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(久志若按司御位牌安置所)沖縄本島北部に名護市「久志集落」があります。この集落の中央で祝女殿内と神アサギに隣接した場所に「久志若按司御位牌安置所」「ニーブ神・裕参郎キナヤヒノカン」「フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子御霊安置所」の3つの祠が建立されています。「久志之若按司」は1889年に「琉球浄瑠璃」に掲載された組踊「久志の若按司」で広く知られるようなりました。この3つの祠が合祀されている場所は集落の聖域とされ、住民により大切に崇められています。(久志若按司御位牌安置所)(久志若按司御位牌安置所の石碑)(久志若按司御位牌安置所の仏壇)(久志若按司の位牌)(久志若按司御位牌安置所の火の神)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカン)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカンの石碑)(ニーブ神/裕参郎キナヤヒノカン)(フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子御霊安置所)(フェーク子/シンマ子/ナカウカイ子御霊安置所の石碑)(フェーク子/シンマ子/ナカウカイ子御霊安置所の内部)「久志若按司御位牌安置所」は「久志之若按司元祖屋」とも呼ばれ、木造瓦葺の祠内部には「久志之若按司」と「久志之按司父子」の名前が併記された位牌が安置されています。昭和18年、区民総意により若按司の子孫と言われている赤平屋の同意を得て現在地に移され村で管理し崇めています。「ニーブ神・裕参郎キナヤヒノカン」の祠は1987年8月10日にニーブ屋敷にあったニーブ神と裕参郎屋敷にあったキナヤヒヌカンが移設されて拝されています。そして「フェーク子・シンマ子・ナカウカイ子」の三神を祀った祠には、三子が部落創始として神格化され崇拝するために合祀されています。(シチャヌカー/ウブガー)(シチャヌカー/ウブガーの石碑)(シチャヌカー/ウブガーのウコール)(シチャヌカー/下の川)(下の川橋/しちゃぬかわばし)(下の川橋/しちゃぬかわばし)(タカトゥジー/高頂の石碑)(タカトゥジー/高頂の森)「久志若按司御位牌安置所」の北西側に「シチャヌカー/下の川」の拝所があり「ウブガー/産川」とも呼ばれています。集落で子供が産まれた時の産水(ウブミジ)や正月の若水(ワカミジ)に利用され、生活用水としても欠かす事が出来ない川でした。この拝所は現在、河川工事により道路脇に移設されました。「シチャヌカー/下の川」には「下の川橋/しちゃぬかわばし」と呼ばれる橋が掛かっています。この拝所の東側で屋号「徳森家」の後方の森は「タカトゥジ/高頂」と言われ、かつて頂上にはお祭りの広場があり祭事が行われていました。また、昔は特に大きな老松があったとの言い伝えがあります。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.29
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(ヌロドゥンチ/祝女殿内)沖縄本島北部の名護市に「久志集落」があり、その昔は「久志間切」に属していました。この集落の東側に「ヌロドゥンチ/祝女殿内」と云う祝女が居住した屋敷があります。一般的にはノロドゥンチと呼ばれる祝女殿内ですが「久志集落」では「ヌロドゥンチ」と称されています。この「ヌロドゥンチ」がある一帯は「アタイ」と呼ばれる古島から現在の部落に移って来た時の最初に集落が出来た場所だと考えられています。戦前から1983年(昭和58)に92歳で逝去されるまで「久志ヌロ」を勤めた大城マツさんが住んでいました。ちなみに、この屋敷の屋号も「殿内」でした。(ヌロドゥンチ)(祝女殿内の表札)(ヌロドゥンチの内部)(ヌロドゥンチの仏壇)(歴代久志ヌロの位牌)(ヌロドゥンチのヒヌカン)(ヌロドゥンチのトゥクヌカミ)(ヌロドゥンチ中庭のヌロガー)(ヌロドゥンチ)「ヌロドゥンチ」の内部には正面中央に「ヒヌカン/火の神」が祀られていて、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『久志巫火神 久志村 毎年三・八月、四度御物参之時、有祈願也。稲二祭三日崇、且、年浴・柴指之時、仙香・花米五合宛・五水四合宛・神酒五器宛 久志・辺野古 二ヶ村百姓、供之。久志巫祭祀也。』との記述があります。「ヒヌカン」に向かって左側の仏壇には歴代ヌロの位牌が祀られています。さらに、このヌロドゥンチの中庭には久志ヌロが生活用水として利用したと考えられる井戸が現在も残されています。(ナーギムイへの遥拝所)(ナーギムイ/見揚森)(ナーギムイの入り口)(ナーギムイの石碑)(ナーギムイの御嶽)「ヌロドゥンチ」の中庭に東側にある「ナーギムイ/見揚森」を遥拝する拝所があり、コンクリート製の拝み場にはウコールが設置されてヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「ナーギムイ」は「琉球国由来記」に『ミアゲ森御イベ 不伝神名 久志村 久志巫タカベ所。』と記されています。