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笑顔の力がすごいことは、重々知ってましたが、またまた、とてもお世話になりました。昨夜から、持病の片頭痛というか、緊張性の頭痛が発症しそうな感じ。まじめに早めに寝ました。夜中に、寝てても具合が悪くなってきて、「やばい!」と思ったとき、ふと、寝ながら、笑顔になろうと、思い立ったのです。自分でも不思議です。女房に見られたら、気味悪がられるだろうから、あっちを向いて。ニタニタ・デレデレ… そうしたら、です。すうっと寝られて、今朝も、だいたいOKの状態まで。肩の凝りがすうっと溶けていくのがわかります。 つくづく、人間って、笑ってるのが、当たり前のように作られているんだって、納得しました。 自分の健康ばかりでなく、笑顔って、不思議な力を持っていますね。 最近、うちの女房の笑顔がとっても素敵になってきました。(おおっと)どうしても、男性は、奥さんの表情を恐る恐る見ることが多いものです。(身に覚えがありますね)そんな時、笑顔を見ると、心の底から、ほっとするのは科学寅さんだけではないでしょう?そして、笑顔は魅力を惹きたててくれます。最近、本当に妻を惚れ直している寅です。(女房に何があったんだ!) それと、もうひとつ、不思議な力が笑顔にあります。「人の警戒心を解く力」です。 あっけらかんとした明るい笑顔で話しかけられると、こっちの肩肘を張った緊張も、ふっとゆるみます。 そして、ポロっと、秘密を白状してしまうのです!(しまった!!) 今日も、児童館で実験。今日は、「ものの冷える不思議」を追求する「ひえひえ実験」です。かき氷がガバガバ食べられます。 あと、仙台の私の「弟子」を訪問します。ちょっと、心の病をかかえています。一緒に仙台市博物館で、古代ローマとカルタゴ展を観てきます。 帰りは、東松島で家庭教師です。う~ん、充実。こんなに楽しい「仕事」は、ないでしょう。なんて贅沢なんだ。 教師は、サービス業に入るのでしょうが、「サービス」の、語源の様な「滅私奉公」ではなく、自分も楽しみながら、「楽しさ」を伝染させる「サービス」をしてきたいと思います。
2009.08.06
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親父は、左半身にマヒが出ていますが、一般病棟に移って、何とか安定しています。人間、手がなくても、足がなくても、目が見えなくても結構困らないものです。(と健常な私が言うのも何ですが)ハンデをもって、生き生きとくらしている人をみるとそう思います。 何とか、リハビリをがんばって、前向きな姿勢で、孫たちをはじめ、みんなを元気にさせてほしいと思います。 前向きと言えば、私が家庭教師をしている学生で過去、不祥事を何度も起こし、成績もあまりよくなく、就職は、もう何でもいい、夢も目標もクソもない、採用してくれるなら、何でもする、という子がいます。 私は彼に、何度も、口を酸っぱく言っているのですが、君の問題は、「自分を嫌っていることだ」自分を嫌う者を、会社が雇うはずがない。逆に、過去、これこれ失敗してきても自分を好きで、自分がこれで成長できたと自信をもっているなら、人より、魅力的な人間となり、実力のある社長さんなら、必ず採用してくれる、と。 彼は、だいたい私の言わんとしていることはわかっているのですが、(そして、とっても、とってもやさしく良い子なのですが)ここで、自分が自分を好きになってしまったら、これまでの自分の生きてきた姿を全部否定してしまうことになる、というのです。自分が自分でなくなってしまう、というのです。 なあるほど、と思いました。だからこそ、逆説ですが、人間は別人に変身できるんだよなあ。 もうちょっとです。彼が変身するまでに。
2009.07.21
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今晩、親父が脳梗塞で、入院しました。夕飯が、うまく食べれないので、こりゃマズイということに。発症して、3時間以内だと、治る可能性もあったそうですが、お昼ころから、おかしかったんだって。あ~、誰も気づかなかった。幸い、意識もはっきりしていて、今のところ命に別状はないようです。様々な病気もちで、いつ何どきどんなことが起きても、あわてないようにしようと、心がけていたのですが。家族にとっても、新しいステージの扉が開いたようです。 これから、明日の実験教室の準備です。
2009.07.19
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昨日、新しい家庭教師先に行って、科学実験をして、盛り上がってきちゃいました。あまり、喜びを表さない子だったそうですが、久しぶりに笑顔を見たということで、私もとってもうれしかったです。 中学校でも、全然教師の話を聞かない問題生徒が、つるんで、私の実験を待っています。ま、その中身は、実験にかこつけて、何か、うまいものが食えそうだ、という予想があるのでしょうが、そんなことは、私は、小さいことだと思うのです。 とにかく、教師の企画に乗ろう、乗ってみようという姿勢を引き出すだけで、大成功だと思うから。だって、彼らを土俵に乗せるのが、問題なんだから。土俵に上がらないのに、こっちだけ、プッシュプッシュでも、どうしようもないわけで。 思えば、私は、この科学実験だけで、ずいぶん修羅場を切り抜けています。科学の他に、教育技術や思想・知識はそりゃ、持っていると自認をしてはいるのですが、いざとなると、実験です。 それも、プログラム的には、そういっぱいあるわけじゃありません。まとまりがあるのは、せいぜい10個くらい。しかも、その内の3つくらいで80%を占めると言ってもいいでしょう。(細かいネタは、無数にありますよ) でも、この必殺技があるというのが、生死を分けるんですね。 逆から言うと、自分に確固とした、決め手があると、その他が、あまり重要に感じられなくなるんです。そして、大したことでないことに、気にしなくなれるっていうメリットがあるように思います。 人間は、自分勝手なもので、自分が得意じゃないものは、重要じゃないと思えちゃう。そして、切り捨てちゃう。 私なんか、まず、水泳。金槌です。なぜこうなったかは、話すと長いのですが、人間、魚じゃないんだから、泳ごうとするのが、間違っていると割り切れちゃう。 また、音痴です。でも、美しい音楽は聴き分けられるから、これも、全然OKだと思えちゃう。 ファッションセンスや、女性にモテルとか、そういうのも、学生時代から、とんと、切り捨てることができました。 常識的な社会的な名誉みたいなことも、ほっとんど、気になりません。人の上に立つ意欲、わっかりません。総理の地位にしがみつく気持ち、理解できません。 だからこそ、今のこの変な科学寅さんがあるのだと思います。人それぞれ、ズバっズバって、切り捨ててきているものがあるから、生きていられるのだとさえ、思います。 そういう意味で、学校になじめない子どもたちを前にして、何か、一つでも、確固とした、自分の基盤を見つけさせてやりたいものだ、と思います。 そうすれば、たとえ、学校の教育体制に順応しなくたって、自信をもって生きていけると思います。自信をもっていれば、人には迷惑をかけないものです。暴れたり、公舎を破壊したりはしないものです。呪いに言葉ばかり吐いていないで済みます。 何も、常識的な学校の価値観でなくていいのです。一点突破です。小さな穴を開ければ、そこから、世界が急に見えてくるものです。 教育では、何でも詰め込んでやろうという思想がありますが、切り捨てる楽しさというのも、学問にはあります。数学なんかそうですね。科学も、実は、そうです。 限定された見方だから、逆に、そこから、世界が広がるのです。
2009.07.16
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私は、最初、緩和ケア、すなわちホスピスケアをしている穂波の郷クリニックに、ボランティアとして出入りするようになって、まず、驚いたことは、患者さんも、スタッフの人も、みんな笑顔だ、ということです。ドクターと看護師との関係も、全く対等で、お互いに名前で呼び合い、病院というより、小さな家庭にいるようです。 まさに、ホスピタリティ、「温かいもてなし」の場なのです。考えてみれば、ホスピタルも、ホスピスもホスピタリティからきた言葉で、その昔聖地エルサレムへ向かう巡礼の人たちが長い旅の途中でからだを休めるための施設のこと、または、そのもてなしそのもののことを指す言葉でした。 だから、ヨーロッパでは、1000年以上の伝統をもっているわけです。多くの場合、修道院の一部がその施設になっていてシスターが巡礼者の面倒をみてきたのです。 ところが、現代では、ホスピスと言えば、治癒の見込みのない段階に入った患者さんのケアを行う場所になっています。 「現代ホスピスの母」と呼ばれるシシリー・ソンダース女史は、「ホスピスとは何ですか」という問いに対して、「ホスピスは建物ではありません。中身、哲学です。」と答えられています。 このクリニックは、在宅のケアに力を入れていますが、クリニックに通ってくる体力のある患者さんは、パジャマではなく、きちんと服を着て、杖をつきながらでもやってきて、治療の必要な人は治療をするけれども、ほとんどは、おしゃべりをしたり、食事をしたり、それより、他の人のために、奉仕活動をします。普通なら、点滴をつけて、寝たきりになっていてもおかしくない段階の方々です。 ここの患者さんは、みな自分が助からないことを知っています。でも、社会の一員として誇りをもってしゃんと生きていて、閉じこもりません。病人という枠に押し込められていないのです。今を精一杯に生きているのです。 緩和ケアで、痛みが無いというのは、すごいことです。最期の最期まで、人間らしく生きられるのです。だから、笑顔になれるのです。 何気なく、目の前で展開している出来事が、実は、すごいことなんだ、と気付いたとき、私は、もっと知りたいという欲求を抑えることができませんでした。 普通、日本では、「今、積極的に治療できることがない。」という場合、実際問題、行くところがありません。それより何より、本人もご家族もそれを認めたがりません。だから、患者さんをベッドに縛り付けておくことになります。 でも、要は、患者さんを、一人の人間として尊敬し、最期まで、生き方を尊重するという哲学の問題なんだ、それから、すべて始まっているんだ、って気付きだしています。 そして、一人の患者さんに、結局、ご家族をはじめ、クリニックのスタッフに、ボランティアの方々と実に大勢の人々が関わりあうように、意図されています。 もう、血縁だけで、支えることは、困難な時代、コミュニティで支えるという取り組みは、日本の大きな指針、そのものだと、思います。 この医療機関の取り組み、(まあ、まだまだ、先進的なところですが)これは、教育への指針でもあると、痛感しています。不登校の中学生や高校生が、ここで元気になっていくのも、当然といえば当然といえるでしょう。 生徒を一人の人間として、尊敬しているでしょうか?あらゆる角度から、その子のつぶやきに耳を大きくしているでしょうか?そして、何より、その子の魂で何を叫んでいるか何を求めているか、を見つめようと、大勢の大人が、真剣に頭を寄せ合っているでしょうか? ほんの小さな可能性も、あきらめずにあらゆる手段で、働きかけようとしているでしょうか? ここでは、どんなスタッフも、私の職務外だから、勤務外だから、という言葉を吐きません。情報伝達経路は慎重に選びますが、誰もが、気付いたことを、主張できるのです。 ただ、人の気持ちを扱うところだけに、普段、訓練を受けていない身には、陰の緊張感が、たいへんです。でも、サービス業というものは、本来、そういうものでしょう。 そして、実は、ここは、資本主義の次に来る社会を、先取りしている実験場なんじゃないかと感じています。 私にとって、大いなる科学実験の場なのです。
2009.06.03
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先生に反抗し、ヤンキーぶりを表現するのが、格好がよくて、当たり前の文化の学校があるかと思えば、先生や学校が教祖様みたいになっている進学校がある。いや、本当にあるんだねえ。 昨日も、科学寅さんが、こういう勉強の仕方が、最も効率がいいよ、と教えても、先生の課題をまずこなしてから、と反応してしまう高校3年生がいる。そこでは、受験先も、先生に決めてもらう。それが、当然のことになっている。人に進路を決めてもらうことに、これぽっちも、疑いをもっていない若者がやっぱりいるのです。 近頃、アニメとか漫画の中の女性に、「性的興奮を覚える」という男性が増えている。でも、そういう人たちを、変質者と、決めつけるのも、どうかと思う。もちろん、私は、現実のきれいなお姉さんがいいのだけれど。 考えてみれば、みんな、それなりに「変態」だ。 パソコン画面の裸の写真を見て、興奮するのも、ある意味、立派な変わり者です。 そもそも、「女性の胸を見ると、興奮する」っていうのも「当然」のこと、ではない。いつも、裸で暮らしている原住民がいるではないか! 逆に、首の長い女性が魅力的という文化もあり、太った女性こそ、という常識の世界もある。 そういうのは、つまり、すべて、「脳の条件付け」の問題にすぎない。脳のプログラムがそうなっているに、すぎないのだ。 この世の原理そのものが、そのようにできているのではない。そう、どのようにでも、プログラムできるのだ。「健全な生き方」も、いろんな常識があるのだ。現在、良い生活をしたくて、安定した生活を確保したくて大学を目指している高校生がいっぱいいる。 でも、会社で採用する理想の人物像が、コロっと変われば、(もう、実際に変わっているのだが)受験勉強や、教育界の「常識」も何て、変態、オタクばかりだったんだろう、って、思えてくるものだ。 学校や教育界の常識も、脳の条件付けにしか、過ぎない。 この世界には、いろんな常識がいっぱいある。 私も一員になっている穂波の郷クリニックも、医療の世界の常識を逸脱しているワールドだ。しかし、ある意味、人間として、当然の「常識」を素直に追求しただけ。異常なのは、現在の医療の世界なのではないか? そう、脳の条件付けを変えただけで、世界は限りなく、自由になってくる。めくるめく興奮の世界も、自由に創り出せるのだ。
