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(湧川の御嶽)沖縄本島北部「今帰仁なきじん)村」の「湧川(わくがわ)集落」は1738年に創設されたムラです。約200年の歴史があるとされる集落では伝統行事が大切に継承されており、「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部では年中行事の「豊年祭」の際に県無形民俗文化財に指定されている中国由来の「路次楽(ろじがく)」という舞踊、棒術、獅子舞などが奉納され、集落の五穀豊穣と住民の無病息災が祈願されています。「路次楽」で用いられる吹奏楽器は「ガク」や「ガクブラ」と呼ばれ、主に行列をなすときに吹奏されます。なお「湧川集落」は周囲の集落と比べて新しいムラで、琉球士族が多く移り住んだ土地であったと伝わります。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ムラガー/村ガー)(ムラガーの水源)「湧川公民館」の北西側に「ヌルドゥンチ(ノロ殿内)」があり、社の祠内には火の神が祀られています。境内は70坪ほどあり「ノカネイ」と呼ばれる神職により管理されてきました。「ヌルドゥンチ」は通常、各集落のノロ(祝女)が住んだ場所ですが「湧川集落」は集落の発祥当時から現在に至るまで「勢理客ノロ(シマセンコ巫)」により祭祀が執り行われています。「湧川公民館」の北東側には「ムラガー(村ガー)」と呼ばれる井戸があります。かつて「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部で重宝された共同井戸で、現在も枯れる事なく水が湧き出ています。「ムラガー」の奥にある岩の割れ目が水源となっており、丘陵に降った雨水が琉球石灰岩により自然濾過されて湧き出ています。(イビヌメー)(イビヌメーの内部)(御嶽頂上のイビ)(御嶽のイビの霊石))「ヌルドゥンチ」の北側は「湧川の御嶽」の森となっています。森の丘陵中腹部に「イビヌメー(イビぬ前)」と呼ばれる小屋が建てられており、聖域である御嶽に入る門の役割をしています。御嶽の内側の神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を表していると考えられます。「イビヌメー」の奥から御嶽頂上の「イビ」に向かう階段が一直線に続いています。「イビ」は「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要な場所を意味します。更に、御嶽に祀られている霊石や御神体も「イビ」といいます。旧暦4月の最後の亥の日には「湧川集落」の年中行事である「タキヌウガン(嶽ヌ御願)」が執り行われ「勢理客ノロ」や「湧川の神人」により拝されています。(メンビャの広場)(メンビャの井戸のウコール)(シーシヤー/獅子屋)「湧川公民館」の西側に「メンビャ」と呼ばれる広場があり、そこにある大木の下には井戸跡がありウコール(香炉)が設置されています。「メンビャ」では「湧川集落」の棒術の演舞や、中国に由来する「路次楽(ろじがく)」の奉納踊りが行われます。「湧川集落」には今から約200年以上前に「與儀家先祖」と「與儀銀太郎」が移り住んだ際に「路次楽」が伝わり、戦時中も避難する壕の中で「路次楽」の楽器や道具が大切に保管されました。「湧川集落」では現在でも「路次楽」の踊り、音楽、楽器、楽器の製法や奏法などが忠実に受け継がれています。「メンジャ」から「按司道(あじみち)」と呼ばれる道を北に進むと「シシヤー(獅子屋)」の小屋があり「湧川集落」の守り神である「獅子」が大切に収納されています。(運天竜宮)(運天竜宮の祠内部)「湧川集落」の北東側沿岸に「運天竜宮」と呼ばれる「竜宮神」を祀った祠があります。海の航海安全と豊漁を祈願する拝所で、祠内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。さて「湧川集落」に伝わる有名な民謡に「モーアシビ(毛遊び)の歌」があります。『村寄しりしり 湧川村寄しり 村ぬ寄しらりみ あん小寄しり』(ムラをこちらに寄せてこい 湧川のムラを寄せてこい ムラを寄せることなどできるものか そちらこそ娘たちを寄こしなさい)「湧川集落」から海を挟んだ対岸にある「屋我地島」の若者が、一緒にモーアシビ(毛遊び)ができるように「湧川」のムラを引き寄せてこいと詠います。それに対して「湧川集落」では、そちらこそ「屋我地島」の娘たちを「湧川」に寄せなさいと返している歌です。(湧川の御嶽)『湧川美童や 天ぬ星ごころ 拝まりやすしが 自由やならぬ』(湧川の乙女たちは 天空の星のようなものだ 姿かたちを拝見することはできるが 自由に一緒に遊ぶ事はできない)これは「屋我地島」や隣接する集落の若者が詠ったとされる歌です。当時の「湧川集落」は地位の高い士族が多く住む集落で「名護市史近代歴史統計資料集」によると、1903年の「湧川集落」の士族戸数は247戸中100戸(約40%)という非常に高い比率となっていました。その為、士族の娘たちは集落の平民が集う「モーアシビ(毛遊び)」になかなか参加することが出来なかったそうです。
