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(かすりの道の標識/琉球かすり会館)沖縄本島南部の「南風原町/はえばるちょう」に「ティーラ/照屋・チャン/喜屋武・ムトゥブ/本部」の「サンカ/三箇」と呼ばれる3つの集落を巡る「かすりの道」があり「かすりロード」とも呼ばれています。「かすり/絣」とは染め抜かれた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りなす図柄の"かすれ"から「かすり」と呼ばれています。身の回りの動植物や生活道具、さらに自然界から着想を得て巧みに反映されています。「かすり」の技術は14〜15世紀に沖縄が東南アジアの国々と交易をしていた頃、インド発祥の「かすり」がインドネシアやフィリピン、中国などを経由して沖縄に伝わったと言われています。(トゥイグヮー)(カキジュー)(イチチマルグムー)(ブリブサー)「トゥイグヮー」は鳥(トゥイ)を模った「かすり」で、曲線は同じ長さに染められた緯絣(よこがすり)を両手で左右にずらしながら織る「幅小寄/ハバグヮーユイ」や「手寄/ティユイ」と呼ばれる技法で織られています。「カキジュー」は鍋や道具を吊るして掛ける道具の紋様となっています。このような沖縄の生活に密着した道具をモチーフにしたかすりのデザインが豊富にあります。「イチチマルグムー」は緯絣2本ごとに絣の無い緯糸1本を織り、ぼかして5つの丸い雲を表現した紋様となっています。「ブリブサー」は夜空に輝く星団を経絣と緯絣の重なりで地色との対比を強調して群星を表現しています。(トゥイグヮー)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)(絣糸の張り伸ばし場)親子で飛ぶ「鳥小/トゥイグヮー」は琉球絣の中で最も多く用いられる緯絣の紋様として知られています。海外から沖縄に伝わった「かすり」は琉球王府を通じて薩摩に渡り、そこから日本全国各地へと広がって行きました。「南風原」で特に琉球絣が盛んになったのは大正時代の頃で、南風原尋常小学校に織物を指導する女子補習学校が併設され、熊本県出身の「金森市六」が絣技術を指導しました。退職後は「宮平・山川」で織物工場を経営して南風原の織物産業の発展に貢献しました。その功績もあり、現在では「南風原町」は琉球絣の最大の産地となっています。「かすりの道」沿いには絣糸の張り伸ばし場が点在しており、周辺住民の生活の一部として集落の風景に自然に溶け込んでいます。(経緯絣/たてよこがすり)(ハナアシー)(ミミチキトーニー)(ビックー)(ピーマの絡み合わせ)「経緯絣/たてよこがすり」は機(はた)に似た絣と2つの四角は経絣と緯絣が重なり地色との対比を強調し、絣全体がバランスよく配置してあります。「ハナアシー」は経絣3筋の切れ間に緯絣3筋を織り併せ、花の形を2つ段違いに並べた紋様です。「ミミチキトーニー」は耳つき(ミミチキ)の四角い容器(トーニー)の事で、芋洗いの箱・動物の餌箱・湯船などを表し、小絣が2つの耳のように付いている紋様となっています。「ビックー」は六角形の中に花をあしらった吉祥紋様で、織幅に並ぶ鼈甲が小さく、その数が多いほど長寿を願う気持ちが込められています。「ピーマ」と呼ばれる緯糸の絣だけで描く左右もしくは上下対象のが複数合わさり、抽象的な模様や具象的な波や小動物などを表現しています。(ヒチアーシ)(絣模様の外壁)(琉球かすり会館)(かすりの道の標識)「ヒチアーシ」と呼ばれる道具は、経絣用に整形した糸の束を図案通りに柄を合わせて固定するために使われます。「琉球かすり」の大きな特徴はおよそ600種という多彩な幾何学模様の図柄で、琉球王府時代から伝わる『御絵図帳』をもとに職人が現代の感覚を取り入れながら進化し続けています。織は緯糸を経糸の間に手投げ杼で織る昔ながらの技法で丹念に織り上げて行きます。また「南風原町」の童歌に『ティーラ チャン ムトゥブ (照屋 喜屋武 本部)』があり、3つの村は鼎(かなえ)のように向き合い、互いのムラの娘さん達が揃って布織りの自慢話や布織り競争をする唄が伝えられています。
2023.11.28
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(安平田の御嶽/アヘダノ嶽)沖縄県内で唯一海に面していない「南風原町/はえばるちょう」は沖縄本島南部に位置しており、この町の中南部に「照屋/てるや集落」があります。「照屋集落」は「喜屋武集落」と「本部集落」に隣接し、この3つの集落は「サンカ/三箇」と呼ばれています。「照屋」の村発祥は集落の東側にある「クガニムイ/黄金森」の「イシジャー」に住んでいた人に関わりがあるとの伝承があります。この人物の長男が「喜屋武」次男が「照屋」三男が「本部」の各村の始祖となり、子孫が広がって行ったと言われています。また「イシジャー」にいた「大城子」という人物が「ティーラバル/照屋原」で「喜屋武・本部・照屋」の三カ村の村立てをしたとも伝わっており、村の年中行事は古くからこの三カ村共同で行われてきました。(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿の祠内部)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠)(アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿のヒヌカンの祠内部)「照屋集落」の東部で那覇市安謝と糸満市潮平を結ぶ県道82号沿いの東側丘陵に「安平田の御嶽」があります。「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の祠内部には石造りの「ウコール/香炉」が祀られており、火を付けない「ヒジュルウコー」が供えられています。