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初夏の風わたる in 世羅高原・麦畑
初夏の風わたる in 世羅高原・麦畑 posted by (C)エージロー

■エピソード(No.2):母の言葉1

「エージローは勉強が得意だし、人にものを教えるのが上手だから、教員になったらいい。」

それをもう少し早く言ってくれればよかったのに‥‥。

クラスメート(3コース全63名)のなかには、教員を目指す人が1割ほどいて、あとは国家公務員・地方公務員(人気の栽培漁業セン

ターなど)や研究機関、民間の大手一部上場企業(食品・医薬品・化学会社など)を目指していました。

その当時、つまり、 大学 4年生のころは教員になることなど考えたこともなかったので、2年生から始まる教職課程も「一般動物実験」

など2~3単位を受講しただけで途中でやめてしまっていました。

社会人になってあとから考えると教員免許(中学校・理科または高校・生物)は取っておくべきだったかな、などと考えることもたまに

ありましたが、母の言葉でいろいろと考えることがあり、僻地で失業したときなどは、大きな町へ出て、景気のいい将来性のある大きな

会社へ入るか、教育関係、受験産業などの仕事をし、翻訳業なども是非やってみようと考えていました。

小学3年生のときから大阪に25年間ほど住んでいましたが、初孫(長男)が生まれた1980(S55)年前後の新婚のころ、近所の

親類のN工務店の女主人や寿司屋の女将(おかみ)や父母がよく新居に遊びに来てくれていましたが、いろいろな諸般の事情があって、

結婚前に購入して住み慣れた大阪市内の新築分譲マンション( ※注1 )を売り払って、大阪から笠岡(本籍地)へUターンしたものの、

1985(S60)年、伯方島(愛媛県越智郡)で失業し、引退して年金生活をしていた父が3人の孫の顔を見に大阪から遊びに来たり

していましたが、1986(S61)年の10月、読売丸に乗って大阪(本社)へ単身赴任、能勢・川西市で半年間の企業研修ののち、

1987(S62)年4月、伯方島から広島・尾道へ転入し、以来27年が経過しました。

その間、祖母(1954年)、祖父(1962年・享年90才)、伯父(1969年・ 長男 ・享年67才)、父(1992年・五男)、

伯父(1994年・外務省勤務・三男)、母(2005年)、兄(2007年5月)、母の伯母(私の伯父の妻で 長男の嫁 )(2007

年6月・享年103才)が相次いで他界。

インターネットの新時代・21世紀になったので、長いサラリーマン生活にピリオドを打って、今から10年あまり前になる、2004

(H16)年1月17日からインターネットを導入し、同年2月1日付けで念願の エムアイ産業翻訳研究所 を立ち上げ、折から開発・発

明された人気のブログ(進化型HP)やSNSを研究し制作・運営して、その間、3人の息子たち(30~34才)も元気に独立して、

孫が4人。

2010年2月から健康志向の強い団塊の老夫婦二人で年金生活をしながら、人気の ネット翻訳業 ITコンサルタント業 生涯学習教

育文化事業
(家庭教師など)を営む生活を地道にコツコツと続けています。

お問い合わせ 等】につきましては、

エムアイねっとクラブ事務局 e-mail 】、または【 Tel / Fax 】0848-38-9511(自宅)、【 携帯 】080-3882-6038(三宅)まで、

よろしくお願いいたします。

【参考】
エージローの楽天【全国総合ランキング】詳報(速報)
エムアイ産業翻訳研究所へようこそ。 【その1】
私のブログを紹介します。 【その1】
私のブログを紹介します。 【その2】
私のブログを紹介します。 【その3】

■エピソード(No.3):母の言葉2

高校生のころ、机に向かって勉強ばかりしている私に向かって、

「うちの○○○は鉛筆や箸より重たいものを持ったことがないのよ。」

実際は、難解な数学の「宿題」に時間をとられて、時間に追われて、あれこれと悪戦苦闘を続けていただけでした。

団塊の世代で何をするにも競争が激しくて大変そうだった私エージローの様子を見かねて、父が心配し、私を机から離そうと考えたよう

でした‥‥(つづく) 

新緑の頃~江(ごう)の川の鯉たち~
新緑の頃~江(ごう)の川の鯉たち~ posted by (C)エージロー

■エピソード(No.4): Z会 の思い出

かつて、本業のかたわら、Z会で人気の通信添削指導員を8年余り、東大理III(医)への進学希望者90%ぐらいの高2数学のM2S

を担当していましたが、忙しいときはM3S、M3H、M1S、M1H、M2H(Sはスタンダードコース、Hはハイレベルコースの

略)にも協力的に対応していました。

また、その途中でZ会事務局から、国語の問題作成委員も担当してみませんかとの打診を受けることがあり、チャレンジしてみたいと

いう考えはありましたが、その一方で、とても時間がかかりそうな気がして、本業との兼ね合いもあり時間的に無理だと思い、お断り

しました‥‥(つづく) 
とてもチューリップ日和な日曜日
とてもチューリップ日和な日曜日 posted by (C)エージロー

■エピソード(No.5):父の思い出

「昭和元禄花盛り」と謳われた高度経済成長期(1954~1973年)のさなか、昭和33(1958)年8月下旬、私エージローが

小学3年生のとき、青雲の志を抱いて父は一家5人で笠岡(本籍地)から大阪へ出ましたが、それまで住んでいた加藤睦月(国会議員)