2022.03.22
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(神アサギ/ウイヌアサギ)沖縄本島北部の「今帰仁(なきじん)村」の東側に「湧川(わくがわ)」集落があります。「琉球国由来記(1713年)」には今帰仁間切の地頭代が「湧川大屋子」とあり、1738年にこの集落が創設された際に「湧川」と名付けられたと伝わります。「湧川集落」の祭祀行事は北側にある「勢理客集落」の「勢理客ノロ」の管轄になり「勢理客・運天・上運天」の3つの集落と共に祭祀が執り行われるようになりました。「湧川公民館」の敷地に「ウイヌアサギ」と呼ばれる「神アサギ」があり五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウプユミ(大折目)/ワラビミチ」の際に「勢理客ノロ」やカミンチュ(神人)により拝されています。(神アサギの内部)「神アサギ(ウイヌアサギ)」はノロや神人による祭祀が行われる聖域で、内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られています。現在も大切に継承されている「ウプユミ(ワラビミチ)」は「今帰仁村」の年中行事で最も重要な祭祀で、旧盆あけの亥の日に執り行われます。まず「勢理客ノロ」や神人を「湧川集落」の「神アサギ(ウイヌアサギ)」で待ち「勢理客ノロ」と神人が「神アサギ(ウイヌアサギ)」に向かう前に集落の子供達が太鼓を五回を打ちます。そして「勢理客ノロ」と神人のウガン(御願)が終わると、再び太鼓を五回打ち鳴らし「神アサギ」での祭祀は終わります。(新里屋)(新里屋の敷地内にある祠)(祠内部の火の神と女神図像)(新里屋の仏壇)次に「勢理客ノロ」と神人は「神アサギ」の南西側にある「新里屋」でウガン(御願)を行います。「新里屋」は「湧川集落」の発祥に関わった「根屋(ニーヤ)」であり「北山王統」の血筋を継ぐ一門だと伝わっています。「新里屋」の敷地内には祠があり内部には三組の霊石/石造りウコール(香炉)、更に一組の女神図像/金属製ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。「天孫氏二十三世」の弟の長男が「孫太子(開山長老)」六男が「今帰仁王子」で、その長男である「兼松金王」が「三代北山王」を継ぎました。この「三代北山王」の跡目を代々継承してきたのが「新里一門」となります。因みに「孫太子(開山長老)」が「新里屋」を建てた人物だったと伝わっています。(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)「新里屋」の仏壇には図像が3面、位牌が8柱、ウコール(香炉)が10基祀られています。向かって左から「千手観音菩薩図像」「家族図像/北山大按司の位牌」「開山長老図像/孫太子大君の位牌」「ミルク(弥勒)像」「今帰仁之子思次郎/今帰仁按司樽金/北山王子松金/北山王亀寿の位牌」「思次良湧川按司/長男樽金湧川按司/北山世主/帰真/霊位/樽金湧川按司/養子の位牌」「湧川奴留之元祖の位牌」「新里大主の位牌」「新里筑登之/新里親雲上/新里筑登上/新里里之子/新里親雲上の位牌」「新里新光/新里新松/カマダ/新里親雲上/次良新里親雲上/武樽新里/新里親雲上の位牌」がそれぞれ祀られています。更に仏壇の1番左側には「勢理客ノロ」が祭祀に使う弓があり、1番右側にある火の神には霊石とウコール(香炉)が2基づつ祀られています。(新里屋の火の神)(奥間アサギ/ヒチャヌアサギ)(奥間アサギの火の神)「新里屋」での御願(ウガン)を終えた「勢理客ノロ」と神人は次に「湧川公民館」の脇にある「奥間アサギ(ヒチャヌアサギ)」を拝し、集落の子供達により太鼓が五回打たれた後に「勢理客集落」へ向かいます。「奥間アサギ」は「湧川集落」の「神アサギ」ではなく「勢理客ノロ」の男方の旧家で、一般的な「神アサギ」とは異なり小屋の内部に旧家の火の神が祀られています。かつて「湧川集落」では神人の跡継ぎがなくなり、祭祀の継承が絶たれる運命にありました。その時に男方に繋がりを持つ「勢理客ノロ」の管轄になったと伝わっています。そのため「湧川集落」では「神アサギ」に類似した「奥間アサギ」が現在でも残され、ウガン(御願)の対象として大切に拝されているのです。
2022.03.18
