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(ヌル殿内/ヌルドゥンチ)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があり、集落の中心部を南北に通る「新里ビラ」と呼ばれる急勾配の坂道があります。この坂道の途中にはかつてノロの住居があった「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」の拝所があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『バテン巫火神』と記されており『聞得大君嘉那志アラヲレノ時、与那原ニテ、バテン巫、大君之御前ニ出、神御名、テダ白御神ト、女御唄ノフシニテ付上ゲタル昔ノ例ハ、為有之ト也。バテンノロ神名、住古ハテダ白ト云フ。御同名恐多トテ、中古、改名之儀立願仕ケレバ、神託ニ、ヨナワシ大神ト被下タルトナリ。』との記述があります。(新里ビラ沿いのヌル殿内/ヌルドゥンチ)「場天ノロ/バテン巫」の神名は元は「テダ白/日白」であり、テダ白とはテダ代の事で「太陽神」の神霊が寄り付く「依代/よりしろ」を意味します。その神名を与那原(ヨナバル)で、第二尚氏時代の最高神女(ノロ)である「聞得大君」に付与した内容を「琉球国由来記」は記しています。「聞得大君」が初めての「アラヲレ/御新下り」で与那原で行幸した際に「聞得大君」の前に跪いた「場天ノロ」は「御唄/神歌」が唱えられる中で「テダ白御神」という自身の神名を「聞得大君」に献上しました。同名は畏れ多いので、それ以後「場天ノロ」の方は自身を「ヨナワシ大神/与那和志大神」と改名して名乗るようになったと「琉球国由来記」には記述されています。(ヌル殿内/ヌルドゥンチの3基のウコール)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)(ヌル殿内/ヌルドゥンチの火の神)「ヌル殿内/ヌルドゥンチ」はかつて「アガリゾー」とよばれており、現在は3つのウコール(香炉)と2つの火の神(ヒヌカン)が祀られています。ウコールは向かって右側は琉球開闢に係る「阿摩彌姑/アマミキヨ」の5世と言われる「御巣人大神/ウシジンテージン」、中央が琉球国以前のムラの祭祀行事に於いて最高の統治者でヌルの始まりであった「藩坐那志/ハンジャナシー」、向かって左側が佐銘川大主の娘で第一尚氏時代に佐敷の祭祀を管轄した神女であった「場天大ヌル/バテンウフヌル」の香炉とされています。また、戦前は「ヌル殿内」の敷地内に一対の大きな石造りのシーサー(魔除け獅子)が鎮座していて、南西と南東に別々に向いていましたが沖縄戦で消滅してしまいました。更に、集落の綱引きの際には「ヌル殿内」から出発して「新里馬場」に向かったと伝わっています。(中樋川グヮー/中樋川小)(中樋川グヮー/中樋川小の拝所)「ヌル殿内」から「新里ビラ」を南側に登ると「中樋川グヮー/中樋川小」に向かう森道が続いています。「澤川原遺物散布地」南端の森に位置するこの樋川(ヒージャー)は、東側丘陵の「崩利下原遺物散布地」方面から湧き水が流れ込んでいます。現在も水量が豊富な「中樋川グヮー」はかつて集落の「産井/ウブガー」として利用され、集落で子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)はこの産井(ウブガー)から汲まれて用いられました。更に、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「中樋川グヮー」は心臓破りの坂として知られる「新里ビラ」の中腹辺りに位置しているので、昔は坂を登り下りする村人や旅人の休憩場所として重宝されていたと考えられます。(宮城殿/ナーグシクドゥン)(宮城殿/ナーグシクドゥンの祠)「中樋川グヮー/中樋川小」の南東側に約150メートルの位置に「宮城殿/ナーグシクドゥン」があり、祠には霊石が祀られています。この場所は「尚巴志」の弟とされる「大平田之比屋」の孫である「手登根里之子」の住居跡であると伝わっています。「琉球国以由来記」には『宮城之殿』と記されており『稲穂祭之時、シロマシ・神酒壱百姓。同大祭之時、神酒二百姓、供之。バテンノロ祭祀也。』との記述があります。「里之子(さとのし/さとぬし)」は琉球王国時代に王様の近くに仕えた若者で、親方(うぃーかた)の次位で筑登之(ちくどの)の上位にあたります。また、一間切を采地として総領する地頭職である「総地頭/惣地頭」の次男以下の子どもの呼び名でもありました。(上之樋川/ウィーヌヒージャー)(上之樋川/ウィーヌヒージャーの拝所)「宮城殿/ナーグシクドゥン」の西側で「新里ビラ」沿いの森の入り口に「上之樋川/ウィーヌヒージャー」の井戸跡があり「上之樋井/ウィーヌヒーカー」とも呼ばれています。この井戸跡には幾つもの霊石が祀られており、石造りのウコール(香炉)に「ヒジュルウコー」という火を灯さずに拝する「ウチナーウコー(沖縄線香)」が供えられています。「上之樋川/上之樋井」は「新里集落」の旧水源地で、水の神「ウシジン大人」が祀られている拝所となっています。また、かつてこの井戸は「産井/ウブガー」として利用され、赤子の産水(ウブミジ)に使用された他にも正月の若水(ワカミジ)として汲まれ、その水で茶を沸かし一年の無病息災を祈願しました。(タク川ノ御嶽の森)(タク川の滝)(タク川の拝所)「上之樋川」から「新里ビラ」を南側に登ると「上之川原」と呼ばれる場所に「タク川ノ御嶽」の森があります。この森にそびえる南側丘陵は「タク川山」と呼ばれ、神々が鎮まる聖地であると伝わっています。「タク川山」には「タク川の滝」が流れており、滝壺の脇には水の神様を祀る拝所が設けられています。この拝所では沖縄の線香である「ヒラウコー」やご先祖様が使うあの世のお金である「ウチカビ」を燃やさず拝し、来た時よりも綺麗にしてお供え物は持ち帰る仕来りとなっています。昔は「タク川」の水利で稲作が栄えた為、水に対する感謝と豊作祈願がなされていました。この地には田植えの儀礼が行われる集落所有の「フートィンジャ」と呼ばれる神田がありました。(タク川ノ御嶽)(タク山の中腹に登る階段)「タク川の滝」周辺の森は「タク川ノ御嶽」と称されており「イビ/イベ」と呼ばれる神が所在する最も聖なる場所は特定されておらず「タク山」の一帯が神々が宿る御嶽の聖域だと考えられています。この御嶽は並里系「嶺井門門中」の拝所で「琉球国由来記」には『タコ川ノ嶽 神名 カホウモリシマギシノ御イベ』と記されています。更に『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記述されています。因みに「花米/ハナグミ」は祭祀や儀礼に用いる生米の事で「ミハナ」や「ンパナ」とも称されます。また「五水」は既成の泡盛で御五水とも呼ばれ、更に「神酒」は村人が米、麦、芋で作った御神酒(ウンサク)を意味します。(御巣人御墓)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の拝所)(志仁禮久大神/阿摩彌姑大神の石柱)「タク川の滝」の西側に「御巣人御墓」へ通じる長い階段があり、登り切った丘陵の中腹には古い彫込墓の「御巣人御墓」があります。「阿摩彌姑/アマミク」の子孫で4世の「御巣人大神」の墓には石造りのウコール(香炉)が祀られています。「御巣人御墓」から更に丘陵中腹を西側に進むと「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」と彫られた石柱が建つ拝所があり、祠にはウコール(香炉)が設置されています。「志仁禮久大神」は「シネリク/シネリキヨ」で「阿摩彌姑大神」は「アマミク/アマミキヨ」の事で、琉球王国最初の正史である「中山世鑑/ちゅうざんせいかん(1650年)」には天の城に住む「天帝」が琉球開闢の際に、自分の子供である「シネリク」と「アマミク」の夫婦神を地上に降ろしたと記されています。その後、二人は三男二女をもうけ長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は君々(上級女神)、次女はノロの始まりとされています。長男は「天孫子」と名乗り、国の主として統治したと伝わります。(並里御墓)(並里御墓の石柱)「志仁禮久大神/阿摩彌姑大神」の拝所を更に西側に進み続けると「並里御墓」があります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などで、この墓には「並里/ナンジャトゥ」の祖先が祀られていると考えられます。こちらの古墓も洞穴の入り口を石組で塞いだ彫込墓で、この洞穴で風葬された後に洗骨され、厨子甕に納骨されて葬られていると考えられます。この丘陵一帯には「中並里之墓」「手登根里之子の墓」「平仲大主の墓」が点在しており「新里集落」発祥と発展に関わった先人達が葬られ、神々として祀られる聖域として崇められています。集落を南北に通る急勾配の「新里ビラ」は周辺に幾つもの拝所が点在する"神の坂道"として長い琉球の歴史を刻んでいるのです。
