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(吉の浦歌碑/吉の浦公園)沖縄本島中部にある「中城村/なかぐすくそん」の中央部に「当間/とうま集落」があり、この集落の東海岸線沿いに「吉の浦公園」があります。この公園には村民体育館、ごさまる陸上競技場、野球場、テニスコート、ゲートボール場、遊具等があり、村民を中心に利用される憩いの場となっています。この「吉の浦公園」の入り口に「吉の浦歌碑」が建立されており、歌碑には『とよむ中城 よしの浦のお月 みかげ照り渡て さびやないさめ』と刻まれています。この歌の意味は『有名な中城の よしの浦の月は 光美しく照り渡り さえぎるものもない』となっています。その昔「護佐丸・阿摩和利の乱」により混乱を極めた「中城村」の地ですが、今となれば天下は平和に治り何の災難もないという円満な世の中を歌っています。(吉の浦歌碑)(中城村のマンホール)「吉の浦歌碑」に記された歌は「国頭朝斉/くにがみちょうさい(1686-1747年)」により詠まれ「国頭親方」とも呼ばれた歌人であり唐名は「向秉乾」といいました。1718年に進貢正使として中国に渡り、さらに1925年には年頭慶賀使として薩摩に上国したと伝わります。「国頭朝斉」は「沖縄三十六歌仙/おきなわさんじゅうろっかせん」という琉球王国時代における代表的な歌人36名のうちの1人でした。琉球王国末期の著名な政治家であり歌人の「宜湾朝保/ぎわんちゅうほ」が1870年に編纂した沖縄初の和歌集『沖縄集』に「沖縄三十六歌仙」の歌が掲載されています。ちなみに首里出身の「宜湾朝保」は13歳で家を継ぎ宜野湾間切(現宜野湾市)を領して「宜野湾親方朝保」と呼ばれた琉球の「五偉人」の1人として知られています。現在、この歌は中城村のマンホールの蓋に採用されており、多くの人々に愛され親しまれています。(仲松門中/屋号大仲松の屋敷)(ウマアシグムイ跡)(中城村立吉の浦保育所のシーサー)廃藩置県後「当間集落」の海沿いにある小字「浜原/はまばる」に「仲松姓/洪氏」の人達が「屋取/ヤードゥイ」を形成し「高江洲屋取/タケーシヤードゥイ」または「当間の下/トーマヌシチャ」と称されていました。この土地を開拓した「仲松/ナカマチ門中」は首里士族の子孫で1879年以後に西原村仲伊保に移り住み、そこから「当間集落」の西側に移住したと言われています。その中でも最初に移り住んだのが最も海岸に近い屋号「大仲松」でした。「高江洲屋取」の住民は移住してきた当初は「当間集落」の豪農の家に住み込みで働き、お金を貯めて徐々に土地を増やしていったと言われています。系統の家に屋号「大仲松/ウフナカマチ・御殿地/ウドゥンジ・井ヌ下/カーヌシチャ・上仲松/イーナカマチ・前砂原/メーシナバル・後砂原/クシシナバル」などがあります。かつて屋号「大仲松」の屋敷の東側には「仲松門中」が所有していたサーターヤー(製糖小屋)で働く馬を洗う「ウマアシグムイ」がありました。(屋号井ヌ下/沖縄そば専門店まるち中城店)(屋号井ヌ下の古井戸跡)(沖縄そば専門店まるち中城店/旧ちゅるげーそば)屋号「大仲松」の東側で「ウマアミシグムイ」の北側に「仲松門中」系統である屋号「井ヌ下」の屋敷があり、現在は「沖縄そば専門店まるち中城店」として営業しています。この沖縄そば店は築約80年の古民家を利用した地域でも非常に有名な沖縄そば店で、以前は「ちゅるげーそば」の店名で長年多くの地元住民から観光客にも愛されていました。この屋号「井ヌ下」の屋敷には古井戸跡がありウコール(香炉)が設置され水の神様を祀っています。現在、井戸の水は枯れていますが、かつては「高江洲屋取」の貴重な水源の一つとして重宝されていたと考えられます。また「高江洲屋取」には「カーラーヤー/瓦葺の家」が14軒あったと伝わります。当時「カーラーヤー」は金持ちの象徴で「当間集落」に移住した屋取の人々は当初財産がなかったため『人が2歩歩いたら自分は10歩歩く』と言って、一生懸命に財産を増やしたと伝わります。(スガチミチ/村道潮垣線/ンマイー)(龍宮神)(龍宮神の祠)(サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸)屋号「井ヌ下」沿いには「スガチミチ/村道潮垣線」が南北に通っています。この道はかつて馬の走り方の美しさを競う「琉球競馬」が行われていた事から「ンマイー」とも呼ばれていました。この道沿いで屋取の「サーターヤー」が昔あった場所に「龍宮神」が祀られる祠が東の海に向けられ建立されています。この場所は海から約200m離れた内陸にありますが、大潮や台風の際には「スガチミチ」まで塩水が流れ込む自然被害が頻繁にありました。この「龍宮神」は海の安全を祈るためにこの位置に祀られたと考えられ、戦前から屋取の人々のみならず「当間集落」の住民に拝されていました。「龍宮神」の祠から北西側に約200mの場所には「サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸」があります。戦前、この周辺は石山になっており、井戸は生活用水の為ではなく昔から拝所として拝まれていたと伝わります。(旧県道/村道吉の浦線)(屋号西前ン田小/旧雑貨屋)(屋号仲前ン田小/旧雑貨屋)「当間集落」の中心部を南北に通る「旧県道」に戦前まで馬車駆動が通っており、現在「村道吉の浦線」として人々の暮らしに欠かせない道路となっています。この道沿いにある屋号「西前ン田小」と、現在「中城観光協会」の西側にある屋号「仲前ン田小」は集落で2件あった「マチヤー/雑貨屋」でした。屋号「西前ン田」の雑貨屋では母屋の別棟で米や日曜日を販売していました。さらに屋号「仲前ン田小」の雑貨屋は母屋の軒下にトタン屋根を伸ばして営んでいました。この雑貨屋では酒や塩などの専売品や食用油、砂糖、米、灯油などタバコ以外の日用品は何でも売っていたそうです。この雑貨屋の家主は荷馬車を所有する「馬車ムチャー」であったため、那覇に砂糖樽を卸した帰りに様々な商品を仕入れていたと言われています。(ウマヌチミクマサー/蹄鉄師の作業場跡)(タバコヤー/ダンパチヤー/ソバヤー跡)(タムトゥガー)「旧県道/馬車駆動」沿いで「中城観光協会」の北側に、かつて「ウマヌチミクマサー/蹄鉄師」と呼ばれる馬車馬や農耕馬の蹄鉄を装蹄する職人の作業場がありました。「当間集落」の「トーママーチュー」は馬車駆動の中継地点であった事から、この場所で開業していたと考えられます。更に「中城観光協会」の土地には戦前まで「タバコヤー/たばこ屋・ダンパチヤー/床屋・ソバヤー/そば屋」が軒を連ねていました。首里出身の人が床屋を営み「ダンパチヤーのターリー(父さん)」と呼ばれていたそうです。その後、長男に床屋を任せて「ターリー」は隣でタバコを販売していました。「ダンパチヤー」の北側に隣接して「ソバヤー」があり「山城」という名前の女性が沖縄そば屋を営んでいました。この「ソバヤー」は製糖作業で働く若者達で繁盛していたと伝わります。この「ソバヤー」の北東側には「タムトゥガー」と呼ばれる井戸があり、戦前は海石のカブイ(蓋)が付けられていました。昔は井戸の水量も豊富で良質な水であった事から豆腐作りに重宝されていたと言われています。
2023.01.20
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(トーママーチューの殿/ノロー殿)沖縄本島中部の西海岸沿いに「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の中央部に「当間/とうま集落」があります。現在の「当間公民館」の敷地から国道329号線を含む西側一帯はかつて松の大木が生い茂る松林が広がり「トーママーチュー/当間松」と呼ばれていました。そこは沖縄の真夏の暑い太陽が照りつけても木陰になるため、集落の住民が涼みに集まる社交場として親しまれていました。お年寄りが孫を連れて遊ばせたり、昼寝をするといった平和な光景があったと言われています。また「トーママーチュー」の東側を通る旧県道には「西原製糖工場」に収穫したサトウキビを運搬するため「泡瀬」から「与那原」までの区間を南北に馬車駆動が敷設されていました。(トーママーチューの殿/向かって左側)(向かって左側の祠内部/火の神/氏神)(トーママーチューの殿/向かって右側)(向かって右側の祠内部/殿神)現在、かつて「トーママーチュー」と呼ばれた場所には「殿/トゥン」の祠が2つあり「ノロー殿/ノロードゥン」と呼ばれています。向かって左側の祠には「火の神/氏神」が祀られ、向かって右側には「殿神」が祀られています。戦前は「当間公民館」のゲートボール広場の南側に祠が建立されていましたが、戦後の国道建設に伴い現在の場所に移設されました。集落の「グングヮチウマチー/5月稲穂祭」と「ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の際には「当間集落」を管轄する「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われました。「当間集落」は「泡瀬」と「与那原」の中間地点にあり「トーママーチュー」は馬とトロッコムチャー(サトウキビの運搬業者)が交代する交換所となっていました。そのため乗客の休憩場や馬に餌を与える場所として村内外の人々に広く知られていたと伝わります。(トーママーチュー)(旧県道/馬車駆動跡)(ミジャレーヌサンカク)(ミジャレー橋跡)「トーママーチュー」の西側にはかつて馬車駆動として使われていた「旧県道」が南北に通っており、この道は現在「県道吉の裏線」と呼ばれています。「旧県道」の南側の屋号「新仲門/ミーナカジョー」の屋敷の隣に「ミジャレーヌサンカク」と呼ばれる場所があり、戦前まで三角形の畑地となっていました。ちなみに「新仲門」の「仲門門中」は「義本王」3代目が元祖と伝えられており、本家は北中城村「字喜舎場」の屋号「上ヌ安里/イーヌアサト」と言われています。「ミジャレーヌサンカク」の土地は収穫したサトウキビの集積所として利用され、この地点から「旧県道」に敷設されたトロッコにサトウキビを積み込み馬に引かせて「西原製糖工場」へと運んでいました。この「ミジャレーヌサンカク」から更に南側には戦前まで「ミジャレー橋」という橋が架かっていました。(ビジュルグムイ)(サーターヤーヌメー/ウマアミシグムイ跡)(サーターヤーヌメーのカーラ)「ミジャレー橋跡」の東側に「ビジュルグムイ」という湧き水の溜池があり「ヘンザガー」とも称されていました。周辺は草に覆われていますが現在も水が湧き出ています。「ミジャレーヌサンカク」の北西側に「サーターヤーヌメー」と呼ばれる場所があり、隣接して「当間集落」の各組(集落における住民編成)が営む「サーターヤー/製糖小屋」が3箇所並んでいました。「上組/イーグミ」は屋号「前喜友名・亀前喜友名小」などが営み「中組/ナカグミ」は屋号「前喜屋武・上喜屋武・東喜屋武・新仲」などが運営し「下組/シチャグミ」の家が所有していました。かつて「サーターヤーヌメー」の側には「ウマアミシグムイ」という溜池があり「カーラ/川」に隣接している事から水量も多く「サーターヤー」で使った馬の体を洗う時に利用されていました。クムイ(溜池)の入り口から徐々に深くなり馬を洗う地点まで石が敷き詰められていました。製糖で使った馬は作業が夜遅くまで続いても必ず綺麗に洗ってから馬小屋に戻しました。もし馬を汚れたまま戻すと、馬の疲れが取れずに翌日に働く事が出来なかったと伝わります。(ガンヤー/龕屋跡)(ターチムイ)「サーターヤーヌメー」の北西側にかつて木造瓦葺きの「ガンヤー/龕屋」があった場所があります。火葬が一般化する以前は遺体を納めた棺桶を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる漆塗りの輿があり、それを収納しておく小屋は「ガンヤー」と言われていました。「ガン」を担ぐ人は体力がある青年が選ばれ「ガンカタミヤー」と呼ばれました。遺体を乗せた「ガン」を担いでいる時は、重さでどんなに肩が痛くても肩を左右に入れ替えてはいけなかった慣習がありました。もし途中で肩を入れ替えると、後ろで「ガン」を担ぐ人が早死にすると信じられていました。この「ガンヤー」の北側には2つの山の間に「ンナトゥガーラ」と称する道が通っており、この一帯は「ターチムイ/2つ森」と名付けられていました。なお、集落の住民の多くはこの森に薪を拾いに行っていました。(タントゥイモー)(上ヌ池ニー/イーヌイチニー)(上ヌ池/イーヌイチ跡)「当間集落」の西側で現在の「中城メモリアルパーク」の上方に「タントゥイモー」と呼ばれる丘陵があり、集落の祭祀に使用する神酒を造る為の稲を育てる「ナーシル/苗代」として利用され、旧暦の11月に稲ね発育を祈願する「タントゥイ/種子取」の行事が行われていました。また「タントゥイモー」周辺一帯は屋根ね葺き替えに使われる茅が生い茂る「カヤモー/茅毛」となっていました。「タントゥイモー」の東側には「上ヌ池ニー/イーヌイチニー」という、かつて松の木が生えていた場所があり「上ヌ池/イーヌイチ」という名前のクムイ(溜池)がありました。「タントゥイ」の行事の際には住民が松明を持って「タントゥイモー」から降りてきて「上ヌ池ニー」の広場を3回周って下方の「サーターヤー」近くの「ウマアシグムイ」まで下って行ったと言われています。(クボーウタキ/クボー御嶽)(クボーウタキ/クボー御嶽のウコール)(クボーウタキ/クボー御嶽の石碑)「当間集落」の南西側にある「小字久保原/クボーバル」と、隣接する「安里集落」の「字安里」の境界付近にある森の中に「クボーウタキ/クボー御嶽」があります。「シチャクボー/下クボー」や「安里クボー」とも呼ばれるこの御嶽は、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に『コバウノ嶽 神名 コバウ森御イベ 安里村』と記されており「安里集落」の拝所として書き述べられています。「クボーウタキ」のイビ(威部)にはウコール(香炉)が北向きに設置され、古いビジュル石(霊石)が建立され祀られています。御嶽の周辺にはマーニ(クロツグ)やクバ(ビロウ)が生い茂っており「安里集落」では稲の豊作祈願と収穫を祝う「グングヮチウマチー/5月ウマチー」と「ルクグヮチウマチー」の際に拝しています。
2023.01.14
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(山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン)「当間集落」は沖縄本島中南部の西海岸に広がる「中城村/なかぐすくそん」の中央部にあります。「当間集落」の南北に通る国道331号線の西側に集落発祥の丘陵があり、国道の東側に広がった「屋取集落」の平地は中城湾まで続いています。「中城村役場」「中城観光協会」「吉の浦公園/ごさまる陸上競技場」など中城村の主要施設は「当間」に属しています。この集落は「久保原/グローバル・平原/ヒラバル・犬川原/イヌガーバル・佐久川原/サクガーバル・前原/メーバル・比嘉田原/ヒジャタバル・浜原/ハマバル」の7つの小字から成り立っており、琉球王国時代の「当間村」には現在の「北上原」の一部の「榕原/ガジバル・若南原/ワカナンバル」を含めた広い面積がありました。(山田ヌ殿/向かって右側)(山田ヌ殿/向かって左側)(山田ヌ殿/移設された拝所)「当間集落」の北西側に「山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン」があります。屋号「山田」の北側に位置しており「山田門中」は集落の創始家とされ、ムラで行われる祭祀の中心的な役割を担ってきました。年中行事であるチナヒチ(綱引き)の際、先祖供養の為に列になり練り歩き「山田ヌ殿」に向います。集落の北側(イーグミ/上組)と南側(シチャグミ/下組)がお互いの隊列や踊りを乱す「ガーエー」と呼ばれる勝負をした後、めでたい先例である「カリー/嘉例」をつけて祈願しました。戦前は旧暦7月16日に行われる「ワラバーヂナ/子供綱引き」と翌日17日の「ニーセージナ/青年綱引き」があり、さらに7年毎(マール)に「ウフヂナ/大綱引き」が行われ「マールヂナ」とも呼ばれています。綱引きは集落の安泰と豊作を祈願する大切な行事で、どんな悪天候でも必ず行われたと伝わります。「山田ヌ殿」に向かって左側に隣接する祠は、かつて西側の畑の中にあったものが移設されたと言われています。(山田ヌ井戸/ヤマダヌカー)(山田ヌ井戸の湧き水)「山田ヌ殿」の北側に「山田ヌ井戸/ヤマダヌカー」があり「カブイ」と呼ばれる石積みの屋根が施されています。この井戸は現在も水が湧き出ており、旧暦1月2日に行われる「ハチウビー/御初水」は水に感謝する日とされ「山田ヌ井戸」は拝されています。この井戸がある屋号「山田」の家は「根人/ニーチュ/ニーンチュ」と呼ばれる集落創始の家系「根屋/ニーヤー」の当主で、かつては「当間集落」の祭祀を管轄した「屋宜ノロ」と共に祭事を司りノロの補佐役として重要な役割を担っていました。因みに「屋宜ノロ」は「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄していました。「山田門中」は綱引きの際に使われる灯籠や旗頭などの保管場所となっていました。「イーグミ/北組」の旗頭には「和気」「協力一致」と記され「シチャグミ/南組」の旗頭は「清風」「南北豊年」となっています。(ヒージャーガー)(かつて松の木があった休憩場所)(ヒージャーのクムイ/溜池)(仲前ン田小のサーターヤー跡)「山田ヌ殿」の北側に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡があり、かつては正月に汲まれる若水として利用されていました。水源の北側丘陵の土砂崩れが起こる以前は水量が豊富で2mほどの水深があり子供達が水浴びをしたと伝わります。戦後に「ヒージャーガー」の水を利用する為に「山田ヌ殿」の敷地にタンクが設置され、集落の3箇所にパイプを通し簡易水道として利用されていました。現在この井戸跡の近くに鉄塔が建てられていますが、昔は大きな松の木があり地元の人達が休憩する場所として利用されていたそうです。「ヒージャーガー」の西側に「ヒージャー」のクムイ(溜池)があり、こちらも戦前は若水を汲んでいたと言われています。このクムイに隣接して屋号「仲前ン田小」が所有していた「サーターヤー/製糖小屋」があり、戦後は牛舎として利用されていました。(仲門前ヌ殿/メーヌトゥン)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって右側)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって左側)(仲門ヌ前/ナカジョーヌメー)「当間集落」の中央部に「仲門前ヌ殿/ナカジョーメーヌトゥン」があり、旧暦2月1日の悪疫祓いの行事である「ニングヮチャー」の際に拝されています。地元住民からは「ニングヮチャーヌトゥン」または、屋号「仲門/ナカジョー」の向かいに位置しているため「前ヌ殿/メーヌトゥン」と呼ばれていました。「仲門前ヌ殿」の敷地と隣接した道を含めた一帯は「仲門ヌ前/ナカジョーヌメー」と称され「ニングヮチャー」の行事では牛を潰し牛汁を炊き「仲門前ヌ殿」に供えました。また「仲門ヌ前」には集落の住民が集まり皆でそれを食しました。更に潰した牛の生血を「ギキチャー」と言うミカン科の木である「月橘/ゲッキツ」の枝葉に付けて持ち帰り、屋敷の四隅に魔除けとして挿したと伝わります。また集落の四隅にも同様に生血を付けた月橘の枝葉が設置されたと言われています。(仲門前ヌ殿のクムイ/溜池跡)(ムラガー/ウブガー)(屋号伊佐の井戸)「仲門前ヌ殿」の西側に隣接した場所にはかつてクムイ(溜池)があり防火用の水を溜めていました。昔の集落は茅葺きの家がほとんどで、火事が度々起きていたと言われています。この溜池から道を挟んだ場所に屋号「西仲門/イリナカジョー」の屋敷があり、敷地内には集落の共同井戸である「ムラガー」があります。昔から水が豊富に湧き出る井戸で、集落で子供が産まれた時に使用する「産水」を汲んでいた事から「産井戸/ウブガー」とも呼ばれていました。また、この井戸の北側にある屋号「久手堅」の脇に小高い丘があり豊富な水が湧き出ていました。その下方にある屋号「伊佐」には溢れ出た湧き水が堰き止められ、水が溜まる井戸が設置されていました。現在は堰き止めた石積みの前にコンクリート製の枠が設置されています。(ヌール道)(屋号眞境名小の井戸)(ノロの休憩場所)「仲門前ヌ殿」の南西側に「ヌール道」と呼ばれる道があり「グングヮチウマチー/5月稲穂祭・ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の時に「当間集落」で祭祀を終えた「屋宜ノロ」が「安里集落」に向かう際に通った道と言われています。屋号「眞境名小」の屋敷手前に大きなガジュマルの木があり、ノロはその木陰で休憩を取った後に現在国道331号線を通り「安里集落」に向かったと伝わります。古老の話によるとウマチーの祭祀の際に「ウンサダイ」と呼ばれるノロのお供は「屋宜ノロ」を乗せる駕籠を用意して担いでいましたが、ノロはそれには乗らず祭祀の際に着用する白装束だけ駕籠に置いて皆と共に歩いたとの伝承があります。その為「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄した「屋宜ノロ」が全てのウマチー祭祀を終えるのは夜遅くだったと言われています。
