カテゴリ未分類 0
全9件 (9件中 1-9件目)
1
(健堅大親の墓/健堅之比屋御墓所)沖縄本島北部「本部町」の西側で「瀬底島」の東側に「健堅/けんけん集落」があります。この集落は沖縄の方言で「キンキン」と呼ばれており、国道449号(本部町南道路)の「瀬底大橋」の入り口付近に「健堅大親の墓」があります。この墓は「健堅之比屋御墓」や「キンキンヌヒャーの墓」とも言われています。この墓がある「健堅集落」は琉球王府時代からの古い村で、1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切より伊野波間切を創設した際の11村の内の1つとなっています。また、本部町で最初に文献に出てくるのが「健堅大親/キンキンウフヤ」で、琉球の正史と言われている「球陽」巻一察度45年(1394年)の条には『本部郡健堅大親給馬中華人似蒙招撫/もとぶぐんきんきんうふやうまをちゅうかじんにきゅうしもってしょうぶをこうむる』と記されています。(健堅大親の墓への階段)(健堅大親の墓のウコール)(健堅大親の墓の石碑)「久米島」の「堂之大親/どうぬうふや」と親交を結んでいた「健堅大親」が島を訪れた際、暴風の悪天候で漂流した中華人を「健堅村」に連れ帰り、中国に帰る為の船と良馬を与えた事から、中国の皇帝は琉球王国を通じて神に奉献する幣帛(へいはく)と石碑を贈り褒賞したとの記述が「球陽」に残されています。ちなみに、この文献から中国貿易が行われていた「察度王代」の14世紀末には、琉球には相当な数の集落が形成されていたと考えられます。「健堅大親」の墓がある丘陵一帯は「駈ヶ原/カキバル」と呼ばれており、この名称は「健堅大親」が中華人に馬を与えた事に由来していると伝わっています。この墓のウコール(香炉)には『奉納 鳳姓一門』と刻まれており、石碑には『鳳姓元祖 父 松寿 五十三才 健堅比屋御墓所 明治三十六年吉日 幼名 次郎 同年迠三百六十二年 次男 亀寿』と彫られています。(健堅集落の古島周辺)(アメラグスク)(アメラグスク/健堅之比屋御屋敷跡の入り口)(健堅之比屋御屋敷跡/井戸跡)「健堅集落」の主要な拝所がある「ウインバーリ/上バーリ」の北東側約700メートルの位置は集落の「フルジマ/古島」と呼ばれています。古老の話によると「健堅村」は北側に隣接する「辺名地」から移動し「ヒナンジャー/辺名地川」(大小堀川上流)南側の大地に集落を形成したと言われています。この「フルジマ」には「健堅大親」の屋敷跡や井泉がありましたが「ベルビーチゴルフクラブ」の建設により、現在は拝所として「アメラグスク」に移設され祭祀の対象となっています。「健堅集落」の北側にある「アメラグスク」は標高50〜60メートルの丘陵上にあり、石垣遺構などは確認されておらずグスクの調査が困難となっています。しかし「アメラグスク」は海や船舶の管理や監視の為に築造されたと言われており、12〜13世紀に「今帰仁グスク」が築城された為に途中で放棄されたグスクであると伝わっています。(アメラグスク拝所)(アメラグスク拝所の石碑)(アメラグスク拝所の祠内部)(健堅之比屋御屋敷跡の石碑)(健堅之比屋御屋敷跡/移設された井戸跡)「アメラグスク」の西側にはグスクの入り口があり、階段を登ると「アメラグスク拝所」があります。拝所の石碑には『アメラグスク拝所 建立 平成十一年二月十日 旧十二月二十四日』と刻まれています。拝所の祠内部には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに、この拝所の敷地には「フルジマ」から「健堅大親」の屋敷跡と井戸跡が移設されており、石碑には『健堅之比屋御屋敷跡 拝所』と彫られており、石碑には向かって左側には井戸跡と『鳳姓健堅御屋敷』と記されたウコールが設置されています。「健堅村」は本部間切の「名島/なじま」と呼ばれる一村で、地頭代(地頭の代官)として地方行政を担当した人物は「キンキンヌペーチン/健堅親雲上」と呼ばれていました。地頭代職を務めた家は現在でも「キンキンヤー/健堅屋」と言われています。(ニーヌファ/子の方)(ニーヌファの神屋内部)(ニーヌファのウコール)(ニーヌファのヒヌカン)「健堅集落」の東側に航海安全を祈る「ニーヌファ/子の方」と呼ばれる拝所があります。女神が祀られていると言われている「ニーヌファ」は旧暦の7月19日〜24日に執り行われる集落の年中行事である「シヌグイ」で拝されています。最終日の24日に実施される「ウワイシヌグ」では、まず最初に「ニーヌファ」の拝所に行きます。神屋では神役の「ニガミ/根神」が3基のウコールに2ヒラ(1ヒラは6本)づつのウコー(御香/沖縄線香)を立てます。次に共に参加する一般の婦人達も各々2ヒラを「ニガミ」に手渡しウコールに立ててもらいます。その後「ニガミ」を中心にして全員で手を合わせます。「ニーヌファ」に祀られている2基のウコールには、それぞれ『村元根神支』『如女神支』と記されており「ヒヌカン/火の神」の丸型のウコールには『国火山岳』と彫られています。(シジマ乙樽本墓)(竜宮神/お宮の鳥居)(竜宮神/お宮)(竜宮神/お宮の拝所)(竜宮神/お宮の拝所)「健堅大親の墓」の北東側約100メートルの海岸沿いに「シジマ乙樽本墓」と記された石碑と墓があり、2基のウコールと花瓶が設置されています。三山時代に今帰仁グスクの南側に「志慶真村/シジマムラ」という集落があり「乙樽/ウトゥダル」という絶世の美女がいました。神様のように気高い「乙樽」は「今帰仁御神/ナキジンウカミ」と呼ばれていました。時の今帰仁の主(王様)は「乙樽」を城内に召し上げて寵愛し、王妃が産んだ今帰仁王子を「乙樽」は我が子のように可愛がったと伝わっています。さらに「健堅集落」の東側にある「浜崎漁港」には航海安全と豊漁を祈る「竜宮神」の拝所があり、住民からは「お宮」の名称で親しまれています。「崎浜漁港」は古くから中国や薩摩への船が停泊した場所で、漁港の入江や大小堀川の河口は「ヤンバル船/山原船」が出入りした津(港)として知られて賑わっていました。
2023.08.14
コメント(0)
(神アサギ)沖縄本島北部にある「本部町」の西側に「健堅/けんけん集落」があり、方言では「キンキン」と呼ばれています。「健堅集落」の北部には西側に流れる「大小堀川/ウフグムイガー」を境に「辺名地集落・大浜集落」に接しています。さらに南部には「先本部集落」西側は東シナ海に面し、東部には「健堅森/キンキンムイ」が広がっています。「健堅」の部落は4つの集落で構成されています。山手側に「健堅/キンキン(1班)」と「石川/イッチャファガー(2班)」海側に「浜崎/ハマサキ(3班)」と「駈ヶ原/カキバル(4班)」があり、最も古い集落は「本字/ホンアザ」と呼ばれる「健堅」で、ムラの主要な祭祀行事はこの集落で執り行われています。「健堅集落」は琉球王府時代から存在する古い村落で1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切から伊野波間切を創設した時の11村の1つでした。