2022.08.26
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(夫婦デイゴ)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里集落」があります。この集落中央部にある「新里公民館」沿いには「夫婦デイゴ」と呼ばれる二対に構えるデイゴの巨樹があります。「南城型エコミュージアム」の一環としてデザインされた「新里のてぬぐい」には集落の特徴をモチーフに、地域の方や大学生等の意見が取り入られており「夫婦デイゴ」もデザインに採用されています。「新里集落」の世帯数は455世帯で人口は1,124人(令和3年4月末時点)、集落内には50余りの拝所(御嶽•井泉)があります。更に「尚巴志マラソン」の最大の難所である「新里ビラ」と呼ばれる心臓破りの坂も「新里集落」の名所となっています。(新里馬場跡)「新里集落」には「馬スーブ/ンマスーブ」と呼ばれる琉球競馬が古くからあり、農村の娯楽として大事な行事の一つでした。「ンマ(馬)スーブ(勝負)」に使われた馬は「島馬/チマンマ」と呼ばれる宮古馬や与那国馬が主流でした。馬の走る速さを競うのではなく、馬の走る足並みや美しさを競う競馬で沖縄本島では「ンマハラシー」の名称でも知られています。村主催の「馬スーブ」は明治から昭和初期にかけて「原山勝負/ハルヤマスーブ」の指分け式の余興として春と秋の年二回行われました。春は「屋比久ガニク」と呼ばれる「外間馬場」で、秋は「新里馬場」で開催されていました。現在「新里馬場跡」には「新里公民館」が建てられて整備されていますが、かつて「新里馬場」では集落の綱引きも行われていました。(創作舞踊/汗水節の振付記念碑)(徳森小/徳森グヮー)「ンマスーブ」が余興で行われた「原山勝負」は19世紀に始まった各間切の重要な農事奨励法でした。春と秋の年二回、耕地の手入れ、農作物、山林の植栽手入れ保護等の成績を品評していました。「新里公民館」には「創作舞踊/汗水節振付記念碑」が建立されています。「汗水節」は昭和初年に国が勤倹貯蓄を推奨するために募った歌で二等当選(一等は該当なし)したのが、宮良長包が作曲した「汗水節」でした。「新里集落」では曲に乗せて踊る農村らしい振付けの舞踊を昭和8年に西村正五郎が考案しました。「新里公民館」の東側には「徳森小/トクムイグヮー」と呼ばれる一画があります。この地はかつて農作業の間に村人が休憩する場所として利用されており、現在も文化財として保護継承されています。(佐久真門モー/新里農村広場)(佐久真門モー/新里農村広場)「新里公民館」の南東側の斜面に「佐久真門モー/サクマジョーモー」と呼ばれる農村広場があります。ここではかつて「新里の村アシビ」が旧暦8月15日(15夜の日)に毎年行われていました。村アシビは集落単位で楽しむもので、集落の住民同士の和を形成するために開催されました。しかし、大正7年に催された「龕のお祝い」は3日に渡り盛大な村アシビが行われ、集落外からも多数の見物客が押し寄せて大変賑わいました。各家庭では見物客にご馳走を振る舞ったと言われています。「佐久真門モー」と「新里馬場」では「新里集落」のフンカ(代表的な芸能)である「長者ヌ大主」を始めとして「仲順流」「国頭サバクイ」「アヤグ」に続き、他の狂言や端踊など多数演じられました。(石畳道)(昔産井戸/ウンブガー)(昔産井戸/ウンブガー)「佐久真門モー」の西側に位置する「イビの森」の北側丘陵中腹に古い「石畳道」が残されています。この「石畳道」を進んでゆくと「昔産井戸/ウンブガー」と呼ばれる井戸の祠があります。この井戸は南側の丘陵を登った先で「イビの森」の北側に構える「新里ノ殿」と直接的な繋がりがあります。かつて「新里ノ殿」の場所にあった屋敷に「新里大主」が暮らしていた時代に「産井戸/ウブガー」として利用されていた井戸でした。子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)は産井戸(ウブガー)から汲まれて用いられ、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。「昔産井戸/ウンブガー」は「新里集落」のみならず「新里大主」の子孫や各門中により拝されています。(土帝君/トゥーティークン)(土帝君/トゥーティークンの石堂)「昔産井戸/ウンブガー」の南西側の小高い森に「土帝君/トゥーティークン」と呼ばれる石堂が鎮座しています。この石堂の内部にはかつて陶器の仏像が三体祀られていました。それぞれ「土地の神」「農作物の神」「観音様」として崇められ拝まれていました。昔は「土帝君祭」として旧暦2月2日(ニングヮチカンカー)に、豚の頭や鳥の丸焼きなど御供物として盛大に祝いました。農作物の害虫被害が大きい場合には、この石堂で「場天ノロ」により「ムシバレー」と呼ばれる虫祓いの祈願をしてから集落の北側にある「西の龍宮」を拝み、害虫をクバの葉に乗せて海に流しました。また、稲作をしていた頃は「タントゥイ」という種取りの時期に祈願され、更に「観音様」は子供達や旅に出ている者の健康祈願として拝まれていました。(勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥン)(勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥンの祠)(勢理客ノ井戸/ジッチャクノカー)「土帝君/トゥーティークン」の北側には「勢理客ノ殿/ジッチャクノトゥン」と呼ばれる祠があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『ゼリカクノ殿 稲二祭之時、五水六合・神酒壱地頭、シロマシ・五水四合・神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。且、祭之日、バテンノロ・若ノロ・根神ヘ朝食五ツ組、居神四人・掟ノアムヘ三ツ組ニテ自地頭有馳走也。』と記されています。この「勢理客ノ殿」は「勢理客大主」の屋敷跡があった場所に造られており「新里集落」では旧暦5月と6月の「ウマチー」と呼ばれる稲の豊作祈願と収穫祭で拝されています。祠の向かい側には「勢理客ノ井戸/ジッチャクノカー」があり「勢理客大主」の屋敷で使われていた井戸跡が現在も残されています。(上之井戸/ウィーヌカー)(勢理客樋川/ジッチャクヒージャー)(勢理客樋川/ジッチャクヒージャーのウコール)「勢理客ノ井戸」の南西側に「上ノ井戸/ウィーヌカー」があり、現在も石が組まれた井戸跡が残されています。この井戸はかつては「勢理客大主」の屋敷から南西側に住む人々の生活用水として使用されていたと思われます。更に、この井戸の北西側には「勢理客樋川/ジッチャクヒージャー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸跡に生い茂る樹木の下には「勢理客樋川」を祀ったウコール((香炉)が設置されており、水への感謝を奉る拝所となっています。「樋川/ヒージャー」とは岩盤の奥の水脈から石樋を通して水を引いてきたものを言いますが、今日かつて存在した石樋は確認されません。現在は樋川があった場所のすぐ脇に水量が多い水路があり、かつての「勢理客樋川」と同じ水源から現在も水が流れ出ていると考えられます。