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(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓)沖縄本島中部のうるま市に喜屋武と仲嶺が合併した「喜仲集落」があります。この集落の北西側で県道75号沿いに「シンカムイ」と呼ばれる深い森があり、森の中には琉球石灰岩が隆起した丘陵が佇んでいます。この丘陵の中腹には洞穴を利用した古い掘り込み墓が構えており、この墓には「喜屋武按司」と「イミナイビ」の墓が合祀されています。「ウミナイビ」とは貴族の姫を意味し、王女を指す言葉でもあります。この墓の場合は喜屋武按司の妻である事が推測出来ます。(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の標識)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓に向かって右側)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓に向かって左側)(シカンムイの森)(シカンムイの森)(シカンムイの森)墓の前方には「喜屋武按司之墓 平成元年4月吉日」と記されている石碑が建立されています。この墓に葬られる「喜屋武按司」は15世紀ごろに喜屋武グスクを築城した「安慶名大川按司一世」の四男、もしくはその長男の「喜屋武按司二世」であると考えられます。喜屋武グスク一帯で勢力を拡大していった「喜屋武按司」は首里王府軍に警戒されて滅ぼされ、喜屋武グスクは廃城となった歴史があります。その際に「喜屋武按司」の遺骨をグスクから運び出し、隣接する「高江洲集落」の「シカンムイ」に葬ったと推測されます。(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の石門)(喜屋武按司之墓の石碑)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の標柱)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の門石)(喜屋武按司の墓/ウミナイビの墓の霊石)(シカンムイの森)(シカンムイの森)(シカンムイの森)墓の前方には「喜屋武按司之墓 平成元年4月吉日」と記されている石碑が建立されています。この墓に葬られる「喜屋武按司」は15世紀ごろに喜屋武グスクを築城した「安慶名大川按司一世」の四男、もしくはその長男の「喜屋武按司二世」であると考えられます。喜屋武グスク一帯で勢力を拡大していった「喜屋武按司」は首里王府軍に警戒されて滅ぼされ、喜屋武グスクは廃城となった歴史があります。その際に「喜屋武按司一世」の遺骨をグスクから運び出し、隣接する「高江洲集落」の「シカンムイ」に葬ったと考えられています。また、喜屋武グスクが首里王府の火打峰や狼煙台として利用された事により「喜屋武按司二世」の遺骨を「シカンムイ」に祀ったとも推測されます。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.10.03
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(門たんかー歌碑)沖縄本島中部のうるま市に「川田/かわた集落」があり、南北に通る県道16号を中心に集落が広がっています。「川田集落」は北側に隣接する「大田集落」にもともと属していた「タサバル/田佐原」と「ユナバル/与那原」のヤードゥイやチンジュと呼ばれる小集落が1941年に分離して独立しました。「タサバル」にある「川田公民館」の南側に隣接した場所に「門(じょう)たんかーの歌碑」が建立されています。この民謡は「知名定繁/ちなていはん」の代表曲で「具志川小唄」とも呼ばれています。「知名定繁」は「川田集落」の生まれで「ネーネーズ」をプロデュースした「知名定男」の父親としても知られています。1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、作詞・作曲家としても活躍して名曲の数々は現在でも沖縄県内外で広く歌い継がれています。(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって右側)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって左側)(知名定繁顕彰碑)(知名定繁顕彰碑)(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑)『門たんかー 美ら二才小やしがよー 七門八門 越ちん 緑どう遊ぶ からじ小に一惚り 目眉小に一惚り 腰小に一惚り ちんとぅ三惚り サーびんた小やたらち まーかいめーがウマニよー 赤野原 喜屋武小 ヤッチー忍びいが 我んね門に立てぃてぃ チョンチョンとぅ雨に濡ち 開きてぃ入りる事 ならんばすい サー大田バンタ毛遊び 唄声小や田佐原ちる小 三絃小弾ちゅしぇ よーがりウサ小』(川田公民館)(慰霊碑)(慰霊碑の石碑)(慰霊碑のウコール)(字川田創立五十周年記念碑)「川田公民館」には沖縄戦戦没者の名前が刻まれた慰霊碑が祀られています。さらに「字川田創立五十周年記念碑」が建立されており、集落の歴史が刻まれています。この記念碑には、『昭和十六年四月一日字太田から分離、部落有志の発議により与那川原の川と田佐原の田をとって時の村長に具申 川田と命名された 平成三年(一九九一年)十一月吉日建立』と記されています。(川田印部石)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸のウコール)(タサバル/田佐原の拝井戸の階段)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガーの石碑)「川田公民館」に「川田印部石/かわたしるべいし」と呼ばれる石碑があります。印部石は首里王府が1735年から1750年にかけて行った検地(土地測量)の際に、図根点(基準点)として設置したもので「原石/はるいし」とも呼ばれています。印部石は首里王府の測量技術や当時の地名、土地情報等を読み取ることが出来る貴重な歴史資料です。元の設置場所は与那原バス停付近にあったと言われており、家を改築する際に屋敷内の石積みの中から発見され、現在の場所に移されたとの記録が残っています。印武石には「チ」と文字が刻まれていますが、その後に続く原名(ハルナー)は摩滅状態で読み取る事が出来ません。「タサバル」と「ユナバル」のチンジュには3つの拝井戸が残されており、現在も集落の人々が水への感謝を捧げるウガン(御願)を行っています。(川田劇場跡)(川田劇場跡)(川田集落の風景)「川田公民館」の南側に、かつて映画館として賑わった「川田劇場」の跡地があります。1951年2月以前に開館したと言われており、閉館の時期は不明ですが1953年3月の興行が確認されています。1951年2月15日の「うるま新報」によると、劇団「新生座」の巡回公演の日程が掲載されています。この日程には1951年4月11日〜4月17日に「川田劇場」で公演が行われる予告が記されています。1953年3月には東映「ひめゆりの塔」の上映記録もあります。(護岸の銃座/川田〜前原)(護岸の銃座/川田〜前原)(川田のマングローブ)集落南側に「護岸の銃座/川田〜前原」と呼ばれるライフルピットが構築されています。この銃座は1944年頃に日本軍第24師団歩兵隊89連隊山部隊によって構築されたものだと伝わっています。銃座は護岸のコンクリートの頂部を大型ハンマーなどで割って造られたもので、外側(海側)約20センチ、内側(陸側)約30センチのハの字状で、約10〜20メートル間隔で造られています。銃座の内側には人が1人入れる程の掩体壕(たこつぼ)も掘られていました。その掩体壕は川田集落から前原集落のシチャバル(下原)一帯の住民を動員して造られたと言われています。さらに、その後方には護岸と平行する形で敵戦車用の戦車壕(落とし穴)も住民を徴用して掘っていたとの記録もあります。沖縄戦では米軍が西海岸から上陸したため、この銃座からは結果的に一発の弾丸も撃たれませんでした。現在、この護岸にはマングローブ林が形成される憩いの場として整備されています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.02
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(ウフタビラ/大田坂)沖縄本島「うるま市/旧具志川」に「大田/ウフタ集落」があり、大田公民館の南側丘陵に急勾配のビラ(坂道)があります。この坂道は「ウフタビラ/大田坂」と呼ばれ!現在の「大田集落」と「川田集落」を結んでいます。「ウフタビラ」は今から約200年程前に「あかばんた掟/アカバンタウッチ・玉城親雲上/タマグスクペーチン・上門小ビニー/イージョウグヮービニー」の企画と設計で施行され、地元や近隣の住民の協力や集めた資材を用いて完成したと伝えられています。(ウフタビラの川田集落側入り口)(ウフタビラの階段)(ウフタビラの標識)(ウフタビラの階段)(ウフタバンタからの景色)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)「ウフタビラ」は幅が2〜3メートルで、南北全長約300メートルにおよび、琉球石灰岩を敷き詰めた石畳の道となっています。坂を登ると眺めの良い「ウフタバンタ/大田バンタ」があり、このバンタ(崖)の上から隣接する「川田集落」と製糖工場の「ゆがふ製糖」が眼下に広がり、その先には美しい「中城湾」が一望出来ます。また「具志川集落」に番所ががあった頃、首里王府から各間切への情報伝達に利用されていた事から、宿道として整備された歴史の道となっています。(ウフタビラの丘陵)(ウフタビラの亜熱帯植物)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの石畳)(ウフタビラの坂道)(ウフタビラの大田集落側入り口)(ウフタビラの大田集落側入り口)(ウフタビラの大田集落川入り口)(ウフタビラの案内標識)(ウフタビラの大田集落川入り口)その昔「大田集落」の区域内に属していた「タサバル/田佐原」と「ユナバル/与那原」にあった小集落ヤードゥイからは、集落の中心地区は「本部落」と呼ばれていました。1970年に発行された「具志川市誌」によると、1925年には大田本部落70戸、田佐原52戸、与那原48戸と記されており、本部落と比べてヤードゥイ集落の規模の方が大きくなっていました。そのため1941年にヤードゥイ集落は「川田集落」として分離して独立したのでした。「ウフタビラ」の北側にかつて集落の「アシビナー」があった場所が現在も残されています。さらに「大田公民館」の敷地内には沖縄戦の戦没者を祀る慰霊碑が建立されており、戦死者33名の芳名が刻まれています。(旧アシビナー/遊び庭)(大田集落の石敢當)(大田集落の石敢當)(慰霊碑の階段)(慰霊碑)(慰霊碑のウコール)(慰霊碑)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.19
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(ウフタガー/ウブガー)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「大田集落」があり方言で「ウフタ」と呼ばれています。「大田公民館」の東側に「ウフタガー/大田ガー」があり集落の「ウブガー/産井」として大切にされてきました。村で赤ちゃんが産まれると「ウフタガー」から汲んできた水に中指に浸し、赤ちゃんの額を3回撫でる清めの儀式である「ウビナディ」が行われ、この出産儀礼は「ミジナディ/水撫で」とも言われていました。また「ウフタガー」の水を沸かしたお湯は産湯として使われ、これらの儀式は赤ちゃんが健康に成長出来るように願いが込められていました。更に集落の拝み行事として旧暦正月2日の「アマンチュウガン/天美久御願」では無病息災を願い「ウフタガー」で祈願が行われていました。(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの平場)(ウフタガー/ウブガーの飲料水標識)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーのウコール)(ウフタガー/ウブガーの拝所)(ウフタガー/ウブガーのウコール)「大田集落」で葬式はチュヤックヮー(親戚)を中心に挙げられ、村総出で儀式を手伝ったと伝わっています。遺体を納めた棺を運ぶ「ガン/龕」は集落の青年達により担がれ、墓地へ向かう葬列は旗、天蓋、ガン、遺族、参列者と続きました。墓からの帰りは「ウフタガー」へ行き『ヤナムヌヤ ニレーカネーカイ ハリヨー』(悪いものは ニライカナイへ 行きなさい)と言いながら井戸の水を掬いこぼし「ゲーナ」と呼ばれる植物の先端を結んで作った覆いを潜って厄払いしました。「ウフタガー」の東側にかつて綱引きの際に使われた「チナヒキミチ/綱引き道」があり、1964年に大野顕氏により著された『大田のあゆみ』によると、明治後期まで盛んだった旧6月の綱引きは集落の「ナカミチ/中道」によって分けられた「アガリ/東」と「イリ/西」の区分で綱が引かれていたと伝わっています。(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガーの水路)(ウフタガー/ウブガーの洗い場)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(ウフタガー/ウブガー)(チナヒキミチ/綱引き道)(チナヒキミチ/綱引き道)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.10
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(エードゥンチの拝所)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」の県道10号線(伊計平良川線)を中心に「大田/おおた集落」が南北に分布しています。「大田集落」は1649年に作成された「絵図郷村帳」には『大川』の名で、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『大田』の名が記されている古村で、方言で「ウフタ」と呼ばれています。県道10号線沿いに「エードゥンチ」と呼ばれる拝所があり「太田親殿内」と「太田村火之神」の祠が建立されています。「琉球国由来記」には『殿 里主所 大田村 麦・稲穂祭之時、花米九合宛・五水二合宛・神酒一宛・筵一枚宛 地頭、穂・神酒一宛 百姓中、供之。上江洲巫ニテ祭祀也。且、祭毎ニ巫へ地頭、一度、食有賄也。』との記述があります。(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所の入り口)(太田親殿内)(太田親殿内の祠)(太田親殿内の祠内部)(太田親殿内の祠内部)(太田親殿内の石碑)(太田親殿内の祠/表)(太田親殿内の石碑/裏)「太田親殿内」の祠内部には石造りウコール1基、陶器製ウコール3個、霊石が数体祀られています。また「太田親殿内の石碑」の裏面には『太田村賛歌 世立初めたる 太田大主と 地組始めたる 高嶺之子が 風水組まさる 村つくりされて 太田産井泉の湧水を前成し 親殿内ぐしく鎮座ませ召しょち 太田村繁栄見守やれいめむ 詠 大野顕』と刻まれています。(太田村火之神)(太田村火之神の祠)(太田村火之神の祠内部)(太田村火之神の祠内部)(太田村火之神の石碑)(太田村火之神の石碑/表)(太田村火之神/裏)「太田村火之神」の祠内部にはヒヌカンの霊石3体と陶器製ウコールが1個祀られています。さらに「太田村火之神の石碑」の裏面には『太田村火之神は村の守護神で村の安全平和と繁栄の祈願および祭祀や公共行事の無事成就を祈願するときは、先ず村火之神に御願して天地の神々に仲介の取次をして頂き、神々の御加護を賜りますように信仰尊崇されています』と記されています。(エードゥンチの拝所の門柱)(エードゥンチの拝所の門柱)(エードゥンチの拝所)(エードゥンチの拝所)(カンジェークビラ)(カンジェークビラのワイトゥイ)(ウシクルシモーの亀甲墓)(カンジェークビラとエードゥンチ)旧暦正月2日の「アマンチュウガン/天美久御願」は無病息災を願い、集落の「大田公民館」の南側にある「大田バンタ」の丘陵から「浜比嘉島」に向かって祈願をして、集落の「カミヤー/神屋」である「エードゥンチ/親殿内」を拝みます。旧暦2月と11月2日は「シマクー」と呼ばれる行事が行われ、集落の入り口4箇所にしめ縄を張り、牛や豚の肉や血をつけた小枝を吊るして無病息災を祈願しました。「エードゥンチ」の拝所の北側にある「カンジュークビラ」を登った先にある「ウシクルシモー」と云う森で牛や豚を殺して、その肉や血を「シマクー」の行事に利用したと伝わっています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.08.06
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(クーグスクの拝所)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の東海岸沿いにある「具志川火力発電所」に隣接した場所に「クーグスク」が構えています。「ガンジバル/岩地原」と呼ばれる地域にある「クーグスク」は金武湾に舌状に突出した標高約16メートルの岩山で、標高4〜5メートルの砂丘で連結されています。この砂丘上には弥生式土器と鉄斧を出土した「宇堅貝塚群/岩地原B地点」が立地しています。「クーグスク」は碗を伏せたような景観をしており、その頂上部の形状は幅6メートル、長さ28メートル程の長楕円状を呈しています。表面調査の結果では石垣遺構などは確認されておらず、グスクの三方は海に囲まれ北西側一方のみ砂丘を通じて陸と繋がっています。「クーグスク」の北側には拝所があり石碑とウコールが祀られていますが、このグスクは地元の人々の間でもよく知られていない謎に包まれた岩山となっています。(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所に設置されたウコール)(ウコールと賽銭)(クーグスクの拝所に祀られた石碑)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの拝所)(クーグスクの浜の入り口)(クーグスクの浜)(具志川火力発電所のパイプライン)(具志川火力発電所のパイプライン)(パイプラインとクーグスク)「宇堅貝塚群」は勝連半島北側の付け根にある「宇堅集落」の海岸線(岩地原・荒吹原・目長原)約2キロの範囲に分布する弥生〜平安時代(約2000年前)の貝塚遺跡です。「クーグスク」がある「岩地原」は更にA・B・C地点に分かれています。「宇堅貝塚群」からは沖縄で作られた土器の他にも九州で作られた「弥生土器」や鉄斧、装飾品として使ったガラス小玉等が出土しており、海を超えて九州の人々と交流していた事が分かっています。特に鉄斧や銅製漢式三角鏃は沖縄での出土は珍しく貴重な発掘となっています。昭和54年(1979)には土地改良事業に伴い移籍範囲確認調査が行われ、平成元年(1989)から翌年にかけては「具志川火力発電所」の建設に伴う発掘調査が実施されました。(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスクの浜の岩とパイプライン)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原の断層)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(クーグスク/宇堅貝塚群岩地原)(具志川火力発電所の煙突)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.30
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(天願太郎治の馬クンジー石)沖縄本島中部の「うるま市/旧具志川市」に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の北東側に「天願太郎治の馬クンジー石」と呼ばれる岩があります。弓の名手として知られる「天願太郎治/ティングヮンたろうじ」は「天願グスク」の城主であった「後天願按司」の子息として誕生し、幼少期には「尚巴志/しょうはし」に仕えた武将の「護佐丸/ごさまる」により養育されました。「天願太郎治のクンジー石」は保存状態が良く、琉球石灰岩の岩には馬を繋いだとされる穴が現在も残されています。「天願集落」の東側にある米軍海兵隊基地「キャンプコートニー」の敷地内に「リーカムイ」と呼ばれる「霊化森グスク」があります。「天願太郎治」はこのグスクに居住したと言われており、森の中腹にはガマ(洞窟)があります。ガマの内部には左側にヒヌカン(火の神)、右側にはビジュル(霊石)が鎮座し、戦前まで旧暦9月には「ビジュル拝み」が行われていたと伝わっています。(天願太郎治の馬クンジー石の標識)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石のウコール)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願太郎治の馬クンジー石に空いた穴)(天願太郎治の馬クンジー石)(天願集落のフクギ)(霊化森グスク/リーカムイ)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.09
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(泉川泉/東り泉)沖縄本島中部「うるま市/旧具志川市」の金武湾に面した位置に「天願/てんがん集落」があります。天願公民館の東側に「泉川泉/イジュンジャーイジュン」と「東り泉/アガリイジュン」の2つの井泉が合祀された拝泉があります。向かって左側の「泉川泉」の泉名は姓「久保玉栄氏/屋号泉川」の屋敷の前に泉があった事に由来します。また「泉川泉」は「生ぶ川/ウブガー」とも呼ばれています。「泉川泉」に向かって右側には「東り泉」が合祀されており、別名「天願東泉/ティンガンアガリガー」や「村泉/ムラガー」とも呼ばれています。「東り泉」は「泉川泉」が枯渇後に天願川沿いに新設され大正末期まで村人に使用されていましたが、昭和58年の天願川河川改修工事の為に現在地に移設されました。(泉川泉/東り泉の標識)(泉川泉/生ぶ川の祠内部)(泉川泉のウコール)(東り泉/天願東泉/村泉の祠内部)(東り泉のウコール)「泉川泉/東り泉」の合祀拝泉の敷地内に「泉川泉/イズンザーイズン」と彫られた石碑が建立されています。この石碑は「天願老人クラブ清流会」により創立20周年記念事業として建てられ、向かって右側には『「汝よ此所は水が湧く」と示された先人たちは大きな授かりものとして凡そ四七〇年前に泉川泉を創設し地域の飲料水として広く利用されまた生ぶ川として高度の利用価値を示された泉として邑人達に尊厳され今尚其の遺風と伝来は区内外からも崇拝される等地域の方々が認めているところである。昭和六一年十月十四日建立』と記された石碑があります。また、この石碑には次のような詠が読まれています。『泉川の水や 滝山からか湧つら 生ふ水や邑に 繁栄むたち』(泉川泉の石碑)(泉川泉の石碑)(泉川泉の祠)(東り泉の祠)(泉川泉/東り泉の合祀拝泉)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.07.02
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(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)沖縄本島中部にある「うるま市/旧具志川市」のほぼ中央に位置する「天願/てんがん集落」があります。天願交差点の南側に「旧天願橋」が残されており、通称「ターチー橋」や「めがね橋」と呼ばれていました。1934年に建設されたコンクリート造りのモダンな二重橋で、建築当時はその美しさから周囲の情景が南沖縄八景にも選定され、サトウキビや生活物資を運搬する生活に欠かせない橋として重宝されていました。1945年3月下旬にアメリカ軍の沖縄本島への上陸が迫ると日本軍はアメリカ軍の本島北部への侵攻を遅らせる目的で橋を爆破しましたが、橋は真ん中から割れくの字型に折れ曲がり完全な破壊に至りませんでした。到着したアメリカ軍は折れた橋の上にブルドーザーで土を盛り込み、難なく橋を渡り本島北部へ侵攻を進めました。(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋の標識)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)(爆破で割れた橋の中央部)(旧天願橋/ターチー橋/めがね橋)「旧天願橋」の北側にある天眼交差点の東側に隣接した場所に小高い丘陵の森があり、この森の中に「天願ノロ」を祀った「祝女殿内/ヌンドゥンチ」の祠が建立されています。因みに「天願ノロ」は集落草分け旧家のニーヤー(ムートゥヤー)である「平良家/屋号ニガミ」から出ていました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『コシ森 神名 ワラヒ御イベ 天願村 天願巫火神 同村 右二箇所、天願巫タカベ所』と記されています。また同じく「天願ノロ」が祭祀を行う拝所として『コシモリ嶽ノ殿 天願村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水二合宛 地頭、穂・シロマシ・神酒二宛・筵一枚宛 百姓中、供之。天願巫ニテ祭祀也。且、祭之前晩、又、祭日、祭終テ、巫・居神・根神・掟ノアム・根人へ於里主所ニ、地頭、昼食有賄也。』との記述があります。(祝女殿内/ヌンドゥンチ)(祝女殿内/ヌンドゥンチの標識)(祝女殿内/ヌンドゥンチの祠内部)(祝女殿内/ヌンドゥンチの祠)(御先巫のウコール)(祝女殿内/ヌンドゥンチのウコール)「祝女殿内/ヌンドゥンチ」の東側で県道224号(具志川環状線)沿いに広がる米軍海兵隊基地「キャンプコートニー」の敷地内に「天願グスク」と「天願貝塚」があります。「天願グスク」は標高35メートルの琉球石灰岩丘上に位置する事から「土城/チチグシク」とも呼ばれています。「安慶名グスク」を拠点として中部一帯で一大勢力を誇った「安慶名大川按司一世」の子息により「具志川グスク」や「喜屋武グスク」などと共に築城と改築されたグスクで、城主は「後天願按司」を名乗りました。また「天願貝塚」は沖縄貝塚時代前期(紀元前2000-800年)の貝塚で1904年に人類学者の「鳥居龍蔵」により発見されました。現在も米軍基地内にあるという経緯から「天願グスク」も「天願貝塚」も詳しい発掘調査は行われていません。(天願グスク/天願貝塚)(土城/チチグシク・天願グスクの標識)(天願貝塚の標識)(天願川に架かる現在の天願橋)(現在の天願橋)(現在の天願橋からの見た天願川の風景)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.28