の離島振興法で栄えた笠岡諸島の離島の自宅(持ち家 ※注1 )では、庭先でニワトリを放し飼いで飼っていて、一家で毎日のように、毎

朝のように、 たまごかけご飯 ※注2 )を食べていました。

えさは海辺の砂浜の牡蠣(かき)などカルシウムたっぷりの貝殻であり、それを平板な石やコンクリートの上で金鎚(かなづち)でコン

コンと叩いて小さく砕き、本家の嫁(私の母の伯母 2007年他界 享年103才)が農協から発注されて毎年作っていたという麦畑の

「小麦」やトウキビ、ヒエ、アワ、トウモロコシなど 雑穀類と混ぜ合わせて与えていました。

そして、

「貧乏人は麦飯(むぎめし)を食(く)え」( 自民党 池田総理大臣

などという言葉が当時流行(はや)っていましたが、麦はビタミンB群が豊富でヘルシーだから、などという理由でたまに母は麦を何%

か混ぜた「麦ご飯」を竃(かまど ※注3 )で炊いていましたが、銀シャリ100%の白米ご飯と比較するとちょっと混ぜただけで美味し

さ・うまさががた落ちになり、

「ま、まずい‥‥」

「く、食(く)えたもんじゃない‥‥」(言葉は悪いですが)

っていうような不人気なムードになって評判はかなり悪く、滅多に食卓にのぼることはありませんでした。

黄金色に豊かに実る-♪
黄金色に豊かに実る-♪ posted by (C)エージロー

今は 国産21世紀雑穀米 など、雑穀米の人気がとても高く、実際、食べてみるととても美味しいですが、麦飯はやはり食味がかなり悪い

ので、麦は雑穀米に混ぜて炊くのが一番いいでしょう。

また、最近では、昔から根強い人気のある「 玄米 ご飯」については、親類の農家から精米無しの100%玄米(島根県産)を分けていた

だくことが多くなり、昔から使っている圧力釜で玄米100%だったり、玄米50%だったりの白米プラスの玄米ご飯を炊いて、国産

21世紀雑穀米、発芽玄米などとともに、健康志向の強い団塊の老夫婦二人で医食同源、健康的な生活を心がけ実践しています。


そして、たまごを産まなくなったニワトリは、一家五人の夕飯の親子丼のメイン具材「カシワ」になる運命で夕方、打越(うちごし)

という広いきれいな砂浜の波打ち際に連れて行かれ、父に細い首をねじるように絞められて生命を奪われ、羽根を全てむしり取られて

丸裸にされ、鳥肌を晒して持ち帰られ、母の手で捌(さば)かれて活きのいいぷりぷりのカシワになりほかほかの美味しい親子丼に変

身するわけでしたが、波打ち際で首を絞めて大人しくさせ羽根をむしり取るシーンは、すぐ横で観ていた小学低学年の私エージローの

目にどのように映っていたのか? っていう話ですよね。

これは教訓に満ちているわけで、どうしてあのとき小学低学年の私エージローをわざわざ打越の浜まで同伴させ、あのようなシーンを

目の前で目撃させたのか?

つまり、父親として何かを教えようとしていたのではないか?