(ダロー森/ダロームイ)(国元の神アシャギ/右側と村元の神アシャギ/左側)新里公民館の西側丘陵の頂上に「ダロー森/ダロームイ」と呼ばれる一画があり、ここから東側斜面の麓には「国元の神アシャギ」と「村元の神アシャギ」と呼ばれる屋敷が2軒並んで建っています。国元と村元は「嶺井門/ミジョー門中」(仲嶺井門/ナカミジョー)で、神御先祖は「先並里/サチナンジャトゥ」であったと伝わります。「新里村」の門中は先住民である並里系の「嶺井門/ミジョー・西銘/ニシメ・新地/ミージ」などと、後から入ったと言われる佐銘川(鮫川)系の「石原/イセーラ・勢理客/ジッチャク・佐久真/サクマ」などの二つに大別されます。元は「大里間切下里村」であった「新里村」は「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主」が村立てして「佐敷間切」に加わったと伝わり、国元(佐敷間切)と村元(新里村)の二つの「神アシャギ」と呼ばれる屋敷がこの地に建てられたと考えられます。(西の龍宮/イリの龍宮)(東側の龍宮/アガリの龍宮)「新里集落」北側の海岸沿いに「西/イリの龍宮」の祠があり龍宮神が祀られており、卯年と酉年の8月15日に集落と各門中の代表により拝されています。「新里集落」には古い龍宮神信仰が残されており、死者は遠く離れたニライカナイに旅立つと言われ、集落の住民は葬式の翌日や墓参りの後に龍宮神を拝みます。「西/イリの龍宮」の南東側約200メートルの場所には「東/アガリの龍宮」の祠があります。令和3年12月4日に橋の建設の為に移設されましたが、元の場所は「場天ノロ」が海上の無事を龍宮神に祈願した御通しの拝所でした。さらに、琉球王国最高の女神官であった「聞得大君加那志」が悪天候で漂流した薩摩から生還した際に上陸した所と言われ、丸い平たい石が祀られていたと伝わります。こちらも卯年と酉年の8月15日に集落と各門中の代表により拝されています。
2022.08.21
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(佐銘川御殿跡)沖縄本島南部の南城市佐敷にある「新里集落」に「イビの森」と呼ばれる御嶽の合祀拝所があり、この森の東側丘陵に「佐銘川御殿跡」と呼ばれる屋敷跡があります。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が暮らした屋敷が移設された史跡として残されており、この「佐銘川御殿跡」は地元では「神アシャギ」とも呼ばれています。沖縄本島北部では集落のノロ(祝女)が祭祀を行う4本柱、又は6本柱で壁のない小屋を「神アシャギ/神アサギ」と言いますが、沖縄本島中部や南部では「神アシャギ」に類似した「殿(トゥン)」と呼ばれる屋敷があります。因みに「佐銘川大主」の出身である「伊平屋島」にある「我喜屋の神アシアゲ」と「島尻の神アシアゲ」はそれぞれ沖縄県指定民俗文化財に指定されています。(佐銘川御殿跡/平仲之元祖の祠)(屋敷の土台跡)(伊平屋御通しの拝所)「佐銘川大主」は琉球王国の歴史書で1650年に成立した『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には「鮫川大主」の名前で記述されています。「佐銘川大主」の屋敷は東側にある場天原の「旧場天御嶽」にありましたが、1959年10月に佐敷を襲った台風18号(シャーロット台風)で地崩れを起こし埋没していまいました。その後「イビの森」の澤川原に移築されましたが、2002年8月の台風16号(シンラコウ台風)で「佐銘川御殿」の象徴であった屋敷は全壊してしまいました。「佐銘川大主」の屋敷の土台の北側には「伊平屋御通し」の石碑が建立された拝所が残されており、現在も遥か沖縄本島の北側に浮かぶ生まれ故郷である「伊平屋島」を拝する遥拝所となっています。(佐銘川御殿跡の標識)(佐銘川御殿跡の拝所)(佐銘川御殿跡の拝所/サミカワ御嶽の石碑)「佐銘川御殿跡」の敷地北側にはブロックで囲まれた拝所があります。この拝所には「サミカワ御嶽」と彫られたニービ石造りの石碑が建立されており『まへ原 ち 尚巴志=当時十六才百日ニ、書キ添タ事ヲ示ス 故大城恒信、ヨシ 平成八年旧九月九日』と記されています。平成8年は1996年であり、2002年に台風で屋敷が倒壊する6年前に「佐銘川大主」の屋敷の北側に建立された拝所である事が分かります。この石碑に記されている「サミカワ御嶽」とは「佐銘川/サミカワ大主」を祀る御嶽を意味しており、屋敷の守護神としてだけではなく「尚巴志」の祖父が「佐敷」に於いて現代もなお崇められている事が表れています。(平仲之元祖の祠内部/向かって左端)(平仲之元祖の祠の神棚)(平仲之元祖の祠の位牌)(平仲之元祖の祠内部/向かって右端)「新里集落」に管理される「佐銘川御殿跡」の敷地内には現在も「平仲之元祖」という人物を祀った祠があります。この祠は「佐銘川大主」の茅葺き屋根の屋敷があった頃から併設されていた神屋で、内部には仏壇があり位牌、ウコール(香炉)、花瓶、湯碗、水碗が設置されています。「平仲之元祖」は「手登根大屋子」の三男腹である「大道山」の次男で「平仲大主」とも呼ばれていました。「平仲之元祖」は子供の頃の「尚巴志」を養育した人で、場天原の「場天御嶽」に移り住み「佐銘川御殿」をお守りしたと伝わっています。「平仲之元祖」には「下庫利大主」という次男がいて、その人物の長男が「石原」次男が「勢理客」三男が「佐久間」それぞれの字の始祖となっています。この為「佐銘川御殿跡」は「新里・石原・勢理客・佐久間」各門中により拝されています。(佐敷ようどれ)(第一尚氏王統 第一代尚思紹王陵墓の石碑)(佐敷ようどれ)「佐敷上グスク」の南側丘陵の頂上に「航空自衛隊知念分屯基地」があり、この分屯基地の中央に「佐敷ようどれ」があります。この古墓には「尚思紹王御夫婦」「舅美里之子御夫婦」「二男美里大屋御夫婦」「娘佐敷大のろくもい」「佐銘川(鮫川)大主夫婦」の9名が葬られています。当初は現在地よりも北側の崖下に位置していましたが、雨風による損壊のため1764年(乾隆29)に移築され「尚思紹王」の家族7名が葬られました。さらに1959年には「尚思紹王」の両親で「尚巴志」の祖父母である「佐銘川(鮫川)大主夫婦」が西側丘陵にあった墓から移設し合祀されました。「佐敷ようどれ」は琉球石灰岩で建造され半円型の屋根を持った籠型の独特な形をしており、門口3.3メートル、奥行2.6メートル、軒高2.1メートルとなっています。(佐敷ようどれの石柱)(佐敷ようどれ/門口)(佐敷ようどれ/籠型の古墓)「航空自衛隊知念分屯基地」の敷地内にあるにも関わらず一年を通して多くの参拝者が訪れます。この分屯基地の正面ゲートで身分証明書を提示し氏名・住所・電話番号を記入すると航空自衛隊の隊員が「佐敷ようどれ」まで徒歩で同行してくれます。「佐敷ようどれ」は「佐敷ゆうどれ」とも呼ばれ「ようどれ/ゆうどれ」は夕凪や静かな場所の意味を持ちます。この墓に葬られる「舅美里之子」は「佐敷上グスク」の北東約100メートルの森にかつて居住し、屋敷跡には現在「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる祠が祀られています。さらに合祀されている「佐敷大のろくもい」とは「美里井/ンザトカー」で禊(みそぎ)を行なっていた「佐敷ノロ」の事で「佐敷上グスク」の敷地内には「佐敷ノロ」が祭祀を奉った「佐敷ヌル殿内」があります。(下代樋川/シチャダイヒージャー)(下代樋川/シチャダイヒージャー)「佐敷ようどれ」の西側約400メートルの場所で、丘陵の頂上付近の森に「下代樋川/シチャダイヒージャー」と呼ばれる井戸があります。巨大な岩の洞穴から流れ出す湧き水は急勾配な森を北側に下り、丘陵中腹の「タキノー御嶽」と「クンナカの嶽」を通り抜け「佐敷上グスク」の西側にある「洗心泉/シーシンガー」の井戸に流れ込みます。「洗心泉」は沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により造られた井戸で、貯水した水は周辺住民の飲料水タンクとして使われました。現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。