(神アサギの入り口)(根所火神の祠)(イッチャファヤー/石嘉波家)1班の「健堅集落」は更に4つの地区に分かれており、1区は「ウィンバーリ/上バーリ」2と3区が「ナカンバーリ/中バーリ」そして4区が「シチャンバーリ/下バーリ」と呼ばれています。この「シチャンバーリ」は新しく出来た地区であるため「ミージマ」とも言われています。「ウィンバーリ」は集落の丘陵の高台に位置しており、東側の上方にある「神アサギ」では「健堅」の年中祭祀の最も主要な祭場となっています。この「神アサギ」は当初、集落の草分け「ニーヤ/根屋」である「イッチャファヤー/石嘉波家(現・仲宗根家)」の敷地内にありましたが、現在は南東側に約50メートルの場所に移設されています。「神アサギ」の東側後方には「根所火神」の祠が隣接しており、祠内部には「女神・男神・火神」が祀られています。(ウイヌウタキ/上の御嶽)(ウイヌウタキの入り口)(ウイヌウタキの祠)(ウイヌウタキの祠内部)1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根所火神 健堅村 麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。稲大祭之時、仙香 巫、花米五合 百姓、神酒弍 百姓。竈廻・ミヤ種子・アラザウリ・向ザウリ・畔払之時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒壱 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されており、更に『神アシアゲ 健堅村 麦・稲四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、仙香 巫、花米九合・五水五合・神酒壱・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒二・肴壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』との記述があります。「神アサギ」東側の森の中に「ウイヌウタキ/上の御嶽」があり、コンクリート製の祠が建立されており、霊石と二器の石造りウコール(香炉)が祀られています。(タマウドゥン/玉御殿/健堅大親御願所)(タマウドゥン/玉御殿/健堅大親御願所)「神アサギ」の北西側に「タマウドゥン/玉御殿」の神屋があり「キンキンヌヒャー/健堅大親」の『御先中世健堅比屋 父 松 幼名 次郎 次男 亀寿 子之神 夫 太郎 妻 オミチル』と記された「グヮンス/元祖(位牌)」が祀られています。更に「関帝王」の図像、観音像、8器のウコールが設置されています。この「タマウドゥン」は「健堅御願所」とも呼ばれており、最近では「お宮」の名称でも知られています。「健堅大親/健堅之比屋」は「察度王」の時代(1350-1395年)に「健堅大屋子」の役職を務めた人物です。「健堅大親」は誠実で人情深く、村人から大変尊敬されていました。1743-1745年に編纂された琉球王国の正史である「球陽」には、久米島で難破して漂着した中国船に乗っていた中国人を助け、船と名馬を与えて無事に中国に返し、後に中国の皇帝から琉球王国を通して絹と石碑が送られたとの記述が残されています。(ウガンヤマ/キンキンウタキ)(ウガンヤマ/キンキンウタキの入り口)「タマウドゥン」の南東側約100メートルの場所にある森は「ウガンヤマ/御願山」や「ウガン」と呼ばれ、普段人々が立ち入ってはならない聖域とされています。「キンキンウタキ」とも称される集落の「クシャティ/腰当て(拠り所)」であるこの御嶽は旧5月9日の1日だけは草刈り、樹木の手入れ、周囲の清掃を「健堅集落」の住民により行われています。「琉球国由来記」の『イシヤラ嶽 神名 ワカマツノ御イベ 健堅村』に相当する御嶽であると考えられ『麦・稲穂祭、且、山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒二肴一器 百姓、供之。同大祭之時、仙香 巫、花米五合、神酒二宛 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。(マツガーヤー/松川家)(マツガーヤーの位牌)(マツガーヤーのウコール)(マツガーヤーのヒヌカン)(マツガーヤーの図像)「健堅集落」の北側に「マツガーヤー/松川家」の旧家があり「ヒナジドゥンチ/辺名地殿内」とも呼ばれています。「健堅集落」は草分け旧家の「ナナチネー/7軒」から始まったと言われており「マツガーヤー」はその内の1軒であると伝わっています。更に土地の言葉で「健堅」の「タチハジマイ/立始め」の家として知られています。祀られている「グヮンス/位牌」には『渡久地 栄 長男 三良渡久地 次男 仙太郎渡久地 三男 太良渡久地 栄 妻 マツ 三良 長女 マツ』と記されています。「マチガーヤー」と共に「ナナチネー」として挙げられる旧家は「キンキンヌヒャー・キンキンウギドー・マンナヤー・イッチャファヤー・ヤマタイヤー・メーナケーマ」で、この7軒は「ムカシグヮンス/昔元祖」と呼ばれ、集落の祭祀が執り行われる旧家として大切にされています。
2023.08.04
コメント(0)
(上のウティラグンジン)沖縄本島北部の「本部町」に「辺名地/へなじ集落」があり、集落の西側丘陵に「辺名地洞穴」があります。この洞穴は「ウティラグンジン/ウティラグンギン」と呼ばれ、昔から「辺名地」の人々が「ムラシーミー/村清明」の際に拝してきました。洞穴は2箇所あり「辺名地集落」に近い方が「上のウティラグンジン」で、海沿いの「大浜集落」に近い方は「下のウティラグンジン」と呼ばれています。「辺名地集落」の「ムラシーミー」は集落の草分け旧家である「松田門中」の「マンナルンチ/マンナドゥンチ」と「松田門中」の分家である「ヘナジヤー」さらに「崎本部集落」から移り住んだ「渡口門中」の3組に分かれて執り行われています。「ムラシーミー」は「シマ建て」と呼ばれる「辺名地集落」の草分け祖先を拝する祭祀であり、かつては村の全ての住民が参加して祭祀が営まれるのが原則であったと言われています。(上のウティラグンジンの洞穴)(下のウティラグンジン)(下のウティラグンジンの洞穴)(下のウティラグンジンのウコール)「辺名地集落」の西側にあるサトウキビ畑を通り抜けると「ウティラグンジン」の森が広がり、県道244号線(渡久地山入端線)沿いの小高い丘陵に「上のウティラグンジン」と「下のウティラグンジン」の洞穴があります。「辺名地集落」の神役はノロ(祝女)1人とネガミ(根神)3人の計4人の女性を中心に祭祀が執り行われて来ましたが、現在はネガミの1人(ヘナジヤー)が数名の支持者と共に単独で祈願を行なっています。この単独行動の理由は「辺名地」に居住していないユタの判断を信じていると言われており「マンナルンチ」と「ヘナジヤー」の2つの旧家の葛藤が深刻化しているそうです。「ムラシーミー」の際、本来は昔から「下のウティラグンジン」のみ拝されていましたが、集落の古老がまだ幼い頃に見知らぬユタの判断により「上のウティラグンジン」を開いて祀る指示が出されたそうです。現在は「上のウティラグンジン」を拝み、次に「下のウティラグンジン」を拝するの順序となっています。