Life is a Journey 

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モロッコの旅日記(1)

モロッコの旅日記(1)  2006年12月24日~12月31日

2006年12月24日 モロッコ入国  不思議なスイス人との出会い

 スペインのアルヘシラスからフェリーでモロッコへ入国。タンジェに着いたのは夜中の11時半。
2006.12.25のブログ参照 「モロッコのタンジェへ 」)

 正直、スペイン南端の港町アルヘシラスに着いたとき、このままモロッコに向かうかかなり悩んだ。こんなにうろたえるのは何年ぶりだろう、というぐらい焦っていた。なぜって初めての国(しかもアフリカ大陸は初めて)に真夜中に入国するのはかなり心配だったから。
「モロッコ人はいい人なんだろうか」「ひったくりとかにあったらどうしよう」「ぼられるのかなあ」・・・
考え出せば出すほどますます心配になってきた。
アルヘシラスで泊まれば一泊3000円、モロッコのタンジェのユースなら一泊700円。う~ん。貧乏旅の私はできることならモロッコ入りをしたかった。
近くのモロッコ人に英語と手振り身振りで話しかけた。
「モロッコって夜中に入っても安全ですか?」
自分の国を安全か?と聞かれるほど迷惑な質問はなかったんじゃないかと思う。10数人に聞いてまわったが、英語を理解できるモロッコ人なんていなかった。中には
「モロッコに行くの?チケット買わなきゃだめよ。あそこあそこ。」
ってアラビア語で親切にしてくれたおばさん。
意味もわからず、うんうんとうなずく少女達。
そこに現れたモロッコ人男性の1人が“英語わかります”と言わんばかりに私に話しかけ、チケット売り場に私を連れて行った。おじさんの片言の英語に従っていたら、片手に片道のフェリーチケットを握りしめている自分がいた。言われるがままにチケットを買ってしまったのだ。そのおじさん忙しそうだったのに、あれやこれやとよく面倒をみてくれた。最後に
「タンジェに着いたらこれを人に見せなさい」
と言ってくれた紙にはアラビア語で“彼女は宿を探しています。助けてあげて欲しい”という旨が書かれていた。

 おじさんと別れた私。どうしたものか、と思っていると乗船口ですごい量の荷物を持ったおばさんに遭遇。英語で話しかけると流暢な英語が返ってきた。スパニッシュとアラビア語しか聞こえない中で英語が通じるおばさんに会えてなんだかほっとした。結局このスイス人のおばさんとはフェリーで時間を供にし、おばさんの荷物運びを手伝ってあげた。本当に不思議なおばさんだった。
おばさんの話によると、娘がモロッコの刑務所にいるらしい。娘にこの大量の荷物を渡すためと、弁護士に会って話をするためにモロッコに行くらしい。
おばさんの持ってた荷物:2つの紙袋(中には苗木とタオルが入っていた。)、段ボール1つ(隙間からマカロニが見えた。)、肩掛けのボストンバッグ2つ。

刑務所にいる娘にマカロニと苗木?? 他にどんな荷物を持ってきているのか気になるところではあった。

 このおばさんが歩くだけで通路が埋まってしまうくらいの荷物の量であった。話し方も笑い方も服装もすべてが不思議な人ではあったが、モロッコのことをいろいろ教えてくれたりと良いおばさんだったように思う。

 タンジェでスイス人のおばさんと別れ、暗い道をひたすら歩いた。途中でユースホステルへの道をモロッコ人に尋ねると親切にも連れていってくれた。ユースに着いたのは真夜中の12時近く。予想外にもモロッコは安全そうだった。

2006年12月25日  タンジェ(Tanger)→フェズ(Fes) ハンサムなスウェーデン人

 午前中はタンジェを観光し、午後はバスでフェズに向かった。バスの中は5人(私を含む)の外国人にあとは席一杯のモロッコ人。長いバス旅の中で一人かっこいいスウェーデン人を見つけた。かっこいい人はいつも私には縁がなかったものなのだが・・・ひょんなきっかけから少しずつ会話を交わすようになり、一緒にその日の宿探しを始めた。バスが予定よりかなり遅れて、フェズに着いたのは夜の9時近かった。そんな時間に一緒に宿を探す仲間がいたのは心強かった。フェズのメディナ(旧市街)を歩くと、次から次へとモロッコ人が声をかけてきて彼らの都合の良いホテルへ我々を連れて行こうとした。この客引きから逃げるように歩き、そしてみつけたのがホテルDu Parc( 泊まったお宿参照 )。典型的な安宿で、とてもきれいとは言い難かったが、夜も遅かったのでここに決めた。80DHといいはる宿主と値段交渉して50DHに。後から来た日本人は70DHを払っていた。つまり人によって払う額が違うわけだ。私はスウェーデン人の隣の部屋を割り当てられた。