2023.01.07
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(ウカミ/ムラヒヌカン)沖縄本島の中南部で中城湾の東海岸線沿いに「中城村/なかぐすくそん」があり、村の中央部に「奥間/おくま集落」があります。この集落の中心部にあるゲートボール場の一帯は「トゥンナー/殿庭」と呼ばれ、戦前は現在の公民館にあたる「ムラヤー」があり旧暦8月15日の「十五夜」の行事が行われていました。集落の人々は月が昇る前に「トゥンナー」に集まり、筵(竹を編んで作った敷物)にお酒を出して宴会を開き広場では獅子舞の演舞等が催されました。また、当時は「奥間集落」の神事を管轄していた「屋宜ノロ」がウマチー(豊作祈願/収穫祭)の行事の際に立ち寄る大きな瓦屋があったと言われており「トゥンナー」は「奥間集落」において重要な祭祀場であったと伝わります。(ウカミ/ムラヒヌカンの祠)(ウカミ/ムラヒヌカンのウコール)「トゥンナー」の一角に「ウカミ/ムラヒヌカン」と呼ばれるコンクリート製の祠があり、内部には3つの霊石が祀られ正面にはウコール(香炉)が設置されています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『古隠座敷之殿 奥間村』に相当すると考えられ『稲二祭之時、花米九合宛・五水六合宛・神酒一宛・シロマシ一器当奥間座敷殿ニ奥間地頭、神酒一宛・シロマシ一器宛・五水二合宛、神根之殿・中奥間之殿・古隠座敷之殿、三ケ所者同村百姓中、供之。屋宜巫ニテ祭祀也。且、祭之前日ヨリ祭ノ朝食マデ、巫・根神二員・掟アム一員、根神之殿ニテ二度、百姓中ヨリ馳走也。』との記述があります。「十五夜」の行事の際には「トゥンナー」にある「ウカミ/ムラヒヌカン」の祠に「フチャギ」と呼ばれる、茹でた小豆をまぶした餅をお供えしたと言われています。(ヒヌカン/火の神)(ニーヤー/根屋/仲村渠門中)「トゥンナー」の南側にマーニ(クロツグ)が生い茂る平場があり中央部には霊石が3体置かれた「ヒヌカン」があり、旧暦6月15日の稲の収穫祭である「六月ウマチー」の際に拝されています。さらに「トゥンナー」の東側に隣接して「ニーヤー/根屋」である「仲村渠門中/ナカンダカリムンチュー」の屋敷があり『琉球国由来記』には『古隠根所 奥間村 毎年六月、為米初、神酒二同村百姓中供之。屋宜巫ニテ祭祀也。』と記されています。「仲村渠門中」は「奥間集落」の創始家系統の家で祖先は1962年に出版された『琉球祖先宝鑑』に記述には「天孫子」の子孫である「百名大君」の系統で、玉城村(現南城市)の「仲村渠集落」の「ミントン」という家の出身であると記されています。「百名大君」の子孫である「中城グスク按司」が「奥間集落」に移り「イーガーバル/上川原」に屋敷と井戸を構えた事が「仲村渠」の始まりであると伝わります。(トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿)(トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿の祠内部)(ニーチュ/根人/幸地門中)「トゥンナー」の北側に「トォークマウドゥン/当奥間座敷之殿」があり、横幅1.2m・高さ0.9m・奥行0.7mの祠が建立されています。『琉球国由来記』には『当奥間座敷之殿 奥間村』と記されており、5月と6月のウマチーの際には「屋宜ノロ」により祭祀が行われていました。屋号「幸地」に保管されている『当奥間世系之図』には、羽衣伝説で知られる宜野湾間切謝名村出身の「奥間大親」の3男である天久按司の家とあります。「座敷」と呼ばれる役職は琉球士族の称号「親雲上」の品位「従四品」にあたる位階となっています。「トォークマウドゥン」の東側約60mのばしょには「ニーチュ/根人」である屋号「幸地」の家があります。『当奥間世系之図』によると「当奥間」と同じく「奥間大親」を祖先とし「当奥間」の初代から数えて3代目から分家しています。「幸地」は「ニーチュ」の系統の家と言われていますが「奥間」の「ニーヤー」である「仲村渠」とは系図上の繋がりがないと言われています。(クシベーヌチナヌウガンジュ)(クシベーヌチナヌウガンジュの祠内部)(ムラガー/親井戸)(ガンヤー/龕屋跡)「トゥンナー」からナカミチを北側に進むと「クシベーヌチナヌウガンジュ」の祠があります。ナカミチを境に北側は「クシベー」と呼ばれ、このウガンジュは「クシベー」の拝所として綱引きの前に祈願されていました。「クシベーヌチナヌウガンジュ」から東側の民家と民家の間に「ムラガー/親井戸」があり、現在は手押しポンプが取り付けられています。正月にこの井戸から若水を汲み、茶を沸かして飲み一年の健康祈願をしました。また、年の初めに祈願する「ハチウビー/御初水」や集落で子供が生まれた時の産水を汲んだ「ウブガー/産井戸」として利用されていました。「ムラガー」沿いの道を南東側に向かうとかつて「ガンヤー/龕屋」があった場所があります。「ガンヤー」とはかつて葬式の時に死者の棺を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる輿を収めていた小屋の事を言います。(合祀所)(チナーヤマ/喜納山)(チナーヤマ/喜納山の森)「奥間集落」の北側に「チナーヤマ/喜納山」があり、1970年頃に起きた土砂崩れにより流された「チナーウタキ/喜納御嶽」と「按司墓」に加えて、集落が発祥した「字北上原」の「シマクのウガン/キシマコノ嶽」への遥拝所が合祀されたコンクリート製の拝所があります。「チナーウタキ」は『琉球国由来記』に『喜納ノ嶽 神名 奥間森比喜セジノ御イベ 奥間村 屋宜巫崇所』と記されています。更に「按司墓」は琉球王国の三山時代に最後の中山王として即位していた「武寧王/ぶねいおう(在位 1396-1405年)」の墓として伝えられており、各地域からの参拝者が多数訪れます。この合祀所がある「チナーヤマ」は戦前「ニーチュ」により管理され『平日にチナーヤマに入って薪を取ると祟りが起こる』との言い伝えがあるほど平日の入山は厳しく規制され、年に一度の特定の日にしか山に入る事が許されていなかったと言われています。(チナーヌカー/喜納ヌ井戸)(メーヌカー/前ヌ井戸)(メーヌカー/前ヌ井戸)(シマクのウガン/キシマコノ嶽)「奥間集落」の中央を通る「ナカミチ」を北西側に進み突き当たった場所に「チナーヌカー/喜納ヌ井戸」があります。井戸は「チナーヤマ」の麓にあり、土砂崩れの以前にあった「チナーウタキ」の入り口に位置しており「ハチウビー」の際に集落の住民に拝されていました。「チナーヌカー」の南側で集落の西側を流れる「メーガーラ」沿いには「メーヌカー/前ヌ井戸」と呼ばれる井戸があります。戦前は各家で豆腐を作っており、この井戸の水質は良く美味しい豆腐が出来る事で重宝されていました。また、日照りが起きた時も水が枯れる事がなく利用されており「チナーヌカー」同様に「ハチウビー」の際に拝まれていました。「奥間集落」北側の「字北上原」に「御願毛」と呼ばれる山の頂上に「シマクのウガン」があり「奥間」の発祥地として以前はウマチーの際に拝されていました。『琉球国由来記』には『キシマコノ嶽 神名 天次アマツギノ御イベ奥間村 屋宜巫崇所』と記されています。
2022.12.28
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(イービヌメー/イベノマエノ嶽)沖縄本島中部の西海岸線沿いに「中城(なかぐすく)村」があり、村の中南部に「奥間(おくま)集落」があります。この集落の東側には中城湾の海が広がり、周囲は「安里・南上原・北上原・津覇」の4集落に隣接しています。「奥間集落」は斜面部と平坦部に分かれており、西側の斜面部は標高約150mの丘陵で島尻層のクチャ(泥岩)で覆われています。この斜面部の麓から平坦部にかけて集落が形成され、北側と南側には集落を挟むように2つの川が流れています。「奥間集落」の古島は北上原にある「シマクのウガン/キシマコノ嶽」の辺りにあったと伝わります。その後、集落の南側丘陵にある「上川原/イーガーバル」の山側から「イービヌメー/イベノマエノ嶽」に移り、最後に現在の「奥間原/ウクマバル」に移ったと伝わっています。また「奥間」の名前の由来は三方を丘陵に囲まれた奥まった場所に集落があった事に因んでいると言われています。(イービヌメーの祠の石組)(イービヌメーのウコール)(イービヌメー後方の珊瑚岩)「奥間集落」の南西側にある「上川原」の森に「イービヌメー」の拝所が鎮座しています。慰霊塔に隣接した「酵素風呂琉球の陽」の南西側約100mに位置している御嶽は、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に『イベノマエノ嶽 神名 コダガマノ御イベ 屋宜巫崇所』と記されています。この場所に「奥間集落」草分けの「根屋/ニーヤー」である屋号「仲村渠/ナカンダカリ」の屋敷跡があり井戸もあったと言われています。マーニ(クロツグ)が生い茂る中にある「イービヌメー」の祠には古い霊石とウコール(香炉)が祀られており、この石造りウコールの正面には「奉寄進」と刻まれています。石組で形成された祠の後方には珊瑚岩が隆起しており、周囲にも人工的に加工された岩が並べられています。この御嶽までの道のりは深い草木に覆われて険しい森となっていますが「中城王子の墓」として「シーミー/清明祭」の際に訪れる参拝者もいる事で知られています。(イービヌメーの遥拝所)(イービヌメーの遥拝所の祠)(イービヌメーの遥拝所のヒヌカン)「イービヌメー」の御嶽の北側約50mの位置には遥拝所であると考えられる祠とヒヌカン(火の神)が祀られています。「イービヌメー」への道は足場の悪い深い森の中を進み、湧き水が流れているクチャ(泥岩)の窪みを越えて行くため、この拝所は高齢者や足の不自由な参拝者が拝む為の「イービヌメー」への遥拝所であると思われます。コンクリート製の祠には霊石とウコールが祀られており、向かって右側に隣接するヒヌカンには3体のビジュル(霊石)を取り囲むように石組が施されています。戦前の「奥間集落」は「宇津原/ウチューバル・海平原/ウンビラバル・桃原/トーバル・奥間原/ウクマバル・喜納原/チナバル・上川原/イーガーバル・前原/メーバル・浜原/ハマバル」の8つの小字から成り立っていました。現在は東側平坦部の「海平原・桃原」まで集落が広がっています。(カミジョーウタキ/上門御嶽)(カミジョーウタキ/上門御嶽の祠内部)(イーヌマウタキ/上間御嶽)(イーヌマウタキ/上間御嶽)「イービヌメー」から東側に約100mの位置に「カミジョーウタキ/上門御嶽」があります。慰霊塔と民家の間に小道があり、この道を進んでゆくと御嶽の祠があります。『琉球国由来記』に『神根之殿 奥間村』と記されている御嶽の祠は現在、コンクリート製に改修されており屋根には昔の祠に使われていた石が置かれています。祠内部には霊石が祀られており前方にはウコールが設置されています。戦前まで「ウマチー」と考えられる「カミジョーアシビー/上門遊び」の際に「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われていました。さらに「カミジョーウタキ」の北側に約50mの小高い丘に「イーヌマウタキ/上間御嶽」に祠が鎮座しています。『琉球国由来記』に記されている『中奥間之殿』に相当する拝所であると考えられ、祠は横幅1.1m・高さ0.5m・奥行0.8mで内部には霊石が祀られています。旧暦7月16日の「ウークイ」の際、集落の綱引きの前にメーベー(集落北側)の祈願が行われていました。(ヒージャーガー)(メーミチ/前道)(メーガーラ)「奥間集落」の綱引きの祈願が行われた「イーヌマウタキ」に隣接した位置に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡がありコンクリートで四角に囲まれています。綱引きは2回行われ1回目は真剣勝負で、2回目は1回目で負けた組に勝たせて必ず引き分けで終わらせていました。綱引きは男性が綱を引き女性が応援にまわっていたと伝わります。「ヒージャーガー」に沿って「メーミチ」が通っており「メーガーラ」と称する川が並列して流れています。源流は北側丘陵の「喜納原」にあり、昔までは広かった川幅は戦後の道路拡張により現在の姿になっています。かつて集落南東側の「メーガーラ」沿いにはメーベーの「サーターヤー/製糖小屋」があり、製糖作業で使用した道具をこの川で洗っていました。また「メーガーラ」の水深は浅く集落の子供達の遊び場であったと言われています。(シム小屋敷地内のヒヌカン)(シム小屋敷地内のヒヌカンの祠内部)(ナカミチ/中道)「ヒージャーガー」の東側に約100mの場所に「シム小屋敷地内のヒヌカン」の祠があり「内間のヒヌカン」とも呼ばれています。屋号「シム小/姓は伊佐」の屋敷地内にある拝所で「奥間集落」のヒヌカンの「もと」と言われています。集落は東西に広がっている為、このヒヌカンから火種を取り集落の中央部にあるもう一つのヒヌカンに火を分けたとの伝承が残されています。旧暦2月2日に豆の豊作を祈願する「ニングヮチャー/クシユックヮシー」で「シム小屋敷地内のヒヌカン」が拝されていました。この祈願が終わると「シム小」屋敷の庭で大きい鍋で肉を煮炊きして酒を飲んで宴会をしていたと言われています。この屋敷に沿って集落を東西に伸びる「ナカミチ」が通っています。「奥間集落」の境界線となっており南側をメーベー(前組)、北側をクシベー(後組)と呼んでいました。(クシミチ/後道)(クシガーラ)(マチヤー/比嘉商店跡)「奥間集落」の北側に「クシミチ」と呼ばれる道が東西に渡り通っており、綱引きの道ジュネーで「クシベーヌチナヌウガンジュ」にクシベー(集落南側)の祈願に向かう際に通る道となっています。「クシミチ」に隣接して「クシガーラ」という川が流れています。この川の源流は集落の南西側丘陵に位置する「宇津原」にあり、戦後の道路拡張により川端が昔よりも狭くなっています。さらに、集落の東側の「海平原」には「奥間集落」で唯一のマチヤー(商店)がありました。現在、ペットクリニック「モーキャラン」となっている場所に「比嘉商店」というマチヤーがありました。瓦葺きの2階建ての家で「伊舎堂小/イシャドウグヮー」という人が店を営んでいました。この「比嘉商店」には米や醤油をはじめ、大抵の商品が揃っていました。そのため集落の住民はほとんどこの商店で買い物を済ませて重宝していたと伝わります。(竜宮神の拝所)(竜宮神の霊石)「マチヤー/比嘉商店跡」の北側丘陵には「フトゥキントゥー」と呼ばれる墓地地帯で、民家と墓地の間に「竜宮神」の拝所があり祀られた霊石の周りに石組が施されています。この拝所は中城村教育委員会の資料には「名称不明」の拝所と記されていますが、拝所に隣接する民家の住人の方が親切にも拝所の場所まで同行して頂き、昔から伝わる「竜宮神」である事を丁寧に教えてくれました。その昔は春先になると中城村の漁業関係者が祈願のために訪れて拝していたと伝わります。「竜宮神」の拝所は小高い丘陵の上に鎮座しており、石碑は東側に広がる中城湾に向けられています。一般的な沖縄の「竜宮神」の拝所は海沿いの浜辺周辺に祀られていますが、この拝所は東側の海から約800m離れた「海平/ウンビラ」と呼ばれる見晴らしの良い丘陵にあります。この「海平」は「屋宜ノロ」が「奥間集落」でウマチーの祭祀を執り行う際に利用した聖地であったとの伝承が残されています。
2022.12.21
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(トゥングヮー/殿小)沖縄本島中部にある中城村の中央部に「安里(あさと)集落」があります。「安里集落」は「桃原/トウバル・下原/シチャバル・西原/イリバル・後原/クシバル・前原/メーバル」の5つのハルナー(小字)で構成されています。この集落が創始した古島(ふるじま)と呼ばれる場所は「後原」の丘陵地にある「トゥングヮー/殿小」周辺で、この地から「安里集落」が広がったと伝わります。集落の北西部にある「トゥングヮー」は戦前は瓦葺きの祠で周囲はマーチ(琉球松)の木々で囲まれていました。この拝所は戦前から旧暦5月15日の稲の生育を願う「グングヮチウマチー/五月ウマチー」旧暦6月15日の稲の収穫を祝う「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」厄祓いと豊年を祈願する旧暦7月17日の「ジュウシチニチ」で住民により拝されてきました。(トゥングヮーのヒヌカン)(安里部落トゥン小の祠の石碑)(トゥングヮーの拝所)「トゥングヮー」は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『里主所之殿 安里村 稲荷祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒壱宛・シロマシ一器安里地頭、神酒二宛同村百姓中、供之。屋宜巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、居神九合員馳走也。』と記されており、祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られています。また「トゥングヮー」について『琉球国由来記』には『里主所火神 同村 毎年六月、為米初、神酒二同村百姓中供之。屋宜巫ニテ祭祀也。』との記述もあり、稲の収穫を祝う旧暦6月15日の「ルクグヮチウマチー」の祭祀の事が記されています。「安里集落」は「屋宜・安里・奥間・当間」の4つのシマ(集落)を管轄していた神職である「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われていました。さらに「トゥングヮー」の敷地には岩盤の上にビジュル石が設置された古い拝所も祀られています。(力石)(かつて力石が置かれていた場所)(メーヌムラガー/前ノ村井戸)「トゥングヮー」の敷地には更に「力石/ちからいし」が三体鎮座しています。「力石」とは集落の若者達が力試しに使った石で、昔はニシジェーと呼ばれるサーターヤー(製糖小屋)の北側の一角に置かれていました。この「力石」は80斤(約48kg)のヒラグヮー(平らな石)が1つと100斤(約60kg)のマルグヮー(丸い石)が2つで、仕事を終えた若者達がニシジェーに集まり力比べを競い合っていました。力試しでは石を抱えて胸まで持ち上げ、抱え直して腕を伸ばして頭上に持ち上げました。力持ちの人は石を素早く頭上に持ち上げる事が出来たと伝わります。「トゥングヮー」の北東側に下った場所に「メーヌムラガー/前ノ村井戸」と呼ばれる井戸跡が残されており、ウコール(香炉)が祀られています。かつては「安里集落」発祥の古島での生活用水として重宝されていたと考えられます。(ムラモー/村毛)(アシビナー)「トゥングヮー」の南東側に「ムラモー/村毛」と呼ばれる原野が広がり、この一帯は屋根の葺き替えに使われる茅が生い茂る「カヤモー/茅毛」になっていました。「安里集落」では年に一度だけ必要な家は無償で茅を刈り取る事が出来たと伝わります。また「ムラモー」の南側にはかつて「アシビナー/遊び庭」があり、神様に豊作を感謝し集落の繁栄を祈願する「ムラアシビ/村遊び」が行われていました。傾斜地を利用した「アシビナー」は上部に舞台、下部に客席が設けられてらいたと言われています。神への奉納として芸能を披露する「ムラアシビ」では組踊「国吉ぬヒャー」や男踊り「クーダーカー」の他にも棒術や鎌術など様々な芸能が演じられてらいました。芸能が盛んな「安里集落」では仕事もせずに周辺の集落を巡り、踊りの勝負を挑む「ミーハギィー」と呼ばれる人がいたそうです。(神屋/カミヤー)(屋号酒庫理/サキグーイ)(屋号金万座/カニマンザの屋敷跡)「アシビナー」の南東側に「神屋/カミヤー」があり、建物内には6つのウコール(香炉)とヒヌカン(火の神)があります。「神屋」の前の広場では旧暦7月に行われる豊年祭で旗頭を披露し宴会を楽しみました。「神屋」の南東側に隣接して屋号「酒庫理/サキグーイ」があり、この門中の本家である事から「五月ウマチー」では首里からも拝みに訪れます。更に屋号「酒庫理」の北側には屋号「金万座/カニマンザ」の屋敷跡があります。四体の霊石が祀られる「安里のテラ」は屋号「金万座」の祖先が建てたと伝わり、戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、旧暦9月9日のチクザキ(菊酒)、旧暦12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)で「安里のテラ」を拝んでいました。「安里集落」の旧家である屋号「金万座」の姓は「玉城」で、代々「安里のテラ」を管理し修繕や建て直しを行なっていました。(カヤブチヤーグヮー/倶楽部)(サーターヤー/ユージェー)(ユージェー/ニシジェー)「神屋」の北側にかつて「倶楽部」と呼ばれていた「安里公民館」があり、この敷地にはその昔サーターヤー(製糖小屋)があり、茅葺き小屋(カヤブチヤー)であった事から「カヤブチヤーグヮー」と呼ばれていました。このサーターヤーは屋号「前仲島袋小・新仲島袋小・金万座」などが使用していました。「安里公民館」の南東側で国道329号線沿いに「ユージェー」と「ニシジェー」という2つのサーターヤーが隣接していました。「ユージェー」は瓦葺き小屋(カーラヤー)のサーターヤーで、屋号「西新金城・前島袋・金城・前金城小」などが使っていました。また北側に隣り合う「ニシジェー」のサーターヤーも瓦葺き小屋で屋号「前金城・川ノ下」などが使用していました。製糖作業を行う熟練の技を習得した人は「シーゾー/製造」と呼ばれ「安里集落」では屋号「屋小比嘉・前仲島袋小・金城」が「シーゾー」として製糖作業を行なっていました。(クスイウヤー/屋号東前島袋)(ウマアシグムイ)(安里ガーラ)(安里ガーラ)「安里公民館」の北東側に隣接した場所は屋号「東前島袋」で、戦前までこの家の老人は「クスイウヤー」と呼ばれる薬売りをしており、体調不良の者や体に痛みのある者が多く訪れたと伝わります。この老人は症状に合った薬を売るだけでなく治療も施していたそうです。公民館の東隣には「ウマアシグムイ」というサーターヤー(製糖小屋)で作業する馬に水浴びをさせるクムイ(溜池)でした。その他にも防火用としての役割もあり、深い所で成人男性の胸の辺りまでありました。また、この溜池にはターイユ(フナ)が生息し、水深が浅い場所では子供達も泳いで遊んでいました。更に、公民館の南側から真っ直ぐに海に注ぎ込む「安里ガーラ」という川が流れており、戦前まで土手があり川幅は約3mあったと言われています。戦後はアメリカ軍の土地整備により川筋が変えられてしまいました。(安里クボー/シチャクボー)(安里クボー/シチャクボー)「安里集落」の北側に「クボー」という御嶽の森があり「安里クボー」や「シチャクボー/下クボー」とも呼ばれています。戦前まで森の木の下にウコール(香炉)が置かれていたと伝わり、現在は旧暦5月15日の「グングヮチウマチー/五月ウマチー」と旧暦6月15日の「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」の年中行事の際に「クボー」の御嶽森の近くから拝しています。『琉球国由来記』には『コバウノ嶽 神名 コバウ森御イベ 安里村』と『同小森 神名 中里ノ御イベ 同村』の記述があり、更に『毎年三・八月、四度御物参之時、有折願也。屋宜巫崇所』と記されています。「御物参/おものまいり」とは「屋宜ノロ」が管轄する「屋宜・安里・奥間・当間」の4つのシマ(集落)の拝所や御嶽を巡る祭祀の事で、集落の五穀豊穣、子孫繁栄、集落の安全、航海安全を祈願したと言われています。
