平安時代(約2000年前)の貝塚遺跡です。「クーグスク」がある「岩地原」は更にA・B・C地点に分かれています。「宇堅貝塚群」からは沖縄で作られた土器の他にも九州で作られた「弥生土器」や鉄斧、装飾品として使ったガラス小玉等が出土しており、海を超えて九州の人々と交流していた事が分かっています。特に鉄斧や銅製漢式三角鏃は沖縄での出土は珍しく貴重な発掘となっています。昭和54年(1979)には土地改良事業に伴い移籍範囲確認調査が行われ、平成元年(1989)から翌年にかけては「具志川火力発電所」の建設に伴う発掘調査が実施されました。(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスクの浜の岩とパイプライン)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(具志川火力発電所の煙突)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.30
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(我如古ヒージャーガー)沖縄本島中部に「宜野湾市」に「我如古/がねこ集落」があります。「我如古公民館」の北側に隣接した崖下に「我如古ヒージャーガー」があります。この井戸は今から100年以上前の明治25年(1892)に集落出身の「ミーシーシ/新末吉」と「ウィージョー/上門」の勝れた石工2名の指導により、村人総出で半年の月日をかけて造られた湧泉であると伝わっています。湧泉から流れる清水は人々の日々の飲み水や野菜や芋の洗い水、さらに衣類の濯ぎ水などに利用されるなど長く地域の共同生活用水として親しまれてきました。(我如古ヒージャーガーへの案内板)(我如古ヒージャーガーの入り口)(我如古ヒージャーガーへ降る階段)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの湧き口)(我如古ヒージャーガーの樋石)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)(我如古ヒージャーガーの洗い場)「我如古ヒージャーガー」の造りは、洞穴から流れ出る地下水の湧き口に山羊(ヤギ)のあごひげのような水流しの樋(とい)をかけた「ヒージャーガー形式」となっています。この井戸は集落の伝統行事である「ウマチー」や「ウビナディ」などの節々の拝みや、新年を迎える時に身を清める「ワカミジ/若水」、子供の出生のときの湯浴みに使う「ウブミジ/産水」など、村人ひとりひとりの人生の節目に使う大切な水は「我如古ヒージャーガー」の湧水を汲み取って利用されていました。(我如古ヒージャーガーの拝所)(我如古ヒージャーガーのウコール)(我如古ヒージャーガーの湧口)(我如古ヒージャーガーの湧口内部)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの平場と洗い場)(我如古ヒージャーガー)(我如古ヒージャーガーの広場)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所)(我如古ヒージャーガー/広場の拝所のウコール)(我如古ヒージャーガー/石畳道の階段)「我如古ヒージャーガー」の特徴は不整形な積み石の面がカミソリさえも差し入れられないほど精巧に噛み合う「相方積み/あいかたづみ」の手法が取り入れられている事です。さらに湧泉へ降りる15段を数える石畳道の下側5段が自然の岩盤を削って仕上げられ、湧泉の外側に広場を設けるなど、至る場所に当時の知恵と工夫がうかがえます。この広場はかつて村人同志の出会いや情報交換の場として賑わったと言われています。「我如古ヒージャーガー」の石積みの一部は長い歳月の間に崩れてしまいましたが、市教育委員会では平成3年(1991)から2年がかりで現在に見る石垣の復元工事を行いました。(二代目我如古ヒラマーチャー/我如古平松)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の石碑)(二代目我如古平松の記念碑)(我如古ヒラマーチャー/我如古平松)現在の国道330号線「我如古交差点」の南側に、かつて樹齢300年を誇る立派な「ヒラマーチャー/平松」がありました。枝ぶりも300坪ほどありましたが沖縄戦で失われてしまいました。現在は「我如古公民館」の広場に二代目の平松が育っています。「我如古集落」には次の謳が残されており「二代目我如古平松」の記念碑に刻まれています。『我如古平松や 枝持ちの美らさ 我如古美童ぬ 身持ち清らさ』YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.27
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(安慶田御嶽/安慶田の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「安慶田/あげだ集落」があり、この集落の北側の小高い丘に「安慶田御嶽」の拝所が建立されており「安慶田の拝所」とも呼ばれています。この御嶽には3つの神が祀られており、拝所に向かって左側に「火之神/ヒヌカン」中央に「御嶽之神/ウタキヌシン」右側に「天地神/テンチシン」の石碑とウコールが設置されています。「安慶田御嶽」では3月、5月、6月に行われる豊作祈願の「ウマチー」の時に稲穂や神酒(ミキ)を供え、豊穣を祈り豊作に感謝しました。現在でも教友会の方によって祭祀が執り行われています。(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽の石碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の祠)(火之神/御嶽之神/天地神の石碑)(火之神/御嶽之神/天地神のウコール)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の慰霊之碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)「安慶田御嶽/安慶田の拝所」の南東側で「安慶田小学校」の北側に「アガリカー/東リカー」があります。現在、この井戸は丸型の石蓋が施されウコール(香炉)が設置されています。かつて集落で子供が生まれた際に使用する「ウブミジ/産水」をこの井戸から汲み「ミジナディ/水撫で」をして子供の健康を祈りました。「安慶田集落」の村人は旧暦1月1日の旧正月に朝早く「アガリカー」から「ワカミジ/若水」を汲みお茶を沸かして飲み一年の未病息災を祈りました。この井戸は「安慶田集落」の東側に隣接する「照屋/てるや集落」の住民からも拝されています。「アガリカー」の北側に「比謝川/ひじゃがわ」に掛かる「安慶田橋/あげだはし」が残されています。現在の「安慶田橋」は1966年6月18日に竣工されました。(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカーのウコール)(安慶田橋)(安慶田橋の橋名板)(あけだばしの橋名板)(安慶田橋の橋名板)「安慶田集落」の最北端にある「越来水辺公園」の「比謝川」沿いに「ムトゥジマガー/元島ガー」と「クシバルカー/後原カー」が隣接しています。「安慶田」の集落が現在地に移動する前に利用されていた井戸であると言われています。「安慶田」の井戸としては最も古く、元の集落を意味する「元島」は「古島」を意味する事から別名「フルジマガー」とも呼ばれています。かつては旧暦の9月吉日に「カーウガン/井戸御願」が行われていました。(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガーのウコール)(クシバルカー/フルジマガーの内部)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.23
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(我如古大主の拝所/我如古グスク)沖縄本島中南部にある「宜野湾市」の南端に「我如古/がねこ集落」は方言で「ガニク」と呼ばれ、1671年に「宜野湾間切」が成立するまで「浦添間切」に属していました。この集落の南側には「我如古グスク」の小高い丘陵の森があります。このグスクは中山王国最後の王であった「武寧/ぶねい」の三男である「我如古大主/がにくうふしゅ」が築いたグスクと伝わっています。現在グスクの遺構は残されていませんが、丘陵中央部の頂上付近に「我如古大主」の祠と石碑が建立されています。祠内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、祠の後方には「我如古大主」と彫られた石碑が築かれています。「我如古大主」の拝所に向かって右側には石積みで造られた古墓があり、その歴史の長さと文化財としてのを知ることが出来ます。(我如古グスクへの道を示す看板)(我如古グスクの丘陵頂上)(我如古大主の拝所)(我如古大主の拝所の祠)(我如古大主の拝所の祠内部)(我如古大主の拝所の石碑)(我如古大主の拝所の霊石)(我如古大主の拝所の古墓)(我如古大主の拝所の古墓)「我如古集落」には女性だけで踊られる「スンサーミー」の行事が継承されています。女性は揃いの「キーチリー」と呼ばれる絣(かすり)を身に纏い円陣を組み、地方(じかた)の唄三線に合わせしなやかな舞を披露します。「スンサーミー」は500年以上も昔に「察度王」の子孫でもある「我如古大主」が「我如古グスク」を築城した際、その祝宴で披露されたのが始まりであると伝わっています。かつては豊年や子孫繁栄を願い旧暦8月17日に踊られていましたが、いつの頃から「サングヮチャー」と呼ばれる旧暦3月3日に踊られるようになりました。「我如古大主」の祠の前方に「グスクガー」と云う井戸があり「スンサーミー」の踊りの前にウガミ(拝み)が行われます。(我如古グスクのグスクガー)(我如古グスクのグスクガー)(グスクガーのウコール)(グスクガーの内部)(我如古グスクのパパイヤの木)(我如古グスクのパパイヤの実)(我如古グスクから見た沖縄本島西海岸)(我如古グスク)「我如古グスク」の北側にある畑に「チブガー」と呼ばれる井戸があり、現在は農業用水として利用されていますが、かつては「ガニクメー」と呼ばれる地域の人々の飲料水の他に水浴びなどにも使われていました。現在も水が湧き出ており水タンクも現存しています。沖縄戦後に捕虜となった宜野湾村民は、各地の収容所を経て米軍が割り当てた土地に住むようになりました。その土地の一つが「ガニクメー」で我如古・志真志・佐真下・真栄原・大謝名の地域住民が割り当てられました。現在「チブガー」の畑では様々な農作物が栽培されており、井戸水で育った芭蕉の木々には沢山の島バナナが実を付けています。(チブガー)(チブガー)(チブガーの井戸水)(チブガーの井戸水)(チブガー)(芭蕉/バナナの木)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)(芭蕉/バナナの実)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.20
