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(合祀された大工廻拝所)沖縄本島沖縄市の「嘉間良集落」にある「尚宣威王の墓」の西側に合祀された「大工廻(ダクジャク/ジャクジャク)拝所」があります。この小高い森の広場には、かつて「大工廻集落」に点在していた「クボー御嶽」「ナカムイ御嶽」「ガキジョー御嶽」が合祀された赤瓦屋根の祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には、それぞれ『ゴバウノ嶽 弐御前 大工廻村 壱御前 神名 イシナカゴフ御イベ 壱御前 神名 真南風石司ノ御イベ』『中森 神名 コバヅカサノ御イベ 大工廻村』『ウラウシノ嶽 マネヅカサノ御イベ』と記されており、付け加えて『右四ヶ所、大工廻巫崇拝所。三・八月、四度御物参之時、有祈願也。』との記述があります。ちなみに、祠内部に記された「ガキジョー御嶽」は『ウラウシノ嶽』に相当すると考えられます。(合祀された大工廻拝所)(合祀拝所の祠正面)(合祀拝所の祠内部)(祠内部のウコール)(祠内部のウコール)赤瓦屋根の祠に向かって右側に「ビジュル」が祀られておりウコールが設置されています。さらに向かって左側には「地頭火ヌ神」が祀られていて、ヒヌカンの霊石3体とウコールが設定されています。この「地頭火ヌ神」はかつて「大工廻集落」にいた脇地頭のヒヌカンであると考えられ、歴代の「大工廻親方/ダクジャクウェーカタ」や「大工廻親雲上/ダクジャクペーチン」が脇地頭職に就いていました。また、赤瓦屋根の祠の後方には「久保御嶽」と「久保井戸」が祀られる拝所があり、それぞれウコールが設定されています。「大工廻集落」の先祖は500〜600年前に「倉敷ダム」周辺にかつて存在した「倉敷集落」に住んでいたという言い伝えがあります。ちなみに「倉敷」という名前は首里王府に上納する産物の倉屋敷があった事に由来しています。「倉敷ダム」の湖畔には現在も「大工廻」の拝所である「久保御嶽」が残されており、ダムの湖底には「倉敷集落」の井戸や田畑が残っています。(ビジュルの拝所)(ビジュルの拝所内部)(拝所内部のウコール)(地頭火ヌ神の拝所)(地頭火ヌ神の拝所内部)(拝所内部の霊石とウコール)(久保御嶽の拝所)(久保御嶽の拝所内部)(拝所内部のウコール)(久保井戸の拝所)(拝所内部のウコール)「大工廻集落」の拝所について琉球国由来記には他にも『大工廻巫火神 大工廻村 河陽村 麦穂祭之時、花米九合・五水四合 大工廻・河陽二ヶ村百姓中。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水2合 大工廻地頭、花米九合・五水2合・神酒一器 粟・肴一鉢 大工廻村 百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。其時、盆壱通七組、大工廻地頭ヨリ、同壱通七組、河陽地頭ヨリ、大工廻里主所ニテ巫馳走仕也。』と記されています。さらに『大工廻神アシアゲ 大工廻村 河陽村 稲二祭之時、五水二合宛・神酒壱宛・備後筵壱枚・盆二通宛七組 大工廻地頭、五水2合宛 河陽地頭、五水壱沸・備後筵二枚・神酒八宛 三米、五芋・盆二通宛七組 大工廻・河陽、二カ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の拝所)(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の祠内部)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)大工廻の合祀拝所の敷地に「ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井」が祀られた拝所があります。このうち「前ヌ井」は「琉球国由来記」に『前之川 大工廻村 河陽村 稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合 大工廻地頭、花米九合・五水壱沸・神酒一器 粟。大工廻・河陽二ヶ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』と記されています。「大工廻集落」は戦前までサトウキビ栽培が盛んな村でしたが、沖縄戦により集落全域が米軍の軍用地として土地が接収されました。住民は周辺の村に離散し、この「嘉間良集落」に移り住んだ人達により「大工廻の合祀拝所」を造り、生まれ島の「大工廻」を遥拝したと考えられています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.24
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(イジュナーガー)沖縄市の南側中央に「嘉間良/カマラ集落」があります。この集落は丘陵中腹にあり、急勾配の坂道が多数存在する区域となっています。かつて「嘉間良集落」に住んでいた、明治43年生まれの仲間良樽さんが残した伝承が残されています。「嘉間良集落」は上がったり下がったりの非常に悪い地形で、当時残っていた嘉間良で一番古い屋敷は屋号が「下ヌ当/シチャヌトー」の「大仲間/ウフナカマ」さんでした。「嘉間良集落」に一番初めに住んだ人物は具志堅さんという首里から移住して来た人で、屋号「首里屋宜/スイヤージ」の近くに住んでいたそうです。集落にはしばらく具志堅さんの一軒のみでしたが、仲間良樽さんの5代前の先祖が移ってきて二軒になり、三軒目が大仲間さんだったと伝わっています。(イジュナーガーのウコール)(イジュナーガー/向かって右側)(イジュナーガー/向かって中央)(イジュナーガー/向かって左側)(イジュナーガーの祠)仲間良樽さんの畑の角に「具志堅小ガー」と呼ばれる古い井戸がありました。仲間さんが子供の頃に父親が屋敷の石垣を積む為の石を集めていて、この古井戸の石垣は手をつげずに残していました。その事について疑問を持った仲間さんが父親に理由を聞くと「これはね、うーんと昔、具志堅小ガーの家がこっちにあり、その人が掘った井戸で、一番初めに来た人が使った井戸だからね、埋めてはいけないという。昔の最初のカーとの言い伝えもあるから、そのまま残しておこう」と言われたそうです。「具志堅小ガー」はニーブガーと呼ばれる柄杓で水を汲む井戸でした。今はその土地は、よその人のものになっていて井戸も埋めてしまったそうです。ちなみに、仲間良樽さんが当時「前ヌカー/メーヌカー」は立派に保管して今もあると語っていた井戸は「イジュナーガー」を指していると考えられます。(八重島茶城原遺物散布地の階段)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地の拝所)(拝所のウコール)(八重島茶城原遺物散布地付近の石敢當)「嘉間良集落」は「前組/メーグミ」と「後組/クシグミ」に分かれていて「後組」は大正の頃から「西組/イリグミ」と「東組/アガリグミ」に分割されていました。仲間良樽さんは「前組」で、九軒ほどあった「西組」のほとんどは「普久原/フクバル」だったそうで、他にも「ナーグシクグヮー」「マンナカフクバルグヮー」「加那普久原/カナーフクバル」「マシー」「又吉小/マテーシグヮー」「新屋小/ミーヤグヮー」がいました。「東組」は「首里屋宜/スイヤージ」「仲西」「ハンタ仲間小/ナカマグヮー」「江洲小/イーシグヮー」「幸地小/コーチグヮー」「山名嘉真/ヤマーナカマ」「徳仲間/トゥックナカマ」「石根/イシンニー」の八軒が暮らしていました。仲間良樽さんが子供の頃の昭和5年くらいまで「嘉間良集落」には二十八軒があったそうです。(ヤシマガー)(ヤシマガー)(ヤシマガーの拝所)(ヤシマガーのガジュマル)(ヤシマガー)(ヤシマガーの霊石)(ヤシマガーのウコール)八重島公園の西側に「ヤシマガー」と呼ばれる井戸があり霊石とウコールが祀られています。小規模ながら現在も井泉が湧き出る井戸は、拝井戸として周辺住民に拝れています。この井戸の周辺には「八重島貝塚」が広がっており、琉球石灰岩の丘陵を形成しています。この貝塚からは伊波・荻堂式と考えられる土器片が散布し、貝塚の南側では宅地造成工事中に炉跡が確認されています。さらに、小型斧も出土していて八重島式土器として形式設定がされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.16
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(大城賢忠之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓)沖縄市中央に「センター公園」の丘陵があり、この深い森は「センター公園内遺物散布地」と呼ばれています。隆起した琉球石灰岩と亜熱帯植物に覆われた公園一帯は古墓群となっており、静かな雰囲気に包まれています。この公園北側で沖縄市立コザ小学校の南側に切り立つ崖の上部に「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」と記された3体の石碑が建立される合祀墓があります。東側に向けられて造られたこの合祀墓には、合計6つの石製ウコールが設置されています。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地)(越来按司二男之墓)(越来按司二男之墓のウコール)「越来按司二男」とは伝承によると、勝連グスク城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は中城村の「伊集集落」に逃げ延び、この集落の「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。その後、この「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の「伊集集落」の屋号「東利」で初代「東利門中」だと言われています。「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」の「ムートゥヤー/本家」には「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代「大城賢忠」から7代までの子孫が祀られた仏壇があり、7基のウコールが設置されています。しかしながら「大城賢忠」の亡骸は、越来間切であった現在の沖縄市中央の墓に葬られています。(國直城之御墓/嘉良川山之御墓)(國直城之御墓/嘉良川山之御墓のウコール)「大城賢忠之墓」と共に「國直城之御墓」と「嘉良川山之御墓」が合祀されており石碑が建立されています。「國直城」とは国道58号線の嘉手納ロータリーから南東側に約2キロの場所にある標高94メートルの岩山で、かつて「國直村」で崇められていたグスクでした。現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあり、レーダー施設が建設されてグスクの原型は留めていません。第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏王統初代王/尚円王)に反乱し、第一尚氏再興を目指して「大城賢忠」は「安谷屋接司」と「伊波接司」と共に文字通り"國を直す"為に「國直城」の築城に着手しました。しかし、その企ても半ばにして新王朝軍に攻め滅ぼされてしまったのです。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地のガマ)(センター公園/センター公園内遺物散布地)「嘉良川村」沖縄市八重島集落の西側に位置していた村で、こちらも現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。かつて「嘉良川村」は廃藩置県後に首里の士族が開墾した「ヤードゥイ/屋取集落」で「嘉良川山」はこの村に存在した村人の拠り所として守護神を祀っていた丘陵の森山であると考えられます。「國直城」にも「嘉良川山」にも両村の「ムラバカ/村墓」があったと推測され、沖縄戦により摂取された村墓の魂を「センター公園」の現在の場所に移設して祀ったと考えられます。この「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」の合祀墓は、琉球王国の時代から沖縄戦の混乱の時代までの歴史を知る重要な資料として大切にされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.08
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(安慶田御嶽/安慶田の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「安慶田/あげだ集落」があり、この集落の北側の小高い丘に「安慶田御嶽」の拝所が建立されており「安慶田の拝所」とも呼ばれています。この御嶽には3つの神が祀られており、拝所に向かって左側に「火之神/ヒヌカン」中央に「御嶽之神/ウタキヌシン」右側に「天地神/テンチシン」の石碑とウコールが設置されています。「安慶田御嶽」では3月、5月、6月に行われる豊作祈願の「ウマチー」の時に稲穂や神酒(ミキ)を供え、豊穣を祈り豊作に感謝しました。現在でも教友会の方によって祭祀が執り行われています。(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽の石碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の祠)(火之神/御嶽之神/天地神の石碑)(火之神/御嶽之神/天地神のウコール)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の慰霊之碑)(安慶田御嶽/安慶田の拝所の鳥居)(安慶田御嶽/安慶田の拝所)「安慶田御嶽/安慶田の拝所」の南東側で「安慶田小学校」の北側に「アガリカー/東リカー」があります。現在、この井戸は丸型の石蓋が施されウコール(香炉)が設置されています。かつて集落で子供が生まれた際に使用する「ウブミジ/産水」をこの井戸から汲み「ミジナディ/水撫で」をして子供の健康を祈りました。「安慶田集落」の村人は旧暦1月1日の旧正月に朝早く「アガリカー」から「ワカミジ/若水」を汲みお茶を沸かして飲み一年の未病息災を祈りました。この井戸は「安慶田集落」の東側に隣接する「照屋/てるや集落」の住民からも拝されています。「アガリカー」の北側に「比謝川/ひじゃがわ」に掛かる「安慶田橋/あげだはし」が残されています。現在の「安慶田橋」は1966年6月18日に竣工されました。(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカー)(アガリカー/東リカーのウコール)(安慶田橋)(安慶田橋の橋名板)(あけだばしの橋名板)(安慶田橋の橋名板)「安慶田集落」の最北端にある「越来水辺公園」の「比謝川」沿いに「ムトゥジマガー/元島ガー」と「クシバルカー/後原カー」が隣接しています。「安慶田」の集落が現在地に移動する前に利用されていた井戸であると言われています。「安慶田」の井戸としては最も古く、元の集落を意味する「元島」は「古島」を意味する事から別名「フルジマガー」とも呼ばれています。かつては旧暦の9月吉日に「カーウガン/井戸御願」が行われていました。(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(ムトゥジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガー)(クシバルカー/フルジマガーのウコール)(クシバルカー/フルジマガーの内部)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.23
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(西森公園の拝所)沖縄本島中部の「沖縄市」に「越来/ごえく集落」があり、越来中学校の北西側に「ニシムイ/西森」と呼ばれる小高い丘陵の山が位置しています。この山は「西森公園」として整備されており、建立された祠内部には「ウガン南之御嶽/ウガン西之御嶽/ウガン之大御嶽/西森之御嶽」と刻まれた四体の石碑と四基のウコール(香炉)が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『南風之嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 越来村 西之嶽 神名 マネヅカノ御イベ 同村 大嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 同村 西森 神名 マネヅカノ御イベ 同村 右四ケ所、越来巫崇所。』と記されています。「南風之御嶽」と「西之御嶽」は現在の越来中学校の敷地内にありましたが、中学校建設に伴い「ニシムイ」の山に拝所が移設されました。この祠に向かって右側に隣接して「ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー」の拝井戸が合祀されており、更にその右側には「ビジュル」の祠があり内部には霊石とウコールが祀られています。また「ニシムイ」の南側丘陵中腹には琉球王朝に仕えた五大姓(五大名門門中)の一つである「馬氏」の「仲真門中」の古墓が現在も残されています。(西森公園の入り口)(ニシムイ/西森公園)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森の祠)(ウガン南之御嶽の石碑)(ウガン西之御嶽の石碑)(ウガン之大御嶽の石碑)(西森之御嶽の石碑)(南風之嶽/西之嶽/大嶽/西森のウコール)(ウガン結びぬカー・うちちガー・ドゥンチガー)(西森公園の拝所のビジュル)(ビジュルの祠内部)(西森公園の拝所)(ニシムイ/西森公園)(馬氏仲真門中之墓)(馬氏仲真門中之墓の石碑)(馬氏仲真門中之墓)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.28