2022.11.01
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(安里のテラ)沖縄本島中部の中城村の中央に「安里(あさと)集落」があり、面積は0.547㎢で西側は丘陵の斜面部となっており、国道329号線を挟んで東側には平野部が広がっています。「安里集落」は「桃原・下原・西原・後原・前原」の5つの小字から成り立っており、現在は「桃原・下原・後原」に住宅地が広がり「前原」の北側は墓地地帯となっています。「安里集落」を南北に通るかつて主要道路であった「スガチミチ/潮垣道」沿いには「安里のテラ」という県指定有形民族文化財があり、集落では「ティラ」と呼ばれています。戦前からカーラヤー(赤瓦屋根)であった「安里のテラ」の内部には四体のビジュル石(霊石)とウコール(香炉)、更にはヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所では参拝者はウチナーウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)に火をつけずにお供えする作法となっています。(安里のテラ内部/四体のビジュル石)(安里のテラ内部/ヒヌカン)「安里のテラ」は1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』に次のように記されています。『神社 俗ニ安里ノ寺ト云 安里村 笑キヨ、押明ガナシ、イベヅカサ、寄キヨラ 昔、屋宜村之百姓、屋宜湊ヨリ猟ニ出ケル処、俄ニ東風猛ク吹来ル故、安里ノ湊ニ舟ヲヨセ浜ニ下リ、暫寝ケルニ、土中ヨリ霊石一ツ出テ、我ハ権現也、掘出シ可崇、其方ノ病悩愈、種々ノ願可遂由、夢想アリ。夢覚テ見ケレバ、如夢霊石ノヤウニ見へケル石有リ。不思議ニ思ヒ占ヲ致シケレバ、正ク権現ノ御告也、急ホリ出シ可崇敬、トアリ。因、ホリイダシ見レバ、有霊石三。一ハ笑キヨ、一ハ押明ガナシ、一ハイベヅカサト、奉祝也。其后、霊石一ツ海中ヨリ浮来ヲ、寄キヨラト、奉祝。宮建立、右一所ニ奉安置、朝暮信仰イタシケル故持病モ愈、家富、子孫繁栄イタシ、男子ハ屋宜玉城ノ為大屋子、栄幸ニシテ終也。夫ヨリ村中、安里権現ト崇、諸人参詣仕由、申伝也。其末孫、当間村、ニヨク宮城、且、同妹鍋、右祭祀ヲ司ル也。』(安里のテラ)(安里のテラのカー)(ウマアビシグムイ跡)「安里のテラ」を建てたのは屋号「金万座」の先祖であると伝わり、代々その子孫が祭祀を司ってきました。建物の柱も「金万座」の米倉(高倉)に用いられていたものであると伝わります。戦前「安里集落」の人々は旧暦1月1日の元旦、9月9日のチクザキ(菊酒)、12月24日のウガンブトゥチ(御願解き)に拝していました。子孫繁栄、健康祈願、五穀豊穣の御利益があるとされ、現在も村内外から参拝者が訪れています。「安里のテラ」の北側には「安里のテラのカー」と呼ばれる井戸があり「安里のテラ」を拝んだ後にこの井戸も拝んでいたと伝わります。周辺住民は豆腐を作る水や、正月のワカミジ(若水)をこの井戸から汲んでいました。また「安里のテラ」の南東側にはかつて「ウミアビシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「安里のテラ」の周辺に点在していた「サーターヤー/製糖小屋」で作業する馬に水浴びさせる溜池として使用されていました。(屋号メーバルグヮー/前原小)(屋号ウフメーバル/大前原)(屋号ウシメーバルグヮー/牛前原小)「安里のテラ」周辺は「ヤードゥイ/屋取」と呼ばれ、琉球王国時代の士族が首里から農村に移り住み定住した人々の集落を「ヤードゥイ/屋取集落」といいます。1871年(明治4)の廃藩置県後、現在の潮垣線(スガチミチ)と安里中央線の十字路から西側に「前原/白氏」が最初に定住しました。その後十字路付近に「屋比久/吉氏・知名小/向氏・喜屋武小/水氏・宇小根/朝氏」が、そして南側の海沿い付近に「平安名」がそれぞれ移住してきたと伝わります。この土地は「前原」が最初に移住した事や「前原」系統の家が多い理由から「メーバルグヮー/前原小集落」または「アサトノシチャ/安里ノ下」と呼ばれていました。かつて屋号「前原小」には「力石」という青年達が力試しに使った石がありました。また屋号「大前原」の北側には「サーターヤー/製糖小屋」が隣接していました。(屋号クシメーバルグヮー/後前原小)(屋号トウマメーバル/当間前原)(屋号サンラーメーバルグヮー/三良前原小)「安里集落」の「メーバルグヮー屋取」は5つの門中で構成されていました。「前原」は『白氏 元祖 白楊基金城親雲上信懐 名乗頭 信』で、本家は首里大名にあり姓は「前原」です。現当主の5代前の先祖が首里鳥掘から「安里」に移り住んだと伝わります。「屋比久」は『吉氏 元祖 吉裔介儀間金城親雲上孟明 名乗頭 孟』で、本家は南城市佐敷にあり姓は「屋比久」です。「知名小」は『向氏 元祖 尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で、字南上原から分家し姓は「知名」となっています。「喜屋武小」は『水氏 元祖 水道仲村渠親雲上春良 名乗頭 春』で、本家は沖縄市宮里にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓して字北上原から分家しました。「字小根」は『朝氏 元祖 朝承起仲村渠親雲上盛亮 名乗頭 盛』で、本家は北谷町北谷にあり姓は戦後に「仲村渠」から「仲村」に改姓したと伝わります。(ヤマグヮーの拝所)(ヤマグヮーの拝所の祠)(ヤマグヮーの拝所のビジュル石)(ヤマグヮーの井戸)「安里集落」の中心部を南北に通る国道329号線の東側に「モーグヮー」と呼ばれる土地があり、その中に「ヤマグヮー」と呼ばれる一画があります。戦前は今よりも西側にありましたが土地改良により現在地に移動しました。「ヤマグヮー」にはコンクリート製の拝所が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。祠の内部には三体のビジュル石(霊石)が祀られており、沖縄における石を神として祀るビジュル信仰の拝所となっています。「安里集落」では「ヤマグヮー」の拝所はグングヮチウマチー(五月ウマチー)とルクグヮチウマチー(六月ウマチー)の年中行事で拝まれています。グングヮチウマチーは旧暦5月15日に行われる稲の生育を祈願する行事で、ルクグヮチウマチーは旧暦6月15日に催される稲の収穫に感謝する行事です。この「ヤマグヮー」の敷地内には井戸跡が残されておりウコール(香炉)が祀られています。(ムラガー/シチャヌカー)(ムラガー/シチャヌカーのウコール)「ヤマグヮー」の拝所から南南西側に「ムラガー/村井戸」があり「シチャヌカー/下ノ井戸」とも呼ばれています。この井戸はカブイというアーチ状の石積みが施されており、現在も豊富な水が湧き出ています。「安里集落」の古老の言い伝えによると、この井戸は干魃が7ヶ月続いても水が涸れる事はなかったそうです。戦前はイジュンという井泉の湧き口を塞いで掃除をしていましたが、水が止まる事なく湧き出てくるので大変だったと言われています。また、この井戸は集落で子供が産まれた時に使うウブミジ(産水)や正月元旦に汲まれるワカミジ(若水)として重宝されていました。「シチャヌカー」にはウコール(香炉)が設置されており、水への感謝を祈願する拝所として住民に拝されています。現在、この井戸の湧水は周辺の農業用水として使用されています。(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)(ヒールガーラグヮー)「安里集落」には国道329号線から護佐丸歴史資料図書館や中城村民体育館を経て中城湾に流れ込む「ヒールガーラグヮー」と呼ばれるガーラ(川)があります。戦前は川幅が2〜3mありましたが普段は水が流れておらず、雨が降った際に水が流れていました。中城村は1945年の沖縄戦に於いて激戦地となり、4月5日に「安里集落」は米軍の攻撃により消失しました。次の日には集落の西側に隣接する「北上原集落」では161.8高地の攻防戦が展開し日本軍が壊滅しました。戦後、それまで一筋に流れていた「ヒールガーラグヮー」の川筋が米軍により変えられ、現在は国道329号線の2ヶ所から流れる小川が「ヤマグヮー」と「ムラガー」の中間辺りで合流して東側に流れ込み、そのまま中城湾の海へと続いています。(ヤンバルヤー)(ヤンバルヤー)「安里集落」の東側にある浜はかつて「ヤンバルヤー」と呼ばれており、戦前はヤンバルから来るサバニの舟着場であったと伝わります。サバニとは沖縄のウミンチュ(海人)が使っていた舟の事で、沖縄の言葉で「舟」は「ンニ」または「ブニ」と発音しますが「サバニ」の語源は「サバ(サメ)」漁に使う「ンニ(舟)」から来たと考えられています。また「ヤンバルヤー」の浜はモーアシビ(毛遊び)と呼ばれる場で「安里集落」内外から若い男女が集まって語り合い三線を弾いて踊り楽しんでいました。モーアシビをしていると南側にある「津覇集落」の巡査がたびたび見回りに来る事があり、捕まらないように逃げ帰ったという古老の話が伝わります。現在「ヤンバルヤー」の浜は吉の浦公園ビーチとして整備されており、近年までウミガメの産卵が確認された美しい浜として住民に親しまれています。
2022.10.26
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(北浜集落の竜神宮)沖縄本島中部にある「中城村」の東海岸沿いに「北浜集落」と「南浜集落」があります。1879年の「廃藩置県」の後に那覇市「首里」から現在の「北浜」の土地に「ユカッチュ/士族」が移住してきたのが「北浜集落」の始まりだと伝わっています。この集落は戦前まで「仲松」姓が多かった事から「仲松屋取/ナカマツヤードゥイ」または隣接する「津覇集落」の外れに位置していたため「津覇ヌ下/チファヌシチャ」とも呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「津覇・和宇慶集落」の所属屋取名に「仲松屋取」と記載されています。そのため「北浜」は大正頃までには「屋取/ヤードゥイ集落」として存在していました。因みに「北浜集落」は「津覇南浜原・和宇慶北浜原・新田原・湊川原・検知原」の5つの小字で構成されています。(竜神宮の祠)(竜神宮の祠内部)「北浜集落」の東側で中城湾の海沿いに「旧北浜公民館/世代間交流人材育成防災避難拠点施設」があり、その敷地内に「竜神宮」の祠が建立されています。「旧北浜公民館」は戦前まで屋号「三男東リ小」の屋敷があり、周囲には「東リ小門中」の家々が点在していました。「東リ小のサーターヤー」で製糖作業する馬の水浴びをさせる「グムイ」が「旧北浜公民館」の南側に隣接していました。戦前の「竜神宮」の祠は現在の位置よりも北側にあったと伝わります。旧暦1月2日の仕事始めの伝統行事である「ハチウクシー/初興し」や、ヒヌカン(火の神)が昇天する旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。海の航海と豊漁を祈願する「竜神宮」の祠は東側の海に向けて建てられ、祠の内部には石柱が祀られています。(屋号浜仲松/仲松門中)(屋号首里仲松/仲松門中)「北浜集落」の「仲松門中」は「浜仲松・首里仲松」の2つの系統に分かれています。「浜仲松」は元祖彌眞二男の系統で「首里仲松」は彌眞四男の系統となっています。「仲間門中」は『首里系士族 洪氏 大宗 洪啓瑞南風原筑登之彌慶 名乗頭 彌(弥)』で本家は与那原町の我如古家、中元は那覇市首里にある仲尾次家です。「浜仲松」がまず先に首里から「北浜」に移住し、その後「首里仲松」が西原町兼久を経て移住しました。この「首里仲松」は「北浜」を中心に門中が発展し「仲松屋取」を形成したと伝わります。最初に「北浜」に来た「浜仲松」はその後分家して「北浜」の北側にある現在の吉の浦公園のテニスコート付近に移り「高江洲屋取」を形成しました。屋号「浜仲松」の屋敷は「竜神宮」の西側にあり、屋号「首里仲松」はスガチミチ(潮垣道)付近に屋敷を構えていました。(屋号大宮平/宮平門中)(ウドゥンジー/御殿地)(ナントガー/ナーデーラーガー)「北浜集落」の北側のスガチミチ(潮垣道)沿いに屋号「大宮平」の屋敷跡があり「宮平門中」は『首里系士族 阿氏 元祖山南王汪應祖次男阿衡基南風原按司守忠 名乗頭 守』です。北浜に移住した初代は「ブサータンメー」と呼ばれ、集落の子供達を集めて棒術を教えていたと伝わります。「ブサータンメー」は大屋にあたり屋号は「大宮平」でした。「大宮平」は大きな豪農で「宮平門中」が集中する集落北部にあった、かつて琉球王国の「尚家」が所有していた「ウドゥンジー/御殿地」をはじめ多くの土地を所有していました。屋号「大宮平」の北側には「ナントガー」という井戸があり、旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。「ナントガー」の西側には屋号「宮平」が隣接していた事から、この井戸は「ナーデーラーガー」とも呼ばれていました。(ヌハガーラ/饒波川)(ヌハグムイ/ヌハ橋/屋号大饒波)(屋号伊集小)(ナーシルダー)屋号「大宮平」の南側に字津覇から中城湾に流れ込む川があり、屋号「大饒波」の屋敷前を流れていた事から「ヌハガーラ/饒波川」と呼ばれるようになったと伝わります。「ヌハガーラ」とスガチミチ(潮垣道)が交わる場所には「ヌハ橋/饒波橋」が架かっており、この橋の下の川底に窪地があったため「ヌハグムイ」と言われていました。この窪地は橋から飛び込めるほどの深さがあり子供達の恰好の遊び場であったそうです。「ヌハ橋」の南側にある屋号「伊集小」は「バクヨー/馬喰/博労」と呼ばれる家畜の仲買人をしており、更に「と殺」の専門知識を持っていた事から集落の人々から依頼を受けて家畜(馬・豚・山羊)を潰していました。この屋号「伊集小」の屋敷から東側にある土地には「ナーシルダー」という稲の苗を育てる田んぼがあり、隣接するクムイ(溜池)から水を引いてたと伝わります。(屋号ウサー伊集/ボウシクマーが集まる場所)(仲松カー神)(仲松カー神の祠内部)「仲松門中」の屋号「首里仲松」の北西側に屋号「ウサー伊集」の屋敷がありました。この家には「ボウシクマー/帽子編み」と呼ばれる人々が集まり帽子を編んでいました。戦前まで「ボウシクマー」は女性の副業で、サトウキビ栽培に並び貴重な収入源でした。編んだ帽子は那覇の卸売り会社に納品され本土に運ばれました。スガチミチ(潮垣道)と中通り(馬車道)のカジマヤー(十字路)を西側に100メートルほどの畑内に「仲松カー神」の祠が建立されています。戦前からある古井戸で旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。また、正月元旦のワカミジ(若水)や子供が産まれた時のウブミジ(産水)もこの井戸から汲まれていました。「仲松カー神」の祠にはウコール(香炉)が祀られており、祠内部には井戸が鎮座しています。(南浜集落の大内のカー)「南浜集落」は「安里屋取」と呼ばれるほど、集落のほとんどの世帯が「安里門中」でした。「安里門中」は『首里系士族 楽氏 元祖屋宜親雲上昌寔 名乗頭 昌』で本家は宜野湾市の長田にあります。「南浜集落」の「安里門中」は中元にあたり「大内」は最初に「南浜」に移住した家で、廃藩置県(1879年)後に首里から移ってきたと伝わります。「安里集落」は「和宇慶」の外れにあった事から「和宇慶ヌ下」と呼ばれています。「安里門中」が所有する『楽姓安里門中世系図』によると、元祖である「楽崇義安里筑登之親雲上昌茂」には7名の子供がいて、この子供達の系統が現在まで栄えていると記されています。屋号「大内」の敷地にはかつて「大内」の屋敷で使用していた井戸が現在も残されており「大内のカー」と呼ばれています。(アサトガー/安里井戸)(アサトガー/安里井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)(屋号ウフメー新屋の井戸)「南浜集落」の「上屋取」と呼ばれる区画に屋号「大内」の敷地内に「アサトガー/安里井戸」という井戸があります。屋号「大内」が「南浜」に移住した際に利用していた井戸だと伝わり、戦前から集落の人々に拝されています。当時はこの場所からスガチミチ(潮垣道)を北側に進んだ屋号「浜與儀」から西側に広がる畑の中にありましたが、戦後の土地改良により現在地に移設されています。「南浜集落」の東側は「下屋取」と呼ばれ、この区画を流れる「ヲーキガーラ/ヲーキ川」沿いには屋号「ウフメー新屋」が使用していた井戸が現存しています。屋号「ウフメー新屋」はウミンチュ(海人)で、当時は主流であった素潜りを専門に漁をしていました。素潜りをするウミンチュは「シムワザ」または「裸潜り」と呼ばれていたと伝わります。
2022.10.21