「ナーギムイ」の頂上には拝所が祀られており、ウコールが設置されています。この御嶽は「アガリムイヌウタンカドゥクル/東森ノ御嶽所」とも呼ばれています。(神アサギ)(神アサギの内部)(神アサギの天井)(神アサギ)「ヌロドゥンチ」に隣接してヌロが祭祀を行う「神アサギ」が建てられています。古島から「ヌロドゥンチ」と同時に移動して来たと言われており、御拝で行ってきた村の平和、五穀豊穣、海の安全を祈る祭事を行う神殿とされています。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 久志村 稲二祭之時、五水四合宛 惣地頭、シロマシ二器・神酒二宛・花米九合宛・肴四器宛 百姓。大祭之時ハ赤飯一器供之也。年浴・柴指之時、神酒二宛・肴四器宛 百姓、供之。久志巫祭祀也。』との記述があります。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.15
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(久志の観音堂)沖縄本島北部の名護市「久志集落」に「久志の観音堂」が建立されています。この観音堂が設定されたのは1688年で、そのことについて琉球王府の歴史書である「球陽」には『尚経(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)が久志間切の総地頭の時に観音様の石像を貰い受け、それを納めるお堂を久志の村に建て、それ以降村の人々は毎月一日、十五日、十八日、二十三日に観音堂を拝むようになった』との記述があります。(久志の観音堂)(観音様の石像)(観音様の石像に向かって左側)(観音様の石像に向かって右側)(観音様の石像)(観音様の石像に設置されたウコール)(久志観音堂の扁額)地元では、この観音堂を「ティラ」観音様の石像を「ティラヌタンメー」と呼び親しんでいます。特に旧暦の一月三日、一月十八日、九月十八日、十二月二十四日には「久志集落」をあげて観音堂を拝み、地域の繁栄と住民の健康を祈ります。その他にも、旅に出る時の安全祈願や子供の誕生、合格祈願、住民が亡くなった時に魂が残らないように祈る「ヌギファ」の時も拝れています。近年は集落外からの参拝者も多くなりました。(久志古島遺跡/久志の古島)(久志古島遺跡/久志の古島)(久志古島遺跡/久志の古島)(久志の観音堂)観音堂の前には名護市教育委員会により設置された案内板があり『現在のお堂は昭和四八年(一九七三年)に修復されたもので、建材には主にチャーギ(イヌマキ)が使用されています。』と記されています。この観音堂が建つ場所は地元で「アタイ」と呼ばれており、この周辺一帯に「久志集落」の古島があったと伝わっていて「久志古島遺跡」と呼ばれています。YouTubeチャンネルを解説しました!↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.07
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(許田の手水/クシヌカー)「名護市」の「許田/きょだ集落」は沖縄本島南部の東海岸にある名護湾に面した小さな部落です。旧名護間切の南部に位置しており、沖縄の方言で「チューダ」と言われています。17世紀中頃の古文書には『久田』とあり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『許田』と表記されています。現在は大幅に埋め立てられていますが、かつては集落の山地の麓に大きなウチウミ(内海)があり、そこを中心に「ティミジ/手水・フクジ/袋地・クチャマタ/古知屋又・ヒンジュク/湖辺底」という4つのムラで形成されていました。(許田の手水/クシヌカーの祠)(許田の手水/クシヌカーの祠内部)その昔「許田」にたいへん美しい娘がいました。ある日、この娘がムラの後ろにある「クシヌカー」という井泉で水を汲んでいると、馬に乗った首里の殿様が通りかかり娘に「水をください」と声をかけました。娘がニーブ(ひしゃく)を使って水をあげると、殿様は「あなたの手で水を汲んでください」と言ったので、娘は手で水を汲んであげました。その仕草と娘の美しさに惚れた殿様は娘を首里に連れて行ったという話が伝えられています。それから「クシヌカー」の井泉を「手水」と呼ぶようになりました。「許田の手水」の水は洗い物などの生活用水ではなく、飲料水やミーミジ(若水)やウブミジ(産水)に使用されたと言われています。(許田の手水/クシヌカーの手水鉢)(許田の手水/クシヌカーの石碑)「許田集落」の入り口に現在の橋が掛かる前は、大きく入り込んだウチウミの入江沿いに道があり古地又(こちやまた)や福地原(ふくちばる)を通って「許田の手水」の前を通るようになっていました。この道沿いにあった「手水」は昔から村人のみならず、多くの旅人の喉を潤してきました。さらに、この井泉が娘と殿様の伝え話と共に広く知れ渡り「平敷屋朝敏/へしきやちょうびん」作の組踊『手水の縁』の題材に利用されました。その他「許田の手水」にまつわる琉歌も詠まれています。『馬よ引き返せ しばし行き見ぼしや 音に聞く名護の 許田の手水』ー与那原親方良矩ー(許田のウバメガシ/ナーナンギー)(許田のウバメガシ/ナーナンギー)「許田の手水」後方の山中に「許田のウバメガシ」という名護市指定天然記念物の古樹があり、地元では「ナーナンギー/ナーナシギ」と呼ばれています。