また隣接する「アヘダ御嶽之殿/アヘダ之殿」の「ヒヌカン/火の神」の祠内部にはウコールに霊石が祀られ、さらに三体の「ビジュル石」が設置されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『アヘダ之殿 照屋村 同御嶽之殿 照屋村』と記されており『稲二祭之時、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 照屋村百姓、五水四合宛、玉那覇村 百姓、供之。玉那覇巫祭祀也 此時、巫一人・居神一人、照屋百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』との記述があります。(アヘダノ嶽/安平田の御嶽)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)(アヘダノ嶽/安平田の御嶽の井戸)「アヘダノ嶽/安平田の御嶽」は「照屋集落」に属していますが「照屋村」との直接的な関係が無いと言われ、西側に隣接する「津嘉山集落」の祭祀で拝まれる拝所となっています。この御嶽は「照屋集落」では「アヒダシー/安平田子」と呼ばれており「琉球国由来記」には『アヘダノ嶽 神名 ヨラムサノ御イベ 玉那覇巫崇所。』と記されています。「玉那覇ノロ」が「照屋村」にある「アヒダシー」の屋敷跡とされる「アヘダノ嶽」と、その一族の屋敷跡である「アヘダ之殿」を拝む理由は「玉那覇ノロ」の父親の旧跡として拝するようになったと言われています。その後、代々「玉那覇ノロ」が慣例として拝むようになったと伝わっています。また「ミーヤシチムンチュー/新屋敷門中」の祖先が「今帰仁」から「アヘダノ嶽」に来住したと伝わっており、旧五月・六月の「ウマチー」の際に御嶽を拝しています。(照屋公民館/照屋自治会)(ナガモー/ナガ毛の御嶽)(トゥンヌシチャ/殿の下)(トゥンヌシチャ/殿の下の拝所)「安平田の御嶽」の西側で「照屋集落」の中央部に「照屋公民館/照屋自治会」があり、この公民館は戦後に現在の場所に移されました。この一帯はかつて「ナガモー/ナガ毛」と呼ばれる広場で、松の大木が生えた「アシビナー/遊び庭」としてムラの住民の憩いの場でありました。旧暦6月の綱引きや旧暦7月のお盆のエイサーが行われたのも「ナガモー」で、現在は公民館の敷地に「ナガモーの御嶽」があり、祠には3基のウコール(香炉)が祀られています。ナガモーの南側にある「メーミチ」沿いには「トゥンヌシチャ/殿の下」と呼ばれる拝所があり、石造りのウコールに霊石が祀られ線香が供えられています。この「トゥンヌシチャ」は「安平田子」の次女「マグジー/真呉勢」が浦添から「ナカマウフヌシ/仲間大主」を婿養子に迎えて結婚後に住んだ屋敷跡です。「ウマチー」の際に「安平田の御嶽」を拝んだ「津嘉山/親国」の旧家一行が帰路に立ち寄って休んだ場所であると伝わっています。(サーターヤー跡の石碑)(サーターヤー跡/仲組/西組)(サーターヤー跡/上江洲組/西原組/仲筋組/新組小)(メーミチ)「ナガモー」の東側にはかつて6つの「サーターヤー/製糖小屋」があり「サーターヤーグミ/製糖屋組」により管理されていました。現在「サーターヤー跡」の石碑が建立されており、石碑の下にはかつて「ナガモー」で若者達が力比べをした「力石」が埋められています。「仲組/ナカグミ・西組/イリグミ・上江洲組/ウエズグミ・西原組/ニシバラグミ・仲筋組/ナカシジグミ・新組小/ミーグミグヮー」の6組で「一号組〜六号組」とも呼ばれて「一号組」の「仲組」が最も規模が大きかったと伝わっています。14〜15歳になると製糖小屋に出て作業を手伝い、行事は製糖小屋単位で行いました。また製糖作業は門中の「ユイマール/共同作業」で行い、製糖組は実質的には親戚同士の組織でした。その昔は製糖作業の動力は馬を利用していましたが、発動機が導入されると昭和17年に「共同製糖工場」が出来ました。そして戦後になると「組」は無くなり「班」と呼ばれるようになったと伝わっています。(夜警団屋跡)(トーフヤー/豆腐屋跡)(ナカミチ)(馬を水浴びさせたクムイ/溜池跡)「ナガモー」の南側に「夜警団屋跡」と呼ばれる場所があります。「照屋集落」は交通の便が優れていましたが、泥棒や不審者の被害も多かったと言われています。夜間の警備のために若者が多く集まる場所として1950年に「夜警団屋」が建てられました。後に青年会員が消防団の役割も兼ねるようになると、火を消す道具や消防用資器材を保管して集落の安全安心を担いました。「夜警団屋跡」の北側に隣接した家は昭和13年以降に「トーフヤー/豆腐屋」を営んでいましたが、当時は行商人が多く集落に来ていて「首里山川」から毎日「トーフヤー」が豆腐を売りに来ていたと伝わります。「夜警団屋」と「トーフヤー」の間の道は「ナカミチ」で、この道を東に進むと「シーサーヌメーヌカーラ/カーラグヮ」にかかる橋があります。この橋沿いには「照屋ノロ」が公務で使う馬を水浴びさせたクムイ(溜池)の跡地があります。(ヌルジー/ノロ地)(ヌルジー/ノロ地の井戸)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)(照屋の石獅子/アガリのシーサー)「照屋集落」の北側に「ヌルジー/ノロ地」と呼ばれる場所があり、かつて北側に隣接する「本部集落」に属していました。「ヌルジー」の「ミーフダ/三穂田」という水田では「ノロ/祝女」が祭祀の際に使用する稲穂が栽培されていました。現在、この土地では芭蕉(バナナ)が栽培されており古い井戸跡が残されています。なお「ヌルジー」の南側の屋敷はその昔「ユーフルヤー/銭湯」を経営していたと伝わっています。「ヌルジー」の西側には「照屋の石獅子」があり「アガリ/東のシーサー」とも称されています。現在「照屋集落」には2基の石獅子があり、どちらも「本部集落」に向いていると言われています。一方「本部集落」では「八重瀬岳」への邪気払いを意味する「フーチゲーシ」を目的に石獅子を設置しましたが、結果的に「照屋集落」を向くことになりました。「照屋」の住民は自分達の集落に石獅子が向けられていると思い、対抗するために「本部」に石獅子を向けたと伝わっています。
