団塊の世代(当時はそんな呼び方は考案されてなかったが)にとって青春のシンボルともいえる週刊誌。
大橋あゆみのイラストの表紙がまたカッコよかった。
ファッションも、音楽も、映画も、ガールハントも、セックスも人生にとって大切なことはみんな教えてもらったんだよね。
日本にエレキブームをもたらしたのはといえば、あの4人組。そう、ドン・ウィルソン率いるベンチャーズ。
いまでも日本にやってくるけれど、彼らの存在なしに今の日本の音楽特にJ-ポップなんかを語ることは出来ません。
「テケ、テケ」はギター買ったら真っ先に練習したよね。
ま、当時は不良の音楽なんて呼ばれてたけども、ホントの不良には楽器の練習なんて根気のいることは出来なかった。
日本武道館がイベント会場として使われたのはこれが最初だったそうな。
テレビで見てたけど、マイクの設定が悪く、すぐに横を向くのでポールが唄いにくそうにしてたのが記憶に残ってます。
いまじゃ教科書にも載ってるビートルズだけれど、このとき首都圏の高校生には「公演見に行ったら退学させる」というというひどい脅しが出されていた。
エレキブームとビートルズに代表されるロックグループ人気が合体して出来上がったのがGS(グループサウンズ)。インストゥルメンタル中心のエレキバンドに比べるとボーカルを重視+アイドル性を加えているところが目新しい点。GSのヒット曲と言うとブルーコメッツの「青い瞳」が最初なんだろうと言う気がする。この年後半には、数々のエレキバンドコンテストを制覇したアマチュアバンド、サベージ(寺尾聡が在籍)がプロデビュー。ブルージーンズから独立した加瀬邦彦もワイルドワンズを結成してデビューし、GSブームの先駆けとなった。
白バイ警官に変装するという、あまりに鮮やかな手口で、後々までドラマなどに取り上げられた府中3億円事件。たった一人で、しかも荒っぽい手口もつかわず大金を盗むことに成功した犯人は当時のヒーロー的存在でもあった。
警察は威信をかけて捜査をし、一年後には誤認逮捕事件まで引き起こしたが結局犯人は検挙されなかった。
この事件で使われたカローラは、その後のニュース、新聞などでもたびたび車名が報道され、その宣伝効果は絶大だったとも言われている。
反面、同じく事件で使われた白バイ(盗難車)の持ち主は証拠物件として押収された後もローンを払わされ続けたそうだ。
立命館大学文学部三回生の高野悦子さんは1969年6月24日未明、当時の国鉄山陰線で貨物列車に飛び込み、自らの命を絶ちました。
死後に彼女の日記を編集した遺稿集「20歳の原点」が発売されベストセラーとなり、映画化もされています。
彼女が当時の学生運動にかかわっていたこともあって、60年代に亡くなった人たち(樺美智子さん、岸上大作氏、奥浩平氏)と同じように語られる時もあるのですが、他の3氏が存命中から、それなりに知られた存在であったのとは異なり、当時としてはそれほど特別な学生ではなかったように思います。
それゆえに、より多くの人たちから共感を持って受け入れられたのでしょう。
寅は彼女と同じ大学の1学年下に在籍していたのですが、キャンパス、学部が異なっていたこともあって彼女のことについて知ったのは死後1年以上経って、「那須文学」という彼女の郷里の同人誌に彼女の日記が掲載されたのを目にした時でした。
その後、再編集されて新潮社から出版されたのが「20歳の原点」です。
そんなわけで、彼女について語るべきことを持っているわけでもないのですが、いままでは意識的に話題から遠ざけてきたような気がします。
アポロ11号月面着陸に成功
夜空に浮かぶ月を見上げて「ああ、あそこに人間がいるのか!」と思うとすごく感激してしまったのを覚えている。
最近では月面着陸はインチキだなんて説も流されているが・・・まぁそんなふうなSF映画「カプリコン・1」もありましたけどもね。
それよか面白かったのは、誰の説だったか「アポロ計画とは人間を月に送り込む計画ではなく、月にテレビカメラを送り込んで宇宙船から降りてくる人間を撮ること」。
日活ロマンポルノ
記念すべき第一作は「団地妻・昼下がりの情事」「色暦大奥秘話」どっちになるんだろう?
当時はアクション映画の名門日活がピンク映画か・・・などといわれたものだが、結果的には若い監督が世に出るチャンスを提供するという点で、大きな功績を残したといえるだろう。
田中真理、白川和子、山科ゆり、片桐夕子・・・何を間違った?か、カルーセル麻紀の出てるのもありましたねぇ。
大井競馬場から中央競馬のスターへと「出世」街道を驀進し、皐月賞馬となったハイセイコーはこの時代のヒーローだった。
しかし、どちらかというと人気はあったけども・・・・という感じで、ダービー、菊花賞ではタケホープに交わされてしまった。有馬記念では宿敵タケホープには先着したものの73年ストロングエイト、74年タニノチカラの後塵を拝してしまった。とはいえ、5歳時にも宝塚記念、高松宮杯を制するなどの実績を残している。
種牡馬に転じて後もダービー、天皇賞を制したカツラノハイセイコなどを出し、やはり名馬と呼ぶにふさわしい馬であることは間違いない。
「我が巨人軍は永久に不滅です!」巨人ファンも、アンチ巨人ファンもみんなテレビの前でないちゃいましたね。
いまなお、放映されている「戦隊シリーズ」の草分け。たまに再放送されてるのを見ると懐かしさがこみ上げてきます。しかし、これだけ長期のシリーズになると子供との共通の話題が出来て助かります。
ご存知「コマネチ!」が登場した。
1978年1月22日京都競馬場において故障したテンポイン トが闘病の甲斐なく同年3月5日栗東トレセンで死亡。
3歳時には「見てくれこの脚」とクラシック制覇へ 敗、ダービーではレース中に骨折7着という結果に終わる。
最後のクラシック菊花賞では、まさにダークホース「内からグリーングラス」に破れ、有馬記念でもトウショウボーイの2着 と不本意な結果に終わった。
明けて5歳馬となったテンポイントは京都記念、鳴尾記念を連覇「なんとしても悲願の盾を」と望んだ天皇賞ではついに 「夢にまで見た栄光のゴール板」を先頭で駆け抜けた。
しかし、このレ ースには宿敵トウショウボーイは出場せず、文字通りの一騎打ちとなった宝塚記念では、 またしてもトウショウボーイの後塵を拝することになった。
トウショウボーイは有馬記念を最後に引退するとのうわさが広まり、テンポイントにとって最後の雪辱のチャンスは、 この最後のレースだけだった。
5歳の秋、京都大賞典を63キロのハンデをものともせず圧勝 したテンポイントは最後の決戦に臨むべく東上した。 4歳時と比べ一回り大きく成長したその馬体は「まるで別の馬」と見るものを驚かせた。
1977年12月18日、ついにそのときが来た。
このときの2頭の戦いは、宝塚記念の再現のように、他の馬を寄せ付けな いマッチレースであった。えてしてこう言ったときには、互いをけん制するあまり他の馬の動きを見逃すという73年の有馬記念のようなことが起こりがちなものである。
しかし、ゲートが開いた瞬間から飛び出したのはこの2頭だった。どちらのファンも駆け引きなど望んでいなかった。 中山競馬場の最後の直線を登りきった時に希代の名勝負は決着した。
先頭を切って「中山の直線を流星が駆け抜け」た。
それから1か月後、京都競馬場第3コーナーのカーブで悲劇は起こってしまった。