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(ニフェーマーチューの拝所)沖縄本島の中部にある西原町に琉球大学千原キャンパスがあります。この広大な敷地一帯はかつて琉球王国が管理して王府の御用木を生産していた「杣山/ソマヤマ」と呼ばれる山林(官有林)が広がっていました。大学の共通教育棟1号館の北東側敷地内に「ニフェーマーチューの拝所」があり、この場所は琉球王国の中城間切時代には「カナイタ山」と言われていました。「ニフェーマーチュー」の「ニフェー」は「感謝」で「マーチュー」は「松の木」の事で、総じて「感謝の松」を意味しています。かつて「ニフェーマーチューの拝所」はコンクリート製の祠が建てられており、祠内部には2体の霊石が祀られていました。しかし台風により祠は崩壊し、現在は「ニフェーマーチュー」と彫られた石碑が新しく建立しています。(ニフェーマーチューの石碑)(ニフェーマーチューの拝所)大学敷地の整地のため拝所は一時期、大学の中城村側東口守衛室の裏側に仮移設されましたが、再び元の拝所の場所と考えられる現在の位置に移されました。その昔、この場所には松の大木があり周辺の住民は「カナイタ山」に入り松の枯葉や薪などを採って生活していました。人々はこの「ニフェーマーチューの拝所」で山の神様に山を利用できる事への感謝と、山の安全への祈りを捧げてから入山したと伝わります。琉球大学千原キャンパスができた後も、この拝所は地域の人々の信仰の場所として拝され続けています。建立されている石碑の裏側には『後世の人々に山御願の歴史が伝承されていくことを切に願い、この地に新たに拝所の石碑を建立した。二〇二一(令和三)年二月吉日 中城村南上原南組有志会』と記されています。(チャーヤマ/茶山跡地)(クガニガマ跡)琉球大学工学部からテニスコート辺りまでが昔から「チャーヤマ/茶山」と呼ばれていた場所で、琉球王国の正史の歴史書である『球陽』には1733年の「尚敬王」の時代に棚原山地に初めて茶園を開いたと記されています。更『球陽』には20,850余歩の面積を開いて茶種や樹木などを植え、和漢の茶葉を製造して王国に供するとの記述があります。「金武御殿」からの分家と伝わる「普天間家一門」の宗家が約250年前に首里から「チャーヤマ」の番人として移り住み「茶山普天間」の名前で知られていました。また「チャーヤマ」周辺は「アカモー」とも呼ばれており、赤土の山に野イチゴやヤマモモが多く自生していました。かつて「チャーヤマ」の北東側には「クガニガマ」と呼ばれる洞窟があり「クガニ」は「黄金」で「ガマ」は「洞窟」を意味します。黄金の光がこの洞窟内で輝いた伝説から「クガニガマ」の名称が付けられたと伝わります。(石原門中の屋敷跡地)(石原門中の屋敷/井戸跡)琉球大学文系講義棟の東側にある小高い森には、かつて「石原門中」が暮らした屋敷と井戸の跡が残されています。「石原門中」は『首里系士族 楊氏 元祖楊太鶴山内親方昌信 名乗頭 昌』で本家は「与世田殿内」大屋は「山野前」となっています。現在、屋敷跡の周辺は石とコンクリートで整備されており、かつての屋敷の面影を残しています。「石原門中」の屋敷で使用されていた井戸はコンクリート製の囲いが施されており、井戸の内部へはパイプで空気孔が設けられています。更に井戸の脇にはベンチも設置されており、大学の学生の憩いの場として利用されています。戦前、この屋敷の周辺には「石原門中」が集中して暮らしており、屋号「石原」が4軒あった他にも、屋号「御殿地石原・内石原小・タードーシ石原・金武田石原小」などの屋敷も点在していました。(知名門中/大屋知名の屋敷跡地)(喜屋武門中/大喜屋武小の屋敷跡地)(サキタリヤマ/サカタリヤマ跡地)「知名門中」の屋号「大屋知名」の屋敷跡地には現在、琉球大学の共通教育棟3号館が建っています。「知名門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚真王三子尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で本家は「具志川御殿」です。元祖の「朝典」は第二尚氏の北山監守として「今帰仁グスク」に移り住んだ王族です。