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(漢那のミーキ墓/村墓)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があります。この集落の南東側の「明記原/ミーキバル」に「漢那の村墓」が立地している事から、この墓は別称「ミーキ墓」と呼ばれています。県道234号(漢那松田線)沿いにある森に構える墓は石灰岩洞穴の横穴を利用した墓で、内部については入口が石積みで密封されている為、現在でも詳細は不明となっています。「漢那のミーキ墓」を拝んでいる関係者によると、墓の入口は死体を棺に入れたまま風化させる「シルヒラシ」と言う場所となっており、その奥に厨子甕などの納骨器が安置され、さらにその奥の洞穴には風化で個性を失った遺骸を投げ込んだと云われています。(漢那のミーキ墓/村墓の森)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓の階段)(漢那のミーキ墓/村墓の門石)(漢那のミーキ墓/村墓のウコール)(漢那のミーキ墓/村墓のヒジャイガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のヒジャイガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のニジリガミ)(漢那のミーキ墓/村墓のニジリガミ)(漢那のミーキ墓/村墓)(漢那のミーキ墓/村墓のアジシー)(漢那のミーキ墓/村墓のアジシー)(漢那のミーキ墓/村墓のガジュマルの根)(漢那のミーキ墓/村墓のガジュマル)「漢那のミーキ墓」の本墓を利用していたのは「漢那集落」で墓を所有していない門中でしたが、寄留民が利用した場合もあったと伝わっています。本墓の前方には「アジシー」と云う石灰岩製で家型の納骨器(石棺)が安置されており「漢那集落」でも特別な人物が納骨されたと言われています。「漢那のミーキ墓」は集落の墓の変遷や風葬などの習俗を知る上で非常に重要な文化財となっています。「漢那のミーキ墓」の南側には「惣慶のミーキ浜/明記浜」と呼ばれる天然浜があり、ウミガメが上陸し産卵する美しい浜として知られています。(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜)(惣慶のミーキ浜/明記浜のグンバイヒルガオ)(惣慶のミーキ浜/明記浜のグンバイヒルガオ)(惣慶のミーキ浜/明記浜)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.16
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(シルフチ森の厨子甕と石棺)沖縄本島北部に「宜野座村/ぎのざそん」があり、この村の南側に「惣慶/そけい集落」があります。集落と惣慶の浜の間にある石灰岩独立丘は「惣慶集落」の古い墓所で「シルフチ森/シルフチムイ」と呼ばれています。「シルフチ森」の頂上部は天井が落盤した「陥没ドリーネ」になっており、その岩陰には16箇所の風葬墓が設けられていました。沖縄戦後、集落の各門中が新しく墓を造り「シルフチ森」に安置されていた遺骨は移されましたが、現在でもガマ(鍾乳洞)の内部には厨子甕や石棺に納められた遺骨が残されています。洞穴内には岩陰に石を積んで入り口を設けた「ムラバカ/村墓」も現存し地域の人々により拝されています。(シルフチ森の北側入り口)(シルフチ森のガマ)(シルフチ森のガマ)(シルフチ森のガマ入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(ガマ内部に降りる階段)(ガマの鍾乳石)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(ガマ内部からの風景)(ガマ内部の厨子甕)(ガマの拝所)(ガマ内部の厨子甕と石棺)(厨子甕に納められた遺骨)(シルフチ森のガマ)(ムラバカ/村墓)(シルフチ森のガマに通じる階段)「シルフチ森」のガマ内部にはグスク土器、徳之島産カムィヤキ陶器、褐釉(かつゆ)陶器、沖縄産陶器が発掘されている為、かなり古い時代から「シルフチ森」は利用されていたと考えられています。なお、頂上の洞穴は天井に穴が開き竪穴が二手に分かれている形状から「チヂフギ/頂上穴開き」が「シルフチ」に変化したと云われています。「シルフチ森」は「惣慶集落」の墓の変遷や風葬などの習俗を考える上でも大切な文化財となっています。さらに「シルフチ森」の西側にも入り口の階段があり、他のガマを利用した風葬墓を確認する事が出来ます。(シルフチ森の西側入り口)(シルフチ森)(ガマの拝所)(ガマの内部)(シルフチ森の植物)(シルフチ森のガマ)(ガマ内部の石棺)(シルフチ森遺跡/シルフチムイ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.13
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(天願太郎治の馬クンジー石)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の北東側に「天願太郎治の馬クンジー石」と呼ばれる岩があります。弓の名手として知られる「天願太郎治/ティングヮンたろうじ」は「天願グスク」の城主であった「後天願按司」の子息として誕生し、幼少期には「尚巴志/しょうはし」に仕えた武将の「護佐丸/ごさまる」により養育されました。「天願太郎治のクンジー石」は保存状態が良く、琉球石灰岩の岩には馬を繋いだとされる穴が現在も残されています。「天願集落」の東側にある米軍海兵隊基地「キャンプコートニー」の敷地内に「リーカムイ」と呼ばれる「霊化森グスク」があります。「天願太郎治」はこのグスクに居住したと言われており、森の中腹にはガマ(洞窟)があります。ガマの内部には左側にヒヌカン(火の神)、右側にはビジュル(霊石)が鎮座し、戦前まで旧暦9月には「ビジュル拝み」が行われていたと伝わっています。(天願太郎治の馬クンジー石の標識)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石のウコール)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石に空いた穴)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願集落のフクギ)(霊化森グスク/リーカムイ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.09
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(泉川泉/東り泉)沖縄本島中部「うるま市/旧具志川市」の金武湾に面した位置に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の東側に「泉川泉/イジュンジャーイジュン」と「東り泉/アガリイジュン」の2つの井泉が合祀された拝泉があります。向かって左側の「泉川泉」の泉名は姓「久保玉栄氏/屋号泉川」の屋敷の前に泉があった事に由来します。また「泉川泉」は「生ぶ川/ウブガー」とも呼ばれています。「泉川泉」に向かって右側には「東り泉」が合祀されており、別名「天願東泉/ティンガンアガリガー」や「村泉/ムラガー」とも呼ばれています。「東り泉」は「泉川泉」が枯渇後に天願川沿いに新設され大正末期まで村人に使用されていましたが、昭和58年の天願川河川改修工事の為に現在地に移設されました。(泉川泉/東り泉の標識)(泉川泉/生ぶ川の祠内部)(泉川泉のウコール)(東り泉/天願東泉/村泉の祠内部)(東り泉のウコール)「泉川泉/東り泉」の合祀拝泉の敷地内に「泉川泉/イズンザーイズン」と彫られた石碑が建立されています。この石碑は「天願老人クラブ清流会」により創立20周年記念事業として建てられ、向かって右側には『「汝よ此所は水が湧く」と示された先人たちは大きな授かりものとして凡そ四七〇年前に泉川泉を創設し地域の飲料水として広く利用されまた生ぶ川として高度の利用価値を示された泉として邑人達に尊厳され今尚其の遺風と伝来は区内外からも崇拝される等地域の方々が認めているところである。昭和六一年十月十四日建立』と記された石碑があります。また、この石碑には次のような詠が読まれています。『泉川の水や 滝山からか湧つら 生ふ水や邑に 繁栄むたち』(泉川泉の石碑)(泉川泉の石碑)(泉川泉の祠)(東り泉の祠)(泉川泉/東り泉の合祀拝泉)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.02