2009.05.31
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今、私は、在宅緩和ケアを支援する「穂波の郷クリニック」のスタッフでもあります。 緩和ケアというと、いわゆる「終末期」の患者さんへの対処方法で、一種の医療の敗北のように思われてきました。 しかし、現在では、すべての治療が最初から緩和ケアなんだということに、頭が切り替えられてきました。 これまでは、苦痛をこらえて、寝たきり、そしてスパゲッティ状態で生きることが「人間の尊厳」を損ねると、「尊厳死」の法制化を求める運動へとつながっていました。 しかし、緩和ケアの技術の進歩により、どんな状態でも、限りなく痛みが無いようにできるものですから、それぞれの状態で、前向きに生き生きと過ごすことが可能になってきました。 そこで、あらためて、考え直されているのが、人間の「尊厳」というものです。今までは、健康状態を100点として、死を0点として、その間に、「尊厳」の評価の階段があったわけです。 でも、本来、人間の尊厳ってのは、その健康状態などで、変わるものではないことは当然です。 あと数日の命だって、全く尊いものです。車椅子になったからって、五体不満足になったからって、尊厳は、これっぽっちも損なわれていません。 そこをはっきりさせないうちに、「尊厳死」をすすめることは、大きな危険性をもっています。 そもそも、日本の教育では、差をつけることには敏感ですが、どんなことをしても減らない根本的な尊厳については、熱心に教えて来なかったように思います。 差をつけることも、それは必要です。しかし、差をつけて評価できるってものは、そもそも、はっきり言って、どうでも良いものです。本当に大切なものは、評価もできないものです。 日本の生徒の自尊心が、著しく低いことからそんなことを考えています。
2009.05.29
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「ほめほめ教」の信者(教祖)である科学寅です。 私たちは、子どもたちに、だれもが、幸せな人生を送ってもらいたいと思っていますよね。 じゃ、愛され、幸せになるためにはまず「自分を好きでいること」が最も大切で最も必要なことなのだ、って知ってます?そして、それを教えています? 教育界には、まだまだ、ガツンとぶちかますことに執着している人がいっぱいいて、がっかりするっていうかだからこそ、私の布教活動が意味があるんだって、最近思い出しています。 私は元クリスチャンでして、神を讃美することの意義をずいぶん叩き込まれました。 「あらゆる幸せと全きへの最も確実で、最短の道は何かと聞かれたなら、誰でも全ての出来事を神に感謝し、讃美する習慣を身につけることであると答えるべきである。どんな不幸と思えることも、そのことで神に感謝し、讃美するなら、それは祝福へと変えられていく…」(ウィリアム・ロウ)「私は自分のハンディキャップを神に感謝している。そのことによって私は自分自身を、自分の仕事を、自分の神を見出したからである。」(ヘレン・ケラー) 「神をほめよ」 「神に感謝せよ」と私たちは(クリスチャンだけかもしれませんが)軽く口に出してしまいがちです。 以下、「讃美の力」(マーリンキャロザース)より引用しながら、 でも、何かを讃美する、ってことはある事について賛成を表明し、積極的に肯定することなのです。賛成を表明するということは、そのことを受け入れることあるいはそれに同意することです。ですから、困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神の一部として受け入れて賛成することを意味します。 ある事で神を讃美している時、その事を感謝していなければ神を心から讃美するということはできません。また、私たちはどんな事でも感謝するときその事について本当に喜んでいるのでなければその事を本当に感謝することはできません。ですから、讃美するとは、感謝と喜びの両方を含んでいるわけです。 そして、神を本当に讃美すると(現状をすべて感謝すると)本当に本当に奇跡的なことが起きてくるのです。 私は、でも、今は、神は自分の中にある、いや、一人ひとりの中に、神の本性があると思っています。 なぜなら、現状は今の自分が創り出しているものだと考えるからです。(ほとんど無意識にですが)現在の状況を「前世や誰かのせい」にするのは、認識論的に、間違いだと思います。そうでないと自分の人生は自分では切り開くことはできないのです。 いろんな人が言っているように「この世に偶然はない、すべてが必然である」というのは、真実だと思います。(科学的には証明できないですが) 私自身、身の回りに起こることには全て意味があると思い、全てを受け入れようと考えるようになったら身の回りに変化が起こり始め、次第に大きな転機を迎えることになりました。 自分がこの世界を創造しているのですからほとんど「自分=神(または神の一部)」と考えていいと思います。 だから、神を愛するとは、自分を卑下することではなく、自分を愛することなのだと思うのです。 そう考えると、「自分を好き」だという子ども(大人もですが)が極端に少ないことに、特に日本の子どもの場合ですが危機感を覚えます。 「好き」ということは、「愛している」「肯定している」「受け入れている」「認めている」「尊重している」などの意味を含んだプラスの思いが込められています。ですから「自分が好き」という言い方の中には、「自己肯定感を持っている」「自分の命を大切に思い、いとおしんでいる」「自分の存在を価値あるものと信じている」「誇りを持って生きている」という意味が込められています。子どもたちの人生の主人公は、その子自身なのです。もしもその子が、自分の人生の主人公を嫌い、否定的に思っているとしたら、その子の人生はいいものにはならないでしょう。しかし、もしその主人公を肯定し、受け入れ、大切に思うならば、当然その人生は幸せなものになるでしょう。 友達が出来ないと悩んでいるならば、人から愛されたいと思ったら、自分を愛する努力をするべきなのです。そうすると人を愛することがじょうずになります。何より、人を愛すれば、あなたもまた愛されるでしょう。 子どもを愛せない、人間関係がうまく行かない、と悩んでいる方の多くがご自分の内に、解放されるべき心の苦しみをもってらっしゃいます。まず、それを癒してあげましょう。そうして自分に優しくし、自分を認めてあげましょう。そうするうちにあなたは、子どもを心からかわいいと思っている自分を発見するでしょう。なぜなら、現状は今の自分が創り出しているものだから。 よく、「自分なんか好きじゃない」とか「きらいだ」と言う人の方が真面目な人だと思われています。しかし、その考え方では、現状は変えられません。だいたい、それでは、私の内側の無意識の自分がいじけてしまって、パワーが出てこないのです。「自分を好きになる」ということには、いくつもの深い意味が込められていると思います。きっと私が今、考えている以上に、もっと奥深く、幅広く、宇宙的な意味が込められているのでしょう。 そして、ほんの少しでも「自分を好きになりたい」「もっと好きになろう」と、思った時から、その思いの持つ、深い宇宙的なエネルギーが私たちの人生を本来の意図通りに動かし始めるのです。人にはそれは奇跡に見えるかもしれません!教育とは、本質は、「自分を好きになる修行」だと思います。教師はそのお手伝い役であり、まずもって、教師こそが「自分大好き人間」でなければならないのだと思います。もちろん、親もね。たとえ今の自分が嫌いだとしても「きらいだ、嫌いだ」と思うのではなく、「好きになりたい」「好きになるんだ」という前向きな思い方に変えてみましょう。 今日も緩和ケアのブログに、ステキな記録を書けそうです。一見、傍観者のようですが、これを認識できている自分自身こそステキだなあ、って自分をほめています。 追伸、この一週間だけで、二桁の学校や児童館から、実験教室の依頼をいただきました。本当にありがたいことです。うれしいです。
2009.05.17
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科学寅さんは、終末期医療に、足を踏み込んでいます。もちろん、教育の基本は、誕生、成長、病気、老い、そして死。愛、誇り、信頼、共生、夢、そして人生。そのすべてであります。でも、教育からの見方では、いかに死ぬべきかは、敬遠されるものです。いかに生きるべきか、生き抜くべきか、にこだわるものです。しかし、死を見つめるからこそ、生も見えてくるものでしょう。たとえば、尊厳死の議論の中では、表面的機能の奧にあるものに迫っていけていないもどかしさがあります。現代科学でも、当たり前ですが、まだ人間がどういう存在であるのか、その“全存在”が究明されていません。根源的な力について、解明されていない世界があまりにも多いのです。現代人や、医療関係者、そして科学者はこの事実を謙虚に受けとめなければなりません。人間の表面的な人格機能が消失したからといって、果たして生命本体を消去してよい根拠となるでしょうか?「痛いから死にたい」「不格好な姿で生きたくない」は、人間のな願いは、生命の不思議の消去と引き換えにできるものなのでしょうか?何と科学寅は、穂波の郷クリニックのスタッフとしてここでも、勤めることになりました。午前中、南中学校に行き、午後クリニックに来ています。そして、夜は、個人的なつながりのある子どもたちのサポートつまりは、家庭教師みたいなものです。クリニックでの修行を綴ったブログを立ち上げました。こちらは、あくまで教育分野です。でも、死と両面から迫れば、新しい光が見えてくるような気がするのです。
2009.05.12
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私が、穂波の郷クリニック のお手伝いをするようになって、生徒たちから、「先生、おくりびとになったのか?」って、言われていました。そうっかあ、おくりびと、かあ。それもいいなあ。でも、まだ、映画観てないんだよなあ、って思っていたら、 正に、映画(DVD)の上映会が、穂波の郷クリニックで、行われました。 その画面のきれいなこと。そしてチェロの音色。 印象に残った、言葉などを、みんなで分かちあったのですが、あの映画で、大切な言葉は、実は、ほとんどカットされていることに気づきました。 観客が自分で、自分の心で語りかけるようにできているのです。言葉を超えた気づきで、すべて構成されています。 ですから、今さらながら、この映画が、外国人にも理解されたことに驚きを禁じ得ません。人間共通の気づきの世界があるんだと、その連帯感に心熱くなります。 遺体に化粧を施すわけですが、遺体が美しくなったから、みんなが感動するんじゃないんですね。周囲の人が、故人を思う気持ち、大切に思う気持ちを引き出されるから美しく見えて、そして、感動するんですね。 ある側面、汚らわしいとも思える仕事に、とてつもない美しさがあるように、すべての仕事に、極上の美しさが潜んでいるんですよね。 同じクラスでの授業でも、美しい授業もあれば、きたない、醜い授業もあります。どこが違うんだろう?それは、準備物の美しさを超えたもの。それは、生徒、一人ひとりを思う気持ち。愛情の力でしょう。一人一人の心のヒダを包み込む授業は、とてつもなく美しく、後で、涙が流れます。 どんな仕事だってそうです。ああ、美しい仕事をしたい、そういう願いを醸し出してくれた映画でした。本木さん、ありがとう。
2009.04.15
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昨日の作戦は、何とか、滑り込みセーフ。5時半に、6人グループで無事、レストランに入ったとの報告。 さて、その成果は?と思って、7時過ぎに、シェフに挨拶のつもりで行ったら、店が閉まってた!え??と思って、よく看板を見たら、日曜の夜は休みだったのです。 特別に彼女達のために、お店を開けて、予約席を作ってくれていたのです。数枚のピザのために! 本当に頭が下がります。昨日、我が家は法事で、私は、日中動けなかったのですが、シェフからは、お昼頃、彼女から、予約の電話が入りましたよ。6人になっちゃったけど、いいのでしょうか?本当にタダでいいのか?って、気にしてました。とご報告をいただいておりました。 ありがとうございます。この素敵なシェフの店は本当に美味しい!絶対に「う~ん、幸せ!」になると寅さんが確信してるからお願いしたのですが、心の底から幸せにしてくださいました。 これから、めちゃくちゃ宣伝させていただきます!