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(勢理客ノロ殿内)沖縄本島北部の本部半島に「今帰仁(なきじん)村」があり、村の北東側に「勢理客(せりきゃく)集落」があります。「勢理客」という名称は浦添市の「勢理客(じっちゃく)」という読み方で知られていますが「今帰仁村」の「勢理客」は「せりきゃく」と読みます。尚、琉球王府により編纂された「おもろさうし」(1531-1623年)には「せりかく」と謳われています。「勢理客集落」は「今帰仁村」で最も面積が小さなシマですか「シマセンク(シマセンコ)巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ(祝女)」は「勢理客・運天・上運天・湧川」の4集落を管轄し祭祀を司った位の高いノロでした。「勢理客公民館」の敷地には「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」でも拝される「勢理客ノロ殿内」があります。(神アサギ)(神アサギ内部のタモトギとウコール)「勢理客ノロ殿内」に隣接して「神アサギ」が建てられいます。「神アサギ」とは沖縄本島北部地方においてノロが集落の祭祀を行う小屋で、4本柱または6本柱で壁がない吹き抜け構造をしています。また、沖縄本島中南部にある「トゥン(殿)」と呼ばれる祭祀場の原形と言われています。「神アサギ」が分布する地域は「神アサギ文化圏」や「北山文化圏」に分類され、三山統一以前の「北山王国」の文化に由来しています。ちなみに「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」とは「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄で親族一門が行う聖地旧跡の巡拝行事で、多くの門中(もんちゅう)によって行われています。「神アサギ」の内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られており、人々に拝される聖域となっています。(勢理客の御嶽)(勢理客御宮新築記念碑)(勢理客の御嶽の祠)(勢理客の御嶽のイビ)「勢理客公民館」の北側に「勢理客の御嶽」の森があり、御嶽の入り口には鳥居と「勢理客御宮新築記念碑」の石碑が建立されています。鳥居をくぐり階段を登って頂上に辿り着くと「勢理客の御嶽」の祠があり「イビ」と呼ばれる祠の内部にはウコール(香炉)2基と数個の霊石が祀られています。「イビ」は「イベ」とも言われ、御嶽の中で最も神聖な場所を意味し、同時に祀られている霊石自体も「イビ」と呼ばれています。第二尚氏王統の琉球神道における最高ノロ(神女)である「聞得大君(きこえおおきみ)」の神名は「しませんこ あけしの」であり、この神名はもともと「勢理客の御嶽」の神名であったと伝わっています。「聞得大君加那志(チフィウフジンガナシ)」と呼ばれ、琉球王国最高位の権力者である国王と、王国全土を霊的に守護するものとして崇められてきた存在です。(ウイヌハー)(ヒチャヌハー)(ヨシコトガー)「勢理客公民館」の北西に「ウイヌハー」と呼ばれる井戸があります。「勢理客集落」の上(ウイ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)である「ウイヌハー」は「勢理客ノロ殿内」や「神アサギ」に近い事から「勢理客ノロ」も祭祀の際に使用した井戸だったと考えられます。公民館から北西に坂道を下った場所には「ヒチャヌハー」があり、集落の下(ヒチャ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)となります。「ヒチャヌハー」は集落の共同井戸(ムラガー)であると考えられ、野菜を洗ったり衣類の洗濯にも利用されていたと推測されます。更に公民館から約500mほど北に下ると「ヨシコトガー」と呼ばれる比較的規模の大きい井戸があり、森の丘陵麓から湧き出る水が貯められて周囲の農業用水として利用されています。(勢理客の顕彰碑)(天底小学校発祥之地の石碑)(勢理客のシシヤー/獅子屋)琉球王府が編纂した歌謡集である「おもろさうし(おもろそうし)」(1531-1623年)に「せりかく(勢理客)」が謳われている「おもろ」があります。『 一 せりかくの のろの (勢理客の ノロの) あけしの のろの (蝉の ノロの) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 うむてん つけて (運天に 着けて) こみなと つけて (小港に 着けて) 又 かつおうたけ さがる (嘉津宇岳に 下る) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 やまとの いくさ (大和の 戦さ) やしろの いくさ (山城の 戦さ) 』
2022.03.14