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(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)沖縄本島中部「うるま市」の勝連半島から東に約3キロの場所に「浜比嘉島/はまひがじま」が位置しています。島西部の「浜/はま」と東部の「比嘉/ひが」の2つの大字で構成されており「浜集落」に赤瓦屋根の「ヌン殿内/ヌンドゥンチ」が建てられています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『浜巫火神 浜村 麦・稲四祭三日崇之時、花米五合宛・五水二合宛 百姓中、供之。浜巫ニテ祭祀也。』と記されています。また「琉球国由来記」には「浜ノロ」が祭祀を行う拝所として『殿 浜里主所 浜村 麦・稲四祭之時、五水二合宛・神酒一宛 浜之大屋子、五水二合宛・神酒二宛 百姓中。芋、供之。浜巫ニテ祭祀也。』との記述があります。「ヌン殿内」の周囲には現在も相方詰み(亀甲乱積み)の石垣や、フクギ並木で囲まれた古民家が建ち並ぶ古集落の風景が残されています。(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内の標識)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの浜巫火神/ノロヒヌカン)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの位牌)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの位牌)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの小窓)(ヌン殿内/ヌンドゥンチの赤瓦屋根)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(ヌン殿内/ヌンドゥンチ)(浜集落の風景)(浜集落の石垣とフクギ並木)(浜集落の石垣)(浜集落の古民家にある甕)(浜集落の風景)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.06.22
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(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿)沖縄本島中部の「うるま市」に「宇堅/うけん集落」があります。この集落の西側に「クバウ御嶽」があり1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『コバウノ嶽 神名 マネヅカノ御イベ 宇堅村』と記され、更に『クバウ嶽ノ殿 宇堅村 麦・稲四祭之時、穂・シロマシ・花米九合宛・五水二合宛・神酒一宛 宇堅大屋子。同大祭之時、肴一器 魚。百姓中 供之。田場巫ニテ祭祀也。祭終テ、巫・夫廻神・根神・掟ノアム・根人へ同大屋子、昼食有賄也』との記述があります。「クバウ御嶽」の北東側に「シリガー」があり、現在は芭蕉/バナナ栽培等の農業用水として利用されています。また御嶽の西側で天願川沿いの土手にある「ウキンガー」からは現在も水が湧き出ています。御嶽の南東側には「アシビナー」があり、隣接する川辺にはかつて「宇堅村」を管轄していた「田場ノロ」が祭祀の際に舟に乗って集落を訪れた「ヌールワタイ」の跡が残されています。(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の鳥居)(クバウ御嶽の鳥居傍にある石碑)(宇堅村クバウ嶽之殿と記された石碑)(クバウ御嶽/コバウノ嶽/クバウ嶽ノ殿の手水鉢)(シリガー)(シリガーの湧水)(シリガーのウコール)(シリガー傍の芭蕉畑)(ウキンガー/向かって右側)(ウキンガー/向かって右側のウコール)(ウキンガー/向かって左側)(ウキンガー/向かって左側のウコール)(ウキンガー/向かって左側の湧水)(アシビナー)(ヌールワタイ)(天願川)YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.04.20
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(アクナ浜)沖縄県中部のうるま市に「宮城島(みやぎじま)」と呼ばれる車で行ける離島があります。この島は「平安座島(ハナリ)」と「伊計島(イチハナリ)」に挟まれており「高離島(タカハナリ)」とも呼ばれています。また、地元では「ミヤグスクジマ」とも言われています。「宮城島」の東側の崖下に「アクナ浜」と呼ばれる天然の浜があり、2022年4月から放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られており、ドラマでは物語の重要な場面で登場する「シークワーサーの木」がある場所として有名になりました。この「シークワーサーの木」は撮影用に植樹されましたが、周辺のソテツの木、琉球石灰岩、亜熱帯植物は原風景のまま使われました。(シークワーサーの木の場所)(シークワーサーの木から右に進む道)(シークワーサーの木から左に進む道)「ちむどんどん」の第3話ではこの場所で「比嘉暢子」が必死に飛び跳ねてシークワーサーの実を取ろうとするシーンが特徴的です。そして「シークワーサーの木」から右に進む道は、東京から来た「青柳和彦」の父親である「青柳史彦」に「暢子」が始めて作った沖縄そばを食べに来るように誘う場面でも使われ「史彦」がこの道を進んで行くシーンがあります。更に「シークワーサーの木」から左に進む道は、第10話で「ねえ、手繋いで帰ろう」と「和彦」が「暢子」に手を繋がれて恥ずかしがり走り抜ける道です。撮影用に植えられた「シークワーサーの木」は現在は存在していなく、緑豊かな雑草でこんもり覆われています。(シークワーサーの木の場所)(暢子が男子生徒に馬鹿にされる場所)(暢子が荷物を置き忘れた小岩)「ちむどんどん」第5話でもこの「アクナ浜」が登場します。「シークワーサーの木」の左側をバックに「暢子」が学校の男子生徒2人に「おてんばは結婚できないってよ!おてんば暢子〜!」と馬鹿にされる場所でも有名です。その直後「暢子」は初めて自分でシークワーサーの木の枝から実を取る事が出来て「お父ちゃ〜ん!自分で取れたよ〜!」と海に向かって叫ぶ場面も印象に残るシーンです。そして「暢子」は嬉しさと共に急いで学校に行こうと走り出すのですが、自分の荷物を忘れた事に気付き戻って来ます。その時に「暢子」の青い荷物が置かれていた小岩は今でもこの場所に現存しています。(4兄妹が走ってくる道)(シークワーサーの木の場所)(4兄妹が走り抜ける道)「ちむどんどん」第5話では父親の「比嘉賢三」が倒れてた知らせを聞き、4兄妹が学校から家まで懸命に走り抜けるシーンで使われた道があります。「シークワーサーの木」を通り過ぎる時に長女の「良子」が足が遅い三女の「歌子」に「歌子、早く!」と叫んでいます。ドラマではドローンにより空撮されていましたが、画像は必死に走る4兄妹の目線に映っていた風景です。ドラマの舞台は沖縄本島北部のヤンバル(山原)ですが、沖縄本島中部うるま市の離島にも「アクナ浜」のような大自然が、今でも残っている事は美しい沖縄を象徴しています。それまで「アクナ浜」は地元住民のみが知る浜でした。しかし今回ドラマのロケ地に採用された事は非常に素晴らしい事で、魅力的な沖縄の美しい原風景が残っている証拠です。(シークワーサーの木の下の岩)(岩に置かれた4つの貝殻)(アクナ浜)「ちむどんどん」のドラマで最も重要な場面の一つである「シークワーサーの木」の下には一際目立つ琉球石灰岩があり、ドラマでもその岩を確認する事が出来ます。現在、この岩塊は生い茂る雑草の中に埋もれていますが、岩の上に4つの貝殻が置かれているのを偶然発見しました。ドラマの「比嘉家」は長男「賢秀」長女「良子」次女でヒロインの「暢子」三女「歌子」の4兄妹です。この4つの貝殻はドラマの4兄妹と何か関連があるのでしょうか?真相は分かりませんが、偶然すぎる4つの貝殻の存在に今後のドラマの進展が楽しみになります。現在「ちむどんどん」は第10話が終了したばかりで、今後もこの「アクナ浜」の「シークワーサーの木」が要所で登場する事が予想されて楽しみです。
2022.04.24
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(クーガー/古河)沖縄本島中部のうるま市に「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。うるま市は平成17年(2005年)4月1日に具志川市・石川市・勝連町・与那城町が合併して生まれた市で「東恩納集落」は石川市にありました。この集落の中央部に「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」があり、御嶽の祠に隣接して「クーガー(古河)」という井泉があります。この名称から「東恩納集落」で最も古いカー(井泉)であると考えられ「クーガー(古河)」は「ウブガー(産河)」とも呼ばれています。集落で子供が産まれた際にこの井戸の水を汲みウブミジ(産水)として利用していました。更にウブミジを赤ちゃんの額に三度撫でる「ウビナディ」という儀式で健康祈願をしていました。(クーガー/古河)(クーガー/古河のウコール)「クーガー(古河)」は井戸を中心に5段に渡り円形に石が積まれ、高度な石積み技術により現在も美しい姿が健在しています。井戸の東側に入り口の石門が設けられ、西側の石積み3段目にウコール(香炉)が祀られています。集落の生活に欠かす事が出来ない水の恵みに、住民は線香を備えて拝していました。水の神様を崇める聖地として現在も「カーウガン」で祈られ大切にされています。琉球国由来記(1713年)にも記されている「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」に隣接している聖域として「クーガー(古河)」は生活用水や産水に限られた井泉であり、野菜洗いや洗濯に利用する事は禁じられていたと考えられます。(東恩納ヌール墓の丘陵)(東恩納ヌール墓の石碑)(東恩納ヌール墓)「クーガー(古河)」の北東側にある森の丘陵中腹に「東恩納ヌール墓」と呼ばれる歴代の「東恩納ノロ(祝女)」の遺骨が納められた古墓があります。1957(昭和32)年に米軍海兵隊「ナイキ・ハーキュリーズ」ミサイル基地の設置の為、西側にある「青木原(あおきばる)」の土地に墓が移設される際に12基の石棺と12基の厨子甕が確認されました。その後、1989(平成元)年頃にノロの遺骨は現在の元の墓に戻されました。丘陵中腹の自然洞窟を利用したノロ墓は入り口を石積みで塞がれ、門石の前にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。東恩納ノロは「東恩納集落」と西側に隣接する「楚南集落」の2つのシマを管轄した由緒あるノロとして、両集落の祭祀を纏めて司っていました。(シチャヌカーの森)(シチャヌカー)「東恩納ヌール墓」の南側で「高原ゴルフクラブ」のクラブハウスの東側に「シチャヌカー」があります。このゴルフコース北側で、4番ホール脇の崖下に深い森があり「シチャヌカー」があり沖縄の言葉で「下の井戸」を意味します。「高原ゴルフクラブ」のスタッフが「シチャヌカー」まで車で案内してくれたお陰で訪れる事が出来て非常に感謝しています。現在も湧き出る「シチャヌカー」の豊富な水は周辺の農業用水として利用され、昔から部落の人々の生活を支えてきました。飲料用水の他にも収穫した野菜を洗ったり、馬や牛に水を与えたり、農業用具を洗ったりする為に重宝したと考えられます。(ハチジャーの水源)(ハチジャーの溜池)(ハチジャーの水)「東恩納集落」の西側に「東恩納青木原」と呼ばれる土地があり、その更に西側の森に「ハチジャー」と呼ばれる井泉があります。比較的規模の大きな井泉で崖下の岩間から湧き出る豊潤な水は溜池に貯められ、溢れ出る水は西側に続く水路を流れてゆきます。「ハチジャー」周辺は田芋やクレソンを栽培する広大な畑が広がり、井戸の水の恵みが豊かな土壌と作物の豊穣を生み出しています。周囲の森には古い墓群があり、昔から風葬が行われる神聖な場所として崇められていたと考えられます。同時に収穫した野菜や農具を洗ったり、馬や牛の水浴び場としても利用されていたと推測されます。(シカガン/世界河の祠)(シカガン/世界河の井戸)(シカガン/世界河の祠内部)「ハチジャー」の北東側にはかつて「東恩納闘牛場」があり大勢の観客を集めて賑わいました。この闘牛場の南側にある森の麓に「シカガン」と呼ばれる井戸があり、漢字で「世界河」と表記します。隣接する森の丘陵から滲み出た水が湧き出ており、井戸は現在も枯れる事なく水が溜まっています。井戸には祠が建てられていて内部には石造りウコール(香炉)が祀られています。井戸の水に感謝する住民が現在でもヒラウコー(沖縄線香)やお賽銭をお供えして拝しています。この井戸の敷地が広いため、かつては飲料用水の他にも水浴びや衣類の洗濯にも利用されていた井戸であったと考えられます。(クーガー/古河のモクマオウ)(知事校舎跡のフクギ並木)「東恩納集落」のある旧石川市地区では「みどりと水に包まれた彩りとふれあいのまち」をモットーにしており、樹木の保護と植樹活動が積極的に行われています。「クーガー/古河」の「モクマオウ」の原産地はオーストラリアで、東南アジアから太平洋諸島に広く分布している樹木です。昔、防風林や防潮林として自生していなかった沖縄に入り、その後に野生化したと言われています。また、かつて東恩納公民館の向かいには沖縄県知事の迎賓館として利用された「旧知事校舎跡」があり、この敷地に現在も自生する美しい「フクギ並木」も保護樹木の対象として「東恩納集落」の景観と共に大切に守られているのです。
2022.04.18
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(イーヌ御嶽/ヨセ森)沖縄本島中部のうるま市北部(旧石川市)の東海岸沿いに「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。この集落は沖縄貝塚時代前期〜中期(縄文時代後期)の遺跡があるほど歴史が古く「大山式・室川式・室川上層式・カヤウチバンダ式・宇佐浜式土器・グスク土器」が出土され「石器・貝製品・骨製品」も発見されています。「東恩納集落」の4箇所に御嶽があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」「雲古嶽(クモコウタキ)」が記されています。「東恩納集落」の北側には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の丘陵があり拝所の祠が設けられています。(ヨセ森/イーヌ御嶽の祠内部)(ヨセ森/イーヌ御嶽のイビ)(ヨセ森/イーヌ御嶽のガジュマル)丘陵の麓にある「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の祠内部にはウコール(高炉)が祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この祠は御嶽の遥拝所としての役割があり、森に鎮座する巨岩に向けて建立されています。この巨岩こそが御嶽の「イビ」であると考えられ、神が宿る聖域として崇められています。「イビ」とは「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要かつ神聖な場所を意味しています。また「ヨセ森(イーヌ御嶽)」は「琉球国由来記(1713年)」に神名「イシノ御イベ」と記されています。ちなみに「イシノ御イベ」とは霊石を守護神とする沖縄における「霊石信仰」の事を意味しています。(嵩城嶽/チチグシクウタキ)(御嶽の祠内部)「東恩納集落」の中央部で、県道255号(石川池原線)と県道75号(沖縄石川線)の交差点に「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」があります。かつてこの地には「嵩城(チチグシク)」と呼ばれるグスク(城)があったと考えられ、この地に祀られたイビ(霊石)に神が宿るとして、住民の祈りの対象となったと思われます。「琉球国由来記(1713年)」には「嵩城嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には御嶽のイビ(霊石)が鎮座しています。この御嶽も「ヨセ森(イーヌ御嶽)」同様に「東恩納ノロ(祝女)」により祭祀が執り行われていました。かつて「東恩納ノロ」は「美里間切」に属する「東恩納集落」と、西側に隣接する「楚南(そなん)集落」の2つのムラ(集落)を管轄していました。(金謝敷嶽/カンジャシチウタキ)(アガリ/東恩納之殿)(金謝敷嶽/カンジャシチウタキのシーサー)東恩納公民館の南側に「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の社があり、この御嶽も「琉球国由来記(1713年)」に「カンジャシチ嶽/神名:イシノ御イベ」と記載されています。「琉球史辞典(1993年)」には「威部(イベ)は沖縄の御嶽の中で最も重要な部分、イベは神のよりまし、つきしろで、所謂神を斎くところである」と記述されています。「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の隣には「アガリ」と呼ばれる「東恩納之殿」の社があります。「殿(トゥン)」とは集落の住民による年中行事が執り行われる集落の中心的な場所であり、現在でも「清明祭」「旧暦五月六月ウマチー」「十五夜ウスデーク」「清明祭」「旧盆」「獅子舞」「カー拝み」「旧正月」などで拝されています。(雲古嶽/クモコウタキ)(雲古嶽/クモコウタキの祠内部)(雲古嶽/クモコウタキ)東恩納公民館の北側敷地内の斜面に「雲古嶽(クモコウタキ)」の森があり、丘陵の中腹に祠が建立されています。琉球国由来記(1713年)には「クモコ嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には霊石3体とウコール(高炉)が1基祀られています。沖縄において「3」には深い意味が込められており、沖縄を創造した「天・地・海」または「今が世・中が世・御先世」の3つの世を示しています。この3つの要素を3つの霊石に宿らせた「ビジュル」が沖縄に於ける「霊石信仰」の原理となっているのです。「ビジュル」とは豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる「霊石信仰」の対象で、16羅漢の一つの「賓頭盧(びんずる)」から由来し、主に自然石が拝所やヒヌカン(火の神)に祀られています。(雲古嶽/クモコウタキのイビ)(東恩納ノロ殿内)(神下毛/虎毛/カンサギモー)「雲古嶽(クモコウタキ)」を祀る祠の裏手に急勾配の丘陵があり、この森の頂上には御嶽のイビである大岩が鎮座しています。「雲古嶽(クモコウタキ)」の西側に「東恩納ノロ殿内」があり、建物の内部には「東恩納巫火神」が祀られています。「ノロ殿内」とは琉球王府から任命されたノロ(祝女)が住んだ場所で「ヌンドゥンチ」とも呼ばれています。また、東恩納公民館の敷地内に「神下毛(虎毛)」の祠があり「カンサギモー」と呼ばれるこの地には、かつて「東恩納ノロ」の「神アサギ(カミアシャギ)」があったと考えられます。「東恩納集落」と「楚南集落」の2つのムラを管轄した「東恩納ノロ」が集落の祭祀を執り行った「神アサギ」が存在した「カンサギモー」は集落の祭祀において最も重要な場所として現在も聖域として崇められているのです。
2022.04.14
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(八重島公園のガジュマル)沖縄の方言で「明けまして おめでとうございます」は『イー ソーグヮチ デービル』または『イー ショーガチ デービル』と言います。正月の初詣に琉球八社などの神社に参拝する人々は多いですが、私は昨年お世話になったパワースポット、グスク、拝所、遺跡文化財の中から生活に直結する三箇所を厳選して参拝しました。大切な事は一年の初めに祈る心であり、昨年の感謝を神々に告げる事です。そして、自分自身の全てを形成した、ご先祖様に謝意を表する事であると考えています。(ハマガー)(ハマガーの拝所)(ハマガーの洞穴)(ハマガーの井泉)まず初めに参拝した場所は、うるま市の浜比嘉島にある「ハマガー」です。「アマミチューの墓」の西側丘陵中腹に「ノロ墓」があります。この墓に隣接する「按司墓」の鍾乳洞窟から滲み出た一滴一滴が、長い時間をかけて真下にある「ハマガー」の井泉に溜まっています。沖縄では昔から正月の若水を井泉から汲み仏壇に供えたり、茶を沸かして飲み一年の健康を祈ります。「ハマガー」は比嘉集落の「ウブガー」で子供が生まれた時の産水に使用され、更に元日に井戸の水を中指で額に3回つける「水撫で(ウビナディ)」の儀式で子供の健康を祈りました。若水には若返りの効果かあるとされ、正月には「明けましておめでとう、もう若返りましたか」と挨拶をしていたそうです。今回は正月という事でペットボトルに若水を汲み持ち帰り、自宅の四方や水回りに若水を用いて新年のお清めをしました。(インジングシクの石碑)(インジングシク頂上の拝所)(インジングシク頂上の石碑)(インジングシク中腹の鍾乳洞穴)ソーグヮチ参拝の二箇所目は沖縄市八重島にある「インジングシク(八重島グスク)」です。この聖地は私の自宅から一番近い御嶽グスクで、居住する地区の土地神として個人的に崇めています。八重島公園の敷地内にあるグスクの麓に「天帯子の結び 八重島真鶴繁座那志 中が世うみない母親」と記された石碑があります。グスクの頂上には霊石とウコール(香炉)が祀られた拝所の祠と「天帯子御世 八重島金満大主 中が世酉のみふし」と刻まれた石碑が建立されています。更にグスクの中腹には、人が入る事が出来ない狭さの鍾乳洞穴が地下深くに続いています。この洞穴もグスクの拝所として土地神が宿る聖域となっています。(ウナジャラウハカ)(ウナジャラウハカの標柱)(ウナジャラウハカの墓口)(花崎家中古之墓)最後に参拝した三箇所目は北中城村喜舎場にある「ウナジャラウハカ」です。この墓は初代中山王である「舜天王」の孫「義本王」とその「王妃」の墓です。ちなみに「花崎家」は「義本王」の直系子孫として、この森に中古之墓を設けています。「ウナジャラウハカ」がある高台の森は、私が勤務する会社が所在する地域の守り神として個人的に崇めている聖地です。さらに「義本王」の曽祖父は「源為朝」で、私自身の先祖も「源氏」である事から先祖の繋がりがある墓を参拝する事は、先祖への感謝を伝える意味で当然で大切な行為と言えます。(インジングシク頂上への石段)今回のソーグヮチ参拝で沖縄市八重島の「インジングシク」頂上にある「八重島金満大主」の石碑を参拝中に『神の声』が"聞こえ"ました。交流がある伊計島の「伊計ノロ」である中村ユキ子さんは私に「御嶽や拝所に行って『神の声』を聞けなかったら意味がない」と仰り、最近では「神様は何て言ってた?」と私に聞きます。以前は『神の声』を聞く意味や、聞く方法が全く分かりませんでした。しかし、最近では訪れる御嶽、拝所、ウナジャラウハカで『神の声』が"聞こえる"ようになっています。今回の参拝で私が"聞いた"内容は次のようなメッセージでした。(八重島金満大主の石碑)『自分自身をもっと大切にしなさい。人間には自分の「身体」と「魂」の2つが個別に宿っていて、その他にも「先祖の遺伝子(守護霊)」が我々の血液の中に存在します。自分の「身体」「魂」「先祖の遺伝子(守護霊)」の3要素のバランスで人間は成り立っているのです。自身の心と身体の健康だけでなく「先祖の遺伝子(守護霊)」の健康も同時に大切にしてあげる事が必要です』(インジングシク頂上の拝所祠内部)つまり、先祖があっての現在の自分がいるという事だと捉えています。我々は現代のみを生きていると考えがちですが、実は先祖代々から長年脈々と受け継がれた「生命」が確実に継続しているのです。今年も引き続き先祖と自然への感謝を忘れずに、沖縄のパワースポット、御嶽、グスク、拝所巡りを継続して沖縄を深く勉強し、先人が残してくれた遺跡文化財を大切にしようと思っています。
2022.01.02