「この子はよく勉強もするし宿題もし学業は優秀であり、それはそれで十分に親孝行でいいことなのだが、虹色のトカゲや大きな犬を怖

がったり、ちょっと泣き虫の傾向があり、じびがね( ※注 )かもしれないから、もっと心身ともに強い侍ジャパンの子に育てねば‥‥」

※注 殻の薄くて柔らかい脱皮したばかりのぶよぶよとした弱々しい小さな蟹のこと(方言)。

などと考えたのかもしれない。

頑健で大食漢だった父は戦時中、南方方面で食糧難の厳しいなか、激しい空腹とも戦っていたわけで、生と死の狭間で、生きるとはど

ういうことかをよく理解していたことになります。

今回のこの一見残酷際まりないように見えるシーンは、南方戦線の戦場と食料調達の現場で毎日のように目にするシーンだったはずで

あり、父もその先頭に立ってその仕事をこなしていたはずである、生きるために、生きて帰るために。

十分な食料に恵まれることもあっただろうし、きっと激しい空腹に見舞われ悩まされることもあったでしょう。

生きるとは食べること。

ということで、みなさん、ヘルシーで美味しいものをしっかりと食べて元気に健康ダイエットし、長生きをしましょう。

私エージローの場合は、 2012年6月11日 からほぼ毎日実践している人気の 食べ順ダイエット により、2014年8月19日現在、

ほぼ毎日、 TANITA の体組成計で計量して -16.4キロのダイエット(減量)に成功 しています。

(※注1) 鉄鋼・造船・海運の業界がとても景気の良かったころで、一家で大阪に出てから、近所で評判の弁護士事務所を開いていた

東大法学部卒の 正森成二 氏が共産党から国会議員に立候補するとき、父はそれを会社ぐるみで後援していて大阪市から中小企業融資を受

けることに成功しましたが、そのとき、貸家(かしや)にしていたこの自宅を売却して頭金を作り、大きな貨物船(輸出入の積み荷は主

に、印鑑材料となる水牛の角、青いコーヒー生豆、バナナ、綿花、小麦など)をローンで購入して、のれん分けの形で、独立開業を果た

したのでした。

そして、今はもう「時効」になっていますが、父は自分の仕事がますます順調に推移し、かなり儲かるようになれば船腹を増やしたり、

大手上場企業の創業300年の製薬会社に勤務し昇進問題が発生しているような私エージローに一等航海士の免許を取らせて株式会社化

することなどを考え、某国立大学の教育学部に進学した親友の船大工の娘を紹介しようとしたりしていました。

(※注2) 小学5~6年生(大阪)のころは、夏休みになると学校の主催で標高1000mの 高野山 へ林間学校に出かけていましたが、

そこの朝食メニューがやはり、味付け 海苔 とたまごかけご飯とお新香とみそ汁(+たまご焼き、または鮭の塩焼き、またはアジの開きな

ど)であり、昔、福井県の 永平寺 や、企業研修で奈良県の 三松寺 (禅寺)へ座禅を組みに行ったりした時も朝食のメニューは味付け海苔

とたまごかけご飯とお新香とみそ汁+一品だったような記憶があり、今はどこも同じようなメニューがメインなのかも知れません。

(※注3) 当時(昭和30年ごろ)はまだ、電気炊飯器はほとんど普及していませんでした。


どの花見ても綺麗だね
どの花見ても綺麗だね posted by (C)エージロー (2011年5月8日 14:33 撮影)
~とてもチューリップ日和な日曜日~
標高500mの高原にちょっぴり遅れて訪れる世羅高原の春、
日本最大級の花絵まで登場して盛大、賑やか!
極彩色の花々に囲まれ、ココロは異国へ♪(じゃらん5月号)
っていうことで、とても快晴な日曜日だったので、開通したばかりの高速尾道道(無料)を走って
6万平方メートルのチューリップのお花畑の丘を健康志向の強い団塊の老夫婦二人で元気に歩きまわって来ました。
世羅高原農場へようこそ

■エピソード(No.6):企業研修の思い出

1986(S61)年9月、新聞広告「第6期幹部候補生募集!」に応募したのが、読売新聞(大阪本社)との最初の出会いでした。

大阪本社 管理部から退職金が出て、三者協議により、正式に円満退職(実際は健康上の理由)をしたのが、2000(H12)年の

8月25日で、ちょうど満50才のとき。

同年4月に上の息子二人が安定した大手上場企業に就職した年であり、末っ子(三男)が高校に進学した年でした。

あれからもう14年が経過し、その間、母(2005年11月享年78才)が亡くなり、兄(2007年5月享年61才)が他界し、母

の伯母(2007年6月享年103才・ 私の伯父で長男 の嫁)が亡くなり、もう時効になった気がしますが、その後の状況には大きな変

化がありました。

長年住み慣れた大阪から笠岡(本籍地)へUターンしたものの、1986(S61)年10月、幼子3人を抱え僻地(愛媛県・伯方島)

