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(カニさんトンネル)沖縄本島北部の「ヤンバル/山原」の森に「大宜味村/おおぎみそん」があります。この自然豊かな村の最北端で西海岸線沿いに「カニさんトンネル」と呼ばれる隧道が通っています。「田嘉里川」河口の西側約200mの位置で「謝名城集落」の北側を通る国道58号線の地下にトンネルがあり、その名称の通りカニやヤドカリ等の甲殻類の為に造られたトンネルとなっています。「カニさんトンネル」の周辺は沖縄本島西海岸では珍しいマングローブ林があり、この場所には泥が溜まり穴を掘り易く涼しく、さらに餌も摂りやすいため「オカガニ」にとって良い住処となっています。それと同時に海岸へ渡る甲殻類の交通事故が多発する場所でもあります。甲殻類のロードキルを減少させる目的として1996年に「カニさんトンネル」が完成しました。(カニさんトンネルの陸側にある墓地)(カニさんトンネルの入り口)(カニさんトンネルの内部)「カニさんトンネル」の陸側には墓地の丘陵となっており「オカガニ」や「オカヤドカリ」が多数生息しています。トンネル内部を覗くと海岸に続いており甲殻類が上手くトンネルの入り口を見つけられるように誘導の為のコンクリート壁が設置されています。さらに通常は海岸に生えている木々を植えたり砂浜を敷き詰めて甲殻類がトンネルに入り易くする為の工夫がされています。「オカガニ」類は陸棲のカニで沖縄本島では「オカガニ・オオオカガニ・ヘリトリオカガニ・ムラサキオカガニ」の4種が生息しています。「オカガニ」は陸棲でありながら幼生期を海で過ごすため、繁殖期になるとメスのカニが放卵のために海岸に降りる習性があります。5〜12月の満月前後の夜に満潮時刻になると一斉に身体を震わせて放卵を開始します。(カニさんトンネルの海岸側)(海岸側から見たトンネル内部)(海岸側の波消しブロック)「オオヤドカリ」は亜熱帯の気温に適した生き物です。気温が15度を下回ると活動が鈍り仮死状態に陥り、この状態が長く続くと「オオヤドカリ」は生存できません。アダンやグンバイヒルガオ等の海浜植物の群落付近に生息し、昼間は石や岩の下に隠れています。一般的なヤドカリは海生で水上にあまり出ないのに対して「オオヤドカリ」は陸上で生活をする為、脚やハサミが太く頑丈である特徴があります。また陸上での生活に適応するために貝殻の内部に少量の水を蓄え、柔らかい腹部を乾燥から守り陸上でのエラ呼吸も可能となっています。「カニさんトンネル」の海岸側は波消しブロックに隣接しており、放卵する満潮時刻には海水が目の前に達ています。さらに、防波堤には「カニ渡りネット」が設けられトンネルを利用しない甲殻類も防波堤を上手く越える事が出来ます。(カニさんトンネルの案内板)(カニさんトンネル)沖縄の方言で「カンダクェーガニ」と言う「オカガニ」や、方言で「アーマン」と呼ばれ国の天然記念物に指定されている「オオヤドカリ」の他にも「カニさんトンネル」周辺には「ベンケイガニ」や「カクレイワガニ」も生息しています。周辺の防波堤には甲殻類が爪を引っ掛けて登る為の切り込みが刻まれ、垂直に立つ縁石に斜めの切り込みが入れられています。さらに甲殻類が道路に出ないように高さ50cmの「エコパネル」が設置され、横断水路の入り口斜面を穏やかにしたり上り易くする為の工夫が施されています。その結果「カニさんトンネル」設置後、甲殻類のロードキルの件数は減少しています。『内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所』は甲殻類のロードキル撲滅に向けてドライバーに走行注意や減速運転を呼びかけています。
2023.01.01
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(ヌルドゥンチ/祝女殿内)沖縄本島北部に広がるヤンバル(山原)の森に大宜味村があります。この村の北部に「謝名城」という集落があり「根謝銘/ニジャミ・一名代/テンナス・城/グシク」の3つの小集落が合併して構成されています。「根謝銘グスク」の西側にある「根謝銘集落」に「ヌルドゥンチ/祝女殿内」があり「城祝女/グシクノロ」により祭祀が執り行われます。「城ノロ」は「謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味・大兼久」の5つの集落を管轄しており「ヌルドゥンチ」には「ヌル元祖・城ヌル火の神・若ヌル火の神」が祀られています。大正3年に発行された『沖縄県史料』には『謝名城ノロクモイ所蔵 一、宝物 黄金簪一ツ(花ノ周囲六寸五分 竿長三寸五分) 一、水晶ノ玉(頚環) 大四十九個 小五十一個 一、絹衣 大一枚 小一枚』と記されています。(ヌルドゥンチの石碑)(ヌルドゥンチの内部)1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には「ヌルドゥンチ」に祀られる「火の神/ヒヌカン」について次のような記述があります。『城巫火神 城村 四度・四品・百人御物参之時、有祈願也。稲穂祭三日タカベノ時、仙香・五水2合宛・花米九合城・喜如嘉・大宜味・饒波四ヶ村百姓。同穂祭之時、五水五合・神酒壱按司、五水五合・神酒壱惣地頭、五水二合・神酒一喜如嘉地頭、五水二合宛南風掟・西掟・喜如嘉掟、同四合・魚三斤・神酒壱城村百姓。同大祭三日崇之時、仙香・五水二合宛・花米九合宛右四ヶ村百姓。同大祭之時、神酒壱宛按司・惣地頭・喜如嘉地頭、同壱・魚三斤城村百姓。六月、束取折目三日崇之時供物、稲穂祭崇ニ同。同束折目之時、神酒壱宛南風掟・西掟・喜如嘉掟、同二・魚三斤城村百姓。』(ヌルドゥンチの神棚)(ヌルドゥンチの火の神)さらに『琉球国由来記』の記述は次のように続いています。『海神折目三日崇之時、供物、稲穂祭三日崇ニ同。同海神折目之時、神酒壱宛按司・惣地頭・福地掟、同一・餅一器城村百姓、餅一器福地掟、魚六斤城村百姓。柴指三日崇ノ時供物、稲穂祭三日崇ニ同。柴指之時、神酒一宛・魚壱斤宛大宜味・喜如嘉二ヶ村百姓、神酒一城村百姓。ミヤ種子並芋ナイ折目三日崇之時供物、稲穂祭三日崇ニ同。芋ナイ折目之時、神酒三・魚三斤・蕃薯拾四器城村百姓、供之。城巫祭祀也。』「ヌルドゥンチ」の神棚には「のろ御元祖」と「のろ御神」が祀られた二基の陶器製ウコール(香炉)と一基の鉄製ウコール、4個の湯呑、2本の花瓶が供えられています。また、火の神には「のろ御火の神」が祀られた二基の陶器製ウコールと一基の石造製ウコール、霊石が九個、湯呑三個、花瓶二本が供えられています。(ヌルドゥンチ/祝女殿内)(ヌルドゥンチの拝所)「ヌルドゥンチ」での祭祀が執り行われる際に建物入り口の戸走りに十本のウチナーウコー(沖縄線香)が供えられます。