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(濱龍宮神の拝所)沖縄本島中部に「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の東海岸沿いに「浜集落」があります。1879年の廃藩置県の後に屋号「大謝名堂/ウフジャナドウ」が現在の「浜集落」の土地に移住したことが集落の始まりである伝承があります。その後、首里から「屋良/ヤラ」字北上原から「仲本/ナカモト」が移り住んだと言われています。戦前は「謝名堂」姓が多かったため「謝名堂屋取/ジャナドウヤードゥイ」または西側にある「奥間集落」の外れに位置している事から「奥間ヌ下/ウクマヌシチャ」と呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「奥間集落」に所属する「屋取/ヤードゥイ」として「謝名堂屋取」と記載されています。(濱龍宮神の祠内部)(浜漁港)(メーヌハマ/前ヌ浜)「浜集落」の東海岸沿いにある「浜漁港」の敷地に航海の安全と豊漁を祈願する「濱龍宮神」の祠が建立されており、コンクリート製の祠内部には石碑とウコール(香炉)が祀られています。「浜漁港」は昔は砂浜で「メーヌハマ/前ヌ浜」と同様に「サバニ」と呼ばれる沖縄の伝統的な木製の小形舟を陸上げする場所でした。「サバニ」はとても重く干潮で海が遠くなると「海人/ウミンチュ」は舟を押し出せないため、干潮と満潮の時間を計算して舟を出していました。「浜集落」では主に素潜が盛んに行われており「海人」は明け方から昼過ぎまで海に潜り「イヨグン」と呼ばれる銛を使ってイカ、タコ、貝、魚、フカ(鮫)などを獲っていました。普段は水深3〜5メートル、深いところでは約20メートル近くまで潜ることもあったそうです。(屋号大謝名堂/謝名堂門中)(屋号仲謝名堂)「謝名堂門中/ジャナドウムンチュー」は「浜集落」に最初に移住したと伝わり、集落において一番大きな門中を形成しています。『首里系士族 任氏 大宗 任興元稲福親雲上忠記 名乗頭 昌』で、本家は那覇市首里にある屋我家、中元は那覇市安謝にある謝名堂家です。「浜集落」の大屋は屋号「屋号大謝名堂」で屋敷内に「御神屋/ウカミヤー」があり、ここで那覇市の本家や中元に行く代わりに遥拝するようになったと伝わります。「謝名堂門中」の姓は「謝名堂・浜田」で、戦後に屋号「仲謝名堂」を含む数件が「浜田」へ改姓しました。「ナカミチ」の通り沿いにある屋号「仲謝名堂」は屋号「大謝名堂」の屋敷南側に隣接しており、戦前は「馬車ムチャー」と呼ばれる職業に就いており、依頼を受けて馬車で荷物を運搬していました。(屋号サンラー屋良/屋良門中)(カーラ/川)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)士族帰農で「浜集落」に移住してきた「屋良門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚龍徳越来王子朝福 名乗頭 朝』で、本家は那覇市首里の嘉味田家です。「尚龍徳越来王子朝福」の支流六世朝長の三男、七世朝眞が首里から「浜集落」に移住したと伝わります。その後、屋号「サンラー屋良・下屋良」と分家し、現在の「屋良門中」を形成しています。集落の西側から東海岸に流れる「カーラ/川」は仲通りに沿っており、この小川にはかつて「ハシグヮー」と呼ばれるコンクリート製の橋が架かっていました。「カーラ」は子供達の格好の遊び場で橋の下にはセークグヮー(エビ)、魚、カニなどがいる釣り場でした。旧正月にはこの川から子供達がワカミジ(若水)を汲みウフヤー(大屋)に持って行き、お年玉をもらったという古老の話が残っています。(屋号松尾/与那嶺鰹節店)(屋号松尾/与那嶺鰹節店の井戸)(屋号松尾/与那嶺鰹節店)「屋号大謝名堂」の屋敷から南西側に隣接する「与那嶺鰹節店」の土地にはかつて屋号「松尾」があり、屋敷には「カチューウヤー/鰹売り」が住んでいました。この家のお婆さんがカチュー(鰹節)を売り歩いており、昔からカチューは味噌と一緒にお湯でときカチュー湯にしてにして飲むと風邪に効いたと伝わります。鰹節は那覇から自転車で配達され、それをお婆さんが籠に入れて頭に乗せ、字新垣や宜野湾の野嵩や普天間に売りに行きました。籠は重さ約20キロありましたが、お婆さんはそれを頭に乗せて小走りする事も出来たそうです。屋号「松尾」のお婆さんが鰹節を売りに来るのを楽しみに待っていたお客さんが大勢いたと言われています。また、この屋敷には「ウミンチュ/海人」も暮らしており、沖縄戦の時には5〜6名の日本兵が寝泊まりしており、獲った魚を提供していたと伝わります。(屋号謝名堂小)(チンジュウガー/鎮守井戸)(チンジュウガー/鎮守井戸の拝所)「与那嶺鰹節店」がある屋号「松尾」の西側に隣接して屋号「謝名堂小」の屋敷がありました。現在、この家の敷地には「チンジュウガー/鎮守井戸」と呼ばれるコンクリート製の古井戸があります。蓋が施された井戸には石造りのウコール(香炉)が設置されています。この井戸に向かって左隣には「チンジュウガー」の拝所があります。この祠内部には「御守神」と彫られた石碑が設置されており、この拝所にも石造りのウコールが祀られています。戦前まで「チンジュウガー」の井戸は屋号「謝名堂小」近くにあった畑の中にあり、旧暦の9月9日に家族の健康祈願を行う「チクザキ/菊酒」の御願行事で拝されていました。更に、旧正月の若水や子供が産まれた時の産水も、この「チンジュウガー」から汲まれていたと考えられます。(屋号仲本小の屋敷跡)(メーベーのサーターヤー跡)(クシベーのサーターヤー跡)浜漁港沿いで「浜集落」の最も北東側の場所には、かつて屋号「仲本小」の屋敷がありました。「仲本門中」は『首里系士族 夏氏 大宗 諱居数越来親方俗叫鬼大城賢雄 名乗頭 賢』で姓は「仲本」です。本家は首里にあり中元は字北上原の「石嶺仲本小」で、字北上原から「浜集落」に移住してきたと伝わります。「浜集落」には3つの「サーターヤー/砂糖小屋」があり、屋号「仲本小」の南側には集落の「メーベー/前方」に所属する家と「クシベー/後方」に所属する家が使用した2つの「サーターヤー」がありました。収穫したサトウキビは「サーターヤー」に運ばれ、サトウキビを圧搾するサーターグルマと呼ばれる機械に差し込まれます。このサーターグルマに木製の棒を取り付けて馬に繋げ、馬を歩かせてサトウキビを搾りました。「サーターヤー」には作業をする馬の水浴びをさせる「ウマアミシグムイ」という溜池が常設されていました。(スガチミチ/潮垣道)(スガチミチ沿いのサーターヤー跡)(洗濯場跡)サトウキビを運搬するトロッコ軌道が敷設されていた「スガチミチ/潮垣道」沿いの「カジマヤー/十字路」にはかつて「サーターヤー」があり、屋号「知念小・松尾・新屋謝名堂・三男知念小・新知念小・謝名堂小」などが使用していました。サトウキビは貴重な換金作物であったため、集落の多くの家で栽培されていました。そのため「サーターヤー」では冬から春にかけて黒糖作りが盛んに行われていました。更に、戦前までこの十字路には川が流れており、川沿いには約2メートル幅の土手があり所々に石が積まれていました。この場所では川に降りられるようになっていて、女性達が集まって洗濯物を洗っていたと伝わっています。現在の川はコンクリートで塞がれていますが、かつての面影を感じ取る事ができます。
2022.10.16
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(トゥングヮー)「津覇集落」の南西側でケンドー(旧県道)の近くに「トゥングヮー」と呼ばれる祠があります。旧暦1月2日に行われる「ハチウクシー/初興し」と呼ばれる行事は、1年間を通じて集落の各拝所への拝みを始める最初の日で「トゥングヮー」はこの行事の最後を締め括る拝所として拝まれていました。旧7月16日に行われていた「念仏エイサー 」の踊りは旧盆の最終日に「トゥングヮー」で行われ、旧盆翌日の旧7月17日には「ジュウルクニチー/十六日」と呼ばれる厄除け祈願の行事が行われていました。また、旧8月15日の「十五夜」の行事では集落の豊年と厄祓いの祈願で「トゥングヮー」が拝され、その後「アシビナー」に移動して「ムラアシビ/村遊び」が行われていたと伝わります。(トゥングヮーの火の神)(トゥングヮーのウコール)(トゥングヮーの手水鉢)「トゥングヮー」はかつて「旧津覇公民館」があった場所で、戦前は鬱蒼とした木々で覆われている中に小さな瓦葺きの祠があったと言われています。当時、現在の位置よりも少々北側にあり、祠の内部には火の神(ヒヌカン)の霊石が祀られていました。現在の「トゥングヮー」はコンクリート製の祠で向かって左側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 糸満家親族一同」と記され、右側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 新垣盛蒲 カマ」と彫られています。「トゥングヮー」の正面にはウコール(香炉)が設置され「ヒジュルウコー」と呼ばれる、火を灯さない作法でヒラウコー(沖縄線香)とお賽銭が供えられています。更に「トゥングヮー」に向かって右後方にはコンクリート製の手水鉢が置かれています。(ムラヤーのシーサー)(メーガーラー)「トゥングヮー」がある場所はかつて「ムラヤー/村屋」または「倶楽部」と呼ばれた集落の中心地でした。現在、この敷地の南西側にある掲示板の上に「シーサー」が2体設置されています。以前は「メーミチ」と呼ばれる隣接する道の入り口に鎮座していたと言われています。戦前は西側丘陵の「富里ノ嶽」がある「フサトゥヤマ/富里山」に向かって3〜4体のシーサーが置かれ「ヒーゲーシ/火伏せ・厄除け」の役割があったと伝わります。「津覇集落」の南側には「メーガーラー」という河川があり、源流は小字「仲棚原/ナカタナバル」で津覇小学校南側を通り、小字「寺原/テラバル・浜原/ハマバル」を経て東側の中城湾へと流れつきます。因みに、現在の「メーガーラー」の川幅は戦前とほぼ変わらないと言われています。(糸満門中のシーシヤー/獅子屋)(シーシヤーの神棚)「ムラヤー/倶楽部」の北側にある「糸満家」に「シーシヤー/獅子屋」と呼ばれる獅子舞を保管する小屋があります。「糸満門中」の本家は屋号「糸満」で「津覇集落」の創始家である「ニーヤー/根屋」の一つと言われています。戦前は集落の祭祀を行う「カミンチュ/神人」を出した家であり姓は「新垣」でした。また、同系統の家として「糸満小」や「湧田」があります。「糸満門中」の「カミンチュ」は集落の火の神である「トゥングヮー」で白衣装を着用して祭祀を行いました。屋号「糸満」の屋敷裏側には、この白衣装を干す専用の場所があったと伝わります。「シーシヤー」の小屋内部には神棚があり、4基のウコール(香炉)、4組の花立・酒・水、2組の茶碗が供えられ、花立にはチャーギ(イヌマキ)が供え葉として捧げられています。(津覇のシーシ/獅子)(エイサー大太鼓)「シーシヤー」の小屋内部には「津覇の獅子」が安置され、火の神の前にエイサーに使われる大太鼓が置かれています。「津覇の獅子舞」の由来は、その昔に丘陵で生活していた「糸満家」と「呉屋家」が平地へ移動して現在の「津覇集落」を形成し、その際に厄除けと五穀豊穣を祈願したのが始まりであると伝わります。「津覇の獅子舞」の大きな特徴は、一頭の獅子で雌と雄の演舞を踊り分けする事です。雌の舞は柔らかい所作が主体となり「シランカチ」という虱(シラミ)をかく動作を座りながら行います。一方、雄の舞は力強い所作が主体で「マース高」や「見シジ」と呼ばれる踊りを行います。約400年余りの歴史を持つ「津覇の獅子舞」は1997年(平成9年)3月7日に「中城村指定無形民俗文化財」に登録されました。(ナカミチ)(ヤマグヮー)(ヤマグヮーの拝所)「糸満門中」の「シーシヤー」の北側沿いを通る「ナカミチ」は「津覇小学校」側から国道329号線に架かる陸橋近くが入り口になっています。「津覇集落」の中央を東西に横断し、集落の東側にある「スガチミチ/潮垣道」に至る「ナカミチ」は集落内で最も道幅が広く、エイサー の「道ジュネー」の順路となっています。この「ナカミチ」沿いには「ヤマグヮー」と呼ばれる場所があります。その昔「ヤマグヮー」にはヤシ科の植物である「マーニ/クロツグ」の低木が沢山生えており、その深い茂みの中に墓があったと言われています。この墓は「英祖王」の父である「伊祖グスク」の「恵祖世主」を先祖に持つ「大湾按司」に仕えていた家来や、奉公していた人の中で身寄りがない人を葬った墓であると伝わっています。現在は竹林の根元に霊石とウコール(香炉)が祀られています。(呉屋門中の御神屋/ウカミヤー)(呉屋門中の神棚と火の神)(津覇の旗頭)「ヤマグヮー」から南側に「ナカミチ」を挟んだ場所に「呉屋門中」の「御神屋/ウカミヤー」があります。本家は屋号「呉屋」で集落の根屋の一つと言われており「津覇集落」で所有する「旗頭」を保管しています。「呉屋門中」は「恵祖世主」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子」を元祖とする門中です。「呉屋門中」の神人は集落内では「ヌール」と呼ばれており、ウマチーの行事の際には「伊集集落」のノロ殿内に貢物を運んでいたと言われています。この門中は「伊集ノロ」を乗せる馬を管理しており、同門中の男性は馬の手綱役を務めていました。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『里主根屋 津覇村 毎年六月、為米初、神酒三同村百姓中供之。伊集巫ニテ祭祀也。』という記述は「呉屋門中」の「御神屋」であると考えられます。(ウシクルシドゥクマー)(クバニー門中の拝所)(クバニー門中の拝所/祠内部)「呉屋門中」の「御神屋」から南東側に「ウシクルシドゥクマー」と呼ばれる場所があり「シマクサラシー」という集落の厄祓い行事の際に牛を解体した場所であると伝わっています。行事の後には集落の人々が集合して貴重な牛肉が振る舞われました。また、この場所から更に南西側には「クバニー門中」の拝所があります。「クバニー門中」の祖先は「勝連グスク・座喜味グスク・中城グスク」構築の際に石細工の職人をしており「津覇集落」に移住したと言われます。「クバニー」の名称は先祖が住んでいた土地にクバの木が沢山生えていた事に由来しています。この拝所の祠内部には「久場 勝連」と彫られた石碑と霊石が祀られており、近隣の屋号「勝連」の屋敷には現在も「クバニーガー」と呼ばれる井戸があり拝されています。(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)「津覇集落」の南側に「津覇構造改善センター」と呼ばれる旧公民館があり、この土地は戦前まで集落で共有する1号〜4号の「サーターヤー/製糖場」がありました。「サーターヤー」での作業は収穫したサトウキビを持ち込み、順番を決めて1家分ずつ製糖作業が行われました。サトウキビの汁を絞る「サーターグルマ」を引くのは馬の役目で、同じサーターヤーを利用する人同士で馬を出し合い交代で引かせました。このサーターヤーやサトウキビの生産量が少ない人達が利用していた為、利用者を"借りた車"という意味の「カイグルマー」と呼んでいたそうです。また、利用者は「サーターグルマ」の扱いに不慣れな人が多く、度々「サーターグルマ」を壊していたので「カイグルマー ヤ 道具ヤンジャー(道具を痛める)」と言われていたと伝わります。
2022.10.01
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(津覇ノ寺/テラヤマ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の東側に「津覇ノ寺/津覇のテラ」という拝所があり、集落では昔から「テラヤマ」や「ヤマグヮー」と呼ばれています。1991年に改修されたコンクリート製の祠内部には霊石と8体の自然石が祀られており、さらに4基のウコール(香炉)も設置されています。この拝所は「津覇寺」とも称し今から約400年前に「竈勝連/カマドゥカッチン」という人の先祖が霊石を権現として祀る為、お宮を建立したのが始まりだと言われています。ここに祀られる御神は「水の神」「火の神」「海の幸の神」「子孫繁栄の神」の四体の神となっています。「津覇ノ寺」は平成26年3月26日に中城村指定文化財(有形民俗文化財)に登録されました。(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)(津覇ノ寺/テラヤマの祠内部)1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『神社 俗ニ津覇ノ寺ト云 津覇村 ヨヤゲセジヨヤゲヅカサ スデル君ガナシ 押明キヤウ笑キヤウ スンキヤウ笑キヤウ』と記されており、更に『昔、津覇村竈勝連先祖、霊石ヲ権現ト崇、宮建立仕タル由、申伝也。為何由緒アリテ権現ト崇タルヤ、不可考。竈勝連無子故、養子ニ次渡シ、当時、ミチケ桃原、祭祀ヲ司ル也。』と記述されています。四体の神が戻ってくる旧正月2日の「初うくしい/ハチウクシー」、健康と長寿を祈願する旧9月9日の「菊酒/十二支廻り」、四体の神が一年の報告をする為に昇天する旧12月24日の「解き御願」の祭礼日に集落内外より参拝者が訪れて拝しています。(トーチカ)(トーチカの銃眼/南側)「津覇ノ寺/テラヤマ」の敷地内に沖縄戦の時に造られた「トーチカ」と呼ばれる戦争遺跡があります。「トーチカ」は六角形のコンクリート製の構造物で、日本軍により設置された防御陣地です。厚さ約20センチの土が被せられ、地面すれすれの位置に北・北西・南・西南西に向けに銃眼が開けられています。「トーチカ」を造った日本軍の部隊や時期は不明ですが、1945年(昭和20)4月6日以降に「津覇集落」でも米軍との戦闘があった事から、それ以前には存在していたと考えられます。「トーチカ」とはロシア語で「点」を意味し、日本語では「特火点/とっかてん」と訳されます。この「トーチカ」は集落や国道329号線方面に向いている事から、中城村の平野部から南下してくる敵を迎え撃つ為に造られたと考えられています。(イクサヤマ)(イクサヤマの墓)(イクサヤマのウコール)「トーチカ」の南側に「前原/メーバル」という小字があります。この土地に広がる畑の中に「イクサヤマ」と呼ばれる場所があり、この一箇所のみに木々が鬱蒼と生い茂っています。茂みの内部には二基の墓が東側の海に向けて安置されており、それぞれの墓に石造りのウコール(香炉)が設置されています。小屋の形をしたコンクリート製の墓内部には戦死者が祀られていると言われていますが、詳細は不明のままです。更に、この二基の墓の脇には別の石造りウコールが設置されています。沖縄の各地には内地(本土)から沖縄に出征した兵士が遠い沖縄の地で戦死し、戦地に埋葬された無名の墓が数多く存在します。その為「イクサヤマ」の二基の墓に葬られた死者も、故郷への帰還を果たせなかった兵士のものであると思われます。(クシバルガー)(クシバルガーの平場)(富里のカミガー)「津覇集落」の西側丘陵にある「上津覇ノ嶽」と「富里ノ嶽」との中間点にあたる場所に「クシバルガー」と呼ばれる古井戸が現在も残っています。山中に生い茂る深い木々の一画に平場があり、その中央に古い琉球石灰岩とブロックで囲まれた「クシバルガー」が在しています。また「富里ノ嶽」の南側には「富里のカミガー」と呼ばれる拝井戸があります。「津覇集落」では戦前まで「初水の御願」と呼ばれる行事が旧1月3日に行われ、水へ感謝して字内の井戸や拝所へ祈願が行われていました。「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」が拝されていました。(ヤナジガー)(屋号安里小隣の井戸)(ウブガー)「津覇集落」の南西側に「ヤナジガー」があり、集落の中央部には「屋号安里小隣の井戸」が残されています。更に集落の北側の畑に囲まれた場所には「ウブガー」と呼ばれる井戸があり、産水や正月の若水を汲んでいたムラガー(村井戸)として使用されていました。旧5月15日の「グングヮチウマチー/五月ウマチー」で神に稲の初穂を供えて豊作を祈願し、旧6月15日の「ルクグヮチウマチー/六月ウマチー」では神に稲を供えて豊作を感謝しました。各「ウマチー」では「伊集ノロ」が「ウトゥーシ・上津覇ノ嶽・トゥングヮー・津覇ノ寺・屋号安里小隣の拝所・ウブガー・上津覇のカミガー・クシバルガー・富里のカミガー・ヤナジガー・クバニーガー・ウェーグンガー・チュンナガー・屋号安里小隣の井戸」を巡り祭祀を行なっていました。(ウェーグンガー)(クバニーガー)(チュンナーガー)「津覇集落」の「ナカミチ」と「メーミチ」の間に「ウェーグンガー」と「クバニーガー」が隣接しており、更に西側には「チュンナーガー」があります。この「チュンナーガー」に設置されたウコール(香炉)には、ウチナーウコー(沖縄線香)が「ヒジュルウコー」と呼ばれる火を灯さない作法で供えられていました。井戸はそれぞれ民家の道路沿いに構えており鉄柵が設けられています。集落に点在する井戸と拝所を巡り豊作を祈願して感謝する各「ウマチー」の際、3つのシマを管轄していた「伊集ノロ」は馬を利用して各拝所を移動し、初めに「伊集集落」次に「和宇慶集落」最後に「津覇集落」を廻ったと言われています。「イーツハヤマ」にある「上津覇ノ嶽」は祈願の最終の拝所として締め括りの祭祀が行われたと伝わります。(スガチミチ/潮垣道)(ンマイー)(チーチーヤー/乳搾り屋跡)「津覇集落」の主要道路であった旧県道が出来る以前に「スガチミチ/潮垣道」は集落の中心的な道路で、現在は「村道潮垣線」と名付けられています。かつては「スガチミチ」近くに海岸線があり、トロッコ軌道が敷設され西原町の製糖工場にサトウキビを運んでました。「津覇ノ寺」付近の「スガチミチ」は「ンマイー」と呼ばれていましたが、ンマスーブ(琉球競馬)が行われる事は無く子供達の遊び場として使われていました。集落北側の「スガチミチ」沿いに「チーチーヤー」という乳搾り屋の跡があります。屋号「呉屋門」は牛飼いで宜野湾村(現在の宜野湾市)から牛を2〜3頭購入し養っていました。戦前は身体が弱い生徒の給食用として学校に配達したり、時には西原町まで搾りたての温かい牛乳を配達していたと伝わります。(ヤブーの住居跡)「チーチーヤー」の北西側の屋号「西比嘉」に「ヤブー」と呼ばれる民間療法を行う人がかつて住んでいました。その人は「呉屋カメ」さんという名前で、通称「ダッチョーハーメー/ダッチョー婆さん」と呼ばれており針治療を行っていました。集落の人々は熱を出したり身体にアザを作った時に「ブーブー」と呼ばれる治療してもらいました。温めたコップを患部にあてて吸い上げ、吸い上げた部分に針を刺して体内の悪い血液を抜くという治療で、遠くは泡瀬からも患者が来ていたと言われています。「ダッチョーハーメー」は集落の子供達から恐れられており、子供達が悪さをした時に「ダッチョーハーメー呼んでくるよ!」と叱ると、皆が直ぐに言う事を聞いたと伝わっています。
2022.09.26