2023.11.10
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(照屋の石獅子)沖縄本島南部の「南風原町」は沖縄県で唯一海に面してい町として知られており、この町の中南部に「照屋集落」があり方言で「ティーラ」と呼ばれています。隣接する「本部集落・喜屋武集落」と合わせた三部落は「サンカ/三箇」と称され、お互いに社会的関係が深く「ノロ/祝女」の祭祀管轄も同一の区域でした。「照屋集落」は「南風原町」の面積の3.3%を占める比較的小さな集落となっています。1635年に発行された各間切の石高が記されている「琉球国高究帳」には「照屋」の名前は確認できませんが、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『照屋村』と記されています。また近世中期に作成された「御当国御高並諸上納里積記」には『照屋村』、更に1871年に編集された「上り絵図郷村帳」には『てるや村』との記述があります。(デームイモー)(デームイモー/照屋の石獅子)(デームイモーの御嶽)(デームイモーの御嶽/祠内部)「照屋集落」の北西部に「南風原町立南星中学校」の東側に隣接する「デームイモー」があります。「デームイモー」は集落で現在唯一の丘陵地で、この一帯には「ウフヤ/大屋・ナカシジ/仲筋・ミーヤシチ/新屋敷・ニシバラ/西原・カニグスク/金城」などの集落草分け旧家が位置する「フルジマ/古島」となっています。「デームイモー」の頂上には僅かな平場があり石獅子と御嶽の祠が祀られています。グスク時代には「デームイモー」は集落北東部にある「兼城集落」の「内嶺グスク/兼城グスク」や、集落西側に隣接する「津嘉山集落」の「仲間グスク」の見張り場や狼煙をあげた「フィータティモー/火立毛」であったと言われています。旧暦6月15日の米の豊年祭である「六月ウマチー」の際に「デームイモー」の御嶽は「ナカシジムンチュー/仲筋門中」により祈願されています。また旧暦6月26日の雨乞い祈願の「アミシヌウガン/雨寄ヌ御願」でも御嶽の祠が拝されています。(照屋ノロ殿内/ヌンドゥンチ)(照屋ノロ殿内/祠内部のヒヌカン)(照屋ノロ殿内/祠内部)(照屋ノロ殿内/祠内部)「デームイモー」の東側丘陵麓に「照屋ノロ殿内」があり「ヌンドゥンチ」とも称されています。旧暦1月4日の「ハチウガン/初御願」で「照屋ノロ殿内」が拝まれる際には、初めに向かって左側の「ヒヌカン/火の神」から拝まれます。この「ヒヌカン」について「琉球国由来記」には『本部巫根神所火神 照屋村 毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、稲穂祭三日崇之時、花米六合・五水弐合 照屋大屋子、花米三合五勺・五水二合、照屋村 百姓、花米九合・五水二合、本部 地頭、花米一升二合・五水三合、本部 百姓、五水弐合、喜屋武村 地頭、花米三合、喜屋武村 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。また、ノロが祭祀を行う「神アサギ」について「琉球国由来記」には『神アシアゲ之殿 照屋村 稲二祭之時、花米七合宛・五水壱沸宛・神酒一宛 照屋大屋子、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫一人・居神二人、百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』との記述があります。(照屋ノロ殿内)(照屋ノロ殿内/祠内部)(今帰仁への遥拝所)(ガヂー)「照屋ノロ殿内」の祠内部に向かって右手には御神体である霊石が祀られており「ハチウガン」から旧暦1月27日まで衣として紙を巻き付ける風習がありました。また旧暦3月3日は「フーチゲーシ/風気返し」を行う日で「ヤナムンゲーシ/悪物返し」とも呼ばれました。かつて「照屋ノロ殿内」の前で豚もしくは牛を潰して血液をタライに入れておき、各家庭は桑の枝とススキを3本づつ束ねた「ゲーン」に血液を付けて持ち帰り魔除けとして屋敷の四隅や門に供えました。「照屋ノロ殿内」の東側に隣接する拝所は「ナチジン/今帰仁」への「タンカー/遥拝所」で、かつては「照屋ノロ」を排出した集落草分け旧家の「ナカシジ/仲筋」のみが拝んでいましたが、現在では村の人々にも拝されています。さらに「照屋ノロ殿内」の東側には「ガヂー」という道があり、かつて「照屋ノロ」が馬に乗って通っていた道であると伝わっています。(石敢當)(ティラジョー/テラゾーの屋敷跡)(ティラジョーガー/テラゾーガー)(ユンヌカー/弓取り井泉)「ガヂー」を東側に抜けると「ティラジョー/テラゾー」の屋敷跡があり、その北側には「ティラジョーガー/テラゾーガー」があります。この井戸の水は「ソーケーミジ/アカミジャー」と呼ばれ飲料水には適さず、大きな「カーミ/甕」に水を溜めて洗濯用水などに使用していました。「ティラジョーガー」の西側には「ユンナカー/弓取り井泉」があります。ある昔『この地に弓矢を射れば水が湧いてくる』とのお告げがありました。その通りに弓矢を射ると水が湧き出したとの伝承があり、この井戸の名称になったと言われています。「ユンナカー」の水はとても清らかで美味しいと評判で、正月の若水はこの井戸から汲んでいました。飲料水としての井戸で洗濯は禁止されており、旱魃の際にも決して枯れる事がなかったと伝わります。