2009.04.13
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意図したことではないのですが、ここ数回、穂波の郷クリニック「礼賛」の記事を書き続けています。 で、ここで注意しなければならないことがあります。クリニックや、三浦先生、そして、大石ゼネラルマネージャーへの「おすがり」現象を生み出してはいけないということです。 確かに、素晴らしいところです。頼りになる方々です。患者さんや、問題を抱えたご家族には、急に夢にも思わなかった世界が開けてきて、我を忘れてしまう人も出てくるでしょう。 そうすると、すべて、ドクターのお陰、ソーシャルワーカーのあの人のお陰、まるで、教祖様や、教会のようになってしまいます。 これは、クリニックの本意ではありません。なぜなら、人を癒すのは、ドクターでも、技術でも、カウンセラーでも無いのです。本人の生命力、さらに言えば、その深層にある人類共通の生命力の源の力なのであって、それに気づくかどうかなのです。 医療の面だけでなく、精神的な面、社会的な問題も外部からの横からの援助によるように、一見、見えますが、実は、自分の奥を掘り下げたところに、乗り越えるパワーがあったはずなのです。 その本質から、目をそらさせ、特定の人の魔術にしてしまうのは、 太古から人類のかかえている大きなワナです。 宗教がそうですね。教祖が本当に意図したことは、あなたの力に気づきなさい、ということだったのに、いつの間にか、教祖に祈れば、何でも解決になってしまうと信じ込ませてしまう。何という皮肉でしょう。 クリニックの活動も、素晴らしければ素晴らしいほど、かえって、人々を解放する道が抑圧する道、最後には、ファシズムの道が待っている恐れがあります。 そんな人類の歴史を学びながら、新しい価値観を創造する偉大な運動を田舎の小さな舞台で展開するお手伝いをしていきたいと思います。以上のことに注意しながら、ケアセンターを支えるNPO ひとあかりのブログを書いていきたいと思っています。まだまだ、ネット上のPR体制が、バラバラで、非常に全体像が見にくくなっているので整理整頓をしていこうと思います。そうすれば、毎日見ても、見飽きない、クリニックのドラマを感じてもらえるものと思います。 そろそろ、私の科学実験のことも書くつもりです。
2009.04.09
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新学期、不登校の子には、学校に行けるかどうか試練の時です。昨年度、ある中学生の娘さんが、不登校になりました。困り果てたお母さんが、ある方から、穂波の郷のことを聞き相談に来られました。 ちょうど、ドクターネットの講演会がある時期でした。ソーシャルワーカーは講演会の会場に飾る花や、オブジェの材料採りの企画を作り、チームで野山に出かけることになりました。それには、そのお母さんと、娘さんが参加します。さらに、その学校の養護の先生も同行しました。 一連の活動の中で、何よりお母さんが癒されたと言います。そして、学校に来たのです。そこで、養護の先生から、科学寅に依頼が来ます。遅れている勉強を看てやって欲しいと。そこから、彼女とのご縁が始まります。学校の中だけでは、足りなくクリニックの中の緩和ケアセンターの一室でも勉強は継続されました。 ある日、彼女が、友だちを連れて、クリニックに来ました。私は、当初、彼女を支える友だちだと思い歓迎をしたのですが、実は、その友だちも、不登校だったのです。ソーシャルワーカーが、嗅ぎつけ、これまた手を打ちます。 後で聞かされたのですが、ご家庭では、悩んだおばあちゃんが孫と「一緒に死のう 」とまで言わせた状況だったのだそうです。 最初の不登校の子は、実は、友だちをずっとケアしていたのです。クリニックで癒されてから、クリニックの人を癒す姿勢を吸収し続けいつの間にか、ケアする立場に回っていたのです。 そして、新学期、後から来たご家庭では、もし学校に行けたら穂波の郷に花束を持って行こうと、決めていたのだそうです。そして、昨日、おばあちゃんと二人でお礼に来られたのです。 その喜びの輪は、クリニックのスタッフ、そして患者さんたち全体に広がっています。 今日も夕方、彼女は、ケアセンターに来て、雑用のボランティアをしていきました。そこで、ある友だちと仲直りしたいのだということをつぶやきます。早速、仲直り企画プロジェクト、「一緒に友だちのミュージカル公演を応援に行こう、そしておいしいピザを食べよう」が始動しています。 でも、何も、すべてがうまくいっているわけではありません。昨年、中学校に行けるようになっって、高校にも合格したはずの子が、お母さんと一緒に、沈んだ顔で、朝、クリニックに来られました。お腹が痛いのだそうです。 もちろん、この緩和ケアセンター及び、ソーシャルワーカーが万能ではありません。人々を無理矢理、行動をさせることはできません。環境をグイグイと変えることもできません。しかし、1%でも可能性がある限り、あらゆる人の輪の力で、生命力の根源に働き続けることは、そのクリニック 「医療法人 心の郷」の理念なのです。 1.医療法人「心の郷」は、あきらめない、つながる、在宅を支えるを 行動指針として、緩和ケアの実現に努める。2.医療法人「心の郷」は、緩和ケアのプロセスを共有することによって 共感の絆を育むことに務める。3.医療法人「心の郷」は、生命と関わるすべての縁を大切にし、 生命が育まれた心の故郷を尊重する。4.医療法人「心の郷」は、コミュニティケアとケアの文化の創造を通じて 地域に貢献する。 以上の理念を愚直に実行していく限りさらに、ますます共感の輪を創りだしていき素敵な素敵なドラマの可能性を広げていくと確信します。 教育現場に欲しいのは、評論家的なカウンセラーの限界を超える家庭環境・家族関係、社会関係、ご縁づくりまで踏み込むソーシャルワーカーではないでしょうか? NPO ひとあかり のブログ この科学寅も執筆者の一人です。
2009.04.09
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私たち大人が、血眼になって、子どもたちに施している教育は果たして、子どもたちの「いのち」を輝かすものになっているでしょうか? 高い金を払い、塾に通わせ、進学校に通わせ、赤点を取らないように家庭教師を雇いそのために、親は残業もし、パートにも出て働き続ける。 何てアホらしいことでしょう。もし、本心から、大学に行きたいのなら、学校に行かないで自分で勉強した方がよっぽど効率がいいのです。 進学校に行かないと、受験勉強できないというのは、大いなる幻想です。自分でどのような勉強をしたら良いかを考えられない人は、そもそも大学に行く資格がありません。 ある進学校では、「先生のために成績を上げろ」と本気で言われるそうです。また、合格率を上げるために、受けたい大学を受けさせてもらえません。逆に、成績の良い生徒は、何校も受験をして、合格実績を作る義務があります。 全く、よってたかっって、子どもたちの命を奪っています。異常な狂った常識から、健全な心身を守るのはたいへんです。 今日から、科学寅は、あるクリニックのブログを担当することになりました。そのうちに、ホームページのお手伝いもすると思います。ここ大崎市古川にある 穂波の郷クリニックです。在宅の緩和ケアを実現するために多くの人の輪を作ろうとしている世にも不思議な病院です。 でも、よくよく考えれば、当たり前のことばかり。当たり前のことを当たり前に追求すれば変わったことになってしまうんですね。 このクリニックと付属のNPOで私は、多くのことを学んでいます。これから、皆さんにお裾分けをしますね。請うご期待。
2009.04.07
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今の経済恐慌は、さまざまなものが、砂上の楼閣だったことを暴き出してくれています。 ですから、科学寅は、これはこれで、とっても素晴らしいことだと思います。 この教訓から、人類は、資本主義を超える、新しい社会を築けるのだろうか?資本主義というのも、一種の幻想に過ぎないことは、歴史的に明かです。 人類は、常に変わらない、普遍性を求めてきました。その点から言うとお宝を資本に求めるのは、あまりにも危うい。 人間が幸せを求めるために生きているのだとすれば、資本主義イコール幸せではないわけです。 じゃ、何にお宝を求めるのか?それは、私たちの内側しかないでしょう。 これからの教育は、お宝発掘の旅になることでしょう。教え込むんじゃなくて、文字通りのEducation 引き出すこと。お宝を引き出す手助けになります。 資本主義に替わって荒っぽく言えば、マインド主義とでも言いましょうか。 幸せに直結する教育を作っていきたいものです。
2009.01.02
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明日、古川第三小学校の5年生に総合学習の一貫で、私の目指していることと、今の職業をするに至った経緯のお話を科学実験を交えてすることになっています。今、中心メッセージの原稿を書いています。どうなりますことやら。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※君たちは、すでに完全だ!君たちは、不完全な、未完成な人間ではない。と言ったら、驚くだろうか?君たちは、愚かだから、バカだから、このままでは、大変なことになるから、勉強していると思いこまされてきただろうけど、実は、それは、大きな間違いだと私は言いたいのです。逆に、子どもの君たちが、大人と同じようだったら、かえって、不自然であり、不完全であり、間違いなのです。思う存分、11才の子どもでありなさい。11才は、11才として生きる時、完全なのです。たしかに、大人より知識は少ないけれど、今を生きるための知恵は、完璧にもっています。道を迷ったら、人の意見は、参考にするだけにして、自分の心の声を大事にしましょう。下記のアンジェラ・アキの手紙の歌詞のように。「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じ歩けばいいの?」「今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は自分の声を信じ歩けばいいの」「自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる」なのです!自分の声を聞くと、間違うのが心配だって?実は、「間違えるから楽しい」 のです。君たちが、勉強が楽しくないのは、正しいことだけを追い求めるからです。間違うことを恐れるからなのです。間違えることを楽しみましょう。自分のアタマを働かせるからこそ、間違えるのです。自分のノーミソを使わずに、人の頭で考えていたら、そりゃ、間違わないかもしれません。でも、それでは、自分のノーミソは、どんどん、仙台味噌になってしまうのです。ロボットは間違えませんよね。もし、間違えたら、自分で自分をほめてやりましょう。僕は、僕のノーミソを使ったんだよ、って。自分の心の声を聞いたんだよって。わかるってどういうこと?実は、人の話に従って、正解しても、本当には「わかった」ことにはなりません。本当に「わかる」のは、自分のアタマで考えて、試してみて、それも、何度も、「あーでもない、こーでもない」と試してみて、はじめてわかるのです。だから、教えられて、簡単に納得しちゃいけません。一度は、自分の心の声に聞いて、自分で実験や確かめをしてみましょう。これが、学問なのです。これが、科学なのです。そして、これが、未来を切り開く力なのです。テストの点数ではありません。大人に怒られたらこのように自分の心の声に聞くと、もしかすると大人に、「イタズラするな!」とか「言うことを聞け!」とか、「生意気だ」と叱られるかもしれません。悲しいけれど、残念だけれど、理解の無い大人がいることも現実です。また、理解してやりたいんだけれど、日本の社会が、いろんなルールで、がんじがらめになっているので注意せざるを得ないのも事実です。こういう壁にぶつかったとき、どうしたらいいでしょう?その時にも、頼りになるのは、やっぱり、自分の心の声です。あくまで、自分の思いを貫き通すのも、いいでしょう。逆に、ここは、言うことを聞いて、「お利口さん」になっておこう、というのも、良いことです。とりあえず、やり過ごしておいて、陰で、実験するのです。でも、「おとなしい良い子」になっていなければならない時が多いでしょう。そういう時でも、「本当は、疑問なんだよなあ」って気持ちだけは心の片隅に残しておきましょう。いつか、いつか、その残り火が、大きく燃え上がり、すばらしい発見の喜びを与えてくれるでしょう。「マジメに」自分の心の声に聞くと、一見、イタズラをしているように、外からは見えるものです。そうなんです。マジメに生きるとは、イタズラをして生きることに近いと思います。ワクワク・ドキドキするイタズラは、時間を忘れます。成功しても、失敗しても、楽しいものです。これが、本当の学問の面白さです。「勉強」(勉めて強いられる)ではありません。勉強は、これをやらないと、イヤなことがあると脅されてやるから辛いのです。勉強は、うまくやると、人に褒められると思ってやるから、そして、自分に有利なことがあると思ってやるから、人間を小さくするのです。本当は、偉大な自分を、みすぼらしい惨めなものにしています。「勉強」に慣れっこになると、自分の心の声を聞く力を無くしてしまいます。本当の自分の声が、何が何だかわからなくなります。そうすると、本当の学問ができなくなります。また、本当の人生を歩めなくなります。人生のホントの楽しさを失ってしまうのです。人生の困難を乗り越える力を失ってしまいます。私の実験教室では、どんな時でも、強制や押しつけを極力なくしています。そうすると、みんな勝手なことをして、そっぽを向いちゃうでしょうか?いえいえ、子どもたちの目は輝いています。それは、大人から指示されてのことでしょうか?違いますね。誰から指示されたものでないから、楽しいのです。自由だから、ワクワクなのです。本当の学問をしましょう!学問や科学は、人の作ったゲームで遊ぶより、楽しいのです。 難しい問題に挑戦しましょう。かんたんな程度の低い問題しかしないから、やる気が起きず、落ちこぼれるのです。大人もビックリ、の問題に挑戦しましょう。たとえ、今、わからなくたって、いいのです。理解できないからこそ、ノーミソが猛烈に働くのです。わからないことは、全然恥ずかしいことではありません。実は、うんと基礎的なことは、先生たちも知らないのです。大人がみんな答えを知っていると思うのは、幻想です。お父さん・お母さん・そして先生までが、「わからない」ことがいっぱいなのです。大切なことほど、わからないのです。いいですか、本当に力のある大人は、「私には、わからないことがいっぱいある」と言います。私は何でもわかる、って威張ってる人は、何もわからないバカです。ノーベル賞を取った科学者は、人類の知識は、まだ、この宇宙の秘密の扉をちょっと開けただけに過ぎないと言っています。現代の最先端科学でも、わからないことだらけなのです。本当の基礎の基礎さえ、わかっていないことに、どんどん気づきだしています。わからない、ということを、わかりだしているだけです。人が疑問に思わないことに、疑問をもつヒネクレ者バンザイです。ヒネクレ者がいたから、人類は進歩してきたのです。友だちのヒネクレ質問や、的外れの答えを「面白がって」聞きましょう。きっと思わぬ発見をしますよ。学問をするには、変わった意見を言う友だちは、お宝です。アホなことも言い合える、楽しい友だちを大切にしましょう。変わった意見を褒め合いましょう。そもそも、人間は興味(好奇心)がなければ認識できないのです。人間は、目で見ても見ていないことがほとんどです。好奇心が無ければ、見れども見えずの状態なのです。関心の無いものは、ノーミソにひっかからないのです。学力とは、いかに多くの好奇心=「謎」をもつか、です。わからないことバンザイです。簡単に楽して分かろうとする勉強は、君たちのノーミソを殺し、自分の心の声が聞こえなくなり結局、学力を殺します。 実は、実は、本当のことを言うと、...教科書を読んで、「わかっちゃう」人の方がおかしいのです。教科書の記述も、実は論理の穴がいっぱいなのです。教科書を読んで、簡単に納得しない子は、とっても素晴らしい能力をもっているのです。みんながわかっても、ボクだけは、「どうも、わからない」という君こそ、日本の社会の壁に新しい穴を開けてくれる「日本の希望の星」なのです。私は、そういう君を全力で応援したいと思ってこの仕事をしています。とってもヒネクレているでしょう?
