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(フェーレー岩)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の「真栄田/まえだ集落」にはかつて「国頭方西海道」と呼ばれる宿道があり主要道路として利用されていました。「フェーレー岩」は「国頭方西海道」で最も難所であった「多幸山山道」にあり、度々金品を強奪するフェーレー(追い剥ぎ)が出没したと言われています。特にこの周辺は立木が繁茂して真昼でも薄暗い場所であった事からフェーレーが頻繁に出て岩の上から婦人が頭に載せた包みを釣り上げたりして金品を奪ったと伝わっています。(フェーレー岩)(フェーレー岩)(フェーレー岩)(フェーレー岩)この地では「フェーレー岩」に関する次の歌が詠まれています。『多幸山やフェーレーでんどう 喜名番所にとまらなやー 女子たるもの泊ゆみ急ぢすじ行き 島かから』(多幸山はフェーレーがでるそうだ 喜名の番所に泊まろうか いやいや女子の身で知らない所に泊まれるものでない いまならまだ大丈夫 急いで自分の村までいったほうがよかろう)(フェーレー岩)(フェーレー岩)(国頭方西海道の標識)(フェーレー岩/多幸山山道/国頭方西海道)この「フェーレー岩」は2023年2月3日に琉球朝日放送(QAB)で放送された『ティンクティンク アッチャーアッチャー Season 2 【恩納村編】』で紹介されています。この放送は「りんけんバンド・ティンクティンク公式YouTubeチャンネル」で視聴できます。興味がある方は下記のリンクへどうぞ!https://youtu.be/A2myEYwNmL8?si=01CyqlLxiCHwDz5PYouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.04
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(根立森の御嶽/真魂之塔)沖縄本島北部西海岸の「恩納村/おんなそん」に「真栄田/まえだ集落」があります。「真栄田公民館」がある小高い丘陵は「根立森」と呼ばれ、集落の御嶽として祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根立森 神名 カナモリイベヅカサ 真栄田村 稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。年浴、且、柴指ノ時、仙香・花米五合宛・神酒二宛、同村 百姓中 供之。真栄田巫ニテ祭祀也。』と記されています。この御嶽の祠に隣接して大東亜戦争戦死者の慰霊碑「真魂之塔」が建立されています。(御嶽の祠)(御嶽の祠内部)(御嶽の石碑)(真魂之塔の慰霊碑)(大東亜戦争戦死者の石碑)「根立森」の御嶽の北側には2016年10月9日に復元された「御願所」の祠が建立されています。この地には戦前まで祠があり集落の年中行事、旅立ち、徴兵されて戦地へ赴く際に住民が拝んでいました。当地の屋号は「ユナニ」と呼ばれ「真栄田集落」の草分け旧家として「真栄田ノロ」を輩出したと言われています。「ユナニ」の祠は沖縄戦や天災などで倒壊し、戦後の荒廃した状況の中、祀られていたウカミ(御神)は「ユナニ」の末裔により一時的にヤンバル(山原)に移動されていました。その後1958年頃にウカミは当地に戻り、仮の祠が建てられていました。現在は新しい「御願所」が建立され、内部には「ユナニ」家のヒヌカン(火の神)と「ユナニ」家から出自した「真栄田ノロ」が祀られています。(御願所)(御願所の祠内部)(御願所のウコール)「琉球国由来記」には『真栄田巫火神 真栄田村 山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香・花米五合。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中。柴指・ミヤ種子ノ時、仙香・花米五合・神酒二器 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒二 百姓中、供之。真栄田巫祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 同村 稲穂祭之時、シロマシ二器・花米九合・麦神酒二 百姓中、五水二合 地頭、供之。真栄田巫祭祀也。且、同大祭之時、五水二合・花米九合 地頭、神酒三 百姓中。柴指之時、神酒二 百姓中、供之。同巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(真栄田の一里塚)(真栄田の一里塚の案内板)(真栄田の一里塚)(歴史の道/国頭方西海道)(真栄田の一里塚の標識)歴史の道である「国頭方西海道/くにがみほうせいかいどう」は琉球王府時代(1429-1879年)に造られた道で、当時の主要道路として宿道(旧道)と呼ばれていました。首里を起点にし、浦添、読谷村喜名、恩納村を通り名護以北に向かう道を「国頭方西海道」と呼びます。「一里塚」は琉球王府時代から明治時代にかけて使用された宿道に設置され、旅人の道程の目安にされていました。恩納間切(現在の恩納村)には五箇所に設置され「真栄田の一里塚」は「喜名番所」から一里の場所に造られています。「真栄田の一里塚」は土と炭を混ぜ合わせた土塚で、その上部には琉球松が植栽されています。(国頭方西海道/PVに使用された十字路)「真栄田の一里塚」と「フェーレー岩」を結ぶ「国頭方西海道」の途中に農道の十字路があります。この十字路は2024年4月19日に「アジマァ」より発売されたシングル「ありがとう」のPVに使用されました。1993年、日本レコード大賞「特別賞」を受賞した「りんけんバンド」の楽曲「ありがとう」を照屋林賢がアレンジしました。30年の時を経て爽やかで瑞々しい編曲となり、照屋林賢プロデュースの沖縄音楽ユニット「ティンクティンク」によりカバーされて受け継がれました。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.05.31
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(根神地/カミヤー)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「瀬良垣/せらがき集落」があります。「瀬良垣公民館」に隣接した「根神地」と呼ばれる場所に「カミヤー/神屋」と「神アサギ」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『根神火神 瀬良垣村 山留ニ竹木伐故、為作毛折願之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 百姓中。年浴之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。ミヤ種子之日、仙香・花米五合・神酒一 百姓中。十月朔日竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一 百姓中、供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』と記されています。更に『神アシアゲ 瀬良垣村 稲穂祭之時、五水二合 地頭、シロマシ一器・神酒二・干魚一絡 百姓中。稲大祭之時、五水二合 地頭、炊飯二器・神酒三・干魚一絡 百姓中。右、恩納巫祭祀也。柴指之時、神酒二 百姓中 供之。居神ニテ祭祀也。』との記述があります。(根神地/カミヤーの鳥居)(根神地/カミヤー)(カミヤーの仏壇)(根神火神/ニーガンヒヌカン)(根神火神/ニーガンヒヌカンに供えられた塩)(根神地の拝所)(根神地の拝所に祀られた霊石)(根神地の拝所/ヒジャイガミ)(神アシアゲ/神アサギ)(紫微鑾駕/しびらんか護符)(紫微鑾駕/しびらんか護符)
2024.02.06
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(瀬良垣竜宮神)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」の北部に「瀬良垣/せらがき」集落があります。1635年以降に先島を除く沖縄本島と周辺離島の石高を間切と島ごとに集計した帳簿である「琉球国高究帳」には「せらかち村」その他の地誌には「瀬良垣村」と記されています。「瀬良垣集落」の北西側に「サーシヌ子/サーシヌクワ」と呼ばれる小島に「瀬良垣竜宮神」の祠がありニライカナイ神が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『一御前 神名 シマネドミ 年浴之時、仙香・花米五合・神酒一、瀬良垣村百姓中供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』との記述があります。「サーシヌ子」の北側に「サーシ屋」という旧家の畑があった「サーシノハナリ/サーシバナレ」と呼ばれる小島があり、旧暦三月三日に「瀬良垣村」の神女と村人により拝されていました。(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ)(サーシヌ子/サーシヌクワ入り口)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの祠)(瀬良垣竜宮神/シマネドミの石碑)(瀬良垣竜宮神/シマネドミのウコール)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たダイヤモンドビーチ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見た名護市方面)(サーシヌ子/サーシヌクワ周辺の瀬良垣小島嶼群)(サーシヌ子/サーシヌクワのソテツ)(サーシヌ子/サーシヌクワから見たサーシノハナリ)(ヨリアゲ森方面から見たサーシノハナリ)
2024.02.04
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(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)沖縄本島北部の西海岸最南端に「恩納村/おんなそん」があり、この村の北側に「瀬良垣/せらがき集落」があります。この集落の北側海沿いに「ヨリアゲ森」の御嶽があり「瀬良垣ウドゥイガマ」と呼ばれる鍾乳洞で形成されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『ヨリアゲ森 瀬良垣村 一御前 神名 アフヤマノイベナヌシ』と記され、更に『毎年、四月朔日ヨリ五月中、山留也。然ドモ、公用ニ竹木伐デ不叶故、為作物崇祈之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。稲穂祭三日崇之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。年浴之時、仙香・花米五合・神酒一、同村百姓中供之。瀬良垣根神ニテ祭祀也。』との記述があります。この御嶽は正月元旦、五月十五日稲穂祭、六月十五日熟穂祭で拝されていました。(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/御嶽のイビ)(ヨリアゲ森/イビのウコール)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森/瀬良垣ウドゥイガマ)(ヨリアゲ森)
2024.02.03
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(ウドゥンガー/御殿ガー)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」に「谷茶/たんちゃ集落」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」と1731年に成立した漢文による琉球王国地誌である「琉球国旧記」によると、恩納間切地頭代は『前兼久親曇上』と称する以前は『谷茶大屋子』と呼ばれていました。このことから「谷茶村」は琉球王国の行政村として確立していた事が示されています。また「谷茶村・仲泊村・前兼久村・冨着村」の4村は「山田ノロ」の管轄により「冨着神アサギ」にて合同祭祀が執り行われていました。「谷茶集落」の中央部にある小高い丘陵は村の御嶽となっており、この御嶽の東側に「ウドゥンガー/御殿ガー」と「シリンカー/後ガー」があり、西側には「メーンカー/前ガー」と呼ばれる井泉があります。この3箇所の井泉は集落の草分け旧家とその子孫に水の恩恵を与えた拝井として現在も大切に崇められています。(ウドゥンガー/御殿ガーの祠)(シリンカー/後ガーの拝所)(シリンカー/後ガーの祠)(ミージマバシ/新島橋)「谷茶集落」の御嶽がある丘陵の東側麓に村の草分け旧家の1つである「アガリ/東」があり、この家の南西側に「ウドゥンガー/御殿ガー」の拝井が残されています。井戸は石組で丸く囲まれており現在も水が湧き出ています。「ウドゥンガー」には南側に隣接する御嶽に向かって祠が建てられており、コンクリート製の祠内部には数個の霊石が祀られています。この「ウドゥンガー」から更に東に50m程の場所に「シリンカー」と呼ばれる小川が流れており、川岸にはコンクリート製の祠が建てられ「クシガー/後ガー」と呼ばれる拝所となっています。コンクリート製の祠内部には霊石が1個祀られています。その昔は「シリンカー」から西側に「谷茶集落」が広がっていましたが、明治20年頃に集落のほぼ全域を焼き払う大火がありました。