2012年08月12日
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カテゴリ: 明治の群像


中学校に入って英語を習い始めた頃には、
ローマ字って意味があるのかなと、疑問に思っていたものでした。

日本語をアルファベットに置き換えても、それで外国人に意味が通じるわけでなく、
アルファベットに慣れるためというくらいのもの。
その頃は、そんな風にも思っていました。

ちょっと馬鹿にしていた感のあるローマ字ですが、
それが、今では、日常生活の中、毎日のようにローマ字のお世話になっています。

パソコンのローマ字入力ですね。
実際、日本語で文章を書くより、ローマ字で入力することの方が圧倒的に多い。
これも、時代の流れなんでしょうね。



さて、今回、取り上げようとしているのが「ヘボン式」という呼び方で知られている
ローマ字の考案者・ヘボンのこと。

彼がローマ字を考案するに至った、そのわけは、和英辞典の作成をしていく中で、
必要性に迫られたためということがあるようですが、
でも、考えてみれば、外国人が日本の言葉を外国の表記に置き換えようとする時、
ローマ字というのは、とても重宝なものだったんだと思います。

外国人が、日本語の単語や発音を覚える際に、
その仲立をしたのがローマ字だったということで、
その果たした役割というのも、実は、大きかったように思います。



ところで、ヘボンのことについて。

ヘボンという綴りは、Hepburn と書きますが、
この発音が日本人には「ヘボン」に聞こえたということで、
これを綴りの通りに読むと、「ヘップバーン」になります。

かの名女優オードリ・ヘップバーンもこの同姓ですし、
キャサリーン・ヘップバーンは、このヘボン博士の縁者にあたるのだそうです。

ヘボンという人は、幕末~明治において日本で30年以上暮らしたという、抜群の日本通。
世界で初めての和英辞典を作った人であり、
又、医療や教育の面においても、日本に大きな功績を残した人でありました。

明治学院やフェリス女学院などは、ヘボンがその創立の基となっています。

それでは、以下、ヘボンの生涯について、振り返ってみたいと思います。


***


ヘボンの正式な名前は、James Curtis Hepburnといい、
1815年、アメリカ・ペンシルバニア州のミルトンという町で生まれました。

父は弁護士、母は牧師の娘ということで、両親ともプロテスタントのクリスチャンであり、
また、彼も、その影響を受けて、大学で医学を学ぶ傍ら、聖書に親しみ、
キリスト教を心から信じるようになっていきました。

そうした中、やがて、クララという敬虔なクリスチャン女性と結婚をします。

2人はアメリカで普通の信者として生きるよりも、
海外でキリスト教を布教しようということを話し合い、
家族や周囲が反対するのも押し切って、2人は布教のために中国へと向かいます。

ところが、この中国行きが、正に試練の連続でした。

初めて生まれた子どもを流産で亡くし、2人目の子どもも、生後間もなくして死亡。
それに続いて、2人ともマラリヤに罹ってしまって、やむなく、中国の地を離れます。

結局、5年におよぶ中国の布教活動は、成果を残せないまま、
アメリカへと戻ってくることになりました。

その後、アメリカで開業医を始めて、これが大成功、生活も安定してきます。

そして、そうした中、この2人は、再び、今度は日本へ行って布教しようということを
決意するのです。

開業医として成功し、名声と富をも手に入れていたヘボンではありましたが、
その二つを捨てて、また、蓄えや家財をなげうってまで、
布教のために、日本へと向かったのでありました。



さて、ヘボン夫妻が、日本に着いたのが1859年。
日本の元号でいうと、安政5年のことで、
まさに幕末の動乱の真っただ中という頃の日本でありました。

すでに、中国を経験してきているヘボンではありましたが、
それでも、日本という国はとても個性的な国に映ったようです。

裸に近い恰好姿の駕篭かきや人足の姿、昼間から酒を飲んでいる酔っ払いの姿など・・・。
これらに驚き、しかし、その反面、
彼らが、とても知的な好奇心が強い人々であるとも感じていたのだといいます。

日本へ到着したヘボンは神奈川の成仏寺というお寺に住むことになり、
その近くの宗興寺という寺を借りて、早速、病気の患者の診察をはじめました。

アメリカでは名医として有名だったヘボンのことです。
外科手術や眼病治療等、めざましい治療の効果をあげ、
しかも、その治療費はとらなかったのだといいます。

貧しい人も役人も、ヘボンの診療を受けるため、
遠くからやってくる人も多かったといいます。

しかし、この診療所は、わずか5ヶ月で閉鎖されることになりました。

それは、ヘボンがあまりに目立ち始めたため、
攘夷思想をもった浪人に襲われるのではないかと、奉行所が心配して動いたためです。

この頃の日本。
外国人にとっては、外国人であるということだけで、
襲われたり、殺されたりしかねないという、とても危険な国でありました。

ヘボンも、いつ自分が襲われるかもしれないと、さぞ不安な日々を送っていたことでしょう。

そして、そうした中で起こった大事件が「生麦事件」でありました。

薩摩に帰ろうとする島津久光の大名行列が、生麦村を通りかかった時、
そこへ、馬に乗って遠乗りをしていた4人のイギリス人が行列の前を通り過ぎます。

行列を乱したとして、イギリス人の一行は、薩摩藩士に斬りつけられました。

1人は斬殺されて、2人は重症。

この2人の重傷者が、領事館に運び込まれ、そこにヘボンが呼び出されます。
この時、深い傷を負っていた2人のイギリス人を治療したのが、ヘボンだったのでありました。



さて、ヘボンにとって、命の不安に加え、もう一つの大きな問題が言葉の問題でした。

キリスト教を広めるために日本にやってきたヘボンではありましたが、
聖書の言葉を伝えるためには、日本の言葉がわからなければ伝えられません。

そこで、ヘボンは、まず、日本語の辞書を作ることが必要であると考えました。

ヘボンは、日本に来る前の中国暮らしの経験から、漢字についてもそれなりの知識がありましたが、
それでも、文章の構造からして中国語とは全く違う日本語には、
当初、かなり戸惑ったようです。