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(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)沖縄本島中部にある「うるま市/旧具志川市」のほぼ中央に位置する「天願/てんがん集落」があります。天願交差点の南側に「旧天願橋」が残されており、通称「ターチー橋」や「めがね橋」と呼ばれていました。1934年に建設されたコンクリート造りのモダンな二重橋で、建築当時はその美しさから周囲の情景が南沖縄八景にも選定され、サトウキビや生活物資を運搬する生活に欠かせない橋として重宝されていました。1945年3月下旬にアメリカ軍の沖縄本島への上陸が迫ると日本軍はアメリカ軍の本島北部への侵攻を遅らせる目的で橋を爆破しましたが、橋は真ん中から割れくの字型に折れ曲がり完全な破壊に至りませんでした。到着したアメリカ軍は折れた橋の上にブルドーザーで土を盛り込み、難なく橋を渡り本島北部へ侵攻を進めました。(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋の標識)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)(爆破で割れた橋の中央部)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)「旧天願橋」の北側にある天眼交差点の東側に隣接した場所に小高い丘陵の森があり、この森の中に「天願ノロ」を祀った「祝女殿内/ヌンドゥンチ」の祠が建立されています。因みに「天願ノロ」は集落草分け旧家のニーヤー(ムートゥヤー)である「平良家/屋号ニガミ」から出ていました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『コシ森 神名 ワラヒ御イベ 天願村 天願巫火神 同村 右二箇所、天願巫タカベ所』と記されています。また同じく「天願ノロ」が祭祀を行う拝所として『コシモリ嶽ノ殿 天願村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水二合宛 地頭、穂・シロマシ・神酒二宛・筵一枚宛 百姓中、供之。天願巫ニテ祭祀也。且、祭之前晩、又、祭日、祭終テ、巫・居神・根神・掟ノアム・根人へ於里主所ニ、地頭、昼食有賄也。』との記述があります。(祝女殿内/ヌンドゥンチ)(祝女殿内/ヌンドゥンチの標識)(祝女殿内/ヌンドゥンチの祠内部)(祝女殿内/ヌンドゥンチの祠)(御先巫のウコール)(祝女殿内/ヌンドゥンチのウコール)「祝女殿内/ヌンドゥンチ」の東側で県道224号(具志川環状線)沿いに広がる米軍海兵隊基地「キャンプコートニー」の敷地内に「天願グスク」と「天願貝塚」があります。「天願グスク」は標高35メートルの琉球石灰岩丘上に位置する事から「土城/チチグシク」とも呼ばれています。「安慶名グスク」を拠点として中部一帯で一大勢力を誇った「安慶名大川按司一世」の子息により「具志川グスク」や「喜屋武グスク」などと共に築城と改築されたグスクで、城主は「後天願按司」を名乗りました。また「天願貝塚」は沖縄貝塚時代前期(紀元前2000-800年)の貝塚で1904年に人類学者の「鳥居龍蔵」により発見されました。現在も米軍基地内にあるという経緯から「天願グスク」も「天願貝塚」も詳しい発掘調査は行われていません。(天願グスク/天願貝塚)(土城/チチグシク・天願グスクの標識)(天願貝塚の標識)(天願川に架かる現在の天願橋)(現在の天願橋)(現在の天願橋からの見た天願川の風景)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.28
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(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)沖縄本島中部「うるま市」の勝連半島から東に約3キロの場所に「浜比嘉島/はまひがじま」が位置しています。島西部の「浜/はま」と東部の「比嘉/ひが」の2つの大字で構成されており「浜集落」に赤瓦屋根の「ヌン殿内/ヌンドゥンチ」が建てられています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『浜巫火神 浜村 麦・稲四祭三日崇之時、花米五合宛・五水二合宛 百姓中、供之。浜巫ニテ祭祀也。』と記されています。また「琉球国由来記」には「浜ノロ」が祭祀を行う拝所として『殿 浜里主所 浜村 麦・稲四祭之時、五水二合宛・神酒一宛 浜之大屋子、五水二合宛・神酒二宛 百姓中。芋、供之。浜巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「ヌン殿内」の周囲には現在も相方詰み(亀甲乱積み)の石垣や、フクギ並木で囲まれた古民家が建ち並ぶ古集落の風景が残されています。(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内の標識)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの浜巫火神/ノロヒヌカン)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの位牌)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの位牌)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの小窓)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの赤瓦屋根)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(浜集落の風景)(浜集落の石垣とフクギ並木)(浜集落の石垣)(浜集落の古民家にある甕)(浜集落の風景)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.22
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(フェーレー岩)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の「真栄田/まえだ集落」にはかつて「国頭方西海道」と呼ばれる宿道があり主要道路として利用されていました。「フェーレー岩」は「国頭方西海道」で最も難所であった「多幸山山道」にあり、度々金品を強奪するフェーレー(追い剥ぎ)が出没したと言われています。特にこの周辺は立木が繁茂して真昼でも薄暗い場所であった事からフェーレーが頻繁に出て岩の上から婦人が頭に載せた包みを釣り上げたりして金品を奪ったと伝わっています。(フェーレー岩)(フェーレー岩)(フェーレー岩)(フェーレー岩)この地では「フェーレー岩」に関する次の歌が詠まれています。『多幸山やフェーレーでんどう 喜名番所にとまらなやー 女子たるもの泊ゆみ急ぢすじ行き 島かから』(多幸山はフェーレーがでるそうだ 喜名の番所に泊まろうか いやいや女子の身で知らない所に泊まれるものでない いまならまだ大丈夫 急いで自分の村までいったほうがよかろう)(フェーレー岩)(フェーレー岩)(国頭方西海道の標識)(フェーレー岩/多幸山山道/国頭方西海道)この「フェーレー岩」は2023年2月3日に琉球朝日放送(QAB)で放送された『ティンクティンク アッチャーアッチャー Season 2 【恩納村編】』で紹介されています。この放送は「りんけんバンド・ティンクティンク公式YouTubeチャンネル」で視聴できます。興味がある方は下記のリンクへどうぞ!https://youtu.be/A2myEYwNmL8?si=01CyqlLxiCHwDz5PYouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.04
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(根立森の御嶽/真魂之塔)沖縄本島北部西海岸の「恩納村/おんなそん」に「真栄田/まえだ集落」があります。「真栄田公民館」がある小高い丘陵は「根立森」と呼ばれ、集落の御嶽として祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根立森 神名 カナモリイベヅカサ 真栄田村 稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。年浴、且、柴指ノ時、仙香・花米五合宛・神酒二宛、同村 百姓中 供之。真栄田巫ニテ祭祀也。』と記されています。この御嶽の祠に隣接して大東亜戦争戦死者の慰霊碑「真魂之塔」が建立されています。(御嶽の祠)(御嶽の祠内部)(御嶽の石碑)(真魂之塔の慰霊碑)(大東亜戦争戦死者の石碑)「根立森」の御嶽の北側には2016年10月9日に復元された「御願所」の祠が建立されています。この地には戦前まで祠があり集落の年中行事、旅立ち、徴兵されて戦地へ赴く際に住民が拝んでいました。当地の屋号は「ユナニ」と呼ばれ「真栄田集落」の草分け旧家として「真栄田ノロ」を輩出したと言われています。「ユナニ」の祠は沖縄戦や天災などで倒壊し、戦後の荒廃した状況の中、祀られていたウカミ(御神)は「ユナニ」の末裔により一時的にヤンバル(山原)に移動されていました。その後1958年頃にウカミは当地に戻り、仮の祠が建てられていました。現在は新しい「御願所」が建立され、内部には「ユナニ」家のヒヌカン(火の神)と「ユナニ」家から出自した「真栄田ノロ」が祀られています。(御願所)(御願所の祠内部)(御願所のウコール)「琉球国由来記」には『真栄田巫火神 真栄田村 山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香・花米五合。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中。柴指・ミヤ種子ノ時、仙香・花米五合・神酒二器 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中、供之。