「許田集落」の旧家「寛栄屋」の家主が案内してくれた「ウバメガシ」は戦後台風で倒れた老大樹の萌芽木で、現在は幹の先まで空洞化し名護市の管轄で管理されています。「ウバメガシ」は神奈川県以南、四国、九州、中国の主に沿岸の潮風が厳しい環境に分布し、沖縄では伊平屋島、伊是名島に林があります。「許田のウバメガシ」は分布の南限地となっています。「ウバメガシ」は樹木としての成長は遅く材の目詰まりが著しいため、薪炭材として火持が良く高い温度を発生させる白炭や備長炭として重宝されてきました。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の鳥居)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の石碑)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の階段)「許田集落」の東側丘陵で「許田の手水」に隣接した場所に「クシヌウタキ/後ヌ御嶽」があります。この御嶽は集落の守護神が祀られており、戦前は小さな拝所でしたが昭和40年に現在の祠に改修されました。「琉球国由来記」に記されている『ヨリアゲマキウノ嶽 神名 イベヅカサ 喜瀬巫崇所』は「クシヌウタキ」に相当すると考えられ「喜瀬ノロ」の管轄として祭祀が執り行われていました。「許田集落」を一望できる「クシヌウタキ」の丘陵麓には「後ヌ御嶽」と彫られた石碑があり、御嶽の入り口には鳥居が建立されています。丘陵の頂上には「クシヌウタキ」の祠があり内部にはウコール(香炉)が祀られており、花瓶、ロウソク、三方が設置されています。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠内部)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の階段)「許田の手水」は山裾の「ヒージャー/樋川」と呼ばれる湧き水で、昔から飲料水として重宝されていました。この「手水」は琉歌にもよく謳われています。『面影よ残す許田の玉川に なさけ手にくだる水の鏡』ー玉城親方朝薫ー『昔手にくだける情から出ぢて なまに流れゆる許田の手水』ー詠み人知らずー『見る人はつめていきかはりがはり いつも流れゆる許田の手水』ー粟国親雲上ー『手水しゆて代々に名を残す人の いきやしがな行衛たづねぼしやの』ー喜瀬筑登之ー
2023.12.07
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(パマイタラシキ御嶽)沖縄本土北部の名護市東海岸に「嘉陽(かよう)集落」があり、約1700年前の沖縄貝塚時代後期から存在するこの集落は方言で「ハヨウ」と呼ばれます。太平洋に面した砂地に立地する「嘉陽集落」は間切ごとの石高を示した「琉球国高究帳(1635-1646年)」には名護間切「かやう村」と記されています。「嘉陽集落」の西側にある「ハンサ山」の裾には墓地が広がり、かつてこの山は風葬や洗骨が行われ、ワラビ墓と呼ばれる子供の墓もあります。「ハンサ山」の西の麓には「パマイタラシキ」という御嶽があります。「琉球国由来記(1713年)」には「濱板良敷嶽 (神名:ソノイタジキノ御イベ」と記載されており、この御嶽は「イリヌウタキ/西ヌ御嶽」とも呼ばれています。(パマイタラシキ御嶽の祠)(パマイタラシキ御嶽の祠内部)「パマイタラシキ御嶽」にはかつて首里から伝えられたミカネ(御鐘)が鎮座していて住民の御願の対象となっていましたが、沖縄戦の混乱の中で失われたと伝わります。この御嶽は旧暦1月1日の「ハチウガミ(初拝み)」の際に集落の住民により拝され、さらに旧暦9月9日の「クングヮツクニチ」の「チクザキ(菊酒)」には、昔は各家庭でご馳走を持ち寄り「パマイタラシキ」の木の葉に乗せて皆に振る舞っていたそうです。西側に向けて建てられた御嶽の「イビ」である祠内部には、神が宿るとされる幾つものビジュル(霊石)が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。(ガジュマルの老樹とシーサー群)(アンスナー/遊び庭)「嘉陽集落」は全体が「嘉陽貝塚遺跡」に属しており、集落内からは沖縄貝塚時代後期後半を代表する括れ平底の土器、グスク時代の土器、奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていたカムィ焼、中国産の青磁、染付、南蛮陶器などが発掘されています。「嘉陽集落」はアガリ(東)とイリ(西)に分かれており、アガリには「アンスナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。「アンスナー」には樹高12m、推定樹齢120年以上のガジュマルの老樹があり、名護市の名木にも登録されています。ガジュマルの前には大小合わせて13体のシーサー群が立ち並び、集落の憩いの場として親しまれています。(アンスナーの合祀所)(拝所のヒヌカン/火の神)(拝所のヒヌカン/火の神)「アンスナー/遊び庭」の広場にかつて点在していた「ニガミヤー」「ニーブガミ」「アジヌヤー」の3つの拝所は現在、ガジュマルの脇に1ヶ所に集められた合祀所となっています。