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(伊計グスク)沖縄本島うるま市の与勝半島から北東側に「伊計(いけい)島」があります。「イチハナレ」または「イチジマ」とも呼ばれ「イチ(伊計)」は"遥かに遠い"という意味があり、更に"生々し(いけいけし)"が由来しているとも伝わります。「伊計グスク」は島の南西端に位置する琉球石灰岩からなる場所に立地します。このグスクは「宮城島」と「伊計島」のほぼ中間にある小島でしたが、1982年に「伊計大橋」が架けられた事により、小島の北側が埋め立てられ「伊計ビーチ」になりました。「伊計グスク」と「伊計島」が地続きになったのは約40年前の事です。(伊計グスクの浜からの入り口)(伊計グスクを登る石段)「伊計島」と「宮城島」の間の海峡は「フーキジル水道」と呼ばれ、潮の流れが非常に早く船の行き来が大変困難でした。それに因んだ「伊計グスク」にまつわる「船出のおもろ」という「おもろそうし」が謳われています。『あさどりがなりば やくのカミズーや とりかじやととり わがおもろとまり ひちよせてたぼれ』「朝凪になって 船頭役のカミズーが 船かじを取って 我が思い泊を渡っていきます 伊計グスクの神様 どうか無事に引き寄せてください」(伊計グスクの海からの入り口)(グスク丘陵から見る海からの入り口)この「おもろ」は若い女性が宮城島の泊から船で「伊計グスク」に住む思いを寄せる人に会いにくる恋の歌と読み取れます。無事に潮の流れが早い危険な海峡を渡れるよう「伊計グスク」の神様に祈る心情が謳われています。「伊計グスク」の東側にはグスクに上陸する海からの入り口があります。「船出のおもろ」が示すように、昔の先人は孤島であった「伊計グスク」に船で渡っていた事が解ります。因みに、この海の入り口は「伊計ノロ(神女)」が「伊計グスク」を拝する際にも使われていました。(海側から見た大岩の割れ目)(グスク中腹の山道)(グスク中腹のガマ)「伊計グスク」は沖縄最古の歌謡集である『おもろそうし』には「いけいのもりくすく」と謳われ、李氏朝鮮の漢文歴史書である『海東諸国記』には「池足具城」と記されています。また、東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)の『南島風土記』で「イチ」と呼ばれ、江戸幕府が大名に作らせた『正保国絵図』には「いけ嶋」と表記されています。更に『ペリー提督沖繩訪問記』では「イチェイ島 (Ichey Island)」とあり「伊計グスク」や「伊計島」は長い歴史の中で様々な文献にその名前が登場しているのです。(伊計グスクの野面積石垣)(伊計グスク之殿)(伊計グスク之殿の祠内部)「伊計グスク」は「伊計島」で最も高い標高40〜50mの琉球石灰岩からなる台地で、グスクは野面積みの石垣で囲まれ築かれています。グスクの中腹に「伊計グスク之殿」の拝所があり、祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られています。伝承によると昔「伊計グスク」に「アタへ筑登之」という按司が居城していました。その頃、南側対岸の宮城島「泊グスク」には「川端イッパー」という按司がいて両者は何かと事あるごとに相争い、長期に渡り互いの領地を狙っていました。(タキキヨの御神)(タキキヨの御神の祠内部)(城内之イベ/タキキヨの御神の石柱)「伊計グスク」の頂上に「城内之イベ/タキキヨの御神」の御嶽があり、祠内部には20数個の古い貝殻とウコール(香炉)が祀られ、その脇には「城内之イベ/タキキヨの御神」と刻まれた石柱が建立されています。さて「アタへ筑登之」はある寒い冬の北風が強い日に、部下たちに島中から木灰を集めさせ風下に投げ散らかせました。木灰は煙のように舞い上がり、宮城島の住民をはじめ「泊グスク」の武士達は木灰が目に入り物が見えなくなり右往左往したのです。その間に「アタへ筑登之」と部下たちは「泊グスク」へ攻め入り、宿敵の「川端イッパー」を滅ぼしたのです。(城内之イベ/タキキヨの御神に向かって右の拝所)(城内之イベ/タキキヨの御神に向かって左の拝所)(城内之イベ/タキキヨの御神に続く道に祀られた貝殻)「伊計グスク」は「泊グスク」同様、琉球三国(北山/中山/南山)による戦国時代において戦いに敗れて敵から追われた武士達が身を隠すために居住した場所だと伝わります。その為に「伊計グスク」には神を祀る御嶽以外にも、落武者の魂を祀る拝所や古墓が点在しています。「伊計グスク之殿」と「城内之イベ/タキキヨの御神」は昔より「伊計島ノロ」により拝され、旧正月15日は「初ウマチー」があり麦の穂、五穀、鮮魚の刺身を供えます。「伊計グスク」は"おんな神"を祀る聖地として「伊計島」の人々に大切に崇められているのです。(イリノ龍神)「伊計グスク」の北側に「伊計ビーチ」があり、浜からは「イリノ龍神」と呼ばれる大岩が見えます。現役の「伊計ノロ(神人)」の方に直接聞いた話では「イリノ龍神」は"おとこ神"として"おんな神"の「伊計グスク」と夫婦関係にあります。その為「伊計グスク」を拝んだら必ず「イリノ龍神」も一緒に拝む必要があるそうです。夫婦という事で、もし片方だけ拝して済ませると、もう片方が嫉妬してしまい参拝の意味を成さなくなります。「伊計グスク」と「イリノ龍神」は切り離す事が出来ない一対であり、2箇所でひと繋ぎの聖地なのです。(伊計島北端の龍神)「伊計島」の北端に「伊計島灯台」があり、そこから海沿いの岬付近に「子宝之神」と呼ばれる場所があり観音様と石碑が祀られています。現役の「伊計ノロ」によると、この「子宝之神」は「伊計島」に直接関係したり由来するものではなく、本土の宗教団体が設置した拝所となっています。しかしながら、この場所は「伊計ノロ」が昔から祈りを捧げて拝する「龍神」が祀られた聖地となっています。「子宝之神」と岬の崖の間に「龍神」を祀る霊石が設置されています。「伊計島」の北の守護神として海の神様である「龍神」が島を悪霊から守っているのです。(龍神に向かって右側の弁才天)(龍神に向かって左側の弁才天)(子宝之神の北側に隣接する弁才天)この地には「龍神」と共に"水の女神"である「弁才天」が4箇所祀られています。現役の「伊計ノロ」は定期的に「龍神」と「弁才天」を拝み管理しており、沖縄では「弁才天」を"びざいてん"と呼びます。「龍神」の霊石の左右に一箇所づつ「弁才天」が祀られており、さらに「子宝之神」の北側に隣接する場所に2つの「弁才天」が祀られています。「龍神」と「弁才天」が祀られるこの北の岬からは琉球石灰岩に付着した人骨や子供の歯の化石が発見されています。約258万年前から約1万年前までの「洪積世」と呼ばれる氷河時代の化石だと言われています。この事から「伊計島」は古の時代より人類が生活を営んでいた証拠となっているのです。
2021.12.21
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(ワイトゥイ)沖縄本島うるま市の勝連半島に「ワイトゥイ」と呼ばれる断崖絶壁の道があります。「ワイトゥイ」は「平安名集落」南西部の比殿原(ひどぅんばる)と嘉慶奈久(かげなく)の農耕地に通じる断崖を掘削した農道です。長年、村人は「比殿バンタ」の急崖の険阻な山道を登り降りして農作業をしていました。この苦難を解消するために1932(昭和7)年から1935(昭和10)年にかけて、この断崖を掘削して横断農道を開通させました。先人の開拓精神とロマンを感じる道はうるま市勝連半島の観光スポットにもなっています。(ワイトゥイの難工事跡)(ワイトゥイの難工事跡)(ワイトゥイの記念碑)「ワイトゥイ」は全長約150m、高さは最高所で20mあります。当時のトゥングェー(金鍬)や、カニガラ(石割棒)などを駆使した人々の難工事の跡が断面に刻まれており、その苦難の歴史を知る上で重要な遺産となっています。「ワイトゥイ」の正式名称は「比殿(ひどぅん)農道」ですが「割って取った」という意味で「ワイトゥイ」の名称で呼ばれています。現在も「平安名集落」の西側海岸周辺と集落の中心部を結ぶ重要な道路として、人々の暮らしに欠かせない道となっています。「ワイトゥイ」の西側入口には開通の「記念碑」の石碑が建立されています。(ワイトゥイ)(旧比殿農道の標識)(旧比殿農道の入り口)「ワイトゥイ」の東側入り口の脇に「旧比殿(ひどぅん)農道」の細道が続いています。「平安名集落」の先人が苦労して農作業に勤しんでいた急な崖道が現在も残っており「ワイトゥイ」の道に沿うように崖の上に登って行きます。昔の人々が重い農具や収穫した作物を運搬しながら往復するには、余りにも険しく困難な道である事が分かります。実際に「旧比殿農道」を歩いてみると90年前の人々の息づかいを感じ、集落の人々がより良い生活が出来る様に立ち上がった開拓者の思いやりが伝わって来ます。(旧比殿農道の拝所)(平安名上グスクの森)(平安名上グスクの破風墓)「旧比殿農道」を進むと突き当たりに拝所があり、ウコール(香炉)と花瓶が祀られています。昔の「比殿農道」はこの先から急な下りの崖道が続き「比殿」の農地へと出るのですが、この先は「ワイトゥイ」の断崖絶壁があり、現在はこの地点が行き止まりとなっています。この拝所から北の森に通じる道があり「平安名上グスク」の入口となっています。グスクの森は亜熱帯植物が深く生い茂り、普段から人の往来が無い道なき道が続いています。しばらくグスクの森を北側に進むと古い琉球石灰岩の石積みで造られた破風墓が現れます。(平安名上グスクの拝所)(平安名上グスクの堀込墓)更に「平安名上グスク」の深い森を北に進むと拝所が現れます。この拝所の直ぐ先にはガジュマルの木を入口とした古い堀込墓が佇んでいます。この古墓は比較的規模が大きく「平安名上グスク」の中心部に近い事から、グスクに関連する有力者の墓である可能性があります。大昔の沖縄では故人の遺体を山や崖などの人目に付かない場所に移動し、数年間放置して白骨化したら一族の女性が洗骨を行い厨子甕などの大きめの骨壷に入れます。山や崖の斜面を掘り込んで遺体の安置場所を造り、その遺体を取り囲むようにして石積みを組み上げるのが、沖縄のお墓で最も古い種類の「堀込墓」と呼ばれる古墓です。この墓には2基の「仮墓」が設置されていました。(平安名上グスクの堀込墓)(仮墓)沖縄の墓には本墓の敷地内に「仮墓」と呼ばれる小さな墓があります。先祖代々の本墓に納骨する事への賛否の意見がある方々を一時的、または永久的に仮墓に納骨するのが「仮墓」で、大きく分けて3つの種類があります。「チョーデーカサバイ(兄弟重合)」は独身や後継者不在の次男以降の男性、またはその夫婦の遺骨が仮墓に納骨されます。「タチーマジクイ(他家混合)」は離婚後に実家の名字に復姓していない女性の遺骨を仮墓に納めます。「ユースー(幼少)」は数え7歳(3歳、9歳、12歳、13歳などの場合もある)以下の子供が亡くなった時に仮墓に納骨します。(ヒンプンが配された堀込墓)(平安名貝塚)「平安名上グスク」の周囲には琉球石灰岩で造られた「ヒンプン(屏風)」と呼ばれる魔除けの衝立(ついたて)が配された古い堀込墓が多数点在しています。更にグスクの西側には「平安名集落」の西側約400mの斜面で発見された複合型の「平安名貝塚」があります。この貝塚は約3500年前から2500年前、沖縄貝塚時代前期のものと推定されており、敷地内には古代人の生活の名残りが多く漂っています。貝塚の発掘調査によって「荻堂式土器」や「大山式土器」の他にも、櫛目状の文様を有する「平安名式土器」など貴重な資料が出土しています。更に石斧、骨製品、貝製品なども発見されています。(比殿ガー/ヒドゥンガー)(ウーブ御嶽)「平安名貝塚」の南側麓に「比殿ガー」と呼ばれる井戸があり、琉球石灰岩の崖下1m程の半円形状の水面から湧き水が出ています。現在はコンクリート製の貯水タンクが設置され、農業用水に利用されており水量は勝連半島随一です。伝説では「ウーブ御嶽シンニンガマ」の神様がこの井戸を利用したと伝わります。「ウーブ御嶽」は琉球国由来記に神名「オウブノ嶽イシヅカサノ御イベ」とあります。戦前は"与勝富士"と親しまれた「奥武山」にあったと伝えられ「奥武山」には「シンニン(千人)ガマ(洞窟)」と呼ばれる無数の古墓があり「シンニンガマ」の神様が住んでいたとの言い伝えが残されているのです。
2021.11.15
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(仲原遺跡)「仲原(なかばる)遺跡」はうるま市伊計島のテンブス(へそ/中央)に位置する縄文時代の遺跡です。かつてこの遺跡一帯にはサトウキビ畑が広がっており、土地改良事業の発掘調査により多数の竪穴住居跡が発見されました。この発見により、これまで不明であった約2,000〜2,500年前の沖縄における村落の広がり、住居の規模や造りなどが明らかになり歴史的発見として話題になりました。また、当時の暮らしが分かる遺物として、甕や壷などの土器、石斧、食べた動物や魚の骨、貝殻を用いて加工した装飾品や生活道具なども「仲原遺跡」から発見されています。(イチの里/仲原遺跡の入口)国指定史跡に登録されている「仲原遺跡」の入口には巨大な石斧をモチーフとした門標があります。ちなみに「イチ」とは「伊計」の事を意味します。そのため「伊計島」は通称「イチハナレ」とも呼ばれています。「仲原遺跡」の住居復元には、沖縄県内の民族事例を参考にして赤土を石垣に埋め、柱や屋根材は伊計島の古民家に多く使われているヤラブ(照葉木/テリハボク)、竹、チガヤ(イネ科の植物)を用い、アダン(タコノキ)の木の根を材料にした縄で編んでいます。全ての材料は地元伊計島ならではのものが使用されて住居は復元されています。(第15号復元住居)(第15号復元住居の内部)「第15号復元住居」は「仲原遺跡」の中でも大型の建物で入口は北側を向いています。竪穴平面形状は隅丸方形で、床の広さは縦5m、横5m、深さ48cmとなっています。四辺に琉球石灰岩の縁石があり柱は屋内に2本、建て替えられた跡が残っており2基の竪穴が重なっています。古い建物の炉は円形石組みで、新しい建物の炉は方形石組みである事が確認されました。住居は風通しがとても良く、夏は涼しく冬は暖かい造りとなっています。更に、雨が降っても住居内に水が入らない構造となっています。(第15号復元住居の屋根骨組み)(第15号復元住居の石積み)「仲原遺跡」で発見された竪穴式住居跡は地表面を角の丸い四角形に掘り下げ、住居の壁は琉球石灰岩を用いて石垣を積み上げ、その上に屋根を葺きあげた作りが特徴です。「第15号復元住居」は大型の建物である事から母屋である事が考えられます。「仲原遺跡」では合計23棟の竪穴式住居が発見されており、遺跡集落の住居配置は母屋を取り囲む様に、周辺に4〜6棟ほどの小型の建物が形づくられています。母屋の住居内部は予想以上に明るく、大人が立ち上がって移動できる快適な住空間となっています。(第3復元住居跡/第2b復元住居跡)(第18号復元住居跡の石垣)「仲原遺跡」では多数の遺物が発掘されています。その中で一番多い遺物は煮炊き、貯蔵、運搬などに使われた土器で大小の壷形、甕形、外耳付きの鉢など様々な物があります。また、木材を加工する石斧、叩き石、刷り石も多種にわたり発見されており、カミソリ刃状の石器も発掘されています。更に大型のホオジロザメ、アオザメ、イタチザメの歯に穴や抉りを施した装飾品が多数まとめて見つかっています。イノシシ 、ジュゴン、クジラなどの長い骨を素材にして作った針やキリなどの実用品も確認されています。(インナガー/犬名河)(インナガーの祠)(インナガーの祠内部)「インナガー(犬名河)」は伊計島の北西海岸沿いの崖下で、石畳の急な坂道を下った場所にあります。伝承によると昔、干ばつで水不足になり困っていた時に崖下からずぶ濡れになった犬が上がってきたのを見た農夫が、不思議に思って崖下に行ってみました。すると渾々と水が湧き出る泉があったことから「犬名河」という名が付いたと言われています。現在は「伊計島」の人々や「伊計ノロ」により水への感謝が祈られており「インナガー」の聖なる水は絶える事なく2箇所の水路から注ぎ込まれています。「インナガー」にまつわる琉歌があります。『伊計離ぬ嫁やない欲しゃあしが 犬名河ぬ水ぬ汲みぬあぐでぃ』(伊計島のお嫁さんになりたいのですが、犬名河の水を汲むのは大変なことだ)(犬名河由来記の碑)(伊計島灯台)(子宝之神)「伊計島」の北北西に通称「北の御嶽」と呼ばれる森があります。この御嶽森には「伊計島灯台」があり航海の安全に役立っています。この灯台にはライブカメラ(https://www6.kaiho.mlit.go.jp/11kanku/nakagusuku/ikeishima_lt/livecamera/index.html)が設置されており、ライブ映像はコントロール開始のボタンをクリックするとカメラ制御権を取得することができます。「伊計島灯台」の北側には「子宝之神」の拝所があります。「伊計神社」の「伊計ノロ」の中村ユキ子さんによると、この拝所は伊計島とは直接関わりがなく、本土の宗教団体が設置したもので、伊計島の人々や中村ユキ子さんら「伊計島」のカミンチュ(神人)は祈る事は無いそうです。(御地子宝之神の石柱)(子宝之神の石碑)(子宝之神の観音様)「子宝之神」の拝所があるこの地は「伊計島」では昔より「北の御嶽」と呼ばれる聖なる森で「伊計ノロ」の中村ユキ子さんは「子宝之神」の近くにある「竜宮神」が祀られている聖域で定期的に祈りを捧げています。奇しくも「子宝之神」に隣接する海の崖は自殺の名所であり「伊計島」の人々には近寄り難い場所となっています。「子宝之神」の石碑には次の様に刻まれています。『此こは聖なる場所です 子之方男神より精子 丑之方女神より卵子を頂いて 子宝が授かります』「子宝之神」は1977年旧暦2月20日子日に「主の御命令に依り創立」と記された案内板が立てられています。(ギンシブ原洞窟/鹿洞窟)(ギンシブ原洞窟のガジュマル)(洞窟入口の拝所)「伊計島」北部の「伊計島温泉AJリゾートアイランド伊計島」の伊計島サーキット脇に周りを幾つもの岩で囲まれた「ギンシブ原洞窟/鹿洞窟」があります。沖縄本島から丑寅の方角を指している事から、地元では通称「ウシトラガマ」と呼ばれています。洞長約90mの洞窟内には鍾乳石が発達しており、人類化石と多数の動物化石(琉球鹿)等が発掘されています。古くから「伊計島」住民の拝所の一つとして祀られており、行事や祭事の際に巡礼し家族の健康や安全祈願が祈られてきました。「ギンシブ原洞窟」はガジュマルの森となっており、見事に枝を伸ばしたガジュマルが多数生息しています。(洞窟/ガマの入口)(洞窟内部の鍾乳石)(洞窟の底から見た入口)「ギンシブ原洞窟/ウシトラガマ」は入口からほぼ90度下方に向けて穴が続いています。10mほど鍾乳石を降ると洞窟の底に辿り着きます。更にそこからは南北に漆黒の洞窟が続いていました。この洞窟を訪れてから「伊計ノロ」の中村ユキ子さんに挨拶に行ったところ、以前この穴には梯子が掛けられていましたが、人が滑り落ちレスキュー隊や警察が来て島中が大騒ぎになったそうです。洞窟で万が一の事態があると平和な「伊計島」の人々に迷惑がかかるので、ガマの内部には立ち入るべきではないと指摘されました。結果的に何事もなく洞窟の探索が出来たので、特別に今回は洞窟内部を調査資料として紹介させて頂きました。
2021.11.08
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(石川龍宮神/石川赤崎)「うるま市石川(旧石川市)」は沖縄本島中部の東海岸にあります。「うるま市石川」の太平洋と「恩納村仲泊」の東シナ海を結ぶ直線距離がわずか4キロであるため、そのくびれは沖縄本島の「みほそ(へそ)」と呼ばれ「うるま市石川」は"みほそのまち"の愛称で親しまれています。石川岳の麓に広がる美しい金武湾を望む石川漁港周辺には5つの龍宮神が祀られており、古より石川の漁業の発展と航海の安全を見守り支えてきました。(石川龍宮神/石川曙)(石川龍宮神の拝所)(龍宮神の石柱)「うるま市石川」の太平洋側に位置する「石川ビーチ」と「石川龍宮ビーチ」間にある大岩の上に、1つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。拝所は北側の金武町方面に向けられており、金武湾の航海と漁業の安全を祈願しています。祠のウコール(香炉)には神に祈る際に使用するシルカビ(白紙)、ヒラウコー(沖縄線香)、粗塩が供えられています。これは燃やさずに供える「ヒジュルウコー(冷たい線香)」と呼ばれる御供です。このお供えは海が満潮に向かう時刻のみに行われる神聖な祈りとなっています。(龍宮神に供えられたウミガメと粗塩)(石川龍宮神の大岩麓にある拝所)「石川龍宮神」の拝所には大小2体のウミガメと粗塩が「龍宮神」に捧げられていました。非常に衝撃的ですが「うるま市石川」の伝統的な「龍宮神」への祈りが継承されている証拠でもあります。「石川龍宮神」の大岩西側の麓には、こじんまりとした拝所が設けられ霊石とウコール(香炉)が祀られています。「龍宮神」が建立される大岩そのものを祀る拝所だと考えられ、規模は小さいながらも大きな意味がある聖域として祈られています。(石川ビーチの鍾乳洞窟)(洞窟内の拝所)「石川龍宮神」の北側に「石川ビーチ」があり、ビーチに隣接して鍾乳洞窟があります。ソテツ(蘇鉄)や亜熱帯植物に覆われた洞窟の内部は浜の砂と岩石で覆われています。入り口は2箇所あり比較的広い空間になっています。床の浜の砂には大量のカニの巣穴があり、冷たく張り詰めた空気に包まれています。ツララのように垂れるゴツゴツした天井の洞窟の奥には霊石が祀られた拝所があります。この洞窟は沖縄戦の時に住民が避難して多数の命が助かったガマであり、現在は「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られています。(ウミチルの墓)「石川龍宮神」の南西側に隣接する場所に「ウミチルの墓」があり、彼女は俗称「チルーウンミー」と呼ばれています。「ウミチル」は石川の集落に初めて機織り、染め物、ウスデークー(女性のみで行われる円陣舞踊)を指導した方と伝わります。戦前からこの地にあった「ウミチルの墓」は1973年の大型台風で流された為、仮安置していましたが2008年に改修されました。現在も「うるま市石川」に伝統文化と芸能を伝えた人物として「ウミチルの墓」は住民により大切に祈られています。(グジヨウ神/ビズル火の神)「ウミチルの墓」の正面に鍾乳洞に「ビズル火の神」の霊石とウコール(香炉)があり「シルカビ」に「ヒラウコー」がお供えされています。「ビズル(ビジュル)」とは主に沖縄本島でみられる霊石信仰で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。仏教の16羅漢(お釈迦様の16人の弟子)の1人である「賓頭盧(びんずる)」がなまった言い方で、自然石が「ティラ」と呼ばれる洞穴などで祀られています。その左側には「グジヨウ神」と呼ばれる神が祀られた石碑とウコール(香炉)が隣接しています。この拝所は現在も「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られる聖域となっているのです。(天願マグジーの名が刻まれた石碑)「天願マグジー」には伝説が残されています。昔、具志川間切に「天願タロジー」という武士と妻の「天願マグジー」が住んでいました。ある日「天願タロジー」は以前より対立していた金武間切の「金武奥間」という武士に刺し殺されたのです。拉致された「天願マグジー」は「金武奥間」を油断させて「あらぶち(現うるま市石川東恩納)」に差し掛かると小刀で「金武奥間」を刺し殺したのです。「天願マグジー」はその後「あらぶち」の洞窟で暮らしたと言われていますが、他の伝説では「伊波按司」の愛人になったとの伝承もあります。この石碑には「伊波按司」と「天願マグジー」の名が一緒に刻まれており、大変興味深い文化財となっています。(石川龍宮神/石川曙)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)「石川龍宮ビーチ」の南東側に拝所の岩山があり海側の断崖上に、2つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。この「石川龍宮神」の石碑は西側に広がる金武湾と更に奥に続く太平洋に向けられています。非常に古い石碑で長年の間、潮風や台風に耐えながら航海と漁業の安全を祈願し祀られています。この「石川龍宮神」がある岩山は他にも3つの祠が建てられており、昔から御嶽岩山の聖域として崇められてきたと考えられます。(大宗富着大屋子の石碑)(大宗富着大屋子の墓)(石川龍宮神/字石川)龍宮神の岩山から更に南東に進むと崖麓に「大宗富着大屋子の石碑」と「大宗富着大屋子の墓」があります。「大宗富着大屋子」は琉球王府から任命されて恩納村から石川村に赴任し街並みを碁盤目状にする区画整備を行い、石川川の補修工事を行い集落に安全をもたらした人物です。現在は「大宗富着大屋子」の出身地である恩納村前兼久の方々が祈る場所として崇められています。ここから更に参拝道を南東に進み突き当たった岩森の麓に、3つ目に紹介する「石川龍宮神」が祀られ石碑は石川漁港向けに建立されています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)(屋根上に構える龍の石像)4つ目に紹介する「石川龍宮神」は石川漁港の北東にあり、亜熱帯植物が生い茂る森の中にひっそりと佇んでいます。鳥居を抜けて進むと拝所の社があり、社の内部と左右両脇には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。敷地内には1968年に建立された「石川龍宮神」の石碑が祀られており「龍宮」の文字の下に「神人 知念カマ 神子 平良カメ 神子 平良善春」と3人の名前が刻まれています。「石川龍宮神」の屋根上には左右2体の龍の石像が据えられています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)5つ目に紹介する「石川龍宮神」は4つ目に紹介した「石川龍宮神」の社に隣接しています。この場所は元々は金武港の海に面していましたが「石川火力発電所」と「石川石炭火力発電所」の建設により海が埋め立てられ「石川龍宮神」が海から約300m離れてしまいました。そのため4つ目に紹介した「石川龍宮神」の横に新たな「石川龍宮神」の塔を立て、海が望める塔の頂きに「龍宮神」の石碑を建立したのです。塔の麓にはウコール(香炉)が祀られ多くの人々に参拝されています。昔から海と共に生き海の恵みに感謝してきた「うるま市石川」の民は、これからも変わらず守護神の「龍宮神」を崇め祈り、大切な伝統文化を後世に継承して生きて行くのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.09.27