2008.12.07
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いよいよクリスマスシーズンですね。こんな不況の中、キラキラ、ちゃらちゃらした、お祭りなんかできるものかという思いもあると思います。 しかし、クリスマスの魔法というのは、どんな悲惨な状況の中でも、いや、悲惨だからこそ、そこに光が輝くのが、クリスマスなのです。 この12月、暮らしに行き詰まる方も多いでしょう。一家心中しようと思いこむ人もいるんことでしょう。 しかし、ふと、暗闇に輝く、たった一つのキャンドルから、急に、世界が別のものに見えてくるのです。 幸せというものは、常識的に私たちが考えているところには、無いことに気づくのです。 私たちの、ものの見方をちょっと変えただけで、世界が変わるのです。 実は、幸せになるために、必要なものは、何もない!自分の心の中がすべてなのです。 たとえ、今日食べるものがなくても、幸せになれる、誰からも、気にかけられなくても、愛されなくても幸せになれる。そのことに、気づくきっかけなんだと思います。 考えてみれば、ゼロ系の新幹線。この騒ぎは、面白いものです。いい大人が、よってたかって、感動しています。 たかが機械です。大きなおもちゃだとも言えましょう。今まで、特に何とも思っていなかったのに、これで最後となったら、急に愛おしくなる。 これは、自分のフィルターを変えただけです。お宝は、新幹線というマシンそのものにあるのではなくそこに思いを込めるフィルターそのものにあるのです。 子どもを見る目も、そうじゃないでしょうか?子どもを愛するのに、条件は一切必要ないのです。 学業ができるから、おりこうさんだから、スポーツができるから、優しい子だから、一切関係ありません。 子どもにとってこそ、重大なことです。自分が愛されるためには、何かが必要だ、努力が必要だ、と信じ込まされています。 しかし、実は、なあああんにも必要ない。そして、自分の中に無限のお宝がある。子どもたちにとって、幸せになるためには、学校で認められることは、関係ない。入試に合格することも関係ない。いや、親に愛されることさえ、関係ない、と気づかせること。幸せは、私の内にあるのだと、気づく手助けをすることこれこそ、教育の使命だと思います。 これは、決して、自分勝手や放縦につながりません。そして、愛は、相手の自由を決して奪わないからです。 ここに、学校の常識が、幸せとかけ離れている、仕掛けがあると思うのです。学校を含む常識的教育は、これこれのことをクリアしないと、あなたは、生きていく価値がないとされるのだよということを暗に押しつけているのですから。これこそ、クリスマスの精神と離れています。 そして、障害をもった子のご家庭に、幸せを見出しやすいのも、大きな教訓だと言えましょう。
2008.12.01
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宇宙に存在するものに「分離」はない。すべては、精妙な方法で「からみあって」いる。と量子論は暗示しています。実は、私たちは、全体として、ホールとして深く相互に結びつけられた世界に生きています。すなわち、文字通り、科学的に、世界は一つの可能性が高いのです。日常、物体が分離して見えるのは、私たちのある種の幻想なのだ、と考えられるのです。 ふと、思い出して、読み返してみました。「神との友情」です。 「あなたが相対的な世界ーー私が相対性の領域と呼ぶところだーーに入ったのが、絶対の領域では経験できないことを経験するためだ。あなたが体験したがっているのは真の自分だ。だが、絶対の領域では、真の自分を知っていても体験できない。…絶対の領域では、自分のどの面も体験できないのは、そこには自分ではない面がないからだ。…じつは、あなたはすべてと一体なのだ。それがあなたのすばらしさだ!…すべてと一体であるすばらしさを唯一、体験できるのはすべてと一体ではないという状況、あるいは状態だ。…しかし、すべてと一体ではないという幻想は可能だ。その幻想のために、相対性の領域が創り出されたのだ。「不思議の国のアリス」のようなものだね。そこでは、ものごとは見かけとは違うし、見かけは真実ではない。あなたのエゴは、この幻想を創り出す大きな道具あのだ。残りのすべてと、ばらばらの自己を想像することができる仕掛けだ。…エゴが肥大して、ばらばらな自己しか見えなくなると、一体となった自己を体験するチャンスが失われ、迷ってしまう。文字通り、幻想の世界で迷子になり、いつかそこから脱出するか、あるいは誰かが、引き出してくれるまでは、迷ったままでたくさんの生を重ねなければならない。それが、「あなた自信に連れ戻す」という意味だよ。」 この言葉の意味が、ようやくわかってきたぞ! それと、世に言う、成功哲学の「思いは現実になる」というフレーズ私たちが、即、宇宙なのだとしたら、私たちは、創造者であり、意識している以外の魂の思いも含めれば、「思いは現実になる」は、全くの真実であるわけです。 また、時空も、私の中の今という一点にたたみ込まれています。さらに、多世界解釈への道も開けます。 思いが実現すると同時に、実現したのは、私の思いのせいであり、心の底で、望んだことなのだ。 私たちは、神と限りなく一体であり、過去にとらわれることなく、いつからでも、作りなおせる。 夢のまた夢の最高のものを、今から作れるのです。 ある意味、閉じた輪にいるのです。別の表現で、鏡の部屋にいるのです。 子どもに幸せになって欲しければ、幸せを教えなければなりません。これぞ、幸せという感情に浸らせなければならないのです。 幸せに何かの条件をつけているうちは、幸せの輪(閉じた輪)の中に入れないのです。 私は、神様と遊ぶ道を示された思いでいます。 ついに科学寅さんも、イカレテしまったか、…
2008.11.30
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うちの子たちも、今、まさに受験勉強の真っ最中です。ここで、自戒のために、親や教師が注意しておきたいことを書きたいと思います。教育というものが、子どもの今を否定し、別のもっとプラスの存在になることを要求するものだとしたら、それは、子どもに本当の愛、無条件の愛を教えるものではなくなるということです。子どもを愛すこと、大切にすることというのは、子どもの現状を否定し、新たな何か別のプラスをもたせるという事ではないのです。子どもが、今どんな状態にあるとしても、今のその瞬間が最高であると、心の底から思わなければならないのです。もちろん、子どもにとってだけでなく、親にとっても、今の現状が、親である「私」にとって最高の環境なのです。この瞬間が最高であることを疑わないでいると、何かトラブルが起きても、「一体何が起きたのだろう」、「このトラブルによって私には一体どんな学びが出来るのだろう」と起きてくることをワクワクと楽しめるようになってきます。これが、自分を大切にするという事です。自分を最高に愛するということです。今あるがままを愛しましょう。そのままの自分、そのままの子どもを受け入れて下さい。人に対し、着飾る意識をもっているうちは、自分が自分であることはできません。ありのままでいいんだ、人からアホと見られてもいいんだ、という気楽な気持ちでないとどうしても、親や教師は、子どもの上に立ってしまいます。子どもの下に身を置かなくては、子どものありのままを愛することはできません。ありのままで。ありのままにいることの楽しさに気付いて下さい。ありのままでいることの気楽さを知って下さい。アホでいることの楽しさを堪能しましょう。そこにこそ愛があると思います。愛は、押しつけがありません。義務感を生じさせません。愛は柔らかです。負い目を感じさせない風のような無条件のものです。柔らかな愛こそが人を生かす作用をします。私たちは、いったい誰のために、いつも、言い訳をしているのでしょうか?誰に対して飾ろうとしているのでしょう?今を否定することは、自分を傷つけるものでしかありません。自分が自分以外の何かになろうとすればするほど苦しみの種が私たちや子どもの内で成長を始めるのです。あなたが今そのままで最高であるように、どんな子どもたちも例外なく、今その瞬間が最高なのです。たとえとんでもない問題児のように見える子どもだとしても、その子の成長にとってそれがよいことだから起こっていると信じましょう。まず私たち親自身が、今あるがままをそのまま抱きとめ、今そのままを心から愛し大切にしていきましょう。それが、最高の受験の応援だと思います。
2008.11.17
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へんなモノをヤフオクに出品してしまいました。 ベンハムのコマの謎って、知ってます?お正月の実験で、コマの科学の時に、よく子どもたちにさせて、喜ばれる実験ですが、右図のような白黒模様のコマ(ベンハムのコマ)を回すと、縞が色づいて見えるのです。ベンハムのコマの図案集個人差がありますが、時計回りに回した場合、内側から外側にいくにつれておよそ赤→黄→緑→青の順に色づいて見えます。不思議なことに、反時計回りに回した場合、色の順番が反転します。 これは目の錯覚によるもので「主観色」と呼ばれる現象ですが、発見から100年経つ今でも、その仕組みは明らかにされていません。網膜には赤、緑、青の波長にそれぞれ感度を持つ3種類の色覚細胞があり、これらが受け取る信号のバランスで人間は色を感じます。科学者は、これらの細胞の動きをモデル化した等価回路を作り、主観色を説明しようとしています。しかし、残念ながらすべての観測結果を説明するにはいたっていません。 そもそも私たちの認識は、すべて錯覚と言ってもいいかもしれません。物理、化学などの基礎的な科学の実験観測も、脳が作る錯覚にもとづいています。錯覚の存在感で得られた空間と時間の感覚にそって、データを観察し理論を作っていきます。 科学者が使っている錯覚が現実にうまく対応していなければ、間違った結論が出るだけです。ただ科学者は、同じことを何度も繰り返し理論モデルと照らし合わせながら、慎重に再現性を確認して実験観察を進めます。さらに多数の科学者の共同作業によって、繰りかえし実験や視点の移動、多面的観測事実の統合などを行って錯覚を相殺し、修正し、理論モデルと観測結果を合わせ込んで総合的に判断することで、観察者の作る錯覚から独立した物質に普遍の法則を発見していくわけです。 でも、 錯覚はふだんは、人間の生活に役立っています。不可欠なものです。私たち人間は、自分の脳が自動的に作り出す錯覚が映し出している世界を現実と思い込んで、便利に暮らしているといえます。五感で感知した感覚データの入力情報を組み合わせて現実にうまく対応する錯覚を作り出し、それを目の前の物質世界の存在感として感じ取っています。 問題なのは、同時に錯覚の組み合わせによって、物質に対応しない錯覚も作ってしまうことです。さらに、それを仲間どうしで共感し、その記憶を共有することで、錯覚を言葉として固定させていきます。実態の無いもの、たとえば、「命」、「心」、「自分」・・・なども、大きな人間集団が、共通の言語として、その錯覚を生成する神経活動を集団的に記憶し、共感を通じて共有することで、その錯覚の存在感はゆるぎないものとなります。しかしながら、抽象概念を表す言語の基底になっているそれらの錯覚は、脳神経系における内部だけでの情報処理でしかありません。脳の外側の物質世界の中には具体的な対応物を見つけられるものではありません。それなのにこれらの抽象概念は、妙に存在感が強いのです。なぜでしょう? これら脳内だけで作られる錯覚の存在感が強いのは、それが脳の感情回路に結びつく仕組みになっているからでしょう。それが錯覚であろうとも、「自分の命」あるいは「地獄」など、神経活動を感情回路に導いて存在感と恐怖感、期待感を発生させ、仲間とその感情を共感することでそれを共有し、集団行動に結びつける脳の機能は、人間が生き残り子孫を残すためにとても役に立ってきたのです。 しかし、現代、そして未来、未体験の難問を解決していかなければならない人類にとって、錯覚に基づいた認識構造の欠陥は、常に意識していなければならない基本中の基本のこととなるでしょう。 これからの教育の土台もここに置くことが当然となると思います。
2008.08.29
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アフガンで、悲劇が繰り返されています。事実は、まだ、はっきりしませんが、もし、タリバンの意図的なものだとしたら、もうボランティアは、困難でしょう。 私は、被害のあったNPOの理念は、すばらしいと思いますし、亡くなられた方も、尊い活動をされていたと敬意を表するところです。 しかし、中東の問題は、西側の論理で割り切れるものではないことは、既に、私たちは、ずいぶん学習をしてきたはずです。 タリバンには、タリバンの正義があります。外国人をすべて国外に追放しようという、それなりの「正義」の論理があります。 それに対して、NPOの「平和的な」支援活動を継続することにも立派な「正義」の論理があります。 しかし、すべての戦争は、そして、すべてのケンカは、そもそも「正義」と「正義」のぶつかり合いです。 すべての争いは、「自衛のため」の「平和のための」戦いなのです。 あの太平洋戦争だって、日本は「自衛のため」「アジアの平和のために」やむにやまれず、立ち上がった、という主張も、あり得るし、実際、当時の人は、そう思いこんでいたわけです。 戦争は、いつだって、「自国の平和を守るため」に行われるのです。 情熱的な平和主義者が、戦争を引き起こしているのです。 だから、もし、「戦争反対!」「争い反対!」 「暴力反対!」と言うのなら、「正義」にこそ反対というべきです。 もし、平和運動や、支援活動を「正義」の名のもとに、行っているのなら、とても危険だと思います。そういう人や団体は、両刃の剣であり、すぐに戦いの火種になるのです。 歴史は、情熱的な平和主義者が、いつの間にか、戦争を主体的に戦ってきた事実を物語っています。 本当の平和は、「正義」とは無縁の考え方から育っていき、そして、発展するのだと思います。 平和教育も、正義とからめて教えることは、次の戦争を仕込んでいるに等しいと思います。 NPOが撤退することに、躊躇は要らないと、私は思います。
2008.08.28