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(神殿/お宮)沖縄本島北部の本部半島に今帰仁(なきじん)村があり、村の東側海沿いに「上運天(かみうんてん)」集落があります。「上運天」は「ウイヌシマ(上の島)」と呼ばれ、北東側に隣接する「シチャヌシマ(下の島)」と呼ばれる「運天」集落に対しての名称となっています。もともと「上運天」と「運天」は1つの村でしたが、江戸時代が創立された近世初期に分離したと考えられています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「上運天村」と「運天村」が個別に記載されています。「上運天」の祭祀は「シマセンクノロ」とも呼ばれる「勢理客ノロ」の管轄で、現在もノロ(祝女)やカミンチュ(神人)により伝統的な祭祀が行われています。(神殿/お宮の祠内部)「上運天」集落には2つの御嶽があり「琉球国由来記(1713年)」にはそれぞれ「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と「ウケタ嶽(神名:不伝)」と記されており、上運天公民館の南東側の森には「上運天御嶽」があります。御嶽内の「神殿」は地元では「お宮」と呼ばれて親しまれており、祠内部には霊石とウコール(香炉)が祀られ「敬神」の扁額が設置されています。「上運天御嶽」の森には6箇所の拝所があり「タキヌウガン」と「アブシバレー」と呼ばれるウガン(御願)では上運天区長、カミンチュ(神人)、集落の住民により「神殿(お宮)」がまず初めに祈られます。今回は幸運にも「上運天」集落で10年間区長を務めている「上原区長」が、自らガイドとして「上運天」にある2つの御嶽を特別に案内してくれました。(ニーヤ/根屋)(ニーヤの祠内部)「上運天御嶽」の東側に「ニーヤ(根屋)」と呼ばれる「上運天」発祥の際に「ニッチュ(根人)」が最初に住んだ場所を祀る祠があります。祠内部には霊石があり上運天の「タキヌウガン」と「アブシバレー」では「ニーヤ(根屋)」は2番目に拝されています。上運天の「上原区長」によると「上運天御嶽」の森の木々は集落が発祥した当時から生息しており、神を迎える聖域として森は大切に守られています。「上運天」集落では旧4月15日に「上運天御嶽」を拝する「タキヌウガン」と「アブシバレー」が同時に行われます。"アブシ"とは"田畑のあぜ道"の事で、"バレー"は"払う"という意味です。「アブシバレー」では農作物につく害虫を払う祭祀を行い豊作祈願をします。(地頭代火之神/村屋)(地頭代火之神/村屋の祠内部)「ニーヤ(根屋)」の西側に「地頭代火之神」の拝所があり「ウタキヌウガン」と「アブシバレー」の際には3つ目に拝されてます。「地頭代」とは琉球王朝時代(1429-1879年)に間切(現在の市町村)の「地頭(領主)」の代官として、地方行政を担当した人を意味します。「地頭代」は間切番所(現在の町村役場)の最高の役で、様々な行政を監理する役目を担っていました。「上運天御嶽」の「地頭代火之神」は「ムラヤー(村屋)」とも呼ばれており「地頭代」が務めていた行政役所を意味しています。その「ムラヤー(村屋)」にあったヒヌカン(火之神)がこの地に祀られています。祠内部には霊石とウコール(香炉)が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。(神アサギ)(神アサギのウコール)「地頭代火之神/村屋」の西側は「神アサギ」が建てられています。「上運天」集落には旧暦7月の「ウプユミ(大折目)」という様々な作物を神に感謝する祭祀があり、別名「ワラビミチ」とも呼ばれています。「大折目」は沖縄本島北部では「ウプユミ」と呼ばれ、本島南部では「ウフユミ」と発音されます。「ウプユミ」は海の彼方から訪れて島に海の幸や山の幸を授け、繁栄や平和をもたらす神様を丁重に迎える祭祀です。「上運天」を管轄する勢理客ノロ(シマセンクノロ)、勢理客・湧川・運天・上運天のカミンチュ(神人)、集落の住民が共に食事をして神様を厚くもてなします。かつての伝統的な「ウプユミ」の祭祀は「神アサギ」でノロが正座して祈願した後に「ミチ」と呼ばれる米で醸した神酒を盛った椀を捧げます。(神アサギの屋根裏に収められた獅子)そして、男のカミンチュ(神人)が背後に回りノロの両耳を押さえると区長が太鼓を叩き、参加する集落の老若男女が全員で『クトウシヌ ウンサクヤ ナカムラチ ハタムラチ』(今年の 神酒は 椀一杯盛って 溢れるばかりに 盛って)と唱和します。唱和が繰り返されてノロの頭が揺れると「ミチ」が椀から溢れます。「ミチ」が溢れれば溢れるほど「ユガフ(世果報)」と呼ばれる、幸せや豊かさを集落にもたらすと言われています。「ウタキヌウガン」と「アブシバレー」でも4つ目に拝される「神アサギ」の屋根裏には獅子を収納する木箱が納められていおり「シーシヤー(獅子屋)」の役割も果たしています。旧暦8月15日に催される「上運天」の豊年祭では獅子舞が奉納されます。(タキサンのイビ)(ウキタ/浮田御嶽への遥拝所)「神アサギ」の西側には「タキサン」と呼ばれる場所があり「イビ」の霊石が祀られてウコール(香炉)が設置されています。この聖域は男子禁制として、現在でもノロや神人の女性のみが立ち入りを許されており「神人の着替え場所」と記されています。「イベ」とも呼ばれるこの神域は「琉球国由来記」(1713年)に「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と記されており「上運天御嶽」の中で最も神聖な場所として崇められてらいます。