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(浜崎の寺)「南風原(はえばる)集落」は沖縄本島うるま市の勝連半島にあり、世界遺産の「勝連城跡」が築かれた丘稜の麓に広がる集落です。「南風原集落」は「勝連城」南側傾斜地の元島原に発祥したと伝えられます。元々は「勝連」の名で呼ばれていましたが「阿麻和利」の時代に「南風原」と改称されました。集落は1726年に前浜三良(カッチンバーマー)により現在の肥沃な地に移動し、現在でも村造りの大恩人として住民に崇められています。(クトジ御嶽)(クトジ御嶽のガジュマル)「勝連城跡」西側にある「勝連南風原浜」の海岸沿いに「クトジ御嶽」があり「琉球国由来記」に勝連間切の拝所として「コト瀬嶽神名:マネヅカノ御イベ」と記されています。「クトジ御嶽」は旅果報や航海の安全を願う拝所として祈られています。昔話では、中国から来た女性がこの御嶽の洞窟で子供を出産したと伝えられています。また、中国から品物を運んできた時には、まずこの御嶽に集めてから「勝連城」に運んだと伝わります。(南風原の村獅子/北の村獅子)(イリーガー)「南風原集落」の北側に珊瑚石灰岩で造られた「南風原の村獅子」があります。「北の村獅子」とも呼ばれる獅子像は「フーチゲーシ(邪気払い)」として「南風原集落」が「勝連城」南側の元島原より移動した1726年、集落の境界として東西南北の4角に石獅子が設置されたと伝わります。「南風原の村獅子」の西側に「イリーガー」があり、かつて集落の北側の住民の生活用水に利用されました。現在も水が湧き出る井戸で、ウコール(香炉)が祀られて集落の人々に拝まれています。(地頭代火の神/村屋跡)(地頭代火の神の祠)「南風原集落」の中心部に南風原公民館があり正面に「地頭代火の神」の鳥居が構えています。この地はかつて集落の「村屋(ムラヤー)」で現在の役所にあたる集落行政の中心地でした。地頭代とは琉球王朝時代(1429~1879年)に各間切(現在の市町村)の地頭(領主)の代官として地方行政を担当した人のことで、地頭代の屋敷に建てられた拝所を「地頭代火の神」と言います。祠内には集落の神を祀った石柱とウコール(香炉)が祀られています。(マンナカガー)「地頭代火の神」の東北側に「マンナカガー」があり、その名の通り集落の中心部にある井戸です。「南風原集落」が「勝連城」丘稜の元島原より移動した1726年頃に造築された井戸で、集落の住民に水の恵みを与えました。規模が大きな井戸である為、住民の飲料水の他にも野菜や衣類を洗う井戸としても重宝されました。現在の井戸には手押しポンプが設置されており現役で稼働しています。更にウコール(香炉)が祀られ、集落の老若男女の祈りの場として崇められています。(親田家の屋敷)(親田家刻紋石柱)(親田家石垣の石敢當)南風原公民館の東側に「親田家の屋敷」があり、立派な赤柄屋根の古民家の敷地内に「親田家刻紋石柱」が建てられています。石灰岩製の石柱で由来や意味は解明されていませんが、梵字や漢字の他にも絵文字が刻まれています。梵字とは古代インドのサンスクリット語が起源とされ、仏様を真言で表現した文字です。更に屋敷の石垣には魔除けの役割を持つ「石敢當」がはめ込まれており、周りにはアーチ型に石垣が隙間なく組まれています。(アガリガー)(アシビナーのカー)「親田家の屋敷」の東側に「アガリガー」と呼ばれる井戸があります。この井戸は「マンナカガー」と造り、規模、用途が同様で、集落が移動した同じ時期に建造されたと伝わります。更に北側に位置する「南風原公園」の脇にある「アシビナーのカー」は規模は小さめですが「南風原集落」の4つのムラガー(共同井戸)と同じ時期に造られたものです。現在の「南風原公園」はかつて「遊び庭(アシビナー)」として唄三線を楽しむ場所であり、村芝居や祭りをする場所で賑わいました。(南風原ノロ殿内)(ノロ殿内の内部/向かって右側)「アガリガー」から道を一本挟んだ北東側に「南風原ノロ殿内」があります。「ノロ殿内」は「ヌルドゥンチ」とも呼ばれ、琉球神道における女性の祭司である「ノロ」がここに住んで担当する集落の祈願儀礼を行いました。「ノロ殿内」には仏壇が設けられており向かって右から「ウミキウミナイ神」「祝女神」「若祝女神」の3基のヒヌカン(火の神)にウコール、徳利、湯呑み、盃、チャーギが生けられた花瓶が供えられています。(ノロ殿内の内部/向かって左側)(ノロ殿内裏の拝所)「ノロ殿内」の内部には更に獅子舞の獅子が納められています。「南風原集落」の獅子舞はムンヌキ(魔除け)として「勝連城」の丘稜から移動してきた1726年から現在も舞われいる伝統芸能です。更に獅子の左側には霊石と3基のウコール(香炉)が祀られています。「ノロ殿内」の敷地裏には石造りの祠があり数個の霊石と貝殻に加えて1基のウコールが祀られている拝所となっています。祠には「昭和八年度」と彫られており、沖縄戦を乗り越えた歴史の長い拝所である事が分かります。(報恩社)(報恩社の内部)「南風原ノロ殿内」の北西側に「報恩社」が建てられており「南風原集落」を「勝連城」南側傾斜地の元島原から移動する際に貢献した大恩人「前浜三良(カッチンバーマー)」を称えるための社となっています。勝連間切平安名に生まれた「前浜三良」は浜掟(ハマウッチ)という役職にあった事から「勝連(カッチン)バーマー」と呼ばれていました。更に彼は「南風原集落」に養魚場を設けて養殖の先駆者として伝えられる人物としても琉球中にその名を轟かせたのです。「報恩社」は毎年、旧正月の元旦に住民により初御願が行われます。(浜崎の寺)(浜崎の寺/向かって右側)(浜崎の寺/向かって左側)「南風原集落」の南西側に「浜崎の寺」と呼ばれる集落住民の健康と子宝を祈願する拝所があります。琉球八社の1つである普天間宮に祀られる「普天間権現」との繋がりがあり「お通し」の役割を持っている由緒ある拝所です。祠には2つの入り口がありビジュル霊石とウコールが祀られ、向かって右側は「女シー(イナグシー)」左側は「男シー(イキガシー)」と呼ばれ「南風原ノロ殿内」とも繋がっています。拝む際には右側の「女シー」を先に拝むしきたりがあると言われています。(南風原集落のマンホール)「南風原集落」のマンホールはエイサーのデザインで、旧勝連町(現うるま市)のマンホールが継続的に使用されています。「勝連南風原エイサー」は勝連地区では他と一味違ったエイサーで、パーランクー打ちは紫の頭巾、黄色の帯、緑のウッチャキ(羽織)を身にまとい「エイヤーリー エイヤーサーサー」の掛け声で踊り、女性の踊り手は浴衣を着てエイサー曲に合わせて華麗に踊ります。全体的にゆっくりとしたテンポが多いのが特徴で、優雅さを基本としているのです。
2021.09.19
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(平敷屋製糖工場跡の煙突)「平敷屋集落」は沖縄本島うるま市勝連半島の東端に位置し、海抜約50m〜80mの丘陵地点にあります。「尚貞王」代の1676(延宝4)年に勝連間切から与那城間切が分離して「平敷屋集落」に勝連間切の番所が置かれました。それ以来、1910(明治43)年に勝連平安名に移転するまで「平敷屋集落」は間切行政の中心地として繁栄していました。かつて「村の高さや平敷屋村」と謳われたように、勝連半島の先端で栄えた高台の古集落でした。(嘉手納嶽/シリー御嶽)(嘉手納嶽/シリー御嶽)「平敷屋集落」の中央にある小高い森に「嘉手納嶽」があり「シリー御嶽」とも呼ばれています。南西側に向けて建てられた祠内には幾つもの霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られており「火の神」として集落の守り神として拝まれています。「火の神」に隣接してブロック積みに囲まれた拝所があります。この拝所は勝連半島の先端がある南東側に向けて建てられおり、小さな古墓の様な造りの入り口には霊石とウコールが祀られています。(勝連間切番所跡)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」の東側に「勝連間切番所跡」の空き地が広がっています。日本本土とは異なり琉球王国において「番所」とは、近世期に地方機関である間切を統治する役所の事を指しました。地頭代(領主の代官)以下の間切役人が交代で番所に勤務し、王府及び地頭への貢租上納、夫遣い、地方行政全般に渡って執り行い首里との人馬網の拠点としても用いられていました。「勝連間切番所」の特徴は集落の中心部に番所と御嶽があり、番所沿いには主要道路の宿道が設けられていました。(ヒッチャマー/平敷屋神屋)(ヒッチャマーの内部)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」に隣接して「ヒッチャマー」があり「平敷屋神屋」とも呼ばれ「平敷屋集落」の氏神(神道の神)で、かつての村屋(村番所)跡に建立しています。平敷屋エイサー 、ウスデーグ(豊稔祈願の女性によるの祭祀舞踊)、集落の行事は「ヒッチャマー」に祈願してから始められています。また、戦前は毎年旧暦6月14日と24日に「タコ綱引き」と呼ばれるタコの足のように縄が分かれている綱引きがここで行われていました。(ノロ殿内)(とうの御嶽)「ヒッチャマー」の裏手にはかつて「平敷屋集落」のノロ(祝女)が住んでいた「ノロ殿内」があります。現在は「野呂内」という表札がある琉球赤瓦屋根の屋敷となっています。さらに「ヒッチャマー」から東側に「とうの御嶽」と呼ばれる森があり拝所が建立されています。この御嶽は「平敷屋集落」の誕生事を助ける神様で、子孫繁栄を祈願するウガンジュ(拝所)となっています。祠内には3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。(平敷屋タキノーの入り口)(平敷屋タキノー)「ヒッチャマー」から南東の場所に「平敷屋公園」があり、その敷地に標高70m余りの「平敷屋タキノー」と呼ばれる丘稜があります。1727年に脇地頭としてこの地に配属された和文学者であった「平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)」は水不足に苦しむ農民の為に溜池を掘削し、この時に掘り出した土を盛り上げて築いたのが「平敷屋タキノー」です。勝連半島を取り巻く太平洋を眺望できる景勝地にあり、集落史の研究の上からも重要な史跡でうるま市の指定文化財に登録されています。(平敷屋タキノーの溜池)「平敷屋朝敏」は1700年に首里金城町に生まれました。1734年に王府の高官だった友寄安乗らと共に、当時首里王府において実権を握っていた蔡温を批判した文を薩摩藩の琉球在番奉行の川西平佐衛門の宿舎に投げ入れるなどして捕らえられ、34歳の若さで那覇の安謝(あじゃ)港において「八付」の死刑に処されました。「平敷屋朝敏」は薩摩支配下における苦難の時代に士族という身分におごる事なく、農民を始めとした弱い立場の人達に温かい手を差し伸べた沖縄近世随一の和文学者でした。(平敷屋タキノーの歌碑)「平敷屋タキノー」には「平敷屋朝敏」の歌が刻まれた石碑が建立されています。『哀そのはた打かへす (この暑さで働いている) せなかより (農夫の背中から) ながるるあせや (瀧の様に汗が流れ落ちる姿が) 瀧つしらなみ (気の毒である)』この歌は平敷屋朝敏の働く農民に対する労りの心が伺える事から「平敷屋タキノー」の歌碑に選定されました。(米海軍港湾施設ホワイトビーチ)1945年の沖縄戦で形あるもの全てが焼き尽くされた沖縄の惨状がハワイの沖縄移民に届けられると、嘉数亀助は沖縄に「生きた豚」を届ける計画を立てました。ハワイの沖縄移民達は資金を集めて5万ドルで550頭の豚を購入し、1948年9月27日に勝連半島の「ホワイトビーチ」に到着したのです。陸揚げされた豚は全ての市町村に公平に分配されて繁殖を繰り返し、順調に頭数を増やし4年後には10万頭を超えました。これを境に沖縄の食糧事情は改善されて多くの人々の命を救いました。(平敷屋製糖工場跡)(貯水槽)「平敷屋タキノー」の南側に「平敷屋製糖工場跡」が隣接しています。「平敷屋製糖工場」は1940(昭和15)年「平敷屋集落」の11組のサーターヤー(製糖屋)が合併して建造されました。蒸気を動力とする共同製糖工場で建物は南向きで3基の煙突が立ち、煙突の1つは45馬力のボイラーに繋がり燃料は石炭が使用されていました。製糖工場は沖縄戦で米軍に破壊されましたが、工場跡地には今でも煙突1基と貯水槽が現存しています。(火立森/ヒータティムイ)(ヒラカー)「平敷屋製糖工場跡」は標高約66mの「火立森(ヒータティムイ)」の山麓にあります。「火立森」は別名で「遠見台」「烽火台」「火立所」「火番盛」など種々の呼称があり、琉球王国時代の情報伝達手段に利用されました。宮城島の「火立(ヒータチ)」に焚き火が上がると「平敷屋」の「火立森」からも狼煙(のろし)を上げて貿易船に合図をし、首里までの航海を導いたと言われています。「火立森」の小高い山に降った雨水が製糖工場脇の「ヒラカー」から湧き出ており、かつて製糖工場や貯水槽に利用されて重宝されていました。(火立森のガジュマル)(ノロガー)「ヒラカー」から更に「火立森」の奥地へ降りて行くと、枝が複雑に絡み合った高樹齢のガジュマルが神秘的な雰囲気を醸し出します。更に渓流を越えて進むと「ノロガー」が待ち構えていました。ノロ(集落の祭祀を担当する王府から正式に任命された神女)が利用する井戸で「ヌールガー」とも呼ばれます。「火立森」の粘土質の崖中腹にあるアカギの大木の根元に「ノロガー」の井泉があり「平敷屋集落」の発展を祈願する拝所となっています。「ノロガー」の周辺にはアカギの群落が広がる大自然の森となっています。(アマミキヨの拝所)(前の御嶽)「平敷屋製糖工場跡」の北西側に「アマミキヨの拝所」と呼ばれる祠があります。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコール、更に2対のヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所から西に坂道を登ると左手の森に「前の御嶽」の祠があり、御嶽の森の入り口に西側に向けられて建てられています。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコールが祀られており、集落の住民により大切に拝まれる拝所となっています。(平敷屋タキノーのシーサー)「平敷屋集落」に継承される「平敷屋エイサー」は100年以上という沖縄県内で1番古い歴史を持ちます。ジユーテー(地謡)、ハントゥー(酒甕)持ち、太鼓打ち、踊り手、中わち(世話役)で構成され、白と黒で統一された衣装を身にまとい、太鼓打ちは裸足で踊るなど古式エイサーの伝統を留めた独自の様式となっています。「平敷屋トウバル遺跡」等の遺跡文化財は現在も米海軍港湾施設「ホワイトビーチ」内にあり「平敷屋集落」の詳しい歴史が解明されていません。琉球の歴史を塗り替える新しい発見がある可能性が秘められているのです。
2021.09.15
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(イリヌウタキ/西の御嶽)沖縄本島中部のうるま市に「浜比嘉島」があり琉球開闢の祖である女神アマミキョと男神シルミキョを祀った伝説がある「神の島」として知られています。平安座島から浜比嘉大橋を渡り「浜比嘉島」に入ると左側に「比嘉集落」右側に「浜集落」の2つの集落で形成されています。「浜比嘉島」には神道(カミミチ)と呼ばれる神聖な道に御嶽、拝所、井泉が数多く点在し、古き良き琉球の風景が残るゆったりとした時間が流れています。(地頭代火の神)「浜集落」は「アガリ(東)地区」と「イリ(西)地区」の2つに分かれており「アガリ(東)地区」の中心部にある「浜公民館」の敷地内には「地頭代火の神(ジトウデーヒヌカン)」が祀られています。コンクリート製の小祠の内部に火の神の依り代として三個の霊石が祀られる拝所となっています。琉球王府時代「浜集落」には地頭代のおえか地(役地)があり、地頭代の役職になるにはまず「浜集落」の地頭を勤める必要がありました。その為に「地頭代火の神」がこの地に奉安されました。(地頭代火の神の内部)「地頭代火の神」の祠内には中央に「奉納」と彫られた霊石、その左右に2基の石造りウコール(香炉)と2つの陶器製ウコールが祀られています。ヒラウコー(琉球線香)は陶器製ウコールのみで使用されています。この小祠には1713年に王府が編纂した「琉球国由来記」に記される「殿(トゥン)」と呼ばれる「浜集落」の里主(サトゥヌシ)所が合祀されています。現在も「地頭代火の神」は"立身出世の神"として進学や旅立ちに際し祈願する慣わしとなっています。(綱引きの場)(アガリエーガー/親川家)「旧浜中学校」と「浜公民館」に挟まれたこの道は「綱引きの場」と呼ばれる祭り道で、ここから西に150メートル先の「サーターヤー(製糖場)跡」まで直線の道が続いています。「浜集落」では旧暦6月24日〜25日に五穀豊穣祈願の目的で開催される「豊年祭」で綱引きが行われています。また「綱引きの場」の北側に「アガリガエーガー」と呼ばれる親川家の歴史深い旧家があり、強度と耐久性に富む「相方積み(亀甲乱積み)」の石垣が現在も残っています。旧正月の年頭拝み等で集落の住民により祈願されています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって中央)(ヌンドゥンチ内部/向かって左)(ヌンドゥンチ内部/向かって右)ノロは琉球王国時代に集落の祭祀を司った神女で「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」に住み、管轄する集落の祈願儀礼を行いました。御嶽や拝所で「オタカベ(お崇べ)」と呼ばれる神への祈願の言葉を唱え、神と交信する琉球神道における女性の祭司として琉球王府から正式に任命されていました。この「ヌンドゥンチ」には「大内家」のノロに琉球王府より献上された扇が祀られており、旧正月の年頭拝み等で集落の住民により拝まれています。(メーヌカー/前ヌカー)(メーヌカーの湧き水)「アガリ(東)地区」の南側に「メーヌカー(前ヌカー)」と呼ばれる井泉があります。ウブガー(産井)とも呼ばれる井戸で、旧正月の若水や赤ちゃんの産水はこの井戸から汲んでいました。亥の年に行われる浜比嘉島の伝統行事である「龕年忌祭(ウフアシビ)」では祈願が行われエイサーが奉納されます。浜グスクの丘陵の麓にある「メーヌカー」は水量が豊富で現在は農業用水としても使用されています。井戸にはウコール(香炉)が祀られ、住民は水の恵みに感謝して祈りを捧げます。(浜グスク)(浜公園の標識)「浜グスク」は「浜集落」を南側から見下ろせる位置に築かれており、グスクの北側崖部分に野面積みの石垣があり南東の崖の面に古墓が分布しています。グスク内は北側と南側で2メートル程の落差があり2つの曲輪から形成されています。「浜グスク」からは土器、陶器、須恵器などが出土されています。現在は「浜公園」として整備されて、自然豊かな住民の憩いの場となっています。展望台もありグスクからの絶景が楽しめます。(カーミット・シェリー大佐の碑)「浜グスク」の中腹に「カーミット・シェリー大佐の碑」が建立されています。カーミット・シェリー大佐は米軍海兵隊の大佐で、沖縄戦直後に浜比嘉島の再建に務めた人物です。シェリー大佐は海兵隊の部下を率いて荒廃した浜比嘉島に来て、家を建てたり学校の修理をし、ドラム缶で風呂を沸かし島民に提供し、発電機を設置して電気を通したりして住民との交流を深めました。野菜作りで住民に収入を与え、クリスマスには海兵隊員がサンタクロースの格好をして島の子供達にお菓子をプレゼントしたりしたそうです。(カーミット・シェリー大佐の碑)米軍に納品する農作物の収入で島の農協を強化して立派な農道も整備されました。米軍が農業用の給水所を造った事で農業用水が枯渇することもなく島全体が活気づいていたそうです。島ではシェリー大佐が亡くなった後、感謝を示すため昭和43年に慰霊碑を建立して毎年6月23日の慰霊の日に慰霊祭を行っています。慰霊の日の前日には島民と海兵隊員が一緒に「シェリー大佐の碑」の清掃を続けており、浜比嘉島の住民は今でも海兵隊への感謝の気持ちを忘れず持っていて、反米軍の感情は無いと言われています。(龕屋/アカンマー跡)(龕屋/アカンマー跡の拝所)「浜グスク」の南側に「龕屋(ガンヤ)跡」があります。集落で亡くなられた方をお墓まで運ぶ木箱を龕(ガン)と言い、別名「アカンマー」とも呼ばれています。龕を収めていた小屋が「龕屋」であり、現在は拝所が祀られています。12年に1回「亥年」に行われる「龕年忌祭(がんねんきさい)」では、明治時代から昭和46年頃まで使用していたとされている龕の修理や修繕、龕屋跡の拝所での祈願が行われています。今日「龕屋跡」は一頭のヤギが門番として大切に守られています。(シーローガー/イーヌカー)「シーローガー(水道ガー)」は「アガリ(東)地区」最南端に位置し、別の名前で「イーヌカー」とも呼ばれています。水量が豊富な井戸で稲作の水を引いており、農作業の休憩場所でもありました。現在はコンクリートで囲って水を溜めポンプで汲み上げて農業用水に利用しています。「シーローガー」の正面にはウコール(香炉)が祀られており、旧正月の年頭拝み等で集落の住民により水への感謝が祈られています。(イリヌウタキ/西の御嶽)(ビジュル神)「イリ(西)地区」の最南端の森は「イリヌウタキ(西の御嶽)」と呼ばれる聖域です。「シリギチャー御嶽」の名でも知られるこの御嶽は「琉球国由来記」に勝連間切の拝所として「マサゴロヨリアゲ嶽」と記録されています。民話では「メーベーヌウタキ」と呼ばれ、金武王子のウナイ(姉妹)がノロとして来た事から「チンヌウタキ」とも言われました。御嶽の森を昇る石段の先には「ビジュル神」が粛然と佇み、霊石とウコール(香炉)が祀られています。(竜宮神)(七竜宮)「浜集落」の最西端に「浜比嘉ビーチ」があり、ビーチ南側に「竜宮神」の石碑が建立されています。「サングヮチャーの石」と呼ばれ旧暦3月3日の"サングヮチャー"に豊漁と航海安全などを祈願する拝所です。以前は海岸に平い大きな石があり、海獣のジュゴンや魚類、豚などを解体する場所でした。さらに「浜比嘉ビーチ」の最南端には「七竜宮」があり、霊石と貝殻が祀られ海の神に祈願する場所となっています。(浜集落の路地)「浜比嘉島」の「浜集落」は琉球王朝時代の原風景が残り、歴史と文化が大切に継承されています。世界遺産に登録されている「中城城跡」に使われている同じ技法の石垣積みが集落の生活に自然に現存し、琉球のロマンを存分に醸し出しています。島の外からの来訪者を優しく受け入れてくれる「浜比嘉島」の住民の心の温かさを感じ、御嶽や拝所のパワースポットが点在する「浜集落」は、まさに「神の島」の名に相応しい空間として我々を癒してくれるのです。
2021.09.06
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(比嘉グスク)沖縄本島「うるま市」の勝連半島から平安座島を結ぶ海中道路があります。さらに平安座漁港より浜比嘉島を渡る浜比嘉大橋を渡ると、右側に「浜集落」左側に「比嘉集落」があります。「比嘉集落」には琉球開闢の神々が祀られる「アマミチューの墓」や、アマミチューとシルミチューが居住した洞窟の「シルミチューの拝所」で有名な神秘の伝説があります。この聖域である「比嘉集落」の中心にそびえるグスクが「比嘉グスク」です。(ミーガー)「比嘉グスク」の西側に「ミーガー」と呼ばれる井戸があります。「比嘉集落」のイリ(西)地区とアガリ(東)地区を分ける道沿いにあり、集落の中心地の井戸として洗濯物や野菜洗いに利用され、更に子供達の水遊びをしていたほど水量が豊富でした。現在は水は枯れていますが、井戸周りの石垣は戦後に造られて集落の人々が水の神様に感謝する拝所として大切に守られています。(火の神/ニーヤー)「ミーガー」から「比嘉公園」に向かうと「火の神」の祠があります。この土地は「ニーヤー(根屋)」と呼ばれ、かつて「比嘉集落」の創始者が住んだ家があり集落の祭祀を中心に行う場所でした。この土地の外周には石垣が積まれ周囲の家よりも一段高い造りとなっておりコンクリート製の「火の神」の祠が建立されています。祠の内部にはウコール(香炉)が一基設置されており、集落の守り神として人々に祈られています。(比嘉公園)(地頭代火の神)「ニーヤーの火の神」の西側に「比嘉グスク」の小高い丘があり、その麓に「比嘉公園」と「地頭代火の神」の拝所があります。「地頭代火の神」の祠には大小5つのウコール(香炉)と霊石が祀られています。沖縄の地頭代(ジトゥデーヌヤー)は琉球王国時代の1429年から1879年にかけて各間切(現在の市町村)の地頭(領主)の代官として地方行政を担当した人物を示します。間切番所(現在の役場)の最高役位であり、行政を監理する役目を担っていました。この「地頭代火の神」は「比嘉グスク」への"お通し"の役割がある拝所として崇められています。(比嘉グスクの入り口)(比嘉グスク中腹からの風景)浜比嘉島には「浜グスク」と「比嘉グスク」の2つのグスクがあり、浜比嘉島周辺の島々は全て「勝連グスク」の統治下に組み入れられていました。浜比嘉島に築城された2つのグスクの按司達は、より強力な勝連按司の支配下で「浜集落」と「比嘉集落」の支配を行なっていたと考えられます。「比嘉グスク」は琉球石灰岩からなる小高い丘の上にあり、主郭がある丘上は周囲が断崖絶壁に囲まれる自然の要塞となっています。(比嘉グスクの頂上)(頂上の拝所)(頂上から見た宮城島)沢山の蝶々が飛ぶ230段の階段を昇ると頂上に約150坪(約500平方メートル)の平地が現れます。「比嘉グスク」の主郭はこの頂上の平場にあり、主郭への侵入を防ぐために虎口を故意に狭めたり段差を付けたりするなど工夫された跡が確認されます。頂上にはコンクリート製の拝所があり、祠内には多数の霊石と貝殻が祀られています。「ウマチー」と呼ばれる豊穣祈願と収穫祭の際には、この拝所が「比嘉集落」の住民により祈られています。(ウィヌカー/上ヌカー)(シーガー/チンガー)「比嘉グスク」北側の麓で旧比嘉小学校へ向かう坂道の途中に「ウィヌカー」と呼ばれる井戸があり、旧正月の際に「ヌンドゥンチ(ノロ殿内)」と「テーラ」と呼ばれるアマミチューを祀る拝所がある神屋だけは「ウィヌカー」で若水を汲む事になっています。また「比嘉集落」の西側の住民が飲料水として使用していた事から「イリ(西)ガー」とも呼ばれています。更に「比嘉グスク」の南側に「シーガー」と呼ばれる井戸があります。衣類を洗濯する井戸で水浴びにも利用されていました。また、着物のことを"チン"と呼ぶことから「チンガー」とも言われています。(アガリガー/東ガー)(ユチャガー/世ちゃ川)(ユチャガーのウコール)「比嘉集落」の南側に「神道(カミミチ)」と呼ばれる神様が通る道があります。その聖道沿いにアガリ(東)地区の井戸である「アガリガー(東ガー)」が湧き出ています。水量が豊富な井戸だった事から昔から生活用水を汲んだり、洗濯をする場所として重宝されていました。1960年頃に井戸の周囲をコンクリートで固め、現在は旧暦の年頭拝みで水への感謝が祈願されています。井戸の正面の凹みにはウコール(香炉)が設置されており、集落の住民により祀られています。「比嘉グスク」の西側で「浜比嘉島」の中心部にある森に「ユチャガー(世ちゃ川)」があります。隣接する古墓群の丘陵から湧き出た井戸で比較的規模が大きく水量が豊富です。現在は周辺の農業用水として活用されています。(比嘉公民館方面からの比嘉グスク)以前、伊計島のノロの方にお会いした時に「御嶽や拝所に行っても神様の声を聞けなかったら意味がない。神様に御嶽や拝所に呼ばれた意味が確実にあり、神様は何かを伝えようとしている」と教わりました。「比嘉グスク」頂上の拝所で私は祠の貝殻と霊石に「どうやったら神様の声が聞けるのでしょうか?」と話しかけました。その帰り道の「比嘉グスク」中腹で写した写真に虹色オーブが映り込んでいたので、明らかに神様は私に何かメッセージを伝えようとしていたに違いありません。浜比嘉島は間違いなく"神の島"であり、島全体が神秘の力で溢れているのです。