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(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ)沖縄本島中部の「中城村(なかぐすくそん)」の東南部に「津覇(つは)集落」があります。かつて古い集落があった「古島」と呼ばれる場所は、伝承によると現在の「津覇集落」の西側丘陵の一帯にありました。元々は「上津覇/イーチファ・富里/フサトゥ・糸蒲/イトカマ」の3つの小集落に分かれていたと伝わります。1983年(昭和58)の「中城村教育委員会」による発掘調査ではグスク時代から近世期にかけての遺物が発見されており、その後の時代に3つの小集落は丘陵地から現在の平坦地に移動して1つの集落に合併したと言われています。また、1781〜1798年に作成されたとされる『琉球国惣絵図』には「津覇」が既に現在地に集落を形成している事が確認できるため「津覇集落」はそれ以前に移動してきたと考えられます。(上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキの祠内部)(上津覇ヌ嶽の石碑とウコール)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」は「津覇集落」西側の丘陵地帯に位置し、この付近はかつて集落の古島の一つである「上津覇」があった場所であると言われています。以前の拝所はこの地点から南東側に広がる「上津覇山/イーチファヤマ」の頂上付近にあり、小さな石造りの祠があったと言われています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『上津覇ノ嶽 神名 津覇コダカネモリノセジ御イベ』と記されており、約300年以上の歴史を持つ拝所である事が分かります。「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠内部には3基のウコール(香炉)と石柱が祀られており、祠の敷地入り口には「上津覇ヌ嶽」と彫られた古い石碑とウコールが2基設置されています。(糸満之墓)(大湾按司三男 大湾子之墓)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の祠西側に隣接して「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」が祀られています。「糸満」は「津覇集落」の「根屋/ニーヤ」と呼ばれるムラの創始家の一つと言われており、現在の「糸満門中」は伝統芸能の獅子舞を保管する「獅子屋/シーシヤー」を管理しています。また「英祖王(在位1260-1299年)」の父である「恵祖世主/えそよのぬし」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子/おおわんしー」は「津覇集落」の「根屋」の一つである「呉屋門中」の元祖であり、この門中は集落の旗頭を保管する「御神屋/ウカミヤー」を管理しています。2基の墓にはそれぞれ「糸満之墓」と「大湾按司三男 大湾子之墓」と彫られた石碑が建立され、コンクリート製のウコールが祀られています。(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ)(富里ヌ嶽/フサトゥヌタキの祠内部)「上津覇ヌ嶽/イーチファヌタキ」の南西側で、中城村立津覇小学校の裏手に「富里山/フサトゥヤマ」と呼ばれる丘陵地があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「富里/フサトゥ」があったと言われています。この山の東側に「富里ヌ嶽/フサトゥヌタキ」の祠が鎮座しており、この御嶽は『琉球国由来記』には『富里之殿』と記されており『稲二歳之時、花米九合宛・五水一沸二合宛・神酒一宛・シロマシ二器津覇地頭、神酒四宛・肴一器同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、巫・根神・掟アム・居神十五員、馳走也。』との記述があります。「富里拝所 昭和六一年十二月二十八日」と刻まれた祠内部には霊石が祀られています。(合同遥拝所/ウトゥーシ)(合同遥拝所/ウトゥーシの火の神/ヒヌカン)「富里山/フサトゥヤマ」の北側にある南上原糸蒲公園の東側に「糸蒲山/イトカマヤマ」があります。この一帯はかつて「津覇集落」の古島の一つである「糸蒲/イトカマ」があったと伝わってます。この土地に住んでいた人々は元々、現在の琉球大学千原キャンパスの生協北食堂売店南側にある「シージマタ」と呼ばれる地域に住んでいました。しかし「棚原一門」との戦いに敗れ「糸蒲」に移り、一時生活した後に現在の「津覇集落」に移り住みました。「合同遥拝所/ウトゥーシ」には3基のウコールが祀られており、それぞれ「糸蒲ヌ嶽」「シージマタノ嶽」「糸蒲寺/イトカマデラ」で「糸蒲」に住んでいた人々にゆかりのある拝所への「遥拝所/ウトゥーシ」となっています。因みに「糸蒲ヌ嶽」は『琉球国由来記』に『糸カマノ嶽 神名 糸掛カネモリノセジ御イベ』と記されています。(龕屋/ガンヤー)(龕屋/ガンヤーの内部)中城村立津覇小学校の体育館後方に「龕屋/ガンヤー」があります。琉球石灰岩をアーチ型に積み上げ、石積みの目地に漆喰が塗られています。「龕屋/ガンヤー」とは「龕/ガン」を収める小屋の事で「龕/ガン」とは、火葬が行われていなかった時代に遺体を安置した棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿の事をいい「津覇集落」では「ンマ/馬」と呼ばれていました。集落から墓地まで「龕/ガン」が通る道は決められており、現在の津覇小学校の校舎と校庭の間の小道を通る事になっていましたが、その後「メーガーラー」と呼ばれる川の沿道に変更されました。「龕/ガン」は4人で担ぎ、坂道になると集落の人々が手伝ったと伝わります。「龕屋/ガンヤー」は平成18年3月27日に「中城村有形民族文化財」に指定されました。(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(津覇尋常高等小学校/津覇小学校)(校長先生の宿泊所跡)「津覇尋常高等小学校」は現在の「津覇小学校」の前身で、学校の校舎はほとんど瓦葺きで鉄筋コンクリート製の建物でした。学校の裏には農園があり高等科から農業の授業で野菜や家畜の育て方を学んでヤギ・豚・鶏を飼育していました。生徒たちは自分で育てた野菜を収穫して「津覇集落」や隣の「和宇慶集落」の「マチヤー/商店」に売り、得たお金でお菓子を買って校舎の屋上に集まって楽しく食べたというエピソードが残っています。1941年(昭和16)に「津覇国民学校」と名称を変え、1944年(昭和19)には日本軍の兵舎として使われました。そのため、ほとんど学校で授業が出来ない状態になり、周辺集落の「ムラヤー/公民館」や民家を借りて授業を行ったと伝わります。更に、学校の北側に隣接した場所には校長先生の宿泊所跡があり、現在は大きなガジュマルの木が育っています。(ジュンサヌヤー/駐在所跡)「津覇小学校」の南側を流れる「メーガーラー」と呼ばれる川沿いに、かつて「ジュンサヌヤー」と呼ばれる駐在所がありました。ジュンサ(警察)は集落の外から派遣された人が住み込みで勤務していました。戦時体制下に入ると集落での見回りも一段と厳しくなり、青年達の娯楽の一つであった「モーアシビ/毛遊び」も取り締まりの対象で厳重な処罰が与えられたそうです。大正生まれの古老によると、ある日「津覇集落」の青年達がヤンバラヤー(現在の吉の裏公園の浜)で「モーアシビ」をしているとジュンサに見つかり、その中のサンシンヒチャー(三線弾き)が捕まったのです。その後「ジュンサヌヤー」に連行されて『あの浜で三線を弾くなら、ここで弾け!』とジュンサに言われ、夜通し三線を弾かされたという実話が残っています。(ヒラマーチャー/平松跡)(アシビナー跡)「津覇小学校」の北側には集落の共同墓地が隣接しており、さらにその北側にはかつて「アシビナー/遊び庭」がありました。その昔、この共同墓地とアシビナーの間には「ヒラマーチャー/平松」と呼ばれる高樹齢の見事な松の木があり、神が宿る木として住民に崇められ「神マーチ/神松」と言われていました。共同墓地の古い彫込墓(フィンチャー)と平葺墓(ヒラフチバー)が並ぶ場所の上部に生えていたと言われておりアシビナーの御神木として親しまれていましたが沖縄戦で消失したと考えられます。現在、かつて各集落に一箇所あったと言われているアシビナーがあった場所は深い草木に覆われていますが、当時は集落の老若男女が集い交流して賑わっていた場所でした。(イサヌヤー/診療所跡)(イサヌヤー/入院室跡)(マットォーグヮーミチ)国道329号線沿いで現在の新垣タイヤサービスの北側に隣接した場所には戦前に「イサヌヤー」と呼ばれる診療所がありました。この診療所を開いていたのは屋号「新後玉那覇」の比嘉盛茂(ひがせいも)氏で、診療所の南東側に入院室の施設もありました。1944年(昭和19)年頃には「津覇国民学校」に日本軍が駐屯し始めた為、診療所と入院室は日本軍に貸し出されていたと言われます。比嘉氏が徴兵された後、診療所は将校の宿泊所、入院室は日本軍の慰安所として使用されました。因みに、診療所の入院室は「マットォーグヮーミチ」と呼ばれる道沿いにあり、この小道は独身で17〜18歳のチュラカーギー(美人)の女性のみが通っていたと言われており、現在も集落に残っています。(マチヤー/商店跡)かつて「津覇集落」には「一銭マチヤー」という駄菓子屋や雑貨屋が数多くあり、様々な物が販売されて子供達の筆記用具、米、酒、ソーメン等が売られていました。「イサヌヤー」の北側に隣接した屋号「東眞境名」の呉屋陽賓(ごやようほう)氏が、もともと「与座商店」があった場所で国から許可を取り、当時は貴重品であった米と酒の専売店をして高級菓子等も販売していました。お店の商品は「与那原」の業者さんが配達をしていて、更に戦前は自転車のパンク修理も行っていました。前身の「与座商店」は「ユザヌマチヤー」の名称で呼ばれ、お店は「ユカッチュ」と言う首里出身の人が経営し、琉球王国時代の髪型である「カタカシラ」を結っていた事から「ユザヌカンプー」と呼ばれていたと伝わります。
2022.09.21
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(和宇慶の氏神)「古島」と呼ばれる「和宇慶集落」の発祥地は「和宇慶の御嶽」の森から北西側に位置する「上登原/イートンバル」の丘陵にあったと伝わります。その後、現在の集落の中心がある「検知原/ケンチバル」に移転したと言われます。沖縄戦が始まる1944年(昭和19)には「和宇慶集落」の一部も日本陸軍の「東飛行場」の滑走路建設に利用されました。この飛行場は「西原飛行場/小那覇飛行場」とも呼ばれ、その年の10月に起きた「10・10空襲」により米軍の激しい攻撃を受けて土地は放置されました。戦後「和宇慶集落」があった「検知原」の一帯は米軍の軍用地として強制的に接収されて立ち入り禁止区域となり、住民は近隣の集落に身を寄せる事になったのです。そして、1959年(昭和34)5月に「和宇慶集落」は米軍から集落の地主に返還され、現在の「和宇慶集落」の発展に至っています。(和宇慶の氏神のシーサー)(和宇慶の氏神の霊石)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」の敷地内に「和宇慶の氏神」が祀られる祠があり、赤瓦の屋根には魔除けのシーサー(獅子)が構えています。「氏神」とは土地の守護神であり、その土地に生まれた人を守る神を言います。戦前は「和宇慶の氏神」はここから南側にあった「倶楽部/村屋」と呼ばれる、現在の公民館にあたる施設の敷地内にあり「ナカミチ」という主要道路寄りの北側に鎮座していました。当時は3〜4段の階段を登った土台の上に祠が建てられており、現在の「氏神」の祠よりも大きく東側の海岸に向けて建てられていました。今日「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」に祀られている「霊石」は戦前の「氏神」の祠内に在していたもので、集落返還後に米軍に統治されていた旧集落の土地から発見されました。(倶楽部/村屋跡)(統合拝所乃碑)(ナカミチ跡)「和宇慶集落」の西側で戦前まで集落の中心を東西に通る主要道路であった「ナカミチ」沿いに、かつて「倶楽部」という場所があり「村屋」とも呼ばれていました。現在の公民館にあたる「倶楽部」は当時は木造瓦葺の建物で、1924年(大正13)生まれの古老が産まれる前からあったと伝わります。現在の「倶楽部」は「統合拝所」となっており、戦前までこの地にあった「ムラの火の神・ビジュル・ビジュル御井・中軸之御井」に併せて戦前に「検知原」に点在していた「安里御井・世利御井・外間御井・龍宮御神」の8拝所が合祀されています。「統合拝所」の入口には「土地改良地域 統合拝所乃碑 昭和五十八年九月十八日」と彫られた石碑が建立されています。現在この敷地の北側には昔の「ナカミチ」跡が数十メートル残されています。(ビジュル)(ビヅル神/ビヅル御井の石碑)(ビジュル御井/ビジュルウカー)「倶楽部/統合拝所」には「ビジュル神」が祀られた祠が北側に向けて建てられています。祠の内部には「ビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しており、戦前「ビジュル」の霊石は「倶楽部」の東側に隣接した屋号「小波津/クファチ」の屋敷内にウコール(香炉)と共にありました。「ビジュル」の語源は十六羅漢の中の第一の尊者である「賓頭盧/ビンズル」で、その名前は「不動」を意味します。「ビジュル」とは霊石の事で、その霊石を信仰する沖縄における「霊石信仰」の対象となっています。「ビジュル」の祠は豊作・豊漁・子授けなど様々な祈願が行われる拝所で、祠の脇には「ビヅル神 ビヅル御井」と彫られた石碑が建立されています。更に、その右側には「ビジュル御井」の井戸とウコールが祀られており「ビジュル」の霊石同様、戦前は屋号「小波津」の屋敷内にありました。(安里御井/アサトウカー)(中軸之御井/チュウジクヌウカー)(ムラの火の神/ヒヌカン)「安里御井/アサトウカー」は戦前の「和宇慶集落」の南側にあった屋号「南風小/フェーグヮー」の側にありました。「山城門中」の先祖が利用していた井戸で、昔から同門中が拝していたと伝わります。「中軸之御井/チュウジクヌウカー」は「倶楽部」の敷地の庭の真ん中に位置していた井戸で、その名称は井戸があった場所に由来していると考えられます。この井戸は「倶楽部」の敷地内にあった事から集落の多くの人々から拝されていました。かつて「倶楽部」の建物の土間に3つの石が置かれた窯があり「火の神/ヒヌカン」が祀られていました。「倶楽部」で行事が行われる際には、この窯で茶を沸かして振る舞ったと伝わります。現在、この3つの石を「ムラの火の神」として祀っており、西側に向けて建てられた祠には石造りのウコールが設置されています。(外間御井/ホカマウカー)(世利御井/シリウカー)(龍宮御神/リュウグウウカミ/東世御通)「倶楽部/村屋」跡の敷地には他にも合祀された「外間御井/ホカマウカー」があり、戦前の「和宇慶集落」の中央部に位置していました。「ナカミチ」沿いにあった屋号「仲元」と屋号「新前小波津」の間にあり「儀間門中」が拝んでいました。「外間御井」の脇には「世利御井/シリウカー」が祀られており、戦前は「外間御井」の南東側に位置する屋号「登同呉屋」と屋号「小波津小」の間にありました。さらに「統合拝所」には「龍宮御神/リュウグウウカミ」の石碑が建立されています。戦前は集落の最東端にあった「サーターヤー/サトウキビ小屋」の敷地内にあり「ウマアミシグムイ」と呼ばれる馬に水浴びをさせる水溜りの脇に「龍宮御神」の石碑が建立されていました。「龍宮御神」は東の海の遥彼方にある理想郷「ニライカナイ」を拝む拝所として崇められてたと言われています。(旧県道)(ユーフルヤー/風呂屋跡)(ダンパチヤー/理髪店跡)「和宇慶公民館/和宇慶構造改善センター」沿いに「旧県道」が通っています。戦前の主要道路で中城村内は「久場・泊・吉の浦」を通り「奥間・和宇慶」を経て西原町に続きます。戦前は「旧県道」の屋号「西新屋小」は「ユーフルヤー/風呂屋」を営んでおり、敷地内にある井戸から手押しポンプで汲みあげた水を大きな釜で沸騰させました。利用者は桶には入らず釜のお湯を洗面器で体にかけていたと言われています。「ユーフルヤー」から旧県道を渡った向いの屋号「二男仲與儀」は「ダンパチヤー/理髪店」を経営していました。この店主は大阪から「和宇慶集落」に帰って来て「ダンパチヤー」を開店し、集落では「グーニーダンパチヤー」と呼ばれていたそうです。戦前はハサミを所有する家族が少なく、ほとんどの人が「ダンパチヤー」を利用していたと伝わります。(雑貨屋跡)(馬車ムチャー跡)(和宇慶公民館裏の石敢當)「ダンパチヤー」の南西側向かいの屋号「吉田小」は、戦前は「雑貨屋」を経営していて米や油、生活雑貨など豊富に揃っており県道沿いの好立地から多くの客で賑わっていたそうです。屋敷内の豚小屋で豚を飼育して豆腐も作っていたと伝わります。この「雑貨屋」西側の旧県道沿いの屋号「二男前仲元」には「馬車ムチャー」と呼ばれる馬車を所有する人がいました。サトウキビの製糖時期になると樽詰めにした黒糖を馬車に乗せて、那覇にある出荷場まで運ぶ役割を担っていました。帰りは新しいタルガー(黒糖を入れる樽)を購入して集落に戻って来たと伝わります。「和宇慶公民館」の西側には古い「石敢當/イシガントウ」が残されています。「石敢當」とは丁字路の突き当たりに設置される魔除けの石碑の事で、この「石敢當」は昔からこの場所で厄祓いの役目を果たしていると考えられます。
2022.09.16
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(和宇慶の御嶽/ウガン/イキガ神)沖縄本島中部にある「中城村(なかぐすくそん)」の南部に「和宇慶(わうけ)集落」があります。この集落の面積は0.726平方キロメートルで「上登原/イーントーバル・松尾原/マツオバル・川崩原/カーグイバル・宇志真原/ウジマバル・検知原/ケンチバル・平良原/テーラバル」の6つのハルナー(小字)から成り立っています。現在の「和宇慶集落」は「検知原」の一部と「宇志真原」の国道沿いから東側一帯に集中していますが、戦前は主に「検知原」一帯にありました。「上登原」と「松尾原」には墓地が多く分布しており、丘陵の中腹に広がる「川崩原」と「松尾原」の深い森では戦時中、多くの住民が避難壕を掘り避難していました。また「和宇慶集落」発祥の土地は「上登原」の周辺であったと伝わっています。(和宇慶の御嶽/祠内部)(和宇慶の御嶽/祠の霊石)(和宇慶の御嶽/トゥムンジャク)「和宇慶集落」と西側に隣接する「伊集集落」の境は「上登原」の「トゥムンジャク」と呼ばれる一帯で「和宇慶の御嶽」の祠があり「ウガン」とも呼ばれています。この拝所は1713年に琉球王府が編纂した「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記され「イキガ神/男神」と言われており、隣接する「伊集のウガン」の「イナグ神/女神」と男女一対の関係にあります。かつて「和宇慶の御嶽」の祠は「伊集のウガン」の祠から北側に約100メートルの位置にありましたが、地滑りにより現在の位置に移動し「伊集のウガン」の祠から東側に約20メートルの位置に現存しています。「琉球国由来記」にある『伊集/和宇慶村 伊集ノ嶽』とは「伊集のウガン」の祠と「和宇慶の御嶽」の祠が対として南北に鎮座する一帯の丘陵の森を示していると考えられます。(マーチューグヮー)(伊集ノロの墓)「和宇慶の御嶽」の祠がある「トゥムンジャク」の東側の「松尾原」には「マーチューグヮー」と呼ばれる丘陵となっており墓地が一帯に広がっています。戦前は松の木が生い茂る林となっていて、台風が過ぎ去った後には燃料となる「マーチバー/松の枝」を広い集めに行ったそうです。しかし、その松林は激しい沖縄戦により失われてしまいました。この「マーチューグヮー」の東側丘陵の中腹には「伊集ノロの墓」があります。「伊集ノロ」は「伊集店・和宇慶・津覇」の3つのシマ(村)を管轄し「ウマチー」と呼ばれる五穀豊穣と村の繁栄を祈願する行事では「伊集」の拝所を廻った後「和宇慶・津覇」の祭祀を執り行いました。その際「伊集ノロ」は馬に乗り各シマを廻り、その馬は「津覇」の「呉屋門中」から出されたと伝わります。(伊集ノロの墓の石碑/表側)(伊集ノロの墓/門石とウコール)(伊集ノロの墓の石碑/裏側)「伊集ノロの墓」は元々は西原町の「琉球大学」から西側にある「イシグスク/石城」の山中に葬られていましたが、沖縄自動車道建設のため「和宇慶集落」の「マーチューグヮー」に移動されました。墓の石碑には『夏氏 伊集野奴呂神之墓 西原町石城山ヨリ移転(卯年) 一九八七年九月吉日建立』と記されており、石碑の裏側には『字伊集 東門中 字和宇慶 小波津門中 字津覇 玉那覇門中』と彫られています。「伊集ノロの墓」の門石には設置されたウコール(香炉)に霊石が祀られており「伊集東利門中・和宇慶小波津門中・津覇玉那覇門中」の拝所となっています。ちなみに「伊集ノロ」には2人の姉がいて、それぞれ南城市(旧知念村)久高島の「久高ノロ」と西原町棚原の「棚原ノロ」であったと伝わります。(ガンヤー/龕屋)(ガン/龕)「和宇慶集落」の東側にある「宇志真原」の国道329号線から山手に約20メートルの場所で「川崩原」との境の付近に分布する墓地群には「ガンヤー/龕屋」と呼ばれる小屋があります。