集落発祥の根屋(ニーヤ)から出た姉妹である「ニガミ/根神」が住んだ家を「ニガミヤー/根神屋」と言い、神酒を管理した役職は「ニーブガミ」と呼ばれていました。それぞれの家のヒヌカン(火の神)がこの合祀所の拝所に祀られており、3体のビジュル(霊石)と1基のウコール(香炉)が設置されています。また「嘉陽」の土地を治めた「按司(アジ)」が住んでいた場所を「アジヌヤー/按司ヌ屋」と呼び、木製の扉が付いた拝所には位牌と綱引きの際に使うトゥールという旗頭が大切に収められています。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ヌルドゥンチ/ノロ殿内の内部)(比嘉家/根屋)ガジュマルの老樹がある「アンスナー/遊び庭」から道を挟んだ西側に「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の社があり、内部にはヒヌカン(火の神)が祀られています。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の西側に隣接して「比嘉家」の屋敷があり「嘉陽集落」の発祥に関わった「ニーヤ/根屋」となっており、集落の祭祀を司る「嘉陽ノロ(祝女)」は代々この「比嘉家」から出ていました。「アンスナー」の「ニーブ神」は「比嘉家」の拝所として、集落のムラ行事で御願する事はありません。また「ニーブ神」の神職には「比嘉家」の男性が就く決まりがありました。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の東を通る道は「ヌルドゥンチジョウグチ」と呼ばれる神聖なカミミチ(神道)で、葬式の際に遺体を運ぶ龕(ガン)と呼ばれる屋形の輿の通行や参列者の往来は固く禁じられていました。(シーシーヤー/獅子屋)(シーシーヤー/獅子屋の内部)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内の内部)「比嘉家」の屋敷の西側にある「シーシーヤー/獅子屋」では「嘉陽集落」の獅子が納められています。旧暦8月15日は獅子の誕生の日とされており、獅子舞が奉納され「ウシデーク/臼太鼓」と呼ばれる女性による踊りが行われます。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の木の下で着替えた踊り手は西側に隣接する「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」から踊りを始め「アンスナー/遊び庭」に移動して踊り続けます。この「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」には出所がわからない七基のウコール(香炉)が祀られており、かつて南西側の「安倍集落」と北東側の「天仁屋集落」から、それぞれ「比嘉家」の長男系と次男系のムンチュー(門中)が御願に訪れていたと伝わります。(カミミチ/神道)(ウトゥーシン/御通神)「アンスナー/遊び庭」から「嘉陽集落」の東にある「ウイグシク/上城」方面に向かう道も「カミミチ/神道」と呼ばれています。この神聖な道の先には「ウトゥーシン/御通神」と呼ばれる拝所があり「御通神」と彫られた石碑が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。「ウイグシク/上城」の拝所は山の上にあるため、足が悪い人やお年寄りはこの「ウトゥーシン/御通神」から拝します。「ウイグシク/上城」に向けられて建立された「ウトゥーシン/御通神」は「嘉陽城嶽」の御嶽を御願する遥拝所の聖域として崇められているのです。このように「嘉陽集落」は東西を「嘉陽城嶽」と「濱板敷良嶽」の2つの御嶽に挟まれており、集落の中央には拝所が点在する聖域となっているのです。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.05.19
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(ウイグシクのシーサー)沖縄本島北部にある名護市の東海岸に「嘉陽(かよう)集落」があり「ハヨウ」とも呼ばれています。NHK連続ドラマ小説「ちむどんどん」で「山原高校」としてロケ地となった「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の北側に「ウイグシク/上城」と呼ばれるグスクがあり「嘉陽集落」では、神が訪れる神聖な御嶽のグスクとして崇められています。「琉球国由来記(1713年)」には「嘉陽城嶽(神名:アカウズカサノ御イベ)」と記されており「嘉陽巫(ノロ)」が祭祀を司るグスクヤマとなっています。「ウイグシク/上城」の山麓にあるグスク入り口には石造りのシーサーが設けられ、神聖な御嶽の守り神として鎮座しています。(ウイグシクを登る階段)(キョウの岩礁)(ウイグシク頂上に向かう山道)「嘉陽集落」の北東部にある「ウイグシク/上城」にはニライカナイから神が訪れるとされ「嘉陽ノロ」をはじめとするカミンチュ(神人)や集落の住民の祈りの聖域として崇められています。「ウイグシク/上城」の南側に広がる「嘉陽海岸」の海中に突き出た「キョウ」と呼ばれる岩礁は「ウイグシク/上城」に神が訪う際に一休みする聖なる岩であると伝わります。