 その後そのスウェーデン人と一緒に夕食を食べに旧市街へ。モロッコ料理クスクスを食べて楽しい一時を過ごした。ちなみにそのスウェーデン人は今スペイン北部に留学をしていて、薬を勉強しているとのこと。もうすぐで学校を卒業するのでスウェーデンに帰って医者になるとか。薬の勉強をかねてインドへは4回も行っており、他にもいろいろな国を旅行しているワールドトラベラーだった。いつもカメラを持ち歩かず、現地人との交流や現地文化を大事にするその姿勢に共感できた。

2006年12月26日 フェズ(Fes)  迷路のようなメディナ

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 この日は一人でフェズ観光。入り組んだ迷路のような道を歩いていたら本当に迷子になった。
「一人じゃこのメディナ(旧市街)は大変だよ。こっち、こっち」
と邪魔してくる客引きにうんざりしながらも、本当に道に迷った時には焦った。ただでさえ方向音痴な私にはこのメディナは少々難関だった。やっと客引きを払いよけたと思いきや、30分後にまた同じ客引きに
「やっぱり一人じゃ大変でしょ」
と声をかけられた時にはぞっとした。

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 そんな私も一回だけ客引きについていったことがある。どの客引きも大抵最初に言うのが、
「屋上につれていってあげる。景色が素晴らしい。タダだよ。タダ。」
連れられてのぼった屋上からの景色は家々が見えるだけでたいしたものではなかった。
それから絨毯のお店や、香辛料のお店などいろんなお店に連れて行かれたが、何ひとつ買わなかった。しかし、かつてから一度はやってみたいと思っていたヘナ(手に模様をかくもの)の話が出た時には乗り気になった。
「ここの女性はヘナのコンテストで一番だったんだ。250DHでどうか。安いよ~」
という青年に
「30DHならやる」
と答えた私。結局交渉の末40DHに。その後、おつりがないと言ってきて、50DH(700円)になってしまった。絶対ぼられているな、と思ったのだが、この客引きには多少なりともお世話になったので、まあいいか、とそれで手を打った。

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 夜は宿でスウェーデン人の彼と会って、一緒に外を散歩した。宿に帰るとオーナーのモロッコ人がモロッコ式パスタをご馳走してくれた。スウェーデン人の彼、モロッコ人2人と食べた。モロッコ特有のミントティーがまたおいしかった。そしてその後はスウェーデン人にチェスを教えてもらった。
 この日の夜は寒くてよく眠れなかった。安宿だからしょうがないか。

2006年12月27日 バス移動 フェズからマラケシュへ

 この日の朝はちょっとショッキングな出来事が!スウェーデン人の彼とマラケシュに一緒に行く約束をしていたのに、彼は連日の疲れがたまって行けない、とのことだった。う~ん。ハートブレイクか??

 仕方ないので一人で早朝にバス停に向かった。
朝6時に乗ったバスが目的地、マラケシュに着いたのは夕方5時。なんとも長いバス旅だった。バスの中では、英語の話せるモロッコ人が隣に座ってきてしきりに話しかけてきた。暇なのでいろんなことを話した。

 マラケシュに着いてから宿をおさえ、メディナを歩いて大衆食堂に入った。偶然にもそこには日本人の女の子3人がこれから夕食をとるところだった。久々に日本人に会えて嬉しかった私は早速話しかけ、ずうずうしくも和に入り一緒に楽しい時を過ごさせてもらった。フランスに留学をしている彼女達はフランス語でモロッコ人と会話をしていた。ここモロッコはアラビア語が公用語。学校でフランス語を習うのでフランス語もOK。スペイン人の観光者が多いのでスペイン語も通じる。しかし残念ながら、英語を話せる人は限られている。大学時代に1年間だけフランス語を勉強したことのある私は「もっとちゃんとやっておけばよかった」と心から思った。今や単語の一つすらでてこない様だからだ。日本にいる頃は英語やフランス語など、勉強する必要性をあまり感じなかったものだが、こうして旅を続けているとその重要性をひしひし感じるものだ。


2006年12月28日 マラケシュ(Marrakech)

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2006.12.28のブログ参照 「マラケシュはでかい!!」