2021.08.15
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(イツクマの浜)「伊計島」は沖縄本島中部のうるま市にあり面積1.8平方km、長さ約2km、幅約1km、周囲7.5kmの南北に細長い島です。与勝半島の北東側に浮かぶ平安座島、宮城島、そして伊計島に順に並ぶ島々はそれぞれハナレ、タカハナレ、イチハナレと呼ばれ、昭和47年に海中道路が開通されるまでは屋慶名港から出る船が唯一の交通手段でした。「伊計島」の住民は島の南部にある「伊計集落」に集中し、さまざまな遺跡文化財を有しています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって右側)(ヌンドゥンチ内部/向かって左側)「伊計集落」の中心部に「ヌンドゥンチ」と呼ばれるノロ殿内があり赤い鳥居が建てられています。伊計島のノロ(神人)が神々に祈りを捧げる聖域で、殿内の内部には向かって右側にヒヌカン(火の神)と七福神の掛け軸が祀られています。向かって左側にもヒヌカン(火の神)とビジュル霊石とウコール(香炉)が祀られています。琉球古民家の仏間と家屋構造は文化的にも歴史的にも非常に価値があります。(ウドゥイガミ/天神堂)(ウドゥイガミ内部/向かって右側)(ウドゥイガミ内部/向かって左側)「ヌンドゥンチ」の東隣に「N高等学校(旧伊計小中学校)」があり、校庭はかつて「伊計集落」のアシビナー(遊び庭)としてエイサーや獅子舞が披露される芸能の中心部でした。現在、その場所に「ウドゥイガミ/踊神」が祀られる「天神堂」があります。建物内部には向かって右側に七福神の掛け軸とウコール(香炉)、中央の仏壇にウコールと花瓶、更に向かって左側にはビジュル霊石とウコールがそれぞれ祀られています。(神アシャギ)(地頭火ヌ神)「天神堂」の南東側に「神アシャギ」があり「トゥンチマー」とも呼ばれます。伝統行事の拝みの際に海から訪れた神をこの場所で集落のノロが迎い入れてもてなします。さらに樹齢の長いガジュマルの木の下に「地頭火ヌ神」が祀られています。ニービ石で造られた石碑にはウコール(香炉)が設置されており、幾つもの霊石が供えられています。「地頭火ヌ神」があるこの場所は昔から集落の中心部であった事が考えられます。(伊計神社/種子取神社)(弁財天)「神アシャギ」と「地頭火ヌ神」があるこの地は「掟殿内(ウッチドゥンチ)」と呼ばれる「掟神(ウッチガミ)」を祀る聖地です。「ヌルドゥンチ」よりも古い歴史があると言われ「伊計集落」の祭祀行事の中心地として崇められました。現在、この地には「伊計神社」があり、境内には「弁財天」の社殿があります。「伊計神社」は「種子取神社」とも呼ばれ「琉球八社」の一つである那覇市奥武山「沖宮」の末社として奉仕されています。「伊計集落」の根所(集落発祥の地)に「伊計ノロ」の家と集落の4つの家の合資により建立された「伊計神社」の御本尊には「大黒」「恵比寿」「弁財天」が祀られています。「沖宮」の先代宮司の一番弟子であったカミンチュ(神人)の「伊計ノロ」が建立した神社であるため「伊計神社」には「沖宮」との強い結びつきが生まれたのです。(伊計権現堂)「伊計神社」に隣接して「七観音」が祀られている「伊計権現堂」があります。ここで「伊計神社」の代表である「中村ユキ子」さんとの出会いがありました。中村さんは現役の「伊計ノロ」で「伊計神社」を建立した「伊計ノロ」は中村さんの母親です。中村さんは「せっかくだから、見てあげるよ」と言い私を権現堂に案内しました。自己紹介と生まれ年と干支を言い会話が始まりました。「ここに迷わずにたどり着けたのは神様に呼ばれた証。あなたのように御嶽などに足を運ぶのは、そこの神様に呼ばれているから。もし肩が重くなったり体調不良になったら、歓迎されていないので立ち去るべき。もし歓迎されているなら非常に心地良い気分になる」など私は現役の「伊計ノロ」との会話に引き込まれていました。(権現堂の内部)続けて中村さんは権現堂の祭壇に目を向けると「あなたは"琉球八社(七宮八社)と首里十二支巡りをしなさい"とたった今、神様から告げられた。時間がある時に無理せず急がず全て巡れば、扉が開き次の段階に行ける。次の段階では新しく理解する事に気付き、新しく見えるもがある」と「七観音」の神様からのお告げを私に伝えたのです。さらに「あなたが住んでいる場所の土地神は普天満宮だから必ず拝みに行きなさい。働いている場所の土地神にも挨拶を忘れずに行うこと」と続け、土地や自然への感謝は人として当然の事だと伝言を頂きました。(伊計神社の祈りの30箇条)更に中村さんから「伊計神社の祈りの30箇条」を頂戴しました。第1条は「伊計神社」を祈る事から始まる意味が込められて、30箇条は第2条から始まっています。「伊計神社」と「伊計権現堂」に描かれた龍の絵画の作者による「弥勒菩薩(ミルク神)」が添えられています。30箇条の全てが大切で重要な要素でありますが、「2. 祈りは魂を込めて」「5. 祈りは無欲無心に」「18. 祈りは原始からの行動である」「22. 祈りは魂の根源に存在する」「23. 祈りは人間性を高める」の5つが現在の私の心に特に響きます。非常に貴重なものを頂いたので額縁に飾り大切にしてゆきます。(伊計島亀岩龍宮神)「伊計ノロ」の中村さんは「今度来る時は電話してから来たら良い」と言って私は名刺を頂戴しました。最後に中村さんに「これから龍宮神に行きなさい」と告げられました。「伊計神社」から南に一本道を進むと「イツクマの浜」に出て「伊計亀岩龍宮神」に到着しました。「亀岩」と呼ばれる孤立した岩には「龍宮神」の石碑が東向けに建てられており、海の神様である「ニライカナイの神」が祀られています。「伊計集落」の神事の中心地である「ウッチドゥンチ」から「竜宮神」への一本道は昔から「神道」であったと考えられます。(イツクマの浜/石獅子)(ウスメーハーメー)「伊計島亀岩龍宮神」に隣接して「イツクマの浜」があり、浜の脇には「石獅子(シーシ)」が設置されています。この「石獅子」は海中から発見されて引き上げられ、次のような逸話が伝わります。『昔、ある男が土地の開墾の為に石獅子を3つに割り除去しました。すると男に災いが起きた事から石獅子の祟りだと信じられたのです。』「石獅子」は元の姿に復元され「イツクマの浜」に向けて海の安全を見守っているのです。また「石獅子」の直ぐ西側には「ウスメーハーメー」の石柱が建立されています。「ウスメー」は"お爺さん"「ハーメー」は"お婆さん"の意味があります。(セーナナー御嶽)(セーナナー御嶽の鳥居)伊計島の最南端に「セーナナー御嶽」があります。この地は伊計島に最初に人が暮らした地と言われる聖なる森です。この御嶽の入り口に「御嶽の鳥居」が建てられています。現役「伊計ノロ」の中村ユキ子さんによると、この御嶽は「伊計神社」と深い関わりがあり、神社建立の礎となった神様が降臨した聖地と崇められています。SNS、YouTube、インターネット上では「セーナナー御嶽」が間違えた認識で紹介されています。御嶽の先の岩場にある"丸い鏡"は新興宗教が勝手に設置したもので「セーナナー御嶽」とは全く関係がありません。勿論、歴代の「伊計ノロ」も現役の「伊計ノロ」の中村さんも岩場の"丸い鏡"を絶対に拝む事はありませんし、うるま市教育委員会も文化財として認めていません。(セーナナー御嶽の石碑)(セーナナー御嶽の社)「セーナナー御嶽」の森に「金刀比羅大神、恵比須大神、大國大主神」が祀られています。「金刀比羅大神」は天神地祗八百万神の中で運を掌る神。「恵比須大神」は七福神の福の神、漁業の神。「大國大主神」は国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神。石造りの拝所は本殿と社殿に3つの神々が祀られていると考えられ、それぞれの神にウコール(香炉)と霊石が供えられています。「セーナナー御嶽」は定期的に「伊計神社」の現役「伊計ノロ」の中村さん達により清掃され拝まれているそうです。(セーナナー御嶽の拝所)(御先神様御降臨の聖地)「セーナナー御嶽」の森から海側に抜ける通路があり、向かって左側に御嶽の守護神である石造りの拝所がありヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。海に抜ける道の先も聖域となっており、拝所は神聖な場への"お通し"の役割もあると考えられます。更に向かって右側に「御先神様御降臨の聖地」と刻まれた石柱があります。つまり、この石碑が建立されている森の一帯は神様が降臨した聖地であると示しています。森を抜けると突然辺りが太陽の光に包まれており、大小数えきれない程の色とりどりの蝶々が私の周りを舞っていました。後に「伊計ノロ」の中村さんに話したところ「聖地があなたを歓迎している証。実際に蝶々がいたのか、それともあなたにしか見えない神業か、いずれにせよその不思議な体験は、一つクリアした事になる」と仰っていました。(聖地の石碑)無数の蝶々に歓迎されて森を抜けた突き当たりにニービ石造りの石碑が建っています。「天帯子御世結び (てんたいしうゆうのむすび) 伊計種子取繁座那志 (いけいたんといはんざなし) 中が世産女母親 (なかがゆううみないははしん)」と彫られています。つまり「伊計種子取」の神様を祀る石碑で13〜14世紀の「天帯子」の三山時代に「産女母親」によって建立された事を意味しています。この「種子取」の神は「農耕の神様」を意味し「伊計ノロ」の中村さんによると「伊計神社」は元来、この農耕神を祀った神社で、その証拠に「伊計神社」は別名「種子取神社」と呼ばれます。実際に「伊計権現堂」には「伊計種子取神社」と木彫りされた古い扁額(へんがく)が存在します。(伊計神社のフクギ道)「伊計ノロ」の中村さんが歴代ノロから受け継いだ「種子取神」の伝承があります。その昔、伊計島の先人が「セーナナー御嶽」を抜けた岩場から海に浮く大きな甕壺を見つけました。いくら手を伸ばしても甕壺は逃げてゆきます。その時は汚れた衣服だったので、後日きれいな正装をして再び訪れると甕壺が海から飛び出し上陸したのです。甕壺の中にはサトウキビ、イネ、イモの種子が入っており、先人は荒れた地を耕し種を植えて育て伊計島に果報をもたらしました。それ以来、伊計島では「セーナナー御嶽」の先に降臨した「種子取」を"農耕の神"と崇めて来たのです。(宮城島から見た伊計島)「種子取」の神がもたらした甕壺が浮いていた海底には大きな亀裂が入っており、干潮の時のみ全貌を見せます。「伊計ノロ」の中村さんはその亀裂がある場所に来る度に必ず見えるものがあると言います。どこかの国の民族衣装を着た数名の古代人が亀裂のある場所で祭事を行っている光景で、もしかしたら琉球発祥の地は久高島でも浜比嘉島でもなく、実は「伊計島」なのではないかと考えているそうです。「伊計島」は未だに解明されていない数多くの遺跡があり、島全体に神が宿るパワースポットとして日出る太平洋に今日も浮かんでいるのです。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.05.22
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(江洲グスク/イーシグスク)うるま市の「宮里集落」の南西側に「江洲グスク」があり「イーシグスク」の名称でも知られています。県道224号線の江洲交差点や宮里交差点からひときわ目立つ小高い腰当森は「宮里集落」のシンボルであり、集落を繁栄させたグスクとして愛されています。「宮里集落」は人口約3,700人の小さな集落ですが、拝所や集落の環境美化や集落の恒例行事が盛んな地域となっています。(ヌルジガー)「江洲グスク」の南側に「江洲ヌン殿内」があり、敷地内に「ヌルジガー」の井泉があります。かつて江洲グスク周辺を司ったヌル(ノロ)が住んでいた殿内に湧き出ていた神聖な井泉で、ノロ(祝女)の祭祀行事に使用された神水を汲んでいた井戸でした。現在は井戸がコンクリートで閉じられていますが、祠とウコール(香炉)が祀られ人々に拝まれています。(イチャガーガー跡への階段)(イチャガーガー跡)「江洲グスク」の西側に中原小学校が隣接しており、残される古地図によると小学校脇のグスク中腹に「イチャガーガー跡」があると考えられます。井泉の周辺はグスク西側を守る堅固な古い石垣が現在も残っています。普段は湧き水は確認されませんが、長雨などでグスクの琉球石灰岩の地盤に水が溜まると、現在でもグスク中腹の「イチャガーガー跡」周辺から水が湧き出ます。湧き出た水は井泉跡への階段を下り、階段下の用水路に流れ込む構造となっています。(ウフガーのフェンス)(ウフガー/産川)「江洲グスク」北側の麓に「ウフガー(産川)」があり、現在でも水が豊富に湧き出る現役の井泉となっています。横幅が約3m、縦に約1mの長方形の井戸が、コの字に積まれた高さ1m程の石垣に囲まれています。かつて「宮里集落」で子供が生まれると「ウフガー」の水を汲み産湯に使用していました。現在は鍵の掛かったフェンスに囲まれており、井戸にはウコール(香炉)は設置されていません。農業用水に特化した井戸として周辺の田畑に利用されています。(ミーカーのフェンス)(ミーカー)「ミーカー」は「江洲グスク」の北東側に湧き出ており簡易フェンスに覆われています。深い草木が生い茂っていますが、横幅が約3mで縦に約1mの長方形をした井戸が確認できます。古地図にはこの場所に「ミーカー」がある事を示しており、この井戸から農業用の水路が東側に延びています。現在も豊かな水源となっており、ポンプで水を汲み上げるホースが周辺の田畑に農業用水を提供しています。(シードーガーのフェンス)(シードーガー)「ミーカー」のすぐ南側に「シードーガー」があり、この井戸も鍵が付いたフェンスに囲まれています。「シードーガー」は直径1.5mの円形井戸で比較的小型の石を積み上げた構造になっています。井戸は深さ1mの位置にまで豊富に水が沸いており、井戸には水を汲み上げるポンプのホースは確認できませんでした。水の神を祀るウコール(香炉)も見当たらず、井戸を囲むフェンスは誤って人が井戸に落下しないように安全面を考慮して設置されたと考えられます。(マーカー)(マーカーの石構え)「江洲グスク」の西側の麓に「マーカー」があります。現在も水が湧き出ており、井戸は横幅が約3mで奥行きが約2.5mの長方形の石造りとなっており、上部に「マーカー」を祀る祠の内部にウコールが設置されています。 井戸を囲む敷地全体の広さは横に約5m、縦に約10mもある大型で、井戸を囲む石垣は4段構え(1段目/1m、2段目/1.5m、3段目/2m、4段目/2.5m)となっています。井戸の神水で育った樹齢の長いフクギが神秘的に枝を伸ばしています。(火の神/ヒヌカン)(根屋/ニーヤー)「宮里集落」の中央に宮里公民館があり、その東側に集落の守護神である「火の神(ヒヌカン)」があります。祠には天地海を示す3つのビジュル霊石とウコールが祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられてありました。「火の神」にはニービ石造りの霊石も一緒に祀られてあります。向かって右側にある「根屋(ニーヤー)」は宮里集落の創始者が住んだ屋敷から現在の位置に移動されて、この場で集落の祭祀行事が行われています。(ウブガー/産川)宮里公民館の北東側に「ウブガー(産川)」があり、両側を芭蕉(バナナ)の木に挟まれています。かつて「ウブガー」は集落の飲料水や生活用水に利用された他にも、子供が産まれた時にこの井戸から水を汲み産湯に使用して健康祈願をしていました。旧正月元旦には若水を汲み、湯を沸かしてお茶を飲み一年の無病息災を祈願しました。井戸にはウコール(香炉)が設けられており、水の神に感謝する祈りが捧げられいます。(ティランナーの森)(ティランナーの拝所)宮里公民館の東側に「ティランナー」と呼ばれる拝所の森があります。小高い丘に立派なガジュマルが育つ不思議な雰囲気の一角で、「ティランナー」の東側に入り口があります。森の中央には3つの石造りの祠が北を向いて建てられています。それぞれの祠には石造りと陶器のウコールが祀られており霊石が供えられています。「宮里集落」では収穫祭や感謝祭に「ティランナー」で五穀豊穣の祈願が行われています。(宮里児童公園からの江洲グスク)標高100mの丘にある「江洲グスク」は「おもろさうし」に記される古いグスクで「ゑすのもりくすく ゑすのつちくすく」と謡われ、かつてグスク周辺に立ち並んだ琉球古民家の情景の美しさを今に伝えています。「江洲グスク」は琉球王国時代より周辺集落の中心地で、グスク土器、須恵器、中国製の陶器などが多数見つかっています。現在もグスクの面影を変える事なく、集落住民の心の拠り所として大切に崇められているのです。
2021.05.15
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(屋慶名のガジュマル)「屋慶名集落」は沖縄本島うるま市の東方に位置し太平洋と金武湾に面しています。琉球王朝時代に勝連間切りに含まれ、与那城の先人は奄美から大和、朝鮮にかけ海外貿易の船乗りとして活躍していました。屋慶名港は前に浮かぶ藪地島が太平洋の荒波を防ぐ防波堤となり、船舶の出入りに都合の良い港であり当時のエネルギーであった薪や炭を始め、あらゆる生活物資を輸送するマーラン船(山原船)の中継拠点として大いに栄えていました。(屋慶名の土帝君)「土帝君(トゥーティークー)」とは沖縄における中国の土地公(土地の神様)を意味し「球陽」の巻九によると、1698年に大嶺親方鄭弘良が中国から土地公の神像を持ち帰り自分の領地である旧小禄村大嶺を祀ったのが最初だと言われています。現在、沖縄では42箇所の「土帝君」が見つかっており「屋慶名の土帝君」の祭祀は農業等の繁栄を祈願し、中国の土地公の誕生日である旧暦2月2日に拝まれています。(3代目屋慶名のクワーディーサー)(屋慶名のクワーディーサーの歌碑)屋慶名自治会の敷地に「屋慶名のクワーディーサー」があり、現在のクワーディーサーは3代目となっています。古葉手樹(コバテイシ)と呼ばれる木で沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布しています。墓の庭に植えられ人の泣き声を聞いて成長すると言われる神秘の木です。1670年頃から歌い継がれる「屋慶名クワーディーサー」の歌はとても有名で、木の麓には歌碑が建てられています。また、10月には「屋慶名クワーディーサー祭」が行われ集落の有志によるエイサーの演舞が奉納されています。(旧屋慶名区役所のヒヌカン)(ヒヌカンの祠内部)屋慶名区役所と屋慶名公民館は道を一本挟んだ「屋慶名自治会」に移転しており「ヒヌカン(火の神)」は昔から同じ場所で住民に拝まれています。祠の内部には3基のウコール(香炉)と、天地海を意味する3つのビジュル霊石が祀られています。屋慶名集落の守護神として外部からの悪霊を祓う役割があります。隣接する「屋慶名のクワーディーサー」と共に屋慶名集落の長い歴史を見つめてきた大切な文化財となっています。(屋慶名のフクギ)(フクギの麓にある古井戸)屋慶名集落の中央に「西屋慶名」と「東屋慶名」を分ける屋慶名川が流れています。西屋慶名にある屋慶名川沿いの屋敷に、周囲をブロックで円状に囲んだ古井戸があります。古井戸には石作りの半蓋と屋根が取り付けてあり、苔に覆われた古い石段が敷かれています。古井戸の脇には樹齢の古いフクギの木が育っており、古井戸の水の神を祀っているように天に向かって一直線に伸びていました。(屋慶名西公園のガジュマル)(屋慶名西公園の拝所)屋慶名自治会の北側に「屋慶名西公園」があります。公園には高樹齢のガジュマルがあり、幾本もの枝がお互いに絡み合いながら大地にしっかりと根を伸ばしています。ガジュマルはキジムナーと呼ばれる妖精が宿る神の木として崇められ、勝手にガジュマルの枝を切ったりすると妖精に祟られると言われています。公園の東側には小さな井戸跡に拝所の祠が祀られていました。(与那城監視哨跡の入り口)(与那城監視哨跡)「与那城監視哨」は航空機を早期に発見し、敵味方を区別して防空機関に知らせるための施設で、屋慶名集落の「イシマシムイ」の丘の上にあります。正八角形のコンクリート製で、入り口以外の7つの壁面には1つずつ窓枠があり360度見渡せる構造になっています。壁面には沖縄戦当時、米軍による銃撃を受けた痕跡が現在も生々しく残っており、戦争遺跡として大変貴重な文化財となっています。(イシガー)(イシガーのガジュマル)「屋慶名監視哨」がある「イシマシムイ」の丘の麓に「イシガー」と呼ばれる井泉があります。水源が豊富な「イシガー」はかつて集落の飲料水や生活用水に使用され、水の神様が祀られています。井泉の霊水の恵みを受けて樹齢の高い立派なガジュマルが育っています。神が宿る「イシガーのガジュマル」と呼ばれ、昔から集落の住民の信仰対象とされていました。(イリーガー)(アガリガー)「屋慶名集落」の西側(西屋慶名)に「イリーガー」、東側(東屋慶名)には「アガリガー」があります。沖縄の言葉でイリーは西、アガリは東、ガーは川や井泉を意味します。屋慶名集落の井戸は比較的大規模で井戸の手前に広い空間が設けられている事が特徴的です。他集落ではあまり見かけない構造を可能にしているのが屋慶名集落の豊富な湧き水で、この集落が古より港町として繁栄した証となっています。(メーガー)(フルガー)「屋慶名(東)交差点」の周辺には井泉が集中しており、東屋慶名地区が水源の宝庫となっています。西屋慶名はガジュマル、フクギ、クワーディーサーなど数多くの霊木に覆われており、東屋慶名には豊富な神水が湧き出ているのです。「メーガー」も大規模な井泉で門構えがある堅固な構造です。「フルガー」は東屋慶名の「兼久商店」駐車場にある小さな古井戸となっています。(兼久商店)(兼久商店の自動販売機)(屋慶名の海にあるHYロゴマーク)東屋慶名の「兼久商店」は沖縄のバンド「HY」のファンにとって、余りにも有名な聖地として知られています。HYが2001年に発表したアルバム「Departure」に「兼久商店」というタイトルの曲が収録されています。商店の自動販売機には「HY誕生の地」と記されており、HYと非常に関わりのある商店としてメンバー、ファン、地元住民に愛され続ける非常に価値の高い文化財となっています。更に、屋慶名の海には石が並べられてHYのロゴマークがデザインされています。このロゴマークは干潮時のみ現れて見ることが出来ます。(屋慶名郵便局前のフクギ)「海の民」であった与那城の人々は大正から昭和初期にかけて東南アジア、中南米など広く海外へ雄飛し活躍し、屋慶名地区は周囲の離島を結ぶ拠点として政治、経済、文化の中心地として繁栄しました。屋慶名集落には東屋慶名の井泉と西屋慶名の木々の自然という貴重な財産があり、琉球王国時代からの遺跡文化財が多数継承される魅力溢れた地域となっています。集落には古き良き琉球の時間がゆっくりと流れており、大自然の神々を感じるパワースポットとなっているのです。
2021.05.13