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(トゥヌ/高原之殿)沖縄県沖縄市の「高原集落」の公民館の敷地に「トゥヌ/高原之殿」の祠があり、祠内部には霊石が祀られています。この拝所では旧盆行事に五穀豊穣を祈願する「ハタスガシー/旗スガシー」や旧暦9月9日の「チクザキ/菊酒」で健康祈願が行われます。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『高原之殿 高原村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛 高原地頭、神酒五宛 二米、三芋・筵一枚 同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』と記されています。高原公民館の南東側には「エークラガー」と称する井戸があり、さらに公民館の東側には「シードゥーモー」と呼ばれる広場があります。この敷地内に祠が建立されており、集落では「チンジュノカミ/鎮守之神」と言われいます。かつて「シードゥーモー」という名前の人物が村人に学問を教えていた為「シードゥーモー」を称えて祠が造られたと伝わっています。(トゥヌ/高原之殿の祠内部)(トゥヌ/高原之殿の祠)(エークラガー)(エークラガーの湧水)(エークラガーの平場)(エークラガー)(エークラガーの水路)(エークラガー)(シードゥーモー)(シードゥーモーの祠)(チンジュノカミ/鎮守之神の祠)(チンジュノカミ/鎮守之神の祠内部)(シードゥーモーの力石)(シードゥーモー)(敢石當と刻まれた高原集落のイシガントウ/石敢當)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.21
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(イーヌカー/上の井戸)沖縄県沖縄市に「高原/たかはら集落」があります。高原公民館の北西側に位置する「イーヌカー/上の井戸」は集落で一番の水量が湧き出る井戸として昔から村人に重宝されてきました。飲料水の他にも畑で収穫した野菜や芋を洗う為や洗濯用水としても使用されていたと考えられます。沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家として知られる「東恩納寛惇/ひがしおんなかんじゅん」が「高原集落」を訪れた際に植えられた記念樹がかつて「イーヌカー」にあったと伝わっています。さらにこの井戸は村人の情報交換の場や出会いの場としての役割もあったと伝わっています。「イーヌカー」の南側には「ウブガー/産井」と呼ばれる井戸があります。この井戸は正月の「ワカミジ/若水」が汲まれた井戸であり、村で子供が生まれた際の「ウブミジ/産水」や子供の成長を祈願する「ミジナディ/水撫で」の水として利用されていました。また「アミチュージ」と呼ばれる死者の身体を拭いて清める為の水としても利用されていました。(イーヌカー/上の井戸)(イーヌカー/上の井戸への階段)(イーヌカー/上の井戸)(イーヌカー/上の井戸の正面)(イーヌカー/上の井戸のウコール/向かって右側)(イーヌカー/上の井戸/向かって右側)(イーヌカー/上の井戸のウコール/向かって左側)(イーヌカー/上の井戸/向かって左側)(イーヌカー/上の井戸)(畑に流れ込むイーヌカー/上の井戸の水)(ウブガーの祠)(ウブガー)(ウブガーのウコール)(ウブガーの井戸)(ウブガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.14
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(マンジュウガンジュ/満喜世御願所)沖縄県沖縄市の「高原集落」を南北に通る国道331号の東側に「満喜世山」と呼ばれる小高い丘陵があり、頂上に「マンジュウガンジュ」の祠が建立されています。この拝所の祠内部には「高原海洋神」と刻まれた石碑が祀られています。かつての「高原」は「嵩原/たきばる村」と「満喜世/まんじゅ・まんじゆ村」に分かれており「御当国御高並諸上納里積記」によると田畑とも中の村位と記されています。「満喜世村」の脇地頭は康熙8年(1669)から康熙14年(1675)まで「満喜世親雲上幸清」が務めており、他にも地方役人に与えられた「オエカ地」が置かれていました。「マンジュウガンジュ」の東側には「満喜世之殿」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『満喜世之殿 満喜世村 稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛・筵一枚 満喜世大屋子、神酒二 一米、一芋。同村百姓中、供之。美里巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(満喜世山/マンジュウガンジュ)(マンジュウガンジュの入り口)(満喜世山の森)(マンジュウガンジュの祠)(マンジュウガンジュの祠内部)(高原海洋神の石碑)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(マンジュウガンジュに隣接した拝所)(満喜世山の森)(満喜世山/マンジュウガンジュ)(満喜世之殿)(満喜世之殿の拝所)(満喜世之殿)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿の井戸)(満喜世之殿)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.06
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(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)沖縄県沖縄市の「仲宗根町」があり沖縄市役所の南東側の丘陵に「仲宗根ウガン」の祠が建立されています。こね周辺一帯は「ウチグスク/内城」と称され「仲宗根グスク」とも呼ばれています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『内城アマミヤ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ 仲宗根村 / 外間之殿 神名 マネヅカサノ御イベ 同村 仲宗根巫崇所』と記されています。「仲宗根ウガン」の広場は「ウンサクモー」と言われており集落の「5月ウマチー」などで拝され、祠内には「仲宗根火神/地頭火之神」も合祀されています。更に、この丘陵一帯には約3,500年前から600年前に渡り存続した「仲宗根貝塚」があります。この遺跡からは抜歯された人の顎骨や動物の骨、祭祀に関係すると思われるガラス玉、中国製陶磁器や土器、青磁、白磁、鉄製の鎌、須恵器などが出土しています。(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽/仲宗根貝塚)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の灯籠)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(内城アマミヤ嶽の石碑)(外間之殿の石碑)(仲宗根火神の石碑)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の祠から見た鳥居)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽の丘陵)(仲宗根ウガン/内城アマミヤ嶽)(ウンサクモーの拝所)(ウンサクモーの拝所の祠)(ウンサクモーの拝所の祠内部)(ウンサクモー/仲宗根貝塚)(ウチグスク/内城/仲宗根グスク)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.02
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(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)沖縄県沖縄市の中央部に「照屋/てるや集落」があり、国道331号沿いの丘陵に「アガリヌタキ/アガリヌウタキ」の祠が建立されています。1950年代の区画整理に伴い「御嶽の神・ヌールの神・火の神」が現在の場所に合祀されました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『照屋之殿 照屋村 麦大祭・稲二祭之時、花米九合宛・五水四合宛・神酒一宛 上地地頭 供之。越来巫ニテ祭祀也。』は「アガリヌタキ」に相当すると考えられます。御嶽の南側に「メーヌカー/メーヌカーグヮー」があり、かつて周辺は田んぼであった為、農業用水や野菜等を洗う井戸であったと言われています。御嶽の北側には「クシヌカー」があり、民家の脇に井戸跡が現在も残されています。さらに県道を挟んだ御嶽の東側には「アガリヌカー/ウブガー」があり、昔は集落で子供が生まれた時に用いる産水を汲んでいました。また正月の元旦に汲む若水としても利用され、水量が豊富で水枯れしなかったと伝わっています。(アガリヌタキ/アガリヌウタキの鳥居)(アガリヌタキ/アガリヌウタキの祠入り口)(御嶽の神の石碑)(ヌールの神の石碑)(火の神の石碑)(アガリヌタキ/アガリヌウタキ/照屋之殿)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(メーヌカー/メーヌカーグヮー)(クシヌカー)(クシヌカー)(クシヌカー)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガーのウコール)(アガリヌカー/ウブガー)(アガリヌカー/ウブガー)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.25
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(尚宣威王の墓)「尚宣威王/しょうせんいおう」(1430-1477年)は琉球王国第二尚氏王統の第2代国王(在位:1977年)です。第二尚氏王統の初代国王である「尚円王」の弟で、出生は伊是名島諸見村で神号は「西之世主/にしのよのぬし」でした。死去した場所は現在の沖縄市越来の「越来間切」で、死後に賜った諡(おくりな)は「義忠」となっています。「尚宣威王」は数え年の5歳の時に父母(尚稷/瑞雲)を失い、その後は兄の「金丸/後の尚円王」により養育されました。9歳の時に兄に付き添って首里に移り住み、1453年に下司(げし)士族階級の「家来赤頭/げらへらくかべ」に昇格し、さらに1463年には地方役人である「地頭代/親雲上」として「黄冠」を賜りました。兄が「尚円王」に即位した後は越来間切を領地として「越来王子」と称していました。(尚宣威王御墓の石碑)(尚宣威王の墓に向かう階段)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)沖縄本島中部にある沖縄市の中央部に「越来/ごえく集落」があり、集落の西側に沿って流れる「比謝川」と昔に流れていた「セーシャー川」が合流する場所にある岩山の中腹に「尚宣威王」の墓があります。「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑が建立されており、この場所には古い時代に使われていたと思われる古い階段跡が残されています。「尚宣威王」の墓に向かう階段の途中にある岩肌の窪みに2基の入母屋式の石製厨子が現在も露わに置かれています。向かって左側の石製厨子には屋根型の蓋が施されていますが、向かって右側の石製厨子には蓋が無く前方に人骨らしき物体を確認できます。死後に風葬された遺体はある期間経過すると遺骨が取り出され、洗骨により洗い清めた後に厨子に納められます。この岩山中腹の石製厨子は「尚宣威王」に関わる人物のものであると推測されます。(尚宣威王の墓/尚宣威王御来歴の石碑)(尚宣威王の墓)(尚宣威王の墓に祀られたウコール)階段を登り切ると正面には「湧川家・普久原家・泉水家・角ヌ屋家」により建立された「尚宣威王御来歴」の石碑があり、高さ約3mの崖上に「尚宣威王」の墓があります。この墓の下には石製ウコール(香炉)が祀られており湯呑と花瓶が供えられています。1476年に「尚円王」が死去すると翌年、世子の「尚真」がまだ幼い事から群臣の推挙により「尚宣威」が第二尚王統第2国王に即位しました。しかし、その年の2月に琉球神道に伝わる陽神「キミテズリ/君手摩」が出現して、その神託により僅か半年で「尚宣威王」は退位しました。この「キミテズリ」はニライカナイに住む海と太陽を司る琉球王国の守護神で、王国の存亡の機に君臨するとされています。新しい国王の即位の儀式中に神女に憑依して神意を伝えると言われます。(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓のウコール)(ジンクラ/銭倉)「尚宣威王」の墓に向かって左側に隣接して「ウナジャラ/王妃」の墓があり、墓の下にはウコールと霊石が祀られています。さらに、この墓に向かって左側の角には「ジンクラ/銭倉」があり、あの世のお金である「ウチカビ/打紙」を焚く為の場所となっています。即位式で「尚宣威」を新王として讃えるはずの「キミテズリ」が「尚円王」と「オギヤカ/宇喜也嘉」の13歳の子である「尚真」を讃える次のオモロ(神歌)を唱え「尚真王」が即位しました。『首里オワル王(テダコ)我が思子ノ遊ビ見物、遊び躍(ナヨ)レバノ実物、鷲ノ羽差シ給ワチヘ。ト、神歌ヲゾ召サレケル。尚宣威王聞召シ給フテ、我ソノ徳ニ非ズシテ、帝座ヲ汚シタルコト、コレ天ノトガメ有リゲルゾヤトテ、在位6ヵ月ニシテ、御位ヲノガレテ、世子中城王子ヲゾ即位ナリ奉リ給フ。』これは王府の女官を掌握していた「尚円王」の未亡人であった「オギヤカ」の陰謀でした。(尚宣威王の墓に向かって右側の古墓)(尚宣威王の墓から降る階段)「尚宣威王」の墓に向かって右側には石が組まれた古墓があり2基の石製ウコールが祀られています。「キミテズリ」が唱えたオモロの意味は『我が世子の欣喜雀躍し給うみ姿の美しさよ、鷲の羽をかざし給う御子こそ、我が王である。』で、我が世子とは「尚円王」の世子「尚真」を指しています。このオモロを聞いた「尚宣威王」は愕然としてしまい、神女達が式場から退場すると不安に襲われながら引き上げていったと言われています。「尚真」は「尚円王」が50歳にして初めて授かった子で「尚真」の母后である未亡人の「オギヤカ」は、その当時32歳の権勢欲も虚栄心も十分に持った女盛りでした。そのため「尚宣威王」が「オギヤカ」の子である「尚真」に代わって第2代国王に即位した事に不満を持っていたと言えます。(尚宣威王の墓の麓にある古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)即位した「尚真王」は13歳と幼かったために母后の「オギヤカ」が政治の実権を握りました。この件について当時琉球王国に保護されていた朝鮮人漂流民が『朝鮮王朝実録』にて『世嗣の王は幼少で、母后が政治を見ている。』と供述した記録が残されています。「尚真王」は母后の意思で全琉球のノロ(祝女)を統括する「聞得大君/きこえおおぎみ」という最高神女職を設け「尚真王」の妹(オギヤカの長女)を任命し、沖縄本島南城市にある「斎場御嶽/セーファーウタキ」にて就任の儀式である「御新下り/うあらうり」が行われました。「キミテズリ/君手摩」のご加護を得て「聞得大君」としてのセジ(霊力)を身に宿すとされ、就任後は原則として生涯職となっていました。これにより「オギヤカ」は「政治の支配」と「神の神託」という形で民を統治し「尚円王・オギヤカ」一族によって琉球王国を完全支配する体制の基礎固めに成功したのです。(那志原貝塚の森)(大工廻の拝所周辺の墓)(比謝川と尚宣威王の墓の丘陵)「尚真王」は第二尚氏王統の歴代国王を葬られる墓所として、現在の那覇市首里金城町に「玉陵/玉御殿/たまうどぅん」を造営しました。1501年に建立された「玉陵の碑文/たまおとんのひのもん」には「玉陵」に埋葬されるべき被葬者の資格が刻まれており「尚円王」と「オギヤカ」の子孫のみか記されていて「尚宣威王」やその血統以外の者は除かれていました。これも事実上、王国の実権を握っていた「オギヤカ」の意思であると考えられています。「尚真王」が国王に就任すると「尚宣威王」は「越来間切」に戻り、半年後の8月に「越来グスク」にて病死したと伝わっています。「尚宣威王」の墓については、その墓の所在地に異説もあります。一つは「尚宣威王」の墓は北谷町の「北谷グスク」にある説と、もう一つは沖縄市津嘉山町の「津嘉山森遺跡」にあるという記録も存在しています。
2022.12.06
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(シーサー/石獅子)沖縄本島中部の沖縄市南西部に「山里(やまざと)集落」があります。この集落は南北に約1キロ、東西に約500メートルの小さなムラで、隣接する「山内集落」と「諸見里集落」から分離独立した「屋取(ヤードゥイ)集落」です。「屋取集落」とは近世後期に政治、経済、文化の中心地域であった首里、那覇から「士族帰農」として士族が地方へ都落ちし、人里離れた地に仮小屋に住みながら荒地を開墾した集落を言います。「屋取」は「他の土地に宿る」の意味で、居住人と呼ばれた士族が寄り集まり次第に集落を形成して行きました。沖縄にはこのような「屋取集落」が130余存在すると言われています。(シーサー/石獅子)「山里集落」の東側にウスクギー(アコウ)の古木があり、麓に琉球石灰岩で造られた「シーサー(石獅子)」が鎮座しています。この「シーサー」は東側に隣接する北中城村「島袋集落」に向いて設置されており、その昔「島袋集落」で火事が多く「山里集落」に飛び火しないように「ヒーゲーシ(火返し)」の願いを込めて据えられたと伝わります。このような意味を込めた「シーサー」は沖縄の各集落の出入口や外れに魔除けや火返しの願いを込めて設置されていました。「山里集落」の「シーサー」は琉球王国の時代から集落を守っていると言われています。(山里ビジュルの碑)(ヒヤーナー)(破損した石碑)「山里集落」の東側に「ヒヤーナー」と呼ばれる場所があり「ビジュル」が祀られた祠が建立されています。この拝所は「山里集落」の南側に4キロ程離れた「普天満宮」を拝する遥拝所として知られています。「ビジュル」とは神が宿る「霊石」を意味し、主に沖縄本島でみられる霊石信仰の対象で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。16羅漢の1つの「賓頭盧(びんずる)」に由来して「霊石」と崇める自然石が拝所に祀られています。「ヒヤーナー」の敷地内には破損した石碑があり「竜宮神、天孫子、水神」と記されているのが確認できます。「天孫子(天孫氏)」は琉球最初の王統とされる氏族として知られています。(祠のウコール)(祠右側の霊石)(祠左側の霊石)「ヒヤーナー」の拝所は宜野湾市にある琉球八社の1つである「普天満宮」を拝する遥拝所です。「山里集落」の土地神は「普天満宮」であり、屋取集落として首里や那覇から移住してきた士族の主要な神社であったと考えられます。「ヒヤーナー」の祠にはウコール(香炉)が設置され、左右には様々な形をした霊石が祀られています。沖縄における霊石信仰は昔から人々の生活に浸透しており「石敢當」「石獅子」「ヒヌカン(火の神)」も神が宿る霊石として崇められて来ました。「琉球国由来記(1713年)」によると「普天満宮」は洞窟の中にあり、そこには「八箇霊跡」と言われる「白鶴岩・明王石・獅子座・龍臥石・神亀岩・鷹居石・洞羊岩・大悲石」と称される霊石が祀られています。(山里都市緑地)(並里カー)(ナカマチガーの祠)(ナカマチガー)「山里集落」の北側に「山里都市緑地」の森があります。森の北側には「並里カー」と呼ばれる井戸があり石碑が建立されています。現在、この井戸の水は周辺の農業用水として活用されています。「波里カー」の西側には「ナカマチガー」と呼ばれる井戸があり豊富な水が懇々と湧き出ています。この井戸は「ナカマチペーチン」と言う人物により造られたと伝わり元々は石囲いの井戸だったと言われています。「ナカマチガー」周辺の住民は子供が生まれた時に産水として利用し、さらに旧正月元旦には若水を汲み一年の健康を祈願しました。