 この日はジャマ・エル・フナ広場の北に広がるスークを歩き、いろんなお店を見て回った。行った観光名所はマラケシュ博物館、クッバ・バアディン、ベン・ヨーセフ・マドラサ。もちろんそういった建物内や建築様式をみるのも楽しいのだが、人々の行き交う様、話す様子、大衆食堂・・・そういったものを見ている方が私にはおもしろかった。お昼はフナ広場の近くにある大衆向きの食堂で食べた。10DH(140円)でお腹いっぱいになった。
 途中で羊を引っ張るモロッコ人を何人も見かけた。31日は犠牲祭。この羊さんも殺されてしまうんだな、と思うとちょっぴり切なかった。。。

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2006年12月29日 マラケシュ & バス移動

2006.12.29のブログ参照 「モロッコ、砂漠に向けて! 」

 この日に観光したのはアグノウ門(写真左下)、バイア宮殿(写真真ん中)。宮殿の内部は華やかで、建築様式がすばらしかった。
 お昼に食べたモロッコ料理のタジン(写真右下)はおいしかった~。

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 その後、PM4:00発の夜行バスに乗りリッサニに向かう。目的地メルズーガはリッサニからグランタクシーで40分ほどのところにある。いよいよ砂漠の地メルズーガへ向けて出発!!!

2006年12月30日 メルズーガ  ~とんだハプニング、そして黄金の砂漠~

 朝、とんでもないハプニングが起きた。 2006.12.30のブログ「モロッコ、メルズーガでのハプニング!!! 」 の内容をそのまま抜粋。心に残ったので。

早朝6時に無事バスはリッサニという目的地のメルズーガから車で40分ほど離れたところに到着した。ここに着くまでにとんだハプニングが!

朝5時にモロッコ人の一人に起こされ、「ここで降りろ」と言われた。
「ここはリッサニか?」と聞くと「エルフードだ」と言う。昨日の夜に運良くメルズーガにある日本人宿の情報をインターネットでゲットした私は、すでに予約までしてあり、6時にリッサニまで宿主ののりこさんが迎えに来てくださることになっていた。
「リッサニに知り合いが迎えに来るからここでは降りないんだ」と言い返すと
「ここはリッサニだ、ここで降りろ」と言ってきた。
ここはリッサニなのか?それともエルフードなのか?頭の中はパニックだった。
何人もの人が私をそこのバスステーションで降ろそうと必死だった。彼らは客引きでみんなでグルになっていた。バスの運転手の助手らしき人までも。客引きの一人がバスの荷物入れから私の荷物を勝手に取り出し、「メルズーガにはここからいくんだよ。降りなさい」としつこく迫った。
お客の一人に「ここはリッサニなのか?私はリッサニに行きたいんだ」というと
彼は「リッサニは次だよ。ここにいなさい」と教えてくれた。
「何を言っているんだ。こいつを信じるのか?ここがリッサニだ!!」と客引き。
必死でほかの人にも聞いた。
バス内の他の客も「リッサニは次だよ」と教えてくれた。何が本当で何がウソなのかわからないうちに客引きとバス客との間で大喧嘩が始まった。

その時にはバス内で仲良くなったスペイン人の男性2人は完全にだまされてバスを降りてしまっていた。一緒にリッサニまで行って、らくだツアーも一緒に周る約束したのに・・・と残念な反面、意外にも頼りなかった彼らに少しがっかりした。

結局バスを降りない私に客引きはあきらめてこういった。
「このバスの運転手についていきなさい。他の誰に何を言われても彼についていくんだよ。こうやってまた客引きがくるから・・・。」
最後の最後にはこの客引きはいい人だったように思うのだ。散々私をだまそうとしたけれども、最後には私に忠告をくれたわけだから。
バスの中に残った私は心の中は動揺していた。

リッサニに無事に着き、宿の主人ののりこさんに会えたとき、本当にうれしかった。
これでメルズーガに行ける!と思った。
のりこさんの話によると、何人もの人がエルフードやリッサニで客引きの被害にあっているらしい。この客引き、バスから客をゲットできると50DH(700円)ほどもらえるらしいのだ。700円ってモロッコでは大きなお金。お金が絡むと人間、ここまで人が変わるものなのか、と思い知らされた一時だった。

メルズーガの宿は本当にいいところ。土でできた家で、周りはほんとのんびりしている。時がゆっくりしていて、時間の流れを忘れてしまいそうなくらい。
ここで何人かの日本人とあって、お茶を飲みながら楽しく会話した。

今日はこれからイギリス人のカップルと一緒に砂漠ツアーに行ってこようと思う。
あ~メルズーガに来て、来れて、本当によかった!!