「キョウ」の岩礁にはかつて「龍宮神」が祀られ「嘉陽ノロ」により海の航海安全や豊漁が祈願され、さらに「アブシバレー」と呼ばれる害虫駆除の儀式の際にノロが舟で渡り祭祀を行う聖地となっています。「ウイグシク/上城」の階段と山道はカミミチ(神道)として標高約60mの頂上に繋がっています。(ウイグシク頂上の鳥居)(ウイグシクのトゥン/殿)「ウイグシク/上城」の頂上にある鳥居をくぐり抜けると「トゥン/殿」と呼ばれる広場があります。かつてこの場には「嘉陽ノロ」が祭祀を司る「神アサギ」がありましたが、台風により赤瓦屋根の「神アサギ」は倒壊してしまい、残念ながら現在は跡形も残されていません。その昔「嘉陽集落」は「ウイグシク/上城」の丘陵中腹から移動した伝承があり、このグスクは特に神聖な場所として木の伐採が禁じられるなど集落の住民に大切に崇められています。旧暦9月20日に行われる「ハツカミンナディ/二十日水撫でぃ」にはグスク頂上の「トゥン/殿」に住民が集まりウガン(御願)をして拝されています。(嘉陽城嶽の社)(御嶽の社内部)(社内部の手水鉢)「ウイグシク/上城」の頂上には「琉球国由来記(1713年)」に「嘉陽城嶽(神名:アカウズカサノ御イベ)」と記された御嶽があり「沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年頃)」には「城御嶽」と表記されています。この御嶽には「嘉陽城火神」と「嘉陽巫火神」が祀られていると伝わります。御嶽のイビである社の内部には3体のビジュル(霊石)と1基のウコール(香炉)が3組づつ祀られており、さらに前方に2基のウコール(香炉)も設置されています。そして社内部に向かって左端には「嘉陽ノロ」が祭祀を行う際に使用したと思われる石造りの手水鉢が現在も置かれています。旧暦9月20日に行われる「ハツカミンナディ/二十日水撫でぃ」の祭祀には、集落の「ヤマダガー」と呼ばれる川から水を汲んで御嶽に運んだと伝わっています。(ミジガミ/水神の祠)(ミジガミ/水神の祠内部)(ニライカナイの神が髪を洗った池)「嘉陽城嶽」がある「トゥン/殿」には、かつて広場周辺を左縄で張った「ピサインナー」という魔除けの儀式があったと伝わっています。現在「トゥン/殿」には「ミジガミ/水神」の祠が「ヤマダガー」の方角に向けて鎮座しており、祠内部には数体のビジュル(霊石)と、1基の石造りウコール(香炉)が祀られています。この「ミジガミ/水神」の祠の前方には、かつてニライカナイの神が御嶽に訪れた際に髪を洗ったと伝わる池があります。現在も芝生の中に存在する池には水が溜まっており「神の聖域」として集落の住民に崇められています。「嘉陽ノロ」が「嘉陽城嶽」の御嶽で祭祀を司る際に、この池に自分の姿を映して身を引き締めたとされています。(紀元二千六百年祭記念碑)(紀元二千六百年祭/寄付者芳名の碑)(ウイグシク/上城中腹からの景色)1940年(昭和15年)に「紀元二千六百年祭」を記念して「嘉陽城嶽」の本殿と鳥居が建立され、グスク頂上には「紀元二千六百年祭記念碑」と「寄付者芳名の碑」が設置されました。伝承によると「ウイグシク/上城」は「嘉陽大主(かよううふしゅ)」が現うるま市の「勝連」から移住して築き居住したグスクであると伝わります。名護市教育委員会によって「ウイグシク/上城」の発掘調査が行われ、11世紀後半から16世紀前半に掘られたとされる約500本分の柱などが見つかりました。さらに中国産の青磁や白磁、徳之島のカムィヤキ、勾玉やガラス玉なども発掘されており「嘉陽集落」の発祥や歴史を研究する為に、現在も発掘調査が行われています。「ウイグシク/上城」からはNHK連続ドラマ小説「ちむどんどん」のロケ地となった「山原高校/美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」や美しい東海岸の太平洋を見渡す絶景が広がっています。
2022.05.14
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(山原高校/美ら島自然学校/旧嘉陽小学校)沖縄本島北部名護市の東海岸に太平洋を臨む「嘉陽(かよう)集落」があり、この集落の東側に「美ら島自然学校」があります。この学校は明治29年4月1日に「久志尋常小学校嘉陽分教場」として開校し、その後「嘉陽尋常小学校」から「嘉陽国民学校」と校名を変えて、昭和27年4月1日に「嘉陽小学校」と改称しました。そして平成21年3月31日に創立99年にて閉校し、現在の「美ら島自然学校」に生まれ変わりました。平成19年に角川映画「サウスバウンド」の撮影地に、平成21年にはTBSドラマ「今日も晴れ。異常なし」のロケ地となり、令和4年4月から放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」では「山原高校」としてロケ地に選ばれています。(山原高校/旧嘉陽小学校のグランド)(山原高校/旧嘉陽小学校の校舎)(山原高校/旧嘉陽小学校のグランド)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」のグランドは「ちむどんどん」で比嘉暢子(黒島結菜)と陸上部キャプテンの新城正男(秋元龍太朗)がかけっこで競争するシーンで登場し、バックに映る特徴的な山と椰子の木が印象的です。