(崖下の墓に向かう丘陵)(崖下の墓/風葬墓)(崖下の墓/正面の門石)(崖下の墓/向かって右側のウコール)(崖下の墓/内部の厨子甕)「下のウティラグンジン」の東側にある崖の中腹に風葬墓があり「崖下の墓」と呼ばれています。「ムラシーミー」ではこの古墓も同時に拝されており「辺名地集落」の先祖に関する人物の墓であると考えられています。墓の前はやっと1人がお供物を捧げ拝む事しか出来ない所狭い空間で、その脇は急な深い崖となっています。この風葬墓は珊瑚塊を人の背丈程の高さに積み重ねた壁に囲まれています。墓の正面にはジョウイシ(門石)を囲むシミイシ(隅石)やジョウガブイ(門冠り)の構造が見られ、石造りのウコールが設置されています。また、正面に向かって右側にもウコールが設置されてあり、ジョウイシとして多数の石が積み上げられてあります。石積みの内部には4基の厨子甕が設置されており、床には散乱している人骨が確認出来ます。「ムラシーミー」の際には墓に餅、天ぷら、蒲鉾などの重箱をお供えし線香を炊き合掌し、その後はあの世のお金である「ウチカビ/打紙」を燃やして拝されています。(マンナルンチ/マンナドゥンチの屋敷)(ナカヌウタキの森)(ナカヌウタキの入り口)集落の祭祀を執り行うノロを出す「マンナルンチ」の屋敷は「ジョーバル」とも呼ばれ「辺名地公民館」の南側に位置しています。この旧家は集落の草分けの家で「ニーヤー/根屋」としても知られ「ウッチガミ/掟神」という女性神役および男性神役も1人この家から出ています。かつてノロは南西側に隣接する「健堅集落」の祭祀にも関与していましたが、現在は「辺名地集落」の祭祀のみ執り行っています。「マンナルンチ」の「ニーヤー」にあるお宮は旧暦7月19日から24日の「シヌグイ」で執り行われる「ウフウムイ」と「ウンナレート神酒興し」拝されています。「マンナルンチ」の屋敷から西側に約100メートルの場所に「ナカヌウタキ」と呼ばれる御嶽が小高い森の中にあります。この森は「シニグイバル」の名称でも知られており、現在は一帯が土地改良が施されて畑が広がっていますが、昔からの拝所はこの森に大切に残されています。(ナカヌウタキの合祀拝所)(金満嶽の拝所)(土帝君の拝所)(ナカヌウタキのヒヌカン)「ナカヌウタキ」に通じる階段を上ると森の中に広場があり3つの拝所が合祀されています。「金満嶽」と刻まれた石碑とウコール(香炉)が祀られた拝所は「辺名地集落」の「フルウガミ」と呼ばれる御嶽がかつてあった方向に向けて設置されています。また、土地神である「土帝君」の石碑とウコールは土地改良が行われた集落の西側に向いており、さらに3体の霊石が設置されたヒヌカンの拝所は集落の中心部に向いています。「ナカヌウタキ」は旧暦1月3日の「元日御願」で拝され米2升・酒3合・線香3束が供えられ、旧暦4月15日の「4月ウマチー」では麦2升・線香15束・マキが供えられます。また、旧暦5月9日の「ウフウガン/大御願」の際には酒1升・麦2升・線香・ミキを作る麦粉・マキを供えて拝されています。(ヒナンジャーの拝井)(ヒナンジャーの拝井/入り口)(ヒナンジャーの拝井)(ヒナンジャーの中流)「辺名地公民館」の南東側に「ヒナンジャー」と呼ばれる川が流れています。公民館に隣接する場所に「ミャークニー散策道」と刻まれた石碑があり、そこから丘陵の森を下った麓に「ヒナンジャー」があります。この川沿いの階段の先には拝井が残されており、水は枯れていますがウコールと考えられてる石板が設置されています。「ヒナンジャー」は「古御嶽」と呼ばれるかつて集落の御嶽があった場所に近く「辺名地集落」の先人が貴重な水の恩恵を受けた川であると考えられます。ちなみに「ヒナンジャー」は「大小堀川」の中流を指し、下流は「ウフグムイガー」と呼ばれています。散策道の名称である「ミャークニー」は「宮古根」と表記し「本部宮古根/ムトゥブナークニー」という沖縄民謡があります。「スクミチ/宿道」をテーマにした唄であると同時に「モーアシビー/毛遊び」を唄った沖縄民謡としても知られています。『渡久地から登て 花の元 辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部』
2023.07.27
コメント(3)
(ムラウチの合祀所)「辺名地/へなじ集落」は方言で「ヒナジ」と呼ばれ、沖縄本島北部「本部町/もとぶちょう」の「八重岳」の西側山麓から東シナ海に向かって緩やかに広がる丘陵地に位置しています。集落の西側は「大浜・谷茶」の台地に続いており、北側は低地が広がる「渡久地・東」と丘陵が連なる「大嘉陽」に隣接しています。集落の南側には大小堀川が流れており、その中流「ヒナンジャー」と下流「ウフグムイガー」は隣接する「健堅/けんけん集落」との境界になっています。「辺名地集落」は内陸から「喜納/キンナー」「桃山/トウヤマ」「辺名地本字/ヘナジホンアザ」の3つに分かれ、そのうち中心的な部落は「辺名地本字」となっています。この「辺名地本字」地区は東シナ海を見下ろす丘陵の最西端に位置し、本部半島の山並みを背景に「伊江島・水納島・瀬底島」の離島や「美ら海水族館」で知られる「海洋博公園」を眺望する景勝地となっています。(五穀蔵神の祠)(古御嶽/フルウガミの拝所)(地頭神/村火神の拝所)(三釜/五釜/七釜の拝所)「辺名地本字」は「ムラウチ/ムラ」と呼ばれ一班と二班に分かれており、一班は「ヒチャクブ/下窪」二班は「ウイグブ/上窪」に区分されます。また「ヒチャクブ」を「へー/南」「ウイグブ」を「ニシ/北」と言う事もあり、これは旧6月25日に行われる綱引きの単位となっています。「辺名地公民館」は「ヒチャクブ」に位置しており、公民館の南東側にある高樹齢のデイゴの大木の下には集落の合祀拝所が設けられています。コンクリート製の祠内部には3基のウコール(香炉)が祀られ「五穀蔵神」と刻まれた石碑が建立されています。この祠に向かって左側には「古御嶽」と記された石碑があり、霊石とウコールが設置されています。かつて「古御嶽」は現在の御嶽から南側に位置しており住民からは「フルウガミ」と称されています。「古御嶽」の拝所に向かって左側には「地頭神/村火神」の石碑とウコールが祀られています。さらに「五穀蔵神」の前方には「三釜/五釜/七釜」と刻まれた石碑が建立しており、かつての窯元のヒヌカン(火の神)がこの地に合祀されていると考えられます。(辺名地公民館)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神)(ヒナジンヤー)(神アサギ)「ヒチャクブ」の中でも「辺名地公民館」周辺は「プシマ/大シマ」と呼ばれています。「ムラウチ」で最も古い部分であるとされる「プシマ」には集落の主要な祭祀場や旧家が集中しています。公民館の西側に「ニードゥクルヒヌカン/根所火神」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根所火神 辺名地村 麦・稲四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。