2022.04.04
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(山ももの歌の歌碑)沖縄本島中部の沖縄市「山内(やまうち)集落」は、第二尚氏王統の初代国王「尚円王」(在位:1469-1476年)と「平安山(へんざん)集落」のノロ(祝女)であった「金満(真加戸)」の間に生まれた「山内昌信(やまうちしょうしん)」を始祖とするムラです。「山内昌信」が琉球王府に仕えている時、中国から楊梅(ヤマモモ)を持ち帰り集落に植えた木が集落中に広がったと伝わっています。「モモヤマの里」と呼ばれる「山内集落」の公民館に「山ももの歌」の歌碑が建立されており、ヤマモモの木は「金のなる木」として集落の名産物として広く知られていました。かつて旧暦3月は「ムムサングヮチ」と呼ばれた山モモの最盛期で住民の生活に繁栄をもたらしました。(桃山公園)「山内集落」の北側に「桃山公園」があり周辺住民の憩いの場として親しまれています。さらに集落を南北に横断する「ももやま通り」があり、住民の生活に欠かせない主要な道路となっています。かつて山モモ収穫の季節になると「山内集落」は収穫する村人や山モモを売る「ムムウイアングヮー(モモ売り姉さん)」で活気付き、その様子を見物する観光客で賑わいました。収穫した山モモは「大山集落(現宜野湾市)」周辺の「ムチャー」と呼ばれる仲買人が山モモを買い取り那覇に運びました。「ムチャー」たちは首里や那覇の町々を廻り「ムムコーインソーレータイ(山モモを買って下さい)」と呼びかけて山モモを売りさばいたと語り継がれています。(イリーガー/クシントーガー)(イリーガー/クシントーガー)「山内集落」の最北端に琉球ゴールデンキングスの本拠地である「沖縄アリーナ」があり、敷地内には「イリーガー(西り川)」の井戸があり「クシントーガー」とも呼ばれています。「沖縄アリーナ」が建設される以前は沖縄自動車道の工事に伴い、かつてこの地にあった「沖縄市営闘牛場」の南側に移設されていました。その昔、落武者が「イリーガー」の水を頼って住み着いた」と口碑が伝わり「山内集落」発祥の地と言われています。更に約500年前、集落周辺で7カ月余り雨が降らなかった時期に、住民が「イリーガー」の水を飲んで命を繋いだとされています。「イリーガー」にはウコール(香炉)が祀られており「ウガミガー(拝み井戸)」となっています。(シリンカーヌカー/イーザクヌカー)(シリンカーヌカー/イーザクヌカー)「山内集落」の北東側に「シリンカーヌカー(尻ン川)」があり「イーザクヌカー」とも呼ばれています。「イリーガー」の南側に位置しており、同様に約500年前の大旱ばつの際に住民の命を救った井戸です。この井戸も沖縄自動車道の工事により、かつてこの地にあった「沖縄少年院」の西側に移設されました。「シリンカーヌカー」は旧暦12月24日の「屋敷ウガン」の際に住民に拝まれ、更に旧正月元旦には井戸から若水を汲んでいました。「屋敷ウガン」とは、神様から借りている土地に住まわせて頂いているお礼と、悪霊が入らないように家の四隅に結界を張るウガン(御願)で「シリンカーヌカー」も水への感謝として拝されています。(メーヌカー/イリーガー)(メーヌカー/イリーガー)「山内公民館」の西側に「メーヌカー」があり、集落のアガリ(東側)に住む住民は「イリーガー」と呼んでいました。「山内集落」で最も古い井戸の一つで集落で子供が産まれた時、この井戸の水を産水として利用した「ウブガー」でもありました。旧正月元旦には若水を汲んで茶を沸かし一年の健康祈願をし、更に「シリンカーヌカー」と共に旧暦12月24日の「屋敷ウガン」の際に拝まれています。また「ウスデーク」と呼ばれる女性のみで行われる円陣舞踊の伝統行事では、集落の五穀豊穣と住民の健康に感謝するウガン(御願)が行われます。「メーヌカー」は南東側の「山内大明神」に向けて祠が建てられおり「ウガミカー」として大切に拝されています。(アガリガー/メーアガリガー)(タカミガー/高嶺川公園)(アガリガーの石碑)(ウコールとフーフダ)「山内集落」の南側の「タカミガー(高嶺川)公園」に「アガリガー」があり「メーアガリガー」とも呼ばれています。「メーヌカー」同様に旧暦12月24日の「屋敷ウガン」や旧暦8月10日の「ウスデーク」の際に拝されています。「アガリガー」のウコール(香炉)には神様が宿るとされる木製の「フーフダ」と呼ばれる呪符が供えられており「祓比給布 奉祝辞 寒言神尊利根陀見 普天満宮守護 西 清米玉布」と記されています。悪霊を追い払う役割がある呪符で屋敷の四隅に祀られ、この普天満宮が配布した呪符は屋敷の西側用の「フーフダ」であると考えられます。「祓比給布」は「祓い賜う」を意味し「清米玉布」は「清め賜う」を意味します。(山内の越来節の歌碑)(越来節の碑)(越来1丁目の越来節之碑)「山内集落」の中心部にある「山内大明神」のお宮がある敷地に「越来節(ぐぃーくぶし)の碑」が建立されています。全17節ある「越来節」のうち後半の11節から17節までの歌詞が石碑に刻まれています。「越来節」は今から500年以上前、琉球王朝の役人が娘を誘いモーアシビ(毛遊び)に出かける男女の恋を17節に渡り謳っています。「越来節」は沖縄市の「越来集落」で生まれた歌で、歌に登場する役人は「山内集落」の始祖「山内昌信」の3代目子孫「富里」という「越来番所」の文子(書記官)で、娘は「越来集落」の「大前仲宗根」の一人娘「真鶴」です。「越来節」は当時のモーアシビ(毛遊び)の様子を克明に表現した歴史的価値の高い歌として知られており、前半の1節から10節の歌詞が刻まれた歌碑は現在、沖縄市越来1丁目に建立されています。
2022.03.30
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(トゥイヌファヌウタキ)沖縄本島中部にある「沖縄市」の中心部に、南北に細長く広がる「山内(やまうち)集落」があり「やまち」の名称でも知られています。「山内集落」はかつて「ヤマモモ(山桃)」の産地として栄え「ヤマモモの里」と呼ばれていました。戦前は「山内集落」と隣接する「諸見里集落」では「ムムサングヮチ」と呼ばれるヤマモモの季節(旧暦の3月)になると両集落内外から「ムムウイアングヮー(モモ売り)」で賑わっていたと伝わります。集落の北側には「桃山公園」があり周辺住民の憩いの場となっており、西側から南側に隣接する集落は「南桃原(みなみとうばる)集落」という名称で、この周辺一帯がかつて「ヤマモモ」で繁栄した名残があります。(トゥイヌファヌウタキの霊石)(トゥイヌファヌウタキの祠)「山内公民館」の北側に「トゥイヌファヌウタキ」とよばれる御嶽(ウタキ)があります。現在「山内市営住宅」がある御嶽の北側に隣接する土地はかつて「島袋アタイ」と呼ばれ、屋号島袋(イーリーシマブク)の畑がありました。ここには「山内集落」を発祥した「山内昌信(やまうちしょうしん)」が暮らした屋敷と、農業用水として利用されていた「島袋アタイグムイ」と呼ばれる溜池がありました。石切積みの石垣に囲まれた「トゥイヌファヌウタキ」の敷地には霊石が鎮座しており、御嶽の祠内部には幾つもの霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽は旧暦8月10日に男性のみで拝まれています。(山内昌信の屋敷の火ヌ神)(島袋アタイグムイ)1974年に「山内市営住宅」の建設が計画され「山内昌信の屋敷の火ヌ神」と「島袋アタイグムイ」は南側に隣接する「トゥイヌファヌウタキ」に移設されました。御嶽に向かって右側が「トゥイヌファヌウタキ」中央が「山内昌信の屋敷の火ヌ神」そして左側に「島袋アタイグムイ」がそれぞれ祀られています。「山内昌信の屋敷の火ヌ神」の祠には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「島袋アタイグムイ」が祀られた場所もウコール(香炉)があり、住民はかつて集落の農業を支えたグムイ(溜池)の水への感謝を拝しています。(山内のお宮)(山内大明神)「山内公民館」西側に「お宮」と呼ばれる場所があります。鳥居を潜った敷地内には「山内大明神」の社があり「山内集落」の始祖である「山内昌信」が祀られています。「山内昌信」の父親は第二尚氏王統の初代国王「尚円王」(在位:1469-1476年)で、母親は集落の西側にある「平安山(へんざん)集落」のノロ(祝女)であった「金満(真加戸)」です。「平安山ノロ」は「平安山・浜川・砂辺・桑江・伊礼」の5集落の祭祀を司った位の高いノロでした。ちなみに「山内昌信」は南城市の「知念グスク」を築いた「内間大親」と、玉城朝薫の組踊「執心鐘入」で知られる「安谷屋若松(中城若松)」とは義兄弟とされています。(山内大明神のウコール)(山内大明神の社内部)「山内大明神」の社にはウコール(香炉)が祀られ、扉の内側には「山内大明神」と刻まれた霊石柱が鎮座しています。「山内昌信」が13歳の時「首里城」建設工事の際に大工としての才能を発揮して役人の上申により士族になりました。「山内集落」の「ヤマモモ」は「山内昌信」が王府に仕えている時、中国から持ち帰り集落に植えた木から広がったと言われています。後に「山内昌信」は出世し、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号である「親方(ウェーカタ)」に任命され、更に琉球王府の行政の最高責任者である「三司官」になりました。隠居後は生まれ故郷の「山内集落」に帰り、地元住民から「山内大明神」と崇められました。(イリーヌクムイの火ヌ神)(お宮の御嶽)「山内大明神」の社の左側に「火ヌ神」の祠があります。「イリーヌクムイ(西の溜池)」から移設された「火ヌ神」で「ウスデーク(臼太鼓)」と呼ばれる集落の祭りの際に拝されます。「ウシデーグ」とも言われ、祭りの余興芸能として演じられてきた女性のみで行われる円陣舞踊で、集落の五穀豊穣と村民の健康を祈願します。さらに「山内大明神」の右側には「御嶽」の祠があり「中山王国」へ結ぶ遥拝所の役割があります。更に集落の東側にある井戸の「シリンカーヌカー(イーザクヌカー)」との「クサイ(結び)」とも言われています。「シリンカーヌカー」は約500年前の大干ばつの際に、集落の住民の命を救った大切な井戸として祀られています。(マーニヌネカタ)(マーニヌネカタのウコール)(平安山ノロ殿内)「お宮」の後方に「マーニヌネカタ」と呼ばれる男子禁制の拝所があります。「山内昌信」が生まれて間もなく捨てられた場所とされ「ウシデーク」の際に女性のみで拝されます。「英祖王」と「平安山ノロ」の間に産まれた「山内昌信」は内密の子であったため父母知らずの身となりました。母親の「金満(信加戸)」は「平安山集落」のノロ(祝女)であったため、御嶽で誕生した捨て子として「山内昌信」を育てました。人目を盗んでは昼は歯米を与え、夜は乳を飲ませて育てたと言われています。「山内集落」の西側、北谷町吉原にある「平安山ノロ殿内」は「山内昌信」の母親の屋敷があった場所で、現在は「平安山ノロ」の「火ヌ神」が祀られています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.03.26
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(モーヤマウタキ)沖縄本島沖縄市に「知花グスク」があり、地元では「チバナグシク」と呼ばれています。標高87mのカルスト残丘地形にグスクが構築されており、付近はうるま市天願と北谷町砂辺を結んだ「天顔構造線上」にあります。沖縄本島北部と中南部を区分する断層上にあるため、地質学や植物学的にも重要な地域となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「知花集落」の「カナ森/神名:イシノ御イベ」「森山嶽/神名:イシノ御イベ」「カナヒヤンノ嶽/神名:イシノ御イベ」の3つの御嶽が記されており「イシノ御イベ」とは「霊石」を守護とした神を意味しています。(ユナガー/米川)(火之神)「知花グスク」の東側に「ユナガー(米川)」という井戸があります。「ヌールガー」とも呼ばれており、その昔「知花ノロ」が使っていた事からその名が付いています。「ユナガー」の井戸には祠が祀られており、線香を供えるウコール(香炉)が設置されています。また「ユナガー」から溢れて下方に流れ出た水溜りは、ノロや按司が手や足を洗う場所であったと伝わります。「ユナガー」は「知花集落」で最も神聖な拝所の1つとなっており、敷地内の拝所には「火之神」の石碑が建立され、手足洗い場を示すコンクリートの小池も設けられています。(ノロ殿内の拝所)(フウの木と霊石)(ウガンヌシー)「ユナガー」の北側に「ウガンヌシー」と呼ばれる御嶽の森があり「ムイグチヌウカミ」の拝所が設けられています。この森の南側には神に仕える祝女を輩出する「ノロ殿内(ヌルドゥンチ)」の屋敷が建てられています。「ノロ殿内」の敷地内には一般の住民が祈る拝所があり、家主の島袋さんが1955年に台湾から種子を持ち帰って育てたマンサク科の「フウ」の木と、複数個の霊石が鎮座しています。島袋さんは若い頃にハワイ大学の招待で農業研修生として6か月間ハワイに滞在しました。その時にハワイから持ち帰った数本のヤシの木が「ウガンヌシー」の森で現在も立派に育っています。(カンサジヤー/神アサギ)(知花グスク北側の洞窟)「知花グスク」の北側にノロが祭祀を司る「カンサジヤー(神アサギ)」があります。この広場は旧暦の5月15日と6月15日の行事に「知花集落」の発祥の地である古島(倉敷ダム東側一帯)へ遥拝するために拝まれ「知花ノロ」の管轄である「知花、池原、登川、松本」の4集落が祭祀に参加します。現在の建物になる以前は茅葺造りでしたが、それよりも昔には建物がなく祭祀の際にはクロツグの葉などで仮小屋が造られたと伝わります。この「カンサジヤー」は「琉球国由来記(1713年)」には「知花之殿」として記されており「下之殿」とも呼ばれています。また「カンサジヤー」の東側でグスク丘陵麓には鍾乳洞の洞穴が口を開いています。(上之殿毛/イーヌトゥヌモー)(上之殿毛の祠)「上之殿毛(イーヌトゥヌモー)」は「カンサヂヤー(神アサギ)」の南西側の高台広場に位置する御嶽で、石造りの祠が設置されており内部には霊石が祀られています。「松本之殿」とも呼ばれており、旧暦の5月15日と6月15日の「ウマチー(稲穂祭/稲大祭)」の際に、知花と松本の自治会と有志により拝みが行われます。「上之殿毛」の広場周辺に張り巡らされた綱は年に1回、旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に自治会関係者により新しく張替えられます。「縄張り」とも呼ばれるこの祭祀では、一年の感謝と繁栄の祈願(御用納め)が行われます。(ムイグチウタキ)(ムイグチウタキのウコール)「知花グスク」頂上にある展望台から北西側の丘陵中腹に「ムイグチウタキ」と呼ばれる琉球石灰岩の大岩があり、麓には拝所を示す石組みの囲いが施され中央にはウコール(香炉)が祀られています。この御嶽も旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に拝される「知花集落」の重要な拝所で、大岩の右側にある木を起点として中央の岩穴と左側の岩と3本の縄を渡す「縄張り」が施されています。「琉球国由来記(1713年)」に記されている「石城之嶽」はこの「ムイグチウタキ」であると考えられます。(モーヤマウタキ)(モーヤマウタキの祠)「知花グスク」の北西側の森を下って進むと「モーヤマウタキ」があり、石造りの祠と神が宿る岩塊が鎮座しています。「イーヌトゥヌモー」「ムイグチウタキ」と共に「知花集落」の平和と繁栄を祈願する「御用納め」で巡拝される3つ目の御嶽がこの「モーヤマウタキ」です。この御嶽にも「縄張り」の3本の縄が右側の木を基点として中央の岩塊に巻き付けられ、さらに左側の木に結ばれて固定されています。一説によると「琉球国由来記(1713年)」に記される「森山嶽/神名:イシノ御イベ」は「モーヤマウタキ」があるこの深い森を示すと言われています。(夏氏大宗墓の碑文)(夏氏大宗墓)1853(咸豊3)年に「鬼大城」を始祖とする「夏氏」の子孫が建てた碑文が「知花グスク」の南側丘陵中腹にあります。1716(康熙55)年に知花にあった「夏氏の墓」を美里の「宮里村中間原の墓」へ遺骨を移して双方の墓を祀りましたが、風水見の「鄭良佐与儀親雲上」は「知花グスク」に墓を祀る方が風水の良い場所と判断しました。さらに「知花グスク」には「鬼大城」の遺骨も葬られている為、それらの理由から現在の場所に「夏氏の墓」を移葬したと伝わります。因みに「鬼大城」の子孫には摩文仁間切(糸満市摩文仁)総地頭の「夏氏摩文仁殿内」がいます。(鬼大城之墓)(鬼大城之墓)「夏氏大宗墓」に隣接して「鬼大城之墓」があります。「鬼大城」の名前で知られる「越来賢雄」は15世紀の琉球武将で、唐名は「夏居数(かきょすう)」です。越来間切の総地頭に就任する以前の名前は「大城賢雄」でした。知花で育った「鬼大城」は武勇に優れ、第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」に仕えていました。1458年に首里王府軍の総大将として勝連按司の「阿麻和利」を討伐し「尚泰久王」の長女である「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻に迎えました。その後、政変により第一尚氏王統は滅び「鬼大城」もこの地に追われ自害し、その場所が墓になったと伝わります。(祝女墓/ノロ墓)「祝女墓」は「鬼大城之墓」の東側に位置し「知花集落」では「ヌールバカ」と呼ばれています。元々は岩陰を利用して前面を石積みにし、墓口をアーチ工法にした「岩穴囲い込み墓」の古墓でありましたが、現在はコンクリートで改築されています。昔、ある葬式の時に「ヌールバカ」へ入った人は、墓内部に約30基の蔵骨器を見たと証言しています。「知花、池原、登川、松本」の4集落が「知花ノロ」の管轄であった事から、この地域一帯での「知花ノロ」は非常に位の高い祝女であったと考えられ、歴代の「知花ノロ」が「知花グスク」南側の丘陵中腹の「祝女墓」に葬られています。(カーグヮー)(フクマガー)「知花グスク」の南側で比謝川の支流とユナガーの合流地点に「カーグヮー」と呼ばれる井戸があります。かつては「大村渠(ウフンダカリ)集落」の住民が松本に移り住むまで使用し、その後は「知花集落」の住民の生活用水となりました。「ニーガンヌール(根神ノロ)」が仕立てた井戸である事から「ニーガンウカー」や「イカンガー」とも呼ばれています。井戸には祠とウコール(香炉)が祀られています。因みに「根神(ニーガン)」とは琉球王府が公認したノロ(祝女)が幅広く配置される以前から、集落の祭祀を司っていた神人を意味します。更に「知花グスク」の東側にある「フクマガー」も「大村渠(ウフンダカリ)集落」があった昔から使用された古井戸であると伝わります。(知花橋から見た知花グスク)「おもろそうし巻二」の中城越来のおもろには「知花グスク」を謳った「おもろ」があります。 ちばな、かなくすく(知花金城) ちばな、いしくすく(知花石城) ももしま、まじうんいしくすく(百々島共に石城)又 けおのゆかるひに(今日のよき日に) けおのきやかるひに(今日の輝く日に) ちばな、こしたけに(知花こし岳に) あんは、かみ、てずら(我は、神をまつらん) かみや、あんまぶれ(神は我を守りたまえ)又 ちばな、にしたけに(知花北岳に)