この十本の線香は(1)天の神 (2)火の神 (3)十二支の神 (4)杣山の神 (5)川の神 (6)クガニマク/城村の神 (7)ユナハマク/根謝銘村の神 (8)ユダヌマク/一名代村の神 (9)ニライカナイの神 (10)喜如嘉七滝の神に捧げられています。因みに「マク」は「マキョ」とも呼ばれる古琉球時代の村の形を意味します。「ヌルドゥンチ」に向かって右側に「根謝銘グスク」に向けられて拝所が設けられています。霊石が祀られ石造製ウコールが二基設置されています。2017年10月に「ヌルドゥンチ」の遺品調査が行われ、ケー(長持ち)の箱には「漆器丸櫃(高さ約十九センチ)」「竹筒(大小二本)」「瓶子(錫製酒瓶)」「湯沸かしの蓋(鉄製)」「茶たく(四枚/黒漆塗り)」「酒柱(丸型)」「青磁の香炉と花瓶」が収められていました。(根ガー/ナガー)(根謝銘グスク北西側の拝所)「ヌルドゥンチ」東側の森で「根謝銘グスク」西側丘陵の麓に「根ガー/ナガー」と呼ばれる井泉があります。アコウの木の根元にコンクリートで囲まれた井戸があり「根謝銘グスク」に向けてウコールが祀られています。「根ガー」の名称から古琉球時代に「城村」が発祥した場所に関わる井泉であると考えてられます。現在「根ガー」の水は枯れていますが、比較的に規模の大きな井戸で、昔は周辺住民の生活用水に使用された村ガーであったと推測されます。「村ガー」から「根謝銘グスク」の北西側の深い森を進むと拝所がありコンクリート製の祠が建てられています。現在この拝所を拝む人が絶えているようで祠内部の木材は朽ち落ち、かつて供えられていたウコール、湯呑、花瓶が破損して散乱しています。「城村」の根人や根神に関する拝所なのか、それとも門中拝所なのかは不明です。(ウドゥンガー/御殿泉の石碑)(ウドゥンガー/御殿泉)(ウドゥンガー/御殿泉)「ヌルドゥンチ」から東側のグスク丘陵麓に「ウドゥンガー/御殿泉」と呼ばれる井戸があります。「ウドゥンガー」は大正時代に整備された二対の湧水で「根謝銘グスク」がある「城原/グシクバル」の住民にとって大変貴重な水源地でした。昔は生活用水のみならず、洗濯用水や収穫した野菜を洗う井戸として二つの井戸を使い分けていたと考えられます。現在も懇々と水が湧き出ており、水源は神アサギや御嶽がある「根謝銘グスク」である事から「御殿泉」と名付けられたと推測出来ます。「ウドゥンガー」の向かって右側の井戸には石碑が建てられ、大きな石造り製ウコールが設置されています。また、向かって左側の井戸は水が枯れていますが、こちらも大きな石造り製ウコールが祀られています。現在でも農業用水として利用されている「ウドゥンガー」は神井戸として拝されています。(ハラガー)(ナハガー/中川)(ナハガー/中川の左側に脱がれ込む水)「ウドゥンガー」から南西側に数十メートル離れた場所に「ハラガー」がありウコールが設置されており、井戸に向かって右側には霊石が祀られています。現在「ハラガー」の水は枯れていますが、昔は周辺住民の貴重な水資源として重宝されていたと考えられます。また、旧暦8月10日頃に2年に1度の隔年に行われる豊年踊りが行われ、先祖供養の為にエイサーと共に集落を練り歩く「道ズネー/道ジュネー」の際には水の神に感謝して「ハラガー」が拝されます。さらに「ハラガー」の南側には「ナハガー/中川」と呼ばれる井戸があり、現在もコンクリートで囲まれた井戸には水が湧き出ています。「中川」と刻まれた石碑があるこの井戸に向かって左側には樋を通って水が勢い良く流れており、丸型に開いた地面の穴に水が注ぎ込まれています。(サンハー/下川)(フシキンチジ森)(クランマー/蔵庭)「ナハガー」から道を挟んだ南側に広場があり、民家の脇に「サンハー/下川」という井戸があります。現在コンクリートで仕切られた井戸の湧き水は枯れており、クワズイモをはじめとする亜熱帯植物で井戸は覆われています。「サンハー」の東側には「フシキンチジ森」と呼ばれる森があります。この森は背後にそびえる広大な「根謝銘グスク」に宿る山の神への御通し森であると考えられています。更に「フシキンチジ森」の西側には「クランマー/蔵庭」があり、昭和20年代までここで豊年踊りが行なわれたと伝わります。現在はその名残りとして「クランマー」まで「道ズネー/道ジュネー」を行い、三節(長者の大主・ながらた・上り口説)の嘉例(カリー)踊りが奉納されます。因みに「長者の大主/ちょうじゃのうふしゅ」は翁と媼を中心に子や孫等が登場し、感謝と喜びを込めて踊りつぐ華やかで明るい祝義舞踊として沖縄各地で受け継がれています。(根差部親方/ネサシップウェーカタの神屋)(根差部親方/ネサシップウェーカタの神屋の内部)(根神屋/ニガミヤー)「根謝銘グスク」の西側に「根謝銘集落」があり、根謝銘公民館の西側に「根差部親方/ネサシップウェーカタ」の神屋があります。「根差部親方」は首里王府の三司官の役職に就く役人でしたが、大島征伐の功績を妬む者達の策略により首里から根謝銘に都落ちしたと言われています。現在「根差部親方」の神屋は集落の守り神として祀られており「春の彼岸」「旧暦5月4日のユッカヌヒ」「秋の彼岸」に「根謝銘バール/インジャミ」で御願されます。神屋の内部にある仏壇には「根差部親方」を描いた古い掛け軸、ウコール、湯呑、花瓶が供えられています。さらに「根差部親方」の神屋の南西側には「根神屋/ニガミヤー」があり「根謝銘集落」発祥に関わる「根人/ニッチェ」が祀られています。もともとは「根謝銘グスク」にありましたが、現在地に移設され仏壇と火の神が祀られています。(大石の前/ウフイシヌメー)(潮崎/ウスザキ/根謝銘門丘/ネジャメジョウヂカサ)根謝銘公民館の東側に「大石の前/ウフイシヌメー」と呼ばれる大石が鎮座しており、その昔は大石の前に豚などの動物の姿をした化け物が出たという伝承があります。また、傍に建つ屋敷に火事があったため、火玉を防ぐために火山(ピーザン)に相対して大石(ウフイシ)を火返しのたみ祀ったとも言われています。さらに根謝銘公民館の南西側には「潮崎/ウスザキ」と呼ばれる小高い森があり、隣接する「喜如嘉集落」のターブクと呼ばれる畑はその昔は海であったと伝わり、潮が「潮崎」の森まで押し寄せていたと言われています。「潮崎」は「根謝銘集落」の入り口であり「根謝銘門丘/ネジャメジョウヂカサ」とも呼ばれています。その昔、葬式の際に故人を墓まで送る「野辺送り」の際には死者の髪の毛と爪を藁に包んで「潮崎」の森に投げ入れて集落との別れをしたと伝わっています。
2022.12.01