竈廻之時、仙香 巫、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子ノ時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 巫、花米五合宛・五水五合宛 百姓。畔払之時、仙香 巫、花米五合・五水三合 百姓、供之。瀬底巫・辺名地根神祭祀也。』と記されています。公民館に隣接した場所に「ヒナジンヤー」と呼ばれる旧家があり「ニガミ/根神」はこの家から自出します。さらに公民館に隣接して旧家「並里家」の「神アサギ」が建立されており「琉球国由来記」には『神アシアゲ 辺名地村 麦・稲四祭併柴指・芋祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。』と記されています。(ウルン/御殿)(御殿改築記念碑)(ウルン/御殿の内部)(ウルン/御殿のヒヌカン/火の神)「辺名地公民館」から「神アサギ」を中心とした周辺には「辺名地遺跡」が広がっています。遺跡にはグシク時代の土器や陶磁器等が散布していた事から原始時代の遺跡であると言われ、古くから部落が形成され人々が居住していた事が認められています。1635年に近世琉球における各村の石高と田畑を間切ごとに集計した古文書「琉球国高究帳」には本部の8村が「今帰仁間切」に属し、その中に「辺名地村」が記されています。また「仲村家/屋号カラヤマヤー」の辞令書によると、1604年には「仲村家」から「辺名地村」の村長助役である「目差役人」が命じられていた記述があります。「神アサギ」に隣接して「ウルン/御殿」が建立されており「御殿改築記念碑」と「神社改修記念碑」があります。「ウルン」の内部には石造りウコール(香炉)と陶器ウコールが3基づつ祀られており、それぞれにクバ扇と稲穂が飾られています。さらに向かって左側には「ヒヌカン/火の神」があり、こちらにも稲穂が祀られています。(タキサン/ウタキサン)(メーヌファ)(ミャークニー散策道の標識)(ミャークニー散策道)「辺名地公民館」の北側約200メートルの位置に「タキサン/ウタキサン」と呼ばれる森があります。「琉球国由来記」に記されている『西森 神名 コバヅカサノ御イベ 辺名地村』に相当すると考えられ『稲・麦四祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。山留ニ竹木伐枯、為作物祈願之時、仙香 巫、花米五合・神酒二 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記述されています。旧5月9日に執り行われる「ウフウガン/大御願」の祭祀には、集落の人々は神役と共に「タキサン」に登り祈願します。ただし男性は「メーヌファ」の広場から奥には入れない男子禁制の御嶽となっています。「辺名地集落」の古老によると、この「タキサン」は3回移動していると伝わっています。以前は南側の丘陵にあったとされ「フルウガミ/古拝み」と称されています。さらに、それ以前は「ナカヌウタキ」と呼ばれ「プシマ」の南西側にある「シニグイバル」という小高い森にあったと言われています。
2023.07.15
コメント(0)
(石嘉波の神アサギ)沖縄本島の北部に「本部町/もとぶちょう」があり、この町の東側に「瀬底島/せそこじま」という離島があります。「瀬底島」の名称の由来や語源は諸説ありますが、沖縄の歴史学者である「東恩納寛惇/ひがしおんなかんじゅん(1882-1963年)」は自身の著書「南島風土記」にて『泳島(伊江島)の南に獅子島と注するもの瀬底島の事なるべし。』と記しています。「瀬底島」の北側には「イチャファ/石嘉波」と呼ばれる集落があり「石嘉波の神アサギ」が建てられています。この神アサギは南北に長く柱はコンクリート製で、屋根はセメント瓦葺きの造りとなっています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『神アシアゲ 石嘉波村 麦・稲四祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、仙香 根人、花米九合・五水五合・神酒壱 百姓。芋祭之時、仙香 根人、蕃薯二器・神酒弍・肴 二器百姓、供之。瀬底巫・根人祭祀也。』との記述があります。(石嘉波のニードゥクル/根所)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神)(ニードゥクルヒヌカン/根所火神に向かって右側)(石嘉波神社改築記念碑)「石嘉波の神アサギ」の東側に隣接した位置に「石嘉波のニードゥクル/根所」があります。この赤瓦屋根の建物内部には「ニードゥクルヒヌカン/根所火神」と呼ばれる霊石が3体祀られており、ウコール(香炉)・湯呑・花瓶・徳利が設置されています。「琉球国由来記」には『根所火神 石嘉波村 麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒弍 百姓。竈廻之時、仙香 根人、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。畔払之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 根人、花米九合・神酒壱 百姓、供之。瀬底巫・根神・根人祭祀也。』と記されています。また「ニードゥクル」の建物に向かって右側には「石嘉波神社改築記念碑」が2基建てられています。(石嘉波乃嶽/タキサン)(石嘉波乃嶽/タキサンの石碑)(石嘉波乃嶽/タキサンの古墓)(石嘉波乃嶽/タキサンのニジリヌカミ)「石嘉波のニードゥクル」の南東側一帯は「タキサン」と呼ばれる森があります。この森に「石嘉波乃嶽」の祠と鳥居が建立され、地元住民からは「ジンジャ」の名称で親しまれています。「石嘉波村/イッチャファ」の祭祀は神役と「カミー」という行事の世話役が中心となり「ニードゥクル」や「石嘉波乃嶽/タキサン」で執り行われます。「石嘉波村」の旧家は大きく分けて「上間家/屋号ウチバラドゥンチ」と「金城家/屋号ペーキルンチ」があります。「上間家」は「ウチバラ/ウチバラドゥンチ」と呼ばれ「石嘉波村」の最上位の旧家で「ニーヤ/根屋」であると考えられています。「金城家」は「尚敬王」の時代の1736年に「瀬底島」に移り住んだ長い歴史を持っています。「石嘉波村」には「上間・金城・知念・宮里・玉城」の姓がありますが「金城」が最も多く「金城門中」が最大の門中であると言われ「石嘉波大屋子」は「金城家」から自出したと伝わっています。(石嘉波乃嶽の祠)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって中央)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって右側)(石嘉波乃嶽の祠内部/向かって左側)「石嘉波乃嶽」は「琉球国由来記」に記されている『前之嶽 神名 マツノワカツカサノ御イベ 石嘉波村』に相当すると考えられ『麦・稲穂祭之時、仙香 根人、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。