真栄田巫祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 同村 稲穂祭之時、シロマシ二器・花米九合・麦神酒二 百姓中、五水二合 地頭、供之。真栄田巫祭祀也。且、同大祭之時、五水二合・花米九合 地頭、神酒三 百姓中。柴指之時、神酒二 百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(真栄田の一里塚)(真栄田の一里塚の案内板)(真栄田の一里塚)(歴史の道/国頭方西海道)(真栄田の一里塚の標識)歴史の道である「国頭方西海道/くにがみほうせいかいどう」は琉球王府時代(1429-1879年)に造られた道で、当時の主要道路として宿道(旧道)と呼ばれていました。首里を起点にし、浦添、読谷村喜名、恩納村を通り名護以北に向かう道を「国頭方西海道」と呼びます。「一里塚」は琉球王府時代から明治時代にかけて使用された宿道に設置され、旅人の道程の目安にされていました。恩納間切(現在の恩納村)には五箇所に設置され「真栄田の一里塚」は「喜名番所」から一里の場所に造られています。「真栄田の一里塚」は土と炭を混ぜ合わせた土塚で、その上部には琉球松が植栽されています。(国頭方西海道/PVに使用された十字路)「真栄田の一里塚」と「フェーレー岩」を結ぶ「国頭方西海道」の途中に農道の十字路があります。この十字路は2024年4月19日に「アジマァ」より発売されたシングル「ありがとう」のPVに使用されました。1993年、日本レコード大賞「特別賞」を受賞した「りんけんバンド」の楽曲「ありがとう」を照屋林賢がアレンジしました。30年の時を経て爽やかで瑞々しい編曲となり、照屋林賢プロデュースの沖縄音楽ユニット「ティンクティンク」によりカバーされて受け継がれました。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.31
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(西森公園の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「越来/ごえく集落」があり、越来中学校の北西側に「ニシムイ/西森」と呼ばれる小高い丘陵の山が位置しています。この山は「西森公園」として整備されており、建立された祠内部には「ウガン南之御嶽/ウガン西之御嶽/ウガン之大御嶽/西森之御嶽」と刻まれた四体の石碑と四基のウコール(香炉)が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『南風之嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 越来村 西之嶽 神名 マネヅカノ御イベ 同村 大嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 同村 西森 神名 マネヅカノ御イベ 同村 右四ケ所、越来巫崇所。』と記されています。「南風之御嶽」と「西之御嶽」は現在の越来中学校の敷地内にありましたが、中学校建設に伴い「ニシムイ」の山に拝所が移設されました。この祠に向かって右側に隣接して「ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー」の拝井戸が合祀されており、更にその右側には「ビジュル」の祠があり内部には霊石とウコールが祀られています。また「ニシムイ」の南側丘陵中腹には琉球王朝に仕えた五大姓(五大名門門中)の一つである「馬氏」の「仲真門中」の古墓が現在も残されています。(西森公園の入り口)(ニシムイ/西森公園)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森の祠)(ウガン南之御嶽の石碑)(ウガン西之御嶽の石碑)(ウガン之大御嶽の石碑)(西森之御嶽の石碑)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森のウコール)(ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー)(西森公園の拝所のビジュル)(ビジュルの祠内部)(西森公園の拝所)(ニシムイ/西森公園)(馬氏仲真門中之墓)(馬氏仲真門中之墓の石碑)(馬氏仲真門中之墓)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.28
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(トゥヌ/高原之殿)沖縄県沖縄市の「高原集落」の公民館の敷地に「トゥヌ/高原之殿」の祠があり、祠内部には霊石が祀られています。この拝所では旧盆行事に五穀豊穣を祈願する「ハタスガシー/旗スガシー」や旧暦9月9日の「チクザキ/菊酒」で健康祈願が行われます。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『高原之殿 高原村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛 高原地頭、神酒五宛 二米、三芋・筵一枚 同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』と記されています。高原公民館の南東側には「エークラガー」と称する井戸があり、さらに公民館の東側には「シードゥーモー」と呼ばれる広場があります。この敷地内に祠が建立されており、集落では「チンジュノカミ/鎮守之神」と言われいます。かつて「シードゥーモー」という名前の人物が村人に学問を教えていた為「シードゥーモー」を称えて祠が造られたと伝わっています。(トゥヌ/高原之殿の祠内部)(トゥヌ/高原之殿の祠)(エークラガー)(エークラガーの湧水)(エークラガーの平場)(エークラガー)(エークラガーの水路)(エークラガー)(シードゥーモー)(シードゥーモーの祠)(チンジュノカミ/鎮守之神の祠)(チンジュノカミ/鎮守之神の祠内部)(シードゥーモーの力石)(シードゥーモー)(敢石當と刻まれた高原集落のイシガントウ/石敢當)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.21
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(イーヌカー/上の井戸)沖縄県沖縄市に「高原/たかはら集落」があります。高原公民館の北西側に位置する「イーヌカー/上の井戸」は集落で一番の水量が湧き出る井戸として昔から村人に重宝されてきました。飲料水の他にも畑で収穫した野菜や芋を洗う為や洗濯用水としても使用されていたと考えられます。沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家として知られる「東恩納寛惇/ひがしおんなかんじゅん」が「高原集落」を訪れた際に植えられた記念樹がかつて「イーヌカー」にあったと伝わっています。さらにこの井戸は村人の情報交換の場や出会いの場としての役割もあったと伝わっています。「イーヌカー」の南側には「ウブガー/産井」と呼ばれる井戸があります。この井戸は正月の「ワカミジ/若水」が汲まれた井戸であり、村で子供が生まれた際の「ウブミジ/産水」や子供の成長を祈願する「ミジナディ/水撫で」の水として利用されていました。また「アミチュージ」と呼ばれる死者の身体を拭いて清める為の水としても利用されていました。(イーヌカー/上の井戸)(イーヌカー/上の井戸への階段)(イーヌカー/上の井戸)(イーヌカー/上の井戸の正面)(イーヌカー/上の井戸のウコール/向かって右側)(イーヌカー/上の井戸/向かって右側)(イーヌカー/上の井戸のウコール/向かって左側)(イーヌカー/上の井戸/向かって左側)(イーヌカー/上の井戸)(畑に流れ込むイーヌカー/上の井戸の水)(ウブガーの祠)(ウブガー)(ウブガーのウコール)(ウブガーの井戸)(ウブガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.14
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(マンジュウガンジュ/満喜世御願所)沖縄県沖縄市の「高原集落」を南北に通る国道331号の東側に「満喜世山」と呼ばれる小高い丘陵があり、頂上に「マンジュウガンジュ」の祠が建立されています。この拝所の祠内部には「高原海洋神」と刻まれた石碑が祀られています。かつての「高原」は「嵩原/たきばる村」と「満喜世/まんじゅ・まんじゆ村」に分かれており「御当国御高並諸上納里積記」によると田畑とも中の村位と記されています。「満喜世村」の脇地頭は康熙8年(1669)から康熙14年(1675)まで「満喜世親雲上幸清」が務めており、他にも地方役人に与えられた「オエカ地」が置かれていました。「マンジュウガンジュ」の東側には「満喜世之殿」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『満喜世之殿 満喜世村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛・筵一枚 満喜世大屋子、神酒二 一米、一芋。同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(満喜世山/マンジュウガンジュ)(マンジュウガンジュの入り口)(満喜世山の森)(マンジュウガンジュの祠)(マンジュウガンジュの祠内部)(高原海洋神の石碑)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(満喜世山の森)(満喜世山/マンジュウガンジュ)(満喜世之殿)(満喜世之殿の拝所)(満喜世之殿)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.06