「神殿(お宮)」の南側に「上運天」集落にもう1つある御嶽の「ウキタ/浮田御嶽」へ遥拝する霊石が鎮座しています。「上運天」の御嶽を案内してくれた「上原区長」のお陰で、男子禁制の聖域にも遥拝所の霊石も知る事が出来て非常に感謝しています。(浮田御願所の石碑)(浮田御嶽のイビ)(前ぬ浜跡地/シマクサラー)上運天公民館の南側には「浮田御嶽」の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「ウケタ嶽」と記されており、かつてこの御嶽周辺は「うけた原」と呼ばれていたと伝わっています。御嶽の入口には「浮田御願所」と彫られた石碑が建立されており、階段を登り進んだ頂上に御嶽のイビがあり霊石とウコール(香炉)が祀られています。「浮田御嶽」の東側に「前ぬ浜(メーヌハマ)跡地」と呼ばれる場所があり、旧暦12月8日には左巻きの縄が祀られた岩では集落へ悪霊の侵入を防ぐ「シマサクラー」と呼ばれる行事が行われています。御嶽の脇にはかつて「浮田港」という港があり、そこの浜辺は「前の浜」と呼ばれていました。現在「前ぬ浜」は埋め立てられ、新しい「運天港」として運天と伊是名島、更には運天と伊平屋島を結ぶフェリーの旅客ターミナルとなっています。(運天の歌碑)「上運天公民館」の南西に進むと「運天の歌碑」が建立されています。歌碑には次の歌碑が彫られています。『運天ぬ番所 通いぶさあしが 白真大道ぬ ギマぬくささ』 (うんてぃんぬばんじゅ かゆいぶさあしが じらまうふみちぬ ぎーまぬくささ)「運天」について謳われているこの琉歌の意味は、「運天の役場に通いたいものだが 白真大道にあるギーマの臭いことよ!」ちなみに「ギーマ」とは琉球と台湾に分布するツツジ科の常緑の低木で、スズランのような花をつけて黒い実はブルーベリーのように食すことができるそうです。
2022.03.09
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(風葬墓)沖縄本島北部「今帰仁(なきじん)村」に「運天(うんてん)集落」が所在します。この集落の「ムラウチ」と称される海沿いの部落には、元来より「運天港」と呼ばれていた港があります。「運天港」は古くから知られ「海東諸国紀(1471年)」の「琉球国之図」には「雲見泊 要津」と記されています。また1531-1623年にかけて琉球王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし」では「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われています。更に12世紀頃に「源為朝」が流刑された伊豆大島から脱出する際に、嵐に流されて「運は天にあり」と漂着したのがこの港で、この事から港は「運天港」と名付けられたと伝わっています。(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓の石柱)「運天」の「ムラウチ集落」に「ウーニシ(大北)墓」という崖中腹のガマ(洞窟)を利用した古墓あり、別名「按司墓」とも呼ばれています。「今帰仁グスク」で第二監守を務めた「北山監守(今帰仁按司)」と、その一族を葬った墓で「今帰仁グスク」麓の「ウツリタマイ」と呼ばれる墓を1761年に「今帰仁王子十世(宣謨/せんも)」が拝領墓として建造し「運天」に安葬したものです。墓室内には第二尚氏王統の「北山監守(今帰仁按司)二世(介紹/かいしょう)、四世(克順/かつじゅん)、五世(克祉/かつし)、六世(縄祖/じゅうそ)、七世(従憲/じゅうけん)、更に「聞得大君」を頂点とした神人(カミンチュ)組織の中で「三十三君」と呼ばれる高級ノロ(神女)の一人である「阿応理屋恵(あおりやえ)」など30名余りが葬られています。(大和墓の石碑)(龍宮神)「ウーニシ墓」の南側にある「今帰仁漁港協同組合」の敷地内に「大和墓」の2基の石碑があります。左側の石碑の正面に「明和五戊 子□八月 妙法□定信□」と彫られており、天台宗や日蓮宗の戒名である事を示します。この石碑の右側面には「屋久嶋宮之浦 父立也新七敬白」と記されており、当時薩摩藩だった鹿児島県屋久島宮の浦出身の新七という人物をその父親が1768年8月に葬った事を意味します。更に、右側の石碑の正面には「即心帰郷信士」と彫られており、帰郷を切望する大和人男性が琉球国「運天」に祀られている意味が戒名に込められています。この石碑の右側面には「安政二年卯 十月七日」と記されており1855年に造られた石碑だと分かります。「大和墓」に向かって左側には航海の安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の石碑が建立されており、ウコール(香炉)が祀られています。(神アサギ)(神アサギの内部)「運天集落」の祭祀は「勢理客ノロ」の管轄で催されます。