この屋敷跡地の南側には「喜屋武門中」の屋号「大喜屋武小」の屋敷跡地で、現在は大学浄水施設の敷地となっています。「喜屋武門中」は『首里系士族 毛氏 元祖毛国鼎中城按司護佐丸盛春 名乗頭 盛』で本家は「豊見城殿内」となっています。元祖の「護佐丸盛春」は「尚巴志王」に仕えた按司として知られています。更に、この屋敷跡地の北側にある大学の「サッカー・ラグビー場」には、かつて「サキタリヤマ/サカタリヤマ」と呼ばれた山があり、密造酒を造っていた事からこの名称が付けられたと言われています。(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)(ボージウシュー/坊主御主の屋敷跡地)琉球大学農学部の建物の北東側に「ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸」があります。その昔「チャーヤマ」に隠居した第二尚氏の第17代「尚灝王/しょうこうおう」(在位:1804-1834年)が使用していた井戸だと伝わります。「ボージウシュー/坊主御主」とは「尚灝王」の隠居後の名称で、昔からこの井戸は首里から礼拝者が多数訪れていました。琉球大学が首里から移転する際にこの井戸は取り壊されそうになりましたが、首里のノロ(祝女)達が来て井戸を残すよう言われたそうです。現在、大学北口に向かう道路脇にある井戸はコンクリートの建物で囲まれ、内部には大学移転当時のポンプが現在も残されています。この井戸から東側の北食堂裏の敷地は「尚灝王」が暮らしていた屋敷の跡地となっています。ちなみに「尚灝王」は一妃二夫人八妻を持ち、九男十七女をもうけた琉球国王でした。(サーターヤー跡)(ウマウィーグヮー/千原馬場跡)(果樹園跡)琉球大学工学部1号館の北側一帯はかつて「サーターヤー」と呼ばれる製糖場がありました。そこから南西側にある農学部沿いの道路はかつて「ウマウィーグヮー」という馬場で、馬の走り方の美しさを競う琉球競馬が行われていました。「チャーヤマンマイー」や「千原馬場」とも呼ばれた道は長さ約108メートル、幅が約9メートルあったと伝わり琉球競馬の他にも子供達の遊び場でもありました。この位置から同じ道を更に南側に進んだ一帯にはかつて「果樹園」がありました。『西原町史』の民族編には、1960年(昭和35)頃に台湾出身の陳という人が千原馬場の南側、現在の農学部南棟側から農場棟辺りの山地で、約2万坪の村有地を借地開墾し果樹園を開いていたと記されています。この果樹園では主に紀州ミカン、ポンカン、バンジロウなどを栽培していましたが、琉球大学の移転に伴い閉鎖され撤去されてしまいました。(琉球大学)琉球大学農学部の「農学部フィールド」と呼ばれる一帯には「棚原グスク」を守る支城の役割があった「イシグスク」や「大城門中按司墓」と彫られた石柱が建つ古墓、更に「ヤマバーン/山番」と呼ばれる杣山管理をしていた首里系士族「普天間門中」の墓を含む「五連墓」など、より多くの人々に知られるべき興味深い遺跡文化財が点在しています。残念ながら「農学部フィールド」は琉球大学の研究者以外は立ち入り禁止の区域となっています。琉球大学の広報担当に問い合わせたところ、個人での見学や利用については検討が必要で許可が下りるまで時間がかかるとの回答がありました。更に「農学部フィールド」に関する画像は研究者の知的財産権を損害してしまう場合があるため、SNS等への掲載はお控え下さいとの返答もありました。
2022.10.11
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(シージマタノ嶽のイビ)沖縄本島中部にある中城村「津覇集落」の「ミーヤシチ/新屋敷門中」の祖先は沖縄本島北部の今帰仁から「中城グスク」の南東側に広がる中城村「字泊」に移り住み「トゥマイウフヤ/泊大屋」という家を作りました。その分家である「アガリウフヤ/東大屋」の三男である「ザキミシー/座喜味子」が「ミーヤシチ門中」の元祖であると伝わります。その元祖の時代には現在の西原町千原にある琉球大学千原キャンパスの敷地内に広がる「シージマタ」の森に住んでいました。しかし、西原の「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」は東部の「糸蒲」に移り、その後は更に東側の「津覇集落」に移り住んだと言われています。