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(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)沖縄県沖縄市の「仲宗根町」があり沖縄市役所の南東側の丘陵に「仲宗根ウガン」の祠が建立されています。こね周辺一帯は「ウチグスク/内城」と称され「仲宗根グスク」とも呼ばれています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『内城アマミヤ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 仲宗根村 / 外間之殿 神名 マネヅカサノ御イベ 同村 仲宗根巫崇所』と記されています。「仲宗根ウガン」の広場は「ウンサクモー」と言われており集落の「5月ウマチー」などで拝され、祠内には「仲宗根火神/地頭火之神」も合祀されています。更に、この丘陵一帯には約3,500年前から600年前に渡り存続した「仲宗根貝塚」があります。この遺跡からは抜歯された人の顎骨や動物の骨、祭祀に関係すると思われるガラス玉、中国製陶磁器や土器、青磁、白磁、鉄製の鎌、須恵器などが出土しています。(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽/仲宗根貝塚)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の灯籠)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(内城アマミヤ嶽の石碑)(外間之殿の石碑)(仲宗根火神の石碑)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の祠から見た鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の丘陵)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(ウンサクモーの拝所)(ウンサクモーの拝所の祠)(ウンサクモーの拝所の祠内部)(ウンサクモー/仲宗根貝塚)(ウチグスク/内城/仲宗根グスク)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.02
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(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)沖縄県沖縄市の中央部に「照屋/てるや集落」があり、国道331号沿いの丘陵に「アガリヌタキ/アガリヌウタキ」の祠が建立されています。1950年代の区画整理に伴い「御嶽の神・ヌールの神・火の神」が現在の場所に合祀されました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『照屋之殿 照屋村 麦大祭・稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛 上地地頭 供之。越来巫ニテ祭祀也。』は「アガリヌタキ」に相当すると考えられます。御嶽の南側に「メーヌカー/メーヌカーグヮー」があり、かつて周辺は田んぼであった為、農業用水や野菜等を洗う井戸であったと言われています。御嶽の北側には「クシヌカー」があり、民家の脇に井戸跡が現在も残されています。さらに県道を挟んだ御嶽の東側には「アガリヌカー/ウブガー」があり、昔は集落で子供が生まれた時に用いる産水を汲んでいました。また正月の元旦に汲む若水としても利用され、水量が豊富で水枯れしなかったと伝わっています。(アガリヌタキ/アガリヌウタキの鳥居)(アガリヌタキ/アガリヌウタキの祠入り口)(御嶽の神の石碑)(ヌールの神の石碑)(火の神の石碑)(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(クシヌカー)(クシヌカー)(クシヌカー)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガーのウコール)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.25
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(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿)沖縄本島中部の「うるま市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の西側に「クバウ御嶽」があり1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『コバウノ嶽 神名 マネヅカノ御イベ 宇堅村』と記され、更に『クバウ嶽ノ殿 宇堅村 麦・稲四祭之時、穂・シロマシ・花米九合宛・五水二合宛・神酒一宛 宇堅大屋子。同大祭之時、肴一器 魚。百姓中 供之。田場巫ニテ祭祀也。祭終テ、巫・夫廻神・根神・掟ノアム・根人へ同大屋子、昼食有賄也』との記述があります。「クバウ御嶽」の北東側に「シリガー」があり、現在は芭蕉/バナナ栽培等の農業用水として利用されています。また御嶽の西側で天願川沿いの土手にある「ウキンガー」からは現在も水が湧き出ています。御嶽の南東側には「アシビナー」があり、隣接する川辺にはかつて「宇堅村」を管轄していた「田場ノロ」が祭祀の際に舟に乗って集落を訪れた「ヌールワタイ」の跡が残されています。(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の鳥居)(クバウ御嶽の鳥居傍にある石碑)(宇堅村クバウ嶽之殿と記された石碑)(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の手水鉢)(シリガー)(シリガーの湧水)(シリガーのウコール)(シリガー傍の芭蕉畑)(ウキンガー/向かって右側)(ウキンガー/向かって右側のウコール)(ウキンガー/向かって左側)(ウキンガー/向かって左側のウコール)(ウキンガー/向かって左側の湧水)(アシビナー)(ヌールワタイ)(天願川)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.20
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(ヒャーカーガー)沖縄本島中部の「宜野湾市」に「大山集落」があり「大山ターブックヮ」と呼ばれる広大な水田地帯に流れ込む「大山湧泉群」があります。「大山集落」の中央部に「ヒャーカーガー」の湧水があり、更にその東側に「ナイシガー」の井泉があります。現在、これらの井戸の水は農業用水として利用されており、宜野湾市の特産品である田芋栽培に役立てられています。「大山集落」の最も東側で「宜野湾パイプライン」と「国道58号」の間に「フルチンガー」があります。「オーグムヤー/青小堀」と称されるこの場所には大きな洞穴があり、開口部から湧水が流れ出ています。「フルチンガー」の湧水は周囲の土地を侵食して、側面が急な「オーグムヤーガーラ/青小堀川」となっています。現在はコンクリートで覆われており石碑とウコール(香炉)が祀られた祠が建立されています。(ヒャーカーガー)(ヒャーカーガーの石碑)(ヒャーカーガーの湧水)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(ナイシガーの湧口)(ナイシガー)(ターブックヮに流れ込む湧水)(ナイシガー)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀の祠内部)(オーグムヤー/青小堀の石碑)(オーグムヤー/青小堀のウコール)(フルチンガー/オーグムヤー/青小堀)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.18
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(アラナキガー)沖縄県宜野湾市の「大山集落」には広大な「ターブックヮ」と呼ばれる水田地帯があり、かつては稲作が盛んでしたが、現在は宜野湾市の特産品として知られる「ターンム/田芋」栽培が行われています。この「ターブックヮ」の周辺には水田を潤す湧水が豊富に存在しています。「大山幼稚園/大山小学校」の北西側に「アラナキガー」があります。現在は農業用水として水田に流れ混んでいますが、かつては那覇市の上水遊の水源の一つでした。「アラナキガー」の北東側に「ヤマチヂャガー」があります。この井泉も「大山湧泉群」の一つで現在は農業用水として利用されています。「ヤマチヂャガー」の北側の水田地帯には「ウーシヌハナガー」と呼ばれる井泉があります。この井泉から湧き出る豊富な水も「ターブックヮ」の「ターンムダー/田芋田」に流れており、田芋栽培の重要な水源として重宝されています。(アラナキガー)(アラナキガー)(アラナキガー)(水田地帯に流れ込むアラナキガーの湧水)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ヤマチヂャガー)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガーの湧口)(ウーシヌハナガー)(ウーシヌハナガー)(水田地帯に流れ込むウーシヌハナガーの湧水)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.13