その為、水不足の時は「ユンナカー」に番屋を作り、集落の「ジュウニンガシラ」が泊まり込みで水の番をしていました。(イシジャーガー)(イシジャーガーのウコール)(イシジャーヌシー)(イシジャーヌシーのウコール)「デームイモー」南西側の麓にかつて「イシジャーガー」がありました。集落の住民が増えた大正時代に石ころばかりの原に「イシジャーガー」の井戸を掘り飲料水を確保したと言われています。現在はアパートが建てられており、井戸跡にはウコールが設置され水神への感謝を祈る拝所となっています。「イシジャーガー」の西側で「南風原町立南星中学校」の入り口付近には「イシジャーヌシー」の岩があります。「照屋村」の西側に隣接する「津嘉山村」の勇猛で富豪であった「安平田子/アヒダシー」が琉球王府に攻められ傷付き、この場所まで逃げて来ましたが岩の間で息絶えたと言われています。「照屋集落」では「イシジャーヌシー」と呼ばれていますが「津嘉山集落」では「チマダヌシー」の名称で知られています。「イシジャーヌシー」にはウコール(香炉)が設置されており、現在でも「安平田子」の子孫により拝されています。
2023.10.27
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(サーターモー跡/本部公民館/本部児童館)沖縄本島南部の「南風原町」に「本部集落」があり方言で「ムトゥブ」と呼ばれています。また「本部集落」は「南風原町」の中でも農村文化を持つ「下村/シチャムラ」に属しています。1916年の「本部」は96戸のうち90戸がサトウキビを生産し、牛・馬・豚ヤギを飼育する純農村でした。製糖期には「イーマールー/ユイマール」という共同作業で親戚が集まりサトウキビを刈り、現在の「本部公民館・本部児童館」がある「サーターモー」へ運搬していました。「サーターモー」には「イリグミ/西組・アガリグミ/東組・ジャナグミ/謝名組・イーミチグヮーグミ/上道小組」の4つの「サーターグミ」があり、サトウキビの圧搾と黒糖作りを行なっていました。「西・東・謝名・上道小」は屋号で各クミの中心的役割を担っていました。(イリジョーガー/西門之井戸)(イリジョーイチ/西門池跡)(ナカドオリ)(第二織物工場跡)「サーターモー跡」の南側に「イリジョーガー」と呼ばれる拝井があり、井戸跡の石碑に『昭和三年戌辰九月十五日 御大典記念 西門之井戸』と刻まれています。一説には元々小さな井戸であったが昭和三年に大きくしたと伝わります。昔から「本部集落」の「イリ/西」地区の住民の貴重な水源であり、現在も拝井として拝まれています。「イリジョーガー」の北側には「イリジョーイチ/西門池跡」があります。この池は隣接する「サーターモー」で作業する馬に水浴びをさせる「クムイ/溜池」の役割があったと考えられます。各地の製糖小屋には「クムイ」が併設されており、もし製糖作業をした馬に水浴びをさせないと疲れが取れず、翌日の作業効率が下がったと言われています。「サーターモー」の西側から集落の南側に向けて通る「ナカドオリ」の先にはかつて「第二織物工場」があり、その跡地には現在「ももの木保育園」の建物があります。(ビジュルモー/びじゅる森)(ガンヤー/龕屋)(ガンヤーモー)(上之殿跡)「サーターモー」の北側丘陵にある「本部公園」にはかつて「ビジュルモー/びじゅる森」があり「ビジュル」と呼ばれる霊石が祀られ住民が拝していました。「ビジュルモー」の南側に「ガンヤーモー」があり、死者の棺を墓場まで運ぶ「ガン/龕」を収納する「ガンヤー/龕屋」という小屋があります。旧暦10月最後の午の日に「ガン」を祝う「ガンゴー」が行われます。「ガンヤーモー」の東側は現在「本部公園野球場」となっていますが、かつてこの地に「上之殿」と呼ばれる拝所がありました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『上之殿 本部村 稲二祭之時、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。また、この周辺は「本部集落」の古島であると考えられ「琉球国由来記」に『上ノアタリ之殿 本部村 稲二祭之時、穂・シロマシ壱器・神酒二宛 百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫一人・居神七人、百姓中ヨリ馳走仕ル也。』との記述が残されています。(石獅子があった場所)(上ヌカー)(本部赤嶺の屋敷跡)(イージガー)「本部公園』の東側にある「沖縄県土地改良事業団体連合会総務部」の駐車場脇に、かつてもう1基の石獅子がありましたが沖縄戦で消失してしまいました。更に戦前までこの場所には「上ヌカー」と呼ばれる井戸がありましたが、現在は東側の道路沿いに井戸跡として移設されています。移設後の「上ヌカー」南側の道路を渡った場所には、かつて集落にガンと獅子舞を寄贈した事で知られる農豪の「本部赤嶺/モトブアカンミ」の屋敷があったと伝えられています。琉球国王が「本部赤嶺」の屋敷を訪れた際、村の入り口から屋敷まで白い米粒が敷いてあるのを見て「食料を粗末に扱うとはけしからん」と訪問を中止して「本部赤嶺」に打ち首の刑を命じました。位牌は戦前まであった屋敷に祀られていましたが、現在は本部公民館に移設されて大切に祀られています。また「本部赤嶺」の屋敷北側にあった「イージガー」と呼ばれる井戸は拝井として屋敷跡の東側に移設されています。(ムンナンドゥンチ/門南殿内の祠)(ムンナンドゥンチ/門南殿内跡)(ムンナンガー/門南ガー)(仲里殿跡)「本部赤嶺」の屋敷跡の北側に「ムンナンドゥンチ/門南殿内」の祠がありウコールが祀られています。戦前までは茅葺の建物があり「本部集落」の草分け「ニーヤー/根屋」とされてきました。「門南殿内」の位牌は現在「本部公民館」に移され祀られています。「門南殿内」で使用されていた「ムンナンガー/門南ガー」の東側に隣接した場所にはかつて「仲里殿」と呼ばれていました。「琉球国由来記」には東側に隣接する「喜屋武集落」の拝所として記されており『仲里殿 喜屋武村 稲二祭之時、花米五号宛・五水壱沸宛 仲里大屋子、穂・シロマシ壱器・神酒壱宛 同村百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫、百姓ヨリ盆拵馳走也。』との記述があります。戦前まで「仲里殿」は「喜屋武集落」にゆかりのある門中にのみ拝されていましたが、現在は「本部殿内」の祠に合祀されており「本部集落」の人々にも大切に祀られています。