 こんなハプニングを経て着いたメルズーガ。そこには今までに見たことのない景色が広がっていた。あたり一面に広がるのは土でできた家(写真左下)。そして遠くに見えるのはサハラ砂漠。朝・晩は冷えるものの、昼間はとても暖かく、今までの旅の疲れを癒すには絶好の場所だった。結局12泊もここメルズーガにいたのだから、自分でもびっくりだ。当初の予定ではモロッコの後はポルトガル、そしてスペインを観光して帰る予定だったにも関わらず、それを全てキャンセルしてまでもここに居続けた私。これも人との触れあいがあったのと、サハラマジックにかかったせいであると私は考えている(笑)。予定以上にここに居続けるお客さんは多い、と聞いた。

 早速だったが、この日の夕方に出発するラクダツアーに参加した。ちょうどイギリス人のカップルのお客さんが2泊3日のツアーに出発する、とのことだったのでそこに便乗させてもらうことにした。ちなみにここから出発するラクダツアーは1泊2日で350DH(4900円)、2泊3日は700DH(9800円)。

 私の乗ったラクダの名前は“スマエリ”(写真真ん中下)。このラクダは以前、メルズーガ日本人宿に泊まった日本人が購入したラクダなんだそうだ。ちなみに調教されたラクダを買うには13万~15万ほどかかるらしい。調教されてないもので5万くらいだとか。このスマエリ、おとなしくてとても良い子。顔を触っても全然大丈夫。この日から2泊3日、スマエリ、イギリス人のカップル、ラクダ引きのヨセフとの旅が始まった。

 初めて乗ったラクダは思ったより大きかった。最初はバランスをとるのに苦労したが、じきに慣れた。
 サハラ砂漠は本当に美しかった。ため息がでるほど。砂漠ってこんなに美しいものだなんて、思っていなかったなあ。真っ青な空の下に広がる砂漠は黄金色にすら見えた。

 この日の夜は砂漠に住む家族の持つテントで一夜をすごした。

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2006年12月31日 サハラ砂漠  犠牲祭~

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 サハラ砂漠に日が昇った。昼は暖かく、夜は冷える砂漠。太陽が昇った瞬間、少しずつ体が温まるのを感じた。太陽のありがたさを強く感じた時であった。

 私たちが泊まったテントのあたりにはたった2家族しか住んでいなかった。前日の夜に、家族の住むテント(写真左下の真ん中に見える四角いテント)には大人4人に子供5人が住んでいた。こんな狭いテントに9人??とビックリした。テントの近くには羊やヤギなどの家畜、そして犬がいた。ちなみに私たちの泊まったテントは、奥に見える茶色の三角テント。下の写真真ん中の写真は、そこに住んでいた子供達。この子供達は学校には行かないんだと、そこに住むお父さんが教えてくれた。こんな砂漠の真ん中に住む生活なんて、想像できないや・・・。驚くことばかりだった。

 この日はイスラム教の犠牲祭にあたる日。犠牲祭の日にはほとんどのお店がしまるそうだ。そして1家族1匹の家畜を犠牲にして神アッラーに捧げる、という儀式を行う。この砂漠に住む人も、その儀式を行っていたので一緒に見せてもらった。動物を殺す様を普段見ない私には、痛々しく感じられた。

 そして我々は次の地に向けて出発。写真右下はラクダ引きのヨセフにラクダのスマエリ☆

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 3時間あまりラクダに乗ってついたのはブラック砂漠(写真左下)。赤土の砂漠は途中で終わり。このブラック砂漠もサハラ砂漠の一部とのこと。そしてブラック砂漠にも人は住んでいた。土でできた小さな家が4件ぐらい見えた。

 午後2時頃から自由時間。なーんにもないこの広い砂漠でどうやって夜まで過ごしたらいいの?って思っていたけど、ゆったりした時間に身を置いてみると時がたつのはあっという間だった。ここにいると、普段せわしなく生活しているNYや日本での自分がうそのように感じられた。こんな空間、こんな生活スタイルもあるんだなあ。途中、ブラック砂漠に住む女の子(名前はスハイラ)と一緒に遊んだ。元気よく私に話しかけてきて人なつこかった。会話なんて全く通じないのに、一緒に遊んでいて楽しかった。
 途中ヤギの集団を引き連れた少女にあった(写真真ん中下)。

 ヨセフとスハイラと一緒に木を拾い集め、夜のたき火の準備をした。

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旅は続く・・・ モロッコ旅日記(2)へ!!















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