で失業し途方に暮れていた私エージローでしたが、

「とにかく、一刻も早く大きな町に出て、景気のいい給料のいい将来性のある大きな会社に潜り込まねば‥‥」

との思いが強く、大阪駅前の本社へ単身赴任したのは、 読売新聞 大阪本社(販売局)が100%出資する「人材育成開発センター」的な

趣旨のもとで設立された子会社の紙上「第6期幹部候補生募集」に応募したもので、近畿・中四国・九州から骨のある総勢26名が集ま

り、その中に 江本孟紀 投手の従兄弟(いとこ)も参加していましたが、「大阪読売開発研修学院」(企業秘密)という名称で、内外から

ベテランの講師陣を招いてさまざまな講座や実習、学習・自習トレーニングをするなど、長年の間に蓄積された洗練された研修メニュー

が用意され、半年間の本格的な施設(大阪能勢・ 川西市 )での企業研修( ※注1 )により本物のしっかりとした「読売マン」(正・準社

員的な人材)を育てる地下組織的な組織として期待の集まる新しい試みの会社(大阪読売開発株式会社)でした。

※注1 筋力トレーニングや、猪名川周辺や五月山ハイキングコースなどを利用した早朝訓練を実施し、心身を鍛練し教養を深め身に

付けて即戦力となる実戦に対応できるハイレベルな人材を育成するのが目的でした。


それは、超大型輪転機数十台で毎日1000万部を印刷・発行する日刊紙(全国紙)としてのギネス記録を維持し堅持・継続させなけれ

ばならないという社内の強い空気、強い信念と義務感と責任感、士気の高揚、盛り上がりがあったからであり、その表れとして、打ち上

げの大宴会や会合の最後には必ず、右翼色の強い「同期の桜」の替え歌が大合唱され、散会していました。

♪~貴様と俺とは同期の桜、同じよみうりの庭に咲く。咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょう、よみうりのため。‥‥

巨人の星 」のテーマソングもとても人気があり、また、 奈良の航空自衛隊駐屯地 での体験入隊では、ハードな軍事教練( ※注2 )、短

距離・長距離などの体力検査(記録会)などもあり、最後に搭乗体験をする予定で時間切れとなった特攻のゼロ戦(復元機)の前で軍服

を着た記念の集合写真を撮りましたが、ゼロ戦はアメリカの戦略爆撃機B29と比べるとかなりな小型機で、ポンコツで、とてもボロで

地味な印象がありました。 

「これでは米軍、B29にはとても勝てないな‥‥」

「これで勝てと言うほうが無理でしょ‥‥」

と、心のなかでつくづくそう思ったものでした。

※注2 カネの茶碗にカネの箸、仏様でもあるまいに一膳飯とは情けなや‥‥起床ラッパで起こされる、広大な敷地での真冬の早朝裸

マラソンなど。このトレーニング講師(社員)のなかには、柔道、剣道、空手道、弓道、合気道など武術の段を合計で27段も所持する

50代の猛者(もさ)もいて、御前試合にも出場した経験があり、毎日たわしでの乾布摩擦を実践し、エレベーター、エスカレーター等

は一切利用したことがないという徹底ぶりの心身鍛練家でしたが、真冬での早朝裸マラソンでは、真冬だというのに、ワッセワッセと

500mも走らないのに、身体(からだ)の中がゴーッと激しく燃えてきて火の玉となり身体中から汗が噴き出してくるのでした。そし

て、川西市内の大型スイミングスクールを買い取って本格的に改装した合宿施設なので、研修室も食堂も食事内容も充実しており、早朝

マラソンでひと汗かいた後などは銭湯を一回り小さくしたような総檜造りの大浴場で汗を流し、朝食をとってひと休憩ののち研修メニュ

ーに臨むのでした。


このような半年余りの企業研修ののち、どのような配属があるのか、いろいろと考えながら、どのような転勤があるのかと待っていまし

たが、本社と相談をしながら、新聞社というのは販売局と編集局と管理部という3本の大きな柱、部門があり、編集局には新聞記者とい

うのもあり、そういうのは全く未知の世界でとても自信がないという判断で、松下幸之助は「販売の神様」であり、「学院出」と呼ばれ

たプロフェッショナルの私エージローは、

「とにかく、僻地・伯方島から大きな町(福山など)に一刻も早く出たい‥‥」

「そこでまた、自分に合った適職を見つけたい‥‥」

と、あれやこれやと考えをめぐらしているうち、広島県東部(販売局第4販売部)の管理地域(福山・尾道・三原の各市)内にある全

70カ店の毎月の売上ランキングというものがあり、本社の担当員( ※注3 )から、限りなくランキング最下位に近いイエローカードの

出ているような傾きかけた店舗をしっかりと立て直す「販売力強化」のための「テコ入れ要員」が不足しているので、

「そちらをよろしくお願いします」

との話があり、ミッションインポッシブル mission impossible 、二足の草鞋(わらじ)(企業秘密)、

それが今から27年ほど前の1987(S62)年3月ごろの状況でした。

※注3 第4販売部の管理区域(福山・尾道・三原)内の一店一店を月に1~2回巡回パトロールして連絡を密にし様ざまな最新情報

の交換と交流を推進する大阪本社販売局第4販売部の正社員。

ちなみに、 郵便局 ならば全国に1,5000店舗、ソフトバンクならば33,663店舗(2014年3月末現在)ですが、 読売新聞 グル

ープは全国に10,000店舗(情報拠点)を展開し、また1,000万読者を擁し発行部数「世界一」に認定されたギネス記録を保持す

るマスコミ、情報・通信産業の一大老舗(しにせ)グループです。


それから、退職する2000(H12)年8月までの13年間余りは、子育て期間中でもあり、水面下での他社(新聞社)とのハードな

シェア争いと増紙活動、読者開発( ※注4 )に明け暮れる疾風怒濤の毎日でしたが、何とか切り抜け、割合時間のあるときは副業OKの

店舗(有限会社)だったので、教育関係・翻訳関係に転職することもなく自由時間が有効に活用でき、企業秘密な部分も多いので、その

詳細については一般に公開するのは難しいのですが、10年目に本社より勤続10年表彰( ※注5 )を受けて主任(5万円の手当がつく

副所長待遇)に昇格。

その間、1992(H4)年に実父が他界し、1993(H5)年に家内の実母が他界し、1994(H6)年に店主(一男二女の妻帯

者、享年67才)が亡くなり、また外務省勤務・文房具店経営の私の伯父が他界し、1998(H10)年に店主の長男(享年33才)