同大祭之時、仙香・花米 百姓、神酒二宛 百姓。ミヤ種子之時、仙香 根人、花米五合・五水三合 百姓。山留ニ竹木伐故、為作物折願之時、仙香 巫、花米五合・神酒一・肴一器 百姓。供之。瀬底巫祭祀也。』との記述があります。「石嘉波乃嶽」では旧暦5月の「ウフウガン/大御願」の際に豊作・村人の健康・村の繁栄が祈願され、米・酒三合瓶・二合瓶・線香二十束・半紙が供えられます。旧暦7月18日から23日に執り行われる「シヌグイ」は年間最大の儀礼で、悪風祓い・村の繁栄・豊作祈願が行われます。20日の「ウークイ」は神女中心の儀礼で一般女性の参加も多く見られ、22日の「ハンジャレートゥ」は男神役中心の儀礼で一般男性が多く参加します。因みに、これらの一般の村人は家族の健康祈願のために参加すると言われています。(アンチ御嶽)(アンチ御嶽の祠)(アンチ御嶽/安全守神の石碑)(アンチ御嶽の巨岩)(アンチ御嶽/巨岩のウコール)「アンチ御嶽」は「瀬底島」入り口の表玄関である「アンチ浜」西側の岩の上に位置しています。「瀬底大橋」の付け根の北側にあり、御嶽周辺は巨岩で覆われています。「アンチ御嶽」のコンクリート造りの祠は前面が閉じられた古墓の型をしており、内部には厨子甕が納められていると言われています。航海安全を祈願する旧暦1月2日の「ハチウクシー/初起し」や旧暦5・9月の「ウフウガン/大御願」で拝まれます。離島である「瀬底島」は「本部町」がある本島との往来は「トゥケーワタイ」と呼ばれ、特に注意を払って島民は神に祈りました。この「アンチ御嶽」は島民の航海安全を祈願する御嶽として昔から拝されてきました。御嶽の下方には「浜番屋」が置かれ、明治末年頃から「瀬底島」の「岸本家」が島の渡し守りをしていたと伝わります。「アンチ御嶽」の祠に向かって右側には「安全守神」と刻まれた石碑が建立されており、現在でも石造りウコール(香炉)には多数の線香が供えられています。
2023.07.06
コメント(0)
(瀬底土帝君/ティーティンク)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に「瀬底島/せそこじま」があります。橋長762メートルの「瀬底大橋」を渡り車や徒歩で行ける「瀬底島」は観光客に人気の美しい離島として知られています。島の中央部に「瀬底集落」があり「瀬底公民館/瀬底区事務所」の東側に「瀬底土帝君」という農神が祀られる祠が残されています。「ティーティンク」や「とていくん」と称される「瀬底土帝君」は1997年(平成9)12月3日に国指定重要文化財に登録され「本殿・拝殿・庭・石段・炉・周辺の石垣」で構成されています。「土帝君」は中国古来の土地関係の神の一種で、一般的に「土地神」と呼ばれています。「瀬底島」における「土帝君」信仰は島の旧家の1つである「上間家」の二世「健堅親雲上/きんきんペーちん(1705〜1779年)」が「尚敬王」の時代に「山内親方/やまうちうぇーかた」に随行して清国に渡った際に農神「土帝君」の木造を請じて祀ったのが始まりであると伝わっています。(瀬底土帝君の拝殿/アサギ)(拝殿のニジリガミ)(瀬底土帝君の本殿/イビ)(本殿のウコール)「瀬底土帝君」は沖縄各地に祀られる「土帝君」のうち最大の規模を保つ礼拝施設で、建築年代は不明ですが本殿及び拝殿の軸部や石組み等の状態から18世紀中頃の造営であると考えられています。この「土帝君」は「本部間切」の「地頭代/ぢとぅでー」を勤めた「シークエーキ」と呼ばれる旧家「上間家」の所有で、毎年旧暦2月2日の「土帝君正月/てぃてぃんくそうぐゎち」の祭礼が行われます。「瀬底土帝君」の祠は集落東側の北西方向に面する傾斜地に位置し、自然林が構成する歴史的風致の中にあります。石垣で整然と区画された一画に珊瑚石の巨石を用いて建設された本殿(イビ)拝殿(アサギ)庭(ミャー)が直線上に並んでおり「土帝君」信仰に関する建造物の形態を良く保つ代表的な遺構として高い文化的価値があります。さらに旧暦5月ち9月の「大御願/ウフウガン」の行事にも拝され「瀬底集落」に於いて「瀬底の七嶽」と呼ばれる拝所の1つに含まれるようになりました。(ケーガーの拝所)(拝所の祠)(祠内部のウコール)(南洋サイパン/ロタ同志會の石碑)「瀬底土帝君」の東側で「瀬底島」で最も標高が高い「ウンバーリ」と呼ばれる丘陵西側の低地に「ケーガー」と称する拝井戸があります。「ケーガー」とは飲料水を貯める池の事で「ウンバーリ」の山に降った雨水を貯めた溜池が4つあります。以前は飲料用水として重宝されていましたが、現在は農業用水として利用されています。「ケーガー」の拝所は1番東側の溜池の脇にあり、祠と破損した鳥居が建立されています。祠の屋根の眉には左右に天皇家の家紋である「菊の御紋/菊花紋章」が刻まれており、中央に造形された5枚の花びらは桜を模ったと考えられます。また、この祠に向かって左側に「月」正面に「星」右側に「太陽」の模様が彫られています。祠内部には3基の石造りウコール(香炉)が祀られており、さらに祠に向かって左側には「奉納 南洋サイパン ロタ 同志會」と刻まれた石碑が建立されています。この石碑は昭和4年に南洋出稼ぎ移民としてサイパン島とロタ島に渡った「瀬底島」出身の移民者により造られたと言われています。(ケーガーの溜池)(ケーガーの溜池)(チンガー)(チンガーの石柱)旧暦9月9日の「ハーウグヮン」では「ケーガー」の溜池を拝み水の恩恵に感謝します。午後4時過ぎ頃から門中の神人等が「ケーガー」に集まり「ハーウグヮン」が始まります。まず初めに「瀬底ヌル」をはじめとする村の神人が祠の前に座り酒3合、米9合、ヒジュルウコー(火をつけない線香)を供えて村の祈願を行います。その後、門中ごとに供え物を捧げて各門中の神人達で祈願します。祈願が終わると「ケーガー」の敷地内にある広場に車座になり、夕刻まで供え物の酒と持参した弁当を飲食して楽しみます。「瀬底島」の外に在住する神人も必ず「ハーウグヮン」に参加する決まりとなっており「ケーガー」に集合する前に各自の門中井戸や池を拝む事となっています。「ケーガー」に隣接した場所に「チンガー」と呼ばれる井戸があり、石積みで囲まれ整備された「チンガー」には石造りのウコール(香炉)が設置されています。なお「チンガー」に向かう道には「チンガー 田園空間整備事業」と記された石柱が立っています。(ウフニヤ)(ウフニヤの祠)(ウフニヤの祠内部)「ケーガー」の東側に「ウフニヤ」と呼ばれる拝所があります。「ウフニヤ」は「ウンバーリ」の山中にあり浄水場の近くにコンクリート製の祠が建立されており、祠内部には三基のウコール(香炉)が祀られています。旧正月の「ウフニヤウグヮン」では旧正月の朝「大底門中」の男神役である「ウフシヌヘー」と区長が「瀬底島」一番の高所である「ウフニヤ」に行き、酒とお供物を捧げて村人の健康と村の繁栄を祈願します。かつて「ウフニヤ」には船の出入りを見張る「トゥーミー/遠見番」と呼ばれる職が置かれており「伊江島」から入船の合図の狼煙が上がると「ウフニヤ」の「トゥーミー」で狼煙を上げて「読谷村」の「座喜味」に伝えたと言われています。これに因んで「瀬底島」では現在も「遠見屋/トゥーミーヤー」の屋号が残っています。