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早速のご注文、ありがとうございます! ぜひ、生産者の鈴木さんに、メッセージを出していただければとっても元気づけられるのではないかと思います。鈴木さんは、ご自身の命の危険も顧みず、しばらくは、崖に落ちた車の救助に向かったのです。何せ、車から、警報音が出ていたのだそうです。まだ、空間があれば生きているかもしれない、と。しかし、どうしてもたどり着けなかった。ヘリが上空に来て、自分の車で発煙筒をたいたら、気づいてくれて、来てくれたんですが、レンジャーの方も、とても近寄れなかったそうなんです。目の前にありながら、何もすることができなかった。この無念さや、恐怖は、相当のものだったと思います。生きているのさえ、申し訳ないのにまた、私より困っている人が大勢いるのに販売なんて、という心境のようです。 何か、必要な資料、商品情報や生産者情報被災地情報などありましたら、お気軽にご連絡ください。鈴木養蜂園は、0228-22-3475(FAX兼用) 宮城県栗原市志波姫刈敷三丁目125皆さまの、温かいお心、心より感謝申し上げます。 追記 昔の宮城県のPRパンフから転記です。鈴木さんの蜂蜜は,ミツバチが巣箱に貯蔵した蜂蜜から不純物を取り除くだけの「完全無添加」の商品。巣箱を抱えて栗駒山麓の自然林を巡り採取した,まさに「自然の恵み」です。 「自然との共生」が口癖の鈴木さんは,昭和40年代初頭の輸入自由化により,海外の安価な蜂蜜に経営を圧迫された時も,頑なに製造法を変えることを拒みました。 「蜂蜜製造業の肩書きを持っているが,製造しているのはミツバチ。私はそれを横取りするだけ。」そう笑いながら語ります。 蜂蜜の採取は,花の開花時期の正確な予測と,それに合わせたミツバチの生育調整にかかっています。ミツバチの寿命は,わずか50~60日。積極的に活動する期間はさらに限られます。五感を研ぎ澄ませ,自然の息吹を見逃さないことが,良質な蜂蜜をまとまった数量確保する最大の秘訣となっています。 鈴木養蜂園の蜂蜜の特徴は,「栃の花の蜂蜜」の占める純度が高いこと。「栃の木の花」の開花時期と「他の雑木の花」の開花時期が重ならない栗駒山麓の自然環境が大きく寄与したものです。 「コクがあるし,雑味がしない。純度の高い栃の蜂蜜は,アカシアやレンゲの蜂蜜と比較しても全くひけを取らない。」鈴木さんが,そう胸を張る蜂蜜は,花山地区の各種施設を中心に販売され,確実に観光客の支持を広げています。
2008.07.10
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小学校の総合学習のテキストづくりをしています。調べてみると、私自身がいろんな発見をさせてもらうものです。 地元の川がテーマなのですが、この川は、歴史的な由緒もさることながら、伊達藩の農業振興策と結びついていました。 伊達62万石は、実質100万石とも200万石とも言われています。江戸の市中の米の半分は、仙台から送られたものだとも。 それだけの米どころ、農業の国が、なぜ、庶民がお米を食べられなく、雑穀しか口にできなかったのか?天明・天保の飢饉のとき、全国でも、筆頭の何十万人もの餓死者を出したのか? これは、為政者が、無為無策だったからか?酷薄非道だったからか? これが、疑問でしたが、少し見えてきました。 伊達藩が、もともと、経済的にピンチだったことが、発端ではあります。しかし、その解消策を、マジメに、米の増産に求めたのです。そのために、素晴らしい治水工事をします。新田開発も急速にすすめます。 大阪での米取引にも、積極的に参入し、為替取引もいち早く導入し、一時は、莫大な利益を上げ、財政破綻を乗りこえるのです。 しかし、その成功体験から、さらに、米への傾斜が激しくなり、まず、農民の米を年貢以外にも、あらいざらい、全部に近く買い上げてしまうに至ります。 それでいて、市中に金が出回って、市場経済が発達しないよう入念に、勝手な物資の移動を禁じます。これは、市場相場から切り離され、不当に安い価格で買いたたかれることになります。 そして、米だけを作らされます。米は他の作物に比べても、手間のかかるものです。農民は、多様な農業をする余裕が無くなります。 豊作のときは、まだ良かったのですが、凶作のときは、この単品経済は悲惨です。植民地でのモノカルチャーと同じです。 人口が半分近くになった村もいっぱいあります。結局、この飢饉で民力が低下したことが、致命傷で伊達藩は、没落をたどります。 現在、米どころとして、胸を張っている当地ですが、先人の浅智恵がもたらした人災への記憶が、薄れているのではないかと心配になりました。 どんなことでも、多様性への配慮を欠いてはいけない。心の余裕が必要です。もし、他の作物を研究してみる余裕があったなら。 また、民力の大切さと、藩内の市場経済への見通しがあったなら。 とにかく、一つの側面からだけ、追求してはいけない。特に、それをマジメにしてはいけない。 先日、農への思い入れをもちながら、生活する大切さを学びましたが単に、米づくりが大切だ、ということだけを思い続けると大きな落とし穴に入ってしまいます。 人間のアタマが及びも付かない、豊かな多様性を忘れないようにしたいものです。
2008.06.04
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教室の中の出来事は、すべて教師に責任があるんです! これは、もちろん、客観的なことではありません。でも、これは、魔法のような効果をもたらします。 子ども様子は、すべて、すべて、親の責任です。こう考えた方が、事実はどうであれ、幸せへの近道です。(と思います。) この世を楽しくする魔法は、独我論・唯我論にあるような気がします。独我論って?説明面倒なんで、Wikipediaからでも、調べてみてね。 つまり、ふつうの常識人間は、事物を認識するとき、何らかの客観的な事物が存在し、感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考えます。例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、私の視覚を通じて、私の意識の中に、主観的なリンゴの形や色が現れる。これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方です。 これに対して、独我論は、私の認識とは無関係な事物の存在を否定するのです。リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する(見えなくなるのではなく、存在しなくなる!)。 全ては私の意識の中にのみ存在し、私の意識を離れては何物も存在しないのです。これが独我論の基本的な世界観です。 このような一見突拍子のない発想には、結構な根拠があります。普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、と言いますが、「私」はそのことを論理的には証明できないのです。なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからです。いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、認識されていないリンゴについて何かを説明することはできないからです。 これには、いろんな批判がありますが、一面の真理であることには、違いないでしょう。 実は、もう一つの側面、私の嫌いな、スピリチュアルな面から、なぜか、ビビっと来るものがあったのです。 『ホ・オポノポノ』という究極のハワイアンヒーリング法、知ってます?これは、相手の事を考えながら自分に向かって 『 I am sorry 』、『 Thank you 』、『 I love you 』を心の中で繰り返すというものです。 この方法で治療をした結果、何故か病院の患者(精神病)が、治ってしまうそうです。詳しくは、これも自分で調べてみてね。 ここで注目すべきは、患者には、一切、接触しないんだそうです。 『 ごめんね・ありがとう・愛してますよ 』を相手のことを思いながら心の中で繰り返すだけで、自分と相手が同時に癒されるという簡単なこのヒーリング法私は、なぜか、妙に納得してしまうのです。 これまでのアファメーションやヒーリングは相手を何とかしようと思ってやっているから効果がなかったのです。自分の中に問題の要素がある。癒されるべきものがある。実は自分にこそ、フォーカスすべきだった...という気づきです。 この手法は、我々の常識とはまったくかけ離れている様に見えます。 そこでは、自分以外のこの世界のすべては、別の次元にある私の魂が作り出した幻想であり、自分に責任があると考えるわけです。例えば、もしも今、自分が誰かのせいで嫌な気持ちになり、それは当然癒されていない感情なので、通常は相手を変えようとしてあれこれ考えたり行動しますが、そうではなくて、まず自分の中のそのマイナス感情を癒すことを試みるのです。そうすると結果的に世界が=相手が癒されるというのです。 このとき必要なのは、ただ、「ごめんなさい」、「ありがとう」、「愛しています」と心の中で繰り返すだけでいいんだそうです。ここでは、もう誰かを変えようとか癒そうとする必要はありません。ただ、自分の中のマイナス感情を癒すだけでいいのです。自己のマイナス感情が癒されたときに、結果的に世界は癒されることになります。 やっぱり、人に怒ったり、非難するのは、ダメですね。もちろん、ダメはダメで、否定すべきは否定し、ぶっつぶすべきは、ぶっつぶすんですが、日本の教育制度も、どこか山奥の学校の問題も、すべて、科学寅さんのせいだ、と考えると、何より私が成長できるし、なぜか、相手も癒されていくような気がします。 これは、全く科学的じゃないですよ。ただの、自分の心が元気になる、呪文みたいなものです。少なくとも、対立軸ではなくて、創造軸で、モノゴトを考えている自分に気づくのです。そして、創造は、楽しいお遊びです。私は、学校文化の、「こうあらねばならぬ」というのが大嫌いです。ところが、学校の問題点を指摘するのに、この嫌いな学校のルールを使って、闘ってるんですね。何てバカなことをやってるんだろう。特定の先生を非難するのも、学校教育を批判するのも、「ねばならない」を使っている自分がいます。これには、自分でがっかりしてしまいます。私は、生命って、そんなもんじゃないって思うんです。そう、理屈じゃなく感じるんです。そもそも、どうしようもないのが、人間です。その、アホらしさ、を楽しむ以外にないじゃないですか。極端な話しですが、たとえ、ヒトラーのような人が出て、虐殺を行っているとして、それを阻止しようと、全力を尽くすのは、当然ですが、(その場に立たなくては、できるかどうかは、わかりませんが、)できれば、怒りではなく楽しみながらレジスタンスをしたい。ディズニーランドで遊ぶテンションでレジスタンスをし続けたい。人が殺されるのは、当然、悲しい。しかし、そういう時代に、生きて、活動できること、その命を讃美したい。レジスタンスができることを、冒険ゴッコとして遊びつくしたい。どんな事にも、瞬間、瞬間、最大限、全力を尽くして楽しみながら、生きていたい。この瞬間で人生が終わってもいいくらいの、瞬間に生きるものでありたいなあって。例の問題が、もし表面上、片付いたとしても、でも、根本的な問題は、さらに、ドーンと、かえって眼前に迫ってきます。 でも、それで、敗北とも思いません。また、正義は我にあり、とも思いません。勝ち負けを考えるような、そんな狭い世界では、この世はありません。どんなところからも、楽しいことは、い~っぱい作れるのです。私は、カンボジアのストリートチルドレンの笑顔。あれが基本だと思います。 東大を出ても、自殺をする人がいる。なら、ストリート・チルドレンの方が、断然、幸せではないか?社会体制や、指導者の愚劣、それへの批判は、手抜きはできませんが、その再創造のエネルギーの素は、輝く笑顔でありたい。どんなドロドロとしたところからも生まれてくる、笑顔。これがエネルギーの素でなければ、いけない。(あ、また、ねばならない、を使ってしまった!)愚劣さを包み込んだ、楽しさをいつも味わっていたいと思います。いや、愚かだからこそ、楽しめるのかもね。私がどんな人間か、ってのも、私にとっては、どうでもいいことで、ただ、楽しんで熱中しているかどうかだけが、関心でありたい、という心境です。人間は、無限に楽しいことを、紡ぎ出せるんですから。
2008.05.31
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服部雄一先生の、またまた、引用ですが、どうしてもご紹介したく思います。 日本人は確かに精神的に未発達なところがあると思います。また、他の国民に比べて、日本人の精神構造が特殊という意見に同意します。私の観察では、日本人は中国人や台湾人やフィリピン人などのアジア人と比べても、性格と精神構造が違います。 しかしながら、幼児性と精神構造の違いは日本人本来のものではなく、環境の産物であると考えています。私は東京理科大学で8年間心理学を教えましたが、その講座のひとつで日本人の精神構造は1)逃げ道のない社会システムに適応した結果であること、2)自由の剥奪が日本人の生活の根底にあると強調しました。 日本人は伝統的に組織(藩、家制度、会社、学校など)の中に組み込まれ、その中で生活するように訓練され、組織の外の生活に恐怖心をもつ傾向があります。組織の中は厳格な上下関係があり、権威者に無条件に従うように訓練され、自我を殺すこと(自己主張しないでガマンする)が美徳と教えられます。人生は自らの選択で生きる荒野ではなく、網の目のように細かく決められたルールと自分に与えられた義務と仕事を果たす修行の場です。自分の要求を貫いたり、自分で決めて行動することは「我がまま」であり、人に迷惑をかける悪い行為です。 この社会システムの中では、欧米人が基本的人権と呼ぶすべては「我がまま」となり、未熟さの証拠となります。このシステムは息苦しい場所ですが、しかし、そこに慣れると外の世界を怖がるようになり、このシステムの中だけが安心だと考えるようになります。それは終身雇用制や役所の就職を求める国民性に現れています。永遠に続く組織が与える安心(security)を求めるために、自由と正義を放棄するのです。日本人の「仕方がない」という表現には深い意味があり、「ここ(会社、役所、学校、藩)は苦しいし、自分が幸福になれるとは思わない。しかし、外の世界はもっと悲惨で、人を不幸にする。ここにいれば生活は保障される。だから文句を言ってはいけない」という考えが隠されています。つまり、逃げ道がないために、そこで生き延びるために、長いものに巻かれてガマンする哲学が発達しています。日本人が単身赴任で家族をバラバラにされたり、家庭の団欒をもてないほど残業したり、過労死するほど働かされても不平を言わない背景には、ガマンの哲学と「組織の外では生きてゆけない恐怖」があります。リストラ(組織の外に放り出される)を極度に怖がり、自殺さえする人がいるのは組織の外の生活を怖がるためです。 日本人は盆栽の木とよく似ています。盆栽の木は鉢というフレームの中に閉じ込められ、行動と成長の自由を奪われ、盆栽の所有者を喜ばすために存在している。権力者の好みの思想を植えつけられ、自分のアイデンティティをもつことができず、自分の人生をもつことができない。自然の木のように、自由に大きく育ち、自分のために生きれない悲劇がある。しかし、鉢の中にいる限り生活は保障され、自然の木のような苦労はしなくてもいいという利点があります。逃げ道のない盆栽システムで生きる日本人は、特に男性は「支持待ち人間」となり、男らしさや決断力の欠けた人間になります。彼らは生活の保障のために自由と正義を放棄するのです。別の見方をすると、自分の個性(アイデンティティ)と良心を放棄していると言えるでしょう。 これは一種の精神的な纏足(女性の足を小さくする昔の中国の習慣)です。組織(鉢)の中にいるかぎり生活が保障されるが、しかし、成長の自由と可能性は奪われている。盆栽は美しいが、しかし、本来の自分の姿とは違う。自由な自然の木(外国人)と比べると、むしろ、奇形(日本人)でもある。自由のない人間は自尊心がありません。日本人に見られる白人に対する根深い劣等感は、自由と自尊心の欠如から生まれるものです。日本人はどんな逆境においても「他の場所に逃げる」という自由がなく、その考え方が外国人との大きな違いになっています。日本人の幼児性と精神の特殊性は、逃げ道のない社会システムの産物でもあります。 以上です。これを打破するのが、私の快感なんだと気づかされました。