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(田場集落/古民家の赤瓦門)旧具志川市の「田場集落」は、現うるま市の中心部で金武湾に面した地域にあります。古い石垣とフクギに囲まれた古民家が残る、古き良き琉球時代の雰囲気を感じる集落です。「田場集落」は伝統芸能が盛んな地域でもあり、臼太鼓や獅子舞、無形文化財指定のティンベーと呼ばれる盾と槍を用いた琉球古武術等が大切に保存継承されています。(浜千鳥の歌碑/表側)具志川ビーチと赤野漁港の間に位置する海辺に「浜千鳥の歌碑」があります。沖縄民謡の「浜千鳥節」や琉球舞踊の「浜千鳥」は非常に有名で、浜千鳥は沖縄の言葉で「チャジュヤー」と呼ばれます。具志川小学校近くの田んぼの水管理をしていたら、赤野浜で鳴く千鳥の声に郷愁感に誘われて歌に詠んだと伝えられ、旧具志川市の伊波家で19世紀半ば頃から代々口承されてきたそうです。(浜千鳥の歌碑/裏側)歌碑に刻まれた歌詞は表側に「旅や 浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親の おそば」とあり、裏側には「たびや はま やどぅい くさぬ ふぁどぅ まくら にてぃん わすぃ ららん わやぬ うすば」と記されています。(竜神宮の森)(田場竜神宮の祠)「浜千鳥の歌碑」の南側に「田場の竜神宮」がある森が海辺に佇んでいます。森の入り口から細い階段を登ると竜神宮の祠があります。竜神宮には海の神様が祀られており、海の恵みや航海の安全を祈る拝所となっています。「田場の竜神宮」の森からは金武港、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島を見渡し、ニライカナイ(理想郷)がある東の海に祈りを捧げる聖地となっています。(竜神宮の祠の右側にある石碑)(竜神宮の祠の左側にある石碑)「竜神宮の祠」の向かって左側に建つ石碑には「あがり世遙拝之碑」と刻まれています。「あがり」とは沖縄の言葉で「東」を意味しており、遠く離れたニライカナイに遙拝(ようはい)する石碑が祀られています。左側にある石碑には「天在子(テンザイシ)の結(ムス)び 田場久麻牟繁座那志(タバクマムハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。(アカザンガー入り口)(アカザンガー)「アカザンガー」は田場集落で生活用水として利用されてきた水量が比較的豊富な井泉です。この井泉の周辺で弥生時代後期頃(沖縄貝塚時代後期)の遺跡が発見されており、この井泉の名に因んで「アカジャンガー貝塚」と呼ばれています。この貝塚から出土された土器は「アカジャンガー土器」と命名されました。この井泉は現在、地域の子供達の水遊び場として親しまれています。(田場ガー)(洗濯ガー)「アカザンガー」の北西側に「田場(ダーバ)ガー」という井泉があり、別名「産(ウブ)ガー」と呼ばれています。かつて飲み水や生活用水として利用してきた他に、正月の若水や子供が生まれた時の産水、ウマチー(豊年祭)や水ナディー(水撫で)の際に「カー拝」がありました。「田場ガー」の大きな井泉は飲み水や生活用水に使用し、小さな井泉は「洗濯ガー」と呼ばれ、井戸の前にある丸型の石を利用して洗濯をしていました。(田場ガーの祠)(石敷と石段)「田場ガー」は沸口を囲んだ2つの井池と水神の祠、マグサ(目草)、洗濯石、歩き道の石敷で形成されます。石積み様式は相方積み、布積み、土留めの上部には小石の野面積みも確認されます。旧具志川市内では最も優れた石造技術で施されたカー(井泉)の1つとして、田場集落では「命の泉」への感謝が込められ大切にされています。(田場港原の記念碑)「アカザンガー」と「田場ガー」の間に「港原」と呼ばれる田園地帯があり、人知れず草木に覆われて石碑が建っています。この一帯はかつて具志川最大の美田地帯でありましたが、昭和46年の大干ばつを境に土地が荒廃してしまいました。10年後の昭和56年に土地の蘇生整備が行われ、広大で肥沃な土地を再び荒廃させる事の無いよう記念碑が建てられました。そのお陰で現在の港原は豊かな自然に恵まれています。(田場の神女殿内)(田場の神屋)田場集落の北側で赤野集落に隣接する仲本家の屋敷は「神女殿内」で敷地内には「神屋」があります。「神女殿内」はヌルドゥンチと呼ばれ、集落で最高位のノロ(神女)が住む家となっています。「神屋」は神アシャギと言われ、ノロが神を呼び祭祀を行う神聖な場所です。神屋は扉が開けられており、内部には3つの霊石、陶器のウコール、石造りのウコールが設置されていました。(高等教育発祥の記念碑)田場集落の南側(田場1054番地辺り)に「高等教育発祥の地」と刻まれた石碑があります。石碑の裏側には「太平洋戦争直後の1946年1月より40年余、ここ田場原頭に極度の窮乏のなかて、学びて倦むことを知らぬ燃える青春群像があった。琉球大学の前身としての役割を担った沖縄文教学校、沖縄外国語学校が、幾多の俊秀を世に送り出した、ここは、戦後高等教育の発祥の地である。」と記されています。(田場168番地の拝所)田場集落は古より広大な田畑が広がる地域で「田場」という地名もそれに由来していると考えられます。井泉(カー)、神女殿内(ヌルドゥンチ)、御嶽などの遺跡文化財は県道8号の南側に集中している事から田場集落は北側で発祥し、時代と共に居住地が南側に広がったと思われます。そして田場集落の南側で沖縄の戦後高等教育が生まれ、現代の沖縄県の発展に大きく役立つ重要な地域として発展してきたのです。今後も歴史、文化、伝統を大切に守り、未来の沖縄に明るい光を灯す集落で居続ける事を期待しています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2021.04.05
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(喜屋武マーブ公園展望台)うるま市にある「喜仲集落」は1956年に「喜屋武/チャン集落」と「仲嶺/ナカンミ集落」が統合された地域で「喜仲/チャンナカンミ」の愛称で呼ばれています。「喜仲集落」のシンボルである「喜屋武マーブ」は旧具志川市で一番標高が高い位置にあり、古より御嶽、グスク、火打ち嶺と役割を変えながら「歴史の証人」として存在し続けています。(シードゥーガー)(仲嶺の殿)(地頭火ヌ神)「シードゥーガー」は「喜屋武マーブ」の森にある井泉で、琉球王府時代の男子が15歳になり結髪式の際に身を清める王府公認の井泉です。当時の具志川間切には15の村がありましたが「シードゥーガー」と呼ばれる井泉は仲嶺と田場の2集落だけでした。建造年代は不明ですが、小規模ながら切り石積みで作られ保存状態は良好を保っています。「喜屋武マーブ」の中腹に「仲嶺の殿」と「地頭火ヌ神」があり「琉球国由来記」には『マフノ嶺ノ殿』と記されています。「殿/ドゥン」とは祭祀の際に根神たちが集合する場所で、大きなミートゥ(夫婦)松があった聖域でした。「仲嶺の殿」に隣接して「地頭火ヌ神」が祀られています。旧正月三日の「ハチウクシー/初興し」や年4回の「ウマチー/豊穣祈願と収穫祭」に祈られています。(山乃神)(マーブの嶽)(マーブの嶽/祠内部)「喜屋武マーブ」の北部に「山乃神」があり祠は南西を向いています。祠内には"山乃神"と彫られた霊石が設置されています。「山乃神」を更に北に進んだ森の奥地に同じく南西に向いた「マーブの嶽」が佇んでいます。「仲嶺集落」の守護神で「琉球国由来記」には『マアブノ嶽』と記されています。近世では、この御嶽から煙を焚いて旅に出る家族を見送った事で「火タチモー」と呼び、旅の安全を祈願する役割も果たしています。(喜屋武按司の墓)(喜屋武按司の墓)(喜屋武按司の墓/アコウの木)「喜屋武グスク/喜屋武マーブ」の中腹には「安慶名大川按司」一世の四男である「喜屋武按司」の二男と三男の按司墓があります。1972年(昭和47年)に行われた按司墓の修復の際、釉薬仕上げの御殿(ウドゥン)型の厨子甕(ジーシガーミ)が2基確認され、いずれの墓からも遺骨が発見されました。因みに「喜屋武グスク」の4代目按司になる「大城賢雄」は1458年の「阿摩和利の乱」で「勝連グスク」城主の「阿摩和利」を討伐した人物で「鬼大城」の名で知られています。(仲嶺のブーマー神)(仲嶺の村神/喜屋武按司神屋)(仲嶺の根人屋/ニーチュヤー)「仲嶺集落」北部に「仲嶺のブーマー神」があり霊石が祀られています。ブーマー神とは古代の先祖の葬所で祖霊神が鎮座する聖域で、関係する御嶽を遥拝する場所だと考えられています。更に「仲嶺のブーマー神」は海が見える小高い場所にあるため、神様が住む理想郷であるニライカナイから豊穣の神様を迎える御嶽との説があります。「仲嶺の村神/神名イシズカサノ御イベ」は「喜屋武按司神屋」の新築に伴い2003年に同じ建物内に合祀されました。新しく仲嶺の住民になった際に引っ越しの報告、家庭円満、無病息災等を祈願します。ウマチー(豊穣祈願/収穫祭)ではお粥を作ってお供えします。「仲嶺の根人屋」は仲嶺集落に初めて住み始めた「根人/ニーチュ」が暮らした場所として伝わっています。(カミミチの東側入り口/喜仲4丁目5番地)(カミミチの西側入り口/喜仲4丁目4番地)「仲嶺集落」には「カミミチ/神道」と呼ばれる道があります。「カミミチ」は非常に神聖な道で「マーブの御嶽の殿」を参拝する時に籠に乗って通る道でした。また、龕(ガン)という葬列葬式に棺を入れて墓まで運ぶ神輿を運ぶ時に決して通ってはいけない道でした。「カミミチ」に接する家では「カミミチ」側に台所、便所、畜舎は作らず必ず一番座(床の間)を設けます。そのような特別な家の設計を「ヒジャイガメー」と呼びます。(仲嶺の産泉/ウブガー)(昭和タマガー)(仲嶺の根人井/ニーチュガー)「カミミチ」には「仲嶺の産泉/ウブガー」があります。集落で子供が産まれると産泉に報告し加護を祈念しました。赤子の額を「ウブガー」の水で撫でた後に産湯として使用しました。結婚の時には新婦は産泉の水を婚家の仏壇に供え、正月には若水を汲み身を清めるお茶をたてて心身の若返りを祈願しました。また、日常の生活用水や死者の湯かんにも「ウブガー」の水が使われていました。「喜屋武マーブ」の麓には井戸が点在し「昭和タマガー」や「仲嶺の根人井」からも豊かな水が湧き出ていました。井泉は水の神様に祈る拝所として集落の住民に崇められていました。「仲嶺集落」では旧暦の8月に集落にある数十ヶ所の井泉を巡り祈りを捧げる「カーウガミ」が行われています。(喜屋武マーブ公園)「喜屋武グスク」は別名「喜屋武マーブ」「仲嶺マーブ」または「火打嶺/ひうちみね」とも呼ばれていますが、地元では「喜屋武マーブ」の名称で親しまれています。首里王府が海上を見張らす為に琉球国内各地の要所に遠見番を置き御冠船、進貢船、薩摩船の入港を王府に通報する烽火台を設置しており、火立(ヒタチー)があった場所でもあるため「喜屋武グスク」は「火打ち城」とも呼ばれていました。現在は「喜屋武マーブ公園」として整備されて地元の住民の憩いの場として愛されているのです。
2021.03.30
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(喜仲公民館落成記念碑)沖縄本島うるま市にある「喜仲集落」は1956年(昭和31年)に「喜屋武集落」と「仲嶺集落」が統合され一つの字名となりました。琉球王府が編さんした「おもろさうし」巻十四(1623年)に「きやむもり」とあります、17世紀の「琉球国高究張」にも「喜屋武村」と記されています。喜仲公民館には「喜仲公民館落成記念碑」が建てられています。(喜屋武の産井/ウブガー)喜仲集落の東部にある「喜屋武マーブ」の麓に「喜屋武の産井/ウブガー」があります。産湯を汲む井泉で正月には若水を汲み身を清め、お茶を入れて一年の幸せを祈願します。また、結婚の際には新婦がウブガーの水を婚家の仏壇に備えるなど、人生の節目や日常生活水としても使用されていました。現在も喜屋武と仲嶺の有志によりカーウガミの際に参拝します。(御神カーの入り口)(御神カーの井戸)「御神カー」は「喜屋武の産井」の北西に位置する井戸です。喜屋武集落に住む人々の生活飲料水として利用されていました。現在は「喜屋武マーブ公園」の敷地にあり、井戸の内部には沢山の石が敷き詰められています。また、井戸にはウコール(香炉)が設置されており、喜屋武グスクから湧き出る水源への感謝を祈る拝所となっています。(喜屋武土帝君)(喜屋武の土帝君内部)「土帝君」は中国起源の土地神で、沖縄へは1698年に大嶺親方が神像を持ち帰り祀らせたのが土帝君祭祀の始まりだと言われています。「土帝君」内にはウコール(香炉)と霊石が設置されています。旧正月三日の初ウガミ(ハチウクシー)、八月十五夜、九月九日菊酒、九月カーウガミの時に、集落の代表者がビンシー(御願の道具箱)、ウチャヌク(お供え物のお餅)、シルカビ(白紙)等をお供えして土地神に五穀豊穣、村の繁栄、住民の健康、子孫繁栄などを祈ります。(喜屋武の殿の標柱)(喜屋武の殿/喜屋武のウガン)「琉球国由来記」に「タケナフ嶽ノ殿」「神名コバズカサノ御イベ」と記されています。その周辺は終戦直後まで松の大木、クバ、アダンも生い茂り、聖域として特定の人しか立ち入り出来ませんでした。かつてはウマチー(収穫祭)の際に新米で作ったウケーメー(お粥)を備えて豊年を祈願しました。現在は旧正月のハチウクシー、八月十五夜、九月九日菊酒、九月カーウガミの時に、喜屋武集落の有志により拝まれています。(喜屋武の村ガー入り口)(喜屋武の村ガー)「喜仲集落」を通る県道224号沿いにある「印刷/なかま企画」脇の細い路地を進んだ先に「喜屋武の村ガー」があります。「喜屋武の殿」で行われる祭祀の際に、白装束を着けたノロやカミンチュ(神人)が髪を洗いみそぎをしました。現在は「ウブガー(産井)」として、集落で子供が産まれるとミジナディという儀式で額に「喜屋武の村ガー」の水を付けて健康祈願する聖水として利用しています。印刷店の方に村ガーの見学をお願いした所、快く通してくれたので心地良く「喜屋武の村ガー」を視察できました。(喜屋武の神屋/カミヤー)喜仲集落の北東部、石川家の敷地内に神アシャギと呼ばれる神を招き祭事を行なう場所があり、喜屋武の村神と火ヌ神が祀られています。旧正月のハチウクシーをはじめ、集落の諸行事にはまず初めに拝まれます。年4回のウマチー(収穫祭/感謝祭)には喜屋武集落の有志がビンシーとお供え物で祀り、集落外から移住してきた人や、子供が産まれた家などは「喜屋武の神屋」を拝みます。(喜屋武のブーマー神)(喜仲3丁目6番地の石敢當)喜仲公民館の東側に「喜屋武のブーマー神」があります。祠内にはウコール(香炉)、巻貝、霊石が設置されていました。喜屋武集落のウガンジュ(拝所)として拝まれ、土地の守り神として崇められていると考えられます。喜仲3丁目6番地にある石敢當は「喜仲集落」では珍しいニービ石(瓢箪石)で作られた古い石敢當です。「喜屋武集落」のような歴史ある集落には必ず多数の古い石敢當が点在するのですが、不思議と魔除けの石柱やニービ石の石敢當は確認できない不可解なミステリーがこの集落には存在します。(喜仲公民館横の五叉路 /シマクサラシ)(喜仲3丁目13番地の交差点 /シマクサラシ)(県道224号と36号の五叉路 /シマクサラシ)「喜屋武集落」では「シマクサラシ」と呼ばれる悪霊祓いの儀式が行われていた場所が3箇所あります。「喜仲公民館横の五叉路」「喜仲3丁目13番地の交差点」「県道224号と36号の五叉路」の3地点に豚肉の骨や皮を左巻きの縄に吊るし、集落外から悪霊が入り込まないように祈願する「シマカンカー」とも呼ばれる祭祀です。"カンカー"とは"見張る"という意味で、悪霊を見張って追い出す役割があります。残念ながら、うるま市では数キロ離れた「江州集落」のみ現在でも「シマクサラシ/シマカンカー」が行われているので「喜仲集落」での儀式が復活する事を心からの望んでいます。(喜仲の古墓群)「喜屋武」は琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年から、尚豊王代の天啓3年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」に記される歴史の深い集落で「喜仲の古墓群」周辺の森が「きやむもり」として歌謡集に登場することから、この辺りが1000年前の沖縄貝塚時代に生まれた「喜屋武」発祥の地だと考えられます。古の時代から伝わるこの土地を巡ると不思議なパワーを感じる事が出来て、土地の神様に守られている雰囲気を強く感じるのです。
2021.03.29
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(平安座島)「平安座島(へんざじま)」は沖縄本島中部のうるま市勝連半島の北東約4km位置にあり、海中道路で渡る離島四島(平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島)の玄関口にあたります。周囲は約7kmで面積は5.32平方キロメートル、標高は最も高いところで115.6mの琉球石灰岩におおわれた台地状の島です。方言でも「へんざ」または「ひゃんざ」と呼ばれ、地名の由来は「干潮」を意味する沖縄の方言、または平家の落人が島に安徳天皇を祀ったという伝説に因んでいます。(世開之碑)海中道路を4キロほど進み平安座島に入るとまず海中道路開通を記念した「世開之碑」が建てられています。海中道路が建設される以前の沖縄本島と平安座島の交通手段は、干潮時に浅瀬を歩いて渡る「潮川渡い(スーカーワタイ)」か、満潮時に利用する渡船のどちらかでした。1956年には干潮時の手段として海上トラックが運行を開始しましたが遭難事故も発生したのです。海中道路を心から望んでいた島民は一人一人が石を運んで積み上げる人海戦術で建設を開始し、本格的な工事を経て1966年8月に全長210mのコンクリート製の海中道路が完成しました。(海底にあった獅子)平安座島漁港の向いの「ホテル平安/レストラン平安」脇にある「海底にあった獅子」と呼ばれるシーサーです。琉球石灰岩で造られた石獅子は平安座島周辺の海底で発見されました。いつの時代のシーサーなのか?なぜ海底にあったのか?など未だに謎が全く解明されていない石獅子で、現在は県道10号沿いの小屋でひっそりと佇んでいるのです。(上段の井泉/イーヌカー)(下段の井泉/シチャヌカー)平安座集落の北側にある「ユタカガー」です。この井泉は水量が豊富で上下2階建ての非常に珍しい造りとなっていて、上下は石造りの水路で繋がっています。村ガー(共同井戸)として上の井泉(イーヌカー)は主に飲料水、下の井泉(シチャヌカー)は溜池で洗濯などの生活用水等に利用されていました。(与佐次河/ユサジガー)ユタカガーの隣に琉球赤瓦屋根が特徴の「与佐次河(ユサヂガー)」があります。この湧き水は"ユサンディガー"や"産井かー(ウブイカー)"とも呼ばれ、水飲み場や産水として利用され昔から神聖な場所となっています。旧暦1月3日に催される「ウビナディー」の行事では平安座島の各家の家族や親戚ウガンジュ(拝み場)となっており、子孫繁昌と無病息災を聖水に祈願します。(与佐次河の歌碑)日本でいう万葉集にあたる琉球最古の歌謡集である「おもろさうし」には、与佐次河(ユサヂガー)は神聖なる井泉として歴史的に崇拝されていた事が謳われています。石碑には「おもろさうし」の一首が記されています。「ひやむざ よさきかわて もちよす きいちへて くにてもち おぎやかもいに みおやせ」(国吉之河/クンシヌカー)「国吉之河(クンシヌカー)」と呼ばれる井泉が平安座集落の北西部にあります。このクンシヌカーは「平安座一番地」と名付けられており、井泉に番地が付けられる理由はクンシヌカーが島の根幹を示す事を意味しています。この井泉は1736年〜1799年に石造されたとされ、門中の氏河(ウジガー)として近隣の生活用水として活用されていました。ちなみに門中とは一般的に、沖縄で始祖を同じくする父系の血縁集団の事を言います。(クワディーサーの木)平安座島にある彩橋(あやはし)小中学校(旧平安座小中学校)の敷地内にある樹齢約300年の「クワディーサの木」です。クワディーサの木がある場所は「シヌグ」の行事で拝むウガンジュの一つであるため「シヌグ毛」と呼ばれています。「シヌグ」ではノロ(神女)達が島のイリーグスクとアガリグスクを拝んだ後に訪れて、島民の繁栄や無病息災を祈願します。(地頭火ヌ神)平安座集落の中心部にある「地頭火ヌ神」です。旧暦3月3日から5日までの3日間、平安座島の最大行事である「サングヮチャー」が催されます。女性が潮水に手足を浸して穢れを落とす「浜下り」に加えて、豊漁と漁の安全を祈願する祭祀が同時に行われる平安座島ならではの伝統行事です。サングヮチャー初日にカミンチュ(神人)たちがノロ殿内(ヌンドゥルチ)の「地頭火ヌ神」の前で杯を交わしながら次のように歌い、今日から三月節句であることを告げます。「くとぅし さんぐゎちや はちばちどぅ やゆる やいぬ さんぐゎちや ちゃわんうさ」(今年の三月節句はほどほどに 来年の三月節句は華やかに過ごしましょう)(ちょうの浜)「サングヮチャー」2日目は平安座自治会館裏手の通り「ちょうの浜」で女性神人たちによる豊漁大漁を祈願する紙事「トゥダヌイユー」が執り行われます。高級魚であるタマンとマクブが、海人からノロ(神女)に奉納される伝統行事です。奉納の際には女性神人たちが太鼓、手拍子を歌に合わせて囃し立て、まな板に置かれた魚を銛で突き肩に担いで歌い踊ります。「ちょうの浜」は普段から島民の神聖な場として大切にされているのです。(ナンザ/亀島)アダンの木の奥に見えるのは「ナンザ」(南座岩)という離れ小島で、平安座島の島民からは"亀島"と呼ばれています。「ちょうの浜」でのトゥダヌイユーが終わると、平安座島の東の沖合500mほどのところにあるナンザの岩を目指して道ジュネーが始まります。形はタマンで色彩はマクブを模した巨大な魚の神輿を担ぎ、人々は仮装しながら島を練り歩き東の浜に移動します。そのまま干潮の時間に合わせてナンザ岩に渡り、岩の頂上で東の海にあるというニライカナイに向け供物を捧げ豊漁を祈願します。ニライカナイの神がいるとされる東の海に向かい「魚群を平安座に押し寄せてくれ」と大漁豊漁の祈願をするのです。(濱之河/ハマヌガー)平安座集落のノロ殿内と平安座自治会の間にある「濱之河」(ハマヌカー)です。この地はかつて美しい浜と海が目の前に広がっていた場所で、漁から帰る男衆を乙女達が出迎えて魚を捌いていた場所です。また、このカーでは野菜を洗ったり洗濯をしていたので、常に乙女達で賑わっていたと伝わります。(不発弾で作られた警鐘)平安座集落中心部のノロ殿内にある「警鐘」です。この長細い鐘は沖縄戦で残されたアメリカ軍の不発弾を再利用しています。信管と火薬を抜きペンキで色付けして櫓に吊るしています。一緒に鐘を鳴らすハンマーも備え付けられていて、今でも現役の警鐘として十分に使用可能です。ひとたび警鐘を鳴らせば平安座集落全体に鐘の音が響き渡る事でしょう。(浜比嘉大橋)浜比嘉島から見た平安座島です。平安座島の海運業は全盛期の琉球王国時代には100隻近くの山原(やんばる)船を擁し、沖縄本島内の国頭地方と中南部の泡瀬、与那原、糸満、泊の各港を結んで交易したほか、遠くは先島諸島や奄美諸島まで出航していました。平安座島ではヤンバル船は「マーラン船」と呼ばれ、平安座島は沖縄本島各地の船乗りの寄港地として繁栄しました。ヤンバル船に関して、次のような琉歌が残っています。「船のつやうん つやうんなたくと まらん船だらんで 出ぢちて見れば 山原だう」(船が着いたよ 着いたと鉦が鳴っていたので 馬艦船かと思って 出て見れば 山原船であった) (竜宮門)平安座島は沖縄本島、宮城島、浜比嘉島を結ぶ重要な島であり、琉球王国からの伝統文化を大切に継承され続けています。平安座集落を歩いていると頻繁に島民とすれ違いますが、皆が笑顔で「こんにちは」と挨拶をしてくれます。静かでゆったりとした時間が流れていて、浜は潮の音がして山は井泉が湧く音が心地良く聞こえてきます。平安座島は間違いなく癒しの島であり、古き良き沖縄が残るパワースポットの島なのです。
2021.02.22
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(宮城島の宮城御殿)うるま市宮城島の中心部に「宮城集落」と「上原集落」が東西に隣接しています。宮城集落にある「宮城御殿(ナーグスクウドゥン)」は通称"カミヤグワー"と呼ばれていて、「観音堂」の呼び名でも親しまれています。一説には北山系の按司を祀っているとも言われています。昔、泊グスク近くのトゥマイ浜に大木が漂流しているのを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが全く動きませんでした。(宮城御殿/ナーグスクウドゥン)神のお告げを聞いた喜屋原ユタハーメーが「ノロ(神女)の仲泊ハーメーが音頭を取らなければ動かない」と言うので、仲泊ハーメーが大木に乗り音頭を取ると、不思議にも簡単に陸揚げする事が出来ました。村人はこの大木で現在地に神殿を造り、宮城集落の守護神として信仰してきたのです。(宮城ヌル御殿)宮城御殿の向かいには「宮城ヌル御殿」が建てられいます。沖縄のノロ(神女)はヌルとも呼ばれ「宮城ヌル御殿」には喜屋原ユタハーメーや仲泊ハーメー、更には宮城集落の歴代のノロの魂が祀られています。浜に漂着した神木一本で建てられた宮城御殿は、特に幼児の健康や発育に特にご利益があり、旧暦1月18日には「ウクワンニンウガミ」(御観音拝み)が行われ、島内外から沢山の参拝者が訪れます。(地頭火ヌ神)宮城中央公園内に「地頭火ヌ神」があり、琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を地頭火ヌ神と言います。火ヌ神(ヒヌカン)の祠には3つの霊石が祀られており、宮城集落の村人を厄災から守り健康を守ってくれる神様として崇められているのです。(世持神社)宮城御嶽の東側には「世持神社」があります。「世持(よもち)」とは沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味があります。「世持神社」農耕の神様で宮城集落の村人は五穀豊穣を祈り、収穫された農作物を神社に捧げて神に感謝しました。(泊グスク)宮城集落の東側、宮城島の北東に「泊グスク」がひっそりと佇んでいます。標高37.4メートルの琉球石灰岩の大地上に作られたグスクで、グスク内や周辺からは琉球グスク時代に属する輸入陶磁器や土器などが発掘されています。泊グスクは別名「トマイグスク」や「隠れグスク」とも呼ばれています。(泊グスクの階段)「泊グスク」の入り口から一直線にグスク中腹に登る階段があります。1322年、後北山王国の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた今帰仁グスクの仲宗根若按司の末っ子である志慶真樽金の一族が、宮城島に逃れた後に「泊グスク」を築いたと伝わります。また「泊グスク」は伊計グスクとの抗争に負け、生き残った樽金の子孫は後に「宮城村」を作ったと言われています。(泊グスクの中腹)グスク入り口の階段を登ると、グスク南側の琉球石灰岩の壁沿いに進む道が続いています。グスク内には拝所があるようで、年に数回ほど宮城集落のノロ(神女)が拝みに訪れて崇め敬われています。また、無闇に肝試しや遊び半分で立ち入ると厳しい神罰が下ると言われているので、普段から立ち入る者がいない「神山」となっているそうです。(アガリ世ヌ神)そんな畏怖の念を起こさせる「泊グスク」の奥地に、私は一歩一歩ゆっくりと足を進ませて行きました。深い森の内部に入ると辺りが薄暗くなり始め、ゴツゴツした琉球石灰岩と亜熱帯植物が行方を困難にさせて行きます。しばらく暗い細道を進むと突き当たりに拝所を発見しました。「アガリ世ヌ神」(アガリの御嶽)と呼ばれるウガンジュ(拝所)でウコールと霊石が祀られていたのです。(按司ヌメーの御嶽)「アガリ世ヌ神」の少し手前に更に細く薄暗い道があり、行き止まりかどうか半信半疑のまま足を踏み入れました。すると急に張り詰めた空気に一変し、四方八方から数多くの"何か"に見詰められている気配を強く感じたのです。私は恐怖心に襲われないよう、必死に森に話しかけながら心を落ち着かせて平常心を保ちました。そこから数十メートル先の突き当たりに「按司ヌメーの御嶽」が私を待ち受けていたのです。御嶽には巻貝殻やウコールが設置されていました。(上原集落のヤンガー)「按司ヌメーの御嶽」にお賽銭を供えて手を合わせて拝み、神罰が当たらない事を望みながら私は「神山」の泊グスクを後にしました。さて、琉球石灰岩と第三紀層泥灰岩(クチャ)の地質で成り立つ宮城島は、雨水を保水する理想的な地形で多くの湧き水があります。上原集落の「ヤンガー」は宮城島で一番の湧出量を持ちます。(ヤンガーの井泉)上原集落と宮城集落の村人の飲水としてだけでなく、毎年正月の若水や赤子が産まれた時の産水としても使用されており、日常生活に欠かせない貴重かつ神聖な水源となっています。「ヤンガー」は1849年に間切の地頭代が他の役人や住民と共に造られました。この改修工事の功績を称えた琉歌があり「やんがはいみじや いしからるわちゆる よなぐすくうめが うかきうえじま(ヤンガ走い水や 石からどぅ湧つる 与那城御前が 御掛親島)」と記された歌碑が建てられています。(上原ヌン殿内)「ヤンガー」から程近い場所に「上原ヌン殿内」があります。集落の祭祀を司る最高位のノロ(神女)はヌンと呼ばれ、ヌンの住居を「ヌン殿内」といい、ヌンや他の神人がウマチー(村の五穀豊穣や繁栄を祈願する祭り)などの祭祀を行う場でもありました。「上原ヌン殿内」の敷地には数本の魔除けの石柱が設置され神秘的な雰囲気を醸し出しているのです。(高離節の歌碑)上原集落の南西側にある「シヌグ堂遺跡」には「高離節の歌碑」が設置されています。歌碑には「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばうれ」と記されています。歌の作者は近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻である真亀(まがめ)と伝わっています。歌は「高離島(宮城島)は様々なことを教えられるところです もう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば 命あるうちに帰りつけますように」という意味で、悲劇的に宮城島に流刑された真亀の複雑な心情が歌われています。(シヌグ堂遺跡からの絶景)真亀は夫の平敷屋朝敏が薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで政治犯として処刑され士族から百姓に落とされました。夫が悲劇の死を遂げ島流しにあう辛さ、寂しさと貧しさに耐えながら、優しく接してくれる島の住民への感謝の念と故郷への思いを募らせる真亀の心情が「高離節」の歌に込められています。「高離節の歌碑」は絶景が広がるシヌグ堂バンタに建てられています。(宮城島の浜)宮城島は面積が5.5kmで周囲が12.2kmの小さな離島でありながら、宮城、上原、桃原、荻堂の4つの集落に多数の遺跡文化財や井泉が点在しています。更に縄文時代、グスク時代、琉球王国時代、そして現代へと歴史の移り変わりの中で激動の時代を生き抜いてきました。現在でも石垣が積まれた琉球古民家が多く残り、優しい島人は生まれ育った宮城島を誇りに思いながら、伝統行事を大切に守り後の世に継承してゆく事でしょう。