この「ミーヤシチ門中」は「ウェーグン/親根門中」とも呼ばれ、姓は「新垣」となっています。(以前のシージマタノ嶽のイビ)(シージマタの森)(シージマタの森)「シージマタ」の「シージ」は「しのぐ」の事で「マタ」は「川の合流地点」を意味します。昔、戦に敗れた落武者がこの土地に隠れて命を凌いだ事が地名の由来であると伝わります。「シージマタノ嶽」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『棚原村 シギマタノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。以前のイビ(神が宿る最も重要な場所)は、現在のイビがある拝所の南側の川沿いに生える「ホソバムクイヌビワ」の根元辺りにあったと言われています。この場所から更に南側には「シージヌマタヌカー」という井戸があったと伝わります。一説では、この森は「棚原集落」の発祥地であると伝わり、集落の草分けで「ニーヤー/根屋」と呼ばれる「宮里門中」の元祖が暮らした屋敷があったと言われています。そのため戦前まで「棚原集落」のカミンチュ(神人)が年中行事で祭祀を行なっていたとの伝承があります。(シージマタノ嶽の遥拝所)(津覇集落のミーヤシチ門中)「棚原門中」との戦いに敗れた「ミーヤシチ門中」が逃れた「糸蒲」の地に「シージマタノ嶽」への遥拝所があり、石造りのウコール(香炉)が御嶽に向けて祀られています。「ミーヤシチ門中」が「津覇集落」に移り住んで暮らした屋敷の土地が現在も残されており、戦前までこの門中は「津覇集落」で馬車を所有する「馬車ムチャー」として働いていました。黒糖を詰めた「タルガー/樽」や「ウミイシ/海の石」など、依頼主の要望に応じて様々な物資を運んでいました。「津覇集落」に「サーターヤー/製糖場」が多く存在した事に比例して「馬車ムチャー」の数も多かったと伝わります。「津覇集落」の「馬車ムチャー」は「ミーヤシチ門中」の他にも「東比嘉・前田場・三男森田・酒庫理・森田小・栄眞境名」が存在したと言われています。(球陽橋/きゅうようばし)(ナービグムイ)(千原池/せんばるいけ)「シージマタノ嶽」の森に沿って「千原池/せんばるいけ」と呼ばれる人工池があり「球陽橋/きゅうようばし」が架けられています。かつて「千原池」の上流域に「ナービグムイ」という直径1メートル、深さ1.6メートルの鍋状をした溜池があり「ナービ」は「鍋」の事で「グムイ」は「溜池」を意味しています。伝承では中城の「津覇集落」の古代マキョと呼ばれる血縁部落の「糸蒲ノロ」が戦に追われてこの溜池で水死し、そのノロ墓が「ナービグムイ」の近くにありました。また昔、ある遊女がこの溜池で自殺したと言われており、水面には遊女が使っていたと思われる「サバチ箱/用具箱」が浮いていたため「ナービグムイ」は幽霊が出ると人々に恐れられていたそうです。現在の「ナービグムイ」と「ノロ墓」は琉球大学がこの土地に移転した際に作られた人工池の「千原池」に沈んでいます。(ウフタチグムイ)(千原池に架かる球陽橋)(千原池/せんばるいけ)「ナービグムイ」から南側に約20メートル離れた場所に、かつて「ウフタチグムイ」と呼ばれる溜池がありました。「球陽橋」の東側の川が湾曲した所に位置し、かつてこの溜池で馬を水浴びさせたり子供達が泳いだりしていました。しかし、この溜池は溺死する事故も多く、大人達は子供だけで泳がないよう注意していたそうです。「ウフタチグムイ」は一番深い場所で約2メートル、広さは約100坪ほどあったと伝わります。「球陽橋」が南北に架かる「千原池」は琉球大学が那覇市首里から西原町の現在地に移転した1977年に作られた人工池で、農学部農場用の用水ダムでもあります。池の面積は約20,000平方メートルで平均水深は約1.5メートルとなっており、野鳥を始めとする多くの生物の生息地として重要な役割を担っています。(チカジャングヮーカーの森)(ガチマタ)「千原池」に架かる「球陽橋」を渡った南側に大学会館(全保連ステーション)があり、この建物に隣接した場所にはかつて「チカジャングヮーカー」と呼ばれる井戸がありました。戦前まで周辺に暮らしていた屋号「チカジャングヮー/津嘉山小」が井戸の名称に由来していると考えられています。