そうした中、ヘボンは、連日苦労を重ねながら、単語を収集・分類し、
2万語を超える見出し語をまとめ上げます。

そして、この時に、ヘボンが工夫して作りだしたというのが、
後に「ヘボン式」と呼ばれることになるローマ字の体系なのでありました。

ローマ字というもの自体は、すでに、16世紀にポルトガル人(イエズス会)によって使われていたといい、
その後、鎖国日本の中においても、オランダ式ローマ字というものがありました。

しかし、これらは、宣教師や学者の間で限定的に使われていたに過ぎず、
また、日本の語句との対応という面でも不十分なものでありました。

ヘボンは、これを、仮名とローマ字が一対一になるように工夫し、
また、これを見れば、どのように発音すれば良いのかが、わかるように
表記しました。

彼は、見出し語に逐一ローマ字を併記するという形で、辞書をまとめていきます。

こうして7年間の苦労の末できあがったのが、世界初の和英辞書である「和英語林集成」。
そして、これにより、ヘボンのローマ字は、飛躍的な普及をみせることになったのでした。


さて、辞書が出来上がると、次には聖書の翻訳にとりかかっていきます。

ヘボンは宣教師の仲間達と一緒に、まず、新約聖書を翻訳することから始め、
新約聖書の翻訳が終わると、続いて、旧約聖書の翻訳にとりかかります。

しかし、聖書というのは、新約旧約をあわせると、膨大なボリュームがあるのものです。

結局、この聖書の翻訳が完成したのは、それからずっと後の、明治20年のこと。

ヘボンが成仏寺において、聖書の翻訳に取り掛かってから、
何と20年の歳月がかかったことになります。


それと、もう一つ、
ヘボンが日本に功績を残したものとして、教育の分野が挙げられます。

その端緒となったのが、「ヘボン塾」と呼ばれる、数名の塾生によって始められた英学塾。

この私塾を立ち上げるきっかけを作った人が、後の大村益次郎である村田蔵六で、
蔵六は、オランダ語はできたものの英語には疎かったため、
英語を学ぶ先生としてヘボンを見出したというわけです。

当時、幕府の委託学生であった蔵六は、数人の侍たちと共に、ヘボンの塾生になります。

しかし、このヘボン塾も、攘夷運動の高まりの中、閉鎖せざるを得なくなりました。

その後、少し時代が落ち着いてきてから、
今度はヘボンの妻・クララが中心となり、この塾が再開されます。

当初は、女子だけを対象にした塾ということで、主にクララが英語を教えていたようです。

しかし、やがて、ここに、林薫(後の外務大臣)や高橋是清(後の総理大臣)など
男子学生も多く入塾してきました。

そうした中、やがて、塾も大所帯になってくるにつれ、女子部を独立させることとなります。
この時、女子部を率いて独立していった塾が、後のフェリス女学院であり、
また残った男子塾が、後の明治学院へと発展していくことになります。

最初は、ヘボンが数名に英語を教えるというような小さな塾だったものが、
やがては、時代を切り開く若者教育の機関として、
大きな実を結ぶことになっていったのでした。

その他にも、ヘボンは、
日本初の新聞となった「海外新聞」の創設に参画したり、
横浜に「指路教会」という大きな教会堂を建てるなど、様々な活動を続けていきます。

そして、この頃には、ヘボンが本来望んでいた、日本でのキリスト教の普及についても、
着実に進んでいて、日本にもキリスト教が根付き始めていました。


しかし、やがて、そうした中、ヘボンは日本を離れることとなります。

それは、年老いてから、ヘボンも妻のクララもリューマチに悩まされるようになっていたため。

日本に骨を埋めるつもりで、お墓まで持っていたというヘボンではありましたが、
日本の冬の寒さが体にこたえ、温暖なアメリカ・カリフォルニアに移ろうということになったのです。

明治25年(1892年)
ヘボンが日本に別れを告げる日がやってきます。

度重なる送別会が開かれ、
ヘボンに対しての感謝の言葉、別れを惜しむ言葉の数々が贈られる中、
ヘボン夫妻はアメリカへと旅立っていきました。

ヘボンは、この時、77才。
結局、ヘボンの日本滞在は、33年の長きにわたっていました。


それから19年が経過して・・・。

ヘボンの訃報が、日本に伝えられたのは、明治44年(1911年)のことでありました。
ヘボン、享年96才。

この時、明治学院ではヘボンを偲び、多くの人が祈りを捧げたのだといいます。


ローマ字という文化を日本に根付かせ、
教育や文化活動において、多くの功績を残していったヘボン。

目立たないながらも、日本の近代化を陰から支え続けた、
そんな功労者の一人であったのではないかと思います。






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最終更新日  2012年08月12日 07時53分22秒
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