さらに「ウフニヤウグヮン」の日には、同時に「ヌルルンチ/ノロ殿内」で神女を中心とした祈願が執り行われます。(ティランニー)(ティランニーの祠)(ティランニーの祠内部)(ティランニーの洞穴入り口)「ウフニヤ」北側に「ティランニー」と呼ばれる拝所があり、この森の中に深さ5〜6メートル程の洞穴があります。以前はこの洞穴の中で儀式が執り行われていましたが、現在は洞穴の前に小さな祠が建立され「お通し」の儀式が行われています。旧暦5月・9月・11月の穀物の豊作祈願である「ティラムヌメー」の行事の際に「ティランニー」が拝されています。伝承によると「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は行事の2日前から塩・味噌・油を使った食事を摂らず、当日の朝は「トールマイ」の浜に下りて海水で身体を清めます。その後「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は梯子で洞穴に降り下着を脱いでハヤーを43本束ねたサン(魔除け)を供えて祈願しました。「ティラムヌメー」の行事が穀物の豊作祈願である事から、男神役の「ウフシヌヘー」と神女の「瀬底ヌル」による一種の性交模倣儀礼であったと考えられています。
2023.06.24
コメント(0)
(ウチグスク/東の御嶽)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に西洋梨の形をした「瀬底島/せそこじま」があります。この大地状の島の面積は2.99平方キロメートル、周囲は7.3平方キロメートル、標高は76.0メートルとなっています。「瀬底島」の中央にある「瀬底集落」の南東側に位置する「ウチグスクヤマ/内城山」と呼ばれる場所に「ウチグスク/内城」があり「アガリヌウタキ/東の御嶽」または「ムーチースネードゥクル」と呼ばれています。また「ウチグスク山」の東側一帯は崖の丘陵となっています。この「ウチグスク」は「瀬底村」の発祥の土地でグスク時代の「瀬底貝塚」があり、村はその貝塚を「クサティ/腰当」にして北西側に広がって行ったと言われています。「瀬底島」の主要な祭祀が「ウチグスク」で行われている事から「瀬底村」の祖霊神を祀る御嶽であると考えられています。(ウチグスクの祠)(ウチグスクの祠内部)(ウチグスクの岩石)「ウチグスク」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『カネオツ森 神名 ワカマツノ御イベ 瀬底村』に相当する説があります。「ウチグスク」での祭祀が執り行われる「ハギヤー」と呼ばれる広場にコンクリート製の祠があり、この祠内部には数体の霊石が祀られウコール(香炉)が3基設置されています。「ウチグスク」一帯の森や岩石が聖域を意味する「イビ/威部」となっており「瀬底村」の草分け旧家である「ウフシヌヘー/大城家」が「ウチグスク」の鳥居と祠を建立しました。「瀬底村」の「ニードゥクル/根所」として代々村の祭祀を執り行ってきた男神役である「ウフシヌヘー」の屋敷は「ウチグスク」北側の「瀬底貝塚」にありましたが、3回目に現在の場所に移転したと伝わっています。現在でも旧暦7月22日の「ハンブトウキ」や「ハンジャレートウ」と呼ばれる悪風祓いと豊作祈願の行事で「瀬底貝塚」が拝されています。(ヌルヒヌカン/祝女火神の鳥居と祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠内部)(ヌルヒヌカン/祝女火神の石碑)「瀬底グスク」とも称される「ウチグスク」の西側入り口に「ヌルヒヌカン/祝女火神」があり鳥居と祠が建立されています。この「ヌルヒヌカン」は「ヌルルンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「祝女火神」の祭神が祀られています。かつての祠は破風型のコンクリート造りで昭和4〜5年頃に「瀬底島」でトラバーチンを発掘した道下氏が寄付した二百円のうち百拾五円で建立されました。トラバーチンとは貝を含む珊瑚石灰岩で、日本の国会議事堂の内装に使用されています。現在の赤瓦屋根の祠は1988年(昭和63)に建て替えられたもので祠内部には古い数体の霊石が祀られており、石造りのウコールが一基設置されています。この祠に向かって左側には「のろ火の神 ヌルヒヌカン」と記された自然岩の石碑と「奉納 道下扉志 昭和六年七月建立」と考えられる文字が刻まれた石碑が設けられています。(ヌルヒヌカンの敷地にある記念樹碑)(ウチグスク入り口の仲田門中章氏拝所)(ウチグスク入り口のウコール)(ウチグスク入り口のカミヤー/神屋)(カミヤー/神屋の敷地にある井泉跡)「ノロヒヌカン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に次のように記されています。『瀬底巫火神 瀬底村 毎年三・八月、四度御物参有祈願也。且、麦・稲穂祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。麦大祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒二 百姓。竈廻之時、仙香 巫、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子・畔払之時、仙香 巫、花米五合宛・五水三合宛 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。稲大祭之時、仙香 巫、花米九合 百姓、神酒弐 壱地頭 壱百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒弐 百姓。毎年十一月、海神折目之時、仙香 巫、花米五合・神酒三・五水三合・魚三絡 百姓、供之。同巫、根人祭祀也。』また「ウチグスク」の入り口には「仲田門中章氏拝所」が設けられており、隣接した場所には石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに「ウチグスク」の入り口には他にも「カミヤー/神屋」の祠が建立されており、敷地には井戸跡が残されウコールが設置されています。(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋の位牌)「カミヤー」の内部にはヒヌカン(火の神)、仏壇、トゥクシン(床の神)、位牌が祀られています。旧暦7月18日から24日まで執り行われる「ウフユミシヌグイ」では悪風払いと農作物の豊穣、さらに村の繁栄と村人の健康祈願が行われ「ヌルヒヌカン」や「ヌルルンチ」の入り口広場でも祈願が行われます。3日目(旧暦7月20日)に行われる「ウフユミ」は主な儀礼の一つで、この日から3日間は死者を村の中に入れてはいけない風習となっています。「ウフユミ」は「タチガミ/立神」と呼ばれる神女が中心に行われ「瀬底ヌル・ウフニシヘー」や他の神女達が参加して「カーサームーチー」と呼ばれる月桃(げっとう)の葉で包んだ餅が供えられます。