が亡くなり、また私の妻が奈良へ長期の緊急入院をして、2000(H12)年4月には上の息子二人が景気のいい安定した大手上場企

業に就職し、三男(末っ子)が高校に入学。

長男は最初の2年間ほどは、先輩の経営する地元の中堅企業(福山電子)で元気に働いていましたが、残業手当が付かないことに大いに

不満を募らせ、

「これでは車のローンが払えないよー」

ということになって、自宅から4~5キロの平木山の近くの世界シェア70%という景気のいい大企業に再就職し、以来、勤続14年で

今年15年目に入り、所帯を持ち日勤の班長を務めており、二男(勤続14年)、三男(勤続11年)も転職経験なしで現在、大手企業

に勤務する妻帯者であり、家持ちで、1~2児のパパ(父親)です。

※注4 読者開発、いわゆる拡張業務については、全国に10000店舗(情報拠点)を展開し発行部数「世界一」に認定されたギネ

ス記録を保持する新聞社なので、やはり全国の主要都市を中心に「団」と呼ばれるしっかりと販売局の情報最前線の店舗(情報拠点)を

管理しサポートする組織、サポート網も充実しており、世界中に張り巡らされた支局や通信部(編集局)とも連携しつつ、年間増紙目

標、月刊増紙目標を定めたのち、毎月の販売会議、こちら第4販売部では福山市内で熱心な定例販売会議が開催され、各店舗に売り上げ

や増紙目標(いわゆるノルマ)が割り当てられ、各店舗はそれに沿って、大阪本社や福山の「団」からの外務員を毎月日程を組んで自由

自在に操り活用しながら、目標に達するまで読者(契約)カードを増やしていくことになります。

全社を挙げて取り組んでいるのが毎年、節目節目に実施される様ざまな拡張コンテストであり、取締役販売局長以下、部長、次長、課

長、平社員、店長、主任、従業員、外務員まで全員が参加をして、競い合ってカードを挙げ、その成果次第で大きなキャッシュバックと

ともに海外旅行や国内温泉旅行、高級家電、高級腕時計などを副賞として獲得することになり、私の場合、 報知新聞社 の主催する大きな

節目の創立50周年記念 スポーツ報知 増紙コンテスト(1996年)で@60000円のグルメ旅行+市内観光が獲得でき、四国・高松

の大きなホテル 花樹海 大宴会場130名様ご招待に参加、招待されたことがあります。

あの時はすごかった。

一人で夜遅くまで車で外回りをしているとき、予想外に割合運よくタイムリーに新勧(新規勧誘カードの略)を含むいいカードが比較的

よく上がったのでした。

「おー、今日はラッキーないい日だねえ‥‥日ごろの行いがいいからかな?」

と、 海老で鯛を釣る 気分でした。

記念の増紙コンテストは大いに盛り上がり大成功を収めたので、ゆったりと温泉に浸かって日ごろの疲れを癒したあと、次から次と出て

くる大盤振る舞いな豪華版の大名料理に舌鼓(したつづみ)を打ち、飲めや歌えの大広間での大宴会が夜遅くまで続きました。

一泊した後、時候もよく、二日目はゴルフコンペのグループとは別行動をとり、 屋島 など高松市内の観光名所をあちこちと巡り、また市

内の有名な高級グルメ亭をあちこちと一日中回り、大満足をして貸切の観光バスで広島・尾道に帰りました。

ちなみに、第4販売部(広島県東部)では、地元の地方紙、 中国新聞 が圧倒的なシェア(60%)を占めており、全国紙(一般紙)の読

売新聞がシェア率第2位で20~25%、あとは朝日、毎日(+日経)、産経が残りのシェアを分け合っています。


※注5 表彰状「あなたは読売新聞のメンバーとして永年にわたりマスコミの第一線である新聞販売業務に従事されました。

その間IC代表に協力し新聞の使命である地域社会への寄与貢献を立派に果たされました。

ここに読売厚生会々員として十年を迎えるにあたり、あなたの日頃の努力に対して感謝の気持ちを込め記念品を贈り表彰します。

平成九年十一月一日  

中国・四国読売会従業員厚生会 会長 黒田有 

読売新聞大阪本社販売第四部 部長 栗山美政」

ちなみに、当時の読売新聞大阪本社の取締役販売局長は今井一文でした。


2000(H12)年8月に、健康志向の強い団塊世代の私エージローは三者協議により、本社より退職金をいただいて、円満退職する

に至りましたが、これが今から14年前の話であり、2004(H16)年1月17日(土)、時代は21世紀で、デジタル新時代に突

入していたので、インターネットを導入して、同年2月1日付でネットの花形、クラスの英語委員を任された中学3年の時からの念願の

エムアイ産業翻訳研究所 を立ち上げて現在、2010(H22)年2月より団塊の老夫婦二人で年金生活に入り、ITコンサルタント業