「ガン/龕」とはかつて火葬が一般化する以前、葬儀の際に死者を運ぶ為に使われた屋形型の輿の事です。戦前に使われていた「ガンヤー」と「ガン」は沖縄戦で消失してしまいましたが、戦後に新たに造られて1961年(昭和36)頃まで使用されました。現在「ガンヤー」の小屋内部には当時使われていた「ガン」が現存し保管されています。戦前の「和宇慶集落」の「ガン」は有名で人気が高く、周辺の村々から借りに来ていたそうです。古老によると「ガンノ シードゥー ウスメー」と呼ばれる屋号「山城小」のお祖父が「ガン」が傷付けられないか心配で、現在の「西原町」まで一緒に歩いて同行したと伝わります。(ウブガー)(ウブガー/和宇慶の御嶽の遥拝所)(ウマアミシグムイ跡)「和宇慶集落」の「検知原」西側にあった屋号「比嘉」の北側に隣接する場所に「ウブガー」があります。この井戸は「和宇慶」で最初に掘られた井戸であると伝わっています。「ウブガー」は集落で子供が産まれた時の「ウブミジ/産水」や正月の「ワカミジ/若水」として汲まれ利用されていました。井戸の左側にある石碑とウコールは西側の「上登原」の「トゥムンジャク」にある「和宇慶の御嶽」への「ウトゥーシ/御通し」をする遥拝所となっています。「ウブガー」の西側で国道329号線沿いの自動車整備工場の付近には戦前まで「ウマアミシグムイ」と呼ばれる溜池がありました。この近くにあった「サーターヤー」と呼ばれる製糖小屋で作業をした馬に水浴びさせる為に使われていた他にも、子供達の遊び場としても利用されていました。(遠隔地に行く時に拝する拝所)(拝所の祠内部)(イシゼーク/石細工職人の屋敷跡)「ウブガー」の南側で旧県道沿いの屋号「二男前小波津小」の屋敷角に拝所があり石造りの祠が建立されています。この拝所は遠方に出掛ける時や戦地へ出征する際に拝まれていました。1924年(大正13)生まれの「和宇慶」出身の女性は「支那事変が勃発した頃、出征兵士のいる家は武運長久を願い、毎月1日と15日は集落内のウガンジュ(拝所)を全て拝み、その後に普天満宮を拝む為に歩いて参拝に出掛けた」と話しています。更に「ウブガー」の東側に隣接する場所には「イシゼーク」と呼ばれる石細工職人が住んでいた屋敷がありました。「和宇慶集落」には、この屋号「川畑小」の他にも屋号「仲新屋・東小波津」にも「イシゼーク」がいて「川畑小」は、隣村の「伊集集落」出身の「イシゼーク」と一緒に墓を造っていました。(和宇慶の神獅子)(和宇慶の遊び獅子)(和宇慶の遊び獅子)「和宇慶公民館/宇慶構造改造センター」の正面入り口には集落の「神獅子」が安置されています。「神獅子」による「和宇慶の獅子舞」は集落以外で演じられる事はなく、獅子舞が集落に伝わったのは18世紀の中頃だと言われています。沖縄戦で獅子は失われますが、1956年(昭和31)に区民の協力により復元され40年間使用されました。その「神獅子」は引退して現在は「遊び獅子」として県内の様々な行事で「和宇慶の獅子舞」を披露しています。「十五夜まつり」では幕開けに現役の「神獅子」が「鳥の舞」を披露し「遊び獅子」が舞台の最後を飾り「犬の舞」を演じます。現在「遊び獅子」は公民館の舞台の壇上に大切に保管されています。因みに獅子の頭の部分は「デイゴ」の木で作られていおり「デイゴ」は年輪がなく加工しやすい上に軽量なので獅子の頭を造るのに適しているそうです。
2022.09.11
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(ウガン/伊集ノ嶽)沖縄本島中部にある中城村の最南端に「伊集(いじゅ)集落」があり「伊集原・下原・前原・宇宙原・上原・崩原・後原」の7つの「ハルナー/小字」で構成されています。戦前の集落は「伊集原」の一帯と「下原」の東側の一部に集中して集落が形成されていました。さらに「前原・宇宙原・上原・崩原・後原」のほとんどは畑地が広がっていました。「伊集集落」の東側に隣接する「和宇慶(わうけ)集落」との境にある「後原」は「ウガンヤマ」と呼ばれる山があり、その深い山中に「ウガン」と呼ばれる御嶽があります。「古島」という昔の集落がこの「ウガンヤマ」一帯にあった説と、「上原」に位置する「ユージドゥン/世持殿」一帯にあった説が「伊集集落」には伝わっています。(ウガン/伊集ノ嶽)(ウガン/伊集ノ嶽のヒヌカン/火の神)(イーントーカー/上登井戸)「ウガンヤマ」の北東側のマーニ(クロツグ)が生い茂る山中に「ウガン」の祠があり内部には石造りウコール(香炉)が3基祀られています。「ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『伊集ノ嶽 神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ』と記されており、この御嶽は「伊集集落」では昔から「イナグ神/女神」として拝されています。「ウガン」の祠に向かって左側に隣接するもう一つの祠は戦後に「ヒヌカン/火の神」として設けられ、祠の内部には1基の石造りウコールが設置されています。「ウガン/伊集ノ嶽」から北側に山を登った位置には、御嶽と対の関係を持つ「イーントーカー/上登井戸」があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」とも呼ばれています。この井戸には昔から残る古い石造りウコールと新しいウコールが2基並んで祀られています。(ニーヤ/根屋の神屋)(神屋の神棚)(神屋の神棚)「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」のムートゥヤー(本家)は屋号「アガリ/東利」で姓は「アラカキ/新垣」です。「アガリムンチュー/東利門中」は伊集で最も大きな門中で「ユージビチ」と呼ばれています。伝承によると「東利門中」の初代は勝連城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は伊集に逃げ延び「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。やがて「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の屋号「東利」だと言われています。「神屋」の仏壇には初代から継承される2幅の「観音菩薩図」が祀られており、更に「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代から7代までの子孫が祀られた仏壇には7基のウコールが設置されています。(神屋のヒヌカン/火の神)(夏氏系図)「ニーヤ/根屋」は「琉球国由来記」に『与儀根所』と記されており、更に『毎年六月、為米初、神酒壱同村百姓中供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「神屋」の仏壇に向かって一番左側には「東利門中」の「ヒヌカン/火の神」が祀られており、3体のビジュル(霊石)とウコールが設置され沖縄線香のヒラウコー(平御香)が供えられています。「東利門中」の家紋は「夏氏」で「大城賢雄/鬼大城」が元祖であると伝わっています。伊集の「ニーヤ/根屋」のご主人で「大城賢雄」の末裔である新垣氏から貴重な「夏氏系図」を頂きました。『天孫氏廿五代/一代思金松金國王』から始まる系図は『十六代長男/榮野比大屋子』と続きます。その後『夏氏大宗一世長男/夏居数越来親方賢雄』から十八世『諱崇徳摩文仁親雲上賢貞』まで記されており、最後に『文化財保護委員会専門委員 林清国 誌すから写す 松田賢善』と記帳されています。(ターチマーチュー)(ターチマーチューのウコール)(ターチマーチューのクサイヌカー)「後原」にある「ウガンヤマ」の西側に「東利門中」に関わりがある「ターチマーチュー」と呼ばれる拝所があり、かつてこの地には「東利門中」の関係者が暮らした屋敷があったと伝わります。戦前は2つの大きな松の木が生えており、その中間にウコールが置かれていたと言われます。「ターチ」は沖縄の言葉で「2つ」を意味し「マーチュー」は「松の木」を指す事から「ターチマーチュー」という名称が付けられたと考えられます。現在は祠が建てられ内部にウコールが設置されており、この拝所の周辺にはかつて屋敷に使われていたと思われる人工的に加工された古い石材が現在も多数残されています。「ターチマーチュー」の北側約25メートルの場所には拝所と対になる「ターチマーチューのクサイヌカー」があり、石造りのウコールが設置される井戸跡となっています。(シルドゥングヮー/地頭火ヌ神)(シルドゥングヮーのクサイヌカー)「伊集集落」の北側で「伊集原」と「後原」の境に「シルドゥングヮー」と呼ばれるコンクリート製の拝所があり、ウコールと3体の霊石が祀られています。間切を治める地頭職の補佐役にあたる役職である「夫地頭/ブージトゥー」の屋敷跡だと言われており「地頭火ヌ神」とも呼ばれています。一般的に「夫地頭」は非常勤で任期は3年、定員は一間切から2〜8名と言われていました。「シルドゥングヮー」の祠から北西側に隣接する畑の中にはこの拝所と対の関係となる「シルドゥングヮーのクサイヌカー」と呼ばれる井戸があり「チュクサイヌカー/一鎖ヌ井戸」の名称でも知られています。「夫地頭」の屋敷の生活用水や農業用水として使用されていたと考えられ、この井戸にはウコールが設置されており門中の年中行事で拝されています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ/ノロ殿内の拝所)「ニーヤ/根屋」の南西側に「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」があり、拝殿の内部には「ノロヒヌカン/火の神」「御先世・中が世・今が世を示す3基のウコール」「久高島へウトゥーシ/御通し(遥拝)する1基のウコール」が祀られており、更に集落の守護神である獅子が安置されています。この「ノロヒヌカン/火の神」は「琉球国由来記」には『伊集巫火神』と記されており『伊集巫崇所。毎年三・八月、四度御物参之時、有折願也。』との記述があります。「伊集ノロ」は「サンカヌル」と呼ばれ「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマの祭祀を管轄していました。伝承によると「伊集ノロ」には2人の姉がいて、長女は「久高ノロ」次女は「棚原ノロ」であったと言われています。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」に向かって左側に隣接した場所には拝所の祠があり、内部には3体のビジュル(霊石)と1基のウコールが祀られています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内のゲーン)(アシビナーの井戸)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」は戦前まで瓦葺きの建物で現在よりも前方に建っていました。今のコンクリート製の建物がある場所には、かつては細長い池があり鯉を飼育していました。この鯉は「伊集集落」の所有物で、集落の子供が病気になると親は字にお金を支払い鯉を購入し子供に食べさせたと伝わります。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」の敷地の中央部は「アシビナー/遊び庭」と呼ばれ、戦前までそこに舞台があり盛大な「ムラアシビ」が行われていました。「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」入り口の上部には「ゲーン」と呼ばれる魔除けが飾られており、十字の中央には沖縄の粗塩が入った悪霊祓いの「マース袋」が吊るされています。更に「アシビナー」の北側には井戸跡が残されておりウコールが設置されています。(アンディガー/ヌールガー)(アンディガー/ヌールガーのクチャ溶き石)「ヌンドゥンチ/ノロ殿内」から北西側に位置する畑の中に「アンディガー」と呼ばれる井戸があります。「ヌールガー」の名称でも知られているこの井戸は「伊集ノロ」が髪を洗ったと伝わっています。「アンディガー」に向かって左側には「伊集ノロ」が「クチャ」と呼ばれる髪洗用の泥を溶いた石が現在も残されており「クチャ」を溶いた部分はなだらかな窪みが形成されています。「クチャ」は世界でも沖縄でしか採れない泥で、カルシウムやミネラルを豊富に含み美肌効果がある化粧品として最近は注目を集めています。「アンディガー」の名前は水量が豊富であった事に由来しています。しかし、逆に水が溢れ過ぎても良くないとして、戦前までは近隣の畑まで溝を掘り「アンディガー」の湧き水を流していたと伝わっています。
2022.09.06
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(ユージドゥン/世持殿/與儀之殿)沖縄本島中部の東海岸線に「中城村/なかぐすくそん」があり、同村の南端で「西原町」に隣接する場所に「伊集(いじゅ)集落」があります。約0.66平方キロメートルの小さな集落の北西側でギンネム(ギンゴウカン)の木で覆われた「モーエー」と呼ばれる小高い山の麓に「ユージドゥン/世持殿」と呼ばれる拝所があります。この拝所は「與儀之殿」とも呼ばれており「伊集ヌシー」の屋敷跡であると伝わります。「伊集集落」の始祖である「ニーヤ/根屋」の先祖「ウヤファーフジ」が「伊集」の地に来た時、既に空き家として存在していた屋敷内には観音菩薩が描かれた掛軸があったとの伝承があります。現在、この場所にはコンクリート製の「ユージドゥン/世持殿」と「ヒヌカン/火の神」の祠が祀られており「世持殿」と彫られた石碑が建立されています。住民の健康や長寿を祈願したり、農作物の方策を感謝する行事等で拝されています。(ユージドゥン/世持殿の祠内部)(ユージドゥン/世持殿のヒヌカン/火の神)(世持殿と彫られた石碑)「ユージドゥン/世持殿」は1713年に琉球王府が編纂した地誌である「琉球国由来記」に『与儀之殿』と記されており「伊集・和宇慶・津覇」の3つのシマを管轄した「伊集ノロ」により祭祀が執り行われました。更に「琉球国由来記」には『稲二祭之時、花米九合宛・五水六合宛・神酒半苑・シロマシ一器伊集地頭、神酒壱宛・シロマシ壱器同村百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』と記述されています。「ユージドゥン/世持殿」の祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られており、中央のウコールには神様へ拝する際に用いる「ジュウゴコー/十五香」と呼ばれる15本の「ヒラウコー/平御香」が供えられていました。向かって左側には「ヒヌカン/火の神」の祠があり、石造りウコールと霊石が祀られています。更に右側には「世持殿」と彫られた石柱が建立されています。(アガリメーヌカー/東前ヌ井戸)(名称不明の井戸)(ウブガー/産井戸)「ユージドゥン/世持殿」から丘陵を降った南東側に「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」と呼ばれる井戸跡があり、コンクリート製の祠と水の神を拝する石造りウコールが設置されています。「伊集ノロ」が居住した「ノロ殿内」との関わりがある井戸で、旱魃が起きた際に利用された井戸であると伝わっています。この「アガリメーヌカー/東前ヌ井戸」から程近い南西側の位置には「名称不明の井戸」の跡があり、丸いコンクリートの蓋が施されています。更に南側には「ウブガー/産井戸」の跡があり、石造りウコールが祀られています。「伊集集落」で唯一「カブイ」と呼ばれるアーチ状の石積みが現在も残されており、戦前まで集落で子供が誕生した際の「ウブミジ/産水」として使用され、正月には子供達がチューカーグヮー(ヤカン)を持って「ワカミジ/若水」を汲みに行きました。(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽)(ヤマグヮーヌタキ/山小ノ嶽の祠内部)「伊集集落」の中心を通る「ナカスージ」と呼ばれる道沿いに「伊集構造改善センター/字伊集公民館」があり、その前庭に「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」というコンクリート製の祠が建立されています。この拝所は「ムラヒヌカン/ムラ火の神」と呼ばれており「伊集集落」の発祥に関わった「ニーチュ/根人」が最初にこの地に屋敷を構えた「ニーヤ/根屋」であると伝わります。戦前までこの一帯は「ヤマグヮー/山小」と呼ばれる小高い山になっており、頂上に西側に向けられた祠がありました。現在の祠は南側に向けられており、コンクリート製の祠内部には「天の神」「土の神」「火の神」が祀られる3つのウコールと幾つもの霊石が設置されています。それぞれのウコールには「ジュウゴコー/十五香」の15本の沖縄線香に火が灯され供えられていました。(クサイガー/鎖井戸)(次良大前/ジラーウフメーの屋敷跡の井戸)「ヤマグヮーノタキ/山小ノ嶽」のクシベー(北側)で「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷跡の東側に「クサイガー/鎖井戸」と呼ばれる井戸跡があり「世持殿」がある西側に向けてウコールが設置されています。更にこの屋敷にはもう一つの井戸があり、現在は石製の蓋が施されています。かつて「次良大前/ジラーウフメー」の屋敷の住民は「トロッコムチャー」と呼ばれ、トロッコにサトウキビを積んで馬に引かせ現在の西原町にある「西原製糖工場」までサトウキビを運んでいました。「伊集集落」では他にも屋号「前森/メームイ・西前森/イリメームイ・二男仲與儀/ジナンナカユージ」が「トロッコムチャー」として働いていました。因みに「西前森」は客を目的地まで運ぶ客馬車もしており、泡瀬や与那原まで客を乗せて運んだと言われます。(フナングヮ/フナグラノ殿)(フナングヮ/フナグラノ殿の祠内部)(フナングヮ/フナグラノ殿のヒジャイガミ/左神)「伊集構造改善センター/字伊集公民館」のメーベー(南側)に「フナングヮ」と呼ばれる拝所があり「フナングラノ殿」の名称でも知られています。この拝所は航海安全の神様である「龍宮神」が祀られています。この場所は海から約1.5kmほど離れていますが、かつてこの一帯は「フナングヮ/船倉」と呼ばれており昔は船着場の海岸線でした。その由来から「フナグラノ殿」とも呼ばれる拝所となっており、祠内部には石造りウコールと霊石数個が設置されています。祠に向かって右側(祠にとっての左側)には「ヒジャイガミ/左神」と呼ばれる拝所の土地の神様も祀られており、幾つもの霊石が祀られています。「琉球国由来記」には隣接する「和宇慶集落」の拝所として『フナグラノ殿』と記されており『花米五合宛・五水三合宛・神酒壱宛同村百姓中、供之。伊集巫ニテ祭祀也。』の記述があります。(ウマクンジャー)(ウマクンジャー)「フナングヮ/フナグラノ殿」の西側に隣接する場所に「ウマクンジャー」と呼ばれる岩が鎮座しています。後に「ボージウシュウ/坊主御主」と呼ばれた第二尚氏王統17代国王である「尚灝王/しょうこうおう(在位1804-1834年)」と伊集村の美人娘「ヒジャナビー/比嘉ナベ」との恋愛にまつわる岩として知られています。「尚灝王」が「ヒジャナビー」に会いに首里から伊集村に来た時に馬の手綱を結びつけていた岩で、現在も当時と変わらない場所に大切に保存されています。その後「ヒジャナビー」の子孫に当たる方々がこの岩を拝所として祈願するようになったと伝わっています。「尚灝王」は生涯で一妃二夫人八妻をもち、九男十七女の子をもうけました。その八妻のうち七妻は平民の出であると伝わっています。(チキンダガー/津喜武多井戸)「伊集集落」の南側で国道329号線沿の崖下に「チキンダガー/津喜武多井戸」があります。「伊集集落」から南西側に約3km離れた西原町小波津に「津喜武多グスク」があり「チチンタグスク」または「チキンダグスク」とも呼ばれています。「チキンダガー/津喜武多井戸」はこのグスクの城主であった「津喜武多按司」と関わりがある井戸だとの伝承があります。沖縄戦の後、深い草むらに埋もれていたこの井戸は「伊集集落」の村人に探し出され、コンクリートで修復されました。井戸の水は戦前まで周辺の稲作に使用されており、集落で初めて稲作が行われた田んぼも「チキンダガー/津喜武多井戸」の近くにあったと伝わり、かつてこの井戸の水量が豊富だった事が考えられます。(石敢當の石碑)「ウマクンジャー」に伝わる王様と伊集村の美人娘の恋愛から約100年前にも、当時の王様と伊集村の美人娘との別の恋愛が存在していました。伊集村に「与儀真加戸樽/与儀阿護母志良礼」という百合の花に例えられる美人娘がいて、第二尚氏王統第14代国王「尚穆王/しょうぼくおう(在位1752-1794年)」にも噂が伝わりました。心を奪われた「尚穆王」は「与儀真加戸樽」を首里に呼び寄せて妻に迎入れたのです。「尚穆王」の王妃である「佐敷按司加那志」はその若さと美貌を羨み、次のような歌を詠みました。『伊集の木の花や あん清らさ咲きゆり 我身ん伊集やとて 真白咲きかな』(伊集の木の花は あんなに綺麗に咲いて 真白に咲く姿は とても見事である)「尚穆王」に嫁いだ「与儀真加戸樽」は王様や民衆に愛されて49歳でこの世を去ったと言われています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.09.01