2023.10.17
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(本部殿内/本部里主之殿)「本部/もとぶ集落」は「南風原町/はえばるちょう」の南西部に位置し、沖縄民謡の「南風原町口説」には『村のぐなさや本部村』と歌われています。かつて集落の中央を東西に通る「メーミチ/前道」の北側には古い集落、南側には水田が広がっていました。現在「メーミチ」の南側には家々が碁盤の目のように並んでおり、これは地割の名残であると言われています。集落の南側に隣接する「照屋集落」との境界には「デームイモー」があり、東側に隣接する「喜屋武集落」との間には「ウマイー」の丘陵があります。中央に丘陵が連なる「南風原町」は北側の「上村/ウィームラ」と南側の「下村/シチャムラ」で文化の違いがあり、首里に隣接する上品で穏やかな「上村」に対して「本部集落」が属する「下村」は農村らしく力強い文化を持つと言われています。(本部殿内の祠内部/本部殿地/門南殿地/仲里殿)(本部殿内の祠内部/豊年拝/上之殿)(本部殿内の祠内部/下本部/繁栄拝)(下本部/下本部之殿)「本部集落」の北部にある丘陵中腹には「本部殿内」の合祀拝所があり「本部殿地」とも呼ばれています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『本部里主之殿 本部村 稲二祭之時、花米九合宛・五水二沸宛・神酒一宛 本部地頭、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。1416年に「尚巴志/しょうはし」により滅ぼされた中山王国最後の王「武寧/ぶねい」の五男である「本部王子」が、居住していた「喜屋武」のイシジャーから「本部」のムンナンに移住して暮らした屋敷が「本部殿内」であると伝わっています。「本部殿内」の東側に隣接した場所は「下本部」と呼ばれ「琉球国由来記」には『下本部之殿 本部村 稲二祭之時、神酒壱宛 本部掟、神酒壱宛・穂・シロマシ壱器 百姓、供之。本部巫祭祀也。』と記されています。かつて「本部」の「ニーヤ/根屋」とされる「金城門中」が「五月・六月ウマチー」の際に拝していました。(ミーヤガー/新屋井)(本部の石獅子)(本部の石獅子)(ハクル/繁栄拝/ウガンモー/御願毛)「下本部」の東側に隣接する屋敷に「ミーヤガー/新屋井」が残されています。「本部集落」の北東側に「本部の石獅子」があります。集落には二基の石獅子がありましたが一基は沖縄戦で消失してしまいました。石獅子は「フーチゲーシ/ヒーゲーシ/火返し」の目的で東風平の「エージ/八重瀬」に向けられました。しかし一説には「照屋集落」に向いているとされ、これに対抗するように「照屋の石獅子」は「本部」に向けて造られたと言われています。その昔「本部」と「照屋」は「ユンヌガー」と呼ばれる井戸の水争いがあり、仲の悪いムラ同士であったと伝わっています。「本部の石獅子」の南側にある「ウガンモー/御願毛」の丘陵にはかつて「ハクル/繁栄拝」がありました。「ハクル」とは「百度」を意味しており「南風原村史」によると旧暦2月下旬に「ヒャクルメーヌウガン/百度詣御願」が行われ、ムラの人数が百人に満つようにノロやムラの老人達により祈願されていました。(イジュンガー公園/カンジャーヤークムイ)(イジュンガー)(ニーガー/根井戸/ウブガー/産井戸)「ハクル/ウガンモー」の南側に「イジュンガー公園」があり「イジュン」とは「泉」を意味し良質の水が湧いていたと言われています。戦前までこの地には「イジュンガー・クムイ・カンジャーヤー」があり「イジュンガー」は水量が豊かで、旧正月には若水を汲み「ヒヌカン/火の神」や「トゥクシン/床の神」さらに仏壇に井戸の水を供えました。「クムイ」では野良仕事の後に芋や野菜を洗ったり馬の水浴びをさせていました。この「クムイ」は那覇の人が鯉の養殖をしていたとも言われています。「カンジャーヤー」は首里から鍛治職人が来て農具の修理をしていたと伝わっています。「インジュガー公園」の南西側に「ニーガー/根井戸」があり「本部集落」で一番神高い井戸だとされてきました。ムラで子供が産まれた際、この井戸の水を産水として利用していた事から「ウブガー/産井戸」とも呼ばれています。
2023.10.09
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(ナカヌカー/中の井公園)沖縄本島南部に沖縄県内で唯一海に面していない「南風原町/はえばるちょう」があります。この町の南東部に「喜屋武集落」は方言で「チャン」と呼ばれています。集落は大きく「ムラウチ/村内」と「ヤードゥイグヮー/屋取小」に区分され、現在の「湘南小学校」周辺にはかつて高さ30〜60メートル程の丘陵があり「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」の境目となっていました。1920年(大正9)にこの丘陵を人力で割り取った「ワイトゥイ」と呼ばれる道路を開通させて両区域の行き来が容易になりました。「ヤードゥイグヮー」のほとんどの家は戦後に「ムラウチ」から二男や三男が分家して広まったと言われています。