劇中では就職活動が上手くいかずイライラする暢子に、正男がアドバイスするシーンでも登場します。この「美ら島自然学校」は"太平洋を望む豊かな環境で、誰もが学べる自然学校"をテーマにしており「一般の方・学校関係者の方・大学生や研究機関の方」を対象にした、誰でも無料で手軽に利用できる教育施設です。子供達に海の生き物を観察させたり、高校や大学の課題でヤンバルを調査したり、野外活動や調査研究の活動拠点として幅広く利用されています。(山原高校/旧嘉陽小学校の校舎入り口)(二宮金次郎の銅像)(旧嘉陽小学校の校歌碑)この「山原高校/旧嘉陽小学校」の校舎入り口も「ちむどんどん」に登場します。劇中ではBOSSの青い自動販売機と美ら島自然学校の表札は、木製の囲いで物置きとして隠されています。更に「嘉陽小学校」の校章である「嘉」の文字もCG処理されています。しかし、玄関脇のヤシの木は撮影当時と同じ枯れ具合のままでした。校舎入り口の近くにある木の下には沖縄では珍しい「二宮金次郎像」があり、銅像の脇には「旧嘉陽小学校」の校歌が刻まれた石碑が建立されています。校歌の作詞と作曲は沖縄県と鹿児島県で活躍した詩人・国文学者・教育者であった「新屋敷幸繁(しんやしきこうはん/ゆきしげ)」によるもので、歴史的かつ文化的にも価値がある校歌碑となっています。(旧嘉陽小学校の校門)(旧嘉陽小学校の校門)(旧嘉陽中学校の校門)「美ら島自然学校」の校門には現在でも「嘉陽小学校」の銘板が遺産として残されています。ちなみに「ちむどんどん」の劇中ではこの銘板はCG処理で消えています。また、この校門の脇には「嘉陽中学校」と彫られた古い校門が文化財として大切に保存されており、美しいテッポウユリが咲き誇っています。昭和23年の学制改革により学校は6・3・3制度になり、初等学校6年と中等学校3年に変更されました。その後、昭和27年に初等学校は小学校に、中等学校は中学校と改称されました。さらに、昭和47年に「嘉陽中学校・久志中学校・三原中学校・天仁屋中学校」が統合されて「嘉陽集落」から西側にある「久志集落」に新たに「久志中学校」が創立された歴史があります。(キョウ)(竜宮神の石碑)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の東側に隣接する海に「キョウ」と呼ばれる尖った岩があります。「キョウ」は「嘉陽集落」では古より"聖なる岩"といわれており、海からやって来た神が集落北東にある「ウイグシク(上城)」に訪れる際、この岩で一息つくといわれています。また「アブシバレー」という田畑の害虫を駆除する祭祀の際に「嘉陽ノロ(祝女)」が「キョウ」に渡り、芭蕉(バナナの木)の茎で作った虫舟に害虫を乗せて海の南の方向に流して祈願したと伝わります。「キョウ」にはかつて海の航海安全と豊漁を祈願する「竜宮神」が祀られていましたが、現在は「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の校門近くに移動しており「竜宮神」の石碑が海に向けて建立されています。(聖火宿泊碑)(聖火宿泊の記念碑)(聖火台)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の校門脇には「聖火宿泊碑」「聖火宿泊記念碑」「聖火台」が設置されています。昭和39年9月7日に台湾から那覇に渡った「オリンピック東京大会」の聖火は、翌日の8日に那覇を出発して聖火リレーにより「嘉陽小学校」に到着しました。当時、聖火が灯された聖火台は現在も記念物として残されており「東京オリンピック2020」の際、2021年5月1日に再び「嘉陽集落」に聖火が到着して「おかえりなさい!聖火」の掛け声と共に同じ聖火台に火が灯されました。なお、当時建立された「聖火宿泊記念碑」には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火 当地宿泊を記念する」と刻まれています。実は台風で聖火の到着が1日遅れた為、事前に造られた石碑の修復が出来なかったという秘話があるのです。(ウミガメの繁殖場)(ウミガメ/タイマイ)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の西側にはウミガメの繁殖場があり「タイマイ・アオウミガメ・アカウミガメ」の3種が特別な水槽で飼育されています。繁殖されている全てのウミガメは本部町の「沖縄美ら海水族館」がある「海洋博公園」で産まれたウミガメで、孵化(ふか)してから約1年間「美ら島自然学校」で飼育されます。産まれたばかりのウミガメは体長5cm (30g)で、約1年で体長18cm (900g)まで成長し、標識を付けて海に放流されます。「タイマイ」と呼ばれるウミガメはクチバシが尖っており、甲羅のりん板は瓦のように重なっています。さらに、甲羅の形はシソの葉型をしているのが特徴です。このように「旧嘉陽小学校」は新しく「美ら島自然学校」に名を変えて、沖縄の海洋生物やヤンバルの大自然を学べる教育施設に生まれ変わり、新たな歴史を歩み始めています。
2022.05.09