2008.05.11
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不登校の子のいるご家庭から、ご相談を受けることがしばしばあります。 私は、カウンセラーでもないんですが、「はてなランド」は、フリースクールと世間では見られているようです。(実は、それでもOKなんですが) (しばらくNPO関連を書いてきたので、気分転換したいと思います。) 実際、不登校については、一緒にずいぶん悩んできました。いや、現在進行形です。 でも、不登校と言っても、いろんなケースがあります。小学生か、中学生か、でも違いますし、行かなくなって、どのくらい経っているのか?学校では、どんな子どもだったのか?その子その子で、対処が違うんだ、ってのがつくづくわかってきたことです。 でも、逆に、「学校へ行かない」ことを「不登校」という特殊問題として考えてしまう方が、問題なんじゃないか、って思います。 ここには、様々な「思い込み」が、べったり張り付いているように思えます。「思い込み」それも、「否定的な思い込み」で悩んでいるのです。 じゃあ、思いこんでいる、とらわれからの解放という切り口で見れば、不登校問題も、一般的な悩みの解消パターンと同じになります。 先日、ルビンの盃で見たように、心の世界では、私たちの見方を離れた「事実」など存在しません。心はいつも、感情で色づけしており、その価値判断で世界を眺めています。 世界は、一つの見方が正しいとは、言えないのですが、なぜか、自分のこととなると、一つの見方から抜け出せないものです。「私の問題が、自分の見方次第で、どんなふうにも見えるなんて、そんなのありえない!」と否定してしまいます。 実は、その囚われこそ、悩みの本質だと思います。「自分は、人から好かれ、認められなければならない」というのも、すごい思い込みです。「自分の能力があることを、示さなければ、自分は価値がなくなる。」これも、一面的な見方に過ぎません。「学校には、毎日行かなければならない。」これが、どうしても、心の底にあるから、苦しいのです。「様々な問題には、正しい答えがある。」ってのも、思い込みです。不登校で悩む子は、マジメな子が多く「道徳に反することは、自他共に、厳しく罰せられるべきである」って、思いこんでいるんじゃないでしょうか?さらには、「望んでいるように、ものごとが進まないことが、とても恐ろしいこと、破滅的なこと」と考えている場合があります。 これらの考えや、信念は、冷静に見れば、非理性的なものです。 これらの否定的な思い込みには、特徴があります。それは、評価の基準が他人にあることです。自分の満足の度合いを他人から計ることです。 そうして、それ以外の思考パターンには目がいかず、うまくいかなかった場合、自己評価が、極端に低くなることです。 この蟻地獄に入ってしまうと、どうやってここから脱出しようと、考えるよりも悩みそれ自体を考えることで終始してしまうようです。 蟻地獄の外に意識を向けるんじゃなくて、地獄の底ばかり見てしまうのです。 私も、ついつい使ってしまうのですが、「~するべきだ」、「~しなければならない」「~するはずがない」という言葉は、とにかく警戒したいものです。 誤解を恐れずに言えば、不登校の子に、「どうしてそうなったんだろう」と原因を探ろうとするのは、意味がなく、かえって、蟻地獄にはまらせる悪手だと思います。 原因さえ取り除けば、悩みが解決するだろうと考えてしまいますが、同じ原因でも、悩む人と悩まない人がいることを見れば分かるとおり、一方的な思い込みに囚われる姿勢こそが、悩みの正体なのです。 だから、蟻地獄から、抜け出す秘訣は、「これから、どうしたいか」に意識を向けることです。 でも、悩んでいる人は、なかなか、「こうなったらいい」という肯定的なものの見方ができません。これこそが、悩みの悩みたる所以なのですが、すぐに、決めつけてしまうのです。明るい見通しなどあるわけがない、と。 こんな風にありたい、と思っても、すぐに、「そんなふうになるわけがない」という考えが、しつこく襲ってきます。 理想の状態は、空想であって、あるわけがなく、嫌な状態こそ、現実で、正しいのだ、と思ってしまうのです。 理性的に冷静に考えれば、どちらの見方も、将来に対する一つの見方に過ぎないのに、いろんな見方を、いろいろ味わってみるだけなのに、「こうなりたい」と思ったとたんに、そこに別の見方をすぐに、くっつけてしまうのです。 私は、理想の状態をイメージして、それを念じれば叶うんだ、ということを言ってるわけではありません。(それは、そちらの専門家に任せます。) 念じるんじゃなくて、一歩前に踏み出す行動ができるか、なんです。否定的な思いを、いったん、脇にオイトイテ、どうなりたいか、に意識を向け、自然に一歩を踏み出すのです。 松下幸之助さんが、経営の極意ということで、「雨が降ったら、傘をさすこと」と言われました。正に、雨が降ったら、悩まないで、傘をさすことに意識を集中すればいいのです。 ところが、大概の悩みを抱えた人は、私の悩みは、もっと「高尚な」ことだ、そんな傘をさすようなことで解決するはずがない、と思ってしまっています。 まず、今、今の今、私たちにできそうなこと、今、変えられることにだけ意識を集中してみましょう。 原因探し、悪者探しは、やめましょう。長くなりましたが、寅さん自身のために、ここまで引っ張っちゃいました。
2008.04.17
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経過は、ぶっ飛ばしますが、大学入試の受験勉強をするに当たって、私は、エゴイズムの極地、すなわち、すべては、私のための「遊び」という見方から、行動し、そのおかげで、奇跡的に合格しました。 しかし、そんな寅さんでも、フト、「遊びでは済まされない」ことにぶち当たります。ある恩師を深く傷つけてしまう事態が発生し、それで、大きく落ち込みます。しばらく引きこもりのようになってしまったことがあります。この寅さんが。 人間の能力を最高に生かすのは、遊びの精神であることは、間違いないと思っています。大義をもたない、ある意味、ニヒリズムの方が、のびのびと活動でき、現世の御利益から言っても、願望実現がしやすいと、体験的に思います。 「絶対、~~しなければいけない!」と力むと、かえって、遠のいてしまうものです。 力まずに図々しく、手をだす、というのが、この世のポイントかもしれません。 でも、でも、人間、力むときが、きっと来ます。 それは、多くの場合、人の想いとつながっているように私には感じられます。人と幸せを分かち合いたい、という共感への渇望。 この共感性には、人間、意義を感じてしまうのだと思います。 でも、そのように、共感する人間集団も、やっぱり、「私」の意識の中の存在であることも間違いないのです。 だから、共感性を遊べればいいのでしょう。共感のハーモニーを一歩外から眺めてみて、全体を手のひらに乗せ、より美しいものを創っていこうとすること。 この創造活動としての遊びが、いい感じじゃないでしょうか。 でも、やっぱり、この美しいものに、意義を置いてしまうのが人間。 どっちが卵か鶏か? いずれにせよ、本当に大切なことは、とってもとっても少ないことは、間違いない。日常、僕たちは、大切でない、どうでもよいことのために、四苦八苦しているんだ。 そんなものは、遊びのニヒリズムで、ぶっ飛ばすのが、ふさわしい。無意味だと笑いとばして、いいのです。 本質でないことを、遊びのふるいにかけて、吹き飛ばしていくと最後に、本質だけが残ってきます。それこそが、本当のお宝なんでしょう。
2008.04.01
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アホなスポーツ根性物語です。 寅さんは、中学校に入学すると小学で、学校代表リレーの選手だったこともあり、いろんな部活動から、誘いを受けました。 その中で、一番強引に引っ張られたのが、バスケット部でした。背が高く、ジャンプ力もあったので(例の垂直跳びのお陰)自分でも納得でした。 でも、バスケットの「バ」の字も知りません。 さらに、寅さんは、敏捷性と運動神経には、やっぱり欠けていたのです。ぼーっとしてる性格、人を出し抜くなんてできません。何度やめようか、と思ったことか。 でも、そのバスケット部は、本当に一種独特の宗教じみた雰囲気が漂ってました。伝統の重みと言うんでしょうか?何度も県大会優勝を果たしており、OBも蒼々たるメンバーで、常に指導してくれてました。 で、常に、「優勝、優勝」「優勝するために、僕たちは生まれてきたんだ」、って感じに毎日、毎日、洗脳されるわけです。 この苦しい練習をするのも、すべては「優勝するため」 そんな中、寅さんは、寅さん流の練習方法を見いだします。それは、コーチや先輩の指導ではなく、ガイドブックでした。バスケットの本を片っ端から読みあさったのです。頭から入るタイプなんでしょうねえ。 そうして、身体の動きや、コートでのポジショニングを頭の中で、方程式の解で決定するようになったのです。方程式と言っても、数字の計算ではなくて、あえて言えば、グラフです。図形の証明です。その図形を頭で瞬時に描けるようになってからみるみるうちに、認められるようになってきます。 上級生にも混ぜてもらえるようになります。 さらに、自宅の倉庫にも、リングを設置します。庭だけでなく、ゴムボール用の籠をまず、勉強してる部屋にも続いて、家の中のいたるところに設置して、シュートを決めなければ通れないようにしていきます。 早朝練習はもちろん、その前の自主ランニング。学校から帰ってからのランニングとシュート練習。薄暗い電気をつけて、シュート、シュート、シュートでした。 みんなから、コンピューターだと言われました。 ところで、私の年代のチームは、1年生のときから、公式戦でも、練習試合でも、一度も負けたことがありませんでした。 (後から考えれば、これは、監督・コーチの設定ミスだと思います。だって、負けるくらい強い相手と戦わせなかったのですから。でも、実際、近場に敵はいなかったのも事実) 3年生になって、東北でも最強との呼び声のあったチームのところに遠征に行って、勝ってしまいます。 もう、これは、県大会優勝どころか、東北大会、全国大会だ! ところが、ところが、楽勝のはずの県大会。キャプテンが、体調を崩してしまいます。(寅さんは、4番をつけてましたが、キャプテンではありませんでした。強引に引っ張っていくタイプではないから)そして、もう一人の柱の選手も故障してしまいます。 そんな時、浜のチーム、(内陸の者からすると荒っぽい)と対戦し、その挑発的な仕掛けに、冷静さを失っていきます。反則で退場する者まで出て、チーム結成以来、はじめて、リードを許します。そして、コートにいるメンバーは、どっちかと言うと二軍メンバー。 私の頭は、真っ白でした。まさか、まさか、です。 もう、自分一人で、決めてやらなければいけない、と強引にシュートに行きます。また、ボールを奪いに行きます。それで、何とか、同点にまで持込み、延長戦。さらに、再延長。しかし、ついに、私へのマークをきちっとされ、万事休す。 私は、しばらくこの事実を受け入れられませんでした。茫然自失とはこのことです。チームメイトを恨みました。監督・コーチを恨みました。なぜ、、対策を立ててくれなかったのか? でも、後から、指摘されたのは、逆に私のプレー。独り相撲を取ってたのです。私へのマークがきつくなった分、他に空きがあったのです。そこにパスを出せなかった。 しかし、そんな反省をするどころではない状態に寅さんは陥っていました。 今まで、苦労してきたのは、ずべて、「勝つため」スポーツは勝つためにするもので、負けたら、意味が無いと洗脳されてきましたから。 寅さんは、頭で動くタイプです。だから、文字通り、言葉どおり取ってしまってました。 「この中学時代のエネルギーは、無駄だった。」「アホをしてしまった。」そこから、「欺された」と思うまで、時間はかかりませんでした。 だって、考えてみれば、スポーツなんて、優勝するのは、たった一校。圧倒的な多数は、失敗者で終わるのです。 これは、めちゃくちゃ不利な「賭け事」じゃないか。こんな割の合わないことに、世の大人は、子どもたちの青春をつぎ込ませて、いい気になってるんだあ!もっともらしい顔をしながら、実は、僕たちを将棋の駒のように使いやがって!欺しやがったな! 部の監督も、コーチも、OBも、そして、学校そのものも、恨んで、軽蔑するようになってしまったのです。 ちなみに、女子チームは、優勝し、東北大会でも健闘しました。もし、男子チームが優勝したら、三年連続になり、さらに翌年優勝しましたからもしかすると5年連続という快挙があったかもしれないのです。寅さんのチームは、本当に「汚点」になってしまったのです。 高校受験が近くなり、成績がなぜか良かった寅さんは、学校でいつも一番でしたが、ある時、学年主任の先生から、我が校の名誉のためにも、進学校への入試に一番で受かってくれ、と言われ、ガーンと衝撃を受けました。「ぼくは、ただ、単に勉強が面白いから、やっていただけなのに先生は、こういうボクたちを助けるためにいるもんだと思っていたのに」「何で、学校のために、ボクが勉強しなければならないんだ。」「そんな風に、この学校は、生徒を観ていたんだ!」プツンとキレテしまいました。 その瞬間から、寅さんは、一切、受験勉強をやめました。要は、受かればいいんであって、一番で入ることが目的じゃない! 毎日、好きな本を読んですごしました。気の抜けた風船野郎です。入試結果は、でも、不思議に成績は落ちなくて、3番。これを学校から聞いたのですが、「ざまーみろ」って思ったものです。 (うーん、この話って、自慢話ですかね。)(だとすれば、とってもイヤらしい話ですね。) でも、とにもかくにも、これが、寅さんの学校不信の原点です。 このスポーツでの挫折と学校への不信を冷静に見つめ直し、克服するには、3年間が必要でした。そうです。高校3年生の受験期まで、待たなければなりませんでした。 この克服には、すごい荒療治が必要でした。(明日につづく、かな?)