現在「ムラウチ」の中心部に「ナカヌカー/中の井公園」があり「喜屋武集落」の住民の憩いの場となっています。(ナカヌカー/中の井)(メーミチヌイチ)(ナカモーグヮー/中毛小のガジュマル群)(メーミチ)1928年(昭和3)に「ナカヌカー/中の井」と池が掘られ、その記念として「ウフアシビ/大遊」が盛大に開催されました。この井戸は飲料水や洗濯の場として利用され、池では野良仕事の後に芋や野菜を洗ったり馬の水浴びをさせていました。現在は拝井戸として線香が供えられ水への感謝が祈られています。「ナカヌカー公園」の南側に「ナカモーグヮー/中毛小」と呼ばれる広場があります。現在、2本のガジュマルが残されていますが、かつて5本のガジュマルの根が網目状に絡んで土手を覆い、枝が大きく広がる古木として南風原町指定天然記念物に登録されました。「喜屋武集落」の中心に位置するガジュマルとして、かつては子供達が木に登り鬼ごっこをしたり、古老達がゴザを敷いて談笑したりする住民の憩いの場として利用されました。旧暦9月の20日以降に行われる「タントゥイ/種取り」は「ナーシルダー/苗代田」に稲の種を蒔く日に行われた行事で、15歳以上の男子が「ナカモーグヮー」に集まりました。(カナチ棒の説明板)(下茂)(下茂の祠内部)(下茂のヒヌカン)「ナカヌカー公園」と「ナカモーグヮー」に隣接する「メーミチ」は綱引きが行われる道となっています。現在の綱引きは旧暦6月25日(カシチー綱/2回)と26日(アミシ綱/1回)の2日に渡り行われますが、かつては旧暦5月14日(ンチャタカビ/2回)と15日(ウマチー/2回)、旧暦6月14日(ンチャタカビ/2回)と15日(ウマチー/2回)にも綱引きが行われていました。集落の東と西に分かれて両陣営による「ヤッチャイ」と呼ばれる体のぶつけ合いや、棒術も披露される本格的な真剣勝負でした。「メーミチ」の東側に「下茂」という拝所があり、祠内部には4基の「ウコール/香炉」にそれぞれ線香が供えられています。さらに3体の霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」に線香が供えられています。「下茂」の拝所は旧暦1月2日の「ハチウクシ/初興し」旧暦3月20日以降の「ヒャクドゥヌウガン/百度の御願」旧暦10月午の日の「シマクサラシ」などで拝されています。(ハサマガー/狭間井)(カンジャーヤー跡)(ウマイーグヮー跡の石碑)(ウマイーグヮー跡)「喜屋武集落」の「ムラウチ」南側に「ハサマガー/狭間井」という井戸があります。旧暦1月1日の正月の早朝、集落の子供達が「ハサマガー」の井戸に行き魔除けのための「サン」を結んだ急須に水を汲みました。その水は「ワカミジ/若水」と呼ばれお茶を沸かして仏壇に供え、家族でそのお茶を飲みました。かつて集落の「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」の境目に「ウマイーグヮー」と称する馬の練習場がありました。大正時代まで「南風原町」には「ハルスーブ/畑勝負」という行事があり、各字にある畑の管理状況の良し悪しを競い合っていました。南風原の役場があった「宮平集落」の「ウマイー」に村民を集めて結果を発表しました。その余興として馬の走り方の美しさを競う「琉球競馬」が盛大に行われていました。その競馬に出場する馬の練習場が「ウマイーグヮー」で、現在は「南風原町立湘南小学校」の敷地となっています。(製糖工場跡の石碑)(メーグミ/ナカグミ/アガリグミ/イリグミ)(ミーグミ)(メーヌミーグミ)かつて「喜屋武集落」の「ヤードゥイグヮー」と呼ばれる場所には「サーターヤーグミ/製糖屋組」が連なり、現在「製糖工場跡」の石碑が建立されています。1921年(大正10)まで4つの「サーターヤーグミ」組織があり「ナカグミ・アガリグミ・イリグミ・ミーグミ」で形成されており「グミ/組」は「チュチョーデー」や門中より下位の一定範囲の父系血縁関係者を中心に構成されていました。その後「メーヌミーグミ・ウィーヌアガリグミ・ウィーヌミーグミ」が設立され全部で7組となりました。旧暦9月1日の「クングヮチゴー/9月ゴー」では「サーターヤーグミ」単位で行事を行ってたと伝わります。「黄金森」にある「仏の前」と呼ばれる拝所の屋根の葺き替えのため、毎年「サーターヤグミ」単位で作業を分担して競い合って仕事をしていたと言われています。1937年(昭和12)に「喜屋武共同製糖工場」が設立され、発動機によるサトウキビ圧搾機械が導入されたのをきっかけに「サーターヤーグミ」組織は解体されました。(サーターヤーガー跡)(ダンパチヤー跡)(ヘンダガー/フェンダガー/南風平井の石碑)(ヘンダイチ/フェンダイチ)「製糖工場跡」の石碑に隣接した「ミーグミ」の敷地に「サーターヤーガー」跡があり現在は公園として整備されています。この井戸は住民の飲料水以外にも「ミーグミ」の製糖工場で働いていた馬の水浴びをさせた井戸であるとも考えられます。さらに現在は更地となっていますが「ミーグミ」の南側にはかつて「ダンパチヤー/理髪店」があり、地域住民に重宝されついたと思われます。この「ダンパチヤー」の南側には「ヘンダガー/フェンダガー/南風平井」の石碑があり、この広場は「ヘンダイチ/フェンダイチ」と呼ばれています。最後に「喜屋武集落」にまつわる言葉を紹介します。『喜屋武ぬ 童達(わらばぁたー) 長者の大主 ジンナーク 美らさ ちゅらさ』『喜屋武(ちゃん)や 綱(ちな)ぬ、結(むすま)い』『芸能や 喜屋武人(ちゃんちゅ)ぬ 肝果報(ちむかふう)』
2023.09.22