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(小浜の川神)沖縄本島北部の東海岸沿いに名護市「天仁屋(てにや)集落」があります。この集落は貝塚時代から存在し、17世紀中頃の「琉球国絵図郷村帳」に「てぎな村」と記されています。「琉球国高究帳」(1635-1646年)では「てきな村」と記載されており、更に「琉球国由来記」(1713年)には「天仁屋村」と載せられています。この「琉球国高究帳」による当時の石高は28石余り(田24石余/うち永代荒地3石余含む畠3石余)であったと記録されています。「天仁屋集落」の東側に突き出た岬に「小浜の川神」と呼ばれる拝所があります。集落の北側にある農地の東側の森を約1キロほど進むと「小浜の川神」の祠が鎮座する岬に辿り着きます。(小浜の川神の祠内部)(小浜の川神の石碑)(小浜の川神からの絶景)東海岸の太平洋を臨む岬の崖縁に建立された祠内部には、神々が宿る3体のビジュルと呼ばれる霊石と3基のウコール(香炉)が祀られています。海の神、天の神、岬の神として「天仁屋集落」の東の守護神の役割があると考えられます。ヒラウコー(沖縄線香)を供えるウコールには賽銭が捧げられており、祠に向かって左側に隣接して「小浜の川神/天の川」と彫られた石碑が祀られています。この拝所の崖下には美しい絶景が広がっており、遥か彼方のニライカナイ(理想郷)を拝む事が出来ます。「天仁屋集落」に暮らす高齢の村人に挨拶した際に、この「小浜の川神」があるバンタ(岬)を訪れるよう紹介していただいた事に大変感謝しています。(小浜の川神)(小浜の川神から臨む天仁屋バン先)「天仁屋集落」には「ユーヒナハナの洞窟」と呼ばれる伝説があります。「天仁屋公民館」から300mほど離れた場所に「ユーヒナハナ」と呼ばれる農地があり、そこには直径約3mの穴があります。その洞穴に那覇から来た「ジュリ」という人物が身を投げた事がありますが、その死体は遠く離れた「天仁屋岬」の浜に上がっていたと伝わります。「小浜の川神」の拝所は太陽が昇る東の水平線に向けられており、琉球における太陽信仰を象徴する場所として相応しい聖域となっています。この岬からは「天仁屋集落」の南側にある「天仁屋バン先」を眺める事が出来て、古から変わらぬ大自然の絶景が今でも広がっています。(天仁屋竜宮神の石碑)(天仁屋竜宮神の崖縁)(天仁屋竜宮神の崖下にある滝)「天仁屋集落」の南東側の崖に「天仁屋竜宮神」があり、大きなガジュマルの木の麓に「天仁屋竜宮神」と彫られた石碑が建立されています。石碑の前にはウコール(香炉)が祀られており、人々が拝する「イビ」となっています。「イビ」とは拝所や御嶽の最も重要な聖域で神が宿る場所を意味します。竜宮神には海の神様が祀られており、航海安全と豊漁を祈願する聖域として崇められています。「天仁屋竜宮神」の崖縁からはニライカナイがある東の海が広がっています。さらに「天仁屋竜宮神」の崖下には滝があり、滝壺に流れ込んだ聖水は「天仁屋の浜」から太平洋に注ぎ込まれます。この「天仁屋竜宮神」は「天仁屋集落」の南の守護神であると推測され、非常に神秘的な雰囲気に包まれています。(天仁屋の浜の嘉陽層の褶曲)(天仁屋の嘉陽層の褶曲)「天仁屋集落」の南側にある「天仁屋の浜」に「嘉陽層の褶曲」と呼ばれる地層があります。褶曲(しゅうきょく)とは地層や岩体が長期間かけて力を受けて波のように曲がっている構造の事で、2012年に国指定天然記念物に登録されました。「嘉陽層」という地層は沖縄本島中部以北の東側に分布しており、砂岩・泥岩・層内礫岩および礫岩を伴い、それらが交互に重なっている地層の事です。約5400万年〜3700万年前に2000mを超える深海底に堆積したものと言われています。琉球列島の成り立ちを示す地層現象が保存された極めて重要な資料として、各教育機関で地学学習の場として利用されています。(盗賊の洞窟)(盗賊の洞窟)「天仁屋の嘉陽層の褶曲」に隣接して「天仁屋の浜」には洞窟があり、この洞窟にまつわる「天仁屋集落」に伝わる「狩人と牛盗人」という民話があります。「天仁屋」の集落がまだ無く一帯が深い森林だった頃、海岸の洞窟を住処にしている3〜4人の盗賊がいました。盗賊たちは近くの村から牛を盗み村人たちを困らせていました。ある日「嘉陽集落」の狩人が犬を連れて狩りをしていましたが、道に迷っているうちに「天仁屋」の海岸に出たのです。すると海岸の洞窟で盗賊たちが牛鍋を前にして酒を飲んでいるのが見えました。村人を困らせている盗賊はこいつらだと思った狩人は、犬をつかって盗賊たちを捕らえたのです。その時、狩人は辺りの地形や水利の良さを見て気に入り、村に帰ってそのことを話しました。それから「天仁屋」の開墾が始まり今の集落が始まったと伝わります。(カムイ外伝のロケ地/天仁屋の浜)(ちむどんどんのロケ地/天仁屋集落)(ちむどんどんロケ地/有津川)「天仁屋集落」は映画やドラマのロケ地としても知られています。「天仁屋の浜」は白土三平の漫画を崔洋一監督が松山ケンイチ主演で実写映画化したアクション時代劇映画「カムイ外伝」(2009年)のロケ地になりました。2022年のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地にもなりました。「天仁屋集落」北側の農道は小学校で熱を出して早退する、比嘉歌子(布施愛織)をおんぶして帰宅する比嘉優子(仲間由紀恵)が描かれています。更に「天仁屋集落」の北側の山の中に流れる「有津川」に架かる特徴のある橋もロケ地として使われました。沖縄が本土復帰する以前の設定であるドラマの舞台として、現在も沖縄の美しい原風景が「天仁屋」には残っているのです。