2008.03.31
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理屈から言うと、誰でも、いつでも催眠術にかかってるんだ。 自分の物語の主人公になって、それにとらわれて行動せざるを得なく、自分で自分を縛っています。 これって、ゲームの中に入り込んでいるのと同じ。 ついつい、ゲームのシナリオ自体を変えたりキャラを変えることができることを、忘れてしまいます。環境設定を変えることもできるのに、ついつい忘れてしまいます。日常の環境にのめり込んでしまってるんだ。慣れ親しんだ行動に疑問をもつことができない。 ゲーム機の前で、コントローラーを持っている自分を忘れないようにしたい。 そうすれば、ゲームを一旦やめて、別な遊びをすることもできます。
2008.03.23
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この世界について、いろんな想像をしてみるのが大好きです。昨日に続いて、ホイラーさんの言葉。「世界とは、人がそのように「観測」するからこそ、そのような世界となっている。」もし、誰も月を観測しなければ、そこには月が存在するかどうかさえも問題にはならないのです。人が何かを観測するからこそ、世界はそのように「観測」され、決定されるのです。そこに「世界」があるのは、人がそのように「世界」を観測しているからなのです。 この詭弁とも言える言葉を語ってるのは、昨日も紹介しましたが、ジョン・ホイラーさんで、量子力学の権威。テキサス大学教授です。しかもこの考え方は科学的に実証されているのです。 さらに、ホイラーさんの言葉です。これは、アメリカの理論物理学者リチャード・ファインマンが、ノーベル物理学賞の受賞講演でジョン・ホイラーが自分に電話を掛けているかのような口調で語ったことです。 「ファインマン、ぼくはすべての電子がどうして同じ電荷と質量をもっているか知っているよ!」 「いったいなぜなんだい」 「それはね、すべての電子が同一の電子だからさ!」 この宇宙に存在するすべての電子が「たった1個」の電子からなっている?!う~ん、シビレル言葉です。 この言葉は、たった一個の電子からできる量子コンピューターのことを想起させてくれます。 たった一個の電子は、無限に広がる平行宇宙の自己に相当する電子と並行的に演算を行い、正しい回答を得た電子が我々の世界の電子として「認識」され、その回答を提示する、という奇想天外のものです。量子コンピュータの演算能力は、現時点で最高速のスーパーコンピュータでさえ十兆年かかるとされる130桁の因数分解を僅か数十分でこなしてしまうとされています。 現在のスーパーコンピュータとは一線を画す超絶的な能力を発揮する量子コンピュータは、すでに、日本の企業はじめ、世界で実験段階に入っています。現実に動作しているものが存在する以上、「平行世界」の存在を否定することは出来ないんじゃないでしょうか?そして、観測行為により世界を選び取ることも、積極的に望ましい世界を選択することさえも極一部ではあるが実用化されつつあるようです。 この事実が社会に与えるインパクトは、ものスゴイ!!!、スゴすぎて言葉にもならないものですが社会のパラダイム転換は、科学的な発見から、100年は遅れるのが常識です。 昨日、ホイラーさんが言う、過去と未来の性質を書きましたが、 時間の流れは、常識に反し「未来から現在へ、そして、過去へ」と流れているとも考えられます。明るい夢を描くとその明るい夢を実現するために、過去の苦労や事件や病が、その夢の実現の階段になり、 明るく美しく、美化されます。 意識の力で、過去の全ての苦労も努力も、全て未来の夢の実現のために、存在しなければならなかったものとして深く理解し納得できるのです。私たちは、「過去から現在と未来へ」時間が進むと思うから過去のいろんなコトや、体験にとらわれて、未来への夢を描かずに、自信喪失してできない理由だけを沢山考えて「意識の壁」を作り動かずして生涯を終わるのです。 時間はメビウスの環のように閉じられた体系だと考えたらどうでしょう。時間は、未来から過去へも流れるのです。そして夢こそが、未来から過去へと流れて、実るのです。意識が時間の流れを変え、運命を変えるのです。意識が未来を今に、引き寄せるのです。時間は過去から現在へ、そして未来へ進むだけでなく、未来から現在と、そして、過去へと進むことに気づくことが、幸せな人生のポイントじゃないでしょうか?
2008.03.22
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先日、うちの母親の下血が、大腸の潰瘍だと安心していたのですが、やっぱり、癌だったことがわかりました。大腸の中頃に、べったりなので、そこを切り取る手術をすることになりそうです。あさって、家族が呼ばれてます。今日、親戚で、元東北大学医学部教授で、WHOなどの、がんに関する国際会議の日本代表の久道茂先生にも、わざわざ来ていただき、励ましていただきました。先生にも言われたのですが、日本人の二人に一人が癌で死んでる状況ってのは、決して悪いことではなく、癌で死ねるくらい長生きするようになったってのが実体なんでしょう。それにしても、癌というものも、突然降って涌いたわけではなく、今日の森の声さんのブログにも書いてありましたが、「すべてにつながりがある」のですから、この癌を取り巻く、つながりを見極めるのが、この病気に対するおつきあいの仕方なのだと思います。本人にとっても、家族にとっても。食生活が影響してることは、間違いなく、母は、グルメで脂っこいもの大好き、ワイン大好き。当然、寅さんも、栄養満点で育ったのですが、女房のブレーキで、ギリギリ、メタボを回避している状態かな? ところで、「癌」に及ぼす精神状態についてこんなことが書いてありました。A型:激情的、直感的な人B型:人生、社会を肯定し平穏無事な生活を送る人C型:温和、従順、協調的で感情を抑えて「いい人」と言われる人と分けると、C型の人たちが一番癌にかかりやすく、B型の人が一番かかにくいそうです。つまり、感情を抑えて常にストレスがある人の免疫力は落ちていると考えられるようです。次に、A群:「絶対に癌を治すんだ」という気持ちの闘争組B群:「これで、自分はもうダメだ」という気持ちの絶望組では、五年後の生存率を調べたところ、A群は90%、B群はわずか20%であったとのこと。このように癌には、罹ってしまったあとの予後に「気持ち」が、大きく影響することがわかります。また、当然と言えば当然ですが、人生を肯定し前向きに希望を持ち、自分自身を自己肯定し、心からの奮起を促し、物事の良い点をみる努力をし、宗教心をもちながら慈悲深い気持ちを持つ・・・等々のポジティブな「気持ち」は、癌細胞を殺すNK細胞の(白血球のリンパ球の一種)の働きをも高めて癌を効果的に抑えてくれるのだと言われています。今回の病気は、家族への神様からのありがたい「喝!」だとお彼岸を前にして、手を合わせてきたところです。
2008.03.16
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昨日は、丸一日、小学校まわりをして、楽しみました。チラシ配布のお願いをして歩いたのですが、どちらの学校でも、好意的に受け取っていただき、本当にありがたいことです。 今回は、旧古川市内だけでなく、大崎教育事務所管内全域を目標にしてますんで、とっても楽しい旅ができています。昨日、約7割でしょうか、依頼が終わりました。 あと、月曜日から残りを歩きます。 不審者と間違えられずに、すむのも、 これも、自然体験教室の和吉先生のお名前とこれまで、何回もシーズンごとに配布させていただいた、寺子屋だよりの実績かな? 初めての学校に、恐る恐る入ってみると意外にも、ご存知いただいてる職員の方がいて、心強かったです。 先生方も、移動しますんで、なんだかんだ、8年間、学校にお世話になってますといつのまにか、み~んなお世話になった先生ばっかり。 それに、今回のように、歩き回るもんですから、寅さんばかり、こんなに有名人?になってしまって、いいのだろうか? 本当に、抜き差しならぬ関係になってしまったと、我ながら、あきれています。 本日は、醸室寺子屋ホールの管理人を、久々に、マジメにしています。 また、余裕がでたら、書きます。
2008.03.15
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明日は、中学校の卒業式。今、行っている南中の3年生ともお別れ。そして、一昨年おつきあいさせてもらった東中の特別支援教室(当時1年生)も卒業です。今日、東中に行って、帰り際の3年生と先生方にご挨拶をしてきました。個性たっぷりの4人と握手をしてきました。 本当に、人間、一度縁ができると、これは一生もんです。 それぞれ、進路が違います。よく頑張ったけど、大丈夫かなって、心配になる子すくすくとよく、ここまで育ってきたなあ、そして、いい子になったなあ。彼らを心配すればキリがありません。 万感の思いを込めて、合唱コンクールのとき、歌われそして、生徒たちの人気も一二位をいつも争う歌。「明日へ」を贈ります。 ちくしょう、涙と鼻水が止まりません。 いつも見守っているよ!途中から、普通教室に行った子には、これから会いにいかなくちゃ!
2008.03.07
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好きになるってどういうことだろう?人間の脳は、仮説立証型だそうだ。思い込みを証明するために、情報や思考回路を作ってしまう。だから、最初に「勉強キライ 」という先入観(仮説)があるとそれに向けて、あらゆる情報を集めて、「証明」してしまう。 最初の先入観(フィルター)は、古い脳で作られる。そこで、あっという間に、好きかキライかが、決定されるらしい。あとは、その仮説の立証に向けて新しい脳が「論理的に」情報を組み立てる。 古皮質の目標は基本的欲求の充足です。まず安全です。危険なものは避けなければなりません。怖そうなものには、瞬間的に身体が反応します。その後で、恐る恐る目を開けます。まず、「キライ」は、安全を脅かされる心配から来るのでしょう。だったら、教育環境の上で、まず考えなければならないのは、子どもに安心感を与えることではないでしょうか? その上で、食欲、性欲などの欲求に沿うかどうか。そこには、昨日のテーマの「脳の成長」もあるでしょう。その欲求から価値ありと判断すると、 「快」 な感情となり脳活性が上がり、 この入力情報を処理する脳の仕組みが、 より効率良く形成される。 でも、まず最初に考えなければならないことは、キライにさせないことでしょう。うちのカミさんや、学校の担任の先生は、蝶々が、天敵です。もう、パニックに陥ります。こうなるには、いろんなメカニズムがあったのだと思いますが、こんな脳の回路を作らないように、細心の注意が教育現場では求められると思います。 勉強が、チンプンカンプンでもいいから、キライにだけは、ならないように、最低限努力するのが教師の務めだと思います。 キライなことをさせるために、大人は、報酬をつけたり、 おどしを課すなど、 やらざるを得ない状況にして、 頑張らせます。たしかに、それでやるでしょう。しかし、やっぱり、好きではないので、 その事柄を処理する仕組みを創る学習効率を高くすることはできません。 "頑張り"で仕事を進めている限り、 その仕事を脳は生き生きと処理することはできないのです。 それのみならず、 頑張りは身体的にストレスであるので、 頑張りを長期に持続的に続けることは身体的に無理があります。 これほど大切な「好き嫌い」。もっともっと意識していいんじゃないかな? じゃ、既に、キライになったものを、どうやって好きに変えればいいんだろう?すぐに思い浮かぶのは、催眠術。(何て安易な!) 催眠術の基本は、リラックスと集中だ、って聴いたことがあります。力を抜いている状態で、何かに集中する。そうすると変成意識状態になって、いろんなものが抜け落ちる。ここで、意味づけの錯覚を起こさせる。楽しいイメージと現実の身体の動きなどを今までと違った意味づけで説明される。そうすると、潜在的な部分で錯覚が刷り込まれる。なあああんて、聞きかじりです。寅さんは、催眠術師では、全然ありませんので、鵜呑みにしないでください。 しかし、とにかく、大人に評価されるような緊張感から解き放ち、目の前のことに集中させ、楽しい思いを体験させること。自然に身体が反応してきているところを見計らって、学問の楽しさを吹聴してやること。「あなたは、本当は、学問がだいすきだあ~~~~~。」「今まで、キライだったのは、あれは、本当の学問じゃなかったからだあ~~~。」って。 もちろん、先入観を立証するに値する、楽しい授業を毎日続けることも、絶対に大切です。でも、年にたった数回の楽しい授業の「催眠効果」が、一年以上続くことも多いようですよ。 ※ おふくろが、昨日、突然、下血してしまいました。 昨日、応急措置をしていただき、本日、本格的な検査です。 今日は、付き添いで学校も休んでいます。こういう時こそ、冷静で、良いイメージでいたいものです。
2008.02.29
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一つのことを言うと、どうしても、次の事をしゃべりたくなる。これは、しゃべったことが、恥ずかしいからそれを消したい思いが働くのからです。だって、それこそ、私の人生の軌跡なんて、どのようにも解釈できます。素晴らしいとも、支離滅裂にも、人間のクズとも解釈できます。そして、どれも間違いではない。 私は、神様は信じてます。ただ、教団というシステムを信じてないだけです。 神様なら、どんなことを求められるだろう、と考えます。 私は、心のリトマス試験紙として、どんな団体であれ、病人や子供また弱い立場にある人を救うために活動を行っているか、をチェックします。「救う」と言いながら、教団に引っ張り込むだけで終わっている場合、本当に生活のことを配慮していない場合、それは、いかがわしいと見ます。カルトの本質は、生活感を喪失させてしまうことです。 自分達の組織を大きくすることを是としたお金集め、勧誘、それでいて周囲に何かを押し付けるならば、それはただの組織拡大主義です。宗教でも思想でもなく、株式会社やNPOと何ら変わりません。 自分達の考えや思想を貫くことこそが目的で、その目的の過程には何を犠牲にしても構わない、といった傲慢さを滲ませるならばカルトと言えます。 教えを広めるために、なりふり構わない、というのも一つの生き方でしょう。その全てを否定するつもりはありません。ただしそれは、愛だの社会正義、社会平和だなどとは違うものだと認識すべきです。私は自分の考えを他人に押し付けることは、愛ではないと思います。ごう慢で自己中心的な思い込みが存在するだけでしょう。 多くの人を悲しませたりお年寄りや子供達、障害者や社会的な弱者を食い物にする団体、ごまんとあります。人が傷つくことを厭わない教義や思想など「糞喰らえ!」です。 どんな立派な建物だろうとどんな大きな組織に成長しようと、神様には何の意味も持ちません。神だろうと悪魔だろうと住むのは建物の中ではなく「人の心の中」です。人間の言うどんな素晴らしい教義も表面だけを取り繕ったものです。人間の本質、神と言う存在はそんなものではない。それらは本当の意味での「救い」「神」や「愛」とは対極にあるものでしょう。 本当に神に仕えているならば、貧しい人、特に路上生活者を放っておくことはできないはずです。ホームレスの人々こそ、修行の実践者として、讃えるべきでしょう。自分は高級車を乗り回し、立派な服を着て信者にかしづかれて、立派なことを言っている状態人々から讃えられたら、その時点でおかしいのです。 私は、金儲けや組織拡大が悪いと言っているのではありません。正々堂々とやればいいのであって、神様の名を使って、儲けたり、名誉を得たり、組織を作ることこそ、最高の「罰当たり」だと思うのです。 <注意>、これは、寅さんのフィルターに過ぎませんよ。私も明かに、偏ったフィルターをもってます。