この日の祭祀で「タチガミ」は竹製の6本の弓矢を持ち頭に草を巻いて武装します。「瀬底島」西側の海岸にある「アタフジ浜」へ向かう途中と浜では「タチガミ」が「水納島」と「伊平屋島」方面に向いて、敵を想定して弓矢を投げる儀式が行われます。(内城按司/ノロ之墓)(内城按司/ノロ之墓の改築記念碑)(内城按司/ノロ之墓の石碑)(内城按司/ノロ之墓からの景色)「ウチグスク」がある「ウチグスクヤマ」西側の森の中に「内城按司」と「瀬底ノロ」の墓があります。この墓の「マユ/眉」と呼ばれる位置に「第一尚氏」の家紋が刻まれており、墓に向かって左側には「内城按司 ノロ 之墓 改築記念碑 昭和六二年六月廿日竣工」と記された石碑が建立されています。また、その左側には「女神様 一九七七年三月五日」と刻まれた石碑と、更にもう一体の石碑が設置されています。「瀬底島」の祭祀は旧暦1月1日の正月の祈願から旧暦12月の「ワタクシウグヮン」まで「瀬底ノロ」により執り行われます。「瀬底島」の年中行事を締めくくる「ワタクシウグヮン」は「ヌルルンチ」に豆、酒、線香を供えて1年間の感謝祈願として拝されます。この祭祀は昔からノロの「ウグヮン/御願」で、ノロの1年間の勤めに感謝して集落の各戸から徴収した穀物を報酬としてノロに与えたと言われています。
2023.06.16
コメント(0)
(大城家/屋号ウフジュクの神アサギ)沖縄本島の北部の「本部町」に隆起珊瑚礁で形成された「瀬底島」があり「島尻マージ」と呼ばれる土壌が分布しています。「瀬底島」の中央部に「瀬底集落」があり、この集落の草分け旧家である「大城家/屋号ウフジュク」の屋敷に「神アサギ」が建立されています。「大城家」の「ムートゥヤー/元屋」である「大底門中」の先祖が「瀬底島」に移り住んだ15世紀中頃には島の先住民が暮らしていましたが「北山監守今帰仁按司」の子孫で武力と統治力のある「大城家」により島は支配されたと伝わります。「大底門中」は現在も集落の「ニーヤー/根屋」としてウフシヌヘー、ノロ、神人などを出し、島の祭祀の中心的役割を担っています。この「大城家」の屋敷の東側に神を迎えて招宴する「神アサギ」があり、内部には神の依代である「タムト木」と呼ばれる丸太が祀られています。「神アサギ」での祭祀の際にはこの「タムト木」の上に線香を供えて祈願します。(大城家のカミヤー/神屋)(カミヤーの仏壇とヒヌカン)(カミヤーのトゥクシン/床の神)(カミヤーの仏壇)「神アサギ」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、線香 巫、花米九合・神酒弍・五水五合・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒弍・肴壱器 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。「大城家」の敷地内で「神アサギ」の東側には「カミヤー/神屋」があります。仏壇には『大城親雲上・大城筑登之・内城按司・内城大主・内城按司女神・内城按司祝女・七之ウミナイビ乳母・七代先祖・八代先祖』などの位牌が建立されており、仏壇の左側には「ヒヌカン/火の神」の霊石が三体祀られています。「カミヤー」の中央には「大城家/大底門中」の先祖である「ウチグスク/内城按司」と考えられる人物を描いた掛軸と刀が飾られており、向かって右側には「寿」と記された木彫りの扇子が二面据え置かれています。(大城家の鳥居)(大城家のニーヒヌカン/根火神)(ニーヒヌカン/根火神の祠内部)(アシビモー/遊び毛/フチャムイのガジュマル)「神アサギ」の北側に面して「ニードゥクル/根所」と呼ばれる赤瓦屋根の祠があり「ニーヒヌカン/根火神」が祀られています。この祠は「大城家」の屋敷東側に建立されているため「大底門中」の「ヒヌカン/火神」であると考えられています。旧暦2月の麦の豊作祈願で麦の初穂を供える「2月ウマチー」と、旧暦5月の粟の穂を供えて粟の豊作祈願と集落の住民の健康祈願を行う「5月ウマチー」でウフシニヘーやノロなどの神人が「ニーヒヌカン」を拝します。また旧暦3月の麦の豊作に感謝しウブク(ご飯)・酒・カティムン(おかず)・線香を供えて祈願する「3月ウバングミ」と、旧暦6月に粟の豊作を感謝しウブク・酒・カティムン・線香を供える「6月ウバングミ」でもウフシニヘーやノロなどの神人により祈願が行われます。「大城家」の東隣には集落の踊りが行われる「アシビモー/遊び毛」があり「フチャムイ」とも呼ばれています。旧暦8月15日の「シシウグヮン/獅子御願」では「アシビモー」に獅子を安置し「ヤナカジゲージ」と呼ばれる「ヤナムン/悪霊」祓いの祈願をします。(若狭松御願/ワカサマチウガン)(若狭松拝所の石碑)(若狭松御願/ワカサマチウガンの祠内部)「大城家」の「神アサギ」から西側の場所に位置する「ウチマンモー」と呼ばれる広場に「ワカサマチウガン/若狭松御願」の拝所があります。その昔、この一帯に青々とした立派な松の木があった事からこの名前が付いたと伝わります。「ワカサマチウガン」の祠内部には石造りウコール(香炉)が2基と鉄製のウコールが1基祀られており、この拝所には『若狭松拝所 一九六三 . 八 . 廿五 .』と記された石碑が建立されています。「ワカサマチウガン」は「瀬底集落」の年中行事で悪風祓いと農作物の豊穣、さらに村人の健康と村の繁栄を祈願を兼ねた「ウフユミシヌグイ」の6日目に拝されます。この行事は一年で最も重要な祭祀で旧暦7月18日から24日の1週間に渡り行われます。この拝所は「瀬底の七門中/大城・上間・仲田・湧川・仲原・仲程・奥原」の「仲田門中」と深い関わりがあると言われています。(御天竜神地の拝所)(御天竜神地の石碑)(御天竜神地のウコール)旧暦7月23日の「ワカサマチウガンの日」の午後、神人および「仲田門中」の人々が「ワカサマチウガン」の拝所に集まり、重箱(仲田門中)・おにぎり・酒・シブイ(冬瓜)の薄切・刺身の味噌和え・線香を供えて祈願します。「ワカサマチウガン」に隣接して「御天竜神地」の拝所があり大小無数の石が積まれています。『御先 御天竜神地 ニライカナイ』と刻まれた石碑が建立されており、石造りのウコールと数個の霊石が祀られています。『御先/ウサチ』は「アマミキヨ・シネリキヨ」の琉球開闢の世の中である「御先の世/ウサチユー」を意味し『御天/ウティン』は「天」を指します。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。この拝所は海の神に通じる聖域であり、航海安全や豊漁祈願が行われる「地/ジーチ」として崇められています。(慰霊塔)(慰霊塔)(刻まれた戦没者名)更に「ウチマンモー」の南側には昭和32年に建立された「慰霊塔」があり沖縄戦で戦没した軍人・軍属の御霊を祀り、毎年6月23日の「慰霊の日」に「慰霊祭」が執り行われています。1944年(昭和19)10月10日の「十・十空襲」では「瀬底島」と沖縄本島の「先本部」の海峡に停泊していた潜水母艦「迅鯨/じんげい」がアメリカ軍の攻撃により沈没しました。この空襲により「瀬底島」の民家と学校が消失し島民1人が死亡し、翌年の1945年(昭和20)4月22日、アメリカ軍は「瀬底島」に上陸したのです。沖縄戦に於いて「瀬底島」出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となりました。戦時中「本部町」の住民は「名護市」の「久志・辺野古」の収容所に移動させられましたが「瀬底島」の住民は収容されなかったと伝わります。この理由として「瀬底島」の主要な人物が島の学校を再建する事を条件にアメリカ軍と交渉して島民は収容所への移動を免れたと言われています。