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(大城/ウフグシク御嶽)沖縄本島北部のヤンバル(山原)と呼ばれる地域に大宜味村があり、この村の北部にある「謝名城(じゃなぐすく)集落」と「田嘉里(たかざと)集落」との境の丘陵には「根謝銘グスク」があります。「田嘉里集落」は北側の国頭村に隣接しており「根謝銘グスク」は「国頭グスク」とも呼ばれています。「田嘉里集落」は「親田・屋嘉比・見里」の3つのシマ(村)から構成されており、明治36年に合併し「屋嘉比ノロ」と呼ばれる祝女が「田嘉里集落」を管轄して祭祀を取り行っています。「根謝銘グスク/国頭グスク」の頂上にある「中城/ナカグシク御嶽」と「神アサギ」の北側に隣接した位置には「屋嘉比(やかび)ノロ」が神事を司る「大城/ウフグシク御嶽」があります。集落の「ウンガミ/海神祭」の行事では「大城御嶽」を拝んでから「屋嘉比」にある「神アサギ」で祭祀を行います。(大城/ウフグシク御嶽の石碑)(大城/ウフグシク御嶽のイビ/威部)(縄張りされた大城/ウフグシク御嶽)「田嘉里集落」が拝するこの御嶽には「大城御嶽」と記された石碑が建立されており、御嶽の中で最も神聖な場所である「イビ/威部」には幾つものビジュル石(霊石)が組まれており、古い石造りウコール(香炉)が祀られています。更に「イビ」の手前には「田嘉里集落」に向けて拝する為のウコールが設置されており「屋嘉比ノロ」や「田嘉里集落」のカミンチュ(神人)が祭祀を行う聖地となっています。また「大城御嶽」の周辺は聖域を示す「縄張り」と呼ばれる3本の左縄が張られています。大宜味村には近世の行政村となる前の集落の単位である「マク/マキョ」と呼ばれる古琉球のムラ(同一の血縁団体、又はその部落)の形を示す名前があります。「田嘉里集落」の3つのシマの「マク」名は「マラクイヌマク/親田村・クイシンヌマク/屋嘉比村・ユフッパヌ/見里村」となっていました。(ウマアミシガー/馬浴みし井泉の石碑)(ウマアミシガー/馬浴みし井泉)(田嘉里西/イリ門中の拝所)(田嘉里西/イリ門中の拝所)「大城御嶽」の西側に「ウマアミシガー/馬浴みし井泉」と呼ばれる井泉跡があります。この井泉は「根謝銘グスク」に按司が住んでいた頃、この井泉で馬を水浴びさせていたと伝わります。また、一説によると「ウマアミシガー」は「大城御嶽」に祭祀の際に訪れた「屋嘉比ノロ」の馬を水浴びさせた井泉であったとも伝えられています。「田嘉里集落」を形成する「親田・屋嘉比・見里」の3村は1673年に「田湾間切」が創設された当初は「国頭間切」に属していました。その後、1692年に「田湾間切」が「大宜味間切」に改称し「親田・屋嘉比・見里」の3村も「大宜味間切」に属し、1903年に3村が合併して「田嘉里集落」となりました。合併後も「屋嘉比ノロ」の名称は継承され現在に至ります。更に「大城御嶽」と「根謝銘グスク」の「神アサギ」の間は「田嘉里西/イリ門中」の拝所があります。石積みが組まれた塚に石造りウコールが祀られた拝所で「田嘉里西門中」の聖域となっています。(上城/ウイグシクガー石碑)(上城/ウイグシクガー)(堀切/フッキーの石碑)(堀切/フッキー)「大城御嶽」の西側にある山中にアコウの大木があり、その根下に「上城/ウイグシクガー」と呼ばれる井泉があります。「国頭グスク」は一般的に「根謝銘(ねじゃめ)グスク」と呼ばれており、更に「上城/ウイグシク」の名称でも知られています。「上城ガー」は円形上に石で囲まれており、水の神に拝するためのウコールが設置されて拝所となっています。現在、この井泉は普段は水が枯れていますが、雨の後には井戸には湧き水が滞水します。この「上城ガー」の東側丘陵を登って行くと「堀切/フッキー」と記された石碑が建立されています。「国頭グスク/根謝銘グスク」の西側の端にある断崖絶壁で、その名前の通り敵の侵入を阻止するする為に人工的に山肌を掘り切りグスクの境としたものと考えられています。現在「堀切」の石碑が設置された周辺には多数の岩が散在しています。(地頭火の神/ジトゥーヒヌカン)(地頭火の神/ジトゥーヒヌカンの石碑)(地頭火の神/ジトゥーヒヌカンの祠内部)「上城ガー」の南側に3体の霊石とウコールが設置された「地頭火の神/ジトゥーヒヌカン」があり、国頭按司と惣地頭の火の神が祀られています。「ウンガミ」では「神アサギ」での儀式の前に海神祭の予告祈願を行い「中城御嶽」と「喜如嘉七瀧拝所」に向かって拝します。旧歴5月の「グングヮチウマチー/稲穂祭」では「地頭火の神」に稲穂を供えて豊年祈願を行います。この稲穂は「ナガリー」という川の東側にある田んぼから「勢頭神/シドゥガミ」と呼ばれる男神が採取します。稲穂の他にも神酒、花米、さく米の手形が入った餅、線香をお供えして『稲穂も出揃いましたので、台風もなく鳥や鼠の被害もなく、穫り入れまで守って豊作をさせて下さい』と祈願します。この後「神アサギ」で「折目御願」が行われますが、神人達の若ノロは「若ノロにより稲穂が若返り穫り入れが遅れる」との理由で祭祀への参加が許されなかったと伝わります。(ミートゥーガー/夫婦井戸)(ミートゥーガー/夫婦井戸/向かって左側)(ミートゥーガー/夫婦井戸/向かって右側)「地頭火の神」の祠の南側に続く急勾配の丘陵を下る階段を降りてゆくと、右手の中腹に「ミートゥーガー/夫婦井戸」と呼ばれる2つの井泉があります。この隣接した井泉は「夫婦ガー」と記された石碑を中心にして左右に一対して隣接しています。石積みが施された「ミートゥーガー」の水は現在は枯れていますが、かつては2つの井泉から水が湧き出ていました。「ミートゥーガー」がある位置は「国頭グスク/根謝銘グスク」の南側にあり「根謝銘/ネジャミ村・一名代/テンナス村・城/グシク村」の3つのシマが合併した「謝名城集落」に属しており、古琉球の時代から利用されていた井戸であると考えられます。因みに、3つのシマの「マク」名は「ユナハマク/根謝銘村・ユダヌマク/一名代村・クガニマク/城村」と呼ばれていました。(按司墓)(按司墓の石碑)(按司墓のニジリの神/右の神)(按司墓のビザイの神/左の神)「ミートゥーガー」の西側丘陵の中腹に「根謝銘グスク」に居城した按司の墓があります。「按司墓」はグスク内の「中城/ナカグシク御嶽」に葬られていた古い人骨をまとめて納骨した墓であると言われています。近世紀に士族層に家譜作成が義務付けられた際、この「按司墓」も家系を統一化するために出身地の古墓整備が行われたと考えられています。墓門には大型のウコール(香炉)が設置され、墓を背にして左側に「ビザイの神/左の神」右側に「ニジリの神/右の神」が祀られています。因みに、この左右の神は現世と後世との取り継ぎをする役目があります。13世紀末の沖縄本島は「北山・中山・南山」の三国時代(グスク時代)で「北山」は「今帰仁グスク」を拠点にヤンバル(山原)地域の全域を支配していました。「根謝銘グスク」は国頭地域を拠点としたグスクであった事から「国頭グスク」とも呼ばれています。その為、この「按司墓」は「国頭按司」の墓であると考えられているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2022.11.26