それ以後「シリンカー」を越えて東側に民家が建つようになり「シリンカー」に架かる「ミージマバシ/新島橋」を境に東側の地域を「ミージマ/新島」と呼ぶようになりました。(メーンカー/前ガーの拝所)(メーンカー/前ガーの祠)(メーンカー/前ガーのグムイ/溜池)(メーンカー/前ガーの上流)御嶽の西側で「アガリメーウフヤ/東前大屋」の旧家から北側に進んだ森に「メーンカー/前川」の上流があります。水量が豊富な小川の流れを堰き止めた「グムイ/溜池」があり、この場所に「メーンカー」の祠が建てられ「メーガー/前ガー」と呼ばれる拝所となっています。北側に隣接する御嶽に向けて建てられたコンクリート製の祠内部には霊石が6個祀られており、現在でも先人が水の恵みを頂いた拝井として多くの住民が参拝しています。「谷茶集落」の古島は「メーンカー」と「シリンカー」に挟まれた地域に民家が広がり集落を形成し発展してきました。人々の生活に欠かせない「ウドゥンガー」「クシガー」「メーガー」の井泉に祀られる3箇所の拝所は旧暦8月に行われる「カーウガミ/井泉祈願」で拝されており、かつて正月に汲む若水や産まれた子供の産水としての「ウブガー/産ガー」として村人に重宝されていたと考えられます。(東リタカビチェー/谷茶村墓)(ウフヤームンチュー/大屋門中之墓)(亀甲墓)「谷茶集落」の北東側に「谷茶古墓群」と呼ばれる標高約20mの丘陵があり「クガタ/此方組墓」と呼ばれる「ムンチュー/門中墓」が点在しています。集落の「アガリ/東リ・ウフヤー/大屋・イリ/入り」などの旧家は「クガタムンチュー」に属していました。「ムンチュー/門中」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団を言います。「ムンチュー」の一族は同一の共同墓に入り、墓の管理や運営も「ムンチュー」により行われています。「丘陵の中腹には「東リタカビチェー」と称する「ムラバカ/村墓」があり、他にも「ウフヤームンチュー/大屋門中之墓」など古い亀甲墓が構えています。この「タンチャオオブクロバル/谷茶大袋原」にある「谷茶古墓群」には亀甲墓の他にも堀込墓や破風墓があり、古墓の蓋石に大型のテーブルサンゴなどが用いられています。さらに丘陵の周囲からは獅子竈や近世陶磁器が発掘されています。(旧ムラバカ/村墓)(堀込墓)(谷茶古墓群に移設されたムラバカ/村墓)「谷茶古墓群」から更に北東側で「大湾川」の北側に「ガンジ原古墓群」と呼ばれる約3m程の小高い丘があり「アガタ/彼方組墓」と称する「ムンチュー墓」が造られていました。この古墓群には集落の草分け旧家である「ニーチュヤー/根人屋」などの「ムンチュー」が「旧ムラバカ/村墓」や「堀込墓」に葬られていました。この「ガンジ原古墓群」は「谷茶集落」と関連がある古墓とされていますが「谷茶古墓群」と位置が離れており墓の形状も違う事から、より古い違う時代の古墓群であると考えられています。その証拠に「ガンジ原古墓群」には堀込墓が多く「大湾川」から多数の厨子甕が発見されています。この周辺の丘からは厨子甕に使われた土器壺や青花が表面採集されており、さらに「寛永通寶」の貨幣も発掘されています。現在「ガンジ原古墓群」にあった「旧ムラバカ」は「谷茶古墓群」に「谷茶区合祀墓」として移設されています。(谷茶前節の歌碑)(谷茶前浜)(谷茶前浜)「谷茶前浜」には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑が建立されています。耕作地が少なかった「谷茶集落」では村を上げて漁具に力を注いでいました。集落では海の幸の恵みと感謝を示すため御嶽の祭祀には魚を神前に捧げたと言われています。「アカヒゲ屋」の人は三線が巧みで踊りや狂言も人気があり「マネク屋・トクムト・入り・与儀小」などの人々と共に「谷茶前浜」に押し寄せた数えきれない海の幸、大漁に心躍る青年達、忙しく魚を売りに走る乙女達の情景を「谷茶前節」で見事に歌と踊りに表現しました。因みに、琉球音楽の世界で『唄三線の始祖』として信仰されている「赤犬子」が旅の途中に「谷茶」で物乞いをした時、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に「赤犬子」をもてなしてくれました。「赤犬子」は谷茶の船を「谷茶速船」と名付け、それから谷茶の船は爽快に水を切って走ったとの伝承が残されています。
2023.05.18
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(谷茶の御嶽)沖縄本島北部の西海岸線沿いに「恩納村/おんなそん」が南北に長く広がり、この村の中央部に「谷茶/たんちゃ集落があります。この村の集落は東西に細長い形をしており、西側にある弓状の浜辺の砂堆上に位置しています。「谷茶」という村名は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」から記載され始めました。さらに1743〜1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である「球陽/きゅうよう」には『一六七三年(延宝元年)恩納間切創設に読谷山間切から八邑、金武間切から四邑を割き、十二邑で恩納間切を創めた。』と記載されています。このことから「谷茶」は読谷山間切から割かれた八邑の一つである事が分かります。また、1731年に成立した漢文による琉球王国地誌の「琉球国旧記」には『谷茶大屋子(地頭代)』の記事が記されています。(御嶽の丘陵)(御嶽の登口)(谷茶の御嶽)「谷茶集落」の中心部から南側にある丘陵の頂上に「御嶽」の社が「谷茶」の古島がある北側に向けて建立されています。「谷茶」の草分け旧家を見晴らす位置にある「御嶽」は村の守護神として昔から崇められてきたと考えられます。この御嶽は旧正月1日の「ハチウガン/初御願」で「谷茶集落」の老若男女が初詣に参拝しました。前年に子供が産まれた家は「カミジン酒」をつくり神に捧げ「ニーガン/根神」により神への報告が行われます。寄り合った人々は神酒を戴き、三線の演奏に合わせて歌舞が奉納されます。まず最初に男達が舞い、次に神女が舞う慣わしとなっていました。御嶽参詣は祭りの日や年中行事の際だけではなく、日付けを問わず出稼ぎに行く人や試験を受ける人などが御嶽を拝し、それぞれの日程から集落に帰った時に「フトゥチウガン/解き御願」を行いました。(アガリメーウフヤ/東前大屋)(ニーチュヤー/根人屋)(ナカミチ/中道から見たニーチュヤー/根人屋)「御嶽」の登口と「ナカミチ/中道」の周辺一帯には「谷茶集落」の草分け的な古島旧家が軒を連ねており、集落の神職もこれらの旧家から輩出していました。かつては隣接する「冨着」を主柱として「仲泊・前兼久・谷茶」の四カ村が「山田ノロ」の管轄の下に合同祭祀を執り行っていました。「谷茶集落」にも独自に「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」と称する神職が存在していました。「冨着神アサギ」での祭祀に「谷茶」を代表する神職として「根人」に相当する男子が「ウムイの主」になり「居神」も選定されていました。集落の「根人」と「根神」は「御嶽」の入り口にある旧家の「ニーチュヤー/根人屋」とその系統から出自していました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での合同祭祀の他にも「谷茶集落」に祀られる「御嶽」で村出身の神職により独自的な祭祀が執り行われていたと伝わっています。(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋)(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋の仏壇)(ニーチュヒヌカン/根人火神)(ニーチュヒヌカン/根人火神の祠内部)「根人屋」の屋敷の南側に赤瓦屋根の「カミヤー/神屋」が建てられており、内部には3基のウコール(香炉)が設置された仏壇、2基の石造りウコールが祀られたヒヌカン(火の神)、1基のウコールが設置されたトゥクシン(床の神)が設けられています。この仏壇に向かって右側には観音図が祀られており、ウコール、湯呑、花瓶が設置されています。かつて「根人屋」の炊事場に2つの竈(カマド)があったと伝わります。竈に向かって右側が「根人火神」が祀られ「根神」が拝し、左側は「家庭火神」とされてきました。戦後になり「根人火神」は「御嶽」入り口の右側に祠を設けて移動され、その祠内部には更に2つの火神が祀られ「谷茶集落」の民間霊媒師である「ユタ/シャーマン」により拝されています。現在、この祠には10体の霊石が祀られ、3基のウコールと3つの湯呑が設置されています。(クラントゥー/蔵ン当のカミヤー/神屋)(シードヌヤー/勢戸ヌ屋の屋敷跡)(ウフヤー/大屋のカミヤー/神屋)(アガリ/東の屋敷跡)「谷茶集落」の「御嶽」の南側には他にも「クラン根/蔵ノ根・クラントゥー/蔵ン当・シードヌヤー/勢戸ヌ屋・ウフヤー/大屋・アガリ/東」の旧家屋敷がありました。「御嶽」で祭祀が執り行われた際、稲穂は「シードヌヤー」の「メーンター/前ン田」から三穂を収穫して神に捧げ、お供えする神酒もこの家で造られました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での四村合同祭祀には「ウフヤー・アガリ」の両旧家から神女が1人づつ参加し「ニブトイ/根ブ取」と呼ばれる神人は「アガリ」が出席したと伝わります。桶の神酒を杓子で汲み、再び桶に戻す事を3回繰り返した後に改めて神酒を汲む「神酒起し」と呼ばれる儀式が神女達により行われました。正月と6月25日の年2回「御嶽」の清掃と枯木採取が3人の神女により行われ、〆縄は「ニブトイ」が張り巡らしたと言われています。(川端屋の屋敷跡地)(谷茶集落入り口の古墓)(タンチャバシ/谷茶橋)(タンチャバシ/谷茶橋の石碑)旧家「アガリ」の北側で「谷茶前浜」の近くに「川端屋」の屋敷跡地があります。この家は耕地が少ない「谷茶集落」でも土地持ちの裕福な家として有名でした。恩納間切の「南恩納・熱田」や金武間切の「屋嘉」などの集落に多くの水田を所有しており、その土地の住民に小作をさせていたと言われています。この「川端屋」から借金をした人は利子を労働で返済し、多くの日雇いも使用していたと伝わっています。「おんなサンセット海道」から「谷茶集落」の西側に入る位置に古墓があり墓門にはウコール(香炉)が設置されています。この墓の正面に流れる「メーンカー」には「谷茶橋」が掛けられており、川岸には『大正十二年十一月築設』と刻まれた、当時実際に使用されていたと思われる2本の石柱が記念碑として保存されています。その昔、この川には「ヤンバル/山原船」や村船の「入り船・アガリ船」が往来していたと伝わります。
2023.05.10
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(冨着古島の御嶽/アフシマノ嶽)「冨着集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線にあり、この集落の「古島/フルジマ」は東側にある丘陵にあり、琉球王国時代の村の祭祀や生活は全て「冨着古島」で営まれていました。「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の屋敷東側に隣接して「冨着古島」の御嶽があります。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『アフシマノ嶽 神名 コダマノイベヅカサ 富着村』と記されています。「冨着古島」の年中行事として4月15日は「マチチャ御願」が執り行われ「御嶽」と「地頭火神」を拝してハブの卵が孵化しないように祈願しました。さらに10月1日の「竈廻い」の行事では「御嶽」と「地頭火神」を参拝した後に男老数人が各家の竈を廻り「1(ティー)、2(ター)、3(ミー)…10(トー)。110デヤビル。」と言って祈願したと伝わります。(冨着古島の御嶽入り口)(御嶽の森)(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)さらに「琉球国由来記」には『四月朔日ヨリ五月中、山留也。然ドモ、公用ニ竹木伐デ不叶故、為作物崇折之時、仙香・花米五合・麦神酒二器。稲穂祭三日崇、且、同穂祭之時、仙香・花米五合宛・麦神酒二器宛。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器。年浴之時、仙香・花米五合・神酒二。柴指之時、仙香・花米五合。ミヤタネノ時、仙香・花米五合・神酒二器。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也 竈廻之時、火之用心ニ掟・頭々、村々掃除見廻也。後効之。』との記述があります。赤瓦屋根の建物は御嶽の森に向けて建立されており、非常に強い「セジ/霊力」により御嶽全体が包まれています。この御嶽の入り口周囲には大規模に渡り、聖域を守護する役割である3本の「ヒジャイ縄/左縄」が張られています。(御嶽に張られたヒジャイ縄/左縄)(根神屋の屋敷跡/カミヤー)(アシビナー/遊び庭跡)「冨着古島」の御嶽の北側に「根神屋」の屋敷跡があり「カミヤー/神屋」が建てられています。「山田ノロ」が古島で祭祀を行った際、供えられる神酒は「富着村」宗家の「アガリ家」で作られ、三穂は「前兼久村」の「殿内田」と呼ばれる「ナーシルダー/苗代田」から持参しました。捧げ物は「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」からの乾魚から「山田ノロ」は七コーシ盆「ノロの供神」に三割五分コーシ盆「冨着根神」に一コーシ盆「居神達」に一割五分コーシ盆が捧げられました。また9月1日の「神酒御願」の際には古島集落の各家から花米一合を当て募り神酒を作ったと伝わります。