、教育コンサルタント業(小1~高3生の数・英の塾講師・家庭教師など)も開業するに至っています。

エージロー先生の受験生応援特別講座【1】 【2】 【3】

    ‥‥‥【文責・写真】エージロー(2017.02.22.Wed.更新)


■エピソード(No.7): 海苔 の完全養殖技術の確立についての思い出

栄養豊富でヘルシーな海の一番野菜であるおいしい 海苔 (のり)、その「完全養殖」はかつて人類の夢、東洋人の夢、日本人の永年の夢

でしたが、その完全養殖技術が民間や農水省などとのコラボで1970年頃に開発され、「 海苔 の完全養殖」が現実のものとなりまし

た。

その技術面の開発の様子をつぶさに大学の講座で講義として私エージローが受けたのは大学3年生(1971年)の時で、助教授であり

クラス担任で寮監でもあり卒論でお世話になった喜田先生(当時 海藻増殖学講座担当)からの贈り物であり、かなり興奮しました。

これと同時進行で始まったのが、私の本籍地(笠岡)、地元の小島で研究熱心だった人たちにより、高度経済成長期のさなか、何でも作

れば売れるといういい時代背景があり、1969年に生物学顕微鏡が購入され、海苔の胞子や殻胞子を顕微鏡で確認しながらの基礎的な

研究が始まっていましたが、それはずっと後になって1983年ごろに知ったことでした。

結局、それから10年あまりが経過して、やっと、海苔の完全養殖は小島でも現実のものとなり、やがて稼ぎの象徴である「のり御殿」

が瀬戸内海その他のあちこちに出現することになったのでした。

やがて全国的に生産過剰の時代がやってきて、それに安い韓国海苔が追い打ちをかけるように大量に輸入されるようになって、海苔の相

場が大暴落したため、生産を続けても赤字になることが多くなって、生産者が徐々に減少していき、現在のような安定的な生産状況にな

って落ち着いたというわけですが、TVニュース等を見ていても、全国的にみて、状況を見ながら、まだまだ生産を続けているところも

多いようです。

ちなみに、突然ですが、 ドリュー女史 の功績については以下( ※注1 )のようです。

昔、海苔の完全養殖の専門書を読んで知ったのは、若いころのドリュー女史が1949(S24)年の8月ごろ、ドーバー海峡の海岸を

海藻の研究のため海藻標本を集めるために歩いていたとき、黒っぽいカビのようなものが生えた牡蠣殻が目に止まり、それを持ち帰り、

研究室の海水を張った水槽に入れて何気に管理していたところ、水槽内に海苔のような海藻の芽が生えて大きく育ち始めたという何とも

感動的でドラマチックでエキサイティングでエポックメイキングでセンセーショナルなものでした。

確かに、これは、瀬戸内海の私の故郷・笠岡諸島のM島でも、離島振興法により最新式の技術を駆使して本格的な海苔養殖が行われて実

績を上げていたころ、夏休みやお墓参りで海辺の波打ち際を歩いているとき、このような黒ずんだ牡蠣殻をよく目にしたものでした。

「これだな、ドリュー女史がドーバー海峡の海岸で採集したものは。 いわゆるコンコセリス・フェイズってヤツだな‥‥」

※注1 【ノリ養殖の感動秘話など】

現在の海苔養殖は、海苔の果胞子を貝殻に潜らせて育て、果胞子が糸状に成長して再び果胞子を発芽させ、そこで生まれた胞子を海苔網

に付着させて育てる「人工採苗」という方法で増殖させる。

しかし、この方法が開発されるまでは、海苔の胞子は海の中に浮遊し、海岸の岩場に付着して夏を過ごし、秋口に果胞子を出すと思われ

ていた。

そこで竹ひびや海苔網を海の中に建て込み、それに自然に海苔芽が付着して成長するのを待ち、手摘みをするのが一般的であった。


ところが、海苔の胞子は春先から秋口まで貝殻の中に潜り込み、黒い糸のような状態(糸状体)で生長し、秋口に貝から飛び出し海中を

浮遊することが発見された。

この発見によって初めて海苔の一生が明らかになった。

その結果、現在のような 海苔の胞子を人工的に育てて養殖する方法が考え出された。

海苔の胞子が貝殻に潜って夏を過ごすことを発見したのが、イギリスの海藻学者である。

人工養殖の生みの親で、今日の海苔養殖発展の大きな貢献者である。

 その人は、イギリス・マンチェスター大学教授であった故キャスリーン・メアリー・ドゥルー・ベーカー女史(1901~1957、

Dr.Kathleen Mary Drew Baker)。 

ドゥルー女史の紹介と業績については、昭和37年(1962)8月10日付で北海道大学教授(農学博士)の故・時田しゅん氏が書か

れた「ケー・エム・ドゥルー・ベーカー女史の功績」を紹介する‥‥(以下略)