「チカジャングヮー」を使用していた「津嘉山門中」は18世紀の初めに首里や那覇から農村地域に人口移動が行われた「士族帰農」でこの土地に移転しました。『首里系士族 向氏 元祖尚質王三子尚弘仁義村王子朝元 名乗頭 朝』で、本家は琉球王族の「名護御殿/なごうどぅん」であると言われています。さらに大学会館の周辺は「ガチマタ」と呼ばれる深い森で覆われており、昔は川が合流して滝が流れていたと伝わっています。(トーフクエーマーチ/豆腐喰松があった場所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)(トーフクエーマーチ/豆腐喰松の拝所)「トーフクエーマーチ/豆腐喰松」は琉球大学千原キャンパスの北食堂入り口付近にあったと言われています。「トーフクエーマーチ」は「ターチマタマーチュー」とも呼ばれ、その名前の通り2本の松の木で大きい方の幹は直径約1メートル、高さ約10メートルあった大松であったと伝わります。木の根元にウコール(香炉)が祀られ、拝所として「棚原集落」や他の村から拝みに来ていました。その木の根元に豆腐をお供えしたら、いつの間にかそれが無くなっていたので「トーフクエーマーチュー/豆腐を食べる松」と呼ばれるようになりました。この松は昭和8年頃まで生えていましたが、その後無断で伐採されてしまったと伝わります。現在「トーフクエーマーチ」の拝所は大学生寮の北側にある駐車場の角に移設されており、3基のウコールが祀られた拝所となっており人々に拝されています。
2022.10.06
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(幸地グスク)西原町の幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上に「幸地グスク」があります。この幸地グスクが建てられた丘陵は南北に長い分水嶺で、南方は首里方面、北方は中城方面につながっています。グスクは瘤のような高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られています。(ビージル)グスク内の最高地点にはビージルの祠が建てられていますが、周辺を観察するための櫓台と考えられています。ビージルの北東下は30メ一トル×30メートルほどの広さを持った曲輪となっており、この曲輪の北寄りには井戸があります。また、西方から北西にかけても幅が10メートルほどの削平地が数段造られ、居住地化されたと考えられます。(幸地グスクガー)幸地グスクの中央部の広場には「幸地グスクガー」という井戸が2基設置されていました。このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにあります。幸地グスクは15世紀前半に造られ、その後数十年間はグスクや関所として、また戦乱期の後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性があります。(幸地按司ガー)幸地グスクの按司は「熱田子(あったし)」と呼ばれ、悪知恵が働き異常に女性にだらしない好色按司として知られていました。幸地グスクの北部にある棚原グスク按司の妻は絶世の美人だったそうで、棚原按司の妻の美しさに目を付けたのが幸地グスクの幸地按司(熱田子)でした。熱田子は棚原按司を殺して棚原按司の妻を奪おうと企んだのです。夫を殺された棚原按司の妻はグスクを逃げ出すが熱田子に執拗に追いかけられ、遂に捕まってしまいます。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌を噛み切って自害したと伝わります。(グスク上門ガー)熱田子はこの悲劇を反省するどころか、間もなく幸地グスクの南側に隣接する津喜武多(チチンタ)グスクの按司の妻に色目を使いだします。津喜武多按司と親交を結んで仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は津喜武多按司の妻の美貌に惚れ込み横恋慕していたためだと言われています。