この神酒を「アガリ家・ミーヤ家・根神屋・上家」の四家に捧げ、各村人が都合の良い家で神酒を頂きました。「根神屋」の南側に隣接した場所にはかつて「遊び庭/アシビナー」があり「冨着古島」の盆踊りなどの年中行事で老若男女が集っていました。(ミーヤ家の神アサギ)(神アサギ前の霊石)(神アサギ前の石組)(神アサギ内の霊石)「根神屋」の屋敷跡に隣接した北側に「ミーヤ家」の屋敷跡があり、この敷地には「神アサギ」が建てられています。「ミーヤ家」は「冨着古島」の草分けである「アガリ家」に次ぐ旧家であると考えられています。「山田ノロ」がこの家の仮屋で一泊されていたのも「ミーヤ家」が「根神」出自の家であったからであると伝わります。さらに「冨着」の古老によると「ミーヤ」は大昔に「アガリ家」から分家したと言われています。「山田ノロ」の後継が絶えてからは「冨着根神」を柱として昔から継続する「前兼久村・谷茶村・富着村・仲泊村」の四ヶ村合同祭祀を行うようになりました。「山田ノロ」が祭祀を司っていた現存する「神アサギ」を使用するのは恐れ多いため「ミーヤ家」の敷地内に「冨着根神」が祭祀を執り行う「神アサギ」が新たに建てたと考えられます。この「神アサギ」の内外部には古い霊石が現在も祀られています。(上家の屋敷跡)(富着金細工の屋敷跡)(子孫仲村の表札)「ミーヤ家」の東側に隣接した場所には「上家」の敷地跡が現存しており、かつて「神酒御願」の際に「神酒」が捧げられた集落四家の1つです。さらに「ミーヤ家」の西側の敷地はかつて「富着金細工」の屋敷があり、姓は「金城」でしたが現在は「仲村」となっています。当時は「恩納村」では有名な財産家で「アガリ家」の分家であり村の神女もこの家から出たと言われています。「富着金細工」の家は鍛冶工として財をなし「恩納村」では「前兼久・富着・仲泊・伊武部・山田」さらに「金武村」の「屋嘉」にも水田を持っていました。現在の「うるま市」の「東恩納」にある屋号「当ノ屋」から「仲泊」の水田を買った有名な話は今でも伝えられ、この水田を買い求めた資金は「屋嘉」と「山田」の水田を売却した金を元手にしたと言われています。因みに、この「当ノ屋」は「普天満宮」の洞窟に現れた「熊野権現」と名乗る仙人が「当ノ屋」に黄金(神徳)を捧げて苦難を救ったとの伝承があります。(クシヌカーへの道)(クシヌカーの遥拝所)(クシヌカー)(クシヌカーの拝所)「根神屋」から北東側に丘陵を下って行く道があり、途中に「クシヌカー」への遥拝所が設けられ、霊石が祀られています。高齢者や足が不自由な参拝者が急な斜面を下りずに「クシヌカー」を拝するように遥拝所が設置されていると考えられます。丘陵の麓まで降りると「クシヌカー」の小川が流れており、川沿いには霊石が祀られています。集落では9月15日の「井泉拝」では遠い先祖が恩恵を受けた「クシヌカー」に水の恩恵に対する感謝の祈願が行われます。「冨着古島」の草分け旧家で、源「南城市」の「玉城」に始祖を持つ「アガリ家」の南側丘陵の麓には「メーヌカー」が流れています。「井泉拝」において集落の南北に流れる2つの拝川を「玉城」の「受水/ウキンジュ・走水/ハインジュ」と重ね崇めて「冨着古島」の豊作祈願も同時に「井泉拝」の行事で祈願されていたと一説では考えられています。
2023.04.20
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(神アサギ/神アシアゲ)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線に「冨着/ふちゃく集落」があります。この集落の西側で、南側に隣接する「前兼久/まえがねく集落」との境界線に位置する丘陵に「冨着集落」の「古島」があります。1635年に集計された資料である「琉球国高究帳」には『ふ津き』と記されており、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『富着』との記述があります。更に清の官僚で琉球王国の「尚敬王」を冊封した「徐葆光/じょほこう」が1721年に著した「中山伝信録」には『富津喜』とされています。また、大正時代には「冨着」は『フジチ』と呼ばれており、現在は『フチャク』の名称となっています。「冨着古島」から見て海沿いの砂地を「前兼久」と呼び、その後方に位置する現在の「冨着集落」の場所を「後兼久」と称していたと伝わります。(神アサギ/神アシアゲ)(地頭火神)(地頭火神の祠内部)(冨着礼拝所の通路)「冨着古島」の「冨着礼拝所」と呼ばれる場所に、かつて「山田ノロ」が祭祀を執り行った「神アサギ/神アシアゲ」があります。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 富着村 稲穂祭之時、シロマシ二器・麦神酒四 谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村百姓、五水八合・神酒一・肴二器 同四ヶ村地頭。稲大祭之時、五水八合・肴二器・神酒一 同上、同四 同四ヶ村百姓中、供之。稲穂祭之時、山田巫ニテ祭祀也。且、同大祭之時者山田巫、谷茶・仲泊・富着・前兼久、四ヶ村居神ニテ祭祀也。』と記されています。この「神アサギ」に隣接して「地頭火神」の祠が建立されており、祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。かつての祭祀の際には「山田ノロ」を中心として「富着村」から出自した「前兼久根神」や4ヶ村から参列した「居神」等の神女達は「地頭火神」を拝した後に「神アサギ」の祭祀を行ったと言われています。(アガリ家の屋敷入り口)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)「冨着古島」の集落で宗家と言われている「アガリ家」の屋敷跡が「神アサギ」の東側に隣接しています。この旧家からは「富着村」の「根人/ニッチュ」が出自し、この「根人」出自の「ミーヤ家」も「アガリ家」の昔分家であると伝わっています。「山田ノロ」による祭祀に供えられる神酒は「アガリ家」で作られ、祭祀終了後に「山田ノロ」を接待する場も「アガリ家」だったと言われています。集落の盆踊りも「アガリ家」から始まり、次に「根屋神」を訪れます。8月の「豊年祭」の時には「根神屋」を拝した後に「アガリ家」を拝して「遊び庭/アシビナー」で豊年芝居が執り行われました。この集落宗家である「アガリ家」は現南城市「佐敷」の「鮫川大主」を祖先としています。この「鮫川大主」は琉球王国の第一尚氏初代国王「尚思紹王」と「場天ノロ」の父にあたる人物とされています。(上小家の敷地にあるカミヤー)(カミヤーの建物内部/仏壇)(カミヤーの建物内部/ヒヌカン)(上小家の屋敷跡/礎石)「アガリ家」の西側で「神アサギ」の南側に隣接した場所はかつて「上小家」の敷地で、現在は「カミヤー/神屋」が建てられています。この建物内部にある仏壇には『冨着根屋御元祖』と記された位牌と『冨着神女』と記された位牌が祀られており、仏壇の壁には2本の薙刀と2枚のカージ(クバ団扇)が飾られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。「冨着古島」は「山田ノロ」の管轄でしたが、集落には「富着村」から出自した「前兼久根神」や「居神」等の神女が存在し「山田ノロ」の補佐役として祭祀を務めていました。また「山田ノロ」の後継が途絶えた後は「根神」を柱として「富着村・前兼久村・谷茶村・仲泊村」の伝統的な「四村合同祭祀」が継続して執り行われました。ちなみに「上小家」の敷地には昔の屋敷に使われた珊瑚石の礎石が現在も多数残されています。(カーニー家のアコウ)(メーヌカーに降る道)(メーヌカー)(メーヌカーの拝所)「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の南側に隣接した敷地にはかつて「カーニー家」があり、現在は樹齢の古いアコウの木が幾本もの根を伸ばしています。この「カーニー家」から南側に降りる丘陵が続き、谷底には「メーヌカー」と呼ばれる拝川が流れており古い霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「冨着集落」では9月15日に「メーヌカー」にて「カー拝み/井泉拝」が行われています。この行事は「カチンジョウ拝み」とも言われており「富着村・前兼久村・谷茶村」の三部落の遠い先祖がこの地に住んでいた時代に水の恩恵を受けた井泉への感謝を示す為に拝されています。この「カー拝み」の日には「アガリ家」の屋敷から「メーヌカー」と祖先である「鮫川大主」の出身地である「佐敷」の方角に向けて遥拝が行われていたと伝わります。ちなみに、一説では稲の伝承地である「玉城」の方面を拝していたとも言われています。
2023.04.12
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(村火の神/前兼久根神火神)「前兼久/まえがねく集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いにあり、集落の公民館の敷地に「村火の神」の祠が西側にある「前兼久漁港」の海に向かって建立されています。この「ヒヌカン/火の神」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『前兼久根神火神』と記されており、更に『稲穂祭三日崇・同稲穂祭之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 谷茶・仲泊・前兼久・冨着四ケ村百姓。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。年浴之時、仙香・神酒二 百姓中。ミヤ種子之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。右四ケ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也。』との記述があります。そのため「前兼久」はこの時代には「冨着」から独立した村として琉球王府に認められていた事になります。(村火の神/前兼久根神火神の祠内部)(龍宮神の拝所)(龍宮神の祠内部)「村火の神」の祠がある「前兼久公民館」の土地は、その昔この村を治めていた地頭代の「前兼久親雲上ペーチン」の屋敷跡であると伝わり、この「ヒヌカン/火の神」は「地頭代火の神」とも呼ばれています。祠内部には「村火の神」と記された石板の下に3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。「村火の神」に向かって右側に隣接して「龍宮神」が祀られる祠が海に向けて建立されています。この海の神様である「龍宮神」は1月2日の「フナオコシ/舟興し」で豊漁と海の安全、更に集落の繁栄と住民の無病息災が祈願されます。昔は祈願の後に漁民全員が舟で海に出て獲った魚を女性達が料理し、ご先祖様や海の神様にお供えしてから皆で食べ親睦を深めていました。この日の漁は「ハツウクシ/初興し」と呼ばれる仕事始めで、獲った魚は売ってはならず全て食べる決まりとなっていました。(前兼久トゥングヮー)(前兼久トゥングヮーの龍宮神)「前兼久集落」の西側には神が住むニライカナイに繋がる海が広がり、この理想郷の神が集落に来られる際には「前兼久トゥングヮー」で一時休憩されてから村に来臨すると信じられていました。この事から「前兼久トゥングヮー」の岩島は聖地とされ、この島を拝む事はニライカナイを拝する事と同じだと言われ、集落として昔から 崇められていました。「前兼久トゥングヮー」の岩窟に収められている古骨は集落の前代先祖の骨とされ、この島に死者を葬る事はニライカナイに葬る事と同じであると信じられていました。「前兼久トゥングヮー」は集落の中でも限られた人しか島に渡る事が出来ず、この島の東側には「龍宮」と記された赤い鳥居が建立されています。旧暦5月4日の「ウンガミ/海神祭」では「前兼久トゥングヮー」の周辺で100年以上続く「前兼久ハーリー」の伝統行事が行われ豊漁と航海の安全が祈願されます。(前兼久トゥングヮーの遥拝所)(ノロ御迎毛)「前兼久」の古老によると、幼い頃まで海を望む岩崖の上にウコール(香炉)が「前兼久トゥングヮー」に向けて祀られており、この遥拝所から「前兼久トゥングヮー」を拝していたと伝わっています。現在の遥拝所の岩崖は根本から削られて「Blue Entrance Kitchen」というレストランになっており、隣接する公衆トイレの裏側に岩崖の跡が僅かに残っています。「前兼久公民館」の敷地の東側の広場はかつて「山田ノロ」を迎える「ノロ御迎毛」でした。「前兼久村」が「冨着村」から独立する前まで「山田ノロ」は舟で「ノロ御迎毛」に来て休憩し、そこから「冨着古島」の丘陵に向い祭祀を行なっていたと言われています。因みに「山田ノロ」の管轄は「読谷山・冨着・谷茶・仲泊・久良波」で「冨着」から独立した「前兼久」は村の「前兼久根神」により祭祀が執り行われていました。(移設されたウーガー/大井/オカー)(ウーガー/大井/オカーがあった場所)(移設されたナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井)(ナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井があった場所)戦前まで「前兼久集落」の草分け家の「アガリカーニー/東川根」の屋敷の隣に「ウーガー/大井」があり「オカー」とも呼ばれていました。正月の早朝午前3時頃に「アガリカーニー」の家主か長男が集落の古島にある「ヒジャガー」からバケツ1杯の水を汲み「ウーガー」に注ぎ入れます。その後、村中の家々が新年初めの「ワカミジ/若水」を汲んで帰ったと言われています。また「ウーガー」の南側で「前兼久の御嶽」の丘陵麓にはかつて「ナカヌカー/中ヌ井」があり「前ン当の井」とも呼ばれていたと言われています。毎年1月と8月の「カーウガン/井御願」では「ヒジャガー・ウーガー・ナカヌカー」の三井が拝され、塩・線香・御花米を各井戸に供えて全戸主が参拝しました。「ウーガー」と「ナカヌカー」は「おんなサンセット海道」の工事により埋め立てられましたが、この海道沿いに各井戸跡が移設されて現在も拝されています。(ジッチャク/勢理客の墓)(ジッチャク/勢理客の墓の墓門)(前兼久貝塚跡)(恩納ナビーの銅像)「前兼久集落」北側の「メーガニクバル/前兼久原」に集落で拝される「ジッチャク/勢理客の墓」と呼ばれる岩陰墓があります。集落に関係する「按司」の墓であると言われており墓内には石厨子が納められています。この墓の周辺から青磁碗の直口口緑部と思われる小破片が発掘されています。さらに「ジッチャク/勢理客の墓」東側の「メータバル/前田原」は「前兼久貝塚」があった場所で、現在は沖縄郷土料理店の「風月楼恩納本店」やコンドミニアムホテルの「プリンスプラージュ」などが開発されています。「前兼久貝塚」は標高5mの海岸砂丘に立地しており、この土地から弥生〜平安時代並行期の土器片が確認されています。因みに「風月楼恩納本店」の入り口には「恩納村」で生まれたの琉球二大女流歌人である「恩納ナビー」の銅像と同歌人の代表歌が供覧されています。