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(名護之殿)沖縄本島の南部に「南風原町」があり、沖縄県内で唯一海に面していない町として知られています。「南風原町」の南東部に方言で「チャン」と呼ばれる「喜屋武/きゃん集落」があります。この集落は「ムラウチ/村内」と「ヤードゥイグヮー/屋取小」に区分され、その間にはかつて標高60メートル程の丘陵がありました。この丘陵の一部を人力で切り開き「ムラウチ」と「ヤードゥイグヮー」を結ぶ「ワイトゥイ」と呼ばれる道が1920年(大正9)に開通しました。「喜屋武集落」には「南風原町」のシンボルである「黄金森/クガニムイ」があり、この森の丘陵の西側にはウマチーの際に祭場となった「名護/ナグ」や集落の草分けの家筋である「親国/ウェーグン」をはじめとする旧家群が位置しています。この一帯が「喜屋武」のムラの始まりだとされていますが「黄金森」の頂上付近にある「喜屋武シジ」に集落の始祖の屋敷があったとも伝わっています。(名護之殿)(名護之殿のヒヌカン/ウコール)(名護之殿のシーサー)(勝連カー/勝連門中)「喜屋武集落」の北部に「喜屋武農村公園」があり、この敷地に「名護/ナグ」と呼ばれる祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『名護之殿 喜屋武村 稲二祭之時、五水壱沸二合宛・神酒壱宛 地頭、穂•シロマシ壱器・神酒宛 百姓、供之。本部巫祭祀也。此時、巫壱人・居神三人、百姓中ヨリ盆拵馳走仕ル也。』と記されています。「名護之殿」は草分け旧家である「ニーチュ/根人」の「ナグヤシチ」と呼ばれる屋敷でした。沖縄戦で焼失する以前まで土間(台所)と床敷きの一間からなる瓦葺きの建物で、大正5年頃までは茅葺屋根であったと伝わります。さらに当時の建物には台所にあった「ミチムン/火の神」と「トゥハシル」という家屋の二番座出入り口付近にウコール(香炉)があったと言われています。「名護之殿」の敷地に「勝連カー 勝連門中」と刻まれた石碑、ウコール、井戸跡が祀られています。この井戸はかつて「黄金森」の頂上にある「喜屋武シジ」北側の森の中にありました。(アナカー)(ミジグラ)(ウフカー)(下ぬ嶽)「喜屋武農村公園」には他にも「アナカー・ミジグラ・ウフカー・下ぬ嶽」の井戸跡が合祀されており、それぞれに石碑、ウコール、井戸跡が祀られた拝所となっています。これらの井戸はかつて「黄金森」の西側に点在しており「南風原町中央公民館」や「県道241号/宜野湾南風原線」の建設により「名護之殿」の敷地に移設されました。旧暦5月15日の「5月ウマチー」は稲の初穂祭で、集落の「ムンチュー/門中」単位での「カーウビー」と呼ばれる井泉拝みが行われます。また、集落の旧家である「親国」家で造られた「ウンサク/神酒」には「ウフカー」の水を混ぜて使う習わしがあったと言われています。「5月ウマチー」の際に「ジシチガミ/儀式係」の2人により「ウンサク」と握り飯を重ねた「ウブン」が準備され「名護之殿」の「トゥハシル」のウコールの前に供えられ「本部ノロ」や「喜屋武集落」の神人により祭祀が行われました。ちなみに「下ぬ嶽」は「黄金森」の「イシジャー」と呼ばれる「上の御嶽・中の御嶽・下の御嶽」の丘陵麓にあった井戸跡であると伝わっています。(親国/ウェーグンの井戸)(恩納ヌ前ヌクムイ)(ナカミチ)(内原のカー)「喜屋武之殿」がある「喜屋武農村公園」の南側に集落の草分けの家筋である「親国/ウェーグン」の屋敷があり、敷地の脇に井戸が残されてウコールが設置されています。「ニーガン/根神」の神役は「親国」の系統から出ており「イシジャー」の御嶽の神を司っていたと伝わります。旧家の「前親国/メーウェーグン」から「門/ジョウ」に嫁いだ女性が「ニーガン」の「ウナイ/姉妹」神「親国/ウェーグン」から「小城/ググー」に嫁いだ女性が「ニーガン」の「ウィキー/兄弟」神を務めていました。「黄金森」の「イシジャー/上の御嶽」にある岩の上には厨子甕があり「親国」の現在の門中墓に祀られている「タカシップ」とう人物であるとも言われています。古老によると、毎年「親国」の関係者が「下の御嶽」の近くの溝で「イシジャー」にある人骨を洗う行事があったと伝わっています。また「名護之殿」の北側には旧家である「内原」の屋敷があり「内原のカー」と呼ばれる古い井戸が現在も残されています。(仲里井/ナカザトゥガー)(ハンタイチ)(ボーントゥ用の土)(第一織物工場跡)「喜屋武之殿」の西側に「仲里井/ナカザトゥガー」と呼ばれる井戸跡があります。戦前までこの付近に集落の草分け旧家の1つである「仲里」の屋敷があったと言われています。「琉球国由来記」には『仲里之殿 喜屋武村 稲二祭之時、花米五合宛・五水壱沸宛 仲里大屋子、穂・シロマシ壱器・神酒壱宛 同村百姓、供之。本部巫祭祀也 此時、巫、百姓ヨリ盆拵馳走仕ル也。』と記されています。「イガン/居神」と呼ばれる神役は「親国」の二男腹とされる「仲里」の門中系統から出ました。また「喜屋武農村公園」の北側に「ボーントゥ」の土を摂る場所があります。「ボーントゥ」とは旧盆の「ウンケー」に仏壇の位牌の前に供える飾り物の事で、土を大きめの形に固めてサトウキビの先枝とクガニー(ミカン)を飾り付けます。サトウキビは「クァンマガ/子孫」てクガニーは「ウヤファーフジ/先祖」を意味しています。(喜屋武公民館/ムラヤー)(喜屋武公民館/ムラヤー)(ムラヤー/ブルブルギー跡)(ムラヤー/ブルブルギー跡)「喜屋武集落」の中央に「喜屋武公民館」があり、かつては「ムラヤー」と呼ばれていました。戦前まで「ムラヤー」の敷地には泥棒や罪人を吊り下げる「ブルブルギー」または「ヌスドゥサギーギー」と言う木があったと伝わっています。かつて「喜屋武集落」のムラの掟と制裁は厳しく、部落で重罪を犯した者は「ムラヤー/公民館」に連行され村人全員の前でひざまづき(正座)をさせられ罰金も課されました。その罰金で豆腐と酒を購入し、15歳以上の男女が飲み食いをしたと伝わります。最低でも各人に豆腐一丁はあたり、普通は酒もたらふく飲めるほどあったそうです。「喜屋武」のムラを評して「チャンカニ」と表現されて「カニ」は「鉄」の意味で「喜屋武」のムラの掟が鉄のように固い事を表現しています。若い女性に対する規制が徹底して厳しかったと言われています。古老が若い頃には「モーアシビ/毛遊び」や「歌グヮーシーガ/歌うたい」なや参加しただけでムラに引っ張られた人達が沢山いたと言われています。