2022.08.16
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(イビの森のガジュマル)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里(しんざと)集落」があります。この集落について『字誌新里』には琉球開闢の創世神である「アマミキヨ」の一族が玉城村字仲村渠の「ミントン/免武登」から玉城村下親慶原の「アマチジョウガマ/天次門ガマ」に移り、そこを拠点として新里の「澤川原」周辺で生活した後に「名合(なごう)ムラ」辺りに移り住みました。それが「新里」の先住民である「並里系統」の始まりであると伝わります。この「並里系統」は14世紀初期にやって来た「佐銘川系統」や16世紀以降に移り住んだ他の門中と共に集落を発展させて、農業や漁労で暮らすようになったといわれています。(旧場天御嶽/場天原)(イビの森の入り口)「新里集落」の中心部で新里公民館から南東に約400メートルの「場天原」に「旧場天御嶽」の森があります。1959年(昭和34年)10月に沖縄本島を襲った台風18号「シャーロット台風」に伴う豪雨により「軽石山」付近の大規模な崖崩れ及び地滑りが発生し「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」の居住跡があった「旧場天御嶽」一帯が埋没しました。その1年後「旧場天御嶽」にあった「佐銘川大主住居跡」、その住居跡で使用していた2つの井戸「上場天御井戸/下場天御井戸」、天の神への御通しの「御天竺神」、佐銘川大主の生まれ故郷である伊平屋島への「御通し」で、別名「ヤマトバンタ」とも呼ばれる「伊平屋神」が「澤川原」に佇む「イビの森」に移転されて合祀されました。(場天御嶽/場天殿)(場天御嶽の石柱)「イビの森」の北側入り口の階段を登ると右手に「場天御嶽」と彫られた石碑が建つ「場天御嶽/場天殿」が祀られています。珊瑚岩が組まれた祠にはウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記」には『バテンノ殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテンノロ祭祀也。且、祭之前夜、巫・根神・掟ノアム、トノヘ一宿故、夕食・朝食、一汁一菜ニテ百姓中ヨリ賄仕有。』と記されています。「場天御嶽/場天殿」の拝所は「新里集落」の他にも第一尚氏の子孫である石原、勢理客、佐久間の各門中が崇める拝所となっています。(イビ御嶽)(イビ御嶽の祠)(イビ御嶽の石柱)「場天御嶽/場天殿」の南側に隣接した場所に「イビの森」の御神木であるガジュマルの巨樹が生えており、樹下には「イビ御嶽」が祀られています。珊瑚岩で造られた祠にウコール(香炉)と多数の霊石が祀られている御嶽は「新里集落」の祖霊神を祀った拝所で、集落の守護神として昔から大切に崇拝されている聖域となっています。「イビ御嶽」は「琉球国由来記」に記載されている『サクマチヤウノ嶽 神名 西森イシラゴノ御イベ』であると考えられており『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記されています。(御天竺神/上場天御嶽)(御天竺神の石柱)「イビ御嶽」に向かって左側に隣接した場所に「御天竺神/ウティンチク神」が祀られた拝所があります。珊瑚岩が組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)がヒジュルウコー(火を灯さない線香)の作法で供えられています。「御天竺神/ウティンチク神」は「旧場天御嶽」の森に祀られていた「上場天御嶽」であると考えられており「琉球国由来記」には『上バテンノ嶽 神名 サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ 昔佐敷按司御屋敷タル由也』と記されています。琉球王国時代における「御天竺神/ウティンチク」とは遠い東の海の彼方にある理想郷に住む神の事で、この拝所は「ニライカナイ」へ拝する「御通し」であると考えられます。(伊平屋神/下場天御嶽)(伊平屋神の石柱)「イビ御嶽」の正面には「伊平屋神/ヤマトバンタ」が祀られた珊瑚岩の祠があり、この拝所は「旧場天御嶽」から移された「下場天御嶽」であると言われており「琉球国由来記」には『下バテンノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が生まれた「伊平屋島」を遥拝する「御通し」として祠は北側に向けられています。「伊平屋島」から「今帰仁村運天」に渡った「佐銘川大主」は「シマセンク巫/勢理客ノロ」の宣託により「佐敷村」に移り住みました。魚を売って行商として暮らしていた頃に「大城グスク」辺りで大城按司の娘と出会い、後に結婚して「旧場天御嶽/場天原」で暮らし始めたのです。やがて2人の子供に恵まれ、1人は「尚巴志」の父親の「尚思紹」で、もう1人は「場天ノロ」でありました。(上場天御井戸/ウィーバテンカー)(上場天御井戸/ウィーバテンカーの石柱)「イビの森」の東側に「上場天御井戸/ウィーバテンカー」があります。「旧場天御嶽/場天原」から移設された井戸跡で「上場天御嶽」では産井(ウブガー)として使用されていました。子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)は産井(ウブガー)から汲まれて用いられ、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。出産の日か翌日に赤子の名前を付ける「ナージキー/名付け」が行われ、その日の儀式は「カーウリー/川下り」とも呼ばれていました。その名前の由来は出産の汚物をクムイ(溜池)や家の井戸などで洗い流し、産井(ウブガー)から汲んできた産水(ウブミジ)で沸かした産湯につかわし「ミジナディ/水撫で」をする事から来ていると伝わります。(下場天御井戸/シチャバテンカー)(下場天御井戸/シチャバテンカーの石柱)「上場天御井戸/ウィーバテンカー」の南側に「下場天御井戸/シチャバテンカー」があり、こちらも「旧場天御嶽/場天原」から移設された産井(ウブガー)跡となっています。産まれたばかりの赤子は名前を付けられた後に「大鍋(ウフナービ)カミラスン」と言って赤子の額にナービヌヒング(鍋のすす)を塗りつけたり、ウブミジ(産水)を額に『ミミガニソンガニ 肝(チム)ヌソーアリ』と唱えて3回撫でる「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。次に屋敷の入り口にあるヒンプン(目隠しの塀)の前方で赤子の「ナージキー/名付け」の儀礼をします。その後、ヒヌカン(火の神)とウグヮンス(仏前)に「ナージキー/名付け」の報告をするのです。産井(ウブガー)の水は人が生まれて最初に使用される清らかな水であり、生誕の儀式には欠かす事ができない特別な水でした。(新里ノ殿の標柱)(新里ノ殿)(新里ノ殿の祠)「イビの森」の南側に「新里ノ殿」と呼ばれる拝所があり、約9メートル四方で高さ約2メートルの円形の土台の上に鎮座しています。珊瑚岩で組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、火を灯さないヒジュルウコーの形式でヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「琉球国由来記」には『新里之殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテン巫祭祀也。』と記されています。この拝所は「新里大主(しんざとうふぬし)」の屋敷跡であると伝わり、当家の子孫や門中のみならず「字新里」全体で「新里ノ殿」を拝みます。また、字の「風水/フンシー」とも言われており、昔から変わらず「新里大主」の屋敷の神様が祀られているのです。
2022.08.11