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(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)沖縄本島中部「宜野湾市」の西海岸沿いに「大山集落」があり、湧泉群の豊富な水源が多い事で知られています。方言で「ウヤマ」と読むこの集落の南西側に「ヒーガーガー/メンダカリガー」と呼ばれる井泉があり、集落の「ウブガー/産井」として子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」として利用されていました。石造りの樋から流れる水は隣接する「大山ターブックヮー」の田園地帯に流れ込んでいます。「ヒーガーガー」の北東側に「ミジカシガー」という井泉があり「シンダカリヒーガー」の名称でも知られています。かつては現在よりも高い位置から水が湧き出ており、水汲みの女性が頭上に桶を載せたまま水を入れる事が出来たと伝わっています。さらに「ミジカシガー」の東側には「マジキナガー」と呼ばれる井泉があり、現在は主に農業用水として活用されています。(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石碑)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの石樋)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガーの溜池)(ヒーガーガー/メンダカリヒーガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガーの湧口)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(ミジカシガー/シンダカリガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)(マジキナガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.09
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(モーガー/テニンガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があり、この集落の南西側に「モーガー/テニンガー」の井泉が湧き出ています。昔から藻が多い井戸であったため「モーガー」と呼ばれるようになったと言われています。旧暦5月に稲や麦の五穀豊穣を祈願する「ウマチー」の際にウンサク(神酒/ミキ)を作り、屋号「コーチハンジャ/幸地波平」の椀に注ぎ祭祀が行われました。行事の後に使用した椀を「モーガー」で洗った事から「ウマチーガー」とも呼ばれていました。「モーガー」の東側に隣接した場所に「座喜味公園」があり、かつてこの地は「ターンムダー/田芋田」として田芋が栽培されていた「ダーブックヮ/田んぼ」でした。現在、公園の西側には「座喜味ミーフダー」と刻まれた石碑が建立されています。また、かつて「座喜味公園」の北側には「キジャマガー橋」と「西キジャマガー橋」が掛かっていて、更に「モーガー」の北側には現在も「カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ」の巨樹が育っています。(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーの石碑)(モーガー/テニンガー)(モーガー/テニンガーのウコール)(モーガー/テニンガーの湧水)(モーガー/テニンガー)(ターンムダー/田芋田跡)(座喜味ミーフーダーの石碑)(座喜味公園)(ターンムダー/田芋田跡)(ターンムダー/田芋田跡)(キジャマガー橋跡)(西キジャマガー橋跡)(カービラハンジャ/川平波平のウフアカギ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.06
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(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」に「座喜味/ざきみ集落」があります。「座喜味グスク」の南側に「ウェンダカリガー」があり「イリンダカリガー」とも呼ばれ旧正月の「ワカミジ/若水」を汲む井泉でした。旧暦9月の「ミジナディ/水撫で」にも利用され、額に水を付けて無病息災を祈願しました。村人が病気になった時や小児がイリガサー(はしか)にかかった時に重宝されました。「ウェンダカリガー」の南西側の森に「ティランカー」の井泉があり、かつて井戸の水はお茶用や豆腐作りに使用され地域の重要な水源として大切にされていました。。さらに「ティランカー」の西側には「ミーガー」があり、1904年(明治37)の干ばつの時に隣に住む「當山松田」の老婆により発見されました。その後、村の共同井泉として整備された井戸は「座喜味集落」の中でも比較的新しい井戸なので「ミーガー/新井」と呼ばれるようになりました。(ウェンダカリガー/イリンダカリガー)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーの井泉)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのウコール)(ウェンダカリガー/イリンダカリガーのガジュマル)(ティランカー)(ティランカーの石碑)(ティランカーの井泉)(ティランカーのウコール)(ティランカーの井泉)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の石碑)(ミーガー/新井)(ミーガー/新井の井泉)(ミーガー/新井)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.02
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(字伊禮拝所)沖縄本島中部の「北谷町/ちゃたんちょう」にある「伊平集落」は戦前まで「伊禮/イリー集落」と「平安山/ハンザン集落」に分かれていました。「字伊禮拝所」にかつて「ハンザンヌル/平安山ノロ」が来て拝んでいた「トゥン/殿」が祀られており、キジムナーの妖精がいたと伝わる樹齢100〜200年のガジュマルの巨木があります。この拝所には鎮守の森と言われた「クランモー/蔵森」から移設された「クランモーヌカー/蔵森の井戸」と「クランモーフェーヌカー/蔵森南井戸」のウコール(香炉)が祀られ「アラカチヌカー」とも呼ばれる「クシヌカー/後の井戸」と「ウブガー/産井」であった「イーマガニクヌカー/上間兼久」のウコールも合祀されています。さらに「土帝君・祖霊神・火の神」のウコールを祀った祠も建立されています。「字伊禮拝所」の西側にある森の中に湧水井戸の「ウーチヌカー」があります。この井戸は旧暦5月15日の「グングヮチウマチー」の時に「ハンザンヌル」が祭祀を行う井戸で、雨乞いの際にも拝まれ豚を潰して供えていました。(字伊禮拝所の石碑)(トゥン/殿の拝所)(トゥン/殿の石碑)(トゥン/殿のウコール)(字伊禮拝所のガジュマル)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の拝所)(上間兼久・後の井戸・蔵森南井戸・蔵森の井戸の香炉)(祠の賽銭箱と香炉)(土帝君・祖霊神・火の神の拝所)(土帝君・祖霊神・火の神の香炉)(ウーチヌカー)(ウーチヌカーの森)(ウーチヌカーの湧水)(ウーチヌカーのガジュマル)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.25
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(歌三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑)沖縄本島中部「読谷村/よみたんそん」に「楚辺/そべ集落」があります。この集落の西海岸に集落発祥の地と言われる「ユーバンタ」があり「ユータティバンタ/世立ちの崖」とも呼ばれています。戦前までこの崖の南東側は風葬地帯で現在は唄三線の始祖として知られる「アカヌクー/赤犬子」の墓碑が建立されています。「ユーバンタ」は魚群を発見する「イユミーバンタ」や旅立つ者を見送る「フナウクイ/船送り」の地であり、戦前は村の若者達が集い遊ぶ「アシビナー/遊び庭」でした。さらに「ユーバンタの浜」の南側には悲惨な沖縄戦の実相を伝え、平和の尊さを発信する象徴として「艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑」が建てられています。この作品は1971年頃に「楚辺」出身の比嘉恒敏(ひがこうびん)氏が作詞作曲した沖縄民謡で、比嘉氏の4人娘の民謡グループ「でいご娘」がレコーディングし沖縄県内で大ヒットしました。(ユーバンタ/ユータティバンタ)(ユーバンタ/ユータティバンタからの風景)(赤犬子大主之墓碑)(ユーバンタの浜)(ユーバンタの浜の景色)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)(ユーバンタの浜)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑からの風景)(艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.21