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(根謝銘グスクの神アサギ)ユネスコ世界自然遺産に登録された沖縄本島北部に広がるヤンバルの森に「大宜味(おおぎみ)村」があり、この村の北東端には「謝名城(じゃなぐすく)」という集落があります。この集落は「根謝銘/ネジャミ•一名代/テンナス•城/グシク」の3つのシマ(村)で構成されています。「謝名城集落」は北側に隣接した「国頭(くにがみ)村」の「田嘉里(たかざと)集落」と同様に「根謝銘(ねじゃめ)グスク」を抱えた土地に村が形成されています。集落の北側にそびえる「根謝銘グスク」は「上城/ウイグスク」とも呼ばれており、その発祥は不明ですが城跡から発見された陶器や磁器類からみて13世紀中期の地方豪族の築城と考えられています。また、一説では「大宜味按司」の居城であるとも言われていますが、現在も詳細は謎に包まれています。(殿内根所/御殿根所)(殿内根所/ドゥンチニーズ)(御殿根所/ウドゥンニーズ)(御殿庭/ウドゥンマー)「謝名城集落」の西側でかつて「城村」があった場所に「根謝銘グスク」があり、このグスクの東側丘陵の麓に「殿内根所/ドゥンチニーズ」と「御殿根所/ウドゥンニーズ」と呼ばれる「火の神/ヒヌカン」を祀った拝所があります。コンクリート製の祠は首里王府に相対する北側に向けられて建立されており「根謝銘グスク」への御通し拝所の役割もあると考えられます。向かって左側の「殿内根所」には複数のビジュル石(霊石)と石造りのウコール(香炉)が二基祀られ、右側の「御殿根所」には複数のビジュル石と石造りのウコールが一基設置されています。この拝所の脇には「御殿庭/ウドゥンマー」と呼ばれる広場があり、ノロ(祝女)やカミンチュ(神人)がこの場所で神踊りを舞い、招いた神々を送る神送りの儀式が執り行われていました。(根謝銘グスクへ登る階段)(仲庭/ナハマーの石碑)(仲庭/ナハマー)(仲庭から頂上に向かう石段)「根謝銘グスク」へ登る時に「仲庭/ナハマー」の木にノロが乗ってきた馬を繋いでいました。「ウンガミ/海神祭」ではこの場所でオモロを謳い、この下の「御殿庭」で神送りの儀式が行われました。「ウンガミ」は旧盆明けの亥の日に執り行われる祭で海の神だけでなく山の神もお迎えし、悪疫を祓い豊年と子孫繁栄を祈願する行事です。「根謝銘グスク」が祭りの舞台となる「ウンガミ」は「謝名城集落」を管轄する祝女である「城ノロ」を始めとし、アキ折目にチキ(御飯に汁をかける)して食べる「チキシュ神」、ノロの補佐役である「セーファー神」と「若祝女/ワカヌル」、ウムイ伝承者で村の行事を司る「根神」、男神の「地頭神/シドゥウガミ」、小使い神の「サンナム」で構成され『七重/ナナエのヤジク神』と呼ばれていました。他にも「アシビ神/遊び神」「道セーキ神/道片付け神」「内原/ウチバラ根神」の神々も存在したと伝わります。(根謝銘グスクのビジュルの石碑)(根謝銘グスクのビジュル)(ビジュル近くの拝所)(ビジュル近くの拝所)「仲庭」から更に石段を登りグスクの頂上に向かう途中に「根謝銘グスクのビジュル」と呼ばれる霊石が鎮座しています。その昔「根謝銘グスク」の按司が敵に打たれ、残された按司の妻である「ウナザラ/ウナジャラ」が拝んだ霊石であると伝わります。願い事や占い事をする際に霊石を持ち上げられるか持ち上げられないかで吉凶を占うとの伝承が残されています。また、このビジュルの近くには岩々に囲まれた場所に古い石造りのウコールが設置され祀られた拝所が二箇所存在します。大宜味村が発行した『大宜味村史』には次のような記述があります。『根謝銘城 字謝名城の東北小字城にあり、一名上城とも言ふ。住昔中山英祖王の後裔なる大宜味按司の居城にて、城は天険に依るのみで別に砦壁を囲らさず、実に要害無比である。』(城之川/川神)(城之川の拝所)「根謝銘グスクのビジュル」から更に頂上に向かう左側に平場があり「城之川 川神」と記された石碑がありウコールが設置されています。現在は湧き水は枯れていますが、現在も井戸跡には「川神」が祀られています。この井戸跡の奥にはコンクリート製の祠が建立されておりウコールが祀られた拝所となっています。「根謝銘グスク」に居城した「大宜味按司」の先祖は「英祖王(1229-1299年」で、その後「北山世主湧川王」「北山世主湧川按司」「北山世主今帰仁按司」「仲昔今帰仁城主」から「大宜味按司」へと系統が続きました。その後「大宜味按司」の家系は長男「大宜味若按司」長女「真鍋樽金」二女「童名不明」三女「真住度金」四女「真牛金」と継がれて行きました。(根謝銘グスクの神アサギ)(神アサギの内部構造)「根謝銘グスク」の「神アサギ」は瓦屋根の建物でグスク内の「中城」に位置しており「城ノロ」が祭祀を司る聖域でした。一般的な神アサギとは造りが異なり壁や床の敷かれた部分があり、沖縄では珍しいこの構造は奄美の加計呂麻島に見られます。毎年旧盆後の初亥の日に「城ノロ」主催の「根謝銘グスクのウンガミ/海神祭」には「謝名城•喜如嘉•饒波•大宜味」の各集落からカミンチュ(根神•神人•根人等)達が年一回の村外での勤めとして参加しました。因みに「大宜味集落」では城(グシク)に登って出向く事は「グシクヌブイ」と呼ばれています。「神アサギ」の内部ではカミンチュの座る位置も決められており、神アサギ内で神酒を酌み交わした後に建物の東側にある「アサギマー/アサギ庭」でオモロが謳われ舞が奉納されました。(アサギマー/アサギ庭)(アサギマー/アサギ庭)(神アサギ北側の石組み)「アサギマー」には神人達が座る長椅子を設置する為の10個余りの石がコの字型に並んでいます。ウンガミの行事では「アサギマー」で4回の神踊りが奉納されます。1回目はアシビ神(遊びビラムト神)が弓矢を上げ下げして踊り、2回目はアシビ神はハーブイを頭に被り円を作り弓矢を上げ下げして踊ります。3回目は3人のアシビ神がそれぞれ赤色、黄色、赤黄色の菊模様の入った紫色の衣装に着替えて踊り、4回目は神人が2本の縄を並行に引き舟に見立て、その中にアシビ神が入りナーアシビ(縄遊び)を踊ります。その最中に1人の神人が海ぶどうとシークワーサーを庭の中央に撒き散らし、残りを参拝者に配り祭祀は終わります。因みに「神アサギ」の北側には1つの岩が2つの石を土台として組まれた拝所と思われる場所が存在しています。(中城御嶽)(中城御嶽のイビ)「神アサギ」の南側に「城ノロ」が管轄し祭祀を司る「中城御嶽」があり、御嶽のイビであるコンクリート製の祠にウコールが祀られています。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『小城嶽 神名 大ツカサナヌシ 城村』と記されています。