2023.09.07
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(黄金森/クガニムイ)沖縄本島南部の中央に位置する「南風原町/はえばるちょう」は周りを6つの市町に囲まれ、沖縄県で唯一の海に面していない町として知られています。「喜屋武/きゃん集落」は「南風原町」の南東部に位置し「本部•照屋」の2つの集落に隣接しています。かつて「喜屋武」と「本部」の間に「本部ンマイー」という馬追い(馬場)があり「照屋」との間には「メーヌシジ/前のシジ」と呼ばれる丘陵が以前あり、集落間の境界線として用をなしていました。この「喜屋武•本部•照屋」の3集落は「サンカ/三箇」と呼ばれ「本部ノロ」が管轄して祭祀が執り行われていました。さらに、この3集落は戦前から「琉球絣/かすり」の生産が盛んである共通点があります。「南風原中央公民館」の東側に隣接する「黄金森/クガニムイ」の丘陵は「イシジャー」と呼ばれる御嶽の森となっており、戦前までノロが祭祀を行った「カー/井泉」が数多く点在していました。(イシジャー/上の御嶽)(イシジャー/上の御嶽のウコール)(イシジャー/喜屋武ノロの墓)(イシジャー/喜屋武ノロの墓)「黄金森」の西側丘陵は「イシジャー」と呼ばれる一帯で、山手から「上の御嶽・中の御嶽・下の御嶽」で構成されています。「上の御嶽」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『喜屋武之嶽 神名 イシガワノ御イベ 喜屋武村 本部巫崇所。』と記されています。「上の御嶽」の中心部には巨大な岩があり「イシジャー」及び「イシガワノ御イベ」の「イシ」はこの岩に因んでいると考えられています。また、この岩の上には厨子甕が2基あり「タカシップ」という人物のものである説があります。「ボージウシュ/坊主御主」と呼ばれた「尚灝王/しょうこうおう(1787-1834年)」に遠慮せず相撲で勝ってしまった「タカシップ」が王様の家来に北谷の「ムルチグムイ」で殺されたと言われています。また「上の御嶽」の岩の背後には「喜屋武ノロ」の墓があり「喜屋武集落」がまだ「本部ノロ」の管轄になる以前に存在したノロが眠る墓であると伝わっています。(イシジャー/中の御嶽)(イシジャー/中の御嶽)(イシジャー/中の御嶽の石柱)(イシジャー/中の御嶽のウコール)「サチガユーヌウタキ/先の世の御嶽」とも呼ばれる「上の御嶽」の下方には「中の御嶽」があります。祠のウコール(香炉)には「上の御嶽」のと同様に『文政二年巳卯九月十三日 奉寄進 野原仁屋・仲里仁屋』という文字が刻まれています。因みに文政二年は1819年で、伝承によると「野原仁屋」は「喜屋武集落」の旧家である「前門」家の祖先、さらに「仲里仁屋」は「仲里」家の祖先で、御嶽のウコール石は2人が唐旅をした際に土産で持ち帰った石を寄進したものだと言われています。2人が旅に出る前に「イシジャー」の神に旅の安全の願掛けをし、その後無事に集落に戻って来られた事への感謝として石を奉納したと伝わったています。ウコールに刻まれた年号が日本式の年号であることから、唐への旅ではなく大和(薩摩)への旅であった可能性が高いとも言われています。また、奉納された石は船を安定させるために船底に積まれた石であったとも言われています。(フトゥキヌメー/仏の前)(フトゥキヌメー/仏の前)(フトゥキヌメー/仏の前の祠)(フトゥキヌメー/仏の前の祠内部)「イシジャー」の南側丘陵に「フトゥキヌメー/仏の前」と呼ばれる祠があり、内部には丸型の石とウコールが祀られています。この拝所は旧暦9月9日の菊の節句で健康を祈願し、お祝い行事や無病息災を祈る場所となっています。以前は丸い石の周りに小石が7〜8個あり「フトゥキーグヮー/仏小」と言われていました。かつて「山川集落」を除く「南風原」の全ての集落の人々や南風原村役所からも代表者が参拝していました。さらに昔は「糸満」からも「フトゥキヌメー」を拝みに来ていましたが、神体の石を分けてからは来なくなったと伝わっています。戦時中においては戦争に関する祈願を行う場所になり、日本軍が南京やシンガポールに侵攻攻略した際に戦勝祝いが行われ「喜屋武集落」の青年会が軍歌を歌いながら「フトゥキヌメー」を廻ったと言われています。しかし、沖縄戦が始まると戦争に関する祈願は全て行われなくなったそうです。(喜屋武シジの入り口)(喜屋武シジ/日本軍兵士埋葬地点)(喜屋武シジの頂上)(黄金森の飯上げの道入り口)「フトゥキヌメー」の南側に「喜屋武シジ」と呼ばれる「黄金森」で1番標高が高い場所があり「シジ」とは地元の方言で「高い場所」を意味しています。「喜屋武シジ」は琉球王国時代「南風原間切」の納税完納祝いが行われ、さらに「フトゥキヌメー」を拝んだ後に「喜屋武シジ」の広場で宴会をする「喜屋武シジ拝み」も行われていました。「喜屋武シジ」の頂上は戦時中には見張り場所として利用され、周辺には米軍による激しい砲弾や爆弾の攻撃で出来たと思われる大小多数の穴や、日本軍が造った交通壕が残されています。戦後間もない頃「喜屋武シジ」一帯は「ガイコツ山」と呼ばれるほど人骨が散乱していたと伝わり、現在も戦没者の遺骨が眠っていると言われています。「フトゥキヌメー」と「喜屋武シジ」の間には「飯上げの道」が残されており「黄金森」西側の「喜屋武集落」にあった炊事場から各壕に食糧を運ぶ道として使用されていました。
2023.08.31
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