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(字佐敷風水/1班とヰージャラーモーガジュマル)沖縄本島南部の南城市に「字佐敷」の集落があり、国道331号線の周辺には多数の拝所が点在しています。1649年に作成された『絵図郷村帳』には「さしき村」「よなみね村」「なわしる村」と3村が記載されていましたが、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には「佐敷村」と「与那嶺村」の2村のみ記されています。苗代之嶽と苗代殿が「佐敷村」にあると記述があるため「なわしる村」は「佐敷村」に合併したと考えられています。琉球王国時代は「佐敷村」と「与那嶺村」は隣接して栄えてきましたが、1903年に「与那嶺村」は「佐敷村」に編入して現在の「字佐敷」となりました。(字佐敷風水/1班の祠)(字佐敷風水/1班の祠内部)(ヰージャラーモー)南城市立佐敷小学校の東側には「ヰージャラーモーガジュマル」と呼ばれる高樹齢の巨木があります。この樹下にはコンクリート製の祠が鎮座しており「字佐敷風水/1班」と呼ばれる拝所となっています。「風水」は沖縄の方言で「フンシー」といい琉球王府には「風水見/フンシーミー」という役職があったと伝わります。1708年11月から1710年6月まで琉球国王の命により中国福州府で風水学(地理学)を学んだ「蔡温/さいおん」により沖縄に「風水」が本格的に導入されるようになりました。北側にある海の方角に向けて建てられた「字佐敷風水/1班」の祠内部には「字佐敷風水」と彫られた石碑とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)がヒジュルウコー(火を灯さない線香)の形式で供えられています。(佐敷番所跡/佐敷役場跡)(字佐敷風水/2班)(字佐敷風水/2班の祠)「字佐敷風水/1班」の東側約150メートルの場所に「佐敷番所跡/佐敷役場跡」があり、かつて「佐敷村」は「間切/市町村」のドゥームラ(主邑)として「番所/村役場」が置かれました。さらに「佐敷番所跡」から東側に約50メートルの位置で佐敷郵便局の南側に「字佐敷風水/2班」の拝所があります。2本の椰子の木に挟まれて鎮座する珊瑚岩の上部にコンクリート製の祠が建立されており、この祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。「風水」は土地の吉凶を判断する方法として用いられ「首里城」が「風水」により場所が選定された事はよく知られています。他にも琉球王府の風水師により数多くの集落移動が行われていたほど「風水」が琉球王国時代に広く活用されていました。(字佐敷風水/3班と井戸拝所)(字佐敷風水/3班の祠)(穂取田/フートゥイダー跡)「字佐敷風水/2班」の西側約150メートルの位置で国道331号線沿いにある「佐敷公民館」の敷地内に「字佐敷風水/3班」の拝所があります。東側に向けて建立されたコンクリート製の祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。この祠に向かって右側には古井戸を祀った拝所となっており、井戸を模した穴の手前にウコール(香炉)が置かれて拝する場所となっています。更に「字佐敷風水/3班」がある「佐敷公民館」の北東側の開けた場所は「穂取田/フートゥイダー跡」と呼ばれており、この地はかつて御嶽や殿などの拝所に「佐敷ノロ」が祭祀の時に供えた花米や神酒を作る為の稲が育てられた特別な水田があった場所です。(字佐敷風水/4班)(苗代樋川/ナーシルヒーカー)(苗代樋川/ナンモーガジュマル)「字佐敷風水/3班」から東側に約120メートルで「苗代殿/ナーシルドゥン」の北側にある「ナンモー」と呼ばれる広場の敷地内に「字佐敷風水/4班」の祠が南向けに建立されています。この広場には「苗代樋川/ナーシルヒーカー」と呼ばれる井戸がありウコール(香炉)が設置されています。この井戸の上部には「ナンモーガジュマル」があり、1899年に「池ヌ端のタンメー」と呼ばれた「与那嶺盛一翁」が初代佐敷間切区長に就任した際、記念に植えられた「佐敷の三本ガジュマル」の一つとなっています。一本目は「字佐敷風水/1班」の「ヰージャラーモーガジュマル」で、三本目は「ナンモーガジュマル」の東側に植樹された「ユナンミガジュマル二世」です。三本ともに550メートルの等間隔で植えられています。(川当殿/カータイドゥンの標識)(川当殿/カータイドゥン)(川当殿/カータイドゥンの祠内部)南城市立佐敷小学校の体育館南隣に「川当殿/カータイドゥン」と呼ばれる拝所があります。元々は小学校体育館の敷地内にありましたが現在の地に移動しています。かつて「字佐敷」では旧暦5月15日と6月15日の五穀豊穣を祈願する「ウマチー/シチュマ」の祭の際に『苗代殿→美里殿→上城之殿→川当殿→与那嶺殿』の順番で参拝していました。これら5箇所の殿は集落では「ウマチーの五殿」と呼ばれています。「川当殿/カータイドゥン」がある周辺一帯は「下代原遺跡」といい「佐敷上グスク」から北西側に約280メートル離れた地形で確認された遺跡で、12世紀から16世紀に鉄を生産していた「カンジャー/鍛冶屋」の遺物が多数発見されています。南側に隣接する「佐敷上グスク」からも数多くの鉄製の武器、武具、農具が出土しており、伝説として「尚巴志」が農民の為に自身の剣と鉄を取り換える逸話が残されています。(佐敷上グスクへの鳥居)(ヤシ並木ロード/国道331号線)「ヤシ並木ロード」と呼ばれる国道331号線には、その名の通り多数のヤシの木が国道沿いに植えらた美しい景観となっています。南城市立佐敷小学校の東側には鳥居が建立されており「佐敷上グスク」に通じる参道が続いています。「尚巴志」が少年の頃「カンジャー/鍛冶屋」に命じて3年がかりで作らせた非常に価値の高い剣がありました。「尚巴志」が大人になったある日、与那原の港に来た大和の商人がその剣を非常に気に入り強く切望したのです。「尚巴志」はその商人と交渉して船一杯の鉄塊と自身の剣を交換する事になり、手に入れた大量の鉄を百姓に分け与えて質の高い農具を作らせたのです。百姓たちは非常に感服して「尚巴志」を心から敬うようになったと伝わります。(ノロクモイ地/ヌル地跡)(阿旦山の跡・井)南城市立佐敷小学校から国道331号線を渡った北側には「ノロクモイ地」と呼ばれる土地が現在も残されています。この場所は「佐敷・与那嶺」の2つのシマを管轄した「佐敷ノロ」が琉球王府から与えられた「ノロクモイ地/ヌル地」で、集落の中でも特別な土地として地割の対象から除外され代々継承されてきました。更に「字佐敷」の鳥居から東側に「ヤシ並木ロード」を約100メートル進んだ位置に「阿旦山の跡・井」があります。「尚巴志」が農耕をした水田があった場所で、この地にあった井戸は「尚巴志」が使用していたと伝わります。「尚巴志」は当時としては最新の農業技術だあった稲作の二期作と鉄製農具の導入により農業集落を確立し、国力を増強した支えにより琉球を統一した「第一尚氏」が誕生したと言えるのです。
2022.08.06
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(苗代殿/ナーシルドゥン)沖縄本島南部の南城市の北側には馬蹄の形をした「佐敷(さしき)」という地域があります。「佐敷上グスク」の東側約400メートルの場所に「苗代殿/ナーシルドゥン」と呼ばれる拝所があります。「苗代」とは佐敷の小字名で、この丘陵の森には第一尚氏王統の初代国王である「尚思紹王」が佐敷按司の時代に暮らした「苗代大比屋の屋敷跡」があります。この深い森の一帯は琉球王府が1713年に編纂した「琉球国由来記」に記されている『苗代ノ嶽 神名 イヅミクダノ御イベ』に相当すると考えられ『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也』と記述され「佐敷上グスク」と同様に花米、五水、神酒が供えられ「佐敷ノロ」により祭祀が執り行われた聖域でした。(苗代殿/ナーシルドゥンの標識)(苗代殿/ナーシルドゥンの祠)(苗代殿/ナーシルドゥンに使われていた礎石)「苗代ノ嶽」の丘陵中腹にコンクリート製の「苗代殿/ナーシルドゥン」の祠が建立されており、敷地の入り口には沖縄戦で残った2本の石柱が現在も残されています。この拝所の前方にはかつて「苗代殿/ナーシルドゥン」に使用されていた建物を支える礎石(微粒砂岩)が3体埋め込まれています。