「中城御嶽」と刻まれた石碑の脇にもウコールがあり、御嶽には「縄張り」と呼ばれる聖域を表す3本の縄が張られています。旧暦3月と9月に行われる「ウグヮンプセー」と呼ばれる御嶽の清掃行事では「城ノロ」が担当して新しく左縄を張り回します。清掃を終えた後「ヤジク神」が「中城御嶽」に上がり『無事に清掃をさせてくださいましたので、ここに神人達が揃って神に感謝を捧げます』と祈祷し、酒と芭蕉の葉に包んだ炊いたお米の供物をいただく風習となっています。(中城御嶽東側の拝所)(中城御嶽北東側の拝所)「中城御嶽」の裏手に当たる東側に立つ木の下には石造りのウコールが設置されており、御嶽の北東側にも古いウコールが祀られています。「謝名城集落」の「城村」には次のような『あまうぇーぬやじく』という神唄があります。『城もい(城森) 七よあじゃげ 八尋あしゃげ(七尋アシャゲ 八尋アシャゲ) 真中に吾が祝女ば うんちけしち(真中に吾が祝女を 御招請し) 吾が主ば うんちけーしち(吾がぬしを 御招請し) 八尋あしゃげ 真中に(八尋アシャゲ 真中に) 神寄添ひて むましば(神寄り添いて おわせば) 赤わんのゆなはしに(赤椀の世直しに) 中もらち はた盛らち(中盛らし 端盛らし) うさげやべら(捧げよう) アレアレ うさげやべら(アレアレ 捧げよう) ハーラーユーヤーンサーユイ(ハーラーユーヤーンサーユイ)』
2022.11.18
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(七瀧拝所/喜如嘉七滝)沖縄本島北部の西海岸に大宜味村「喜如嘉(きじょか)集落」があり、集落の南側に大規模に広がるヤンバルの森に「七瀧拝所」と「喜如嘉七滝」があります。『七瀧拝所』と刻まれた扁額の鳥居をくぐると右手に小高い塚があり「七瀧拝所」の祠が建立されています。この拝所は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『キトカサネ森 神名 七嶽ノイベナヌシ 喜如嘉村』と記されており『毎年、四度・四品・百人御物参之有祈願也。此時御花米、自公庫。仙香・御五水、間切ヨリ出也。』との記述があります。更に、王府の命で1731年に琉球王国の官僚・歴史家であった「鄭秉哲/ていへいてつ」が漢文で編集した地誌『琉球国旧記』には「七瀧拝所」は『奇度重森(在喜如嘉邑。神名曰七嶽威部那主)』と記されています。(喜如嘉七滝)(七瀧拝所の祠)(七瀧拝所の祠内部)「喜如嘉七滝」は「段瀑/だんばく」と呼ばれる滝で、最上段から滝壺まで七段の軌道がある事に由来して「七滝/ななたき」と言われています。この滝の水は北側の「幸地川」に流れ込み、その後「アミガー/浴川」に合流して北西に進み西海岸の海に到達します。また集落の古老によると、その昔「喜如嘉七滝」の流れを利用した水車が稼働していたとの伝承が残されています。琉球王国時代には滝壺の東岸側に石を積んだ拝所としていましたが、昭和10年に現在の位置に祠を建立し「七滝拝み」と称して拝されています。琉球赤瓦屋根が葺かれたコンクリート製の祠内部には「七瀧ノイベナヌシ/七嶽威部那主」が祀られた3組のビジュル石(霊石)と3基のウコール(香炉)が設置されています。更に「喜如嘉七滝」の地下深くにある天然深層水を汲み上げた天然ミネラル豊富な「沖縄の命水/七滝の水」が「ぬちぬみじ/命の水」として販売されています。(七滝の水/鎮守の森)(シークワーサーの木々)(シークワーサーの実)「七瀧拝所/喜如嘉七滝」に向かって右側に広がる丘陵は「鎮守の森」と呼ばれています。この森は「七滝」から西側にある「ヒンバームイ/ヒンバー森」の南側にかけては聖域とされており、かつては樹木の伐採が厳しく禁じられてらいました。現在「鎮守の森」の丘陵斜面にはシークワーサーの木々が植えられており沢山のシークワーサーの実が育っています。「喜如嘉集落」がある大宜味村はシークワーサーの産地として有名で「シークワーサーの里」と呼ばれています。シークワーサーはミカン科の寛皮柑橘で果皮が緑色、未熟の間は酸が強く黄色に熟したものは適度の甘味と酸味があります。沖縄の言葉で「シー」は酸「クヮーサー」は食べさせるを意味し「イシクニブ・フスブタ・タネブト・ミカングヮ・イングヮクニブ・ヒジャークニブ・カーアチー・カービシー」などの系統があります。(アカガー/赤川)(ミーガー/新川)(アサウイミガー/朝折目川)「喜如嘉集落」では旧暦1月2日に「ハーウガン/川御願」の行事が行われます。集落で昔から利用されている井泉にはウコール(香炉)が設置されており水の神が祀られています。集落のハミンチュー(神人)や住民が井戸や拝所を巡り集落の飲料水や恩恵に感謝して拝み、同時に集落の発展と住民の健康も祈願します。「ハーウガン」は『アカガー/赤川・ミーガー/新川・ビガーガー/比嘉川・ウガミ/御神(七瀧拝所)・アサウイミガー/朝折目川・アサギガー/アサギ川・ミンカーガー/ミンカー川・マザガー/真謝川・ハーグチガー/川口川・ヤマニーガー/山根川・ヒンバームイの拝所』の順序で祈願されます。海の神と山の神へ感謝する「ウンガミ祭り/海神祭」の早朝に「喜如嘉」の浜辺に下りてニライカナイの神を迎える「アサウイミ」の儀式に向かう直前、集落の神女達が必ず決まってこの井戸の水を飲む事が「アサウイミガー」の名称になったと伝わります。(アサギガーの石柱)(アサギガー跡)(ミンカーガー/ミーカーガーの石柱)(ミンガーガー/ミーカーガー跡)「ハーウガン」では各拝所で唱えられる次の祈願文句がありました。『○○ガーヌウカミガナシ グンドゥイチグヮチフチカナヤビティ アザガーヌミジハミヤビークトゥ クガニマクヌクヮーマーガターヤ健康 成功シミティウタビミソーリ』現在「ニーヤー/根屋」の拝所がある敷地にはかつて「神アサギ」があり、そこから北側に隣接した場所には神女が祭祀を行う際に使用された井戸があり「アサギガー」と呼ばれていました。この場所は現在「アサギガー」と刻まれた井戸跡を示す石柱が設置されています。更に「喜如嘉七滝/七瀧拝所」の北側には「ミンカーガー/ミーカーガー」の跡があり、井戸の痕跡はありませんが「ミンカーガー」と記された石柱のみ現在は残されています。その昔、この井戸は「喜如嘉集落」南西側の住民の飲料水や生活用水として重宝されていたと伝わっています。(マジャガー/真謝川)(ハーグチガー/川口川)(ヤマニーガー/山根川)「ハーウガン」の祈願文句は『○○川(川/井戸名または拝所名)の神様 この度一月二日になりました このように字の川々を拝んで感謝しておりますので どうか黄金マク(神言葉で喜如嘉集落の意味)の子孫は健康 成功させてくださいますようお願い致します』という意味となっています。