2022.02.06
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(諸見里拝所)沖縄県沖縄市の南西部に「諸見里集落」があり、集落は米軍嘉手納基地の施設からコザ運動公園を経て、北中城村島袋に隣接する南北に縦長に広がっています。現在、国道330号線から北中城村島袋までの地域は「久保田」という住所になっていますが、もともとは古より「諸見里集落」の土地でした。集落の中心部の「諸見里公民館」沿いに「諸見里拝所」が建立されており、集落の土地神である「諸見里」の5つの守護神が祀られています。(諸見里拝所の鳥居と石獅子)(諸見里拝所の社)左右2体の石獅子に守られる「諸見里拝所」の鳥居をくぐると琉球赤瓦屋根の拝所の社が建てられています。社の内部には向かって右より「森城(むいぐしく)ビジュル」「松下丘(まーしんちゃー)ビジュル」「竹園(たけーら)ビジュル」「巫女火神(ぬーるひぬかん)」「地頭火神(じとぅーひぬかん)」が合祀されています。5つの土地神(守護神)にはそれぞれウコール(香炉)が設置されており、一緒に霊石が祀られています。(拝所に祀られる5つの土地神)「諸見里拝所」に合祀されている3つの「ビジュル」と2つの「火神(ひぬかん)」の拝所は、もともと現在の「コザ運動公園」敷地周辺に点在していました。1973年に前年の沖縄県の日本本土復帰を記念して開催された「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」の開催を記念して「コザ運動公園」が建設され、それぞれの土地神(守護神)の拝所は現在「諸見里公民館」に隣接する場所に合祀されています。ちなみに「若夏国体」の大会スローガンは「強く、明るく、新しく」で、沖縄県の本土復帰を祝う特別大会でした。(タケーラビジュル/竹園ビジュル)「コザ運動公園」の南側に隣接する場所に「もろみゴルフレンジ」があります。この施設の入り口にある森の頂に「タケーラビジュル(竹園ビジュル)」があり、現在でも"コの字型"の古い祠が草木に埋もれながら残っています。かつてはノロ(神を司る女性)の関わる行事が殿毛であったそうで、その時に村の娘たちはこの「タケーラビジュル」で控えていました。また娘たちはノロや村の神へ奉納する踊りをこの拝所で練習していたと伝わります。この拝所は現在「諸見里拝所」に合祀されています。(めーぬかー)(祠内部/めーぬかー/前の井)(祠内部/なかぬかー/中の井)(祠内部/いりぬかー/西の井)「もろみゴルフレンジ」の南側に「めーぬかー(前の井)」の祠があります。この井戸は「ウブガー(産井)」とも呼ばれ、正月の若水や出産の時の水をこの井戸から汲んでいました。「めーぬかー」は飲み水の他にも洗濯や畑の用水としても利用され、戦後には個人経営の簡易水道や銭湯の水源地として重宝されました。現在は旧暦9月吉日の「ミジナディー(健康祈願)」の時に集落の住民により祈られています。かつて「上武川原」と呼ばれる場所にあった「なかぬかー」と「いりぬかー」は「コザ運動公園」整備のため「めーぬかー」の祠に移動し、合祀されてウコール(香炉)が設置されています。(メーヌハラガー)(祠内部)「諸見里集落」の南側に「メーヌハラガー」と呼ばれる井戸があり、祠内には鶴瓶式井戸の跡が残されています。1959(昭和34)年に水道が開通し普及するまで「メーヌハラガー」は周辺住民の飲み水であり、洗濯や畑の水としても利用されていました。かつては集落の住民が集まり、語らいの場として賑わっていました。現在は住宅地の中にひっそりと佇んでいますが、取り壊される事もなく「諸見里集落」の歴史を継承する大切な文化財として守られています。(ヤマガーガー/山川ガー)(フサトガー/冨里ガー)「諸見里拝所」の北西に「ヤマガーガー」と呼ばれる井戸があります。屋号「山川」の屋敷隣にあった事から「ヤマガーガー」のなで知られてきました。地元の古老の話によると、この井戸は飲み水の他にも洗濯や農業用水にも利用されていました。さらに「諸見里拝所」の北側には「フサトガー」の井戸があります。飲料水の他にも洗濯や畑の水にも使用され、井戸には周辺住民で賑わい語らいや出会いの場でもありました。古老によると、かつて「フサトガー」周辺には大きな松の木が数本あり、夕方になると雀の群れの寝ぐらになっていたそうです。(創元之宮)(創元之宮のウコール)「諸見里集落」の南東部に「創元之宮」があります。現在この場所の住所は沖縄市久保田2丁目ですが、もともと「諸見里集落」の土地でした。「創元之宮」は松門門中(ムンチュー)及び「字諸見里」の創始者の霊を祭神したものです。「創元之宮」のウコール(香炉)は7基あり、左より「久保田 東」「久保田 中」「久保田 西」「石迫 東」「石迫 西」「上武川」「前迫」の7つの霊が霊石と共に祀られています。ヒラウコー(沖縄線香)もお供えされており、普段より住民に大切に祈られているのです。(諸見里ノロの墓)「創元之宮」の敷地内に「諸見里村大殿内(諸見里ノロ)の墓」が建てられています。「諸見里ノロの墓」を長年の間管理してきた豊田律(沖縄市山内在住)様、及び諸見里御友会の協力により建立されました。「ノロ」とは琉球神道における女性の祭司、神官、巫の事で、地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司りました。「ヌール」や「ヌル」とも呼ばれ琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備され王国各地に配置されました。(久保田2丁目の井戸)(ソージガー/竿字ガー)「創元之宮」の北側の久保田2丁目に「井戸」があります。住宅地を階段で降った先にあるこの井戸の名称は不明ですが、産まれた時にミジナディ(井戸の水て額を3回撫でる呪法)をしてもらった古老が現在も拝みに来る井戸である事から、この井戸は「諸見里集落」のウブガー(産井)であると考えられます。この「井戸」から更に北側には「ソージガー(竿字ガー)」と呼ばれる井戸があります。荷馬車が通る道の近くにあったこの井戸は馬が水を飲み休憩する場所として使用され、周辺の住民は飲料水、洗濯、畑の水としても利用していました。(真言宗金剛山遍照寺)かつて「諸見里集落」であった沖縄市久保田に「真言宗金剛山遍照寺(へんしょうじ)」が建立されています。「遍照寺」は東寺真言宗の寺院で本尊は大日如来、山号は金剛山、元寺号は万寿寺(まんじゅじ)です。景泰(けいたい)年間(1450年~1457年)に「鶴翁和尚」により創建されました。「遍照寺」は明治時代の神仏分離以前は、琉球八社の一つである末吉宮(那覇市首里末吉町)に隣接する別当寺でした。寺は沖縄戦で焼失してしましたが、戦後に現在地の久保田1丁目に移転し再建されました。(遍照寺事務所)那覇市末吉町にあった「遍照寺」は沖縄の組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の作品「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台になった寺として知られています。鬼女と化す女から主人公の中城若松(なかぐすくわかまつ)を守るために「遍照寺」の住職が鬼女を退治する場面は有名です。現在、那覇市末吉町の「末吉公園」には「遍照寺」の跡である寺の土台と石垣のみ残されています。そんな由緒ある「遍照寺」は先代の「海舟師」により沖縄市久保田に再建されました。(諸見里拝所の石獅子)「諸見里集落」に伝わる沖縄市瀬帝文化財である「旗スガシー」は毎年旧暦の7月16日に行われます。安政年間(1854~1860年)に当時の越来間切諸見里村の地頭が製作したものと伝えられる「諸見里」の村旗を先頭に、地域住民が集落を練り歩き「地域繁栄、五穀豊穣、健康祈願」を願い、最後に自治会の広場でエイサーや獅子舞などが披露されます。戦前から引き継がれている「諸見里」の伝統行事です。「諸見里集落」は魅力ある文化財に溢れた土地として、住民は誇りを持って伝統行事を大切に守り継承しているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.10.17
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(奥武ビズル/オーグワァービジュル)沖縄本島中部の沖縄市東海岸沿いに「比屋根(ひやごん)集落」があります。美しい中城湾に広がる泡瀬干潟を眺める丘稜に残る遺跡には御嶽の森があり、自然豊かな歴史の長い集落となっています。また「比屋根集落」の海沿いには「沖縄県総合運動公園」があり、沖縄のプロサッカーチーム「FC琉球」のホームスタジアム「タピック県総ひやごんスタジアム」が整備され、沖縄市民のみならず沖縄県民に愛される地域となっています。(ウフドゥン/大殿)(ウフドゥンの社内部)「比屋根集落」北部の比屋根公民館の北側に「オシアゲムイ」と呼ばれる御嶽の森があり、その頂上に「比屋根拝所ウフドゥン」の社があります。この森は「琉球国由来記(1713年)」に「アシアゲ森 神名 オソクヅカサノ御イベ」と記されています。社の内部には霊石とウコール(香炉)が祀られています。「比屋根集落」の住民は旧暦の6月ウマチー(収穫祭)や獅子舞の行事、更に毎月1日には「ウフドゥン」を訪れて拝んでいます。(上仲門門中神屋)(上仲門門中神屋のカー)「オシアゲムイ」の御嶽の森は「比屋根遺跡」と呼ばれ、遺跡の北東側に「上仲門門中神屋(カミヤー)」と「門中神屋の井戸(カー)」があります。「神屋(カミヤー)」とは神を祀る屋敷の事を意味します。さらに「門中(ムンチュー)」とは沖縄県における始祖を同じとする父系の血縁集団のことを言います。 「門中」は17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がりました。「門中」の結束は固く「門中」で共同の墓(亀甲墓や破風墓の門中墓)を持ち同一の墓に入りました。(根屋門中神屋)(比屋根遺跡のカー)「上仲門門中神屋」の西側に「根屋門中神屋」があります。「根屋(ニーヤ)」とは集落発祥に関わる家の事で、当主は「根人(ニッチュ)」と呼ばれます。さらに「比屋根遺跡」の南東側には「比屋根遺跡のカー」があり、井戸(カー)跡にはウコール(香炉)が祀られ、向かって左側に「井戸(カー)の祠」が隣接しています。この祠には2基のウコール(香炉)が設置されており、集落の住民が井戸の神に水への感謝を祈る拝所となっています。(伊礼門中神屋/シーシヤー)(伊礼門中神屋のカー)「根屋門中神屋」の西側に「伊礼門中神屋」があります。「伊礼(イリー)門中神屋(カミヤー)」の敷地内に「獅子屋(シーシヤー)」と呼ばれる建物があり、集落の伝統行事に奉納される獅子舞が納られています。「比屋根集落」の獅子舞は旧暦の7月17日に演じられ、現代では盆踊りの際にも祈願されています。「伊礼門中神屋のカー」は「獅子屋」の裏手にありウコール(香炉)が祀られ「オシアゲムイ」の御嶽の森から湧き出る水への感謝が住民により祈られています。(トゥングヮー/殿小)「トゥングヮー(殿小)」は「ウフドゥン(大殿)」の北西約70メートルの場所にある高台に位置し「比屋根集落」では俗に「ニバンドゥヌ(二番殿)」や「クガニドゥヌ(黄金殿)」とも呼ばれています。「トゥングヮー」の祠内には3体の霊石が祀られ、ウコール(香炉)にも小型の霊石が設置されています。「比屋根遺跡」の北側に位置する祠は北に向けて建てられており、集落の自治会や有志たちは旧暦の毎月1日に拝んでいます。(てぃんさぐぬ花の歌碑)沖縄市比屋根1丁目の「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の敷地内に沖縄県民で知らない人はいない琉歌「てぃんさぐぬ花」の歌碑が建立されています。「てぃんさぐ」とはホウセンカ(鳳仙花)のことで、沖縄県では古くからホウセンカの汁を爪に塗って染めるとマジムン(悪霊)除けの効果があると信じられていました。歌は1番から10番まであり親や年長者の教えに従うことの重要性を説く教訓歌となっています。沖縄県民愛唱歌「うちなぁかなさうた」を制定する際に県民を対象にしたアンケートで「てぃんさぐぬ花」が圧倒的な支持を集め「てぃんさぐぬ花」を県民愛唱歌「うちなぁかなさうた」に指定することが2012年3月18日に発表されました。(てぃんさぐぬ花の歌碑)この歌は読み人知らずで、歌碑は琉歌特有の表記が施されています。詠みや謡うなど音声を発する場合は「てぃんさぐぬはなや ちみさちにすみてぃ うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり」となります。2003年(平成15年)に開業した沖縄都市モノレール線(ゆいレール)では車内アナウンスで「県庁前駅」への到着を知らせるメロディに「てぃんさぐぬ花」が使用されています。「てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ 親(うや)ぬ寄(ゆ)し事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染みり」(ホウセンカの花は 爪先に染めて 親の教訓は 心に染みなさい)(比屋根東ガー/アガリガー)(比屋根東ガーの拝所)「比屋根遺跡」の南東側に「マースヤームイ」と呼ばれる塩の製造に関わっていた森があり、森の北側裾野に「比屋根東(アガリ)ガー」位置していました。しかし、現在は土地の区画整理により50メートル北側に移設されています。「比屋根集落」の人々は子どもが生まれた時の産水(ウブミジ)や元旦の若水の時に水を汲んでいました。この井戸は俗に「ウブガー(産井)」や「カミガー(神井)」とも呼ばれており、現在も水の恵みを感謝する拝所として住民に祈られています。(奥武ビズル/オーグヮービジュル)(奥武ビズルの拝所)「比屋根集落」の南東部に「沖縄県総合運動公園」があります。1983年に米軍基地「泡瀬通信施設」の米空軍レーダー施設「泡瀬通信補助施設基地」の広大な土地が返還されました。そこに1987年に開催された「海邦国体」開催を目的に総合運動公園が整備されました。泡瀬干潟に突き出る「奥武岬」に隣接する森に「奥武ビズル」があります。この拝所は「オーグヮービジュル」とも呼ばれており「オーグヮー屋取」の村びとが旧暦の9月9日に拝んでいます。祠の内部には3体のビジュル霊石が祀られ、ウコール(香炉)にはウチカビが供えられていました。「ウチカビ」とは「打ち紙」と書き「紙銭」とも呼ばれ、ご先祖様があの世で使うお金を意味します。(井戸之神の石碑)(井戸之神の祠)(奥武ビズルのガジュマル)「奥武ビズル」の境内に2字の「井戸之神」の祠が合祀されています。この土地が米軍基地に占領されていた時代に井戸が消滅したと考えられ、返還後にかつて「比屋根集落」のこの地で住民に大切にされていた2つの井戸を合祀して、水への感謝を込めて「井戸之神」を2字の祠に祀っていると推測されます。「奥武ビズル」は総合運動公園の「ゆい池」に隣接する深い森の中にあり、森の小道からは目視出来ない場所にひっそりと佇んでいます。「奥武ビズル」は高樹齢のガジュマル群に囲まれて、今日も「比屋根集落」の守り神として「奥武岬」に向けて建てられているのです。
2021.10.12