琉球王府が編纂した歌謡集「おもろさうし」には『苗代の庭に 月代は 手摩て 月代す 成さい人思い 守りよわめ 又今日の良かる日に』と詠まれています。また「琉球国由来記」には「苗代殿/ナーシルドゥン」について次のように記されています。『稲穂祭之時、穂上ゲ、佐敷巫御崇也。稲二祭之時、シロマシ・神酒七宛百姓、供之。同巫祭祀也。白米五升宛、自百姓巫へ遺也。且、居神九人へ、一汁一菜ニテ、自百姓二度賄仕也。』(苗代殿/ナーシルドゥンの祠内部)(苗代殿/ナーシルドゥンの火の神/ヒヌカン)更に「琉球国由来記」には『此殿ノ庭ニ月白ト云イベアリ。祭之時ニ尊敬之也。』と記述があり「苗代殿/ナーシルドゥン」の左前方にはかつて「月白」と呼ばれる小判型の「イベ」と崇められる石が3つ祀られていました。石はそれぞれ1.8尺x1.5尺・1.9尺x1.7尺・1.7尺x1.6尺の大きさで、高さはいずれも5寸位だったと伝わります。「苗代殿/ナーシルドゥン」に祀られた神は「月神」であり、第二尚氏に「太陽神」を譲り渡した後、第一尚氏の末裔たちが「太陽神」に代わる神として新たに「大陰神」を守護神とし「テダシロ」から「ツキシロ」へ転換した事から、王権交代という激動の歴史背景を垣間見る事が出来ます。現在、祠内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、祠の左側には「火の神/ヒヌカン」が祀られています。(つきしろの岩・井の標識)(つきしろの岩)(つきしろの井)「苗代殿/ナーシルドゥン」の北側に「つきしろの岩・井」と呼ばれる大岩と井泉があります。「苗代大比屋/後の尚思紹王」は佐敷の有力者であった「美里之子」の了承を得ず「美里之子」の娘と恋仲になり赤子を授かりました。その赤子が後の「尚巴志王」であり「つきしろの井」の湧き水を産水にしたといわれます。娘は父親である「美里之子」に伝える事が出来ず赤子を殺めようとしましたが、村の白髪の古老が赤子のただならぬ雰囲気を感じて「苗代大比屋」の元に連れて行きました。しかし、赤子の行く末を案じた「美里之子」の娘は「つきしろの岩・井」に赤子を捨てて立ち去ったのです。全てを打ち明けた娘はその後、父親の「美里之子」に結婚を認められ「苗代大比屋」と共に「尚巴志」を育てたと伝わります。(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡)(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡の火の神)(苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡)「つきしろの岩・井」の北側に「苗代大比屋/ナーシルウフヤの屋敷跡」があり、この屋敷は沖縄戦の前は白木造りで琉球赤瓦屋根の平屋でした。沖縄戦で消失しましたが、氏子のミヒチ(御引)である「仲里・アンザ・喜友名・馬佐良」の4門中の子孫が現在のコンクリート造りの屋敷跡を建てて大切に拝しています。「苗代大比屋の屋敷跡」に向かって左側には屋敷跡の土地を守護する「火の神/ヒヌカン」が祀られており、4門中が拝した際に供えられたヒラウコー(沖縄線香)が残されていました。屋敷跡の建物の内部には「尚思紹」の位牌が祀られていれとされ、地元では「苗代大比屋の屋敷跡」は「神アシャギ」と呼ばれて崇められています。(佐敷土帝君/トゥーテイクン)(佐敷土帝君/トゥーテイクン)(古井戸跡)「苗代殿/ナーシルドゥン」の西側丘陵の森に「佐敷土帝君/トゥーテイクン」と呼ばれる石造りの祠が鎮座しています。「土帝君」は沖縄では土地の神様のみならず、農業や漁の神様、更には悪霊祓いの神様としても人々に崇められています。琉球王国時代には霊石信仰が主流でしたが「土帝君」には土地の神様を模した神像が祀られていました。しかし沖縄戦後、沖縄各地の「土帝君」から神像の盗難が相次ぎ、現在は「土帝君」の祠を神として崇め大切に拝しています。北側の海に向けられて建てられた「佐敷土帝君」の南西側には古井戸跡が残されており、残念ながら現在は井戸の水は枯れています。昔はこの井戸から水を汲み「土帝君」の祠に供えていたと考えられます。(マーツー御嶽/松尾御嶽)(マーツー御嶽/松尾御嶽のアコウ)(マーツー御嶽/松尾御嶽のウコール)「佐敷土帝君」の西側約150メートルの丘陵中腹に「マーツー御嶽/松尾御嶽」があり、この御嶽は「琉球国由来記」に『松尾之嶽 神名 タケツカサノ御イベ』と記されています。更に『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也。』との記述があり、年浴の時は花米・神酒、初麦種子・ミヤタネの時は花米・五水・神酒が供えられ「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。「マーツー御嶽/松尾御嶽」には御神木のアコウ(赤榕)の老木があり、樹下はウコール(香炉)が祀られる拝所となっています。現在は旧暦12月24日の「ウガンブトゥチ/御願解き」の行事の際に周辺住民により大切に拝されています。
2022.08.01
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(美里殿/ンザトドゥン)沖縄本島南部の南城市に「佐敷(さしき)集落」があり「佐敷上グスク」がある「佐敷上グスク遺跡散布地」と、その東側に隣接する「島宜原遺跡散布地」の中間に「美里殿/ンザトドゥン」と呼ばれる拝所があります。「佐敷上グスク」から東側に約100メートルのこんもりとした林の中に鎮座する「美里殿/ンザトドゥン」は第一尚氏王統「尚思紹」の妻の父親(舅/しゅうと)であった「美里之子/ンザトヌシー」が暮らした住居があった場所であると伝わっています。「尚思紹」は「美里之子/ンザトヌシー」の娘との間に5男1女をもうけ、その長男が後に琉球王国を統一した初代琉球国王の「尚巴志王」となりました。(美里殿/ンザトドゥン)(美里殿/ンザトドゥンの祠内部)(美里殿/ンザトドゥンに使われていた礎石)「美里殿/ンザトドゥン」は現在コンクリート製の拝所が設けられ、その一部にかつて礎石として利用されたと伝わるニービ(微粒砂岩)の石材がはめ込まれています。「尚巴志」の祖父である「美里之子/ンザトヌシー」は、この場所から南側の「航空自衛隊知念分屯地」敷地内にある「佐敷ようどれ」と呼ばれる墓に「尚思紹」の家族と共に祀られています。「美里殿/ンザトドゥン」は東側に隣接する小字「与那嶺」の地頭代補佐職であった「与那嶺大屋子」の「根所/ニードゥクル」で、稲穂祭と稲ニ祭の際には「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。「美里殿/ンザトドゥン」について、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』には次のように記されています。『美里之殿 与那嶺大屋子根所也 佐敷巫祭祀也。且、巫・根神・居神四人ヘ祭前日之晩ヨリ祭之日朝マデ、二度賄仕也。』(美里井/ンザトガー)(美里井/ンザトガー)(美里殿/美里井の森)「美里井/ンザトガー」は「美里殿/ンザトドゥン」の西側に位置し、かつて「美里殿/ンザトドゥン」に暮らす人々が生活用水として井戸を利用していました。また「佐敷ノロ」が「美里殿/ンザトドゥン」で祭祀を行う際に、井戸の湧き水で身を清める禊(みそ)ぎの聖域であったと言われています。現在も「美里井/ンザトガー」の水は豊富に湧き出ており、旧正月に執り行われる字の「カーガー拝み」の祭祀場として周辺住民により崇められています。「美里井/ンザトガー」は「佐敷上グスク遺物散布地」に属し、グスク主体部の東側斜面下の森の中に位置しています。「美里殿/ンザトドゥン」と「美里井/ンザトガー」周辺の地形は「佐敷上グスク」の一つの郭として様相を呈しています。(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチ)(佐敷ノロ殿内/佐敷ヌルドゥンチの祠内部)「佐敷上グスク」北東側の敷地内に「佐敷ノロ殿内」の祠があり「佐敷ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。