(熱田橋)ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰りに津喜武多按司の妻が亭良佐川(ティラサガー)で艶やかな黒髪を洗っているのを発見すると泥土を投げていたずらしました。妻は非常に立腹しそのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ熱田子はあなどり難い力を持っています。その場は取りあえずは兵を動かすことなく機会を待つことにしました。(幸地按司墓の入口)その一方で、熱田子は腕が立つ腹心の部下数人を密かに呼び「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち災いを取り除いてしまおう」と策略を練ったのです。熱田子は部下達と共に津喜武多按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して謝りました。按司は相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し歓待することになりました。(幸地按司墓の森)宴もたけなわになった頃、熱田子が津喜武多按司に向かって「按司殿は世に優れた宝剣をお持ちとお聞きしております。以前から、是非とも一目拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ願いが許されたのです。按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしたのです。(幸地按司墓)これは幸地グスクの北東にある山の中腹に佇む「幸地按司(熱田子)墓」です。さて、津喜武多按司を殺害した熱田子は思いを寄せてきた美しい妻を色々と説き伏せようとあれこれ試みましたが、貞節な妻は夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ自害したのです。妻と遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため大軍を率いて直ぐさま出陣したのでした。(幸地按司墓)熱田子は敵の軍勢が到着するなり自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は勝ち戦だと有頂天になり、夜が更けるのも忘れ思う存分に酒を飲み御馳走をたらふく食べました。熱田子は事前に自分の軍兵を城の近くの北山に待機させていました。合図によって熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして、今帰仁按司も討ち死にしました。(チチンタグスクの入口)熱田子の策略により自害した今帰仁按司には四人の息子達がいて、その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に不意をついて熱田子を急襲したのでした。流石に戦国の世にずる賢く名をはせた熱田子も遂に討ち亡ぼされ、四人の息子達は熱田子を倒して見事に津喜多按司とその妻、棚原按司とその妻、そして父親と今帰仁兵士達の仇を討ったのでした。(チチンタグスク)奇しくも熱田子の墓は直ぐ南側に位置する津喜武多グスクに向いています。天罰が下って殺害された熱田子は、死んでからも自分の墓から愛しの津喜武多按司の妻が暮らしたグスクを静かに見つめているのです。熱田子の墓と津喜武多グスクの間に流れる小波津川に「安津田橋」が掛かっており、津喜武多グスクに隣接する安津田集落の名は「熱田」の名が由来していると思われます。そう考えると非常に気味が悪くなり、執拗に好みの女性を追いかける熱田子の荒んだ執念に強い恐怖を感じます。(幸地按司墓)「幸地按司(熱田子)墓」は墓石の周辺だけ藪蚊の大群が飛び回り、私の腕や顔に異常なほどに噛みつき吸血し始めました。更に、この日は無風の快晴の天気にも関わらず、墓上の木々はバリバリと爆音をたてながら枯葉が大量に吹き荒れていたのです。まさに、未だ成仏しきれない熱田子の悪霊が墓の周辺を蠢いて、私の訪墓を沸々と拒絶しているように感じました。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.01.26
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