「マジャガー/真謝川」と「ハーグチガー/川口川」は「イリナカジョウ/西仲門」の屋敷の下に二基並んで構えています。また「ヤマニーガー/山根川」は「山根」の屋敷内にある井戸です。「喜如嘉集落」には『道あきり』というウムイ(神唄)があります。『あきり あきり(あけよ あけよ) かみがみち あきり(神の道 あけよ) しどがみち あきり(勢頭の道 あけよ) ぬるがみち あきり(祝女の道 あけよ) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します) かみが たなばるに(神の 棚原に) いながにぶ うきてぃ(おなた様の柄杓 浮けて) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します)』(平良真順の銅像)(門中拝所)(門中拝所の祠内部)「喜如嘉公民館」の向かい側に「平良真順/1874-1972年」の銅像があります。『喜如嘉の四大偉人』と呼ばれた「平良真順」は医師として地域医療に貢献し、村議や県議として沖縄の政界で活躍した功績を讃え、1984年の十三回忌に際し「平良真順」の生家敷地に銅像が建立されました。また「平良真順」の生家の南隣に隣接する屋敷に「門中拝所」があり「マジャウイ/真謝上」の森に向けて建立されています。コンクリート製の祠内部にはビジュル石(霊石)とウコール(香炉)が祀られており、花瓶と湯呑が供えられています。「喜如嘉集落」には次のような『諸神御送りが節』という唄があります。『エイエイ あふの御神(エイエイ あふの御神) なーむとむかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて) やまぬ神(山の神) なーむとむとかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて)』(キザハターブク/喜如嘉田圃)(喜如嘉民謡の石碑)(琉球赤瓦屋根とシーサー)「喜如嘉集落」の北側には美しい田園地帯が広がっており、地元では「キザハターブク/喜如嘉田圃」と呼ばれて親しまれています。以前は稲やビーグ(井草)の栽培が盛んでしたが、近年は生花用のオクラレルカやフトイなどの花々の産地として知られています。また集落には「喜如嘉朝憲」作の『喜如嘉民謡』があり歌碑が建立されています。『一、めぐる山陰によ かくまりし喜如嘉村 前や海ひかえ ウマル吾村よ 二、ひんば森登てよ うし下い見りば 稲穂ぬみるく なうりゆがふよ 三、七滝ぬ水やよ 七ちから落てるよ 白糸ぬ眺み なうり美らさよ 四、八月んなたるよ 喜如嘉浜下りて 若者ちゃぬ恋路 浜ぬ千鳥よ 五、謝名に立つるよ 喜如嘉糸芭蕉や 喜如嘉美童ぬ てかしかきてよ 六、文化大宜味喜如嘉村 民主々義ぬ魁けよ 老いん若さんわらびんちゃまで 皆うり福々よ』
2022.11.16
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(喜如嘉龍宮/御天竜宮神)沖縄本島北部の西海岸にある大宜味村に「喜如嘉(きじょか)集落」があります。集落の最北西端を通る国道58号線沿いに大岩が鎮座しており「喜如嘉竜宮」の石碑が東側に向けられて建立されています。「御天竜宮神 一九八十年十二月十二日 旧十一月六日 申年末日」と彫られた石碑には三基の石造りウコール(香炉)が祀られており、それぞれアマミキヨとシネリキヨの琉球開闢の世の中(ウサチユー/御先の世)・琉球王国時代の世の中(ナカガユー/中の世)・廃藩置県から現在の世の中(イマガユー/今の世)を意味しています。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。昔から「龍宮神」の拝所では「ウンガミ/海神」を迎えて祀り、航海安全と豊漁を祈願して拝まれる聖域となっています。(喜如嘉龍宮の大岩)(喜如嘉板敷海岸の板干瀬の石柱)(喜如嘉板敷海岸の板干瀬)「喜如嘉龍宮」の大岩の東側に「喜如嘉板敷海岸の板干瀬」の石柱が建立されています。「喜如嘉集落」の西側の海岸線沿いには板干瀬(いたびし)という珊瑚礁特有の板状岩石が広がっており、炭酸カルシウムのセメント作用により砂や礫等が固まって出来たと考えられています。板干瀬はビーチロックとも呼ばれ「喜如嘉板敷海岸の板干瀬」は砂浜に沿って厚さ約6〜30cm、幅約30m、長さ約1kmに渡り帯状に板を重ねたような形状をしています。これ程の規模の板干瀬は沖縄県内でも珍しく大変貴重なもので、県指定天然記念物に昭和49年2月22日に指定されました。また、板干瀬は大昔の砂粒が固まって形成されているため、当時の「喜如嘉」の海岸の痕跡を留めるものとして地質学上非常に重要な資料となっています。(喜如嘉のフクギ・ミフクラギ/夫婦木)(マジャウイ/真謝上)「喜如嘉龍宮」の大岩から海岸線を通る国道58号線を北部に向けて約400m程進むと左手に「喜如嘉のフクギ・ミフクラギ」の木が2本寄り添って立っており、地元では「夫婦木」や「友達の木」と呼ばれています。西側のフクギ(方言名:フクジ)と東側のミフクラギ(方言名:ミーフックヮー)はそれぞれ推定樹齢80年以上で、長年に渡り強い潮風を浴びながらも良好な土壌で育っています。また、海岸線から「喜如嘉集落」に入ってすぐ右手に「マジャウイ/真謝上」と呼ばれる山があり、その麓に集落の旧家である「真謝門中」の屋敷があります。「マジャウイ」は「喜如嘉集落」の創建が伝わる山で『真謝上ファーファー』という小話があります。『マジャウイの頂上に翁と媼が住んでおり、ある日翁が臼の上に立って杵を差し上げてみると天まで届いた。それほどマジャウイの山は高く聳えていた。』という話が昔から伝承されています。(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)(大山墓/喜如嘉墓のフクギ群)「マジャウイ」の北側に「イシンザキバール/石崎バール」と呼ばれる丘陵地があり、その麓には共同墓や門中墓など40余の墓が集中する墓地となっています。墓地は後世(グソー)の世界だと言われ「イシンザキ」の山の麓にある石が突き出た場所が現世(サンカ)との境とされています。墓の四隅にはそれぞれ「ジーチの神/地の神」がいて、まずその神に祈願しなければならないとされています。四隅には線香を焚いてヤナムン(悪魂)が入ってこないように拝します。その後、墓に向かって左側に「ビザイの神/左の神」右側に「ニジリの神/右の神」が立っていて現世と後世との取り継ぎをします。更に、墓の入り口には「ウゾーバンヌ神/御門番の神」がいて墓の門番をしています。そこから中に入ると「アミダブトゥキ」という神がいて、その神は現世から取り継いだ事を「ウフヌシガナシ/大主加那志」と呼ばれる「後世の主」に伝えると言われています。