「佐敷ノロ」は「佐敷」と東側に隣接する「与那嶺」の2箇所のシマを管轄して祭祀を行なっていました。「佐敷ノロ殿内」の祠内部には「ヒヌカン/火の神」専用の白い陶器製ウコール(香炉)・花瓶・湯碗・水碗、更に石造りウコール(香炉)と霊石が数体祀られています。『琉球国由来記』には『佐敷巫火ヌ神』と記されており、次のような記述があります。『稲穂祭之時、穂上ゲ、巫ニテ御崇也。且、自他人、飯相調、巫ヘ馳走也。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合百姓。毎年三・八月、四度御物参之時、三日崇トテ、神酒壱百姓。且、祈願之日、五水二合・神酒壱百姓。』(佐敷ヌル殿内と彫られた石碑)「三日崇」とはノロが御嶽や拝所に籠り「物忌み/数日間に渡り飲食や言行を謹んで心身を清める事」をして豊作を祈願する儀式を意味します。さらに『琉球国由来記』の「佐敷ノロ殿内」に関する記述は次のように続いています。『年浴三日崇之時、神酒壱百姓。年浴之日、花米九合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ三日崇之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。初麦種子・ミヤタネノ日、花米九合・五水四合・神酒壱百姓、供之。同巫ニテ祭祀也。』初代の「佐敷ノロ」は「尚思紹/苗代大親」の長女が任命され、その後の「佐敷ノロ」は代々「喜友名家」の系統女性が昭和初期までノロ職を継承していました。最後のノロが他界してからは後継者は途絶えたままだと言います。(洗心泉/シーシンガー)(タキノー御嶽への遥拝所)(タキノー御嶽/クンナカの嶽)「佐敷上グスク」の北西側の丘陵中腹に「洗心泉/シーシンガー」と呼ばれる井戸があります。沖縄戦後のアメリカ統治下時代に「琉球列島米国民政府/USCAR」に置かれた高等弁務官の資金により「洗心泉」が造られました。井戸水は「下代樋川/シチャダイヒージャー」から貯水して周辺住民の飲料水タンクとして使われ、現在も旧暦12月24日の「御願解き/ウガンブトゥチ」に拝されています。この井戸の脇には「タキノー御嶽」への遥拝所としてウコール(香炉)と霊石が祀られ、住民はこの拝所から南側丘陵斜面の深い森にある「タキノー御嶽」を拝しています。写真中央のこんもりした場所の周辺が「タキノー御嶽」の森で、そこから手前の丘陵中腹に「クンナカの嶽」があります。(クンナカの嶽の石積み)(クンナカの嶽の岩に生える亜熱帯植物)(クンナカの嶽の岩塊)「クンナカの嶽」は「佐敷上グスク」の南西側の丘陵斜面に位置しています。『琉球国由来記』には『クンナカノ嶽 神名 イベヅカサノ御セジ』と記されており「セジ」とは「神威」の事で神の威光や威力を意味します。更に「クンナカの嶽」について「琉球国由来記」には『佐敷巫崇所。年浴並麦初種子・ミヤタネノ時、同于上城之嶽也。』との記述があります。「佐敷ノロ」により祭祀が行われ、稲作事初めに豊富な水を得られる祈願である年浴の際には花米や神酒が供えられ、麦初種子やミヤタネ(米種子)の際には花米、五水、神酒が供えられました。字佐敷の「ミロク節」には『佐敷クンナカや竹の若緑、トゥヤイ字民ヌ、ムテイジュラサ』(佐敷クンナカの嶽にある竹の若緑と同じように、字民が美しく栄えている)と謳われています。(タキノー御嶽の森)(タキノー御嶽の1つ目のウコール)(タキノー御嶽の2つ目のウコール)「クンナカの嶽」から数十メートル南側丘陵を登った周辺一帯は「タキノー御嶽」と呼ばれる聖域となっており『琉球国由来記』には『タケナフノ嶽 神名 タカモリノ御イベ』と記されています。この御嶽も「クンナカの嶽」同様に「佐敷ノロ」により祭祀が行われていました。地形的には「佐敷上グスク」より30メートル高く、かつてはグスクの見張り台があったと言われています。「タキノー御嶽」の深い森の中に2つのウコール(香炉)が数メートル離れた場所に確認されて、それぞれ古木の脇に祀られていました。「タキノー御嶽」の「イビ/威部」はある特定の場所ではなく、この御嶽の森全体が神が宿る聖地として捉えられ、昔から周辺住民の人々に崇められているのです。
2022.07.27
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(佐敷上グスク/月代宮)沖縄本島南部の東海岸に南城市「佐敷(さしき)集落」があります。この集落は2006年1月1日に玉城村、大里村、知念村と合併して「南城市」になるまでは「佐敷町」に属していました。現在の「佐敷集落」は南城市の中心部から北側に位置し、東西を「ヤシ並木ロード」と呼ばれる国道331号線の主要道路が通っています。集落南部の丘陵の頂上には「航空自衛隊知念分屯基地」があり、北部には中城湾の海が広がっています。「佐敷集落」は琉球王国第一尚氏王統の第2代目中山王(在位1422-1439年)で、1429年に三山(北山・中山・南山)を統一して初の琉球国王となった「尚巴志王」の出身地として知られています。(上グスクのカマド跡)(上グスクのカマド跡/火の神)(内原の殿/ウチバルヌトゥン)「佐敷集落」の丘陵中腹に「尚巴志」と父親の「尚思紹」が居城した「佐敷上グスク」があります。このグスクの敷地内にグスク時代に使われていた「上グスクのカマド跡」と呼ばれる場所があり、3体の霊石とウコール(香炉)が設置された火の神(ビヌカン)が祀られています。この周辺は「佐敷上グスク」の女官が働いていた場所だと言われており、現在ここから南側に構える「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は女官が待機する詰所(屯所)と言われて、もとは「上グスクのカマド跡」の付近にあったと考えられています。「内原の殿/ウチバルヌトゥン」は「上グスクの殿」とも呼ばれ、琉球王府が編纂した「琉球国由来記(1713年)」に記されている『殿 有城内。住昔佐敷按司蔵敷也。』に相当すると考えられ、殿(トゥン)は「佐敷巫(ノロ)」により祭祀が行われていました。(月代宮の石碑)(月代宮への石段)(月代宮の手洗石)「上グスクのカマド跡」の脇には「月代宮」と彫られた石碑が建立されており「月代宮/つきしろのみや」へ向かう丘陵を登る参道の階段が続いています。鳥居と灯籠がある階段の中間地点には手洗石が設置されており、参拝前に身を清めて浄ずる場となっています。「佐敷上グスク」は1979年(昭和54)の発掘調査により、中国や東南アジアとの交易品である青磁と白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しています。さらに、柱の穴の跡や石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクに見られる城壁の石垣は発見されていません。「佐敷上グスク」はグスクが多い事で知られる南城市のみならず、沖縄県内でも非常に珍しい土で造られたグスクである事が特徴的です。(月代宮への石段)(尚巴志王遺蹟の石碑)(月代宮の拝殿)「月代宮」に向かう参道の階段に沿うように古い石段が現在も残されています。この石段は「月代宮」や現在の階段の参道が作られる以前からグスク頂上に通じる主要な石段であったと伝わります。グスク時代から使われていたと考えられる石段を登った先には、1922年(大正11)の11月に「沖縄史蹟保存會」により建立された石碑があり「尚巴志王遺蹟」と彫られています。「佐敷上グスク」は東側から西側にかけて丘陵の斜面を削り出し、そこに石灰岩を貼り付けた石列(貼石状石列)が大きな特徴で、この造りは沖縄県内で唯一「佐敷上グスク」で発見されています。さらに「尚巴志」が「中山(ちゅうざん)グスク」を滅ぼし、佐敷から首里に移り住む際に「佐敷上グスク」の城郭の石を全て首里城に移したと伝わっています。(月代宮の本殿/向かって左側)(月代宮の本殿)(月代宮の本殿/向かって右側)「月代宮」の拝殿を抜けると正面に「月代宮」の本殿が建立されています。この本殿は1938年(昭和13)の「尚巴志500年祭」を記念して「つきしろ奉賛会」により建立され、第一尚氏王統の守護神である「つきしろ」に因んで命名されたと言われています。