2023.03.31
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(前兼久の御嶽)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく集落」があり、沖縄の方言では「メーガニク」と呼ばれています。1721年に清の官僚であった「徐葆光/じょほこう」が著した琉球の地誌『中山伝信録/ちゅうざんでんしんろく』には「前兼久」は「下富津喜」と記されており、かつて「前兼久集落」は北側に隣接する「冨着集落」の一部であったと言われています。「前兼久」の名前は「冨着」から見て西側前方にある海岸の砂堆地(兼久)に立地していた事に由来していると伝わります。現在の「冨着集落」は北側海沿いの「シリカニクバル/志利兼久原」に人口が集中していますが、戦前までは山手の奥まった場所に部落がありました。その為、山の上から見て「前兼久」の位置は海沿いの砂地の手前にあった事になります。(前兼久の御嶽に登る階段)(前兼久の御嶽/祠内部)(北側にある集落の古島に向けられた霊石)(前兼久の御嶽から見た集落の古島方面)その昔「前兼久集落」は公民館の辺りから大きく分けて南側を「メーンダカリ/前村渠」北側を「クシンダカリ/後村渠」と呼んでいました。戦前になると集落の南から北に順に「メーグミ/前組」「メーヌナカグミ/前の中組」「クシヌナカグミ/後の中組」「クシグミ/後組」と区切られるようになったと伝わります。「前兼久集落」を南北に通る「恩納サンセット街道」沿いにある丘陵の階段を登ると頂上に「前兼久の御嶽」の拝所があり、赤瓦屋根の建物は「冨着集落」がある北側を背に建立されています。この祠の内部にはウコール(香炉)が祀られ、花瓶と湯呑設置されています。また、この建物の向かいの広場には、かつて「前兼久集落」が発祥した「古島」に向けられた霊石が祀られています。「前兼久の御嶽」は毎年1月2日の「ハチニガイ/初御願」で集落の住民により大切に拝されています。(前兼久の古島)(ヒジャガー/ウブガー)(ヒジャガー/ウブガーの湧き水)(ヒジャガー/ウブガーのウコール)「前兼久」の「古島」は現在の「前兼久集落」と「仲泊集落」の間にある山手側の丘陵にあったと伝わります。「前兼久」の「ウブガー/産井」である「ヒジャガー/比嘉川井」がこの古島の丘陵麓にあります。「ウブガー」の湧き水は部落で子供が産まれた際に産水として利用された他にも、元旦に生命を新しくする「スディミズ/若水」を汲み赤子の額に「ウビナディ/水撫で」をして健康祈願をしました。「前兼久集落」の古老によると昔は「ヒジャガー」東方の丘の上で毎年盛大な祭りが開催されて「前兼久」が分離してきた「冨着」の古島の方面に向かって遥拝が行われていたそうです。この「ヒジャガー」は「前兼久漁港」の東側に位置し、規模の大きい井戸には現在も水が豊富に湧き出ています。井戸には水の神様に感謝する祈願を行う「ウコール/香炉」が祀られており、毎年1月1日の「カーウガン/井戸御願」で大切に拝されています。(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根の仏壇)「前兼久集落」の最高旧家と言われているのが草分け家の「アガリカーニー/東川根」で「前兼久の御嶽」の丘陵西側に屋敷がありました。現在、この敷地には「アガリカーニー」の「カミヤー/神屋」が建立されています。1月2日の「ハチニガイ/初御願」の際に集落の住民がこの「カミヤー」に集まり無病息災と集落の繁栄を祈願します。この家からは「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」が出自し「前兼久」を管轄していた「山田ノロ」を祭祀の際に村に御迎えする「スバノ主」もこの血統から出たと言われています。また「アガリカーニー」の家は戦前から現うるま市「石川」に出向いて「冨着ペーグミー/親雲上」の位牌を拝していました。戦後になると「石川」からお迎えしたこの位牌を「カミヤー」に祀り大切に拝しています。「前兼久」は北側に隣接する「冨着」から分離した集落で「石川」から移り住んだ「冨着ペーグミー」が「冨着」の脇地頭を治めていました。そして、この人物の長男が「前兼久」の集落を草分けしたと伝わります。(冨着ペーグミー/親雲上の位牌)(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)「前兼久集落」の古老によると、「アガリカーニー」の母親が生前(明治時代後半)に「アガリカーニー」の遠い先祖は「南風原/はえばる」の「宮平グスク」に祀られていると述べた事から、この草分けの旧家がその地を拝しに出向きました。それ以来「アガリカーニー」門中は正月の初御願と8月に「前兼久の御嶽」に登り「宮平グスク」を遥拝するようになり、それが集落全体の行事として広まり現在に至っています。「アガリカーニー」の「カミヤー」には、この旧家の先祖である「冨着ペーグミー」の位牌が祀られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られ、3体の霊石と古くから継承されるウコール(香炉)が設置されています。さらに仏壇に向かって右側には「カミヤー」を守護する「トゥクシン/床の神」のウコールが祀られています。5月4日のハーリーの際には「アガリカーニー」の「カミヤー」で海幸祈願が行われ、更に7月の盆踊りや綱引きなどの集落対抗行事の際には必ず「アガリカーニー」から祭りが始まります。
2023.03.24
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(イチグスク)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく」という西海岸沿いの集落があります。沖縄の言葉で「メーガニク」と呼ばれるこの集落は「恩納村」の中で最も漁業が栄えており「前兼久漁港」を中心として多くの海産加工工芸品店が存在しています。この漁港と「前兼久公民館」に隣接する沿岸崖沿いには「イチグスク」の丘陵があり、グスクの北側には沖縄初の本格的なリゾートホテルである「ホテルムーンビーチ」があります。「イチグスク」は琉球石灰岩が隆起した岩塊で形成されており、崖下には現在も古墓が多数残されています。明治時代の後期に「前兼久集落」で「サッパイ」と呼ばれる「神ダーリ/神がかり」が発生し、集落の男女約10名が次々と何かに取り憑かれた様に突然に豹変してしまいました。(イチグスクの古墓/岩陰墓)(古墓のウコール)(イチグスクの風葬墓/岩陰墓)沖縄の組踊り(能や歌舞伎に近い琉球宮廷芸能)に登場する按司が語る「御殿言葉」を大声で叫び、集落を彷徨い歩いたため集落は大騒ぎになったと伝わっています。この不可解な出来事が起きて以来「前兼久」ではそれまで集落として拝していなかった「イチグスク」を拝む様になったと言われています。「前兼久」は元々「冨着村」に属しており、この村は現うるま市の「石川村」から移り住んだ「冨着親雲上/ペークミー」が脇地頭として村を治めていました。この「冨着親雲上」の長男が「冨着村」から独立した「前兼久」の草分けとして集落を開いたと言われています。そのため「イチグスク」の古墓に葬られている人々のルーツは「石川村」にあり、このグスクは「前兼久」の住民のみならず「石川」の人々からも大切に拝されました。(崖下の古墓)(崖下の古墓/岩陰墓)(仮墓とウコール)(岩塊に祀られたウコール)「前兼久」を開拓した先人が葬られた「イチグスク」を村として拝して来なかった事による祟りが「サッパイ」と呼ばれる「巫病/ふびゅう」を引き起こしたと集落の住民は考えたと推測されます。この「巫病」は沖縄におけるユタ、呪術者、巫がシャーマン(宗教的職能者)になる過程において罹患する心身の異常状態を意味し、沖縄では「神ダーリ」という言葉で広く認識されています。またシャーマニズムにおいて「巫病」は成巫過程の重要な試練とされ、一般的に思春期に発症する事が多いと言われています。症状は発熱、幻聴、神様が出てくる夢、重度になると昏睡、失踪、精神異常、異常行動などが現れます。シャーマニズムの信仰では「巫病」は神がシャーマンになる事を要請していると捉えられています。(イチグスクの岩崖)(鍾乳洞の風葬墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(崖下の石厨子)「巫病」を克服しシャーマンとなった者は神を自分の身に憑依させる事が出来て、神の代弁者になると信じられています。神によりシャーマンになる事を要請されると本人の意思で拒絶する事が困難であり、それを拒むと異常行動を引き起こして死亡する前例も見られます。「巫病」になった者は多くの場合、先達のシャーマンから神の要請に素直に従うよう勧められシャーマンの道へと導かれます。「巫病」は夢で与えられる神からの指示に従う事や、参拝や社会奉仕などを行って行くうちに解消されシャーマンとして完成すると言われています。沖縄の民間社会において「ユタ」と呼ばれるシャーマンは広く知られており、集落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)、吉凶の判断(ハンジ)、禍厄の除災(ハレー)、の病気の平癒祈願(ウグヮン)など人々の私的な呪術信仰的な領域に関与しています。(イチグスクの岩崖)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの浜)沖縄には昔から『医者半分、ユタ半分』という言葉があります。病気にかかると医者に診てもらう人と、ユタに相談する人が半々いるという意味します。ユタの能力は超自然的かつ神秘的で、その実体を裏付ける科学的根拠が無いためユタを装って金儲けをする人が現在も多数存在します。また、時の中央集権や近代化を進める権力層から幾度も弾圧や摘発を受けてきた歴史があります。「琉球王国行政官の蔡温によるユタ禁止令」「明治時代の自治体によるユタ禁止令」「大正時代のユタ征伐運動」「第二次世界大戦体制下でのユタ弾圧」など時代を経て、現在も沖縄にはシャーマンであるユタが存在し続けています。それと同時に沖縄には『ユタコーヤーヤ、チュオーラセー (ユタを買う人は、人々を争わせる人)』という言葉もあり、ユタにお金を払う事自体が問題の原因になると言われているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2023.03.17
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(前兼久トゥングヮ/仲泊トゥングヮ)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん)」の西海岸線沿いに「前兼久/まえがねく集落」があり、この集落は沖縄の方言で「メーガニク」と呼ばれています。「前兼久集落」には昔から「アーマンチュ/天人」に纏わる伝承話があります。「アーマンチュ」とは「ニライカナイ」という海の彼方にある理想郷に住む神を意味し、沖縄には「アーマンチュ」に関する「巨人伝説」や「アーマンチュの足跡」更には「アーマンチュの洞窟」など多くの伝承が存在しています。「前兼久集落」の古老によると、太古の昔の世は北からの波は南へ、南から来る波は北へと越えてゆくばかりで、当時の沖縄には土地は少なく海ばかりが広がっていました。そんな時「アマミキヨ/アマミク/阿摩美久」と「シネリキヨ/シネリク/志禰礼姑」という「アーマンチュ」と呼ばれる男女の二神が「ニライカナイ」から「国頭村/くにがみそん」の「阿須森/あすもり」に降臨しました。(仲泊海岸/仲泊トゥングヮ/前兼久トゥングヮ)(前兼久トゥングヮ)「阿須森」に降りた「アマミキヨ」と「シネリキヨ」が『人間をお与えください』と懇願すると女が2人、男が1人生まれました。彼らは海から貝を拾って洞穴の中で食べて暮らし始め、そこから沖縄の国が広がって行ったのです。更に、島々を造ろうと天秤棒で土を運んでいると途中で棒が折れてしまいました。その時に海に落ちた土が「前兼久」と「仲泊」の2つの海上の小島になり、それぞれ「前兼久トゥングヮ」と「仲泊トゥングヮ」と呼ばれるようになったと伝わっています。また「アーマンチュ」が天と地を分けた神話も沖縄にあります。『遥か昔、天と地は分かればかりで人間は狭い隙間を這いつくばっていました。そこに「アーマンチューメ」という巨人神が現れ、硬い岩場を見つけると両足を踏ん張り両手で天を支えて持ち上げて強く放ちました。すると天は遥か上空に昇り人間は歩いて暮らせるようになりました。』