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(泡瀬ビジュル/境内)沖縄県沖縄市「泡瀬集落」は沖縄本島の東海岸沿いの中城湾に位置しています。「泡瀬」はその昔「あせ島」や「あわす小離」と称され「高原村」より東におよそ九町の位置の臨海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西に広がる豊かな干潟を有していました。1768年頃、読谷山間切の在番役を退役した「樊氏高江州(筑登之親雲上)義正」は、初期の移住者として入植し、広い砂州と干潟を開墾して農耕の傍ら塩を焚き安住の地ここに定めました。ある日、漁猟に出た高江州義正は海面に浮かぶ霊石(ビジュル)を見つけて持ち帰り、霊験が著しいビジュル神として島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し信心しました。これが沖縄に伝わるビジュル神信仰の始まりだと伝わっています。旧暦の9月9日には「ビジュル参り」の例祭があり無病息災、子安、子授けなどの祈願する参拝者が多数訪れます。(泡瀬ビジュル/一の鳥居)(泡瀬ビジュル/手水鉢/手水舎)(泡瀬ビジュル/二の鳥居)(泡瀬ビジュル/社殿)「一の鳥居」が向かって東側に「社殿」が建てられ、鳥居をくぐると右側に「絵馬掛所」があり、左側には「手水鉢」と「手水舎」が設置されています。この「社殿」は桁行一間(1,822mm)、梁間一間半(2,800mm)、高さ約12尺(3.940mm)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造り、人造石洗出し仕上げです。鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根ね曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げています。昭和13年(1938年)に旧石の祠を改修し社殿、二基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリート造りで建立されました。改修された当時の建築技術を知る上で貴重な資料となっています。(社殿裏側のビジュル石)(社殿北西側の改築寄附者芳名の石柱)(泡瀬ビジュルのアコウ)「社殿」の北側裏には11個のビジュル(霊石)が祀られています。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまり「ビジュル」と呼ばれています。また「社殿」北西側の角に「改築寄附者芳名」の石柱が建てられています。石柱には寄付金の額と寄付者の氏名が彫られています。また「泡瀬ビジュル」の敷地内には沖縄市の名木「アコウ」が育ち、推定樹齢は150年、樹高8.3m、幹周8.5mです。台風で塩を被ると落葉し薄い赤茶の皮を剥ぎ新芽を出します。沖縄の方言で「アコーギ」や「ウシクガジュマル」と呼ばれて親しまれています。(泡瀬ビジュル/千秋堂入口)(泡瀬ビジュル/千秋堂)(メーヌウタキ/前之御嶽)(上屋内部の石祠)無人の小島であった「泡瀬」の地に首里、那覇からの移住者が入植し、定住を始めたのが1768年頃と伝えられています。当時「泡瀬島」は美里間切高原村の属地でしたが、1903年(明治36年)に県令により高原村から分離され泡瀬村が創設されました。2003年(平成15年)の泡瀬村設立100周年を迎えるにあたり、その記念事業の一環として「泡瀬ビジュル」の社務所「千秋堂」が建立されました。「泡瀬ビジュル」の東側に「メーヌウタキ/前之御嶽」があります。琉球王国第二尚氏王朝の14代国王「尚穆王/しょうぼくおう」の時代(1768年頃)に首里、那覇から移住者が次第に増え集落を形成し島建てが始まりました。口碑によると「泡瀬」の小島の中ほどに石造りの祠を設え「繁昌の神」と称して尊信したのが「メーヌウタキ」の由来です。珊瑚石灰岩で建造された宝形造の石祠は200余年も雨風に耐え、現存する泡瀬の拝所の中でも最も古い石祠です。1997年(平成9年)12月に石祠を雨風から保護する為に上屋が築かれました。(火之神/御三物)(ウブガー/産井泉)「メーヌウタキ」の東側に隣接する場所に「火之神/ヒヌカン」があり「御三物/ウミンチムン」とも呼ばれています。「火之神」は古来から家々の竃に祀られる神で、後世は家を守る神として尊信されました。その後、門中の神、村の神、間切の神、更に「尚真王」代より首里王府の最高官「聞得大君加奈志/チフィジンカナシ」が琉球王国の最高守護神となりました。旧暦12月24日に「火之神」の昇天を送り、翌年の旧暦1月4日に再び「火之神」を迎えれる「火之神祭」があります。また「火之神」の敷地に隣接して「ウブガー/産井泉」があります。「ウブガー」は「泡瀬集落」形成の初期(1768年)に飲料用水の井戸として自然の湧き水を利用して造られました。飲料水だけでなく出産時の産湯用の水を汲んだり、正月元旦の若水を汲んだりするカー(井泉)でもありました。「ウブガー」は古くから集落の原井泉(ムートガー)として人々から大切に崇められてきたと伝わります。(ミーガー/新井泉)(東之御嶽/アガリヌウタキ)「泡瀬集落」の東の「泡瀬ビジュル通り」沿いに「ミーガー/新井泉」があります。「ミーガー」は昔、野良仕事や漁の帰りに使用されていたと伝わります。戦後「泡瀬集落」全体が米軍施設に接収され井泉の原型は消滅してしまいましたが、集落の返還後「ミーガー」は以前とは位置形状を異にして「東之御嶽/アガリヌウタキ」の敷地内に新装併置されました。さらに「ミーガー」の東側に隣接して「東之御嶽(アガリヌウタキ)」の拝所があり、石祠にはウコール(香炉)が祀られています。世持神(ユームチガミ)として「泡瀬集落」の東方、アダンの木が繁る砂丘に石灰石造りの石祠が設られ、理想郷であるニライカナイから豊穣と繁栄を招く神として崇められています。「東之御嶽」の敷地は御嶽庭(ウタキナー)と呼ばれ、およそ三千坪を有し子供達の遊び場や砂糖樽用の榑板(くれいた)や乾物の干し場、また村遊びの際の出し物の稽古場として集落の住民に親しまれました。(泡瀬遊び庭跡の碑)(泡瀬遊び庭跡)(泡瀬塩田跡之碑/ぐるくん公園)(泡瀬塩田跡/ぐるくん公園)「メーヌウタキ/前之御嶽」と「泡瀬漁港」の間に「イルカ公園」があり、この敷地はかつて「泡瀬遊び庭/アシビナー」として住民で賑わっていました。近隣の村々から農作物等を売りにくる青空市場、娯楽会場、村芝居、集会所、相撲競技まで催される村人の憩いの広場でした。沖縄戦では米軍の占領下で避難民収容所や食糧配給場として利用されましたが、後に避難民は現うるま市に強制移住させられ「遊び庭」は消滅してしました。返還後の1977年に「イルカ公園」として整備され、現在は公園の北側に「泡瀬遊び庭跡の碑」が建立されています。「泡瀬集落」の北部に「ぐるくん公園」があり「泡瀬塩田跡之碑」が建立されています。1767年頃に泡瀬の無人島に入植した移住者は農業のかたわら、南西砂州に続く干潟を開拓し「入浜式塩田/シンナー」を作り製塩業を興しました。廃藩置県(明治12年)を境に「泡瀬」の製塩業は県内一の生産量を誇る「アーシマース」は県下にその名を馳せました。(カーヌモー/川ノ毛)(カーヌモー/川ノ毛の拝所)「泡瀬集落」が規模や人口ともに増大するに伴い水量豊かな飲料水用のカー(井泉)が望まれていた矢先に「カーヌモー/川ノ毛」から湧水が堀り当てられました。この井泉はどんな旱魃でも水が枯れる事はなく、集落で唯一の共同井戸として「泡瀬集落」繁栄の象徴となったと言われています。1906年(明治39)に大規模な改修が行われ下層石積を新たに構築し、井戸の周辺には広大な芝生地帯の「カーヌモー/川ノ毛」を増設しました。また1923年(大正12)には上層の鉄筋コンクリート造りの屋根が築かれたと伝わっています。また1948年(昭和23)には「カーヌモー」に山積みされていた米軍のコールタール缶の火災により井戸の屋根は消失し崩壊してしまいましたが、1985年(昭和60)9月に復元され現在の姿に改築されました。井戸には水の神様を祀る拝所が設けられウコール(香炉)が設置され多くの参拝者が訪れています。(泡瀬ビジュル通り沿いのカミヤー/神屋)(竜宮神の祠)(竜宮神の祠内部)「泡瀬干潟」は干潟や藻場の広がりが南西諸島でも最大級であり干潟の生物(特に鳥類や、 貝類、海草、藻類)の貴重な生息地と生育地であることが知られています。そのため日本の環境省に「日本の重要湿地500」に選定されています。現在も「泡瀬」半島の最東端には米軍施設の「泡瀬通信施設」があり「泡瀬集落」の完全返還は進んでいません。更に「泡瀬干潟」埋め立て事業が進み豊かな生態系への悪影響も危惧されています。この「泡瀬干潟」に向かって米国海軍の通信施設に隣接する位置に「竜宮神」を祀る祠が建立されています。祠内部には「竜宮神」と刻まれた石碑に3基のウコール(香炉)と霊石が数個設置され、更に向かって左側には「寿海仙泪明君」と記された石碑に1基のウコールが祀られています。
2021.07.15
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(美里集落の琉球赤瓦屋根)沖縄市「美里集落」の南部(美里1丁目/2丁目)には数多くの琉球赤瓦屋根の古民家が現在も立ち並び、令和の時代から古の沖縄の時代へ一気に空間を超越する事が出来ます。そこには歴史的価値が高い文化財が豊富に人々の暮らしに自然に溶け込み、先祖が残した大切な遺産を受け継がれているのです。(美里グシク)(美里グシクの香炉)美里集落の南部に「美里グシク」の拝所があります。この拝所は国道329号線と国道330号線が交わる場所にある小高い丘の頂上にあり、南南東に向けられて建つ祠内には「美里御城」と刻まれた石碑が祀られています。また「美里グシク」のウコール(香炉)は西南西に向けて設置されており霊石、貝殻、花瓶が供えられています。(グシクヌニー井戸)(仲元前のカーグヮー)「美里グシク」の北西側に「グシクヌニー井戸」があり「ソニーヌチンガー」とも呼ばれています。「美里グシク」から一番近い場所にある井戸の脇にはニービ石作りの霊石が魔除けとして祀られており「グシクヌニー井戸」は神聖な水源として、集落では水の神様へ祈る拝所となっています。さらに、この井戸から北西側には「仲元前のカーグヮー」と呼ばれる井戸があり、美里集落南部の生活用水や飲料水として重宝されていました。(ヌルドゥンチャー)(ヌルドゥンチャーの内部)「仲元前のカーグヮー」の西側に「ヌルドゥンチャー」と呼ばれるノロ殿内(ヌルドゥンチ)があります。「美里の殿」の名称でも親しまれる神アサギで、美里集落の琉球ノロが祭祀を行う神聖な場所でした。沖縄戦の前に造られた琉球赤瓦の建物で、歴史的にも文化的にも非常に価値があります。「ヌルドゥンチャー」内部には天地海を表す3つの霊石、3つの香炉、貝殻が祀られています。(ヌルドゥンチャー南西の霊石)(ヌルドゥンチャー北西の霊石)「ヌルドゥンチャー」は集落で行う祭祀において中心となる場所であり、村落の最高祭祀であるノロ(祝女)の火神が祀られています。集落でいくつか行われる祭祀において、ノロ(ヌル)はここに集合してから祭事に取り掛かります。「ヌルドゥンチャー」は豊年祭、ウシデーク、エイサーなどの諸芸能が奉納される場でもあり、ノロが神と交信交歓できる聖域でもあるのです。(ヌルドゥンチャー北東の霊石)(ヌルドゥンチャー南東の霊石)美里集落の「ヌルドゥンチャー」はこの他に東西南北にも霊石が祀られており、四方八方が魔除けの霊石で守られています。ノロは琉球王府に正式に定められた神職で、ニライカナイや太陽の神々と交信することのできる存在でした。また祭祀の間はその身に神を憑依して神そのものになる存在とされています。そのためノロは神人(かみんちゅ)とも呼ばれているのです。(美里間切地頭火の神ガー)「ヌルドゥンチャー」の西側に「地頭火之神」があります。石碑には「美里間切地頭火の神ガー」と記されていますが、現在はガー(井戸)は確認されません。井戸跡とウコール(香炉)が設置されており、美里集落の西側を悪霊を払う土地の守護神として祀られています。また、美里集落のお通しの役割を果たす拝所でもあり、住民だけでなく集落に訪れる人々の玄関口としても重要な場所でありました。(セークガー)美里公民館の南側に位置する「セークガー」は沖縄市の指定文化財に登録されています。井戸は堅固な石積みで2つの取水溝と四角の形をした覗き穴がある。戦後に改修された記録はなく、往年の技法を伝える重要な文化財となっています。詳しい建造年代は不明ですが、美里集落の発祥に関わる井泉だと言われています。美里集落の中心部に「メーデーガー」があり、現在でも豊かな水が湧き出ています。井泉は飲料水や生活用水の他にも、収穫した野菜や衣類を洗う為にも使用されていたと考えられます。旧正月には若水を汲み茶を沸かし一年の健康を祈願して飲んでいました。また、集落で子供が産まれた時には産水としても使用されていました。(美里2丁目11番地の石敢當)(美里2丁目17番地の石敢當)(美里2丁目21番地の石敢當)美里集落の美里2丁目には数多くの古い石敢當が点在しています。ニービ石で造られた石敢當は少なくとも100年以上前のものと考えられ、昔からこの地域に人々の暮らしがあった事が分かります。また、美里2丁目には琉球赤瓦屋根の古民家も集中的に多数残っており、美里集落が発祥した地域としての可能性も高まっています。(カニチヌマーチ)「美里集落」には道の角に孤立した三角地が設置されている独特な風景があります。これは美里2丁目18番地にある「カニチヌマーチ」と呼ばれる三角地です。美里集落でしか見られない珍しい区画形式で、魔除けの意味があると考えられますが詳細は不明です。美里集落の南部は美里集落発祥の地と考えられ、歴史あるノロの祭祀建物も大切に保存されています。美里集落に伝わる古き良き琉球文化を肌で感じる事ができるこの地は、スピリチュアルなパワーを感じる聖域として、ゆったりとした時間が今日も流れているのです。
2021.04.13
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(美里集落の石敢當)沖縄本島の沖縄市中部に「美里集落」があり、現在の沖縄市の前身となった美里村があった歴史の古い地域です。沖縄戦の前から残る琉球赤瓦の古民家が多く現存する古き良き琉球を感じる街並みには、数多くの貴重な遺跡文化財が大切に保存継承されています。「美里集落」は平地でありながら井泉が多数湧き出る水の聖域として崇められています。(美里ビジュル)(ビジュルの霊石)「美里集落」の北側の境界に「美里ビジュル」があります。「んさとびじゅる」と刻まれた石碑と一緒に"天地海"を示す3つの霊石とウコール(香炉)が祀られています。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)に由来し、沖縄では主に霊石信仰として豊作、豊漁、子宝などの祈願が行われる神聖な場所として拝されています。(イジュンガー)美里集落北部にある沖縄市立美里小学校の東側に隣接する場所に「イジュンガー」があります。「泉川」と刻まれた石碑があり井泉の跡を保存継承しています。小学校の身近な場所に美里集落の歴史跡がある事で、子供達への歴史教育に役立つ非常に貴重な文化財として地域住民により大切に拝されています。(ヒージャーガー)「ヒージャーガー」とは湧水を樋でひいて利用する形態の井戸の事です。明治25年(1895年)に生まれた地元の古老が物心ついた頃には井泉が存在したと言われています。「ヒージャーガー」は子供が産まれた時に産水を汲むウブガー(産井)として利用され、ウマチー(豊年祭)には集落の融資が祈りを捧げました。また、昭和初期まで集落の飲料水として使用され、洗濯をする「洗濯ガー」としても賑わっていたと伝わっています。(ヒージャーガー池跡)「ヒージャーガー」の南側にある溜池跡で「ヒージャークムイ跡」とも呼ばれています。水道が整備される以前の沖縄では、5〜6月の梅雨時期と8〜9月の台風の季節以外は干魃が相次ぎ、農業用水として雨水や排水をためる共同の溜池(クムイ)も使用していました。「ヒージャーガー池跡」の片隅には拝所が設けられており「「元」樋川池」と「馬□□」と刻まれています。(イリーアタトウヤマの入り口)(銀山御嶽/ヒンジャン御嶽)(シチャヌウカー/ヒチャヌウカー)美里公民館の北側にある「イリーアタトウヤマ」と呼ばれる聖なる小高い山があります。東側にある「アタトウヤマ」の西(イリ)側にあり、石垣や居住地跡が残されています。山の上には「銀山(ヒンジャン)御嶽」と呼ばれる拝所があり、祠内には霊石とウコールが祀られています。「イリーアタトウヤマ」の南東側の麓には「シチャヌウカー(ヒチャヌウカー)」と呼ばれる井泉があり、聖なる山からの神聖な水として崇められています。(村屋跡/アシビナー)(村屋跡の記念碑)「美里村屋」や「ンザトゥムラヤー」と呼ばれる美里集落の「遊び庭(アシビナー)」で、集落の子供達や若者が集う遊び場でした。また、集落の年間行事が行われる中心地として賑っていました。現在は集落の青年会会館として利用されています。集落の古老によると、村屋が建てられたのは1914年頃と言われています。「村屋跡」は文化庁の登録有形文化財として、建造物は貴重な国民的財産に指定されています。(石畳跡)(サークヌカー/ニーブガー)美里小学校の南側に位置する場所に「石畳跡」の道があります。現在は石畳跡の西側に国道329号線が並行していますが、琉球王国時代には集落の主要道路として石畳が敷かれていました。この石畳跡を進んだ先には「サークヌカー(ニーブガー)」があり井泉の周りには畑地が広がっており、周辺にも敷石と考えられる遺構が残っています。現在「サークヌカー」の水は農業用水として重宝されています。(ジナンヌシチャヌカー)(キャッチャガー)「ジナンヌシチャヌカー」は石畳跡の北側にあり畑地に囲まれています。かつては集落の生活用水として重宝されていたと考えられます。また「ジナンヌシチャヌカー」の西側には「キャッチャガー」があり、飲料水としてだけではなく農作物を洗ったり、衣類を洗う井戸として使用されていました。現在でも豊富な水量があり、農業用水として大切に利用されている現役の井泉です。(印部石/しるべいし)美里3丁目7番地に沖縄市指定文化財の「印部石(ハル石/さ/さく原)」があります。「ハル石」とは琉球王府により行われた「元文検地(1737〜1750年)」と呼ばれる土地測量の際に各地に設置された石の事です。美里集落に残る唯一の印部石(しるべいし)で、約280年前に建てられたこの「ハル石」は、琉球王国時代に行われた測量の状況を知る上で非常に貴重な文化財となっています。(美里3丁目8番地の霊石)ニービ石(ニービヌフニ)の霊石は魔除けとして集落のT字路や突き当たりに設置され、現在では珍しく歴史的にも文化的にも価値が高まっています。沖縄市「美里集落」は琉球王国時代から続く古い地域で、現在でも迷路のような細い路地や琉球古民家が残る歴史を感じる聖地となっています。「美里」という名前が示す通り琉球の文化美が詰まった空気が漂い、静かでゆったりとした時間が流れる里として私達を癒してくれるのです。
2021.04.12