2023.06.05
コメント(0)
(西の御嶽/宮鳥御願)沖縄本島北部にある「本部/もとぶ町」の西側に周囲7.3キロ平方メートルの「瀬底/せそこ島」があります。この島の住民は「瀬底島」を「シマー/島」と呼びますが、対岸の本部半島の人々は「シーク」または「シスク」と呼んでいます。国道449号線から「瀬底大橋」を渡った場所にある「瀬底島」の西側に「瀬底ビーチ」があります。この浜の南側には「西の御嶽/イリヌウタキ」の森が佇み、別名「宮鳥御願/ミーヤトゥヤウガン」と呼ばれています。この御嶽は1913年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『ヨネフサキ嶽 神名 カネマツ司ノ御イベ』に相当すると考えられます。「瀬底集落」の西側約900メートルの場所にある「西の御嶽」は木々が生い茂る一帯に2〜3メートルの窪地にあり、御嶽の周囲は石灰岩の口の広い洞穴となっています。この拝所には「ノロ/祝女墓」の他にも洞穴内に4つの古墓が祀られています。(初代瀬底ノロ墓)(呂氏仲程瀬底一世の石碑)(洞穴内の古墓)(洞穴内の古墓)「西の御嶽」の「ノロ墓」は破風型のコンクリート製で、石碑には「呂氏仲程瀬底一世 昭和十一年四月建立」と記されています。この古墓には「瀬底村初代公儀ノロ」が祀られていると伝わります。葬られた祝女は若い頃から公儀ノロを務めた美女で、旧暦五月三日に穀物の豊作祈願を行う「ティラムヌメー」と呼ばれる祭祀の前に「トールマイ浜」にて身体を清める洗い髪をしていました。その時、以前から沖に停泊していた鹿児島船の船乗りに暴行され、ノロは「宮鳥御願」の森に逃げ込み身を隠しました。ノロは暴行した船乗りに『残波に行けば、お前達の船は破れてしまえ』と手を合わせて船乗りに呪いをかけたのです。その後、天候が回復して船を出したところ残波で船は難破して船乗りは全員死亡し、ノロはそれを見届けた後に洞穴で自ら命を絶ったと言われています。その骨神がこの「西の御嶽」の古墓に祀られていると伝わっています。(宮鳥拝所)(宮鳥拝所の石碑)(宮鳥拝所の祠内部)(宮鳥御願の竜宮神)旧暦五月の「ウフウグヮン/大御願」ではその昔、ノロ墓から骨を出して洗い清めていました。この骨洗いは「ミススイ/御洗清」や「スン」と呼ばれ「瀬底集落」の「仲程門中」が担当してきました。この「ウフウグヮン」は「七ウターキ/御嶽」の祈願で麦の豊作と村人の健康と繁栄を願います。現在はノロや神女達が集落にある七ヶ所の御嶽を巡り大豆九升・酒三合・線香二十五束を供えます。その昔は徒歩で巡っていたため一日がかりの行事となり、道中は供物を小使いの少年が担いでいたと伝わります。「宮鳥御願」の森には「宮鳥拝所」の祠があり、内部には三体の霊石と三基の石造りウコール(香炉)が祀られています。また祠の脇には「宮鳥拝所 一九九二年八月吉日改築」と刻まれた石碑が建立されています。この祠から浜の方向へ進むと「竜宮神」の拝所があり「竜神」と記された石碑、形の異なる三基の石造りウコール、一体の霊石、シャコガイの貝殻が海に向かって祀られています。(サンケーモー/三景毛)(大底門中/大城家の拝所)(大底門中/大城家の拝所)「瀬底集落」では旧暦五月と九月の「ウフウグヮン/大御願」の行事に「七御嶽」が拝まれます。参拝の最後に集落の南側にある「サンケーモー/三景毛」と呼ばれる小高い丘に行き「瀬底島」の西側にある「水納/みんな島」に向かって神人全員が拝みます。この行事は「水納島」にある「メンナの御嶽」へのタンカー(御通し)だと言われています。この「サンケーモー」には「大底門中」の拝所があり、この門中の「大城家/屋号ウフジュク」は「瀬底集落」の「ニーヤ/根屋」で、集落で最も古い約500年余りの歴史を持つ旧家です。「大底門中元祖由来記」には「大底門中」は第一尚氏「尚巴志」王統の「北山監守今帰仁按司」で、数代に渡り「山北今帰仁グスク」に駐在して山北諸郡を統治していました。第七代「尚徳王」が滅亡した時に「北山監守今帰仁按司」の子孫の1人が「瀬底島」に移り住み、村を創建して「瀬底集落」の草分けとなったと言われています。(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所)(仲田門中拝所)「サンケーモー」には他にも「上間門中/上間家/屋号アガーリ」の拝所があり、別名「シークウェーキ」とも呼ばれています。伝承によると「上間門中」の始祖である「細工大主」は「瀬底島」に渡って来た当初は「アンチ浜」の海岸丘陵にある「カンジャーガマ」でカンジャー(鍛冶屋)をしていました。当時は士族や農民にとってカンジャーは重要で島民に重宝され、貯めた蓄えで土地を購入し「瀬底集落」に住居を構えるようになったと伝わります。第二世から第五世までは「本部間切地頭代役」を務めて「健堅親雲上/キンキンペーチン」と呼ばれていました。第二尚氏「尚円王」の子である「山内親方」のお供を若い頃からしていた第二世は中国の清に渡り、土地神(農耕神)である「土帝君」の木像を持ち帰り「瀬底島」に祀るなど豪農と慈善事業家として知られていました。また「サンケーモー」には集落で第三の旧家である「仲田門中」の拝所も設けられ、石碑の前には「首里」と「津嘉山」の石柱が建立されています。(前の御嶽/南の御嶽)(前の御嶽/南の御嶽の祠)(前の御嶽/南の御嶽の祠内部)(前の御嶽/南の御嶽の森)「前の御嶽/メーヌウタキ」は「瀬底集落」の南西の方角に約500メートルの場所にこんもり茂った「ウチンメー」と呼ばれる小丘陵にあります。別名「南の御嶽/へーヌウタキ」とも言われるこの御嶽は「瀬底島」の拝所の中で最南に位置しています。コンクリート製の祠内部には三体の霊石と一基の石造りウコール(香炉)が祀られています。以前は赤瓦屋根の祠でしたが、昭和40年代に現在の姿に建て替えられました。「前の御嶽」は「瀬底の七御嶽」の一つで「国守りの神」が祀られているとの伝承があり「瀬底島」を守護する御嶽であると考えられています。旧暦五月と九月の「大御願」の際に拝される「七御嶽」の最後に参拝される拝所として知られています。ちなみに旧暦五月の「大御願」では「瀬底ノロ」や神女等により麦の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄を祈願し、九月の「大御願」では豆の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄が祈祷されます。
2023.05.28
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1