その時に出来たと言われる「アーマンチュ」の足跡が沖縄各地に伝わっています。(前兼久漁港から見た前兼久トゥングヮ)名護市羽地には次のような話が伝わっています。『昔、とても天が近く人間は困っていた。アマミキヨという人が真喜屋の大川と羽地の大川のトゥシという所に足を踏ん張って天を押し上げたそうだ。昔はその時の足跡が残っていた。』また、うるま市安慶名には『昔、天と地はくっ付いていて離れていなかった。そのため人々は這って歩いていた。アーマンチュが何処からか降りてきて那覇のユーチヌサキ(雪の崎)に立って天を持ち上げた。』という伝承が残されています。更に、南城市佐敷津波古には『130歳である福人の前にアーマンチュが現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた。』と伝わり、渡名喜島には次のような伝説があります。『タカタンシーと呼ばれる場所には昔、アーマンチュの足跡だという大きな石の窪みがあった。大昔アーマンチュは粟国島と渡名喜島をひとまたぎで渡ったそうだ。次に久米島にひとまたぎで渡ろうとしたが、海に落ちて死んだそうだ。』(仲泊トゥングヮ/ヒートゥー島)「前兼久トゥングヮ」の南側約300mで恩納村立仲泊小学校の北西側約400mの位置に「仲泊トゥングヮ」の岩島があります。この島は地元の住民に「ヒートゥー島」と呼ばれており「ヒートゥー」とは「イルカ」を意味します。かつて沖縄本島北部の名護湾でサバニ(沖縄で古くから利用された漁船)に乗った漁師が湾内に入り込んだイルカを手投げ銛で仕留めた「ヒートゥー漁」が3月から5月にかけて行われていましたが「仲泊トゥングヮー」の周辺で「ヒートゥー漁」が行われていた詳細は確認されていません。しかし「仲泊海岸」は現在でもウミガメの産卵が確認されるほど美しい海なので、昔はこの「仲泊トゥングヮ」からイルカの群れが見られた事から「ヒートゥー島」と言われるようになったと推測されます。因みに沖縄本島北部ではイルカを食する習慣があります。スーパー等でもイルカ肉が販売されており、刺身や炒め料理で食されています。(仲泊トゥングヮの廃墟)(仲泊トゥングヮの湾曲橋)1975年(昭和50年)に本部町で開催された「海洋国際博覧会/Expo'75)の際に沖縄振興の流れで「仲泊トゥングヮ」にも開発計画が持ち上がりました。「仲泊集落」の北側にある「シーサイドドライブイン」が沖縄の本土復帰に伴い、内地からの観光客を見込んで「仲泊トゥングヮ」にイルカ料理専門の海上レストランとミニ水族館の建設に取り掛かりました。しかし「仲泊トゥングヮ」の小島に掛ける橋の建設許可が下りず、建設半ばで計画は頓挫してしまいました。さらに、この島には下水処理のインフラが無く、海を汚染させる恐れがあった事から地元のウミンチュ(漁師)から猛反対を受けていたと伝わります。現在も「仲泊トゥングヮ」には当時からの廃墟が残されたままとなっており、島の西側には岩塊とを結ぶ湾曲したコンクリート製の橋が掛かっています。(シーサイドドライブインから見た仲泊トゥングヮ)(イユミーバンタのアーマンチュの足跡)「仲泊集落」の南側にある「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の東側に「イユミーバンタ」と呼ばれる海の魚の群れを見る崖があります。この崖上には芝生の広場となっており、昔から「アーマンチュ」の足跡であると言われています。また恩納村「万座毛」や読谷村「残波岬」も「アーマンチュ」が足を置いた場所だった言い伝えがあります。更に沖縄市には次のような神話があります。『東南植物楽園の南側で「バシクブー」と呼ばれる場所にある「福地グシク」の丘陵は「アーマンチュ」が枕にしていた。』『東南植物楽園の敷地内にある「ナーカジ」と呼ばれる平場には「アーマンチュ」のかかとの跡が2つ残されている。』『東南植物楽園前の交差点で「ナーカジアジマー」と呼ばれ場所に「ジャンジャラーシー」と言う洞穴には「アーマンチュ」が踏んで歩いた足跡が残っている。』(仲泊のイユミーバンタ)(イユミーバンタからの絶景)石垣島から与那国に広がる八重山列島にも「アーマンチュ」の伝説があり、石垣島の「白保」には次のような伝承が残されています。『その昔、天の神がアーマンチュに天から降りて下界に島を創るように命じました。アマン神は土を槍矛でかき混ぜて島を形成し、アダン(阿檀)林の中で最初の生物であるヤドカリを創りました。その後、ヤドカリの穴から2人の男女が生まれた。』八重山の開闢神話の特色としてヤドカリが登場します。南西諸島ではヤドカリは「アマン」と呼ばれ、語源は「アーマンチュ」から来ていると考えられます。因みに 「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する言葉である事も非常に興味深い点となっています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2023.03.10
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(比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道)国指定史跡である「国頭方西海道/くにがみほうせいかいどう」は琉球王国時代に整備された主要道路で、首里を起点とし浦添・読谷・恩納を経て名護の北方に向かう沖縄本島西側の古道です。中南部と北部を結ぶ恩納村では「仲泊の一里塚」から「真栄田の御待毛/ウマチモー」までの間が「歴史の道」として整備されています。この古道の周辺には「唐人の墓碑・比屋根坂石畳道・山田谷川の石矼・山田グスク・フェーレー岩・真栄田の一里塚」など歴史的価値の高い文化財が点在しています。「比屋根坂石畳」は小字比屋根原の琉球石灰岩丘陵を越える為に敷設された道で、もともと石畳道は丘陵上にはなく東西の傾斜地に蛇行して造られています。なお、東側丘陵地の石畳道は約98mあり、西側丘陵地の石畳道は約76.5mあります。(比屋根坂石畳道)(イユミーバンタの洞窟)(洞窟の内部)(洞窟の入り口)琉球王府の時代に敷かれた「比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道」は明治末期まで主要道路として、長い歴史を経て数多くの行商人や旅人に利用され重宝されていました。この「比屋根坂石畳道」の丘陵上には自然洞窟(ガマ)があり「仲泊遺跡」との関連性は不明ですが、洞窟の内部は比較的広い空間となっています。この丘陵の高台広場には確認できるだけで大小数箇所の洞窟入り口があり、全てが1つに繋がっていると考えられます。この洞窟にもかつての先人達が暮らし、その後は風葬墓として利用されていたと予測できます。また、洞窟の内部は自然が創り出した鍾乳石で覆われており、この洞窟の歴史の古さを知る事が出来ます。更に沖縄戦の際には防空壕として利用されていたとも考えられ、多くの周辺住民の命を救ったと思われます。琉球において洞窟は古来、現世と後世を繋ぐ境界の世界とされ「聖域」として祖霊を崇めたと言われています。(イユミーバンタからの絶景)(イユミーバンタの崖)(冨着/フチャクの寄地跡)(前兼久/メーガニクの寄地跡)「比屋根坂/ヒヤゴンビラ石畳道」の丘陵上には「イユ(魚)ミー(見る)バンタ(崖)」と呼ばれる魚群を発見する崖上となっており、仲泊海岸と仲泊集落を見渡せる景勝地として知られています。「比屋根坂石畳道」の東側に「仲泊遺跡」の入江谷があり、ここは琉球王国時代以降「冨着/フチャク・前兼久/メーガニクの寄地」と呼ばれる耕作地でした。「仲泊集落」の北側にある「冨着集落」と「前兼久集落」は耕地に適した土地に乏しかったため「仲泊」の「フカガー/深川」周辺の水田のうち上流に向かって右側を「冨着」左側を「前兼久」に寄地していました。寄地とは琉球王国時代に近隣する耕地の多い村から耕地の少ない村へ耕地の一部を割いて耕地権を譲渡するもので寄地は明治時代に行われた沖縄県の土地整理事業まで使われていました。現在「冨着の寄地」の土地は「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の第4駐車場として利用されています。(フカガー/深川の拝所)(フカガー/深川の井戸跡)(フカガー/深川の拝所)(フカガー/深川の上流)「比屋根坂石畳道」の台地の東側に隣接した谷に「フカガー/深川」と呼ばれる小川が南北に流れています。かつて「冨着の寄地」だった土地の南側は「フカガー」の上流となっており、川岸には現在でも2ヶ所の拝所があります。それぞれ岩の麓に霊石とウコール(香炉)が祀られており、その2つの拝所の間には石組で囲まれた井戸跡が存在します。「フカガー」の水は周辺に暮らしていた古代住民や「仲泊集落」の創始者に重宝されていたと考えられています。現在でも旧正月1日の「カー拝み」にて「仲泊集落」の人々に拝され、先祖が恩恵を受けた水の神様に感謝を込めて祈願しています。「フカガーの拝所」がある上流の水は北側に進み、最終的に美しい「仲泊」の海に流れ込みます。(ティラの洞窟)(ティラの洞窟の入り口)(ティラの洞窟の内部)「フカガーの拝所」の東側丘陵の上部で「恩納村博物館」の南側に約400mの位置に「ティラ」と呼ばれる洞窟があり「仲泊」の創始者が最初に住んでいた洞穴であると言われています。この自然洞窟から「古島」へ移り「古島」から現在の「仲泊集落」に移動したと伝わり「ティラの洞窟」は年3回(1月・3月・6月の15日)集落の住民により拝されています。「ティラの洞窟」の入り口には大小数体の霊石が祀られ、その手前にはコンクリート製の板が4枚敷かれています。高さ約1mほどの洞窟入り口から内部を確認すると生息するコウモリが飛び回り、奥行き5mほどの空間を確認できます。「仲泊」の古老によると、古代の交通路は「比屋根坂石畳道」の台地から「ティラの洞窟」がある丘陵、そして古島に向かう山道であったと言われています。なお「ティラの洞窟」周辺の住民が増えた事により古島に移動したと考えられています。(福地墓と考えられる堀込墓)(唐人の墓碑)(唐人の墓碑)「ティラの洞窟」の北側の山中に「福地墓」と考えられる「仲泊」の遠祖を祀った古墓があります。この堀込墓は周辺の古墓群の中で最も古い造りとなっており、墓の前方には古い琉球石灰岩を用いた石門が形成されています。また「恩納村博物館」の建物北側に恩納村指定の「唐人の墓碑」があります。1824年(道光4年)中国福建省の商船が嵐で難破し、乗務員32名中26名が水死、6名が水桶に乗り漂流して「仲泊」の浜に流れ着きました。そのうち5名が死亡、1名のみが餓死寸前に「仲泊」の人々により助けられ無事帰国したと伝わります。死亡した5名は「仲泊」の周辺住民により手厚く葬られ、墓前には5名の名前が刻まれた石碑が建立されました。石碑には『清考 呂仁 呂春 呂孝 洪貴 胡明 等墓』と記されています。
2023.02.24
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(仲泊遺跡)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸沿いを通る国道58号線に道の駅「おんなの駅/なかゆくい市場」と「恩納村博物館/恩納村文化情報センター」があります。この敷地の西側に沖縄県において最大級の規模で「仲泊遺跡」が残されており、第一洞穴と第二〜五貝塚で構成されています。この遺跡には貝塚と岩陰を利用した住居跡が遺り、沖縄先史時代(紀元前約1500年前)頃に利用されていたものと言われています。1954年に「第一洞穴」1959年に「第二貝塚」を戦後の沖縄考古学の草分けとして知られる「多和田淳」氏により発見されました。更に1973年に沖縄開発庁(現内閣府)による国道58号線の拡張工事の際、当時の沖縄県文化課職員により「第三貝塚/岩陰住居址」が発見されました。この「仲泊遺跡」は1975年4月7日に国に史跡に指定されています。(第一洞穴)(第一洞穴/入り口)(第一洞穴/内部)「仲泊遺跡」丘陵の東側麓に「第一洞穴」があり沖縄の先史時代後期の住居跡とされています。この小洞の床面は石敷で入り口付近に炉跡があり、奥には2〜3人が生活できる空間となっています。この洞穴の中央にある土層断面からは時代と共に地層が重なる構成を示す層序が確認する事ができます。層序は大きく分けて2層から成っており、第一層は風葬墓(約200〜300年前)として利用されていた時代の層で、第二層はそれよりも後期の生活に使われた層となっています。古琉球では風葬において遺体をまず洞穴や洞窟(ガマ)に置き自然の腐敗を待ち、3・5・7年などの時期を見て洗骨し納骨していました。洞穴や洞窟は前世の後世(グソー)の境界の世界とされ、聖域として祖霊を崇めていました。なお、現在の石敷と土層断面は保存のため合成樹脂で固めてあり、発掘当時と比べて色が変わっています。(第二貝塚)(第二貝塚の巨岩)(第二貝塚上部の洞穴)(第二貝塚上部の洞穴/風葬墓の石厨子)「第一洞穴」の西側にある丘陵中腹に「第二貝塚」があり、琉球石灰岩の巨岩上部とその周辺に形成された貝塚となっています。巨岩上部は沖縄先史時代中期の貝塚で、巨岩の南側傾斜地は前期の貝塚、北側の巨岩下は前期・中期・後期の遺物が混入する貝塚です。また、巨岩上部と北側の巨岩下からは佐賀県腰岳産の黒曜石の剥離片が3個発掘されました。これは約2500年前に石器を造る良質の材料を遠く佐賀県から取り入れた証拠となっています。「第二貝塚」の丘陵を更に上部に登ると洞穴があり、向かって右側には石積みの中に2基の石厨子が納められている風葬墓があります。沖縄における石厨子は第二尚氏第3代「尚真王」から第12代「尚益王」までの約200年間に集中して利用されていました。この「第二貝塚」の丘陵上部に安置されている石厨子は歴史の古い石棺であると考えられます。(高麗人墓/高麗神)(高麗人墓の墓門)(高麗神の祠)その昔、那覇市「壺屋」に朝鮮出身の陶工がいて度々「ヤンバル/山原」を往来しており、その際「仲泊」に数日宿泊するうちに集落の旧家「シチャグイ/下庫裡」の娘と相思の仲となりました。