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(ウガングヮームイ/御願小森)「大里集落」は沖縄市の南側に位置し泡瀬地区の西側にあります。大里集落の最南端に「ウガングヮームイ/御願小森」と呼ばれる小さな森があります。竜宮神を祀っていると言われる拝所で、かつて「ウガングヮームイ」周辺には船着場や防空壕がありました。勝連グスクの阿麻和利を討伐した鬼大城が百度踏揚を連れて首里に向かう前に隠れた場所との伝承があります。(ウガングヮームイの内部)「ウガングヮームイ」の内部には宇宙を構成する「地水火風空」を示す5つのウコール(香炉)と霊石か祀られています。昔は海外へ移住した村人たちの健康祈願も行われていた場所で、戦時中は戦地へ出発する兵隊を見送る場所でもありました。「ウガングヮームイ」は地元の住民に「イチバンチ」の名称で呼ばれています。(ウサチウガンジュ)(火之神)「大里集落」の東側に「ウサチウガンジュ」と呼ばれる拝所があります。「ウスクギー」と呼ばれるアコウの木の下に「大里氏地頭」と刻まれた石柱とウコールが設置されています。「ウサチ」とはそのアコウの木に由来しており、この木の樹齢は約100年と言われています。アコウの木の右側に「火之神」の霊石があり、集落の住民は俗に「ウサチヒヌカン」と呼んで拝しています。(カーウリガー)(カーウリガーの正面にある石敢當)「ウサチウガンジュ」の西側で大里2丁目23番地に「カーウリガー」があります。この井戸は出産時の汚れた衣服や布を海で洗った後に、仕上げをするために使用されていました。「カーウリガー」から道を挟んだ正面にはニービ石造りの石敢當があります。神聖な「カーウリガー」の井戸を悪霊から守るように設置されています。(ソーリーガー)(ヒーゲーシー)「大里集落」の北東に「ソーリーガー」があります。飲料水や生活用水として利用された他に「大里集落」で死者が出た際に死者の身体を清める水をこの井戸から汲む慣わしがありました。道路に突き出るように造られた井戸は比較的珍しい型で、一般的な井戸に併設しているウコール(香炉)が設置されていない事も特徴があります。大里公民館の北東側に隣接する桃原集落との境目に「ヒーゲーシー」があります。現在のクムイ(溜池)には水は見られませんが、重要なクムイの跡として現存しています。このクムイは村のヒーゲーシー(火を返す魔除け)のために設置されたと言われています。(地頭火之神)(地頭火之神の内部)「大里集落」の北側の坂道にある「地頭火之神」で、祠にはジトゥーヒヌカン(地頭火之神)とカミジー(神の土地)が祀られています。「地頭火之神」と刻まれた石碑と霊石が設置されヒラウコー(沖縄の線香)が供えられていました。集落の土地の守り神として地元住民により大切に拝されています。ちなみに「地頭」とは琉球王朝時代(1429~1879年)に各間切(マギリ/現在の市町村)の地頭(領主)として地方行政を担当した人のことで、間切番所(現在の町村役場)の最高の役で、諸般の行政を監理する役目を担っていました。(エーヤマ遺跡の案内板)「地頭火之神」の西側に「エーヤマ」と呼ばれる遺跡の森があります。「大里集落」の6つの拝所がある聖地で、この地の植物を切ったり刈ったりする事は固く禁じられていました。「大里集落」はこの森の周辺で発祥したと言われており、旧暦4月15日の「アブシバレー」と呼ばれる虫払いの儀式では住民が山の森全体を拝んでいます。「エーヤマ」はグスク時代(12〜16世紀頃)の遺跡として永きに渡り「大里集落」を見守っているのです。(トゥンチナー/殿内庭)(ウサチガー/御先井)「大里集落」の「火の神」が祀られておりトゥンチナーやトゥンヤーと呼ばれています。この場所では旧暦3月、5月、6月のウマチー(豊年祈願/感謝祭)の行事、旧暦6月25日の綱引き、旧暦9月9日の菊酒(健康祈願)が行われます。戦前は瓦屋根の建物でしたが沖縄戦で失われました。戦後、他の拝所に先駆けて現在の形に復元されました。「ウサチガー」は初めて大里集落に住んだ人々が使用していたとされる井戸です。戦前は隣接する国道329号線内にありましたが、道路建設に伴い現在の位置に移されました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(エーガー/ウフガー)(ヌンミジガー/飲水井)「エーガー」は「大里集落」で最も古い井戸の一つです。「ナナヒチヒャーイ」という記録的な大干ばつの時にも水が枯れる事がなく、周辺の集落からも「エーガー」に水を汲みに来たと伝わります。以前は「エーガー」から若水(元旦に初めて汲む水)を汲み茶を沸かし、1年の健康を祈願して飲んでいました。「ヌンミジガー」は大干ばつの際に「エーガー」だけでの水では足りなくなり造られた井戸です。井戸の構造が三日月に似ている事から「ミカヅキガー」の名称で親しまれています。「エーガー」同様、正月にはこの井戸から若水を汲み重宝されていました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(タキグサイ)(カンジャーガー)戦前は「エーヤマ」の頂上に香炉が置かれていましたが、戦後に「エーヤマ」が大きく削られた際に香炉や霊石が木の根付近にまとめられていました。その場所は現在のように屋根を付けて復元されました。祠内には天地海を示した3つの香炉と霊石が祀られています。また、海外へ移住した人々の健康祈願も「タキグサイ」で行われていました。「エーヤマ」のこの地で鍛冶屋(カンジャー)を始めた人が使った井戸と伝えられています。戦前は水溜りぐらいの井戸だったそうですが「エーヤマ」が削られた際に失われてしまいました。現在の「カンジャーガー」は実際の場所を探し当てて復元されたものです。(望月按司の石碑)(大里繁座那志の石碑)「エーヤマ」には「望月按司」の石碑があります。望月(茂知附)按司は9代目の勝連グスク城主で、その後10代目城主になる阿摩和利に追放された人物です。勝連グスクから追放された望月按司がエーヤマに逃れて大里の地で祀られています。「望月按司の石碑」の近くには「大里繁座那志の石碑」が建てられおり、大里の土地神がエーヤマの森に一緒に祀られているのです。(大里集落の琉球赤瓦屋根と芭蕉)「大里集落」は「エーヤマ」の聖地に守られている神秘的な集落で、琉球の文化が大切に継承される魅力溢れる土地です。琉球赤瓦屋根の古民家が残る静かでゆったりとした時間が流れる集落です。「大里集落」はかつては海に面していた集落で船着場跡も残っています。比較的小さな集落ですが、古の琉球ロマンがたくさん詰まった聖地として、現在でも集落の住民により神様への祈りが捧げられ続けているのです。
2021.04.06
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(城前公園/越来グスク跡)「越来集落」と「城前集落」は沖縄市の中心部に位置し比謝川沿いに広がる城下町です。越来(ごえく)グスクは沖縄市城前町周辺の丘陵地に15世紀頃に築城された山城グスクです。沖縄戦などで破壊されて遺跡はほとんど残されていませんが、越来グスクは越来地区の人々の誇りとして大切にされています。(越来グスクの拝所/ギークヌウガンジュ)(越来グスクの火の神)「越来グスクの拝所」は「ギークヌウガンジュ」ともよばれ、城前公園(越来グスク跡)の敷地内にあります。拝所の祠の中には左に「越来城殿」右に「火の神」と記された石碑があり、それぞれに石造りのウコール(香炉)か設置されてヒラウコー(琉球線香)とお賽銭が供えられていました。すぐ隣にある「火の神」の祠には霊石とウコール(香炉)が設置されており、越来グスク跡への御通しと土地の守り神としての役割を持っています。(ムトゥジマガー/クシバルガー)越来集落の南側にある「ムトゥジマガー」です。越来地区の憩いの場である「越来城水辺公園」の直ぐ脇に位置し「クシバルガー」とも呼ばれています。元々この地には安慶田集落があり、村人が生活用水として利用していた井戸だと言われています。(御殿川のヌーメーカー)越来小学校の南東側に位置する「御殿川のヌーメーカー」です。城前集落の住宅と壁に囲まれた薄暗い場所にあり、表の通りからは見えない場所に佇んでいました。井戸にはウコール(香炉)が設置されており、琉球石灰岩の石垣が井戸を囲むように積まれていました。「御殿川のメーヌーカー」に続く細い路地の入り口には、神聖な拝所である旨の注意書きがありました。(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチャー)(ヌルドゥンチ結びぬカー)城前集落の北側に「ヌンドゥンチ」があります。「ヌルドゥンチャー」とも呼ばれ、集落のノロ(神女)の住居で村落の祭祀が行われた神聖な場所として祀られています。祠の中には「祝女火之神」「掟火之神」「地頭代火之神」「地頭火之神」「お通し火之神」が祀られていました。更に「ヌンドゥンチ」の直ぐ北側には「ヌルドゥンチ結びぬカー」があり、井戸の隣には拝所の祠がありウコールが設置されています。(飛び安里の生家跡)越来小学校の北側に「飛び安里の生家跡」の古民家があります。「鳥人飛び安里」として知られており、ライト兄弟が1903年に有人動力飛行を成功させる遥か前の1787年(琉球王朝時代)に空を飛んだ人物です。「飛び安里」は1768年に首里鳥堀に産まれ、その後沖縄市越来に居住しました。弓に鳥に似た翼を付けて足で上下に動かし、泡瀬の海に面した断崖から飛びたったのです。(ターチューガー/イシガー)「飛び安里の生家跡」の西側に「ターチューガー」があります。この井泉は「イシガー」と呼ばれていましたが、昭和3年に越来村が模範衛生集落に設定されたのを機会に造られ、吸い上げポンプが2台取り付けられたために「ターチューガー」と呼ばれるようになったのです。集落の住民は正月の元旦にこの井戸から若水を汲んだり、子どもが産まれると産湯用の水も汲んだりしました。(拝領の白樺)「拝領の白樺」は越来小学校の北側に位置します。越来王子時代(1418年)に尚泰久王は世利久との間に子供を授かり、その記念として蜜柑と白椿の木が植えられました。沖縄戦で蜜柑の木は消失しましたが、白椿は幹に艦砲射撃を受けたにも関わらず根が残り再生したのです。しかし、白椿は平成9年2月に枯れてしまい、現在はその白樺の木の2代目が屋敷地内と、隣接する「ターチューガー」に植えられています。(ワクガー)越来集落にある杉の子保育園の西側に位置する場所に「ワクガー」があります。尚宣威王の子孫であるワクガー(湧川)按司が使用していた井戸と口碑が伝えられています。井戸の上部には石造りの祠があり、内部にはウコール(香炉)と霊石が設置されています。現在も越来集落の人々に拝まれている神聖な拝所となっています。(殿内跡/トゥンチヌスバヌヒヌカン)沖縄県立美来工科高等学校の南側に位置する丘の上に「殿内跡/トゥンチヌスバヌヒヌカン」があります。尚宣威王の子孫が暮らしていた場所と口碑が伝えられており、現在は湧川門中の子孫たちが拝んでいます。祠の内部には「湧川殿内」と「火の神」と記された石碑て3本の霊石が祀られ、ウコール(香炉)が設置されています。(尚宣威王の墓に続く石段)(尚宣威王御来歴の石碑)越来集落の北西部で沖縄県立美来工科高校の南西側に位置する、比謝川沿いにある小高い山の中腹に「尚宣威王の墓」があります。墓の型式は名嘉真宣勝の分類の「岩穴囲い込み墓」です。墓の岩穴は上部の高い場所に設けられており、下部にはウコール(香炉)、花瓶、湯呑みなどを設置する場となっている特徴的な大型の墓となっています。(尚宣威王の墓/上部)(尚宣威王の墓/下部)尚宣威王は第二尚氏尚円王の弟で、尚円王が即位すると越来間切の総地頭に任ぜられ「越来王子」と称されました。1476年に尚円王が亡くなり尚宣威は1477年に王位を継ぎましたが、在位6ヶ月にして王位を尚真に譲りました。その後に越来間切へ隠遁し、同年8月に没したのです。兄の尚円王が世界遺産である「玉陵(タマウドゥン)」に祀られているにも関わらず、弟の尚宣威王は越来の薄暗い森の山に墓を構えている謎は未だに詳しく解明されていません。(越来2丁目4番地の霊石)(越来2丁目10番地の霊石)越来グスクの城下町である「越来集落」と「城前集落」には、悪霊祓いとして知られる「石敢當(いしがんとう)」の他にも古い魔除けの霊石が多数存在しています。井泉(カー/ガー)の数も多く豊富な水源と共に集落が発展してきた事が分かります。この土地は琉球王国時代から沖縄本島中部の越来間切として繁栄し、その後に越来間切が多数に分裂して現在に至ります。この城下町を歩いて巡ると琉球王国の伝統や文化を肌で感じる事が出来ます。「越来集落」と「城前集落」は国道330号と国道329号が交わる比較的交通量が多い地域ですが、城下町の内部に一歩足を踏み入れれば、ゆったりとした優しく心地良い時間が流れているのです。
2021.03.09
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(アガリ森のウタキ)「胡屋集落」と「仲宗根集落」は沖縄市中心部の地域に隣接しており、胡屋地区には一番街商店街、中央パークアベニュー、コザミュージックタウンなどの商業施設があり、仲宗根地区には沖縄市役所が存在します。そもそも「胡屋集落」と「仲宗根集落」は別々の集落でありますが、昔から2つの集落は「獅子舞加奈志」の伝統行事や文化面で協力し合い発展を遂げてきた、切っても切れない強い絆で結ばれているのです。(諸見小学校の東側にある胡屋の石碑)(石碑に刻まれた霊符)諸見小学校の東側の十字路に位置する「胡屋の石碑」は胡屋集落の西側にあり、悪霊などを防ぐ意味で大正9年7月13日に設置されました。石碑に刻まれている霊符は「鎮宅霊符縁起説」の鎮宅霊符七十二道と、新宮館発行の「神道神言妙術秘法大全」に掲載されているものと同じだと考えられています。霊符とは神社からいただく御札や御守りと同じようなもので、古くからご利益があるとして庶民の信仰の対象となっていました。(胡屋のガジュマル)(ガジュマルと共に建つ交通安全碑)胡屋集落の北側に「胡屋のガジュマル」があり胡屋集落のシンボルとして住民に大切にされています。「胡屋のガジュマル」は樹齢約100年、樹高7.9メートル、幹周3.2メートルの古木で「胡屋の石碑」と共に大正9年頃より胡屋集落を見守って来たのです。ガジュマルの木には「キジムナー」という精霊が宿ると沖縄では言い伝えられています。(ミーガー/ウフガー)「胡屋のガジュマル」に隣接する「胡屋コミュニティー広場公園」には「ミーガー」という井泉があります。俗に「ウフガー」とも呼ばれ、胡屋集落の中では最も新しく造られた井戸です。昭和6年にポンプ式に改修され、飲料水や馬の水浴びとして多く利用されていました。胡屋集落では旧暦8月10日に地域の平和と五穀豊穣を祈念して行われる「ウスデーク」という伝統行事で「ミーガー」が祈られています。(胡屋の石獅子/シーサー)(石獅子の隣にある霊石柱)胡屋集落の中心部にある胡屋自治会館に設置された「胡屋の石獅子/シーサー」です。集落の南側に向けて構えており、このシーサーは集落の南から来る悪厄を祓う重要な役割を持っています。胡屋自治会館はかつて「メーヌマチュー」と呼ばれる広場に建てられており、この場所は昔から「グングヮチモー」とも呼ばれていた聖地として住民に崇められていました。石獅子の隣には貝殻の化石が多数混在する霊石柱も魔除けとして一緒に佇み、胡屋集落を悪霊から守っています。(村根屋と呼ばれる拝所)(村根屋の霊石)胡屋自治会館に隣接した場所に「村根屋」と呼ばれる拝所があります。拝所の小屋にはウコール(香炉)や湯呑みが供えられていました。「村根屋」と言う名称から胡屋自治会館がある土地が胡屋村発祥の地だと考えられます。「村根屋」は村のヒヌカン(火の神)の役割として土地を災難から守ってくれる神が祀られていると思われます。また「村根屋」の霊石は魔除けの悪霊祓いとして設置されていると考えられます。(胡屋の御嶽)(胡屋の獅子舞安置所)コザ中学校の南西に位置する「アガリ森」にある「胡屋の御嶽」と呼ばれる拝所です。「アガリ森」は沖縄戦後に米軍の通信施設が建てられていましたが、この高台が胡屋集落に返還されると集落の獅子舞の安置所、御嶽、殿毛と呼ばれる神を祀る広場などが1980年に「アガリ森」に移設されました。旧暦8月10日の「ウスデーク」と旧暦8月15日の「十五夜」では「胡屋集落」と「仲宗根集落」の共同伝統行事として「獅子舞加奈志」が奉納されます。(フサトガー/ウブガー)コザ中学校の南東側に位置する「フサトガー」という井泉です。俗に「ウブガー」とも呼ばれ、胡屋集落では飲料水として利用したり、子供が産まれた時は「産水」てして利用され、正月の元旦には「若水」として水を汲んできました。旧暦8月10日の2集落共同行事で行う「ウスデーク」では水への感謝と五穀豊穣の祈りを捧げています。(沖縄市役所裏の歴史公園)(室川貝塚の丘稜)沖縄市仲宗根町には沖縄市役所があります。市役所の敷地は丘陵地帯になっており、一帯に室川貝塚が広がっています。縄文時代前期の標式土器である曽畑式土器やヤブチ式土器の発見により「室川貝塚」は6700年前の新石器時代前期の遺跡と推定されています。現在では歴史公園として整備され、沖縄市の指定文化財に指定されています。(仲宗根御嶽)(地頭代火の神)沖縄市役所の北側に「仲宗根貝塚」が広がっており、約3,500年前から600年前に渡り存続した遺跡です。「仲宗根貝塚」からは抜き歯された人の顎骨や動物の骨、祭祀に関係すると思われるガラス玉、中国製陶磁器や土器などが出土しています。「仲宗根御嶽」がある一帯の広場は「ウンサクモー」と呼ばれ、仲宗根集落では5月ウチマー(豊穣祈願)などで敷地内にある「地頭代火の神」と共に拝まれています。(胡屋自治会館にある自動販売機)室川貝塚や仲宗根貝塚の一帯は現在の胡屋集落と仲宗根集落に広がっていて、昔より人々が暮らしていました。現在は胡屋地区と仲宗根町地区に分かれていますが、縄文時代には同じ土地の住民として生活してきたと考えられます。2つの隣接する集落が昔から同じ伝統行事を共有して伝承している事も当然と言えます。今後も「胡屋集落」と「仲宗根集落」の強い絆を守りながら、古より伝わる伝統文化を積極的に後世に大切に伝える継承集落として発展して行く事を心より期待しています。
2021.03.08