(眞和地墓の石碑)(眞和地墓)(ガンヤー/龕屋)集落での葬式が行われる時に遺体を収めた棺を墓まで運ぶ輿を「ガン/龕」と呼び「喜如嘉海岸」沿いに「ガン」を保管する「ガンヤー/龕屋」があります。また「喜如嘉集落」には『墓作りの唄』があり、墓参りの際に御供物を供えて三線と共に歌われました。『チューヌユカルヒヤ(今日のめでたい日は) チチンヒーンマサティ(月日の日取りもよく) フンシマチガニヌ(立派なお墓の) ユエーサビラ(お祝い致しましょう) ナンザムイクサティ(銀の森を後にして) クガニムイクサティ(黄金の森を後にして) フンシマチガニヌ(立派なお墓の) ンケーヌチュラサ(向き構えの美しさよ) チチンヒチヂュラサ(土もならされて美しい) イシンタチヂュラサ(石も立派に組まれて美しい) ユユヌユートゥツトゥミ(世々代々) シソンサカティ(子孫が栄えますよう) マカヤカヤブチャ(茅葺きの家屋は) カリヤドゥルヤユル(仮宿でしかない) フンシマチガニヤ(立派なお墓は) ユユトゥマデ(永久の住み家である)』(喜如嘉貝塚跡)(故寺内博之碑)(浅野綾子の歌碑)「喜如嘉集落」の北西側にある海岸線沿い一帯は「喜如嘉貝塚」と呼ばれ、標高3〜5mの海岸砂丘に形成された今から約1700年前の先史遺跡です。沖縄貝塚時代後期の土器・石器・生活道具・貝製品や、先人が食料にしていた貝類や獣魚骨などが出土しています。現在、この地は「大宜味村農村環境改善センター」の駐車場となっており「故寺内博之碑」と「浅野綾子の歌碑」が建立されています。1945年4月7日「喜如嘉」の浜辺に日本軍特攻隊の寺内博之少佐(当時20歳)の遺体が漂着しました。「喜如嘉」の人々が米軍機を避けながら日暮に遺体を引き上げて埋葬しました。浅野綾子さんは寺内少佐の妹で「喜如嘉」の人々に感謝して詠んだ次の歌が歌碑に刻まれています。『人篤き 人ら住めりと この岸に 導かれけむ 兄がからかも』(山之口貘の歌碑)(芭蕉布会館の芭蕉の木)(芭蕉布会館裏の井戸)喜如嘉公民館の西側に「芭蕉布会館」があり、沖縄で最も古い織物である「芭蕉布」の後継者育成施設となっています。この施設には那覇区(現那覇市)東町大門前出身の詩人「山之口貘/やまのくちばく」の詩の一つである『芭蕉布』の歌碑があります。この歌碑は山之口貘の長女の山口泉さんの書により次のように刻まれています。『芭蕉布は 母の手織りで いざりばたの 母の姿をおもい出したり 暑いときには 芭蕉布に限ると云う 母の言葉を おもい出したりして 沖縄のにおいを なつかしんだものだ』また「喜如嘉集落」は昔から芭蕉布の産地として知られており「芭蕉布会館」周辺には多数の芭蕉(バナナ)の木々が生い茂っています。更に集落発祥の山と伝わる「マジャウイ」の東側麓に建てられた「芭蕉布会館」の裏には井戸があり香炉(ウコール)が設置され拝されています。(喜如嘉小学校発祥の地の石碑)(移転した喜如嘉小学校の校門)(ウードゥーシ石敢當/北斗七星を刻んだ石敢當)「喜如嘉公民館」の敷地に「喜如嘉小学校 発祥の地 創立明治二十一年四月一日」と彫られた石碑が建立しています。「喜如嘉小学校」は現在の「喜如嘉公民館」がある場所に設立され、時代と共に生徒の数が増えた事で昭和22年に集落の「ハサマ/波佐間」地区に移転しました。その後、村内小学校の合併により平成27年をもって閉校となりました。また、公民館の東側には北斗七星を意味する七つの漢字が刻まれた石敢當があります。この石敢當は沖縄県内では本部町に三基と「喜如嘉」に一基しか残されていない大変珍しく貴重な石敢當で、人間の「寿夭禍福(長寿/短命/災難/幸福)」を治める北斗七星を表す祓いの鬼偏漢字七文字が記されています。「生」を司る南斗六星に対して北斗七星は「死」を司ると言われ、北斗七星を信じて祈願すれば病気が治り、災難を回避し、幸運が授けられ、願いが叶うと信じられ、この北斗七星の石敢當は鬼門とされる丁字路の突き当たりに魔除けとして設置されています。(アミガー/浴川)(テーラガー/平良川/ハブジョーガー)北斗七星を刻んだ「ウードゥーシ石敢當」の東側に約50mの場所に「アミガー/浴川」と呼ばれる古井戸があります。半円状に積まれた石積みは現在も保存状態が良い形で残されています。この井戸の近くに住む古老によると「喜如嘉集落」には「アミガー」と呼ばれる川が実際に流れていますが、集落のムラガー(村井戸)の事を総じて「アミガー」と呼び、昔は農作業帰りの手洗いや水浴びの場、また洗濯場として使用されていたと伝わります。更に「アミガー」の井戸から東側に約80mの場所に「テーラガー/平良川」という古井戸があります。「平良家」の屋敷にある井戸で別名「ハブジョーガー」とも呼ばれ、戦前は水浴びや洗濯の場として重宝されていました。「テーラガー」は現在も水が湧き出ておりポンプで組み上げられています。
2022.11.11
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(ヒンバームイ/ヒンバー森)沖縄本島北部のヤンバル(山原)の森が広がる西海岸線沿の「大宜味村(おおぎみそん)」に「喜如嘉(きじょか)」という集落があります。この集落の中央部に位置する「ヒンバームイ/ヒンバー森」と呼ばれる小高い森は、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地になった場所でも知られる丘陵です。「ちむどんどん」の第9話では青柳和彦宛に出すはずだった手紙を小学生の比嘉暢子が「ヒンバームイ」の中庭ベンチで読み返し、東京に行きたくない本音の気持ちとお母ちゃんに難儀させたくない心の葛藤を描いています。更に、第15話では卒業を控えた高校3年生の暢子が眞境名商事への就職を断った後に「ヒンバームイ」に来て、何か心を燃やせるような打ち込める一生懸命になれる物が見つからない、モヤモヤした気持ちをお母ちゃんに打ち明けるシーンが描かれています。(ヒンバームイ麓の鳥居)(ヒンバームイの御通し拝所)(ヒンバームイ頂上への石段)「メームイバール/前森バール」と呼ばれる「ヒンバームイ」の北西側の麓にある喜如嘉地区農産物集荷施設・販売施設「喜如嘉共同店」の脇に鳥居があり、頂上への長い石段が続いています。この鳥居の下には高齢者や足が不自由な方が森の頂上にある拝所へ遥拝する「御通し拝所」の祠がありウコール(香炉)が祀られています。「喜如嘉集落」が一望できる絶景が広がる「ヒンバームイ」の頂上にある広場は集落の様々な年中行事が行われる場所で、旧七月のお盆が終わってから最初の亥の日には「ウンガミ祭り/海神祭」と呼ばれる行事が「喜如嘉集落」の各門中の守り神である「アジ神」により行われます。この「ウンガミ祭り」は北東側に隣接する「謝名城(じゃなぐすく)集落」から伝わった祭祀で、農作物の豊作と漁獲物の大漁祈願と同時に、山の神と海の神へ感謝する祭で戦前まで盛大に催されていたと伝わります。