2021.02.16
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(伊計大橋)うるま市に勝連半島から海中道路で繋がれた平安座島と伊計島の間に「宮城島」があります。宮城島は「タカハナリ(高離)」の名称でも知られており、写真は伊計島の入り口に掛かる伊計大橋から見た宮城島です。宮城島は「池味(いけみ)」「上原(うえはら)」「宮城(みやぎ)」「桃原(とうばる)」の4つの大字で構成されます。池味集落は島北東の漁港近くに、そして桃原集落は島南部の平坦な低地に位置しています。(桃原のウブガー)平安座島から宮城島に入ると桃原集落があり、桃原は琉球王府時代に首里の氏族等が移り住んで形成された宿取り集落です。この「桃原のウブガー」は桃原集落唯一の井戸で「ムラガー」や「共同井戸」と呼ばれています。昔は子供が産まれると、ここの水を産湯に使用していました。1876年(明治9)年に造られ、旧暦の元旦には若水を汲んで先祖に備え、一家の健康と繁栄を祈願してお茶を沸かして飲みました。(桃原のお宮)「桃原のお宮」は「桃原守護神」と呼ばれ、集落の各家の家族や親族は旧暦1月1日のハチウガン(初御願)、ジューグスージ(十五祝い)、旧暦9月9日の菊酒、旧暦12月24日のトゥミウガン(止め御願)の日に祈ります。また、桃原集落には「トウバルナンダギー(桃原南嶽)」と呼ばれる伝統の琉球古典舞踊が大切に継承されています。宮城島には次の琉球歌謡(おもろさうし)が残されています。「聞ゑ宮城(みやくすく) 選び出ぢへの真金(まかね) 島踊(しまよ)りや 勝り 鳴響(とよ)む宮城」"名高く鳴り響く宮城島よ 選び出された真金神女の島踊りは見事である"(ゴリラ岩)桃原集落の東側に「ゴリラ岩」があります。砂が堆積して形成された知念砂層と呼ばれる露岩(岩石)です。宮城島では親しみを込めて「ゴリラ岩」または「ライオン岩」といった愛称で呼ばれています。泥岩、凝灰岩、砂岩、石灰岩が重なった地層になっていて、筋状に見えるのはノジュール(団塊)と呼ばれ石碑などの材料に使われています。(タチチガー)宮城島の北部に「池味(いけみ)集落」があります。沖縄の方言で"イチミ"とも呼ばれており、18世紀の初めの頃に島外からも人々が移り住みました。池味集落の中心部にある「タチチガー」は中城ウメーという人により池味集落で初めて発見された湧水です。村ガー(共同井戸)として上(イーヌカー)は主に飲料水、下(シチャヌカー)は溜池で洗濯などの生活用水等に利用されていました。因みに、タチチガーの湧水にはザリガニが多数生息していました。(魔除けの石柱)タチチガーの東側にある「魔除けの石柱」です。沖縄の各地にはT字路の突き当りに「石敢當」などの文字が刻まれた魔除けの石碑や石標が設けられていますが、宮城島では魔除けの石柱や霊石が集落の至る所に設置されています。この「魔除けの石柱」は「石敢當」のようにT字路の突き当たりではなく、十字路の角に設置されていていました。もともとT字路だった場所が後に十字路になったのか、もしくは宮城島だけに伝わる魔除け方法に基づいているのか、未だに謎は解明されていません。(イークン御嶽)「イークン御嶽」は南山王の他魯毎の四男と上根(イークン)家の娘の間に出生した子孫を祀っていると言われています。池味と上原の2集落の神事の中心的な場所で、現在でも上原集落のノロ(神女)は「イークン御嶽」をまず先に拝んでから各地にある拝所での行事を巡ります。(ウンチカー)尚巴志に滅ぼされた南山王国最後の国王の他魯毎と家臣が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあります。この井泉は「イークン御嶽」から西の山中にある「ウンチカー」です。他魯毎は民衆や按司たちに対し酷薄な王であったと言われており、尚巴志に南山の貴重な水源であった嘉手志川と金の屏風との交換を持ちかけられると何の考えなしに了承してしまい、金の屏風と引き換えに嘉手志川を利用していた人々の信望を失ったと言われています。(南グスクの入り口)イークン御嶽の北側に「南グスク(ナングスク)」があります。南山から逃れた宮城按司はイークン山に住んでいましたが、後に南グスクに移ったと言われています。南グスクには今でも自然の岩を利用した城門跡や石垣などが残っています。南グスクの入り口には琉球石灰岩の階段がありました。(ナンガー)入り口の石段を登り切ると石灰岩と亜熱帯植物か生い茂る森道に変わります。まず初めの二股に分かれた道を左に進むと「ナンガー」と呼ばれる井泉がありました。沖縄の線香であるヒラウコー(平御香)が供えられていました。水の神様を拝む24本の火をつけない線香(ヒジュルウコー)が残されていたので、旧正月に集落のカミンチュ(神人)が拝していた事が分かります。「ナンガー」はナングスクの貴重な水源として昔も今も大切にされていると考えられます。(南グスクの按司火ヌ神)先ほどの二股に道が分かれた場所に戻り、右に進んで自然岩の城門を抜けると「南グスクの按司火ヌ神」が現れました。このヒヌカンはグスクへの"お通し"の役割を持つウガンジュ(拝所)で、内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。私はお賽銭と共に自己紹介とナングスクを訪れた理由を告げ、手を合わせてウートートーしました。(宮城按司とその妻の墓)「南グスクの按司火ヌ神」から先に進むとグスク中腹に再び二股に分かれた道が出現しました。左に行くと巨大な岩が重なり合う神秘的な空間があり、二股の道を右に進み更にグスクを頂上近くまで登ると「宮城按司とその妻の墓」がありました。それぞれの墓にウコールが設置されており、宮城按司夫妻は仲良く寄り添いながら安らかに永眠している雰囲気が佇んでいました。(クカルンダガー)「南グスク」を後にして次に向かったのは宮城島北部にある池味漁港です。池味漁港周辺にはマングローブ群が広がり、マングローブの森に豊かな水源を供給するのがこの「クカルンダガー」です。池味集落と伊計島の間に隆起した丘陵の麓にひっそりと佇む「クカルンダガー」には蛙が多数生息していて水質も透き通った神水となっていました。(クカルンダガーのウコール)「クカルンダガー」の井泉にはウコールと巻貝殻が供えられており、非常に神聖な水源として崇められています。「クカルンダガー」の場所を見つける際に、うるま市が発行する資料を元に探し求めていたのですが、間違った地点が記載されており暫く浜を彷徨ってしまいました。浜に隣接する防波堤内部にはマングローブ群が広がり、そこに丘陵の麓沿いに進む暗く細い通路を発見したのです。その通路を進んだ結果、偶然に発見したのが「クカルンダガー」でした。(西原村の浜入り口)さて、宮城島には有名な「ウミガメ伝説」が伝わります。約250年前、上原集落に漢佐伊(カンサイ)という60歳余りのお爺さんがいました。ある日、サバニ(舟)で具志川に行った帰り急に舟が転覆し、宮城島から約6キロの沖で漂流してしまいました。その時、突然ウミガメが現れてお爺さんを背に乗せて宮城島西原村の浜まで送り助けてくれました。(西原村の浜)この浜はウミガメがお爺さんを送り届けたとされる西原村の浜です。この浜の周辺は「西原遺跡」が広がり、かつて西原村があった場所と考えられます。西原遺跡の山から流れ出る湧水がこの浜に流れ出しています。ウミガメに助けられたお爺さんは湧水を飲んで上原集落まで無事に帰る事が出来たはずです。(池味自治会の案内板)宮城島「桃原/池味集落」には豊富な水源の井戸や遺跡文化財が数多く点在しています。また、琉球石灰岩の石垣に囲まれた琉球赤瓦屋根の古民家も多数立ち並んでいて、古の沖縄にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。さらに、集落内は細い路地が多く車を停める場所を探すのが困難な中、見ず知らずの私に民家の敷地を駐車場として快く貸してくれた宮城島のオジーやオバーに心から感謝したいと思います。
2021.02.15
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(兼箇段グスク)沖縄本島うるま市の南部にある「兼箇段(かねかだん)集落」に「兼箇段グスク」があります。国道329号線から県道36号線を東に進むと小高い腰当森が目を引きます。「兼箇段グスク」は琉球グスク時代の古城で標高約85mの丘に立地し、丘頂上と中段に2つの広場があります。出土品はグスク頂上と斜面に散らばっていて、それらの中にはグスク土器、中国製の青磁、獣や魚の骨、貝殻などが発掘されています。(ヒヌカン)(ヒヌカン内部)「兼箇段グスク」の入り口は「アシビナー(遊び庭)」の広場があります。広場の西側に「ヒヌカン(火の神)」が東に向かって建てられており、グスクの拝所として"お通し"の役割があります。琉球瓦屋根の建物内部には「天地海」を示す3つの霊石が祀られていて、中央の霊石はウコール(香炉)として利用されておりヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。「ヒヌカン」の建物は非常に古く、木造の屋根はグスクの長い歴史を知る上で重要な文化財となっています。(ビジュル)「ヒヌカン」がある「アシビナー」の広場からグスクの森の入り口に進むと「ビジュル」があり石の神が祀られていました。「ビジュル」とは沖縄本島でみられる霊石信仰の事で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。「ビジュル」には琉球石灰岩の洞穴に石状珊瑚や石灰岩が祀られているのが確認できました。グスク入り口にある「ビジュル」は「兼箇段グスク」の守護神として外部からの悪霊を追い払う役割があります。(兼箇段グスクの階段)「ビジュル」を左手に進むとグスクを登る階段が現れました。「兼箇段グスク」の築城には諸説あります。安慶名グスクを築城した安慶名大川按司が当初は兼箇段集落の小高い丘にグスクを築こうとしましたが、後に安慶名グスクがある丘陵の立地がグスクに適するとして築城が変更されたのです。「兼箇段グスク」の麓には近くに井泉がなく、水源を確保するのに手間がかかった事も移転の要因だと考えられます。(グスク中腹の拝所)グスク中腹には神々が祀られているウガンジュ(拝所)があります。神が宿ると言われるガジュマルの古木が琉球石灰岩に絡まり神秘的な雰囲気に包まれています。石灰岩の洞穴は石垣で塞がれ、神々に祈る拝所として数個の石が祀られていました。グスクの山を更に登ると両脇に「北の高見台」と「南の高見台」があり、その先には「ナカヒラチ」と呼ばれる広場がありました。(グスクの中庭)(グスクの森)「兼箇段グスク」に関する言い伝えによると、西原町にある「棚原グスク」の棚原按司の妻は絶世の美人だったそうです。棚原按司の妻を我が物にしようと企む「幸地グスク」の幸地按司は棚原按司を殺してしまいます。棚原按司の妻は西原から命からがら逃げ出して兼箇段に身を隠しました。しかし、執拗に追いかける幸地按司に捕まってしまい西原に連れ戻されそうになりました。棚原按司の妻はこのまま手籠めにされてなるものかと舌をかみ切って自害したそうです。それを気の毒に感じた兼箇段大主は棚原按司の妻を丁寧に葬ったと伝わります。(頂上の岩門)(グスク頂上からの景色)「兼箇段グスク」の頂上入り口には天然の岩門が佇んでいました。グスク頂上は広場になっておりガジュマルの木を中心にして360度ほぼ見渡せる絶景が広がっていました。こちらの方面からは、うるま市の市街地から金武湾、平安座島から宮城島まで眺望できます。東側には中城湾から勝連半島も見渡せます。西側には沖縄市の市街地も綺麗に見渡す事が出来るのです。(リュウグウの神)頂上から城を降り入り口に戻る途中に「リュウグウの神」と呼ばれるウガンジュがありました。兼箇段グスクは海から比較的離れているのですが、竜宮の神が祀られているという謎があります。伝説によると隣接する「兼箇段グスク」「スクブ御嶽」「知花グスク」の3箇所を一直線に結ぶ上空に竜が飛んでいたと伝わります。兼箇段グスクの「リュウグウの神」はこの伝説を裏付けていると考えられます。(ふつこうばし/復興橋)(ジョーミーチャー墓の標識)「兼箇段グスク」の西側にある県道36号線は「兼箇段ウテー」と呼ばれ、薄暗い奇妙な雰囲気がある細道として昔から人々に恐れられてきました。川崎川に架かる「ふつこうばし」と呼ばれる橋の周辺には「兼箇段古墓群」が広がり、非常に不気味な空気が漂っています。「ふつこうばし」を「兼箇段グスク」方面に進むと左側に「兼箇段ジョーミーチャー墓」があります。"ジョー"は沖縄の言葉で"門"、"ミーチャー"は"3つ"を意味します。つまり「3つの門がある墓」を表しているのです。(ジョーミーチャー墓)手入れがされていないために「ジョーミーチャー墓」は亜熱帯植物で覆われていますが、よく見ると3つの門があります。この墓がある「兼箇段ウテー」には様々な民話があり「兼箇段クミルン小」「兼箇段ウテーのマジムン(妖怪)」「ジョーミーチャー墓の幽霊」などが有名です。3つの門の奥には大小3つの墓があり、真ん中の1番大きな墓にはウコール(香炉)が設置されていました。(墓中央の門)「兼箇段ジョーミーチャー墓」の構造は山の中腹から下にかけて削り落として横穴式にくり抜いたもので、架橋の下に大小3つの小さな前門があります。いつ頃築造されたか明らかではありませんが、この墓には「兼箇段大主」「テビーシ」「根人」「ヰガン」「根神」「祝女」「アジガユー」「門ミーチャーカシラユー」「ナカヌユー」などの遺骨が崇められているとのことです。兼箇段集落ではこれらの霊を慰めるため、1963(昭和38)年の旧暦5月に墓の蓋石を新調して、ここに祀る個人の名を刻記し、後世に伝 えるとともに外観を整備して現状の維持につとめています。(兼箇段橋)(メーヌカー)「兼箇段グスク」の南側に「兼箇段橋」が掛かっており、橋下を流れる川崎川沿いに「メーヌカー」と呼ばれる井泉があります。かつては「兼箇段集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、旧正月には若水を汲んで一年の無病息災を祈っていました。現在も豊かに水が湧き出る「メーヌカー」は横幅が約3m、縦に約1mの長方形の石造りとなっています。井戸を囲むように3段構造の石段が積み上げられています。(兼箇段の神屋)「兼箇段グスク」の南側に広がる「兼箇段集落」の中心部に「神屋」があります。「兼箇段集落」のノロが祭祀行事を司っていた集落の聖域で、建物の内部には3つのビジュル霊石とヒヌカン(火の神)が祀られています。旧暦8月15日には「兼箇段集落」の獅子舞が「神屋」で披露され、その後に獅子は神道を通り「兼箇段グスク」のアシビナーにある「ヒヌカン」に奉納されます。(川崎川の森)「兼箇段グスク」の城下古墓群沿いにある「兼箇段ウテー」や川崎川周辺は至る所に古い墓が多数点在する心霊スポットとして有名です。"恐怖の場"として知られていた所でもあり「浦添ようどれ」「勝連城跡北側の南風原から西原を結ぶ坂道のウガンタナカ」と相並ぶほどに人々から恐れられています。そのような状況下「兼箇段グスク」とその周辺を昔の様な綺麗な里山にしたいという活動が起きています。集った有志は兼箇段グスク周辺が地域のクサティー(腰当)として存在するウガンが皆の力でより健全な形で保全と管理される意識が醸成され、裾野が広がる事を強く祈念しているのです。
2021.01.19
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(江洲グスク)沖縄県うるま市の南西部に位置する「江洲集落」に「江洲グスク(イーシグスク)」があります。標高約100mの琉球石灰岩丘陵に築かれたグスクで、 通称「えすのつちぐすく」とも呼ばれています。名称の通りグスクの石積み遺構は見られず土のグスクで、麓にはグスクを取り囲むように8つの井泉があります。「江洲グスク」からはグスク土器、須恵器、中国製の磁器などが発掘されていますが、未だに詳しい調査がなされていない謎に包まれた聖域となっています。(陵墓の石碑)(仲宗根按司之先祖の墓)「江洲グスク」の入り口を進むと大きな石碑が現れます。生い茂る木々に佇む石碑には「大宗江洲按司宗祖武源明 妹 つきおやのろ 之陵墓 昭和六三年周辺整備」と刻印されています。石碑の左側には山の頂上に向かう石段があり亜熱帯植物に深く覆われていました。頂上に向かう山の中腹右側には「仲宗根按司之先祖の墓」があり、その先には他にも江洲グスクを司ったノロの墓などが三基並んでおり、それぞれにウコールが設置されていました。手前の一番大きな石墓には「江洲王時代 仲宗根按司之先祖 昭和四十八年七月三十日竣工」と掘られています。(江洲按司の墓/江洲按司の妹の墓)(墓前の石柱)石段を上り詰めると頂上に初代江洲按司から三代目迄の「江洲按司の墓」と江洲按司の妹である「ノロの墓」が並んでいます。1453年の「志魯・布里(シロ・フサト)の乱」後に第6代国王尚泰久の5男が「江洲グスク」に入り、その後3代に渡り居住したと言われています。2基の墓のちょうど間にはニービ石造りの細長い石碑が建てられています。石碑には「兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右」と刻印されていました。因みに「江洲グスク」は第1尚氏王統が消滅した1470年頃には廃城になったと伝わります。(グスク頂上からの景色)「江洲グスク」頂上の江洲按司と妹ノロの墓からは東南植物楽園や倉敷ダム、さらにはうるま市石川山城方面の山々を眺める絶景になっています。一説によると「江洲グスク」は中城城の護佐丸や勝連城の阿摩和利のどちらにも属さない中立的なグスクで、高台からグスク周辺を見張り首里の王に情報を伝える役割を果たしていたと言われています。(江洲ヌン殿内)(火ヌ神)「江洲グスク」の麓には「江洲ヌン殿内」があります。琉球王国時代には集落の祭事を司るノロには一定の土地が与えられ、その住まいはノロ殿内(ドゥンチ)と呼ばれました。神アシャギと呼ばれる神棚と火の神(ヒヌカン)を祀った離れ座敷を持つのが特徴で、この聖域で集落の祭祀の神事が行われていました。「江洲ヌル殿内」の敷地には「火ヌ神」があり、祠内にはウコール(香炉)と3つの霊石が2対祀られています。(津嘉山ガー/チカザンガー)(津嘉山ガーの井泉)江洲公民館の南西側に「津嘉山ガー(チカザンガー)」があります。この井泉は「シードーガー」とも呼ばれ1872年(明治5年)に「江洲集落」の先人達が堀削したと言われます。集落で子供が生まれたときの産湯、命名水、飲料水、正月の若水として全戸がこの井泉を使用しました。新年を寿ぎ家族の健康と繁栄を祈願しました。「江洲集落」の住民の誕生から生存まで無くてはならない唯一の「産井(ウブガー)」として重宝されてきました。現在も水の神に感謝する祈りが捧げられています。「江洲集落」の中心部にある江洲公民館には「獅子」が大切に納められています。うるま市(旧具志川市)には獅子が住んでいたという伝説の「獅子山(シーシヤマー)」があり、7つの集落で伝統的な獅子舞が継承されているように「江洲集落」も獅子に縁が深い土地となっています。「魔よけ」の意味合いが強く、百獣の王である獅子が集落の守護神となり病気の元凶や悪魔を退治するとされています。(江洲七神神殿)(江洲七神神殿の内部)江洲公民館の敷地内に「江洲七神神殿」があります。七神の由来は地球上のあらゆる生物を生み育ててくれた宇宙と大自然のわずらみで、七神への感謝が神体化されました。神殿には生命の根源である七要素が七神と称され古代から崇拝されて祀られているのです。神殿内には7つのウコール(香炉)が祀られています。「江洲集落」の七神は生命誕生の神として子孫繁栄、無病息災、部落発展の神として信仰されています。また、集落を作った当時の7つの家の火の神様(ヒヌカン)を祀り現在もその信仰が継承されています。更には、7つのウコールはそれぞれ1週間の月曜日から日曜日を表しているという説も存在します。(守護神/島カンカン)「江洲集落」には沖縄でも非常に独特な信仰が伝わり、旧暦3月3日に疫病や災厄を払う御願「島カンカン」が実施されています。守護神である「島カンカン」の霊石に御三味をお供えし、三枚肉を神頭(石碑の上)に捧げて1年間の集落内における安全祈願を行っています。因みに「カンカン」とは"見張る"という意味で、神が集落を見守るという役目があると伝えられているのです。(大屋殿内/ニーヤ)「島カンカン」の北西側に「大屋殿内(ウフヤドゥンチ」があります。「根屋ニーヤ」とも呼ばれるこの敷地には「江洲集落」発祥に関わる住民が代々住んでいました。「江洲七神神殿」を訪れた時に神殿内で拝む一人の男性がいました。その方はうるま市江洲自治会長の安里義輝氏でした。安里氏によると昔から「江洲集落」の東西南北に豚肉を結んだ縄を張る事でフーチ神(悪霊)が集落に入らないようにしたと言われており、コロナ禍の現在も「江洲集落」の出入り口4箇所に豚肉を吊るし、コロナウィルスが集落に入らないようにしているそうです。江洲自治会長の安里氏は祈る大切さを私に優しく教えてくれました。祈る事により魂が浄化され心豊かに暮らせるのです。伝統と信仰が強く生活に根付く「江洲集落」の自治会長は信仰心の強い方で、この地区は確かに七神と守護神に守られている御加護を感じます。安里氏は最近では沖縄の人でも神に祈る人が減った中で、県外出身の人が沖縄の信仰伝統に興味を持つ事を非常に喜んでいました。自治会長の言葉に甘えて、今後も喜んで「江洲集落」に祈りを捧げに足を運ぼうと思います。
2021.01.18