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(与儀遺跡)「与儀集落」は沖縄市南部の国道329号線沿いに位置し、北中城村渡口地区に隣接しています。「与儀集落」は先祖を敬う事を重んじている地域で、多くの御願(うがん)行事が昔から大切に継承されています。旧正月、五月ウマチー(豊穣祈願)、六月ウマチー(収穫祭)、六月カシチー(収穫感謝祭)、八月シバサシ(悪霊祓い)、九月菊酒(健康祈願)、十二月ウガンブトゥチ(火の神の昇天)など、一年を通じて琉球王国時代から続く旧暦の伝統行事が行われます。(シマカンカー)(シマカンカーの左縄)「与儀集落」に伝わる「シマカンカー」は沖縄市で唯一継承されている無病息災を祈る伝統儀式で、旧暦11月1日に集落の北側と東側の入り口2カ所に豚の皮を結んだ左縄(左撚り縄)を飾って疫病や厄災をもたらす悪い神が入らないように祈ります。"カンカー"とは見張る、見守るの意味で「シマカンカー」は「シマクサラシ」とも呼ばれる悪疫払いで、集落を悪霊から守る為に戦前から行われている大切な祭事なのです。(上殿)(上殿の祠内部)「シマカンカー」が行われる「与儀遺跡」の中に「上殿」があります。この地は「与儀集落」を創始した「仲加」の祖先が暮らした場所と言われています。「上殿」は旧暦の1月1日(旧正月)、5月15日(ウマチー)、6月15日(ウマチー)、6月23日(カシチー)、8月10日(シバサシ)、9月9日(菊酒)、12月24日(ウガンブトゥチ)の行事で拝まれます。「上殿」の祠には霊石、霊石柱、ウコール(香炉)、巻貝が祀られています。(与儀遺跡のガジュマルとデイゴ)(与儀遺跡の井戸)「上殿」がある「与儀遺跡」には樹齢が約100年のガジュマルと、同じく樹齢約100年のデイゴの古大木が集落を守っています。ガジュマルは神が宿る木で「キジムナー」という沖縄の妖精が住むと言われています。デイゴは言わずと知れた沖縄県の県花です。デイゴが見事に咲けば咲くほど台風がよく来る年になると言われており、その年のデイゴの咲き具合によっては、その年の台風の当たり年かどうかを占えるようです。更に「与儀遺跡」にはかつて遺跡で暮らした住民に利用された井戸跡が残されています。(神屋トニー)「与儀遺跡」の南側にある「神屋トニー」です。獅子舞を踊る神聖な場所とされており、拝所は旧暦の1月5日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。広場の奥側にはカミヤー(神屋)と呼ばれる神の祀る屋敷跡があり、ヒヌカン(火の神)などが祀られています。集落の住民はこの地を「ナーカアサギ」とも呼んでおり「仲加」の祖先が住居を構えた場所であると伝えられています。(与儀の石碑)「神屋トニー」の南部には石敢當のように畑地の隅に置かれている「石碑」があります。ニービ石でつくられた石碑には「◯◯◯ 西方 廣 ◯ 百難無」と記されています。何故この位置にこのような石碑が置かれて、石碑にどのような意味があるのかは未だに解明されていません。魔除けの意味が込められていると考えられていますが、多くの謎に包まれた「石碑」は今日も与儀集落の片隅に静かに佇んでいるのです。(ウブガー/産川)謎の「石碑」から道を挟んだ正面には「ウブガー(産川)」があり、集落の住民は「キヌガー」と呼んでいます。元旦の若水や子供が産まれた場合は、この井戸から水を汲む慣わしとなっていました。現在は8月10日(シバサシ)に拝まれています。この日は屋敷の御願をして、屋敷の神への感謝と家族の繁栄と安全が祈られます。また、周りと円滑な生活が送れるよう願いが込められるのです。(火ヌ神)(チナヒチ場所/綱引き場所)「与儀集落」の中心部にある「与儀自治会」の敷地内に「火ヌ神」があり、3つの霊石が祀られています。かつて集落の全員がこの場に集まり豚を殺して食べたと伝わっており、旧暦11月1日の「シマカンカー」の日に「火ヌ神」が拝まれています。「与儀集落」の「火ヌ神」は土地の守り神として、悪霊祓いの意味も込められている聖域として崇められ住民により祈られています。また「与儀自治会」の前の道は「チナヒチ(綱引き)場所」となっており「与儀集落」の大切な行事として多くの住民で賑わいました。(渡口の屋敷跡)(渡口の屋敷の祠内部)「与儀自治会」の南東側に「渡口の屋敷跡」があり、渡口の祖先に按司がいたと伝えられています。祠内には大型の霊石が3つ、小型の霊石が3つ、ウコール(香炉)が3つ祀られています。また「渡口の屋敷跡」の片隅には別の祠があり、地頭代の役人が暮らしていたといわれています。「与儀集落」の住民は「ジトーヤー」や「シルドゥンヤー」と呼び崇められています。「渡口の屋敷跡」は旧暦の1月1日、5月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれています。(クガニチュー)(クガニチュー祠内部)「クガニチュー」と呼ばれる拝所が「与儀集落」の南部の入り口にあります。「クガニッツー」や「クガニツー」とも呼ばれるこの拝所は、旧暦5月15日、6月15日、9月9日、11月10日、12月24日に拝まれています。戦前までこの拝所の左側に海石で造られたシーサーがあったという。それは「クガニチュー」と同様に「魔よけの神様」として信じられていました。特に11月10日の「シマカンカー」の行事は、祠を境に豚肉や骨がついた左縄を吊るす慣わしになっています。(ウルグチガー/下口井)「与儀集落」の最南端の崖の下に「ウルグチガー」があります。集落の住民はこの井戸の当て字を「下口井」としています。旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)の行事に拝まれ、水への感謝と家族の繁栄と健康を祈願します。ガー(井戸)には水の神様が宿る神聖な場所で、水と親しむ場であると同時に畏敬の念を持って接する聖地でもあります。(ヒーケーシー)「与儀集落」の東側にある「ヒーケーシー」と呼ばれる魔除けの石柱です。石敢當(イシガントウ)とも言われ、この古い石柱は南西側(集落の東側)を向いています。石柱の表面には「◯◯奉山石敢當」と記されています。現在は屋敷内にありますが、古より与儀集落を疫病や厄災から守る重要な役割があったと考えられます。また、集落の外部から悪霊が入らないようにする集落の守り神でもありました。(アダンジャガー)「与儀遺跡」の東側の坂道にある「アダンジャガー」です。「アダンヂガー」や「アカンジャーガー」とも呼ばれる井戸で、旧暦8月10日に行われるカーウガン(井戸の拝み)で祀られる井戸の一つとされています。井戸は神聖な拝所である為、周辺にゴミ等を捨てる行為は絶対に許されず罰当たりな行為になります。現在はコンクリートの板で蓋がされていますが、水源への感謝と水の神への祈りが捧げられる拝所となっています。(アナガー)「アナガー」という井泉が「与儀集落」の中北部にあり、住民は「クワガー」とも呼んでいます。初めて集落にやってきた与儀の祖先たちは、この湧水から生活の水を得たと言い伝えられています。現在の井戸は昭和52年に改築され、豊富な水源は主に農業用水として重宝されています。「アナガー」も同様に旧暦8月10日のカーウガン(井戸の拝み)に水への感謝と家族の繁栄と健康が祈願されています。(ヤマグヮー)「アナガー」の周囲には「ヤマグヮー」と呼ばれる聖なる森があります。森の西北にある拝所を「ウィーヌヤマグヮー」と呼び、南東にある拝所を「シチャヌヤマグヮー」と呼んでいます。これらの拝所は「琉球国由来記」(1713年)にも記載されており、旧暦の5月15日、6月15日、6月25日、12月24日に拝まれています。南東の拝所付近にある井戸は「ヤマグヮーガー」と呼ばれています。さらに、この森は与儀の人間が初めて住み着いた場所と伝えられ「ナコウジマ(名幸島)」と呼ばれているのです。(魔除けの石碑)「与儀集落」にはT字路の突き当たりにある現代の石敢當とは異なり、十字路の角に石柱の魔除けが設置されています。琉球王国時代から大切に継承される旧暦行事も住民の生活に根付いており「シマカンカー」と呼ばれる沖縄市に唯一残る有形文化財の祭事も残っています。井戸に宿る水の神様への祈りも受け継がれ「与儀集落」の繁栄と平和が保たれています。ぜひ、これからも集落の若者達が生まれ育った集落に誇りを持って、琉球の伝統文化を後世に引き継いで行く事を心から望んでいます。
2021.03.01
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(ビジュルのガジュマル)「古謝/こじゃ集落」は沖縄市の北東部にあり、沖縄本島東海岸に広がる中城湾を見渡す丘陵地から東側に広がる平地に位置する集落です。「古謝集落」には今でも琉球赤瓦屋根の古民家が点在し、数多くの遺跡文化財が集落の住民により大切に守られて、生活に欠かせない歴史と伝統文化が暮らしの中に継承されています。「古謝集落」には古き良き沖縄のゆったりとした時間が心地良く流れています。(カミヤー/神アシャギ)(古謝之殿)「古謝集落」では旧暦1日と15日に「チィタチ/ジュウグニチの拝み」が神聖に催されています。集落の無病息災と五穀豊穣を祈願する毎月恒例の行事で、まずこの「カミヤー/神アシャギ」から祈りが始まります。もともと神アシャギ(神を招き祭事を行なう場所)の建物があったそうで、現在は「カミヤー」の建物内部には火ヌ神、位牌、霊石が祀られ、集落の守り神である獅子も丁重に納められています。「チィタチ/ジュウグニチの拝み」ではカミヤーに続き「古謝之殿」で祈りが捧げられます。この「古謝之殿」は古謝集落の丘陵地の麓にある「アシビナー遊び庭」と呼ばれる集落の行事が行われる広場にあります。毎月旧暦1日と15日に無病息災と五穀豊穣が祈願される他に、旧盆には集落の有志が「アシビナー」でエイサーを踊ります。(イーウガン)(クモコウタキ/雲久御嶽)「古謝之殿」の次に「イーウガン」に移動して「チィタチ/ジュウグニチの拝み」が続きます。アコウの木の森の内部に佇む「イーウガン」には石造りのウコールに霊石が設置されています。現在は「イーウガン」の森のすぐ脇にはアパートや住宅が隣接しており、森は地域の子供達の遊び場になるほど、ウガンジュ(拝所)が住民の生活に当たり前のように溶け込んでいるのです。毎月恒例の巡礼は次に「クモコウタキ/雲久御嶽」に続きます。この御嶽は「ヒチャウガン」とも呼ばれ、隣接する美里集落のノロ(神女)が祈願する場でした。また、琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」には『クモコ御嶽 神名 オソクヅカサノ御イベ』と記されています。石の祠にはウコール(香炉)に霊石が供えられています。(ビジュル)(地頭火ヌ神)毎月恒例の「チィタチ/ジュウグニチの拝み」は最後にこの「ビジュル」で祈りを締めくくります。樹齢約150年のアコウの木の下に石の祠があり、祠には宝珠が取り付けられています。「ビジュル」には創建時に海から流れ着いたとされる霊石が納められており、旧暦1日と15日の他にも妊娠祈願や過去1年間で村で子供が産まれたら、旧暦9月9日に「ビジュル」にて子供の健康祈願が行われます。「古謝集落」以外からも沢山の参拝者が訪れる聖地となっています。「古謝集落」の中心部にある「地頭火ヌ神」は沖縄戦後、一時的に「古謝集落」が難民収容所となり「地頭火ヌ神」が学校の敷地内に移動されました。現在の「地頭火ヌ神」が祀られる石の祠は戦後の混乱が終わった後、現在地に建てられました。「地頭火ヌ神」の祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られており「古謝集落」の守護神として悪霊を追い祓う役割があります。(ソーリガー)(ジョーミーチャー墓)(ウブガー/産川)「アシビナー/遊び庭」の敷地内に「ソーリガー」と呼ばれる井戸があります。「古謝集落」で死者が出た際に、死者の身体を清める水をこの井戸から汲む慣わしがあります。ぬるま湯を使用して死者の髪や身体を清浄にする湯灌ですが、湯灌に使うぬるま湯は「逆さ湯」と言って水に熱湯を注いで温度を調節します。「ジョーミーチャー墓」と呼ばれる墓が「古謝集落」の東部にあります。この墓は「掘り込み墓」に分類され、墓口の前に3つの入り口を設けているのが特徴的です。3つの門がある事で村人は「ジョー(門)ミーチャー(3つ)バカ(墓)」と呼ばれ、更にこの墓は「模合墓(ムエーバカ)」とも言われています。「古謝集落」の中央にある「ウブガー/産川」です。村で子供が産まれた時、産湯に使う水をこの井戸から汲んできました。1935年頃、「ウブガー」付近に村共同の風呂屋が造られ、風呂の水源はこの井戸の水を利用していました。旧暦の8月15日の「カーウガミ」にカミンチュ(神人)は村人の健康と共に、集落の発展の祈願を行なっています。(アガリヌシーサー)(ニシヌシーサー)(イリヌシーサー)3つの石獅子(シーサー)が「古謝集落」に存在し、それぞれの石獅子がそれぞれの方位で集落を守っています。「アガリヌシーサー」は南側の津堅の海峡へ向けて設置されています。"アガリ"は沖縄方言で"東"を意味します。戦前は石獅子の後ろ側にクムイ(溜め池)があった為「火返し」の意味もあると伝えられています。「古謝集落」の北側にある丘稜地に位置する「ニシヌシーサー」です。"北"は沖縄の方言で"ニシ"と言います。石獅子は中城湾がある南に向けて設置されています。沖縄戦の後に設置されたと言われており、集落の北部から村に災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとしての役割を持っているのです。「イリヌシーサー」は「古謝集落」の西側にあり、石獅子は「シシクェーモー」と呼ばれる西の森に向けられています。この森を火山と見立て「火返し」の役割を持っています。"イリ"は沖縄の方言で"西"という意味です。また、このシーサーは「ヤナムン(悪霊や厄神)ゲーシ(返し)」の意味もあると伝わっています。(古謝のガンヤー/龕屋)(古謝のアコウ)「古謝集落」の北側に掛かる「古謝大橋」の高架下の墓群に「古謝のガンヤー/龕屋」があります。集落で死者が出た際に遺体を墓場まで運ぶ輿を「ガン/龕」と呼び、この「ガン」を収める小屋を「ガンヤー」と言います。現在は使用されていませんが、赤瓦屋根の建物内部には「ガン」が今でも集落の文化財として大切に保管されています。また「古謝集落」のシンボルであるアコウの木は樹齢約150年、樹高約13メートル、幹周7メートル、枝張り約21メートル、露出した根張り約13メートルもあり、樹型も素晴らしく古木として大変貴重で価値があります。昔、古謝に津波が来た時、丘の上からはこのアコウの木の葉だけが見えたと言われています。
2021.02.23
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(登川邑発祥之地の石碑)沖縄市の「登川集落」は国道329号線沿いの沖縄市北部と、うるま市西部の市境に位置します。北美小学校正門近くに「當之御嶽」があり、石碑には「登川邑発祥之地」と書かれています。登川(のぼりかわ)という名称は沖縄の言葉で「ニィブンジャー」と言い、主に60代以上の地元高齢者からは登川(ニィブンジャー)と普通に呼ばれています。(ムートゥーガー)「當之御嶽」の西側に「ムートゥガー」と呼ばれる井戸があり「登川集落」の一番古い井戸とされています。琉球王国時代に村人は正月の元旦にムートゥガーを家族で訪れ、東に向かい「トゥシヤカサディ、イルヤワカク(年を重ねて、心は若く)」と唱えながら洗顔を行なったそうです。また、子どもが生まれるとこの井戸から産水を汲んだり、稲や豆の豊作を願って拝んだりしました。(登川創立記念碑)登川公民館の西側に「登川創立記念碑」があります。登川碑や分村碑とも呼ばれており沖縄市の市指定文化財に登録されています。「登川集落」は当初、池原から元島(現在の北美小学校周辺)に人が移り住んだと言われており、その後更に池原から数世帯を加えて「登川集落」が創立されました。この碑はそれを記念して1739年に建てられました。当時の琉球で盛んに行われていた集落移動を記した貴重な資料となっているのです。(火ヌ神/ヒヌカン)登川公民館の裏手に「火ヌ神(ヒヌカン)」があります。沖縄の人々は古来より陽の昇る遥か彼方に理想郷(ニライカナイ)があると信じ、太陽を神聖なものとして捉えていました。ニライカナイからもたらされた火は太陽の化身として崇められるようになったのです。村人は集落の守り神である「火ヌ神」に無病息災と繁栄を祈願しました。岩造りの祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。(西の四方神)「登川集落」には四方神があり「ヨスミノカド」とも呼ばれています。これは「西の四方神」で霊石とウコールが設置されています。登川(にぃぶんじゃー)集落の始まりには秘話が伝わります。昔、知花と池原の間の人里離れた処にフェーレー(追いはぎ)が出て、首里の王府へ貢物を運ぶ人や、国頭からの旅人が襲われて品物を奪われることがたびたび起こっていました。時の琉球王府は池原集落に対して、フェーレーを取り締まるように命令を下したのです。(南の四方神)登川公民館の近くにある「南の四方神」にも霊石とウコールが設置されていました。さて、池原集落から選ばれた7名の若者は昼夜を徹してフェーレー退治につとめ、遂にフェーレーを捕まえて首里王府に連行しました。王府ではフェーレーを退治することはできたが、また違う追い剥ぎの被害が出ないか心配して7名の若者に対して「集落を作り監視するように」と命令したそうです。(東の四方神)「東の四方神」にも同様に霊石とウコールが設置されていて「登川集落」を守っています。更に、王府の命令で集落を作ったのは良いが、そこが山岳地帯で土地が狭く発展性に乏しいという事に気付き、住み易い広い場所を求めて元文4年(1739年)8月15日に現在の登川地区に移動しました。しかし、今度は7軒では少な過ぎるという事になり、もう7軒を池原集落より合併させて村を作ったそうです。(北の四方神)「北の四方神」には神石とウコールの横にクムイ(溜池)が設置されています。登川の四方神(ヨスミノカド)に囲まれた区画内には多数のクムイがあり「登川集落」が水源を確保する為に知恵を絞っていた事が伺えます。新しい登川集落を作る時に区画整理や用水路の整備等についての指導をなされた方は赤嶺親方という風水見で、その人の名は登川公民館近くの「登川創立記念碑」に記されています。(神アサギ)(カミヤーの内部)「登川集落」の中心地にある「神アサギ」と呼ばれる祭祀場は登川公民館の北側に位置します。「神アサギ」では旧暦の5、6月のウマチー(豊穣祈願の収穫祭)や6月のカシチー(米の収穫を報告し感謝する行事)の日に集落の有志達が集まり神を祀ります。その裏側にはウガンジュ(拝所)があり「カミヤー」と呼ばれており、内部には4つのウコール(香炉)とミジトゥ(水)が供えられていました。それぞれ東西南北の四方神(ヨスミノカド)への感謝は、新しい登川を作った赤嶺親方の風水の影響を受けていると考えられます。因みに、親方(ウェーカタ)は琉球王国の称号の一つで、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号でした。(北見小学校北側の森)沖縄市の「登川集落」には琉球赤瓦の古民家や昔の馬小屋が現在でも多数残り、住民は団結力が強く生まれ育った登川に誇りを持って暮らしています。「登川集落」を発展させた赤嶺親方に感謝しながら、親方の詠んだ有名な詩で締め括りたいと思います。『枕並(まくらなら)びたる 夢(ゆみ)ぬちりなさよ 月(ちち)や西下(いりさ)がてぃ 恋(くい)し夜半(やふぁん)』(愛しい人と枕を並べている夢を見ていたのに、風の音かに驚いてハッと目覚めた。時はと言えば、就寝のおりは中天にあった月が西に傾いている冬の夜半。なんとつれない夢を見たことか。冬の夜のひとり寝は、ことさら侘しい。)
2021.01.25