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(シタドゥミガー/シタズミガー)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。惣慶公民館の北側に「シタドゥミガー/シタズミガー」があり1945年頃まで集落の飲み水として利用されていました。旧暦9月9日の「カーウ拝み」には門中や各家庭で餅・酒・花米・ヒジュルウコー(火を付けない線香)を供えて水への感謝を込めて拝しています。また公民館の南西側には「ワタンジガー/渡地河」があり現在も水が湧き出ています。さらに公民館の南東側にある「カータ原遺跡群」には「カータガー/川田河」があります。沖縄貝塚時代中期(縄文時代晩期)の石斧やグスク時代の土器が発掘されている事から、かつての「惣慶」にはカータガー周辺に古い集落があったと考えられています。「惣慶」の地頭であった「惣慶忠義/1686-1749年」が次の歌を詠んだと伝わっています。『川田河の松の枝もちの美らさ 惣慶若者の並の美らさ 近く見りば伊計離、浜、平安座 遠く見りば 勝連与那城 波風静か うえばるじょうから 波うち立ててくる景色や どっと よへんでえびる』(シタドゥミガー/シタズミガー)(シタドゥミガー/シタズミガーのウコール)(シタドゥミガー/シタズミガーのヒジュルウコー)(シタドゥミガー/シタズミガー)(ワタンジガー/渡地河)(ワタンジガー/渡地河)(ワタンジガー/渡地河の湧水)(ワタンジガー/渡地河のウコール)(ワタンジガー/渡地河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河)(カータガー/川田河のウコール)(カータガー/川田河)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.16
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(惣慶のお宮/惣慶宮)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。「惣慶公民館/惣慶区事務所」の西側に隣接する一帯には御嶽の森が広がり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『マチョウガマノ嶽 神名 アラハタヨリフサノ御イベ 惣慶村 麦大祭之時、仙香•花米九合・麦神酒二器、同村百姓中供之。漢那巫ニテ祭祀也。漢那巫崇拝所。』と記されています。かつては普段の立ち入りや木々の伐採が禁じられた男子禁制の御嶽で「漢那ノロ」を招き祭祀が行われていました。1942年、那覇市の「波の上宮」より「イザナミノミコト/伊弉冊尊・ハヤタマオノミコト/早玉男命・コトサカオノミコト/事解男命」の三神が分霊されました。「お宮」の東側に「ウブガー/産井」があり、集落で子供が産まれた時に使用する「ウビナディ/水撫で」として利用されました。さらに正月の「ワカミジ/若水」としても重宝されていました。(惣慶ウガン所/惣慶児童公園/南西側入り口の鳥居)(御嶽内のオキナワウラジオガシ)(惣慶のお宮/惣慶宮の鳥居)(惣慶のお宮/惣慶宮の鳥居扁額)(惣慶のお宮/惣慶宮の手水舎)(手水舎の石鉢)(惣慶のお宮/惣慶宮)(惣慶のお宮/惣慶宮の社殿内部)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井のウコール)(シマカー/島カー)(シマカー/島カー)(シマカー/島カーのウコール)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.14
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(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「惣慶/そけい集落」があります。この集落の東西北の入り口には「イシガントウ/石敢當」と呼ばれる石灰岩の村獅子が安置されています。かつて、人々に不幸をもたらす災い(悪霊や火災など)は集落の入り口から来ると信じられてきました。「イシガントウ」は集落に入ろうとする災いを跳ね返す「ヒーゲーシ」のために置かれたと伝えられています。この東西北の「イシガントウ」では明治44年まで旧暦9月5日に「シマカンカー」という年中行事が行われていました。「シマカンカー」は悪霊が集落へ侵入する事を防ぐ目的で催されり祭祀で、かつて集落にあったウシナー(闘牛場)で牛または豚を潰し、その肉を煮て東西北3箇所の「イシガントウ」に供えました。供えた肉は集落の人々に分け与えられ、子供達には「一口食/チュクチクェー」と言って一口づつ配っていたそうです。その後「惣慶集落」では暫く「シマカンカー」が途絶えていましたが、1985年に復活し現在も集落の大切な年中行事として継承されています。(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/東側 : 安倍崎の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/西側 : 恩納岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)(惣慶のイシガントウ/石獅子/北側 : 久志岳の返し)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.09
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(イビ神/漢那村の祖霊神)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があり、漢那ビーチの北側に漢那公民館(漢那区事務所)があります。この公民館の周辺は「ユウアギモー」と呼ばれる御嶽で、1713年に琉球王府が編纂した「琉球国由来記」に『ヨリアゲ森 二御前 漢那村 壱御前 神名 真南風ノワライヅカサノ御イベ 壱御前 神名 オラウセナデルヅカサノ御イベ』と記されています。「ユウアギモー」の聖域である「イービメー」一帯はかつて左縄が張り巡らされ男子禁制の場所でした。1938年に「イービメー」の石灰岩の上に神社風の神殿が造られ「お宮」と呼ばれるようになりました。その昔「イービメー」の岩の後ろには骨神を入れた骨甕が安置されていましたが、現在は「お宮」の脇に建てられた祠に納められています。1702年に刊行された「琉球国絵図郷村帳」には『はま村』と記載されている事から、琉球王国時代の漢那には「漢那村」と「浜村」があったと伝わっています。(イビ神/漢那村の祖霊神)(イビ神のウコール)(龍宮神の祠)(龍宮神の祠内部)(龍宮神のウコール)(漢那のお宮/漢那宮の鳥居)(漢那のお宮/漢那宮)(漢那のお宮/漢那宮)(漢那のお宮/漢那宮の拝所)(骨神の祠)(骨神の祠のウコール)(漢那のお宮/漢那宮の鐘)(ユウアギモーのイービメー)(渡地の御願所/浜村の祖霊神)(渡地の御願所/浜村の祖霊神の石碑)(渡地の御願所/浜村の祖霊神のウコール)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.07
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(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があり、この集落の東側丘陵に広がる「ヨリアゲ森」は「ウェーヌアタイ森」と呼ばれています。この森の中にある鍾乳洞穴には風葬墓があり「漢那ウェーヌアタイ木製家型墓」が安置されています。1912年頃に「漢那集落」の屋号「仲ニーブ」の老婆がこの風葬墓に納骨されていたのが一番新しいと言われています。木棺にまつわる伝承は、グスク時代に首里の奥方が重病にかかり亡くなるまでに早急に木棺を造るように命じられました。その後完成した木棺を浜から運ぼうとしましたが、奥方が亡くなった連絡により木棺は浜に放置されてしまいました。この木棺を「ウェーヌアタイ森」の風葬墓で使用したと伝わっています。宜野座村立博物館の調査の結果、木棺内の北側に納骨の空間が設けられ頭を西側、四肢骨や肋骨などは東側に配置されており計170体の方々が祀られていました。(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴/風葬墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓のウコール)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓の内部)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓のウコール)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)(風葬墓/漢那ウェーヌアタイ木製家型墓)(ウェーヌアタイ森の鍾乳洞穴)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.03.02
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(水神の碑/ヨリアゲ森)沖縄本島北部にある「宜野座村/ぎのざそん」の「漢那/かんな集落」には「ヨリアゲ森」と呼ばれる丘陵があります。この森は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『ヨリアゲ森 神名 カワヅカサノ御イベ 漢那村 麦大祭之時、仙香・花米九合宛・麦神酒二器宛、同村百姓中供之。漢那巫ニテ祭祀也。』と記されています。「ヨリアゲ森」の麓に「ヒージャーガー/ヒーザー川」という「ヒージャー/樋川」があり「水神の碑」が祀られています。この「ヒージャーガー」は旧正月には集落で「カーウガミ/川拝み」が行われ水の恵への感謝が祈られています。また「ヒージャーガー」は宜野座村の水道発祥の地としても知られており、1938年に建設された貯水タンクが現在も残されています。更に「ヨリアゲ森」を通る「宿道跡」の西側は「長寿の森」と称されており丘陵の入り口には「長寿の碑」が建立されています。(水神の碑の石碑/ウコール/霊石)(水神の碑の石碑)(水神の碑のウコール)(水神の碑の霊石)(ヒージャーガー/ヒーザー川)(ヒージャーガーのヒージャー/樋川)(ヒージャーガーの清流に架かる橋)(ヒージャーガーの清流)(ヨリアゲ森)(漢那ヨリアゲの森の地質の案内板)(ヨリアゲ森の宿道跡)(長寿の碑)(長寿の碑)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.27