寒天 原藻の発見】

諸般のさまざまな事情により、私エージロー一家が永年住み慣れた第二の故郷・大阪から笠岡(本籍地)の小島へUターンしたのは、

1981(S56)年の6月ごろで、その約1ヶ月後に私が購入していた大阪市内の新築分譲マンションが売れて、近所の大阪市立三先

小学校の若い教諭夫婦にその権利書・契約書が渡りました。

大阪の不動産業者から通知が来て大阪駅前の三井不動産販売へ精算の手続きに行き、430万円の小切手を一枚受け取って、以前から

一度食べてみたいと思っていた身欠きニシンそばを大阪駅構内の日本食堂でおいしくいただき感動して笠岡へ帰りましたが、その年の

10月に二男が生まれて、1984(S59)年の4月に三男が生まれ、それと同時に尾道海技学院での半月間の免許合宿(一級小型

船舶操縦士の免許取得)が無事終了し、子育てのこともあって一旦、愛媛県越智郡(おちぐん)の伯方島(はかたじま)へ仕事の関係で

一家5人で転居しました。

その間、1983(S58)年の8月ごろ、私エージローが30過ぎだったころ、小島の仕事場近くのやべつの浜でマクサを発見しまし

たが、この 寒天 原藻の発見はとても衝撃的でした。

つまり、うちの島では今まで、「いぎす」という海藻のねばねば成分で惣菜を固めて作る「いぎす豆腐」しかなく、それはそれで十分に

おいしく、夏場に冷やしていただくととても滋味で評判も良かったのですが、寒天の原藻であるマクサ(テングサ)を私エージローがや

べつの浜西側の岩場の高さ3mぐらい樽型の巨岩の側面に「マクサ」らしき紅色の房状の小さめの海藻が帯状にたくさん繁茂しているの

を干満差4mぐらい大潮の干潮時に発見し、それを少し持ち帰り、小学館の有名な「世界海藻図鑑」(瀬木紀男著)で調べたのです。

その結果、やはりそれは寒天の原料となる最上級品の紅藻であることが分かり、早速、海藻増殖学の専門書をひも解いて、トコロテンの

作り方を研究し、長期保存ができる市販品の棒寒天を作ろうと毎日、仕事場でたくさんの原藻を採集して来て、乾燥、塩抜き、長時間の

煮沸、夾雑物(きょうざつぶつ)の除去、冷凍、解凍などを繰り返し、突き出しの道具で夏場においしいヘルシーなよく冷えたトコロテ

ンを作って酢を加えたショウガ醤油で一家5人と、同居のAお婆さん(102才まで長生きをした本家最後の生き証人で長男の嫁・農協

組合員)と合計6人で試食会を開き、とても美味しいことを確認。

「のどごし爽やか、ほんのりと瀬戸内の磯の香りがして、とてもおいしいよー」

「原料からすべて、100%の手作りだから、市販品よりずっと、おいしいよー」

などと嬉しい評判をいただき、お世話になりっ放しで雲の上の存在だったAお婆さんはあちこちと口コミ宣伝をしてくれて、ハッピーエ

ンド状態となったのでした。

そして、その間、当時、どういうわけか、若布(わかめ)が島の岩場のあちこちに繁茂するようになっていて、冬場にたくさん採れ、採

れたての生わかめで毎朝のように、わかめの味噌汁をいただくことがよくありましたが、もっとマクサ(寒天原藻)が繁殖している場所

はないかと探していたところ、島の南側の打ち越し(うちごし)の浜の波止(はと)で発見。

この波止は砂浜の西側にあり、砂浜の流失を防ぐためか、工事予定が中断されて久しいのか、詳細は不明ながら防波堤(波止)の基礎部

分となる石組しかないので、その50mぐらいの長さの石組は干潮時にしか姿を現すことがなく、干潮時以外は完全に水没しているので

したが、たまたま私エージローが海べりのコンクリート道路を通りかかったときは干潮で、その石組が高さ20cm分ぐらい海面上に露

出していて、穏やかなゆったりとした波の間に間に何かがゆらゆらと揺らめいていました。

ちなみに、ここで注意しないといけないのは沖合を大きな船が通ったときで、その5分後ぐらいには大波が打ち寄せて足元をすくわれ、

小さな子だと簡単に波にさらわれたりするのです。

そして、砂浜を歩いて近づいてよく見ると、幅5mぐらいの石組の波止の上面に紅色をした紅藻マクサがびっしりと、波に洗われるよう

に一面に繁茂していたので、びっくり仰天し、また感動の一瞬を味わうことが出来たのでした。