(ヒンバームイの広場)(ヒンバームイのカミヤー/神屋)(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)「ヒンバームイ」の頂上広場には「カミヤー/神屋」があり、祠の内部には「ウンバール/上の部落」と「サンバール/下の部落」のヒヌカン(火の神)が二柱祀られています。これに加えて森の東側麓にあったノロ(祝女)・ニーガン(根神)・カミンチュ(神人)が神事を執り行う「神アサギ」が昭和初期にこの拝所に合祀され、現在は3組のヒヌカン(火の神)のビジュル石(霊石)と3体のウコール(香炉)が祀られています。「ウンガミ祭り」は勢頭神(男神)のカーカー(太鼓)の合図で始まり、神女達と集落民が拝所への階段を登って行きます。頂上に着くとまず拝所のヒヌカンを拝み、次に「喜如嘉七滝」の拝所と「根謝銘グスク」の拝所の方向に向かってウトゥーシウガン(御通しの御願)を行います。神女達は白衣装に白鉢巻でクバ扇を持ち、ウムイ(神唄)に合わせてゆっくり円陣踊りをしたと伝わっています。(ヒンバームイの手水鉢)(ヒンバームイの灯籠跡)「ウンガミ祭り」の儀式に参加する「ウンバール根神」は屋号「ナハダ」の門中から「サンバール根神」は屋号「真謝」の門中から出ており、更に「アジ神」として集落の各門中から18人の神女が祭祀に出席しました。かつて「喜如嘉五人神」と呼ばれたカミンチュ(神人)が存在し「仲田/ナハダ・入ん桃/イリントー・泉屋/イジミヤー・新屋敷/ミーヤシキ・尻屋/シリヤー」の五箇所の屋号の門中から出る神役を指していました。戦前の「ウンガミ祭り」には沖縄本島の各地から「喜如嘉五人神」と関係した人達が拝みに来たと伝わっています。現在では「喜如嘉五人神」についての由来や詳細が残されていないため伝説の五人神として語り継がれています。「ヒンバームイ」の広場には古くから残る手水鉢が現存し、近くにはかつて灯籠として使用されていたと考えられる石造りの土台が残っています。(ヒンバームイ頂上の鳥居)(ヒンバームイ西側丘陵の石碑)(ヒンバームイの池宮城積宝の歌碑)「ヒンバームイ」の頂上広場の東側には鳥居があり神域への出入口となっています。また、この鳥居と反対側にある広場西側の丘陵上部には三体の石碑が建立されています。この石碑の詳細は謎のままですが、古くから「喜如嘉集落」のカミンチュと集落民により「ヒンバームイ」で執り行われていた祭祀と深い関わりがあると考えられます。更に「ヒンバームイ」の広場西側には「池宮城積宝の歌碑」が鎮座しています。「池宮城積宝(1893-1951年)」は那覇市久米村出身の歌人/小説家で「放浪詩人」と呼ばれた各地を短歌行脚した人物で、小説「奥間巡査」や「琉球歴史物語」などで知られています。この歌碑には次のような詩が彫られています。『ああ喜如嘉 かの山村に 生れなば 少しこの世が 楽しくありけむ』(ニーヤー/根屋)(ニーヤー/根屋の拝所)「ヒンバームイ」の東側に「ニーヤー/根屋」の建物があり「上世・中世・今世」「ヒヌカン/火の神」「女神・男神」が祀られています。「上世」は「ウサチユー/御先の世」でアマミキヨ・シネリキヨの琉球開闢の世の中、「中世」は「ナカガユー/中の世」で琉球王国時代の世の中、「今世」は「イマガユー/今の世」で廃藩置県から現在の世の中をそれぞれ意味しています。「女神」は「イナグ神」と呼ばれ「男神」は「イキガ神」と言われ、一対として結びつき存在する神を示します。1986年(昭和61)には明治末期までノロが祭祀を行う「神アサギ」が建っていた場所に「ニーヤー」が建立されました。この周辺地域には蔵が多数あった事から「クランバール/蔵バール」と呼ばれると同時に「アサギバール」とも言われており、当時の公民館である「ムラヤー/村屋」もこの地にありました。(ニーヤー/根屋のヒヌカン/火神)(ニーヤー/根屋の女神と男神)「喜如嘉集落」の「神アサギ」は1713年に琉球王府に編纂された『琉球国由来記』に次のように記されています。『神アシアゲ 喜如嘉村 稲穂祭之時、五水3合・神酒一自按司、五水六合・神酒壱惣地頭、神酒一喜如嘉地頭、同二五水三沸・魚四斤同村百姓。同大祭之時、五水三合・魚一斤・神酒一按司、五水六合・魚一斤・神酒一惣地頭、同三・魚三斤同村百姓。束取折目之時、神酒三・魚四斤同村百姓。海神折目之時、五水五合按司、同五合・魚一斤惣地頭、神酒二・五水二合・魚四斤同村百姓。同折目晩、神酒一宛惣地頭並喜如嘉・大宜味百姓、餅一器宛・魚六斤同二ヶ村百姓。芋ナイ折目之時、神酒二・五水二沸七合・蕃薯十四器・魚四斤喜如嘉村百姓、供之。城巫祭祀也。』(キザハグシク/喜如嘉グスクの北側入口)(キザハグシク/喜如嘉グスクの森)(キザハグシク/喜如嘉グスクの森)「ヒンバームイ」の東側に「キザハグシク/喜如嘉グスク」の北側入口があります。「喜如嘉集落」がある沖縄本島北部の山原地域は歴史上「今帰仁グスク/北山グスク」と深い関係があります。集落では「鎮守の森」と呼ばれている丘陵にある「キザハグシク」は今帰仁の勢力が北部を統一する古い按司時代、もしくは「中山」が三山(北山・中山・南山)を統一する琉球三国時代の頃に築城が開始されたと考えられており、戦乱が終わった事により途中で「キザハグシク」の築城が中止になったと伝わります。その昔、グスク丘陵の森には当時の戦の頃と思われる人骨や武具類が多数散乱しており「喜如嘉集落」の古老の言い伝えによると、そこで発見された当時の刀は戦前まで竹細工用に使用されていました。また「キザハグシク」の裏山の斜面には洞窟が洞られ、子孫の各門中が戦で亡くなった先祖の墓を設け供養をしていたとの伝承が残っています。(サンホーチ/下幸地門中の拝所)(サンホーチ/下幸地門中の拝所/祠内部)「キザハグシク」の北側丘陵に「サンホーチ/下幸地門中」の拝所があり、コンクリート製の祠内部は3つに仕切られた仏壇にウコール(香炉)・花瓶・湯呑が3組づつ祀られています。「喜如嘉集落」の祭祀は「城ノロ」の管轄ですが、集落にはニーガン(根神)やカミンチュ(神人)が存在しており『根神御送りが節』と呼ばれる唄が祭祀行事の際に歌われていました。『勢頭神の 御許し拝がて(勢頭神の 御許拝んで) 島根神 越い召しょうち(島根神 越え給いて) しまやじく 御許拝で(島ヤジク〈神女〉御許拝んで) 大勢頭御許拝で(大勢頭の御許拝み) つーふー あふね御許拝で(つーふー 神の御許拝み) 赤ちゃ 黒ちゃ(赤馬 黒馬) 御乗込み召しょうりば(御乗り込み召し給えば) いちゃぞうに かんさぞうに(板門 金門に) くみられて(籠められて) ぐくらくに 召しょうりは(極楽に 参り給え)』
2022.11.06
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