ある日、その陶工が「ヤンバル」からの帰りに「仲泊」で病死してしまいました。集落の人々は「仲泊遺跡」の崖に「高麗人墓」を設けて葬り「高麗神」として崇め、毎年「高麗神」の「シーミー/晴明祭」を行うようになりました。長い年月を経て「壺屋」在住の子孫が御骨迎えに「仲泊」に来ましたが集落の反対に遭ったと言われています。集落の旧家により行われていた「高麗神」の「シーミー」は明治30年頃から集落の一般住民に広がっていったと伝わります。現在も「高麗人墓」は「第二貝塚」の崖にあり、墓門の前にはウコール(香炉)が設置されて人々に拝されています。更に、この墓に隣接して「高麗神」を祀ったと考えられる小型の祠が鎮座しています。(第三貝塚/岩陰住居址)(第三貝塚/岩陰住居址)(第三貝塚の石畳道)「第二貝塚」の北側にある丘陵中腹に「第三貝塚/岩陰住居址」があります。岩陰の内部は沖縄先史時代後期の住居址で岩陰全面部は中期の貝塚で、発掘前の岩陰は風葬墓として利用されていました。この風葬墓には人骨・石厨子・厨子甕などが安置されており、それらを移動して調査した結果住居址が発見されました。この岩陰の奥部は地山を切り取って土面が平坦にされており、中央に炉跡があり全面部に住穴が並んでいました。発掘調査により岩陰の前面部に柱を立て壁を造り、炉を中心に生活していたと考えられるようになりました。更に住居址の一部と中期の貝塚の上部は石畳道を造る時に壊され、その下部は石畳道の下に現在も残されています。なお「第三貝塚/岩陰住居址」は国道58号線の拡張工事の際に取り壊されそうになりましたが、保存運動が起こり遺跡が保護される事になりました。(第四貝塚)(第四貝塚/石敷住居址)(第四貝塚)(第五貝塚)「第四貝塚」は「第一洞穴」の東側に隣接しており、巨岩の前面部に形成されています。沖縄先史時代の前期・中期・後期の遺跡が複合されており、後期の遺跡は2つの小岩陰に形成されたもので「第三貝塚/岩陰住居址」とほぼ同じであると考えられます。中期の貝塚は岩陰より北側で辺戸岬周辺に栄えた縄文遺跡の「宇佐浜式土器」や「カヤウチバンタ式土器」などが多く発掘されています。前期の遺跡はこの石敷住居址のある場所で、奄美系の前期土器を中心とする遺跡となっています。石敷の中に炉跡があり岩陰を利用した石敷住居址で、遺跡を囲う覆屋(おおいや)は当時の建物の復元ではなく石敷遺跡を保護するために設置されました。さらに「第四貝塚」の北東側広場には「第五貝塚」の塚があります。
2023.02.17
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(アガリヤーのカミヤー)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いに「仲泊/なかどまり集落」があります。この集落が琉球王府から「村」として認められるようになったのは歴史的に見て古いものではなく、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』から「仲泊集落」が「村」として見出されています。この古文献の「富着村」の神アサギでの稲穂大祭についての記述に「仲泊」の村名が見られ、さらに恩納間切の役人として「仲泊掟」の名称も記されています。「仲泊集落」の草分け的存在の創始家は「ミムートゥ/三元」と呼ばれる「アガリヤー・シチャグイ・ユランニー」の3つの旧家であると伝わっています。現在の「仲泊集落」の「仲泊区文化交流センター」の東側で県道6号線(おんなサンセット海道)沿いに旧家「アガリヤー」の「カミヤー/神屋」があります。(カミヤーの仏壇/向かって右側)(カミヤーの仏壇/向かって中央)(カミヤーのヒヌカン/向かって左側)「仲泊集落」での最上旧家とされているのが「アガリヤー/アガリ家」と言われています。この屋敷の背後には一本のデイゴの巨樹と多くのフクギがある「アシビナー/遊び庭」があり、この土地を中心に集落が広がって行ったと考えられています。「アガリヤー」は古島時代においても「メーヌウタキ」の前方に位置し、その当時も集落の要の家柄だったと伝わります。「仲泊集落」の「ニーチュ/根人」は「アガリヤー」から出ており、祭祀の神酒もこの家で造られていました。更にウスデークや盆踊りも「アガリヤー」から出発して「アシビナー」に向かいます。また、那覇「壺屋」の朝鮮人陶工が「仲泊」で病死した際、仲泊の人々は「仲泊遺跡」の崖に墓を設け「コーレージン/高麗神」として葬りました。かつて「アガリヤー」の庭にはこの「コーレージン」を崇める陶土の霊位を祀る祠があったと伝わります。更に集落の旗頭や太鼓も「アガリヤー」の家に保管されており、カミヤーの神棚には『和名大主の次男 泊大主』と『仲泊大親』の位牌が祀られています。(シチャグイ/下庫裡のカミヤー)(カミヤーの仏壇/向かって中央)(カミヤーのトゥクシン/向かって右側)(カミヤーのヒヌカン/向かって左側)「アガリヤー」から県道6号線を渡った東側に「シチャグイ/下庫裡」と呼ばれる旧家があります。「シチャグイ」は「アガリヤー」に次ぐ集落発祥に関わった家で「仲泊」の「ニーガン/根神」はこの「シチャグイ家」から出自していました。しかし、戦後になると「シチャグイ」が「仲泊集落」の最上旧家と言われるようになり、集落の旗頭や太鼓も「アガリヤー」から移され、ウスデークや盆踊りも「シチャグイ」の家から出発して「アガリヤー」を経由し「アシビナー」に到着するようになりました。更に戦後「シチャグイ」の家の庭に「カミヤー」が西側に向けて設けられ、現在も多くの参拝者が訪れます。「カミヤー」の仏壇にはウコール(香炉)が3基祀られており、向かって右側の「トゥクシン/床の神」には1基のウコールと掛け軸が設置されています。また、向かって左側の「ヒヌカン/火の神」には3体の霊石とウコール1基が祀られています。(ユランニー)(ユランニー家の石敢當)(ナカミチ/中道)(ナカミチの石敢當)「アガリヤー」と「アシビナー」の間に「仲泊集落」の第3の創始家である「ユランニー」の家があり、この家の西側の角には魔除けの「石敢當」が設置されています。隣接する「アシビナー」から南東側にある「仲泊公民館」に向けて、かつて集落の主要道路であった「ナカミチ/中道」が続いています。集落を二分したこの道の南部は「メーグミ/前組」北部は「クシグミ/後組」と言われており、更に「メーグミ」を「メンダカリ/前村渠」と呼び「クシグミ」を「クシンダカリ/後村渠」と呼んでいました。この「ナカミチ」を中心として「仲泊集落」は碁盤の目のように広がって行き、各家は屋敷の周りに防風林としてフクギ(福木)を植栽しました。そのフクギの木々が高く成長すると家々は見えなくなり、戦前までは集落がフクギに覆われていたと伝わっています。「ナカミチ」沿いには現在も石敢當と考えられる古い石柱が魔除けとして鎮座しています。(ウブガー/産井)(仲泊の一里塚/A)(仲泊の一里塚/B)(海岸保全区域 琉球政府の石柱)「仲泊郵便局」の東側に約50mの位置に「ウブガー/産井」と呼ばれる古井戸があり、戦前まで集落で子供が産まれた時に使う産水や旧正月の若水を汲んでいました。「メーヌウタキ/前ヌ御嶽」の西側には自然の丘を利用した「仲泊の一里塚/A・B」があります。琉球王府時代の主要道路(宿道)には一里(約4km)ごとに塚が設けられ、行き交う人々の目安となっていました。かつて「恩納村」の5箇所に一里塚がありましたが、現存しているのは「仲泊」と「真栄田」のみとなっています。また沖縄県内でも市町村内に2箇所の一里塚が残っているのは「恩納村」のみで貴重な文化財となっています。この「仲泊の一里塚」から西側の海岸線沿いには「海岸保全区域 琉球政府」と刻まれた石柱が建立されています。「琉球政府」は1952年から沖縄が日本に返還される1972年まで存在した統治機構で、この石柱は当時の歴史を知る上で貴重な資料となっています。
2023.02.10
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(メーヌウタキ/前ヌ御嶽)沖縄本島北部の西海岸最南端に「恩納村/おんなそん」があり、国道58号線沿いに「仲泊/なかどまり集落」があります。この集落は昔から「首里・那覇・名護・国頭」のほぼ中間地点にあたり、沖縄本島を行き交う旅人がこの土地で一泊したことから「仲泊」の地名が付いたと言われいます。琉球王府時代には近隣村の産物が「山原船/ヤンバルブニ」により那覇方面に運ばれる港として栄えました。「マーラン船」とも呼ばれるこの船は江戸時代から戦前まで琉球で荷物輸送に使われた2本マストの小型帆船で、主に沖縄本島北部の山原地域から薪や農林産物を那覇方面に運んだ事から「山原船」と称されました。更に1910年(明治43)に県道が「仲泊集落」まで開通すると、客馬車の起点と終点として多くの人々で賑わっていたと伝わります。(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の祠内部)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のニジリヌカミ/右の神)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽のフクギ林)(メーヌウタキ/前ヌ御嶽の石柱)「仲泊集落」は焼物に使われる良質な赤土(赤陶土)の産地で、昔は「山原船」で那覇の「壺屋」へ陶土が運ばれていました。集落では「シジヤマ」という山から掘り出した陶土を船がいつ来ても良いように港に積み上げており、その場所は「ンチャマジミモー/陶土眞積毛」又は「コージサーモー」と呼ばれていました。「仲泊」の海岸は水深が浅かったため陶土の積み込みに苦労したと言われており「イノー地」と呼ばれる約200mほど溝を掘り船が容易に通れるようにしました。「仲泊集落」の南西側に「メーヌウタキ/前ヌ御嶽」の祠があります。御嶽の祠内部にはウコール(香炉)が設置されており、この祠から見て右側には御嶽の土地神である「ニジリヌカミ/右の神」が祀られています。「メーヌウタキ」は高樹齢のフクギ林があり、木々の手前には「メーヌウタキ」の古い石柱が建立され、霊石と共にウコールが祀られています。現在の「仲泊集落」は「メーヌウタキ」がある場所から津波被害のため移動したと伝わり、この御嶽がある場所は集落の「フルジマ/古島」や「ムトゥジマ/元島」であった言われています。(アシビナー/遊び庭)(アシビナー/遊び庭の拝所)(アシビナー/遊び庭の拝所/祠内部)(アシビナー/遊び庭の拝所)「仲泊集落」の中央部に昔から集落の行事等で老若男女が集う「アシビナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。この広場には戦後に造られた「アシビナーの神」や「ヒヌカン」とも呼ばれる拝所の祠が建立されており、祠内部には石造りウコール1基と陶器製ウコール2基が設置され泡盛、水、シルカビ(白紙)に米が供えられています。かつて「フルジマ」で行われていた「タチウガン/立ち御願」がこの祠で行われており、戦前までは「アシビナー」の「ターチューギー/双子の木」の前で祈願が行われていたと言われています。この「アシビナー」では旧暦9月9日に「ウスデーク/臼太鼓」という女性だけで行われる、集落の五穀豊穣と住民の無病息災を祈願する円陣舞踊が催されます。その昔、臼を太鼓代わりに叩いていた事から「臼太鼓」と呼ばれるようになったと言われています。「仲泊集落」では数十人の女性がお揃いの紺地の着物に赤い鉢巻きを締め、高樹齢のガジュマルやフクギの下を手踊りの他にも扇子や四つ竹(竹製の打楽器)を持ちながら踊ります。(龍宮之神/陶土眞積毛)(龍宮之神の祠内部)(仲泊海岸/イノー地)「仲泊区文化交流センター」の北側約100mの位置の海岸沿いに「龍宮之神」の祠が「仲泊海岸」に向けて建立されています。祠に祀られている「龍宮神」は海の航海安全や豊漁を祈願する海の神で、祠の内部には「龍宮之神」と刻まれた石柱、石造りウコール、陶器製ウコール、花瓶、霊石が設置されています。集落の「シジヤマ」から掘り出した陶土を集積する「ンチャマジミモー/コージサーモー」はこの「龍宮之神」の祠付近にあったと言われています。戦前までこの位置には「陶土眞積毛」の石碑が建立されていましたが、戦後になるとその代わりに「龍宮之神」の祠が造られたと伝わっています。「仲泊海岸」は全長約600mに渡り自然浜が南北に続いており、ウミガメが産卵する美しい海岸として知られています。2020年6月3日には、ウミガメが産み落としたピンク色でピンポン玉の大きさほどの卵が124個確認されました。(クシヌウタキ/後ヌ御嶽)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽の祠内部)(クシヌウタキ/後ヌ御嶽のヒジャイガミ/左の神)「仲泊集落」の北側に「恩納村立仲泊小学校」があり、この敷地内に「クシヌウタキ/後ヌ御嶽」があります。2本の背の高いヤシの木に挟まれた祠内部にはウコールと霊石が祀られており、祠から見て左側には「ヒジャイガミ/左の神」が御嶽を守護しています。この御嶽は集落が「フルジマ」から現在の場所に移動してから造られたとされ「フルジマ」のものは「メーヌウタキ」で、移動後のものを「クシヌウタキ」と称するようになりました。「仲泊集落」在住の古老によると集落で認知症により徘徊で行方不明になる高齢者は、昔から2つの御嶽の間では必ず無事に保護されますが、御嶽に挟まれた地域外では残念ながら死体で発見されてきたそうです。集落の前後に御嶽があることによって「仲泊」の「ウスデーク」歌の一節では次のように謳われています。『仲泊島や だんじゅ とよまりる しり口や御嶽 中や親島』(親王森)(親王森の石碑)(黄金森と刻まれたウコール)(仲魂之塔)「クシヌウタキ」と「シーサイドドライブイン」の間に「親王森」と呼ばれる丘陵があります。この丘陵の頂には石碑が建立されており「黄金森」と刻まれた石造りウコールが祀られています。日本の皇族で軍人でもある「北白川宮能久親王/きたしらかわのみやよしひさしんのう(1847-1895)」が1895年(明治28)に日清戦争により日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征した際に「仲泊集落」に立ち寄り、この丘陵の森で休憩した事から「親王森」と言われるようになりました。この森の海側に隣接して「仲魂之塔」の石碑が建立されており、沖縄戦で犠牲になった戦没者46名の氏名が記載されています。この土地には戦前までは「フルジマ」から移設されていた集落の「ガンヤー/龕屋」という小屋があり、死者を収めた棺を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる輿を収納していました。