五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウタキヌウガン」の際には「勢理客ノロ」が「湧川、勢理客、上運天、運天」の集落を巡り、各集落から太鼓打ちの子供達と各区長が参加します。「運天」の「神アサギ」は「ウタキヌウガン」の最後に祈られます。屋根の低い瓦屋根葺きの建物である「神アサギ」は「シマセンク巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ」と集落の女性のみが祈り、村人は「アサギミャー」と呼ばれる「神アサギ」の庭でウガン(御願)が終わるのを待ちます。「ウタキヌウガン」が終わると昆布、揚げ豆腐、三枚肉、モーイ豆腐、紅イモの揚げ餅、魚料理などのご馳走を振る舞いウガンを締めくくります。(ウッチヒヌカン/掟火神)(ウッチヒヌカン/掟火神の祠内部)(チンジャ/掘り込み井戸)「神アサギ」がある「アサギミャー(アサギ庭)」に「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠が建立されています。ヒヌカン(火之神)と霊石が祀られた「ウッチヒヌカン」は「タキヌウガン」の際に拝されます。「ウッチ(掟)」とは琉球王国時代の間切や村の役人を意味し、地頭の下に置かれた地頭代と同格の役職です。「按司掟、大掟、西掟」などの種類があり「運天」には「村掟」が置かれたと考えられます。かつて「村掟」の役人が住んでいた場所に、現在「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠があると推測されます。「神アサギ」の裏には、かつて集落の共同井戸として重宝された「チンジャ」と呼ばれる掘り込み井戸の跡があります。(風葬墓)(風葬墓)(風葬墓の人骨)「ムラウチ」集落の「運天港」に面した崖中腹には、風葬墓の掘り込み穴が多数存在します。「運天港」に吹き込む潮風が直撃する崖は遺体を風葬にするのに非常に適した地形となっており、遺体を風葬にした数年後に洗骨をした人骨を家型の木棺や厨子甕などに納めます。風葬墓の入口は木の板や「チニブ」と呼ばれるヤンバル(山原)竹を編んで作った竹垣で塞ぎます。他にも「ムラウチ」集落には丸太や板を用いて入口を塞ぐ風葬墓もあり、時の流れと共に劣化して崩落した「チニブ」や木の板の内部に木棺から剥き出しになる人骨も確認されます。集落では先人の伝統的な葬制を守る為、葬られている人骨の現状を維持していると考えられます。(ムラウチ集落の石敢當)(ムラウチ集落のフクギ並木)沖縄県にはT字路の突き当りや、十字路の角に「石敢當(イシガントー)」と彫られた魔除けの自然石や石柱があります。一説ではこの「石敢富」の起源は「石敢富」という名前の勇士であると伝わります。「琉球学術調査報告(昭和38年)」には「石敢当の"石"という姓には岩石の神秘性と強力さがあり、名の"敢当"にも力強さを持ち合わせている」と記されています。更に「石敢当という人物はたとえ実在しないとしても、この姓名からは悪霊を追い払う勇敢で力強い人物を想像できる」とも報告されています。海沿いの「ムラウチ」集落はフクギの木が防風林として多数植栽されており、この見事なフクギ並木は集落の美風景として魅力となっています。(ウブガー)(ウブガー/天泉大神の石碑)(運天トンネル)(運天港)「運天」の「ムラウチ」集落の最西端に「ウブガー」と呼ばれる井戸があり「天泉大神」の石碑が祀られています。かつて「ムラウチ」集落で子供が産まれた時に、この井戸から産水を汲んでいました。「ウブガー」の南側の崖麓に1924年(大正13)に竣工された「運天トンネル」があります。1916年(大正5年)頃から物資の運搬が海上から陸上に移行し、以前から急な坂道を往来して難儀を強いられていた「ムラウチ」集落の人々にとって「運天トンネル」の開通は生活を便利に一変させる恵みとなりました。「古宇利大橋」を望む「ムラウチ」集落は、古より琉球から沖縄の世の節々で重要な港町として栄え、今日も「運天港」には静かで穏やかな波が寄せています。
2022.03.05
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(ムムジャナバカ/百按司墓)沖縄本島北部の本部半島に今帰仁村(なきじんそん)の「運天(うんてん)集落」があります。「運天港」に隣接する丘陵の崖に「ムムジャナバカ(百按司墓)」があります。崖の中腹に所在する洞窟を利用した古墓の内部には、現在も厨子甕(ずしがめ)が数百年前から変わらぬ姿で安置されています。墓の名称である「按司(あじ)」は沖縄のグスクを築いた有力者の呼び名で「ムムジャナ(百按司墓)」は「数多くの按司の墓」を意味しており、1991年に「今帰仁村」の文化財に指定されています。墓には「北山王」とその由緒ある一族、または第一尚氏「北山監守」の貴族が葬られると伝わっています。(ムムジャナバカの森)(ムムジャナバカの標柱)「運天集落」では「モモジャナ」または「ムムンジャナ」墓と呼ばれており、墓は「ウケメービラ」と称される坂道(ビラ)の先にある崖の自然岩壁を利用して造られています。