2022.05.04
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(天仁屋御嶽/天仁屋の宮)沖縄本島北部の「名護市」北東部の東海岸沿いに「天仁屋(てにや)集落」があり、沖縄の方言で「ティンナ」とも呼ばれています。「天仁屋集落」の西側で天仁屋公民館の南側に「天仁屋原(てにやばる)遺跡」があります。この遺跡は「天仁屋」が発祥した初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁や青花、更に近世から近代に沖縄で作られた陶器などが発掘されている事から「天仁屋集落」の歴史や当時の人々の生活様式を知る上で重要な遺跡となっています。「天仁屋原遺跡」には「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれています。(天仁屋御嶽/天仁屋の宮の鳥居)(天仁屋御嶽のイビ)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています。(神アシアゲ/神アサギ)(神アシアゲ/神アサギのウコール)(神アシアゲ/神アサギ脇の拝所)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の敷地に琉球赤瓦屋根造りの「神アシアゲ/神アサギ」があります。「天仁屋集落」の祭祀は「天仁屋ニガミ(根神)」ではなく、集落の南西側にある「嘉陽(かよう)集落」の「嘉陽ノロ」の管轄で執り行われていました。祝女による祭祀は「神アシアゲ/神アサギ」で拝され、稲穂祭・稲作事始めの儀礼の年浴・祭りの物忌である柴指・芋祭のヲンナイ折目などの年中祭祀が司られていました。ノロによる祭祀において最も重要な聖域である「神アシアゲ/神アサギ」の内部にはウコール(香炉)が祀られ、更に脇にもウコールが設置された拝所があります。それぞれのウコールは「天仁屋」の浜に向けられて設置されています。(ニガミヤー/根神屋)(ニガミヤー/根神屋のヒヌカン)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の東側に道を挟んだ場所に「ニガミヤー/根神屋」があります。この建物は「天仁屋集落」の祝女である「ニガミ(根神)」が暮らした屋敷があった場所であると考えられ、建物内部には「ニガミ(根神)」のヒヌカン(火の神)が祀られています。ヒヌカンのは神が宿る三体の霊石と陶器のウコール(香炉)が設置されています。沖縄では古より家のかまどの神(火の神)を拝んだ風習があり、やがてかまどを模った3つの石を神体として拝むようになりました。ヒヌカンの霊石は人が普段立ち入らない場所から持ち帰り、その時に決して他人と会話をしてはいけない決まりがありました。更に、現在でもヒヌカンが祀られた拝所では絶対に文句を言ってはいけないと伝承されています。(天仁屋ウッカーヌビジュル)(ビジュルの神体)「ウッカーヌビジュル」の霊石は「天仁屋集落」の東側を流れる「ウッカー」と呼ばれる川の中に鎮座しています。幅82センチ、高さ40センチのなだらかな山形の砂岩が川の中央に突き出ています。このビジュルは土手側にあった石が一晩で川の真ん中に移動したと伝わっています。ビジュルの前には3つのヒヌカン(火の神)石とウコール(香炉)が祀られており、このヒヌカン石は古老が人の踏んでいない海岸で拾い、竹篭で運んできたものを安置したと言われています。ビジュルを洪水などから守る為に造られた囲いは昭和3年10月18日に建てられ、当時のコンクリート建築を知る上で貴重な資料となっています。(ウッカーヌビジュルへの階段)(ウッカー)「ウッカー」の清水は今日も懇々と流れており「天仁屋ウッカーヌビジュル」は旧暦1月3日のハチウクシ(初起こし)の行事で行われる、水の神様に感謝して水の恵みを祈願するカーウガンの時に住民により拝されています。その際に各家庭から供物を持ち寄り、子孫繁栄・雨乞い・五穀豊穣・海の航海安全などが祈願されます。また「天仁屋集落」の住民が旅に出る際にもビジュルが拝まれています。かつては天仁屋ニガミ(根神)やカミンチュ(神人)により拝されていましたが、現在では集落の長老女性が中心になり拝まれています。なお「天仁屋ウッカーヌビジュル」は名護市指定文化財/民族文化財に指定されています。(ちむどんどん/ロケ地/西山原バス停)(ちむどんどん/ロケ地/バスが名護に向かう道)(ちむどんどん/ロケ地/4兄妹が抱き合う場所)「天仁屋集落」の南側はサトウキビ畑や農地が広がってえり、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られるようになりました。劇中ではヒロインの比嘉暢子(稲垣来泉)が東京に旅立つシーンで登場し「西山原」バス停、バスが名護に向かう道、去って行くバスを必死に追いかける兄妹、バスを停めて4兄妹が抱き合う家族の絆が描かれています。「ちむどんどん」の子供時代の最後を締め括る重要なシーンに「天仁屋集落」が使われており、沖縄本土復帰の7年前を描くシーンとして撮影されました。当時の沖縄の美しい原風景が「天仁屋集落」には現在でもそのまま残されているのです。
2022.04.30
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