2023.02.03
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(浜崎御嶽/恩納グスク)沖縄本島北部の最南端で西海岸沿いに位置する「恩納村/おんなそん」に「恩納集落」があります。このムラは1531(嘉靖10)〜1623(天啓3)年に琉球王府により編纂された歌集である『おもろさうし』に「おんなやきしま」の語が度々見られ『おもろさうし第十七』は「恩納より上のおもろ御さうし」とされています。昔から「恩納集落」は琉球王国の中でも際立って関心が持たれた場所であると言われています。1673年に「読谷山間切」と「金武間切」の両地域から分割して新しく「恩納間切」が創設され、間切を統治する役所である「番所」もこの「恩納集落」に設置されました。さらに「恩納間切」を総領する役職である「親方惣地頭」も「恩納親方」と呼ばれていました。(恩納村多目的広場から見た恩納グスク)(恩納グスクの入り口)(浜崎御嶽の標識)(恩納グスクの頂上へ向かう山道)「万座毛」の近くにある「恩納村海浜公園ナビービーチ」から北側に約300mの場所に「恩納グスク」があり、丘陵の南側麓にグスクの入り口があります。『おもろさうし』が編纂される以前「恩納集落」には「赤平/アカヒラ血統」と「クーシー屋血統」の2つの古代部落が存在していました。この「恩納グスク」一帯は「赤平家」を中心とした血縁的集団が部落を形成し、部落の祖霊神である「恩納グスク」を拝所として生活を営んでいたと言われています。なお「恩納集落」の草分け的な創始家である「ニーチュ/根人」と「ニーガン/根神」はこの「赤平家」から出ています。この2つの古代部落が山間部から降り、現在「兼久」という地名なっている砂堆地で合併した土地が「恩納集落」の「古島」と呼ばれています。(浜崎御嶽の祠)(浜崎御嶽の祠内部)(平場にある霊石)(恩納グスクのアコウ)「恩納グスク」の南側頂上には平場があり「浜崎御嶽」の祠が建立されています。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『浜崎嶽 神名 ヨリアゲノイベナヌシ 恩納村』と記されており『毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、年浴之時、仙香・花米五合宛・神酒二宛百姓中供之。恩納巫ニテ祭祀也。』との記述があります。祠内部にはウコール(香炉)が設置されており霊石が祀られ、御賽銭が供えられていました。「恩納グスク」の頂上には岩丘があり、約20年前まで西側に接して高さ約80cmの石垣に囲まれた施設跡がありました。その背後には石門があり降って岩丘の裏側に通じた石畳道となっていたと伝わります。さらに、この岩丘裏の岩陰の土中から人骨片が発掘され、戦前まで周辺には大きな人骨甕が2つ隠されていたと言われています。(崎浜御嶽のイビの大岩)(崎浜御嶽のイビに祀られる霊石)(崎浜御嶽のイビ)(崎浜御嶽のイビを囲む野面積み)「浜崎御嶽」の祠が向いている方向の山中には「浜崎御嶽」のイビ(威部)である岩丘が聳えており、この御嶽が鎮座する「恩納グスク」は琉球石灰岩を基盤とする標高20〜25mの丘陵に形成されています。グスク時代に構築された「恩納グスク」の前面は西海岸に面しており、現在も城壁と平場が確認できます。城壁は主に野面積みで、城壁やその周辺からはグスク土器やカムイ焼、中国製の青磁や石器、さらに獣骨や貝殻などが発掘されています。グスクの城壁の石積み技法は「野面積み→布積み→相方積み」へと変化して行ったと考えられ、現在の「恩納村」で「相方積み」の城壁が確認されているのは「恩納グスク」のみで、グスク時代初期の歴史の古いグスクであると言えます。(恩納グスクの珊瑚岩)(隆起した珊瑚岩)(珊瑚岩の岩肌)(珊瑚岩の岩肌)「恩納グスク」の南東側に続く台地一帯に「城内之殿/グスクウチヌトゥン」があり、この土地には「赤平血統」の「マキョ」と呼ばれる古代部落が存在していました。『琉球国由来記』には『城内之殿 恩納村 稲穂祭之時、シロマシ一器・麦神酒二器百姓中、五水四合両惣地頭、供之。恩納巫ニテ祭祀也。』と記されています。ノロや根神である神女が集落の祭祀の際に歌う「ウムイ/オモイ」と呼ばれる神唄があります。恩納村で「ウムイ」が残っているのは「恩納集落」のみで「舟のウムイ・海のウムイ・山のウムイ・しらちなのウムイ」があります。その中の「海のウムイ」は次の通りとなっています。『海のおもい / 六月御祭 すくとい』"にれや うぇもの かれや うぇもの すぶくだら えーくだら うちみずる うちはだら いのなぎん ひしなぎん とさばにん やさばにん ちきてたぼり"
2023.01.27
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(国頭方西海道/山田谷川方面出入口)「国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)」は琉球王国時代に、琉球王府により築かれた古街道です。首里を拠点に浦添山を通り、沖縄本島北部の国頭方面に続く「宿道(すくみち)」と呼ばれる街道です。琉球王国時代に整備された主要道は宿道(すくみち)と呼ばれ、沖縄本島西側を通る「中頭方西海道」「国頭方西海道」と東側を通る「中頭方東海道」「国頭方東海道」の4つの街道があります。恩納村山田の国道58号線から「山田グスク」に向かう場所に「山田谷川方面出入口」があり、歴史の深い「国頭方西方海道」が今日も現存しています。(山田谷川方面出入口の井戸)(山田谷川方面出入口の古井戸)「国頭方西方海道」の「山田谷川方面出入口」に4つの井戸があります。屋根付きの3つの井戸は左から「東大井戸」「久良波大主の井戸」「大木の井戸」があります。これらの井戸は1975年に本部町で開催された「沖縄国際海洋博覧会」の際、国道58号線の新装工事を行った為にこの地に移転されました。中央の「久良波大主の井戸」と右側の「大木の井戸」にはウコール(香炉)が祀られており、3つの井戸にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この合祀された井戸の脇には、昔からこの場にあったと考えられる古井戸が現存しています。(山田谷川の石畳道)(山田谷川の石矼)(山田谷川の石矼と石畳道)「国頭方西方海道」の山道を南側に進むと「山田グスク」北側の崖下に「山田谷川(さくがわ)の石矼」があります。「山田村」を横断する「山田谷川」は別名「ヤーガー」とも呼ばれています。この石矼は「ヤーガー」に架かっており、琉球石灰岩の野面(のづら)積みの桁の支えに中央部がせり上がったアーチ型の石矼を施しています。アーチ型にする事により石矼の強度が増す工法で、琉球王国時代の石矼造りの技術の高さが分かります。現在の石矼はこれまでにアーチ部分の6枚の石が崩れ落ちていた為、1989年(平成元年)に現在の姿に修復されています。(ヤーガーの水浴場)(水浴場周辺の琉球石灰岩)(水浴場から石矼に通じる岩間の通路)「山田谷川の石矼」の東側に奥まった場所に、山手に通じる岩間の通路があります。この細い通路を抜けると「ヤーガーの水浴場」が佇んでいます。この地点では「ヤーガー」は鍾乳洞窟の奥地から流れ出ており、洞窟の入口には流れが緩やかな水浴場となっています。「山田村」の住民の隠れた聖地として昔から人々に親しまれてきました。現在「ヤーガーの水浴場」にはウコール(香炉)が設置され、水の神様を祀る拝所となっています。この鍾乳洞窟から湧き出す水は、琉球石灰岩の細い岩間を通り抜け「山田谷川の石矼」の下を流れて行きます。(山田谷川の石矼の南側にある標識)(国頭方西方海道)(クシヌカー/後川)「ヤーガーの水浴場」の地にまつわる次のような琉歌が残されています。『山田谷川に思蔵つれて浴みて 恋しかたらたる仲のあしゃぎ』(訳 : 愛しい人と共に山田谷川で水を浴びて 仲の館で恋を語り合いたいものだ) 「山田谷川の石矼」の南側から「国頭方西方海道」は「山田グスク」西側の麓を通って行きます。しばらく進むと左手に「クシヌカー(後川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井泉があります。「山田グスク」の丘陵から滲み出る水で「山田村」の貴重な水源として重宝されました。現在はウコール(香炉)が設置され、水の神様を崇める拝所となっています。(神アシャギ)(神アシャギの祠内部)「山田グスク」西側の麓に「神アシャギ」があり、祠内部には幾つもの霊石が祀られています。「神アサギ」とも呼ばれ、ノロ(祝女)が集落の祭祀を行う場所を言います。「山田ノロ」の管轄は「山田村」「久良波村」「冨着村」で、稲大祭のときに「山田ノロ」が「富着村」から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告を「山田グスク」「護佐丸先祖の墓」「殿内小」で御願(ウガン)をし、その後「神アシャギ」で村人の歓待を受けたと言われています。また、大正時代まではノロ、若ノロを含めて7人の「山田ノロ」が存在したと伝わっています。(山田グスクの石垣)(国頭方西方海道の石垣)かつて「山田グスク」の麓にあった「山田村」には「ノロ殿内(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチ)」と呼ばれる「山田ノロ」が暮らした住居がありました。その「ノロ殿内」は海に近い現在の恩納村山田に移動し、敷地内の「神屋(カミヤー)」と呼ばれる建物には「くらはぬるこもひ」と記された位牌があります。「山田ノロ」は「琉球国由来記(1713年)」には「山田巫」と記載されており、更に「山田ノロ」が「久良波村」と関わりがあった次の謡があります。『入るや入るや居しが出る人居らぬ 久良波ノンドンチ不審どころ』この他にも「久良波ノンドンチ」を「首里殿内」に言い換えた謡も残されています。(ウブガー/産川)(ウブガーの拝所)「山田グスク」の麓を通る「国頭方西方海道」は「山田村」を囲むように西側に続いて行きます。「山田村」の南側に「ウブガー(産川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井戸があります。この井戸に隣接して石造りの祠が建てられており、ウコール(香炉)が祀られ水の恵みに感謝する拝所となっています。村で子供が産まれた時に「ウブガー」の水をウブミジ(産水)に使用し、汲んだ井戸の水に中指を浸して、おでこを3回撫でる「ウビナディ」で赤ちゃんの健康を祈願しました。また、正月には若水を汲み茶を沸かして飲んで新年の無病息災を祈りました。(メーガー/前川)(現存する国頭方西方海道の出入口)(歴史の道/文部科学省の境界標識)「山田グスク」の南側に「メーガー(前川)」と呼ばれる井戸があり、グスク南側の「護佐丸父祖の墓」の丘陵から滲み出た水が「メーガー」から湧き出ていたと考えられます。この周辺ほ水が豊富で水田による農業が盛んに行われていました。「山田グスク」周辺に琉球王国時代から現存する「国頭方西方海道」は「山田谷川方面出入口」から「山田村」の南側まで残されており「歴史の道」として文部科学省の境界標識が幾つも設置されています。「護佐丸」や琉球王国時代の人々が利用していた悠久の宿道は、ロマンと歴史が溢れる古街道となっているのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2022.01.14