さらに、1962年(昭和37)にはコンクリート製に建て替えられ、周囲には参道の階段などが整備されました。「月代宮」の本殿には「尚巴志王/尚思紹王/鮫川大主/屋蔵大主/尚徳王/尚泰久王/尚金福王/尚思達王/尚忠王」の御魂が合祀されています。現在でも「月代宮」には多くの参拝者が訪れ、本殿にはウコール(香炉)が祀られて献花が供えられており、さらに「國之主/佐敷世之主/御先神様」と彫られた霊石が鎮座しています。(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)(上グスク之嶽)「月代宮」がある広場の南側にはウコール(香炉)と霊石が祀られた「上グスク之嶽」と呼ばれる御嶽があります。琉球王府による地誌「琉球国由来記(1713年)」には『上城之嶽 神名:スデツカサノ御イベ / 神名:若ツカサノ御イベ』の二神が祭神として記されています。「上グスク之嶽」は拝所巡礼「東御廻り/アガリウマーイ」の1つとして拝されています。沖縄を創造した神「アマミキヨ」が、太陽が昇る東方(アガリガタ)の聖なる理想郷「ニライカナイ」から渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事です。「東御廻り/アガリウマーイ」の起源は国王の聖地巡礼で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として太陽神信仰と密接する地域を巡礼したのが始まりとされています。(上グスク之嶽)(親井/ウェーガー)(親井/ウェーガー)更に「琉球国由来記(1713年)」には「上グスク之嶽」について『年浴之時、花米九号・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネ之時、花米九号・五水四合・神酒壱百姓、供之。佐敷巫祭祀也。』と記されています。「年浴」とは稲作事始めの儀礼で、田ごしらえに必要な水が豊富に得られる事を願う節目を意味し旧暦6月に執り行われていました。更に「麦初種子/ミヤタネ(米種子)」の祭祀は旧暦9月に催され、共に「佐敷巫(ノロ)」により行われていました。現在「上グスク之嶽」には石積みが組まれ、ウコール(香炉)と数個の霊石が祀られています。「上グスク之嶽」の西側斜面の崖下には「親井/ウェーガー」と呼ばれる井泉があり「佐敷上グスク」の生活用水として使われていました。また「産井/ウブガー」とも呼ばれ、集落で子供が産まれた時の産水としても汲まれ、集落の生活とも深い関わりがあったと考えられています。
2022.07.22
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(浜川御嶽)沖縄本島南部にある「南城市」の東海岸に「百名(ひゃくな)ビーチ」があり、その北側には「浜川御嶽」の森が静かに佇んでいます。「百名ビーチ」は美しい白い砂浜と広範囲に渡る遠浅が特徴の天然ビーチで、地元住民からは聖なる浜として親しまれています。また"神の島"と呼ばれる「久高島」と深く関係するパワースポットとしても知られており「浜川御嶽」(神名:ヤハラヅカサ潮バナツカサの御イベ)は聖地として崇められています。(ヤハラヅカサの石碑)「百名ビーチ」の北側の海中に「ヤハラヅカサ」の石碑が建立されており、満潮時には水没し干潮時のみ石碑の全容を現します。石碑がある地点は琉球開闢の女神「アマミキヨ」が「ニライカナイ」と呼ばれる理想郷から上陸した際の第一歩を印した場所と伝えられています。石碑には「ヤハラヅカサ」と記され、石造りのウコール(香炉)が設置されています。4月の稲穂祭には琉球国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が参拝しました。(浜川御嶽への石段)(浜川御嶽の祠)「ヤハラヅカサ」の石碑がある「百名ビーチ」から森に入ると「浜川御嶽」に向かう石段が続いています。琉球開闢の女神である「アマミキヨ」が「ヤハラヅカサ」に上陸後、50メートルほど森に入った場所にある「浜川御嶽」に暫く仮住まいしたと伝わります。その後、南城市玉城の仲村渠(ナカンダカリ)集落の「ミントングスク」に安住の地を開いたと言われます。「アマミキヨ」はこの地で3男2女を儲け、その子孫が沖縄全土に拡散したと伝わります。(浜川御嶽/南東の拝所)(浜川御嶽/祠後方の拝所)(浜川御嶽/祠前方の石樋)「浜川御嶽」がある岩山の下に懇々と清水が湧き出る泉があります。「アマミキヨ」は「ヤハラヅカサ」に上陸後、この泉で疲れを癒やしながら近くの洞穴で暮らしたと言われます。現在も水量の多い湧き水が豊かに湧き出ており神の水として崇められています。「浜川御嶽」には拝所が多数あり石造りのウコール(香炉)や霊石が祀られています。御嶽の祠内には陶器製のウコールが設置されておりヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。祠の前方には湧き水を海に流し出す為の石樋も設置されています。(天然岩のトンネル)(岩を絞め殺すガジュマル)「浜川御嶽」で現在も行われている「東御廻り(あがりうまーい)」と呼ばれる聖地礼拝は、太陽の昇る東方を「ニライカナイ(理想郷)」のある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)と呼ばれた「南城市」の玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。 起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代の流れにより士族や民間へと広まりました。(岩間に絡まるガジュマル)琉球国王と共に「浜川御嶽」を参拝した「聞得大君(きこえおおぎみ)」とは、沖縄で古くから信じられてきた女性の霊力に対する信仰をもとにした「おなり神」の最高位の呼称です。国王の姉妹や王女など、主に王族の女性が国王によって任命され、第二尚氏時代の琉球神道における琉球王国全土のノロ(祝女)の頂点に立ち様々な儀式を司ってきました。(受水速水の入り口)(受水走水の拝所)「浜川御嶽」から南南西に500メートル程の場所に「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」と呼ばれる拝所があります。神名は「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」で、沖縄稲作の発祥の地として伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」によると「アマミキヨ」が「ニライカナイ(理想郷)」から稲の種子を持ってきて、この地の「玉城親田」と「高マシノシカマノ田」に植え始めたと言われます。(御穂田の石碑)(受水走水の霊石)(受水走水のガジュマル)伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」と呼ばれる場所に落ちて死んでしまいました。稲穂の種子は発芽し「アマミキヨ」の子孫である「アマミツ」により「受水走水」の「御穂田(みふーだ)」と呼ばれる水田に移植されたと伝わります。この地は「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所として霊域になっており、旧正月の初午の日には田植えの行事である「親田御願(うぇーだうがん)」が行われています。(アマミキヨのみち)「南城市」の「百名ビーチ」沿いに「新原ビーチ」から「浜川御嶽」に長閑に続く約1キロ程の道は「アマミキヨのみち」と呼ばれています。沖縄では琉球王国時代から伝わる自然崇拝的な信仰思想に基づく各種の宗教儀礼や祝祭が今日でも盛んに行なわれており、市民の生活や精神の中に資産が活用され、伝統文化として生き続け継承されています。「百名ビーチ」は透明度が高い美しい海で、まさに神に選ばれた"美ら浜"として人々に愛されています。「浜川御嶽」と「受水走水」の拝所には力強いパワーがみなぎり、自然界の神々を五感で感じ取れる聖域として存在しています。
2021.08.09
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