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(伊舎堂農村公園)沖縄本島中部で東海岸に隣接する「中城村」に、世界遺産「中城城跡」の南側丘稜から中城湾まで細長く広がる「伊舎堂(いしゃどう)集落」があります。「伊舎堂公民館」北側の国道329号線沿いに「伊舎堂農村公園」の森があり、敷地内に「花の伊舎堂歌碑」が建立されています。この琉歌は「じっそう節」と呼ばれ、かつて綿の栽培で栄えた「伊舎堂集落」を舞台に生まれた恋歌です。この地は明治の末頃まで綿の栽培が盛んで、集落には働き手の若い女性が数多くいました。(伊舎堂農村公園の入口)(花の伊舎堂の歌碑)「じっそう節」の歌詞にある「花の伊舎堂」とは「綿の花」と「美しい女性」たちが沢山いる所という意味を掛けています。青年男女の娯楽の場であった「毛遊び(モーアシビ)」は、特に「伊舎堂」は若く美しい女性が多い事から、彼女らを目当てに多くの若い男性が近隣の集落から集まったと言われています。『思ゆらば里前 島とめていもれ 島や中城 花の伊舎堂』(私のことを愛する心があるなら 私の古里は中城の伊舎堂だから どうぞ訪ねて来て下さい)(伊舎堂のリンクンガー)(ウブガー/産井戸)伊舎堂公民館の北側に「伊舎堂のリンクンガー」と呼ばれる共同井戸があります。かつてカー(井戸)の周辺にレンコンを植えて、士族が村周りをした時に食べさせたと言われています。戦前まではアーチ型をしていましたが、戦後に現在の形になりました。更に「伊舎堂農村公園」の北側の丘稜に石積みで囲まれた「ウブガー(産井戸)」があり、ムラガー(村井戸)とも呼ばれています。この丘稜北方の小高い山は「サクヌヤマ」と呼ばれ「伊舎堂」の人々が現在地に移ってくる以前に、一時的に住んでいた場所だと言われています。(エードゥンチグヮ/親殿内小)(エードゥンチグヮ/祠内部)(エードゥンチグヮの井戸)「伊舎堂公民館」の敷地内に「エードゥンチグヮ(親殿内小)」の祠があり「伊舎堂の殿」とも呼ばれています。祠内には2つの霊石が祀られています。また、祠の南東側には井戸がありウコール(香炉)が祀られています。琉球王府時代、親方(うぇーかた)と地頭職にある親雲上(ぺーくみー/ぺーちん)の邸宅である殿内(どぅんち)がこの地にあり、現在は集落の守護神である祠と水の神が祀られる井戸が拝所として住民に祈られています。(伊舎堂前の三本ガジュマル)(伊舎堂前のガジュマルの石碑)(伊舎堂前の三本ガジュマルの拝所)「伊舎堂集落」は約400年前は「中城城跡」の近くにありましたが、時代の流れと共に現在の地に移動してきました。伝承によると、この三本のガジュマルは最初に移動してきた安里家(屋号:伊舎堂安里)、比嘉家(屋号:アラカキ)、比嘉家(屋号:カナグスク)の三組の夫婦が記念に一本づつ植樹したと伝えられています。現在の木は戦後植え変えたもので三代目だという事です。この地には「三本榕」と刻まれた石碑と、護佐丸バス「伊舎堂」バス停に3つの霊石が祀られる拝所があります。(伊舎堂安里家)「中城グスク」の城主であった「護佐丸」の兄である「伊壽留(イズルン)按司」の子孫である安里家に火の神をはじめ伊壽留按司の元租(ガンス)や御神と呼ばれる上代元租(イーデーガンス)が祀られています。「伊舎堂集落」では昔から安里家が村落祭祀の中心的役割を担ってきました。屋敷内には旗頭も保管されており、戦前までクンガチクニチ(旧暦9月9日)には、安里家から旗頭が出発し子供達がドラやカネを叩き道々を鳴らし練り歩いたと伝わっています。(お宮/村火の神)(お宮拝殿の霊石)(お宮の手水鉢)「伊舎堂安里家」の東側に「お宮(村火の神)」があり「デーグスク(台グスク)」火の神へのウトゥーシ(遥拝)の場所だと言われています。お宮拝殿の霊石は「デーグスク」からウンチケー(お招き)して来て1936年10月7日に建立されました。この場所は神聖な土地として、戦前まで木々の伐採は厳しく禁じられていました。拝殿にはウコール(香炉)が祀られており、現在も集落の住民に祈られています。また、敷地内には古い石造の手水鉢が残されており歴史の深さを感じる事が出来ます。(伊壽留按司之御墓)(伊壽留按司之御墓の石柱)(伊舎堂のカー)「護佐丸」の兄である「伊壽留按司」の墓は「中城城跡」の入口の高台東端にあり、琉球石灰岩の岩盤の下を掘り込んで造られ、墓の前面は琉球石灰岩を相方積みに積んであります。「伊壽留按司」は城主になる事を望まず、中城間切に移り住み農業に励んで近隣では名の知れた豪農になり「伊舎堂安里(屋号)」の始祖となりました。「伊壽留按司之御墓」に隣接する場所に「伊舎堂のカー」があり「旧伊舎堂集落」の住民生活に欠かせない井戸として使用されていました。(デーグスクの火の神)(火の神の西側にある拝所)(火の神の西側にある拝所)「中城城跡」から東側に数百メートルの場所に「デーグスク(台グスク)」があり、その周辺一帯には「旧伊舎堂集落」が広がっていました。「護佐丸」以前に「中城」を統治していた按司(先中城按司が居住していたと伝わる古いグスクです。「デーグスク」の頂上の西側に「デーグスクの火の神」あり、現在も古い石垣が積まれています。「デーグスク」には御嶽があり「神名:ダイ森ノ御イベ」と「神名:ミツ物ノ御イベ」の2つの神が祀られ、かつては「大城ノロ」によって祭祀が行われていました。(デーグスク頂上の拝所)(デーグスクの拝所)現在、この古いグスクは一般的に「デーグスク」と称され「台城」という漢字が充てられていますが「琉球国旧記」(1731年)には「泰城」と記されています。この一帯は「中城村」で最も高い位置にあり、標高は170mを超え西海岸だけでなく遠く伊江島までも一望できる絶景が広がっています。因みに「デーグスク」東側丘稜の中腹に「護佐丸」の墓があり、今後は世界遺産の「中城城跡」と中城ハンタ道の「新垣グスク」に次ぐ「中城村」を代表するグスクとして国内外に知られ注目されてゆく事でしょう。
2021.11.23
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(喜石原古墳群の亀甲墓)「中城ハンタ道」を「ペリーの旗立岩」から北側に進むと「喜石原古墳群」の深い森があります。その広大な森を抜けると「中城グスク」に到達し、首里城から勝連グスクまで続く「中頭方東海道」の中城村内を通る「中城ハンタ道」は終点を向かえます。歴史の道と呼ばれる「中城ハンタ道」は12世紀ごろ集落を繋ぐ道として開通し、14世紀前半に「中山王尚巴王」によって整備されたと考えられる道です。ペリー提督が率いる「大琉球奥地探検隊」が沖縄本島を北上する時にも「中城ハンタ道」が使用され、この道は昔から沖縄本島を南北に巡る際の主要道路として重宝されていました。(中城ハンタ道の迂回路)(オーシャンキャッスルカントリークラブ前の案内板)「ペリーの旗立岩」から「中城ハンタ道」の崖道を東側に下ると「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」の広大な敷地に突き当たります。本来の「中城ハンタ道」はゴルフ場の西側駐車場からクラブハウス、さらにゴルフコースの18番ホールから10番ホールを通り「村道ウフクビリ線」と「村道大瀬線」の交差点を抜けて「喜石原古墓群」の森に進みます。しかし、2003(平成15)年にゴルフ場が開場し、残念ながらこの区間の「中城ハンタ道」が消滅してしまいました。その為、現在は約800mに渡り「中城ハンタ道」の迂回路が設けられています。(中城ハンタ道/喜石原古墓群)(熱田根所門中の石柱)(熱田根所門中の拝所)「オーシャンキャッスルカントリークラブ(中城ゴルフ倶楽部)」のゴルフコースを北東側に抜けて「喜石原古墓群」に入ると、本来の「中城ハンタ道」が再開します。その地点から「中城ハンタ道」を「中城グスク」方面に進むと、左側に「熱田根所門中」の石柱が立っています。その奥に細い森道が続いており、数十メートル進むと「熱田根所門中の拝所」があります。2本に分かれた木々の根元に石積みが組まれています。「熱田」は隣接する「北中城村熱田」の古集落の名前、「根所」は集落の発祥地、「門中」は集落発祥家の始祖を同じくする親族です。その為、この地は「熱田根所門中」の魂を祀る拝所だと考えられます。(ギイスノテラへの階段)(ギイスノテラ手前の拝所)「中城ハンタ道」を更に進むと道が二股に分かれており、左に進んだ直ぐの右側に「ギイスノテラ」への階段があります。階段を登ると木の根元に石積みで囲まれた穴がありウコール(香炉)が設置されています。「ギイスノテラ」は「琉球国由来記」に「神名ギイス森ナンダイボサツ」と記されており「添石集落」の「マス島袋」という人物の祖先が霊石を安置して奉り、その子孫によって祭祀を司ったと記されています。「添石集落」では昔から「シーシティラ(添石のテラ)」と呼ばれていました。(ギイスノテラのガマ)(ギイスノテラのガマ内部)「ギイス」とは「高い嶺」という意味で「ギイスノテラ」上部の岩山は「添石(シーシ)ガンワー」と呼ばれています。また「ギイスノテラ参り」と称して男装をした女性と意中の男性が夜な夜な逢瀬を繰り返していた事から「夜半前(ヤハンメー)御嶽」とも呼ばれています。沖縄では霊石を祀る神殿、洞穴、祠を「テラ」と言い、共同体の祭祀場である「御嶽」に対して航海安全やお授けなど「テラ」は個人的な願いを対象にしています。「ギイスノテラ」のガマ内部には多数の古い霊石が祀られており、琉球王国時代には「中城ハンタ道」を旅した人々もこの神聖な場所で祈りを捧げた事でしょう。(掘込墓/フィンチャー)(亀甲墓/カーミヌクーバカ)(破風墓/ファーフーバカ)「ギイスノテラ」から更に「喜石原古墓群」の森を西側に進むと幾つもの「堀込墓(フィンチャー)」が立ち並んでいます。砂岩層(ニービ)の崖を掘り込んだ穴や、自然のガマ(洞窟)を利用した「堀込墓」は沖縄で一番古い種類の墓として知られています。更に古墓群を進むと「亀甲墓(カーミヌクーバカ)」も多数点在しています。「亀甲墓」の独特な形は女性の子宮の形から型取ったと言われ「母から生まれ、亡き後も母に帰る」という「母体回帰」の思想に基づくと考えられています。「喜石原古墓群」の中心から離れてゆくと「破風墓(ファーフーバカ)」が多く見られます。「破風墓」は屋根があり堀りもある「家」の形をした墓で「ヤーグヮーバカ」とも呼ばれています。(添石ヌンドゥンチの墓の案内板)(添石ヌンドゥンチの墓の入口)(添石ヌンドゥンチの墓/地域情報システム「発見!なかぐすく」より引用)「ギイスノテラ」手前の二股の道を右に進むと「添石ヌンドゥンチの墓」があります。この古い墓は「中城グスク」の祭祀を司っていた「ヨキヤ巫(ノロ)」の一族のお墓です。「喜石原古墓群」内にあり「中城グスク」に近い「中城ハンタ道」の西側斜面地にあります。「添石ヌンドゥンチの墓」の入口には石垣が積まれ、琉球石灰岩で造られた石段は丘稜の頂きに続いています。現在は残念ながら深い草木に覆われており「添石ヌンドゥンチの墓」に到達する事が出来ないので、中城村の「地域情報システム『発見!なかぐすく』」より墓の画像を引用させて頂きました。(雷岩)(雷岩の大岩)「添石ヌンドゥンチの墓」から更に北側に進むと「喜石原古墓群」の森を抜けます。ひときわ目立つ琉球石灰岩の大岩があり、この岩に雷がよく落ちたことから地元では「雷岩」と呼ばれています。「雷岩」のある場所は「集落を結ぶ道」「新垣グスクへ続くハンタ道」「宜野湾市方面へ行く道」の3つの道が交わる地点で「雷岩」は旅人の目印となっていました。また、琉球王国最後の名将と呼ばれた「護佐丸公」が旧暦の中秋の名月の夜、宿敵であった勝連城城主「阿麻和利」の謀略により切腹し自害しました。その直後に空は厚い雲に覆われ、激しい暴風雨の嵐になり落雷がありました。雷が落ちたこの場所に突如出現した大岩が、この「雷岩」とだと言う伝承も残っています。(中城城跡の石柱)(中城城跡の正門)「雷岩」から更に進むと「中城ハンタ道」の終点地の世界遺産「中城城跡」に到達します。「南上原糸蒲公園」から「中城城跡」を繋ぐ全長6.2キロの「中城ハンタ道」は歴史の道として琉球王国時代からの「中城」の遺跡文化財を多数現在に継承しています。かつての先人達が旅をした「中城ハンタ道」は琉球王国時代にタイムスリップ出来るスポット、集落、御嶽、グスク、拝所などを巡る事が出来る「歴史の道」であり、中城村のみならず古の琉球の歴史的、文化的、民族学的、考古学的に様々な視点から満喫出来る重要な遺産となっています。
2021.11.05
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(殿/内原ノ殿)「新垣グスク」は「新垣集落」の北側約170mの位置にあり、地元では「御嶽(ウタキ)」と呼ばれています。グスクの石積みはほとんど無く築城年代は不明ですが、1300〜1350年頃にアラカチヤマ(新垣山)高方に築城されたと伝わります。「中城グスク」と同年代に築城されたと言われており、城壁を支える根石がみられ1500年代にかけて「殿/内原ノ殿」周辺まで城壁が築かれていました。「新垣グスク」には1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」に「新垣のねだかもりぐすく」と謡われるなど、グスクと城主を称える「おもろ」が残っています。また、城主家の婚儀を祝して神女官から下された神託の「おもろ」も謳われています。(カミミチ入口)(カミミチ入口の階段)「カミミチ(神道)」は「新垣上原遺跡」から「新垣グスク」を通り「中城ハンタ道」へと通じる道で、現在通行止めになっている本来の「中城ハンタ道」の迂回路としても利用されています。「カミミチ」周辺には「新垣グスク」の遺跡文化財や古墓群が多数点在し「新垣の御嶽(上の御嶽)」と「殿/内原ノ殿」の2つの拝所への参拝路である事から「カミミチ」と呼ばれています。この2つの拝所は「琉球国由来記(1713年)」にその名称が記されています。「カミミチ」は神様の通る神聖な道なので塞いではならず不浄な行いも禁じられています。古来より「新垣集落」の人々により大切に守り受け継がれている聖なる道なのです。(ナナジョウオハカ/七門御墓)「カミミチ」の階段を登ると丁字路になっており、右に進むと「カミミチ」で左に進むと「新垣の御嶽(上の御嶽)」の森となっています。「新垣の御嶽」方面に進むと右側に「ナナジョウオハカ(七門御墓)」があり「新垣集落」の各門中(ムンチュー)の祖霊神を祀った場所だと言われています。岩盤の割れ目の元にはウコール(香炉)があり、その奥に立ち入ると祟りが起きると恐れられています。かつては「ムラシーミー(村清明祭)」に祈願されていましたが、最近ではお米が収穫できたことへの感謝祭である旧暦8月10日の「カシチー」に拝まれるようになりました。(カニマンオハカ/カニマン御墓)「ナナジョウオハカ」から御嶽森を進むと大岩があり、その麓に「カニマンオハカ」が祀られています。「カニマン御墓」とも呼ばれ、カンジャヤー(鍛冶屋)との関わりがあった人物や、集落で最も裕福だった人物の墓だったなど諸説ありますが詳細は不明のままです。戦前までは西側の崖の近くにありましたが、戦後直ぐに崩落してしまい現在地に移設されました。この大岩の根本にはガマ(洞窟)に造られた掘り込み式の「カニマンオハカ」があり、ガマの入り口には石垣の跡が残されています。この古墓は「新垣集落」の重要な祖先の墓として現在も住民に祈られています。(ウシノハナモーモーの岩)(ウシノハナモーモーの香炉)「カニマンオハカ」の西側で「新垣グスク」の最西端の森道に「ウシノハナモーモー」と呼ばれる岩があります。この岩は牛の頭の様な形をした鍾乳石で、宜野湾市「野嵩集落」の「ノダケバンタ(野嵩崖)」と「ウシノハナモーモー」が喧嘩をし両方が吠えて共鳴したとの伝説があります。北西側に隣接する「野嵩集落」方面からやって来る悪霊から「新垣集落」を守る守護神として「ウシノハナモーモー」にはウコール(香炉)が祀られており、現在も集落の住民から大切に祈られています。(ミージャーガーのガマ)(ミージャーガーのガマ内部)「ウシノハナモーモー」から森道を北に進むと、右側に東に向かう道があります。その道の先には「ミージャーガー」のガマ(洞窟)が姿を現し、ガマの内部に「ミージャーガー」の井戸があります。豊かな水量と質の良い水である事から「新垣集落」の人々の生活に欠かせない井戸だったと伝わります。正月の若水や出産の産水、豆腐作りなどに使用され「ミージャーガーの水で顔を洗うと若返る」という伝承もありました。当初、ミーヤ(新垣集落の旧屋)の犬がこの井泉を発見した事から「ミーヤーガー」と呼ばれていました。後にそれが訛って「ミージャーガー」となったと伝えられています。(ミージャーガーの石碑)(ミージャーガーの石碑)ガマの内部には非常に水量の多い井戸水が溜まっており、左奥の水路から湧き水が流れ込む音がガマの内部に響いています。「ミージャーガー」の傍に「昭和ニ年十月改築」と「字新垣青年團創立十年記念」と刻まれた2つの石碑があります。「新垣集落」に水道が普及してから、水瓶を頭に乗せて歩く女性達の姿は見られなくなりましたが、現在でも甘くて美味しい湧き水として定評をえています。「ミージャーガー」にはウコール(香炉)が祀られており、集落の人々は水の神様に豊かな恵みを感謝する井戸拝みで祈りを捧げています。(カミミチ)(ワーランガー)(新垣の御嶽の古墓)「カミミチ」に戻り東に進むと左側の崖の麓に「ワーランガー」の井泉があります。「ワーランガー」の言葉の由来や意味は不明ですが、石垣に囲まれた穴からは水が湧き出ています。「ワーランガー」の崖から北側に広がる森は「新垣の御嶽(神名:天次アマタカノ御イベ)」の神域となっており「上の御嶽」または「新垣ノ嶽」とも呼ばれています。御嶽森の奥深くの場所に大きな口を開けたガマ(洞窟)があり、入り口には幾つもの石垣が積まれています。向かって左側には花瓶や湯呑みがお供えされている為、このガマは掘り込み式の古墓であると推測されます。古の琉球では風葬が主流で、亡くなった死体を人目のつかないガマに運び骨になるまで安置しました。この「新垣の御嶽」のガマも風葬に使用された洞窟であったと考えられます。(殿/内原ノ殿)(殿/内原ノ殿の案内板)(殿/内原ノ殿の祠内部)「新垣の御嶽」から東側に約60mの位置に平場が広がっており、横幅4m/高さ2m/奥行き3mの祠が建てられています。「殿/内原ノ殿」は「ヨキヤ巫」と呼ばれるノロの管轄する祭場で、祠内には御神体として幾つかの自然石(霊石)とウコール(香炉)祀られています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願には、この平場に「新垣集落」の住民が総出で集まりウンサク(神酒)をお供えし祈っていました。グスク時代には「新垣集落」の女性達が住んでいたと伝わる事から、集落のノロが住み祭祀を行っていた「ノロ殿内」の役割があったと考えられます。祠内には他にも古い琉球赤瓦が並べられており、戦前の技法で造られた歴史的価値の高い赤瓦だと思われます。(イリヌカー/西ヌ井戸)(アガリヌカー/東ヌ井戸)「イリヌカー(西ヌ井戸)」は「新垣グスク」の殿曲輪内で「殿/内原ノ殿」の向かって左側にある石積みで囲まれた井戸跡です。「アガリヌカー(東ヌ井戸)」は「殿/内原ノ殿」から北側約20mの位置にある石積みで丸く囲まれた井戸跡です。いずれの井戸も戦前まで井戸水が豊富にあったと伝わっています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願に拝まれています。「新垣内原遺跡」が入口の「カミミチ(神道)」は「アガリヌカー」から東側に進み階段を降り、再び「中城ハンタ道」に合流する地点が「カミミチ」の出口となっています。(カミミチの出口/新垣グスクの案内板)「カミミチ(神道)」の出口から北側に「中城ハンタ道」が続いています。「新垣集落」の北方にそびえる新垣山に「新垣グスク」があり、そこには周辺地域を支配する城主(按司)が存在していたとされます。「おもろ」の内容を見ると城主の威厳と繁栄をうかがわせる内容が謳われています。また、良質の輸入陶陶器も多く出土していることから、当時の「新垣グスク」とその周辺の地域は「中城」の内でも特に栄えていたと考えられます。(ツンマースから眺める中城湾と知念半島)「新垣グスク」に関する「おもろ」一 あらかきの、ねたか、 もりくすく、てたか、 ふさよわか、くすく 又 てにつきの、ねたか、もり (訳) 新垣の根高杜城(新垣グスク)は、 城主の居城にふさわしいグスクである一 あらかきの、ねだか、 もりぐすく、てだが、 ふさよわる、ぐすく 又 てにつぎの、ねだか、もり(訳) 新垣の天頂の根高杜ぐすくは、 太陽の栄え給うぐすくである一 あらかきの、くにの、ねにけよ、 しよる、つかい、 もゝとの、つかい又 天つぎの、しまのねに(訳) 新垣の天頂の国の根(中心)に 今日している神迎えは、 いく度もくり返したお招きなのだ−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(後編)』に続く−
2021.10.28