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(オシアゲ森/後ノ御嶽)沖縄本島中部の西海岸にある「恩納村」に「山田グスク」があり、このグスクは標高約90mの琉球石灰岩台地に築かれた平山城です。「山田グスク」が築城された年数は不明ですが、うるま市にある「伊波グスク」の城主である「伊覇按司」から分家した家系で「護佐丸」の父祖以来が居城したグスクだと伝わります。「山田グスク」は古琉球の「三山時代」には「中山」勢力圏の北端に位置しており「北山」勢力圏との境界にあった重要なグスクで、更に「護佐丸」の最初の居城であったと言われています。(久良波大主の墓)(山田按司長男 亀千代/山田按司御娘 真音金の墓)(オシアゲ森の麓にある拝所)「山田グスク」の東側に隣接する丘陵は「琉球国由来記」(1713年)に「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」と記されている御嶽の森となっています。この丘陵の中腹にある鍾乳洞に「久良波大主(くらはうふぬし)の墓」があります。「山田グスク」がある土地は「古読谷山」と呼ばれ「山田村」と「久良波村」の2つの村がありました。この墓は「久良波村」の「大主」と呼ばれる「按司」の次に身分が高い有力者が葬られた古墓です。「久良波大主の墓」の隣には「山田按司長男 亀千代」「山田按司御娘 真音金」が合祀された墓がありウコール(香炉)が祀られています。(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/左側)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/中央)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/右側)「久良波大主の墓」に隣接する崖は3つの鍾乳洞が口を開けており、それぞれが洞窟を利用した古琉球様式の古墓となっています。洞穴の入り口は岩や石で塞がれておりウコール(香炉)が祀られています。右側の鍾乳洞穴には「山田按司 門口大和之墓」と記されています。中央の鍾乳洞も左側の鍾乳洞も各々「山田按司」家系の墓である事が考えられます。「久良波村」の「大主」が「山田按司」の一族と同じ「オシアゲ森」の麓に葬られている理由は、昔から「山田村」と「久良波村」の繋がりが強く「久良波大主」も「山田按司」一族も同じ「今帰仁」にルーツがある事だと考えられます。(久良波大主の墓の標識がある分かれ道)(オシアゲ森の拝所)(オシアゲ森/後ノ御嶽)「久良波大主の墓」がある丘陵は「オシアゲ森」と呼ばれる御嶽の森で、昔から「古読谷山(山田)村」では神が住む聖地として崇められていました。「久良波大主の墓」の標識がある地点は森道が二股に分かれており、左に進むと「久良波大主の墓」があり、右に進むと「石川高原展望台」に向かう山道が続きます。この地点を右に進んだ直ぐ左側に「オシアゲ森」の頂上に続く獣道があります。丘陵を登り始めると拝所のウコール(香炉)が現れ、更に急峻の険道を進むと「オシアゲ森」の頂上に建立された「後ノ御嶽」の祠が姿を見せます。この祠は「今帰仁」に向けられて建てられており「古読谷山(山田)村」から遠く離れた根源の土地である「今帰仁」を崇めた御嶽だと考えられます。(後ノ御嶽の祠内部)(後ノ御嶽の水鉢)(オシアゲ森)「オシアゲ森」の御嶽が「後ノ御嶽」と名が付いた理由は「山田村」の東側に「山田グスク」が構えており、この御嶽の森は「山田グスク」から更に東側に位置します。その為「山田村」から見てグスクの後ろ側にある事から「後ノ御嶽」の名前が由来したと考えられます。祠内部には1基の鉄製ウコール、2基の陶器製ウコール、1基の石製ウコール、さらに3体の霊石が祀られています。「オシアゲ森」の頂上にある祠までの隘路は普段から人が立ち入る痕跡が確認されず、この「後ノ御嶽」の祠は「山田グスク」に関する文献やSNS等にも一切紹介されていません。その為、この「後ノ御嶽」を多くの人々に伝える事が、今回私が「後ノ御嶽」に"呼ばれた"意味だと認識しています。(遥拝嶽)(遥拝嶽の祠内部)(遥拝嶽の森)「山田村」の北側に「遥拝嶽」があり、森の頂に構える祠は「今帰仁」の方角に向けて建立されています。「後ノ御嶽」は「山田ノロ(神人)」のみが立ち入る事が出来た特別な拝所で「オシアゲ森」の頂上から「今帰仁」を拝む聖地でした。その為「山田村」の一般住民は「オシアゲ森」から西側に離れた森の「遥拝嶽」から「今帰仁」を祈っていたと考えられます。遥拝所は「お通し」または「うとうし」と呼ばれ、遠く離れた場所から神を祈る事が出来る拝所の事を言います。「山田村」があった場所に実際に立つと、目の前に「山田グスク」の丘陵、その後ろに「今帰仁」方向の海が見える「オシアゲ森」あり、一般の村人が「今帰仁」方向の海を臨む事が出来る一番の高台が「遥拝嶽」の森になっている事が良く分かります。(山田グスク中腹の護佐丸父祖の墓)(護佐丸父祖の墓)「山田グスク」の南側丘陵に「護佐丸父祖の墓」があり「山田グスク」城主であった護佐丸父祖一族の墓と言われています。琉球石灰岩洞穴を利用した古墓で、墓前には一族により建立された碑文の石碑があります。「護佐丸」を元祖とする琉球王国の士族である「毛氏豊見城」の子孫により建立された碑文には、墓の修復(1714年)や石碑の建立(1750年)などの内容が記されています。「護佐丸父祖の墓」には石造りのウコール(香炉)と花瓶が供えられ、現在でも「護佐丸」の子孫をはじめ多くの人々が拝みに訪れます。(護佐丸父祖の墓の碑文)(護佐丸父祖の墓の碑と鍾乳石灰岩)〈碑文の表側〉『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけまつる例となりぬ仍之石碑建之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 すふ裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之』〈碑文の裏側〉『此碑文康煕五十三年雖為建置年来久敷文字不詳依之此節建替仕也書調人毛氏山内親方盛方彫調人毛氏又吉里之子盛庸』(琉球石灰岩のアーチ)(護佐丸父祖一族の墓)(豊見城家伊野波門中の修築記念)「護佐丸父祖の墓」に向かって右側に「護佐丸父祖一族の墓」と思われる古墓があり、琉球石灰岩の表面には「一九五二年九月吉日 修築 豊見城家伊野波門中」と刻まれています。「豊見城家伊野波門中」は琉球王府の行政の最高責任者(三司官)を務めた「伊野波親方盛紀」(1619−1688年)を系祖とし、琉球王国の士族の末裔である「毛氏豊見城殿内」の門中の一つです。この「毛氏豊見城殿内」の始祖が「護佐丸」である事から、中城村の「中城グスク」から東側にある「台グスク(デーグスク)」の麓に「護佐丸の墓」が「毛氏豊見城家」により築かれています。(山田グスク周辺の森)古琉球の「三山時代」に中山との争いに敗れた北山の「今帰仁王子」が現在のうるま市伊波に逃れた後に勢力を拡大し「伊波グスク」を築城しました。その「伊覇按司(今帰仁王子)」と一族関係にあった先代「山田グスク」城主の「古読谷山(山田)按司」には後継ぎがいなかった為、兄弟であった「伊波グスク」3代目城主の次男である「護佐丸」が養子に迎えられ「古読谷山(山田)按司」の地位を継ぎました。「護佐丸」は1416年に「尚巴志」の北山討伐に参戦して北山を滅ぼした後に「山田グスク」から4キロほど西に離れた「座喜味グスク」を築城し居城しました。「座喜味グスク」を築く際には「山田グスク」の石垣を壊して人の手で運んだと伝わっています。「山田グスク」は恩納村に残るグスクの中で最も主要なグスクの1つとして国指定の遺跡文化財となっているのです。
2022.01.12
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(琉歌の里恩納の石碑/万座毛第二駐車場)沖縄本島北部西海岸にある「恩納村」に生まれた女流歌人「恩納ナビー」は18世紀初め頃、琉歌歌人として活躍した女性です。「恩納ナビー」が生きていた時代は琉球文化の黄金時代と呼ばれ文学、音楽、舞踊と一流の文化人が輩出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。「恩納村」の美しい自然の中「恩納ナビー」は自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したのです。(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー(恩納なべ)」が生まれたのは1660年頃だと推測され、自然の美しさに恵まれ神々、木、森の精たちと語らいながら成長したと伝えられています。万座毛第二駐車場に「恩納ナビーの歌碑」があります。「恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがさなたな」(恩納岳の彼方には 我が愛する人の故郷がある その山をも押しのけて 引き寄せたい)(恩納奈邊記念碑/表面/万座毛周辺活性化施設)(恩納奈邊記念碑/裏面/万座毛周辺活性化施設)「恩納ナビー」が万座毛に残した輝かしい琉歌の世界に沖縄の文化史を誇りとし「奈邊(ナビー)」の歌碑を御即位記念として、万座毛入り口に昭和3年11月10日に石碑が建立されました。現在は万座毛周辺活性化施設の新設に伴い施設内に移設されました。「恩納村」の人々は沖縄の三大女流歌人と言われる「恩納ナビー」の歌を愛し「恩納村」の誇りとして、後世に伝えるために「恩納奈邊記念碑」が建立されたのです。(恩納ナビーの歌碑/万座毛周辺活性化施設)(万座毛/沖縄県指定天然記念物)2020年10月にオープンした「万座毛周辺活性化施設」に「恩納ナビーの歌碑」があります。この歌碑は昭和3年の建立後に50周年を祈念して、昭和54年に新しく建立されました。1726(享保11)年に琉球王府「尚敬王」自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ各重臣臣下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に「恩納ナビー」が詠んだ歌です。「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」(波も風も穏やかになってほしい はるばる国王が万座毛に立ち寄られるのだから その顔は拝みたいものだ)(恩納ナビー生誕屋敷跡)(カンジャガー)「恩納集落」の西側にマッコウ屋(屋号)と言われる「恩納ナビー生誕屋敷跡」があります。「恩納ナビー」は兄1人に女1人として生まれました。屋敷は現在空き地になっていますが「恩納ナビー生誕の地」の石碑が建立されています。屋敷の東側に「恩納村」の指定文化財に登録される「カンジャガー」と呼ばれるウブガー(産井)の拝所があり、昔近くに鍛冶屋があったことが名前の由来となっています。産湯水や新生児の健康祈願(ミジナディ)の為に額につける水を汲む井戸で、正月1日に村人が井泉に感謝を込めて初御願に拝します。(神アサギ)(根神火神)「恩納集落」中央の恩納公民館の敷地内に「神アサギ」があります。この「神アサギ」は昔から現在地にあり、ノロ(祝女)により集落の神事を司る重要な建物です。昔から茅葺屋根は数年おきに集落の住民総出で葺き替え続けられています。また、公民館の敷地内東側に「根神火神」の拝所が祀られています。祠内には霊石が設置されており、集落の住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願う「火の神」として崇められています。(恩納番所跡の拝所)(拝所内部/向かって右側)(拝所内部/向かって左側)「恩納集落」の北側に「恩納番所跡」があり敷地内には拝所が建立されています。番所とは間切の役場の事を言います。恩納間切は1673年(尚貞5年)に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、この地に番所が置かれました。1853(嘉永6)年にはベリー一行も訪れ「恩納村」の美しさについて書き記しています。「恩納番所跡」は1882(明治15)年の恩納村における教育発祥の地でもあります。現在は拝所が設けられ火の神にウコール(香炉)と霊石が祀られています。(恩納松下の歌碑/表面)(恩納松下の歌碑/裏面)その昔「恩納番所」の近くに松の大樹があり、その下には村人への伝言用立て札が立てられていました。尚敬王時代(1713〜1751年)の冊封副使徐葆光(じょほうこう)一行が北部の名称巡りの途中「恩納番所」で一晩宿を取ることになりました。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び(もーあしびー)」や「しぬぐ」など盛んに行われており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人らしい発想から、風俗取り締まりの立て札が立てられたのです。(恩納松下の歌碑)その立て札を見た「恩納ナビー」はいささか皮肉を込めて次の歌を詠みました。「恩納松下に 禁止の碑の立ちゅし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」(恩納番所前の松の下に 禁止の立札があるが 恋をすることまで 禁止しているのではあるまい)番所前の松の木は、戦後まで豊かな枝振りで緑陰をつくっていましたが、1955(昭和30)年に松食い虫の被害により枯れてしまい切り株のみ残されています。現在の松の木は2代目の松の木で「恩納松下の歌碑」の脇に植えられています。(恩納ナビ伝/上間繁市著)上間繁市著の「恩納ナビ伝」によると「恩納ナビー」の没年は不明ですが「恩納ナビー生誕屋敷(マッコウ屋)」の隣の島袋屋(しまぶくや)の娘であった「伊波マツ」さん老女の話では「ナビ女の晩年は一人暮らしで、老いた身でおりおり海漁りをしていた」という言い伝えを幼少の頃に聞いていたそうです。「恩納ナビー」はかなりの歳まで生き永らえていたと推察されます。(デース/墓地帯)(恩納ナビーの墓)「恩納ナビー」を埋葬している墓は「恩納集落」の俗称「デース」と呼ばれる墓地帯で、海を前にした小高い雑木林の中にあります。1660年代の古い墓で集落で言う「模合墓」で、幾人かで組合を作り均一の金銭と労力を出し合い建造する墓を意味します。その組合員の親族のみを埋葬した「模合墓」に「恩納ナビー」が埋葬されています。上間繁市著の「恩納ナビ伝」には、この掘り込み式の墓と内部の骨壷の写真も掲載されており、現在はウコール(香炉)、湯呑み、花瓶が設置されており集落の住民により祈られています。(厳谷小波句碑/恩納ナビーの歌碑)(恩納ナビーの歌碑)「恩納ナビー」は田舎乙女として水呑み百姓の貧しい家庭に育ち、当時の封建社会の厳しい時代で庶民の自由を熱望する気持ちを人一倍持っていました。「恩納ナビー」は琉球王府の布令規則などに真正面から反抗することなく、平易な言葉で自分の気持ちを正直に表現しています。「恩納ナビー」には万葉の秀歌にも劣らない歌が18首あるとされており、その中には琉球古典音楽や舞踊で今日、なお厳然として受け継がれ生き続けているのは確かな事実なのです。
2021.10.05
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