大豊作の真っ最中のマクサの大群落に遭遇したわけで、当然、潮が満ちてくる前に大急ぎで間引くように収穫し、持ち帰ったのでした。

ちなみに、当時は(今も)栽培漁業が脚光を浴びていて、高校2年のクラスメートで近所の親友だったK君と一緒にいわゆる「団塊世代

の受験戦争」を体験したわけですが、私エージローは水産植物学が専門で、1年生の時から喜田和四郎助教授(海藻増殖学講座・東京海

洋大学出身)がずっとクラス担任であり1年半余りお世話になった佳丘寮の寮監でもあり、卒論の担当教官でもありました。

また、小学館のベストセラー「世界海藻図鑑」の著者である瀬木紀男教授は東京大学農学部出身で水産植物学が専門であり喜田先生直属

の上司。瀬木先生の講座も受講しましたが、世界の海藻を調査した分類学の権威で、私の在学中に水産学部(現生物資源学部)長も務め

ましたが、私が4年在学中の1972(S47)年5月1日付での国立移管完了に伴う問題で、全国から集まったゲバ学生による大学構

内での殺人事件その他で引責辞任をしたのでした。

          ‥‥‥【文責・写真】エージロー(2016.09.04.Sun.更新)


■エピソード(No.8):

幕末の 咸臨丸 (かんりんまる)に乗り込んだ可能性のある男の話


☆和田竜エンタテインメント最高傑作!村上海賊の娘・上巻下巻 2014年本屋大賞受賞!

昔、高校生のころ、「竜馬と海舟」という単行本を読んでいて、幕末に竜馬の購入した亀山社中の いろは丸 が初航海のとき、今でいう

「濃霧注意報」の出ているような瀬戸内海の広島県・福山沖、一説にこの本では岡山県・六島(むしま)沖で、徳川・紀州藩の軍艦明光

丸と衝突し沈没した話を知り、そのあと、海舟が咸臨丸(かんりんまる)の艦長として大嵐に遭遇したり激しい船酔いに悩まされたりし

ながらも無事に太平洋を渡りロサンゼルス港へ入港し大歓迎を受けることになったりするのでしたが、咸臨丸の乗組員を募集したとき、

瀬戸内海の島々からの応募者も多く、おそらく村上海賊の島々から応募する者も多かったと推測され、その名簿のなかに、三宅文五郎と

いう名前が出て来るのでした。

ずっと後になってお盆のお墓参りのときに偶然、三宅文五郎とダイナミックに大書され刻印された割合大きなお墓を発見しました。

かなり風化が進んでいて、一目で幕末の人のお墓だというのがすぐ分かるわけですが、墓石の四面をよく眺めて詳細を確認してみたいと

は思うものの、ちょっと急な斜面にあり、それが少し困難となっています。

お墓参りの後にサーッと簡単に観てみた限りでは、島の北浦の墓地には、

文化 7(1810)年、 文政 7(1824)年、 嘉永 3(1850)年、 安政 3(1856)年、 慶応 3(1867)年、‥‥ 

などという年号の 刻印文字がかすかに読み取れるぐらいの状態の かなり風化の進んだ小さめの墓石がいくつか残っていますが、誰がそ

の管理をしているのかなどについては、その詳細は不明です。

たまたまの同姓同名だったりする可能性もあるし、給料がいいというのがあったり、鎖国が崩壊しかかっていた幕末のころであり、文明

の進んだ広大な緑の大地のアメリカに渡ってみたいという強い好奇心があったりしたのではないか、おそらく、そういった理由で咸臨丸

の水夫か何かに応募したのではないかなどと考える今日この頃です。

「このお墓を管理しているのは誰なのか???」

と、地元の島民にタイミングのいい時にいつか、聞いてみようと思います。

           ‥‥‥【文責・写真】エージロー(2014.05.27.Tue.更新)

エージローの心の言葉

ネットの世界で多目的・多用途に応用が利くような高度な集積回路LSI風のICチップに相当するような利用価値の高い商材を開発!!

ミッションとオートマ、両種の車を自由自在に乗りこなせて初めて仕事が100%こなせるようになるように、21世紀にはアナログと

デジタルの共存共栄、協力関係が必要不可欠でしょう。

2進法のデジタル100%のインターネットは21世紀の救世主であり、福音であり、21世紀の必須アイテムであり、21世紀の地上

に降りた最後の天使からの最後の贈り物なのです。  

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