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(若南ビラ石畳)「キシマコノ嶽」から「中城ハンタ道」を320m北上すると「若南ビラ石畳」に辿り着きます。「若南ビラ」は戦後まで石畳が現存していましたが、長い年月の間に崩れ落ちてしまい一部のみ残されています。現在の新しい階段の向かって左側に石畳跡があり「若南ビラ」は約80mの長さがあったと伝わります。使用されている石材は琉球石灰岩製で、止め石は15〜30cm程の長方形に加工されていました。また敷石は形が不定形で15cm以下の小さなものが多く使われていました。石畳が造られた正確な時期は不明ですが、周辺から発掘された遺物や聞き取り調査などから近世以降のものと考えられます。(新垣の石橋)「若南ビラ石畳」の西側に中城村指定文化財の「新垣の石橋」が架かっています。「新垣集落」は昔から石工が多く住み石造技術の高い地域だと伝わります。「新垣の石橋」は若南川により分断された地域の不便さを橋を架けて解消しようと1942(昭和17)年頃、当時石工の棟梁だった伊佐山戸さんが徴兵で残った老人婦人と共に石橋を造ったと伝えられています。「新垣の石橋」には亀甲墓のアーチ式技法が駆使され、戦前から現存する中城村内で唯一のアーチ型石橋となっています。(県道開削記念碑)「新垣公民館」の南側に隣接して「県道開削記念碑」が建立されています。かつての「新垣集落」の道は殆どが石畳道で自動車が通れない為、集落の外から物資を運ぶ際には馬の背と人の肩に頼る他ありませんでした。この状況を見た「新垣集落」出身の伊佐善則と善俊親子は幅の広い道路の実現に向けて集落の住民と団結し、長年の夢だった県道35号線(旧普天間〜与那原線)が開通しました。「道開削記念碑」は県道開通記念と伊佐親子の功績を称え、1934(昭和9)年10月に建立されました。(ナカミチ/中道)(ナカミチ前)(新垣区綱曳き発祥の地の石碑)「新垣集落」の中心部に「ナカミチ」と呼ばれる道があり「新垣公民館」の北側から集落の東側に続いています。この道は旧盆に「新垣集落」の綱引きの舞台になり「新垣区綱曳き発祥の地」の石碑の場所は綱引きが無事に行われるように願う「綱引きの祈願所(拝所)」として崇められています。集落では子供達が各家から藁を集め青年達が綱を打ちます。「新垣区綱曳き発祥の地」の石碑を境に上下両組に分かれて松明を灯し、ドラや太鼓を打ち鳴らしながら空手が披露され綱引きが行われます。(ユームトゥビラ/与元坂)(ユームトゥビラの案内板)「中城ハンタ道」は「ナカミチ」から北側に登る急坂の「ユームトゥビラ(与元坂)」に続きます。昔から「新垣集落」の主要な道として利用され、坂道の先には「新垣集落」発祥の土地である「新垣上原遺跡」や「新垣グスク」があります。約80mの坂道が続く「ユームトゥビラ」は「ナカミチ」から「案内板」まで50mもの急勾配となっており、坂道の集落である「新垣集落」の住民がビラ(坂)と共に生き続けてきた歴史を体感出来ます。また、かつて「中城方東海道」を中城城方面に歩いていた旅人にとっては「地獄の坂道」であった事でしょう。(ツンマース)(ツンマースの案内板)「ユームトゥビラ」から北に「中城ハンタ道」を登ると「ツンマース」が現れます。以前、この場所には大きな松が生えており、その周辺を円形に石積みで囲いロータリーの役割をしていた事から地元では「ツンマース」と呼ばれるようになりました。この地点は分岐道となっており、東側に進むと「新垣グスク」「ペリーの旗立岩」「中城グスク」に向かい、西側に進むと宜野湾方面に続いています。「ツンマース」の周辺には「タントゥイモー(種子取り毛)」や死者を墓場まで運ぶ輿の保管場所である「龕屋(ガンヤー)」などがあり「新垣集落」の人々の生活や祭祀行事の重要な場所となっていました。(根所/ニードゥクル)(根所の案内板)「ツンマース」から東側に90m進むと「根所(ニードゥクル)」の拝所があります。「根所」は集落の創始者の屋敷があった場所で、現在はコンクリート製の祠と井戸跡、ウヮーヌフール(豚小屋兼トイレ)跡、石畳が残っています。旧暦10月1日には「ムラウバギー」と称して根所にウバギー(おにぎり)をお供えして、その1年間に生まれた子供の名前を報告する事になっている。戦前まで行われていた十五夜のムラアシビ(村遊び)には「根所」の庭で様々な舞踊が演じられていました。(ディーグニー)「根所」の西側に隣接して「ディーグニー」と呼ばれる森があります。戦前まで旧暦12月7日に「シマクサラシー(魔除け)」の祈願が行われた場所です。マーニ(クロツグ)の木の根元にウコール(香炉)を意味する霊石が祀られています。その一帯が「ディーグニー」と称され、そこでシンメーナービ(大鍋)に牛肉を炊いて集まる集落の人々に振る舞っていました。木々が鬱蒼と茂るこの森には、かつて「シマクサラシー」の祭事で牛を殺したデイゴの木が現在も残っています。(ペリーの旗立岩前の展望台)(ペリーの旗立岩前の案内板)(展望台からの絶景)「根所」から「ハンタ道」を東に進むと「前吉門(メーユシジョー)」「新屋(ミーヤ)」「仲嶺(ナガンミー)」「新屋敷(ミーヤシチ)」「新地(ミーチ)」「殿根屋(トゥニヤー」と呼ばれる「根所」からの分家が集まる「新垣集落跡」に差し掛かります。この周辺は「上原新垣遺跡」と称され、石畳道が現在も残っています。この先の「ハンタ道」は通行止めになっており、続きの「ハンタ道」は東に数十メートル先に進んだ地点から再開しています。その場所から「ハンタ道」を北に向かうと「ペリーの旗立岩前」にある展望台に辿り着きます。展望台からは一面に中城湾が広がり、知念半島、久高島、津堅島、勝連半島が一望出来る絶景となっています。勝連半島の先にある米海軍施設「ホワイトビーチ」と津堅島の間に「カタブイ(通り雨)」が降っており、海と空が魅せる大自然の迫力を感じる事が出来ます。(ペリーの旗立岩の案内板)(ペリーの旗立岩)(ペリーの旗立岩のスケッチ)展望台の西側に「ペリーの旗立岩」があります。「新垣グスク」の北側で標高160m程の台地にある10数メートルの琉球石灰岩の大岩で、地元ではターチャーイシ(二つ岩)と呼ばれています。1853年にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が沖縄本島の調査をした際にこの岩山の周辺で休憩し、その時に岩山の上に星条旗を立てて記念に祝砲を撃ったとされています。調査隊のHeine Del.により描かれたスケッチが残されています。ペリー提督一行がこの岩を「Banner Rock」と呼んだ事から「ペリーの旗立岩」と名付けられたのです。現在でも約170年前に描かれたスケッチと変わりない風貌を保っています。ー『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「新垣グスク/カミミチ」(特別編)』に続くー
2021.10.24
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(キシマコノ嶽/161.8高地陣地)沖縄本島には琉球王国時代前半の首里城から勝連グスクまでを結ぶ「中頭方東海道」があり、中間の中城村内を通る道は「中城ハンタ道」と呼ばれる全長約6.2kmの歴史の道となっています。沖縄の言葉で「ハンタ」とは「崖」を意味し、中城村内では山の尾根や崖沿いに道が通っている事から「ハンタ道」と呼ばれています。「中城ハンタ道」の周辺には多数の遺跡文化財が点在しており、琉球の歴史を知る重要な資料となっているのです。(東太陽橋にある中頭方東海道の標識)(東太陽橋にあるハンタ道の標識)12〜14世紀頃までは「ハンタ道」は各集落やグスク間を繋ぐ道として利用され、15世紀に琉球王国を誕生させた「尚巴志王」により王府と地方の情報伝達の為に整備されました。「ハンタ道」の起伏に富んだ地形や、東側の眼下に広がる村落風景と美しい中城湾が一望できる絶景は散策する全ての人を楽しませてくれます。また、琉球王国時代より伝わる多数の遺跡文化財が残る歴史の道は魅力と浪漫に溢れています。(糸蒲の塔/南上原糸蒲公園)中城村の南部に「南上原糸蒲公園」があり、敷地内には「糸蒲の塔」がある小高い丘があります。かつてこの丘には琉球王朝時代に不動明王を祀った「糸蒲寺」が建立されており「琉球国由来記(1713年)」によると、日本から来た補陀落僧(ふだらくそう)が住職をしていました。この寺には糸蒲ノロと住職の有名な伝説があります。『ある日、幼い女の子を家の外へ追い出して話し合いをしていた糸蒲ノロと僧侶は、この幼女の言葉によってノロの夫に密通を疑われてしまいます。二人は憤慨し糸蒲ノロは「この幼女の家の女子は末切れ末切れ(女子は途絶える)」という呪いを吐き乳房を噛み切って自殺したのです。すると僧侶は「糸蒲寺」の財宝を糸蒲御嶽へ隠して櫃(ひつ)に入りました。直後に寺は炎上して焼失した櫃の中は空っぽになっていた(昇天した)そうです。それから幼女の家に女児は生まれなくなり、その後「糸蒲寺」は再建されず1700年代には寺の石段だけが残っていたそうです。』(糸蒲の塔/沖縄戦戦没者を祀る拝所)また、火事で寺が焼失する瞬間、寺の本尊が首里城の漏刻門(ろうこくもん)に現れたという伝説もあります。南上原の東端標高約150mの丘陵にある「南上原糸蒲公園」の東側に「糸蒲遺跡」があります。このグスク時代の遺跡は糸蒲門中(ムンチュー)が現在の津覇集落へと移住する前の集落跡といわれており「糸蒲遺跡」からはグスク土器や白磁などが出土しています。さらに「糸蒲寺」の周辺は琉球の「田芋発祥の地」として知られています。「糸蒲寺」の補陀落僧が日本から持ってきた田芋を寺の近くに植え、そこから沖縄中へ広まったという伝説が残っています。(ウトゥーシ/遥拝所)「南上原糸蒲公園」の丘の東側麓に「糸蒲のウトゥーシ」と呼ばれる合祀拝所があり「ウトゥーシ」とは遥拝所の事を意味します。この一帯は糸蒲門中の居住地跡と伝えられており、この拝所にはコンクリート製のウコール(香炉)が3基並んでいます。それぞれ「糸蒲ノ嶽/神名:掛カネ森ノセジ御イベ」と「シキマタノ嶽/神名:シキ森ノセジ御イベ」と呼ばれる御嶽への遥拝所と「糸蒲寺」への遥拝所と言われています。糸蒲門中は西原の棚原グスクとの戦いに敗れ、糸蒲に逃れて一時生活をしていました。その後、より住み易い平地へと下りて行ったと伝えられています。(ウトゥーシのヒヌカン/火の神)「ウトゥーシ」の西側に隣接して「ヒヌカン(火の神)」があり、シルカビ(白紙)に包まれたヒラウコー(沖縄線香)が供えられていました。「ヒヌカン」など神様への御願では15本の線香を供える決まりがあり「ジュウゴホン(十五本)」と呼ばれます。これは「ジュウニフン(十二本)」に「サンブンウコー(三本御香)」を加える」とも言われます。この「ジュウニフン(十二本)」は「十二干支」を意味し「サンブンウコー(三本御香)」には「ミティン(三天)」の神様へお通しをする意味合いがあります。ちなみに「ミティン(三天)」とは、この世の三つの要素で「ジーチ(地)」「ウティン(天)」「リュウグ(龍宮=海)」を意味します。「サンブンウコー(三本御香)」は「チジウコー」とも呼ばれています。(東太陽橋)(東太陽橋の標識)「南上原糸蒲公園」の北側に「東太陽橋(あがいてぃだばし)」が架かっています。「1日の計は朝にあり、朝日を拝み、1日の夢を抱く絶好の場所である」の意味を込めて「東太陽橋」と名付けられました。1日のパワーを貰える朝日と絶景が見られる人気のスポットです。「東太陽橋」からは中城湾、知念半島、久高島、津堅島、勝連半島、中城城跡が一望出来て、橋の親柱は中城城跡の門をモチーフとして造られています。毎年正月には初日の出を拝む人々が多数訪れます。(南上原のユクヤー)(南上原のユクヤーの案内板)「東太陽橋」から「中城ハンタ道」を北に向かうと「南上原ユクヤー」があります。この地点は古くから「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」と呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで南上原を中心に周辺地域から若い男女が集まり「モーアシビー(毛遊び)」の場所としても利用されていました。ちなみに「モーアシビー」とは主に夕刻から深夜にかけて若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会をいいます。(北上原のユクヤー/奥間毛)(北上原のユクヤーの案内板)「南上原のユクヤー」から「ハンタ道」を北に365mの位置に「北上原のユクヤー」があります。「奥間集落」の上方にあり地元では「ウクマモー(奥間毛)」と呼ばれています。「奥間集落」から坂道を上ってきたり「ハンタ道」を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」とも呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで北上原を中心に周辺集落から若い男女が集まりモーアシビー(毛遊び)の場所として利用されていました。(安里村壱里山)(安里村壱里山の案内板)「北上原のユクヤー(奥間毛)」から「ハンタ道」を北に295m向かうと「安里村壱里山」に辿り着きます。「壱里山」とは琉球王国時代に造られた道の目印です。首里城から一里(約4km)おきに設置され「中城村」ではこの場所に「壱里山」が設もうけられました。1646年の「正保三年琉球国絵図帳」に「安里壱里山」と記されています。ここでは明治から昭和の初期頃まで、北上原の東側に住んでいた人々が、毎年秋に集まって農事の成績を品評するハルヤマスーブ(原山勝負)や学事奨励会や宴会など地域の行事を行う場所として活用していました。(キシマコノ嶽の大岩)(キシマコノ嶽の案内板)(キシマコノ嶽の大岩根元のガマ)「安里村壱里山」の北側に標高161mの丘稜があり「ハンタ道」を300m進んだ丘の頂上に「キシマコノ嶽」と呼ばれる御嶽の森が広がっています。この御嶽周辺は中城村「奥間集落」の発祥地として知られており、戦前まで集落の豊作祈願や繁栄祈願が行われていました。この御嶽は「琉球国由来記(1713年)」には「キシマコノ嶽/神名:天次アマヅキノ御イベ」と記載されています。当時はノロ(神女)を中心に集落の人々がこの御嶽を拝んだとされています。現在でも「奥間集落」の人々に拝まれていますが、山奥で往来が不便な為に集落近くにウトゥーシ(遥拝所)を設け、そこから御嶽を拝んでいます。(監視哨内部/南側の入り口)(監視哨内部/北側の監視窓/銃眼)(監視哨内部/東側の監視窓)(監視哨内部/西側の監視窓/銃眼)「キシマコノ嶽」周辺は沖縄戦直前に旧日本軍の軍用陣地が構築され、御嶽の大岩上部は敵の飛行機を360度見張る監視哨として整備利用されました。北は北谷町から読谷村、南は浦添市から知念半島辺りまで一望できる高台に位置しており、当時の標高計測値が161.8mあった事から「161.8高地陣地」と呼ばれるようになりました。「キシマコノ嶽」の大岩の下にあるガマも旧日本軍の陣地として銃眼や外部へ通じるトンネルとして利用されました。戦争遺跡として二度といたましい戦争が起こることが無いよう、後世に平和の尊さを伝える場所として保存されています。−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(中編)』に続く−
2021.10.22
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(護佐丸の墓)琉球王国の歴史において「護佐丸(ごさまる)」と「阿麻和利(あまわり)」の2人の武将は欠かす事ができない存在です。「護佐丸・阿麻和利の乱」は1458年に尚泰久王治世下の第一尚氏王統琉球王国で発生した内乱で、第6代王に即位した「尚泰久王」の権力基盤は不安定で、国王の後継者争いの中で「護佐丸」や「阿麻和利」をはじめとする地方の有力按司(あじ)がせめぎ合っていた混乱する時代背景がありました。(護佐丸公之御墓の石碑)(護佐丸の墓への階段)沖縄本島中南部の「中城村(なかぐすくそん)久場」に「護佐丸の墓」があります。世界遺産に登録されている「中城城跡」の東側に隣接する「台グスク(デーグスク)」の丘稜に佇む「護佐丸の墓」は現存する亀甲墓としては、沖縄県内で最も古いものの一つといわれています。「台グスク」は「琉球国旧記」(1731年)には「泰城」と記されており「中城城」が造られる以前から存在した古いグスクと伝わります。丘稜の中腹にある「護佐丸の墓」まで登る階段が続き、亜熱帯の植物が生い茂る森を進んで行きます。(護佐丸の墓)「護佐丸(生年不詳-1458年)」は恩納村出身の15世紀に活躍した琉球王国(中山)の按司です。大和名は中城按司護佐丸盛春(なかぐすくあじごさまるせいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)です。1422年、第一尚氏王統の第2代国王となった「尚巴志」は二男「尚忠」を北山監守に任じ、「護佐丸」を読谷村の「座喜味城」に移して北山の統治体制を堅固にしました。その後「護佐丸」は「座喜味城」に18年間居城し、中国や東南アジアとの海外交易で黎明期の第一尚氏王統の安定を経済的にも支えました。(毛國鼎護佐丸之墓の石柱)「勝連城」を根拠地とする「茂知附按司(もちづきあじ)」が勢力を拡大すると「尚巴志」は1430年、中城の地領を「護佐丸」に与え「中城城」の築城を命じました。さらに息子の「尚布里」を江洲(現うるま市)、「尚泰久」を越来(現沖縄市)に置き「勝連城」を牽制したのです。「護佐丸」は与勝半島を眺望できる「中城城」の改築にかかり、1440年「尚忠」が第3代国王となると、王命で同年に完成した「中城城」に居城を移しました。(阿麻和利の墓)沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)楚辺」に「阿麻和利の墓」があります。「阿麻和利(生年不詳-1458年)は15世紀の琉球王国において、勝連城主として勝連半島を勢力下に置いていた有力按司です。北谷間切屋良村(現嘉手納町字屋良)出身で幼名は「加那(カナー)」でした。中北山末裔の「伊覇按司一世」の五男が「安慶名大川按司一世」であり「阿麻和利」は「安慶名大川按司一世」の次男「屋良大川按司」と「兼城若按司(南山)」の娘の子と伝わります。(阿麻和利の墓)「阿麻和利」は悪政を強いる勝連城主の「茂知附按司」を倒して10代目勝連城の按司となりました。東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れて勝連半島に富をもたらします。勢いを増す「阿麻和利」に第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」は、正室である「護佐丸」の娘との間に生まれた娘の「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻にとらせ「護佐丸」と「阿麻和利」の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に、内乱で失墜した王権の復興を図りました。(阿麻和利之墓の石柱)しかし、1458年8月「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発したのです。王府史書によると、勢力を増す「阿麻和利」に対抗するため「護佐丸」が兵馬を整え、これを「阿麻和利」が「護佐丸」に謀反の動きがあると王府に伝えます。「尚泰久王」が「阿麻和利」を総大将に任じ「中城城」を包囲すると、王府軍と聞いた「護佐丸」は反撃せず妻子とともに自害しました。宿敵の「護佐丸」を除いた「阿麻和利」は王府に謀反を起こしましたが「百度踏揚」が「勝連城」を脱出し王府に変を伝え「阿麻和利」は王府軍(中山軍)によって滅ぼされたと伝えられます。(ガジュマルが絡まる阿麻和利の墓)王府軍により「勝連城」を追われた「阿麻和利」は生まれ故郷の「屋良(現嘉手納町)」方面に逃れてきます。さらに王府軍に追われた「阿麻和利」は「屋良」から読谷の「楚辺」に逃げ隠れますが、ついに、この墓の近くにある「親見原」の「ウェンミモー」と呼ばれる場所(現在の米軍通信施設トリイステーション内)で捕らえられ、首を斬られ殺されたと伝わります。ちなみに「阿麻和利」が捕らえられた「ウェンミ」とは"降参する"と言う意味だと言われています。(護佐丸の墓への階段)正史では「護佐丸」が忠臣で「阿麻和利」が悪人とされていますが、首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」(1531-1623)には「阿麻和利」を英雄として讃える"おもろ"が多数収録されています。「勝連の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み 肝高の阿麻和利 聞ゑ阿麻和利や 大国 鳴響み」"勝連の阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている 志高き阿麻和利 その名は沖縄全土に鳴り響いている"「勝連の肝高の阿麻和利 玉御柄杓 有り居な 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま」"勝連の阿麻和利は 玉御柄杓を持っているほどのお方です 京都 鎌倉にこのことを言って その名を鳴り響かせよう"
2021.08.10
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