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(天之岩戸向洞穴)日本全国に伝わる「天岩戸伝説」は太陽の神であるアマテラス大御神が岩戸に隠れたために世間が真っ暗になったという有名な日本神話です。南国の沖縄県にも「天岩戸伝説」が伝わり伊平屋島の「クマヤ洞窟」が日本最南端の「天岩戸伝説」として知られています。しかし、それよりも更に南に位置する沖縄本島沖縄市にも「天岩戸伝説」が存在し多くの謎に包まれています。(八重島地区の墓地群)(天の岩戸の石碑)沖縄市八重島地区の墓地群を進むと、その奥地に一本琉球松がそびえる森があります。隆起した琉球石灰岩で覆われた小高い丘には、真の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」が密かに佇んでいます。墓地群を抜けると石碑があり「天の岩戸 艮金神(ウシトラコガネ) 龍神 地上天國 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と記されています。(琉球石灰岩の洞穴)(天之岩戸向洞穴)その右手には琉球石灰岩の小さな隙間に暗闇が奥深く続いているが見えます。どれ程の深さがあるのかも予想不可能な暗黒に、思わず吸い込まれそうになる雰囲気を奇妙に醸し出しています。先程の石碑の左側に石段があり昇って行くと開けた空間が現れました。ゴツゴツした琉球石灰岩は緑の苔に覆われ、ガジュマルと亜熱帯植物が生い茂る中に別の石碑と石造りの祠が確認できました。(天之岩戸向洞穴の石碑)(天之岩戸向洞穴の入口)この石碑には「天之岩屋 天之御柱 艮黄金萬神 風水大神 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と掘られています。その右奥には大きな穴が開いていて琉球石灰岩の岩間に漆黒の闇が奥深く続いています。石碑の右側には鉄格子が付いた石造りの祠があり、その奥には神秘的な洞穴が続いています。正に、ここが真の日本最南端の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」の闇穴そのものです。私は鉄格子の前で一礼し洞穴内部を覗き込みました。(天之岩戸向洞穴の内部)鉄格子越しに洞穴内部から物凄い勢いで湿った熱波が発生していて、私が掛けていたメガネが一気に曇りました。なぜ洞穴内部から暑い湿気が出てくるのか?今まで何度も様々な洞穴を訪れてきましたが、洞穴入り口から湿った熱を激しく排出する体験は初めてです。暗闇の洞穴奥はウガンジュ(拝所)になっていて「天岩戸の神」が祀られている聖域になっていました。(天之岩戸向洞穴の丘)通常ならば外気よりも涼しい冷気が洞穴内部から吹き出してくるので、この説明し難い現象は「天岩戸の神」が何かしらのパワーを発している証なのでしょう。やはり日本最南端の「天岩戸伝説」は沖縄市八重島の「天之岩戸向洞穴遺跡」に存在している事は間違いなさそうです。洞穴の右手に琉球石灰岩の丘の頂上に向かう通路を発見しました。石段や階段は無く苔が覆う非常に滑りやすい斜面が続いており、足元に気を付けながらゆっくりと登り進み無事に頂上に到達しました。(天之岩戸向洞穴の拝所)すると目の前に広大な絶景か広がり、そこは石造りのウコール(香炉)が3基設置されたウガンジュ(拝所)になっていたのです。沖縄市からうるま市、江洲グスクや喜屋武グスク、更に世界遺産の勝連グスクや宮城島まで見渡せる雄大な眺望に目を奪われました。天地海の3神と考えられる3つのウコールは太陽が昇る東を向いていて、私は「太陽の神」であるアマテラス大御神に祈りを捧げました。(天之岩戸向洞穴のハブ)(天之岩戸向洞穴の石碑)帰宅の途に着こうと来た道を戻ると、ひっくり返り動かない状態の「ハブ」が足元に突然現れました。ハブは非常に驚いた時このように死んだ振りをするそうです。夜行性で猛毒の蛇として恐れられるハブですが、意外にも臆病な生き物で大きな音に怯えて逃げ出すと言われています。「天之岩戸向洞穴遺跡」の洞窟とその真上に位置する絶景の御嶽はまだまだ謎が多い聖地で、遺跡がある沖縄市でさえも詳しい調査が未だになされていません。しかしながら、謎に包まれている事で「天岩戸伝説」がこの地に生き続ける訳であり、科学的に証明されない神秘のロマンがあるからこそ、今後も人々に語り継がれる聖域として存在し続けるのでしょう。
2021.01.12
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(スクブ御嶽)沖縄市登川の閑静な住宅地に「すくぶ公園」があり、敷地のど真ん中には「スクブ御嶽」の神山がどっしりと構えています。沖縄の公園で御嶽があるのは珍しく、公園敷地の大半を御嶽が占めている神秘的な空間に包まれています。(スクブ御嶽の石碑)赤い鳥居の左側には「スクブ御嶽」と記された石碑があります。石碑の奥には御嶽のガー(井戸)が祀られており石造りのウコール(香炉)が設置されています。スクブ御嶽のスクブとは稲の籾殻の事で、沖縄市には「三人の力持ち」という有名な琉球民話があります。(鳥居脇のウコール)昔、池原にウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーという三人の力持ちがいたそうです。三人はいつもスクブ御嶽に手を合わせて「催眠術を教えて下さい」とお祈りしてから武術の稽古をしていたので、たいそうな力持ちになり三人に勝つ者は誰もいなかったそうです。三人は稲を刈ってきたら、それをお椀に入れてつつき、食べた後の籾殻が山のように積まれたことから「スクブ御嶽」という名前が付いたそうです。(スクブ御嶽の階段)鳥居を潜り階段を登って行くと奥には拝所が見えてきます。ここから一直線に天空に延びる階段を一段一段上がるにつれて、御嶽周辺の登川地区と池原地区を見渡せる素晴らしい風景に変わって行きます。(お通し拝所のウコール)鍵がかけられた鉄格子の中には3つの石造りのウコールと琉球石灰岩で作られた古いウコールが1つ設置されていました。私は拝所にひざまづき手を合わせ、自己紹介とスクブ御嶽に訪れた理由を告げて沖縄の平和を祈りました。(拝所脇の出入口)拝所の右にも鉄格子があり、半開きながらも私を奥地へと誘い込む雰囲気を醸し出していました。私は拝所にこの先に進み見学する旨を告げて一礼し、暗闇に不気味に続く縦に細長い入り口に足を踏み入れたのです。後日、登川地区に住む方から話を聞いたのですが、この扉が開いている事は滅多になく、正月やお盆など特別な時のみ解放されるそうです。(スクブ御嶽の丘陵)扉を抜けるとそこは整備されていない亜熱帯ジャングルになっており、ここからは完全に神の聖域で非常に強いパワーが張り詰めた空気に一変しました。ガジュマル、シダ植物、多種にわたる亜熱帯植物をかき分けつつ、猛毒のハブに気を付けながら足場の悪い道なき道を少しずつ少しずつ進み続けます。(スクブ御嶽)辿り着いた場所は「スクブ御嶽」のウガンジュで、ウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの三基の石造りウコールが設置されていました。御嶽の右手前にはマース(琉球粗塩)が三つ盛られるのを確認できます。私はスクブ御嶽にウートートー(拝み)して沖縄の平和を祈りました。(お供えの沖縄粗塩)どうやら先程通過した拝所は「スクブ御嶽」のヒヌカンと考えられ、御嶽本体へのお通しの役割があると思われます。ハブがいつ出ても不思議でない無整備の亜熱帯ジャングルは足場が非常に悪く、御嶽を訪れる方々がもし足が悪かったり歳を取られていた場合、手前のお通しの拝所で祈る事が出来るのです。(御先御殿/殿内)再び入り口の赤い鳥居に戻り公園を時計回りに散策すると、山の麓の右手に「御先 御殿 殿内」と記された拝所を発見し、拝所に続く階段を登り鉄格子のある場所を目指します。(御先御殿/殿内の内部)そこには足元に大小多数の石と一つのウコールがあり、格子内部には四つのウコールが設置されていました。さらに左奥に白装束を着た白い髭の神様の絵画、中央奥には観音様の像、右奥に子供を膝に座らせて抱き抱える観音様の像が祀られていました。(御先御殿/殿内の石碑)拝所の右側を進むと石碑が建てられており「子(ネ)ぬは午(ウマ)ぬは卯(ウ)めは西(トイ)め 四チン中軸(ナカジク)や池原と登川 登川ぬ村ぬ湖金軸拝(クカニジクウガ)で 池原ぬ村ぬ波座軸(ナンザジク) 拝(ウガ)で世々といちまでん 幸(シアワ)せぬ御願(ウニゲ)」と記されています。(ウガミン登/金満宮の石碑)石碑の右奥には「ウガミン登 金満宮」と記されたもう一つの石碑と四つの石造りウコールが設置されていました。石碑には霊石が祀られています。かつて、この地に「ウガミン登 金満宮」があったと考えられます。(スクブ御嶽麓の拝所)さらに左奥に登る坂道を進むと鍾乳石の下に黒く丸い筒状の石物があり、その横にはヒヌカンのウコールが無造作に置かれていたのです。中央の黒い筒状の物体は御嶽公園入り口にある井戸跡と同じ素材と形状をしていました。これは鍾乳石から湧き出たカー(井泉)があった場所だと考えられます。(すくぶ公園の竣工記念碑)スクブ公園の北西には竣功記念碑が建てられていてスクブ御嶽の歴史が記されていました。第二次世界大戦後、登川地区はキャンプ ヘーグ(Camp Hague)と呼ばれる米軍海兵隊の基地がありました。1977年5月14日に沖縄に全面返還されましたが、それまでは基地内で小型核兵器の訓練などが行われていたのです。訓練中に兵士数人が事故で被ばくし、通常の80倍以上の濃度の内部被ばくが確認された事が報告されています。(すくぶ公園)沖縄市登川地区で生まれ育った知り合いの話では、米軍統治下のスクブ御嶽の山を海兵隊が崩そうとすると、必ず重機が倒れる原因不明の事故が連続し、海兵隊員が3名死亡したと言われています。更に、沖縄返還後に民間の工事業者がスクブ御嶽の区間整備をしていたところ、重機が突然ひっくり返る大事故が起きたとも言われています。また、スクブ御嶽周辺の住宅やアパートでは心霊現象がかなり多く、御嶽の神山に謎の青い発光体が出現する目撃情報も多数耳にします。(スクブ御嶽のウコール)これらの不可解な出来事は琉球民話に登場するウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの「三人の力持ち」がスクブ御嶽を守護している証なのか。それとも祀られた石の神様の祟りなのか。いずれにせよ、御嶽に訪れた私自身が奇妙な力により惨事に巻き込まれなかった事に感謝したいと思います。
2021.01.04
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(インジングシクのガジュマル)沖縄市の中央部で米軍嘉手納基地に隣接する「八重島地区」に八重島公園があり、敷地内には珊瑚が隆起して形成された琉球石灰岩の山城があります。ガジュマル、ソテツ、他にも多種に渡る亜熱帯植物に覆われた「インジングシク」は奇妙な力を醸し出す謎が多い城跡となっており、多くの都市伝説も生まれています。(インジングシク麓の拝所)(グスク山頂に登る石段)週末には沢山の子供連れの家族が集まる大型遊具が多数ある広場の直ぐ脇に、突如ウガンジュ(拝所)が現れます。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 八重島真鶴繁座那志(ヤエジママツルハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。ウガンジュの横にはグスクの頂上に伸びる琉球石灰岩で造られた石段が続いています。麓の石碑の拝所は訪れる者をお通しするヒヌカン(火の神)の役割を持っていると考えられます。(インジングシク中腹の拝所)(拝所のビジュル霊石)亜熱帯植物のジャングルを真っ直ぐに切り裂く様な60段の石段を登ると、ゴツゴツとした琉球石灰岩の大岩の横に屋根付きの石造り建物がひっそりと佇んでいます。建物の中はウガンジュになっており御供物と共に霊石が祀られていました。ビジュルの拝所として「インジングシク」の構造である琉球石灰岩の堅固な地盤とグスク全体を司る守護神だと思われます。(拝所正面の石碑)(グスク頂上の展望台)石造りのウガンジュの正面のガジュマルの下にはもう一つの拝所があります。「天帯子御世(テンタイシウユウ) 八重島金満大主(ヤエジマカニマンウフヌシ) 中が世酉(トリ)のみふし)」と石碑に彫られています。石碑にはウコール(香炉)が設置されており、地域住民に拝まれています。拝所の祠と石碑がある場所の脇にはグスクの頂上に登る展望台に通じる階段がありました。(うるま市石川方面)(中城湾方面)ゴツゴツした琉球石灰岩の大岩を螺旋状に回り登ると素晴らしい絶景が現れたのです。「インジングシク」の頂上からうるま市石川方面を見渡すと、沖縄市北部、石川岳、うるま市石川の市街地、金武港、その先の金武岬まで眺める事が出来ます。また、沖縄市の西部、うるま市南部の市街地、中城湾、その先の勝連半島や勝連城跡、さらに先に連なる宮城島まで絶景が広がっています。(グスク麓のガマ)「インジングシク」の山城の麓に鍾乳洞(ガマ)があり、直径30センチに開いた入り口はそのまま地下深くの暗闇に続いています。このガマには遠い過去に人々に拝まれていた痕跡があり、琉球石灰岩造りの香炉台や一段上がる拝場の跡が確認されます。鍾乳洞(ガマ)は沖縄では昔から信仰や崇拝の対象とされており、神が宿り神に通じる聖域として崇められてきたのです。(八重島神社)(字久田井/差田井)八重島公園の「インジングシク」の北東に「八重島神社」があり殿内に安室家の香炉、嘉陽家の香炉、ビジュル霊石と香炉が設置された火ヌ神が祀られています。敷地内に「字久田井」と「差田井」の霊石と井戸が祀られた祠があります。字久田集落と佐田集落は現在、米軍嘉手納基地の滑走路になっており、沖縄戦で土地を奪われた両集落の住民が八重山地区に移住させられたのです。両集落の水の神をここに祀った拝所と考えられます。(八重島貝塚)(ヤシマガー)「八重島貝塚」は八重島公園に隣接する沖縄市民会館から東に約250mのところにある3500年~2500年前の古い貝塚です。この貝塚からは石器、貝殻、獣骨などが出土しています。現在も湧き出る井泉の「ヤシマガー」を石炭岩崖下にはさみ、貝塚の典型的な立地条件を備えています。「八重島貝塚」周辺は古代の人々が生活するのに非常に適した環境が整っていたと言えます。(八重島公園の東側入り口)八重島公園内にも墓が多数あり、公園沿いには非常に広範囲に渡る「中央霊園」も存在します。かつて八重島地区には多数の無縁墓が点在し、大規模な火葬場もありました。火葬場で焼かれて出た大量の遺灰は八重島地区の端に流れる比謝川に流されたと言われています。そのため、比謝川周辺は心霊スポットとして知られ、多数の幽霊の目撃情報があります。(八重島高層住宅)八重島地区の心霊スポットとして最も有名な場所が「インジングシク」がある八重島公園のすぐ北側の集合墓地の近くに建つ「八重島高層住宅」です。無縁墓地を壊して建てられた住宅で、特に4階以上の階に住む住民の多くが心霊現象を体験し、住宅は常に入居と退去を繰り返し部屋が埋まる事は決して無いと言われます。(インジングシクの森)謎が多く未だに全容が解明されていない「インジングシク」は八重島公園の敷地内にありますが、八重島地区全体が琉球墓群に覆い尽くされている独特な雰囲気がある地域です。神が宿るパワースポットである「インジングシク」と、琉球墓群の霊魂が漂う心霊スポットが絶妙なバランスで混ざり合う謎多き八重島地区は今日も静かに佇み、何も語らず来訪者を見つめているのです。
2020.12.31
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(鬼大城の墓)鬼大城(うにうふぐしく)の名前で知られる越来賢雄(ごえくけんゆう)は15世紀の琉球王国の時代に活躍した武将です。越来賢雄という名前は鬼大城が越来間切の総地頭となって以降の名称であり、それ以前は大城賢雄(うふぐしくけんゆう)でした。鬼大城は並みはずれた体格で武勇に優れ、狼虎の如しと例えられた事で人は彼を「鬼大城」と呼んだのです。(鬼大城の墓への階段)沖縄市知花にある知花城跡に鬼大城の墓があり、市指定の文化財に登録されています。鬼大城の墓はこの63段の階段を登った城山の中腹にひっそりと佇んでいます。鬼大城の墓は県道329号沿いにあり、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の山城である知花城跡は周辺地域でも一際目立つ存在感を持っているのです。(鬼大城の墓)鬼大城は尚泰久が王位を継ぐと共に首里へと登り、王女の百度踏揚が阿麻和利(あまわり)に嫁ぐに当ってその従者となりました。阿麻和利が王に謀反を企ている事を知った鬼大城は軍を率いて阿摩和利が城主である勝連城を包囲したのですが、城は非常に堅固で困難をきわめたのです。鬼大城は知恵を絞り、自ら女装して城に忍び込み油断した阿麻和利の討伐に成功しました。(知花グスクの中腹)鬼大城はこの功績のお陰で越来間切(沖縄市越来地区)の総地頭職を授けられ、越来親方賢雄と名乗り百度踏揚を妻としました。後に内間金丸(尚円王)のクーデターで第一尚氏が攻め滅ぼされると、忠臣であった鬼大城も攻め込まれ、最期は知花城の中腹にある洞窟で火攻めの末に殺されてしまったのです。(黒く焦げた墓口)鬼大城が火攻めで討ち死にした鍾乳洞の洞窟がそのまま墓になり現在に至ります。鬼大城の墓の左側全体が異常に丸焦げになっています。これが火攻めで殺された跡なのか?それとも沖縄戦での米軍による火炎放射の跡なのか?いずれにせよ、鬼大城の墓は生々しく凄まじい姿を訪れる者に見せるのです。(鬼大城の墓前)私は鬼大城の墓に手を合わせて、鬼大城が王に示した強い忠誠心に敬意を払いつつ、同時に沖縄の平和を祈りました。ふと気付くと墓にお供え物をする石台の鉄製の水を入れる容器が2組無様に倒れている事に気付き、私は容器を石台に立てて戻しました。すると石台から2〜3センチの黒い玉が突然現れ、10センチ程までに急成長しながら私の頭上を物凄いスピードで飛んで行ったのです。(鬼大城の墓の案内板)結局その黒い玉が何だったのか今でも説明が付きませんし、科学的に解明できる物とも到底考えられません。鬼大城からの何かのメッセージなのか?鬼大城の墓から発した霊妙なパワーなのか?鬼大城が火攻めで殺された鍾乳洞の真上には古いガジュマルの木があり、ガジュマルにも神が宿ると言われています。悲劇の琉球武将である鬼大城の墓は奇妙な雰囲気と共に、琉球の長い歴史を体感できる神秘的なパワースポットなのです。
2020.12.25
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