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(アガリの御嶽)うるま市浜比嘉島の浜地区に「東(アガリ)の御嶽」というパワースポットがあります。浜漁港の向かいに粛然と佇む御嶽は「シヌグ堂」とも呼ばれていて、巨大なガジュマルに覆われる神秘的かつ超現実的な空間に包まれています。(東の御嶽の標識)海中道路から浜比嘉大橋を渡り浜比嘉島の西側に浜地区があります。浜漁港の向かいに「東の御嶽(シヌグ堂)70m」の標識があり、矢印の方向に目を向けますが、何やら行き止まりのような雰囲気を醸し出していました。半信半疑の気持ちでそのまま細道を進むと…(シヌグ堂のガジュマル)突然目の前に巨大なガジュマルが現れて瞬時に幻想的な世界に引き込まれたのです。先日ヤンバルの大石林山にあるガジュマルを訪れたばかりでしたが、浜比嘉島「東の御嶽」のガジュマルはそれを遥かに上回る巨大な老樹であり正に圧巻の一言に尽きます。(東の御嶽/シヌグ堂)壮大なガジュマルの麓には「東の御嶽(シヌグ堂)」があります。シヌグとは沖縄本島とその周辺島、および鹿児島県奄美群島の一部に伝わる豊年祈願の年中行事の一つです。行事の内容は各地の集落により異なりますが、無病息災や五穀豊穣を祈願する他にも、害虫や害獣を駆除する祓いの要素が見られます。(東の御嶽のウコール)石造りの祠には「東御嶽 昭和57年5月15日」と刻印された香炉が設置されており灰にはヒラウコー(琉球線香)が立てられ、他にもお賽銭やお酒も供えられていました。この御嶽では旧暦の6月28日と8月28日の2回「シヌグ祭」が行われます。この祭りは琉球三山時代(1322年頃〜1429年)、戦に敗れた中山の武将・平良忠臣とその将兵数名が浜比嘉島に渡り東の御嶽に身を隠し難を凌いだという故事に由来する祭りです。(東の御嶽の案内板)旧暦8月28日に追討軍(南山・北山軍)が平良忠臣が隠れる浜比嘉島に渡ろうとしますが、琉球開闢の女神アマミキヨ(アマミチュー)と男神シネリキヨ(シルミチュー)へ願掛けを行った結果、嵐が起こり討伐軍の船が海に沈没し難を逃れたのです。この故事にちなんで海の時化(しけ)を祈願する非常に珍しい祭りが行われるようになりました。(東の御嶽の拝所)東の御嶽(シヌグ堂)の奥には小高い丘を登る石段があり、その先には墓の形をしたウガンジュ(拝所)がありました。シヌグの語源は豊年祭の「災厄を凌ぐ」という説、あしびなー(遊び庭)の「踊り」という説、平良忠臣が隠れた「忍ぶ」という説など諸説あります。(シヌグ堂のガジュマル)ガジュマルにはキジムナーが宿るという伝説が沖縄にあります。キジムナーとは沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の生物で、ガジュマルの古木に住む精霊を意味します。キジムナーは人から恐れられることは滅多になく「体中が真っ赤な子供」「赤髪の子供」「赤い顔の子供」と表現されて、長髪で全身毛だらけの姿で現れると言われます。(高樹齢のガジュマル)川でカニを獲ったり特に魚の左目または両目が好物で、グルクンの頭が好物だと言われます。キジムナーと仲良くなれば魚をいつでも貰え、金持ちになれるともされます。海に潜って漁をするのが得意で瞬く間に多くの魚を獲るそうです。また、水面を駆け回ることができ、人を連れながらでも水上に立てるとも言われています。(ガジュマルの古木)さらに、キジムナーは人間と敵対することはほとんどありませんが、住処の古木を切ったり虐げたりすると、家畜を全滅させたり海で船を沈めて溺死させるなど、ひとたび恨みを買えば徹底的に祟られると伝えられます。赤土を赤飯に見せかけて食べさせる、木の洞など到底入り込めないような狭い場所に人間を閉じ込める、寝ている人を押さえつける、夜道で灯りを奪うなどの悪戯を働くとも言われます。キジムナーは出入りが自在でどんな小さい隙までも出入りが可能とされる妖怪です。(シヌグ堂の石柱)ガジュマルの頭上からは常に「トンットンッ」「コンッコンッ」「カンッカンッ」と何かを叩く乾いた音が鳴り響いていました。もしかしたらキジムナーが挨拶をしていたのかもしれません。そんな幻想を抱かせる崇高な「東の御嶽(シヌグ堂)」は琉球三国時代の歴史的な故事、漁業で生きる集落に伝わる海のシケを願う不思議な祭り、精霊のキジムナーが宿る神秘的なガジュマル、それら全てを継承し続ける浜比嘉島浜集落の人々に大切に守られている聖域なのです。
2021.01.05
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(ノロ墓)沖縄県うるま市に「神の島」と呼ばれる「浜比嘉(はまひが)島」があります。約2キロ平方メートルの小さな島には琉球開闢の祖アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)の夫婦神が暮らしたと伝わる鍾乳洞窟、アマミチューの墓、小高い丘のグスク、更に30ヶ所を超える御嶽や拝所が点在します。勝連半島から海中道路を利用して「平安座島」から浜比嘉大橋を渡ると「浜比嘉島」に到着します。「浜比嘉島」の入口のT字路を右に進むと「浜集落」、左に進むと「比嘉集落」があります。「比嘉集落」に向かう海沿いの道を進み「アマミチューの墓」の小島の手前に「ノロ墓」の標柱が立っているのが確認出来ます。(ノロ墓の入り口)(ノロ墓入り口の厨子甕)(ノロ墓の鳥居)この神秘的な「浜比嘉島」の「比嘉集落」には代々の「比嘉ノロ」が葬られた古墓があります。「ノロ(祝女)」とは沖縄本島や奄美群島の公的司祭者としての神女の事で、一つの集落ないし数集落の祭祀組織を統率していました。ノロの語源は「祈る、祈る人、神の意思を述べる人」などの意味で9世紀頃から人々の生活と共に存在していました。琉球石灰岩の石段を登ると鳥居が現れ、その先に「ノロ墓」が佇んでいます。この「ノロ墓」の周辺にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯植物が生い茂り、木漏れ日が神秘的な雰囲気を醸し出しています。「ノロ墓」の入り口には遺骨を収納する厨子甕が置かれており、琉球石灰岩の岩門を通り抜けて石段を登ると「ノロ墓」の鳥居が現れます。(ノロ墓)(ノロ墓の斜め上にある古墓)(ノロ墓の崖下にある古墓)鳥居をくぐり更に急な石段を登ると正面に「ノロ墓」が佇んでおりウコール(香炉)が祀られています。「浜比嘉島」の「比嘉集落」の祭祀を司った歴代「比嘉ノロ」の御霊が眠る古墓は、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の急斜面の中腹に位置します。「ノロ墓」に向かって左斜め上の斜面には自然ガマを利用した古墓があり、入り口はブロックが積まれて塞がれています。かつて風葬に使われたガマであると考えらます。更に「ノロ墓」に向かって右下側の崖下にも古墓があり、ガマの入り口はブロックで塞がれてウコール(香炉)が設置されています。この古墓の前方に蓋の無い古い厨子甕が置かれています。(按司の墓のガマ)(ガマ入り口の石棺)(ガマ内部)「ノロ墓」に向かって斜め右上に進む石段があり進むと崖の中腹に大きく空いたガマ(鍾乳洞)があり、鍾乳洞の入り口から差し込む太陽光が洞窟の奥を神秘的に照らしています。ガマ入り口には幾つもの霊石が祀られた「按司(あじ)の墓」の石棺が鎮座しており蓋の破損が確認出来ます。これは南側に隣接する「比嘉グスク」按司の石棺であると考えられます。「按司」とは琉球諸島にかつて存在した階位を意味し、琉球王国が設立される以前はグスク(城)を拠点とする地方豪族の称号として使われました。王制が整った後は王族のうち「按司」は王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)が就任しました。琉球国王家の分家が「按司家」と呼ばれるようになり、更に王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも「按司」が用いられました。(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)ガマ内部を進むと右側に拝所が確認されて幾つもの霊石が祀られています。そこから奥に進むと左側に6体の石柱と霊石が祀られて粗塩が盛られています。鍾乳洞の自然石を利用した6体の石柱が何を表しているのか不明ですが、沖縄の歴史で欠かす事が出来ない「御先の世・中の世・今の世」の3つの世と、沖縄を創造する「天・地・海」の3つの要素を意味していると考えられます。更にガマの奥に進むと大人が1人通れる穴が2つ空いており、その場所には石柱とウコール(香炉)が祀られてる拝所となっています。この地点まではガマの入り口からの太陽光が届きますが、この先のガマは右奥に進む為、光が途絶えて完全に暗闇に包まれます。(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)そのまま大人が1人通れる程の穴をくぐり、太陽光が届かない暗黒のガマ奥地を進むと、右側に数個の霊石が祀られた拝所があります。この拝所の背後には鍾乳石の石柱を中心に霊石が祀られています。更にガマの奥地には幾つもの霊石が祀られている拝所となっています。この先もガマは続いていますが人が入れない狭さになり、実際にガマがどこまで続いているのかは不明です。このガマは「按司の墓」と呼ばれていますが、ガマ内部に祀られる幾つもの拝所はノロが拝する聖域とも、ユタが修行する霊域とも言われています。うるま市のカミンチュ(神人)もこのガマを拝むとも聞いた事があり、神の島「浜比嘉」のこのガマは神秘的な雰囲気を醸し出しています。(ガマ内部から見た入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマから眺望するアマミチューの墓)ガマ、拝所、御嶽などの聖地には呼ばれる人が選ばれていると言います。このガマは順序を経て拝する必要があると私は考えます。ます「ノロ墓」の崖下に湧き出る「ハマガー」の聖水で身を清め、次に「ノロ墓」を拝します。葬られるノロに「按司のガマ」への立ち入りを許可された者のみ、本来ガマに迎えられます。ガマの奥地は非常に心地良い雰囲気に包まれており、瞑想をして魂を浄化する最高の聖地でした。ガマの出口からは神様により計算し尽くされたかの様に「アマミチューの墓」がある岩の小島が眺望できます。「ノロ墓」「按司の墓のガマ」「アマミチューの墓」の地理的バランスは、琉球の開祖である神様のみが創造できる仕業であり「浜比嘉島」が「神の島」だと呼ばれる紛れもない所以の一つなのです。
2021.01.01
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(安慶名城跡/安慶名闘牛場)「安慶名城跡」はうるま市の中心部の「安慶名集落」にある城跡です。15世紀の琉球三山時代から16世紀にかけて同城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司の拠点として知られ、1972年5月15日に国の史跡に指定されました。県道8号線沿いに広がる「安慶名中央公園」の中に「安慶名城跡」を始め、安慶名闘牛場や遊具などが整備された緑豊かな憩いの場として地域住民に親しまれています。(安慶名城跡入り口)(安慶名城跡の中腹)「安慶名集落」に流れる天願川の周辺に隆起した珊瑚石灰岩の岩塊の断崖と傾斜を利用した山城で、天然の岩と岩との間に石垣や城門を構えています。「安慶名グスク」の特徴は緑豊かな自然と岩塊とを最大限に活用した堅固な城である事です。城の構造は外側と内側に二重の石垣を巡らす様式で、沖縄に現存する唯一の輪郭式グスクです。城の北に水源が豊富な天願川が流れていて、その別名が「大川」であったことから安慶名城は「大川城」という別名でも知られています。(安慶名大川按司の墓)(安慶名グスクの城門)琉球石灰岩で創られた石段を登って行くとグスクの中腹に「安慶名大川按司の墓」が現れます。鍾乳洞に石垣が積まれた墓には歴代城主であった安慶名大川按司一世から三世の三代の魂が安らかに眠っているのです。さらに石段を登り進めると安慶名城の外郭と内郭を繋ぐ「城門」に辿り着きます。城門は自然の大岩をくり抜き、側面には切石を平らに積み上げた壁が施されています。この城の主郭へと続くトンネルには神秘的な力が宿り、訪れる者を城の内部へと誘ってくれるのです。(安慶名宇志仁大主の石碑)「安慶名グスク」内郭東側の城門近くにはウガンジュ(拝所)があります。ニービ石造りの古い石碑には「天帯子御世(テンタイシウユウ) 安慶名宇志仁大主(アゲナウシジンウフヌシ) 中が世丑(ウシ)のみふし」と記載されています。つまり「天帯子」の琉球三山時代に「安慶名宇志仁大主」の石碑が「丑のみふし」により建立され祀られた事を示しています。石碑には幾つもの霊石が供えられ崇められています。(具志久美登繁座那志の石碑)内郭西側の城門の岩の上にあたる山の頂上付近にあるウガンジュです。石碑には「天帯子(テンタイシ)の結(ムス)び 具志久美登繁座那志(グシクミトウハンザナシ) 中が世うみない母親」と彫られています。「天帯子」の琉球三山時代に「具志久美登繁座那志」の神様を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を意味しています。ニービ石造りの石碑に石造りのウコール(香炉)が設けられ、そこに霊石と陶器のウコールが祀られています。(大兼久眞澄繁座那志の石碑)これは城の外郭東側にあるウガンジュ(拝所)です。石碑には「天正子(テンシヨウシ)の結(ムス)び 大兼久眞澄繁座那志(ウフガニクマスミハンザナシ) 中が世うみない母親」と記載されています。「天正子」の時代に「大兼久眞澄繁座那志」の神を祀る石碑が「うみない母親」により建立された事を示しています。この石碑にも石造りウコール(香炉)が設置されており、そこに陶器のウコールと霊石が祀られていました。(安慶名グスクの外郭)(外郭の先にあるガマ)「大兼久眞澄繁座那志」の拝所の先には城の外郭が続いており、外郭の上を歩いて進めるようになっています。外郭の行き止まりは小さなガマ(鍾乳洞)になっていて、外郭へ城の外部からの侵入を守る為の拝所である可能性もあります。沖縄の城の多くが直線上に郭が連なり奥に主郭がある連郭式と呼ばれる様式である中、岩山に築かれた「安慶名グスク」は中心部に主郭を置き、それを取り囲むように中腹に郭を巡らした沖縄県内では非常に珍しい輪郭式と呼ばれる様式を取っています。「安慶名城跡」にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯の草木が生い茂っていて豊かな自然に覆われています。かつて「安慶名グスク」の丘陵から湧き出た井泉の恵みにより集落が形成され、そこに文化が生まれて先人の暮らしが継承されて来ました。古代琉球の三山(北山、中山、南山)時代から変わる事なくうるま市の「安慶名集落」を見守る古城は、周辺地域の守り神であり神聖なパワースポットでもあるのです。
2020.12.27
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(伊波城跡の鳥居)「伊波集落」の中心部にそびえる「伊波城跡」は標高87mの丘陵に位置する山城で、沖縄本島うるま市石川の市街を北東に見渡しています。琉球石灰岩の上に築かれ、城壁は自然の地形を巧妙に利用しながら自然石を殆ど加工せずに積上げていく野面積み技法で作られており、城の北側には石灰岩の断崖を備えています。(鳥居前の石柱)1989年の発掘調査では城内の地表下50cmから無数の柱穴跡が発見され、掘立柱建物の存在が確認されています。文化的価値が非常に高い琉球産や外国産の土器、中国産の青磁や白磁、三彩陶器、褐釉陶器、染付、南島産の須恵器なども出土しており、当時の伊波按司の勢力が大きなものであったことを示しているのです。(中森城之嶽)鳥居を潜り階段を上がると予想以上に広い空間に足を踏み入れます。ちょうど正面のひときわ目立つガジュマルの木の下に「中森城之嶽」(ナカムイグスクのタキ)があります。「中森城之嶽」は伊波城の神様である火の神(ヒヌカン)の役割があり、ビジュル石とウコール(香炉)が祀られています。城を災難から守り城主と家族の健康を守る非常に重要な御嶽です。(森城之嶺)「中森城之嶽」から少し離れた場所には「森城之嶽」(ムイグスクのタキ)があり、この先にはもう一つの伊波城跡入り口があります。「中森城之嶽」が城のお通しの御嶽であるヒヌカン(火の神)の役割を果たしている為、この「森城之嶽」に近い入り口は伊波グスクの裏門に当たると考えられます。こちらの御嶽にもビジュル石とウコールが設置され集落の住民に拝まれています。(城跡頂上へ向かう道)「森城之嶽」の左側には伊波城跡の頂上へ向かう道が続いています。ゴツゴツとした琉球石灰岩の地質にはガジュマル、ソテツ、クワズイモなどの樹齢の古い亜熱帯植物が生い茂り、琉球王国時代よりも更に古の昔から変わらぬ豊かな自然な風景を保ち続けています。(三ツ森城之嶽)伊波城跡の頂上に辿り着くと「三ツ森城之嶽」(ミーチムイグスクのタキ)が姿を見せました。この御嶽は「ウフアガリヘの遙拝所」と呼ばれており、天地海を祀るビジュルの霊石が設置されています。ウフアガリ(大東)は琉球語で「遥か東」を意味します。つまり、太陽が上がる東の海に理想郷であるニライカナイの神様を崇めて祈りを捧げていたのです。(城跡頂上からの景色)伊波城跡の調査では13世紀後半から15世紀に当時の人々が食べ残した貝殻、魚、猪の骨なども出土しています。また、貝塚時代の土器も多数出土しており約2800年前の貝塚が伊波城を含めた丘陵全体にあったことがうかがわれます。そのため、伊波城周辺の地域が伊波按司による築城よりも遥か前の古代から人々の重要な居住地であった歴史とロマンを示しています。(伊波ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(神アシャギ/神アサギ)伊波城跡入り口の手前に琉球赤瓦屋根のノロ殿内があり「ヌール屋」と「神アシャギ」が並んで建てられています。「ヌール屋」と呼ばれるヌンドゥンチはヒヌカン(火の神)が祀られており、かつてこの場所でノロ達がノログムイ(共同生活)をしていたと伝わります。向かって左側に隣接する「神アシャギ」では、集落においてノロが神を招き入れて祭祀を行なっていました。(伊波火ヌ神の敷地)(伊波火ヌ神)伊波城跡から南東側に「伊波火ヌ神」があります。伊波の守護神として崇められており「ジーチ火ヌ神」とも呼ばれています。この火ヌ神と伊波メンサー織作業所がある場所との間が伊波集落の入り口と言われていて、旧暦4月15日に火ヌ神と入り口はアブシバレー(農作物の害虫駆除儀式)で拝まれています。また、旧暦7月16日には祭祀行事として旗頭と獅子舞の演舞が奉納されます。(ビンジリの拝所)(ビンジリの祠)「ビンジリ」は伊波按司の子孫と伝えられる仲門(なかじょう)家の屋敷から東北側に位置する拝所です。石積み造りの祠の中に高さ30センチほどの丸い霊石が祀られています。この祠の前には「山城仁屋から道光23年(1843年)に供えられた」と記されています。伊波集落の旧暦4月15日のアブシバレー、旧暦10月20日の苗種御願(メダニウガン)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)などの行事で参拝されています。(伊波仲門)「伊波仲門」は伊波按司の子孫とされる門中(ムンチュー)です。「南島風土記」には伊波按司が首里に引き上げた後も、この門中が伊波親雲上仲賢の名で伊波集落の地頭職を勤めたとされています。仲門の始祖は伊波城内から居住を城の外に移した5代目伊波按司の子孫であると考えられています。屋敷の仏壇には按司神とウミナイビ(王女)神のウコール(香炉)の他にも、按司時代に稲の穂を運んだという伝説が残る鶴の香炉も祀られています。(門口ガー)「伊波門中」の屋敷の東門に井泉が湧いており「門口ガー」と呼ばれています。代々の伊波門中が利用してきた井戸で神水として崇められています。井泉からは樹齢の長い立派なガジュマルが育っており、集落の住民から神が宿る聖地として拝まれています。伊波集落の北部には伊波貝塚があり集落の歴史の長さが伺え、伊波集落発祥を知る手掛かりに繋がります。伊波城にある御嶽に祈りを捧げる信仰心の強い住民により、古の集落文化が現在に大切に継承され続けているのです。
2020.12.22
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(伊波ヌール墓)沖縄本島うるま市石川伊波に「伊波ヌール墓」があります。ヌールとは沖縄のノロの事で琉球神道における女性の祭司、又は神官を指します。地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割を果たしていました。琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に任命されて王国各地に配置されました。「伊波ヌール墓」は歴代の伊波ノロの遺骨が納められた聖域として崇められています。(伊波ヌール墓の標識)「伊波ヌール墓」が位置する石川伊波地区は当初1990年に石川バイパス工事の開発地区に予定されていましたが、伊波ヌール墓や周辺の貴重な文化財を保護する案が浮上したのです。伊波ヌール墓のある山の地質は千枚岩と堆積した琉球石灰岩であり、トンネルを通す地質条件に適していませんでした。しかし、うるま市のみならず沖縄県の歴史的価値の高い文化遺産を残す目的で、急遽バイパスは「伊波ヌール墓」の真下を通関する「石川トンネル」の整備に変更されたのです。(伊波ヌール墓へ降りる石段)琉球王国時代に伊波、嘉手苅、山城、石川の各集落の年中祭祀を正式に司っていた歴代のノロ(伊波ヌール)の遺骨が墓に納められています。沖縄の「ノロ」や「ユタ」は神がかりなどの状態で神霊や死霊など超自然的存在と直接に接触や交流し、この課程で霊的能力を得て託宣、卜占、病気治療などを行う呪術や宗教的職能者を指します。「ノロ」は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」はいわゆる霊、神霊、死霊と交信します。(伊波ヌール墓がある崖下)「伊波ヌール墓」は崖下の鍾乳洞を利用した掘り込み式です。墓室内にはサンゴ石灰岩製蔵骨器11基と陶製蔵骨器4基の計15基が安置されています。ほとんどの蔵骨器に2体分の遺骨が納められています。現在でもウマチー(収穫祭)や清明祭の時に参拝の人たちが訪れるなど地域的信仰の対象となっています。1994年には貴重な文化財として市の指定を受け、地元住民の重要なウガンジュ(拝所)として大切に保護継承され続けています。(伊波ヌールガーに生える大木)(伊波ヌールガー)「伊波ヌールガー」と呼ばれる井泉が「伊波ヌール墓」の南西にあります。伊波ヌールが祭祀を行う際に利用した水源で、聖なる神水として崇められた聖域でした。「伊波ヌールガー」にはウコール(香炉)が設けられ、井泉の脇から大木が力強く育っています。この大木は「伊波ヌールガー」周辺で極めて目立つシンボルとなっており、聖なる神水で成長した木の枝が天に向かって伸びている神秘的な光景となっています。(伊波按司の墓/伊覇按司之墓)(伊波中門祖宗之墓)「伊覇按司之墓」は伊波グスクを築いた按司の墓で、旧具志川と旧石川を結ぶ国道329号(石川バイパス)が通る石川山城地区にあります。伊波グスクから南に1キロほど離れた場所にある墓は天然の要害を利用して築かれ、野面積みの石垣が現在も残っています。伊波仲門門中(なかじょうムンチュー)が管理しており、同門中の始祖(伊波按司)が祀られています。向かって左側には「伊波中門祖宗之墓」が隣接しており、現在も子孫等の多くの参拝者が訪れて拝んでいます。(数明親雲上の墓の入り口)(数明親雲上の墓)「伊波集落」の中央に「数明親雲上(スミョウペーチン)の墓」があります。数明親雲上は伊波集落の生まれで第二尚氏第4代「尚清王(在位1527〜1555年)」に神歌主取として仕えていました。尚清王が久高島からの帰途に嵐に見舞われた際、船の舳先に立ち神歌(おもろ)を謡い風波を鎮め無事に帰港したと伝わります。この墓は伊波原に所在する古墓で地元では「屋嘉墓」とも呼ばれています。(尚泰久王墳墓跡)第一尚氏第6代「尚泰久王(在位1454〜1460年)」の墓跡と伝えられています。伝承によると、第一尚氏第7代「尚徳王(在位1461〜1469年)」の亡き後、第二尚氏の「尚円王(在位1470〜1476年)」に政権が代わった際、首里の天山陵に祀られていた尚泰久王の遺骨が密かに移葬されたと言われています。それを隠すためか、この墓は「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうです。(ウミナイ墓)「ウミナイ墓」は「尚泰久王墳墓跡」の右側に隣接し、尚泰久王の母親もしくは乳母が祀られた墓だと伝えられています。1982年に発掘調査が行われ、墓の中に石灰岩製の石厨子が3基あり、中央に位置する大型の石棺からは風化の進んだ人骨、鳩目銭2枚、猪の第3臼歯が発見されました。毎年、清明祭には伊波仲門門中、大屋門中、尚泰久王に縁のある人々が多く訪れ拝まれています。(伊波ウブガー/東側入り口)(伊波ウブガー/西側入り口)「伊波ヌール墓」の南側に「伊波ウブガー(産川)」があり、東西を繋ぐ地下トンネル内に現存しています。伊波集落で最も古い井泉とされる「伊波ウブガー」は生活用水、産湯、正月の若水、病気の際のミジナディ、死者の清め水、霊水として使用されていました。石川バイパス整備の際に地下横断路を作り、場所、位置、形を変えず昔のままの姿で残っています。「伊波ヌール墓」もバイパス整備で「石川トンネル」を掘る事で守られたように、歴史ある先人からの遺跡文化財を大切に守り継承する素晴らしい郷土愛が「伊波集落」には強く根付いているのです。
2020.12.21
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(ジャネー洞)沖縄本島うるま市与那城屋慶名に「藪地島」という小さな無人島があります。勝連半島の東部に位置し沖縄本島とは藪地大橋で結ばれています。島の入り口は一つだけでサトウキビ畑の真ん中に伸びる道は舗装されておらず、車一台がやっとギリギリ通れる砂利道が一本のみ無人島を横断しています。(藪地島の野良猫)凸凹の砂利道を砂埃を巻き上げながらゆっくり進むと行き止まりの森に突き当たります。そこに車を停めると森の守り神の白黒ハチワレ猫が出迎えてくれます。守り猫に挨拶をしてから森に入ると亜熱帯の植物が不気味に生い茂り、その奥地にひっそりと同時に力強く「ジャネー洞」が姿を表します。(ジャネー洞の森)「ジャネー洞」は6,000〜7,000年前(縄文時代)と推測される沖縄最古の土器が発見された住居跡です。発見された土器は藪地島特有の形状である事から「ヤブチ式土器」と名付けられました。ジャネー洞はヤブチ洞窟遺跡とも呼ばれ、地元の住民から祖先発祥の地として信仰を集めています。(鍾乳洞の拝所)「ジャネー洞」の鍾乳洞の入り口はウガンジュ(拝所)になっており地元住民や沖縄のカミンチュ(神人)まで皆が祈りを捧げるスピリチュアルな聖域となっています。花やお供え物と共に琉球香炉のウコールが設置されていて、つい先程までこの場で祈りを捧げた方が水かけをした跡が残っていました。(鍾乳洞の入り口)鍾乳洞は石灰岩が地表水や地下水などによってひたすら長い年月にわたり少しずつ侵食されて出来る大自然の芸術です。無人島の藪地島全体がパワースポットであり「ジャネー洞」は地元住民の聖地として大切にされています。訪れる際には礼節を持って島の神様に敬意を払い無垢な心を保ちたいものです。(ジャネー洞の拝所)私はウガンジュにひざまづき沖縄の平和を祈り、沖縄の悠久の歴史に直接触れる事の喜びを噛み締めました。祈る人それぞれに、それぞれの想いが込められます。「ジャネー洞」はその長い歴史の中で常に人々と共に存在し続け、数えきれない人々の祈りを受け止めて来た魂の籠った神秘的な空間なのです。
2020.12.20
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