この崖の中腹一帯には50基以上の古墓が集中している地域であり「ムムジャナバカ(百按司墓)」は漆喰で塗り固められた石積みによって囲まれています。墓内部には数多くの人骨を収納できる複数の木棺が納められていたと伝わります。その中でも幾つかの木棺は漆塗りで、14世紀の「北山王国」時代や15世紀の「北山監守」時代の高い身分の者を葬った墓であると考えられています。墓内に納められていた木棺は修復され、現在は「今帰仁文化センター」に大切に展示保管されています。(第一号墓所)(第一号墓所の孔)(第一号墓所の内部)「ムムジャナバカ(百按司墓)」一帯の中央に「第一号墓所」があります。洞窟の入り口を石組みで囲い、内部に5基の古い厨子甕が安置されています。「第一号墓所」の正面にはウコール(香炉)と霊石が祀られた拝所となっています。積み上げられた石組には2つの孔が設けられており、その穴から墓内を覗き込む事が出来ます。中央にある家型の厨子甕には「今帰仁按司十七〜二十五代」と記されていて、この厨子甕の歴史の深さを確認する重要な資料となっています。この「ムムジャナバカ(百按司墓)」には「北山監守」の貴族が祀られています。「北山監守」とは「尚巴氏」が琉球三国を統一後、旧「北山王国」の監視と統治を目的として置かれた琉球王国の官職の事をいいます。(第一号墓所の右側にある墓所)(第一号墓所の右側にある墓所内部)「第一号墓所」の右側には小規模の洞窟をりようした墓所があり石積みが組まれています。この墓所内部には無数の人間の骨が無造作に散乱しています。「北山監守」は琉球王府から任命されて「今帰仁グスク」を拠点にしていました。「中山世譜(1697-1701年)」「球陽(1743-1745年)」そして、碑文の「山北今帰仁城監守来歴碑記(1749年)」には「尚忠」が第2代琉球国王に就任する以前に「北山監守」として最初に派遣されたと記されています。また「尚巴氏」は「山田グスク」城主であった「先今帰仁城主」の血筋を引く「護佐丸」を「北山監守」に就任させ「座喜味グスク」の築城を命じました。これは「北山」を監視する戦略で「座喜味グスク」は「北山」を監視する戦略上の重要なグスクでもあったのです。(第二号墓所)(第二号墓所の内部)(第三号墓所)「第一号墓所」の向かって左側に「第二号墓所」の石積みがあります。墓内には5基の厨子甕が安置されています。さらに「第二号墓所」から向かって左側には「第三号墓所」の石垣があり複数の板で蓋が施されています。沖縄全域と奄美大島に分布している厨子甕は死者の遺体を風葬した後に洗骨して洗い清めた骨を納める容器で、墓と同様に「死者の家」であると考えられています。厨子甕は体全体の骨をそのまま収納する為、火葬が主である本土の骨壷に比べても比較的大きめに造られています。沖縄で最も古い厨子甕として知られているのは「浦添ようどれ」に納められている英祖王(在位1260-1299年)の石厨子3基で、14世紀頃に造られたと推測されます。そしてこの「ムムジャナバカ(百按司墓)」が次に最も古い厨子甕が残っている墓であると言われています。(第四号墓所)(第四号墓所の内部)「第三号墓所」に向かって左側の崖には「第四号墓所」があります。墓の内部には複数の家型厨子甕や厨子甕が所狭しと並べられてらおり、破損した甕や床には多数の白骨化した人骨が剥き出しに納められています。風葬は死体を埋葬せず外気に晒して自然に還す慣習の事で、遺体の腐敗が早い南西諸島(奄美群島/琉球諸島)では近年まで一般的な葬制でした。沖縄では洗骨後の改葬を目的とした墓室内での風葬は1960年代まで主流として行われ、現在も離島など一部の集落で継続されています。風葬は遺体をバンタ(崖)やガマ(洞窟)に置き自然の腐敗を待ちます。3年後、5年後、7年後などの時期をみて洗骨して厨子甕に納骨します。(第五号墓所)(第五号墓所の内部)(第五号墓所の入口脇にある厨子甕)「第四号墓所」に向かって左側に「第五号墓所」の洞窟があります。この墓内には古く破損した木棺が2基あり、墓の入口には厨子甕が放置されています。古琉球では風葬が行われるバンタ(崖)やガマ(洞窟)は、現世と後世の境界の聖域と位置付けられてきました。先祖の霊を崇めると同時に「死」はあくまでも、忌まわしい不浄な状態の「穢れ(汚れ)」とも捉えられていたそうです。「ムムジャナバカ(百按司墓)」には数百年前の人骨が露わになったままですが、先祖の伝統を大切に継承する「運天集落」では風葬の文化を守り続ける為に、古から変わらない葬制で先人の遺骨を祀り続けているのです。
2022.03.01