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(漢那祝女殿内)沖縄本島北部にある「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があります。この集落には「祝女火の神/ノロヒヌカン」を祀った「漢那祝女殿内/ノロドゥンチ」の祠があり「漢那ノロ」により祭祀が行われ、村の豊作や豊年が祈願されていました。「漢那祝女殿内」の南西側に隣接した場所に「神アシャギ/神アサギ」があり村の守護神を招いて「漢那ノロ」が司る祭祀が執り行われていました。また「神アサギ」の東側に広がる「漢那農村公園」の広場には「馬川/マーガー」と呼ばれる「クムイ/池」跡があります。この「クムイ」は「漢那ノロ」の馬を水浴びさせる井泉の池で「漢那ノロ」は権威の象徴たして馬を連れて祭祀を行っていました。その愛馬の容姿を詠んだ歌が残されています。『漢那のろくみの乗りみせる馬や 爪は綾爪に真黒立髪』(漢那祝女殿内)(漢那祝女殿内の内部/御先祝女・中祝女・今祝女)(漢那祝女殿内の内部/根人神・地頭神・居願神)(漢那祝女殿内の内部/安富祖家先祖代々之霊位)(漢那祝女殿内の内部/根人神の火の神・居願神火の神)(地頭火の神/村火の神の祠)(神アシャギ/神アサギ)(神アシャギ/神アサギのウコール/香炉)(馬川/マーガー)(馬川/マーガーの石碑)(馬川/マーガーのウコール/香炉)(馬川/マーガーのクムイ/池跡)(漢那祝女殿内の北西に隣接する拝所の祠)(拝所の祠内部)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.22
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(ヌールガー/祝女川)沖縄本島北部の東海岸に「宜野座村/ぎのざそん」があり、この村の南西部に「漢那/かんな集落」があります。「漢那ヌールガー/祝女川」は集落の東側丘陵の谷間から流れる水をを引いた拝泉で「漢那集落」の祭祀の際にヌール(ノロ)が「ヌールガー」で水浴びをして身を清めていました。この拝泉にはヌールが髪を洗う時に使用した「クチャ」と呼ばれる泥を捏ねた「タマチブ」という凹んだ石が残されています。更に「ヌールガー」の北側には「漢那ウブガー/産井」があり、同じく集落東側丘陵の谷間からの水が湧き出ています。かつて集落で産まれた赤ん坊の産湯に使う水を汲んだ井泉として重宝されていました。この2つの井泉では旧暦9月9日に集落の先祖代々が恩恵を受けた井泉を拝する「カーウガミ」が行われていました。(ヌールガー/祝女川)(ヌールガー/祝女川の石碑)(ヌールガー/祝女川のウコール)(ヌールガー/祝女川のヒジャイガミ霊石)(ヌールガー/祝女川のタマチブ)(クチャを捏ねたタマチブ)(ヌールガー/祝女川)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井の石碑)(ウブガー/産井のウコール)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)(ウブガー/産井)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.19
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(屋嘉節の歌碑)沖縄本島北部の最南端に「金武町/きんちょう」があり「屋嘉/やか集落」の国道329号(国道331号)沿いに「屋嘉節の歌碑」が建立されています。「屋嘉節」は1945年の沖縄戦後に「金武村/現金武町」の「屋嘉」に設けられた旧日本軍将兵の捕虜収容所で創作されました。現在の金武町立嘉芸小学校の校地周辺を米軍がブルドーザーで整地し、投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉捕虜収容所」が設けられました。沖縄出身の捕虜達は空き缶や有り合わせの木材を使い、パラシュートの紐を弦として「カンカラ三線」を作り演奏するようになりました。やがて沖縄の一兵士により「屋嘉節」が生まれて広まり、現在は沖縄民謡として歌い継がれています。隣接する屋嘉の浜には「竜宮神」があり航海安全やニライカナイの神を拝む拝所となっています。(屋嘉節の歌碑)(屋嘉節の歌碑)(日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑)(日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(久高島住民強制疎開之記念碑)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神/ウコール)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉の竜宮神/龍宮の神)(屋嘉ビーチ前バス停)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.15
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(ミージョーガー/ジョーガー)沖縄本島中部の「読谷村/よみたんそん」にある「座喜味/ざきみ集落」があり「座喜味グスク」の西側に「ジョーガー」と「ミージョーガー」が隣接しています。集落を取り巻く川の一番上部にある事から「ジョーガー/上ガー」と呼ばれた説があります。また「座喜味グスク」でも使われた事から「グスクガー/城ガー」とも言われています。「ジョーガー」はお茶の水として汲まれ、味は格別だったと伝わってます。「ミージョーガー」は昭和初期の干ばつの際に「ジョーガー」の北側に新たに造られました。隣り合う2つの井泉は水質が異なり水の味が全く違う事で知られていました。「ジョーガー」と「ミージョーガー」は旧正月のハチウガン(初御願)や旧暦9月のウビナディ(水撫で)で拝され、井泉の水は新年のワカミジ(若水)や出産の際のウブミジ(産水)として用いられました。(ジョーガー/ミージョーガーへ降りる階段)(ジョーガー)(ジョーガーの石碑)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガー)(ジョーガーのウコール)(ミージョーガー)(ミージョーガーの石碑)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー)(ミージョーガー/ジョーガー)(ジョーガー/ミージョーガーの拝所)(ジョーガー/ミージョーガーのクワズイモ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.12
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(ウェーガー/エーガー/親川)沖縄本島中部の西海岸に「読谷村/よみたんそん」があり、世界文化遺産で知られる「座喜味城跡」の東側谷間に「ウェーガー」があります。この井泉は座喜味城主が専用に使用した古いカー(井泉)と伝わっており「エーガー/親川」や「グスクガー」とも呼ばれています。その昔イリガサー(はしか)にかかった際に「ウェーガー」の水でミジナディ(水撫で)すると早く治ると言われていました。戦前までこの井泉は旧暦1月の「ハチウグヮン/初御願」や旧暦9月の「ウビナディ/水撫で」の行事で拝されていました。さらに旧正月の元旦にはワカミジ(若水)を汲み、出産の際には産水として用いる「ウブガー/産井」として利用されていました。「ウェーガー」には石造りの古い石碑・ウコール(香炉)とコンクリート製の石碑・ウコールが祀られています。(ウェーガー/エーガー/親川へ続く森道)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガー/エーガー/親川へ降りる階段)(ウェーガー/エーガー/親川)(ウェーガーの石碑/向かって左側)(ウェーガーのウコール/向かって左側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガーの古い石碑/向かって右側)(ウェーガーの古いウコール/向かって右側)(ウェーガー/エーガー/親川の小川)(ウェーガー/エーガー/親川へ向かう散策路/木道)(ウェーガー/エーガー/親川の森)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.02.10
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(根神地/カミヤー)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「瀬良垣/せらがき集落」があります。「瀬良垣公民館」に隣接した「根神地」と呼ばれる場所に「カミヤー/神屋」と「神アサギ」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根神火神 瀬良垣村 山留ニ竹木伐故、為作毛折願之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。ミヤ種子之日、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中、供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 瀬良垣村 稲穂祭之時、五水二合 地頭、シロマシ一器・神酒二・干魚一絡 百姓中。稲大祭之時、五水二合 地頭、炊飯二器・神酒三・干魚一絡 百姓中。右、恩納巫祭祀也。柴指之時、神酒二 百姓中 供之。居神ニテ祭祀也。』との記述があります。(根神地/カミヤーの鳥居)(根神地/カミヤー)(カミヤーの仏壇)(根神火神/ニーガンヒヌカン)(根神火神/ニーガンヒヌカンに供えられた塩)(根神地の拝所)(根神地の拝所に祀られた霊石)(根神地の拝所/ヒジャイガミ)(神アシアゲ/神アサギ)(紫微鑾駕/しびらんか護符)(紫微鑾駕/しびらんか護符)
2024.02.06
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