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(ティラガマ)沖縄本島北部の今帰仁村(なきじんそん)の「運天(うんてん)集落」に「ティラガマ」と呼ばれる鍾乳洞窟があります。女人禁制であるこの自然洞窟は集落の聖地として崇められており、源頼朝と源義経の叔父にあたる「源為朝(ためとも)」が運天港に上陸してから一時的に住み着いたガマ(洞窟)だと伝わります。「ティラガマ」は歴史の深い「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」と呼ばれる巡拝行事の際に拝されるウガンジュ(拝所)の1つです。「運天集落」では「タキヌウガン」と呼ばれる行事で拝されています。ちなみに「ティラ」とは一般的に神の鎮座する場所を指し、地域により「テラ」とも呼ばれています。(ティラガマへの通路)(お焚き上げの石組)(鍾乳洞穴前の拝所)(ティラガマの入り口)「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」は「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄本島北部で親族一門が行う聖地旧跡の巡拝行事です。沖縄本島南部の「東廻り(あがりまーい)」と並び、沖縄の多くの門中(むんちゅう)によって行われています。この「門中」とは同じ先祖を持つ父系の血縁集団のことを意味します。「今帰仁上り」の主要な巡拝聖地は各門中や地域などにより様々ですが、琉球開闢の伝説に関わる御嶽、三山時代の史跡、集落のノロ殿内、三山統一後の監守時代の按司墓などが毎年(又は3、5、7年ごとの奇数年)巡拝されます。「ティラガマ」の周辺には多数の拝所が点在し、ウコール(香炉)と霊石が祀られています、(ティラガマ入り口の拝所)(ティラガマ入り口付近の拝所)(ティラガマの入り口付近の拝所)(ティラガマ入り口付近の拝所)琉球王府の正史である「中山世鑑」に記される「舜天(しゅんてん)王」は「源為朝」の子であるという伝説があります。「保元の乱(1156年)」に敗れて伊豆大島に流刑になった「源為朝」は島からの脱出を試みた際、潮流に流され"運を天にまかせて"たどり着いたのが沖縄本島北部の「今帰仁」の港でした。それに由来してこの港は「運天港(うんてんこう)」と名付けられました。その後「源為朝」は沖縄本島南部に移り住み、大里按司の妹と結ばれて「尊敦」が生まれ、この男児が後の「舜天王」だと言われています。「舜天王統」は1187年から1259年の間「舜天」「舜馬順煕」「義本」の3代、73年に渡り「琉球国中山王」の王位に就いたとされます。(ティラガマ内部/階段を降りた右側の拝所)(ティラガマ内部/運天と上運天に向けられた拝所)(ティラガマ内部/本土に向けられた拝所)「ティラガマ」では「タキノウガン」と呼ばれる祭祀が行われています。「上運天」と「運天」の両区長とカミンチュ(神人)が集いガマの拝所に祈ります。鍾乳洞窟の入口から階段を降りた場所の右手には拝所がありヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。そこから更に洞窟の奥に進むと、大人がしゃがんで入れる程の小さな空間となっています。その中に大和(本土)に向けられた主要な拝所、その背後にも「上運天」と「運天」に向けられた拝所があり、それぞれビジュル(霊石)とウコール(香炉)が祀られています。このビジュルは古くから子授けの霊力が宿っているとされ、人々の信仰を集めています。なお、このガマは女人禁制なので、女性は洞窟の入り口に設けられた拝所からガマ内部を遥拝する事が出来ます。(源為朝公上陸之趾の石碑)(石碑の脇にある拝所の祠)「運天集落」から運天港を見下ろす丘に「源為朝公上陸之趾」と彫られた石碑があり1922年(大正11)に「東郷平八郎」により建立されました。石碑の文字も「東郷平八郎」により書されたもので「源為朝」の来琉を根拠に、琉球の祖先が日本人と同じだったことを印象づける事により、愛国心の育成に力を注いでいたと言われます。この石碑に利用された石材は明治5年に国頭村宜名真(ぎなま)沖で沈没した英国船の積み石(バラスト)を利用したとも伝わっています。「東郷平八郎」は明治時代の日本海軍の指揮官として日清戦争と日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた人物で「東洋のネルソン」とも呼ばれ、国内外で英雄視されました。(運天展望台)(運天展望台からの景色)「ティラガマ」の南側で「源為朝公上陸之趾」の西側の崖上に「運天港」を見下ろす「運天展望台」があり、展望台からは「古宇利島」と「古宇利大橋」の絶景が広がっています。琉球王国時代「運天港」は北山王統の主要な港として栄え、17世紀に薩摩が琉球侵攻した際に沖縄本島への最初の上陸港となりました。戦前は奄美群島や日本本土との流通な中心地となり、沖縄戦では旧日本海軍の特殊潜航艇基地が置かれ、米軍の攻撃により壊滅して米軍が上陸した港となりました。琉球の昔より時代の節目節目で歴史に大きく関わる港として「運天港」は存在し続けてきました。現在は静かで穏やかな港として、沖縄のゆったりとした平和な時間が流れています。
2022.02.24
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