2008.02.25
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昨日、午後2時ころから、頭痛を伴う体の変調で、すべての予定をキャンセルさせていただきました。醸室のホームページ・ブログ関係PTA関係の皆さま、御迷惑をお掛けしました。偏頭痛のようで、何かちょっと違う。もしかして、花粉が引き金になっているのでは?って、仮説を立て、高いマスクをかけている寅さんです。 おはようございます。夕べ、12時ころ、復活しました。今日は遅い出勤でよかった。(南中は授業参観です。保護者の方々とお会いしたい。) ところで、皆さまにぜひ、読んで欲しいブログがあります。度々、ご紹介しています。森の声さんの楽天日記です。ここ数日、寅さんにとって、とおおっても意味のある気づきをいただいたと思って喜んでおります。 「子どもはその想いに触れてその人たちのぬくもりを受け取るのです。そして、自分とのつながりを感じるのです。そして、同時に自分が肯定されたことを感じるのです。輪になって隣の人と手をつなぐだけで自分が肯定されたように感じるものです。それと同じです。つながりの感覚はぬくもりを伝えるだけでなく自己肯定観を育てるのです。そして、そのつながりの感覚の中で学ぶことに興味を持ち始めるのです。・・・・・・子どもが"なんで勉強なんかしなくちゃいけないの"と聞く時、その子どもはぬくもりの消えた知識だけを学ばされています。子どもは自分とのつながりを感じていれば"なんで"などとは聞かないのです。おままごとをやっている子どもが"なんで私はおままごとするのだろう"などとは考えないのです。自分とのつながりを感じないものを学ばされているから違和感を感じて"なんで?"という根拠が知りたくなるのです。」森の声さんの「ぬくもりを伝える」ここ数日の日記をさかのぼって、ぜひご覧ください。 どうして人間は、こうもアホなんだろうと、思わされます。発達し過ぎた大脳新皮質のためでしょうか?発達し過ぎたというより、アンバランスなのでしょうね? 自然に立ち帰れば、自ずと見えてくるのにね。
2008.02.21
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「親を選んで生まれてくる子どもたち」という言葉を最初に聞いたのは、寅さんの地元宮城で、シュタイナー教育の草の根活動をされてりる福島玲子先生からでした。 教育内容と同じようにメルヘンチックなことをおっしゃるなあ、って思って聞いていたんですが、先生のお人柄と精神性の高い教育者魂に触れ、敬愛とともに、この言葉は、深く沈んでいきました。 最近のスピリチュアルブームでも、江原さんが、しばしば語られていて、あながち、ウソじゃないんじゃないか、真実かも、って思い出していた矢先産婦人科医の池川明先生の「子どもは親を選んで生まれてくる 」を読む機会を得ました。先生が、多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っていることが書いてあります。そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語るのです。氏は、2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうです。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶では自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐ生まれたということもあるようですが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうです。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。そうなると、虐待を受ける子も自分の運命を予知して親を選ぶのか?!そうなんです。子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もあるのです。また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もあるようです。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるといいます。大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということです。心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話します。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。 科学を指導する寅さんが、こんな話しをするのもどうかな、とは思うのですが、子どもは、親がこしらえたものではない、ということ。そして、どんな障害も、失敗作ではなく、親子に素晴らしい経験をさせようとの、計り知れない愛の計らいなんだということ。何より、子どもに対して「あなたが生きているだけでうれしい、ありがとう。」という気持ちを起こさせてくれる根拠があるように思えます。このことから比べると、学校でのテストの成績など重要度は、相当低いと言わざるをえません。 「究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないか」と、池川氏はおっしゃいます。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されます。つまりどんな環境でも、その人生で心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは今、生きているのだということなのでしょう。そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのない人達なのです。寅さんも、うちの女房のような女性と結婚すること自体、本当に奇跡です。我が子たちは、そこに生まれてきてくれたんですから、当然も当然、私の計らいの範疇を越えすぎています。 寅さんは、こんな好き勝手なことを書いていられるのも、寅さんの、不思議な立場が為せる技であって、ちょっと立場が変われば、もっととんでもないことを言っていたり、ノーマルな面白くない人間であったり、いや、犯罪者であった可能性が高いと思います。 今、こう書いて、これから、生徒達と会うのも、私の力では、決してない。この一瞬、一瞬に手を合わせていきたい。
2008.02.18
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演劇空間のことを書こうと思ってましたが、ハタと気づいたことがあります。森の声さんの「大人になりたくない子どもたち」を読んで、子どもっていうのは、大人の作品なんだろうか?って。 大人がいろんな刺激を与えて、子どもという作品を作り上げていくものなんだろうか?教師は、そのための職人なんだろうか? 昔、子どもは授かり物でした。しかし、今では、作品です。 そこには、すべて「大人が主導である」という原則が流れています。 え? 当たり前じゃないの?だって、子どもは大人が守らなければならいし、子どもは、大人や環境から与えられる刺激によって反射が起き、その相互作用が、意図を生み、成長するんじゃないの? かのピアジェも、子どもは環境から刺激を受けて反応したり学習することによって周囲と相互作用し、その結果発達すると主張してるよ! 今日の教育の土台は、「子どもは、外から受けた刺激や学習によって成熟する。」「子どもは、白紙のキャンパスだ。刺激を与えればどんどん吸収する。」というものじゃないでしょうか。 そうではないのではないか?って研究が積み重ねられています。子どもは、「自発的に」成長する面がある、ということが、わかってきています。そして、自然な発達を無視した過度な刺激は危険だということも。 今まで、子どもの能力を伸ばすために、多くの刺激を与えることが豊かな育児環境であると疑いもなく唱えられてきました。刺激や学習をどんどん与えることで新しい神経回路が作られる、ということで。 ところが、刺激が強すぎると本来バランスよく行われるはずのシナプスの「刈り込み」に支障をきたし子どもの脳に悪い結果をもたらすのではないかとの懸念が、専門家の間で広がっています。 たとえば、ADHD児のシナプスは、健常児よりも多いのではないか、とシナプスの研究をしているハッテンロッカーは考えています。そのために情報処理に混乱が起きているのではないかというのです。 近代は、成長発展はすべて良いものと信じられてきました。だから、学習という「良い」刺激が、マイナスの要素をもっているなんて受け入れられなかっただけなのかもしれません。 そもそも大人の考える「学習」とは何でしょう。大人が好ましいと考える規準に、子どもを合わせることです。そこに合わさせようと、叱咤激励を日夜しています。 もう一度、そもそも、子どもは、大人の作品なんでしょうか?そもそも、大人の私たちは、誰かの作品なんでしょうか? 人生は、私たちが作るものなんでしょうか?それとも、与えられたものなんでしょうか?どう思います?
2008.02.17
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ファーストフード店は、マニュアル人間製造もしてますね。「Aセットを一つ持ち帰りで、袋はいりません。」と店員に告げても、「Aセットお一つですね。こちらでお召し上がりでしょうか?」と来ます。「持ち帰ります。」と再び言うと、今度は、丁寧に袋に詰め始めます。袋は要らないと、言ったのに・・・・・・。 どうして、こんなことが起きるのでしょう?私には、彼女たちが、頭が悪いようには、全然見えません。仕事をサボっているのでもなく、一生懸命に頑張っています。 これを現代教育の弊害にすることもできるでしょうが、私は、彼女たちのマジメさに、落とし穴があると思うのです。彼女たちは、目の前のお客様に全神経を集中するのではなく、自分がやるべき次の行動、次の仕事に意識が行っているのです。自分は、こうしなければいけない、というマジメさが生んだ悲劇です。 もっと、目の前のお客さんに関心をもち、お客とのやりとりを楽しむ余裕があったなら、私の事情もすぐに察して、楽しい挨拶もできたはずです。 でも、人間は、仕事がいっぱいになったり、自分のことで頭がいっぱいになったりすると目の前のことが見えなくなります。 忙しい状況も含めて、目の前のことを楽しみたいものです。 生徒が文章題でひっかかるのも、頭がマニュアル化になっているからということが多いですよね。つまり、目の前の問題を楽しんでいないのです。頭にあるのは、自分の成績なのです。 やはり、成績を意識させずに問題そのものを楽しむ習慣をつけさせたいものですね。特に低年齢の子ほど。もちろん、本当は、受験生も、企業戦士もね。その方が、よっぽど効果があるのに、悲しいかな、ワナにはまってしまいます。 教師として、最も恐ろしいのは、子どものサインを見逃すことです。これも、先生に心の余裕がなく、仕事に追われているときに起こりがちです。 昨日の森の声さんの日記にありましたが、子どもの言語ワールドへの入り口は、「楽しさ」というのが、間違いのないキーワードです。子どもの心を失いかけた大人の一人として、楽しさを軸にして子どもを見る視点だけは、失わないようにしようと思います。
2008.02.13
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遊びの大切さは、「認識」に必要な「ゆらぎ」からも説明できると思います。 人は、ひとつの文字をじっと見つめてみていると、目の前がぼやけてきます。突然大きくなったような気がしたり、視点がぼやけて何も見えなくなってしまったり。 実は、私たちは、固定されたものを、固定された視点で認識することができません。認識するためには、変化が必要なのです。 そもそも、私たちの眼球は、何かを見ているとき、たとえ一点に注意を集中しているつもりでも、無意識のうちに絶えず揺れ動いて、視覚情報は変化しているようになっています。 もし、動きが無いと、最終的には刺激がない状態になり、つまりは、見えなくなってしまうようです。この宇宙は、すべて、どのレベルでも、揺らぎをもっています。特に、1/f 揺らぎが心地よいようです。宇宙そのものが、「ゆらぎ」から生まれたと説明されています。ゆらぎでアンバランスが起きたのです。 ゆれ動き、変化することの大切さは、人生の問題で行き詰まったときにも、当てはめられるでしょう。精神病のほとんどは、意識が固定された状態のようです。 問題に対し、柔軟に、いろんな角度から見るためには、「マジメ」であってはいけません。価値観自体を揺れ動かすのです。問題に飲み込まれてはいけません。 ガチガチの宗教が、周りのことが見えないのは、「マジメ」だからです。ゆらぎが無いからです。 問題の重要性を引き下げるのです。固定された意識をゆるめて、ほどくのです。その上で、新たな結びつきを試すのです。 これができるためには、問題に対して「あそび」の精神で向き合わなければ。「あそび」は、いろんな字や絵でガチガチになった紙を白紙に戻す原動力。白紙の上でなければ、良い絵は描けません。 白紙にさえできれば、どんな絵でも描ける。それは、無限の宇宙と結びつくから。
2008.01.28
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昨日、寅さんが管理するホールでの子どもミュージカル上演中に、観客のおばあちゃんが、急に気分が悪くなり、倒れてしまいました。 急いで、119番した寅さん。いざとなると、あわてて、素直に「救急車」という言葉さえ出てきません。本当に情けない。 もちろん、上演はやめ、みんなで取り囲んで、介抱をしました。 119番って、いろいろ根掘り葉掘り、聞かれるんですよね。そんなことより、早く救急車を回してくれ!って思っていたら、電話を切ったと同時くらいに、もうピーポーピーポー。さすがです! お陰様で、大事には至らなかったようです。ま、これだけは、予想がつきませんからねえ。 それにしても、みんながすべてを捨て置いて、看病に集中するってのも、いいもんだなあ。って、とっても不謹慎なことを感じる寅さんでした。(公演は、30分遅れで、最初からやり直しました。) どんなに大切なものでも、瞬時に捨てられる覚悟の大切さ、ってのを、一瞬、啓示されたように思いました。 そりゃ、一生懸命練習してきた成果を発表するのはとっても意義あることです。でも、これに重要性を置きすぎては、いけないのです。大切なことだからこそ、置きすぎてはいけない。 寅さんがやってる、実験教室だって、子どものために、大切だってことも、意義あるってことももちろん、思ってやってますが、すべては、「お遊び」なんです。子育ては、「お遊び」教育も「お遊び」人生も「お遊び」 この原則を逸脱すると、すべてがおかしなことになります。子どもが育つには、結局、遊びなんです。頭の良い子を育てるのも、結局、遊びなんです。教育のために、遊びを殺してしまっては、本末転倒です。 今、出合った状況に、柔軟に対応できる遊びの心。これこそが、創造性あふれる証拠。アタマを固くする芸術活動というのは、自己矛盾です。 「寅さんが、頑張らなければ、日本の教育は破滅する、」何て考えていたら、アホですよね。おおらかな、遊びの心で、活動させていただくこと。これから脱線したら、自殺と同じですもんね。
2008.01.28
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思いやりは、思いやりを受けた者しか、わからない。思いやりを体験しなければ、人に思いやることができない。 野邊先生からいただいた、「思いやり」これを私は先生に返せない。その分、周りの人、特に、子ども達に与えたい。多くの子どもに与えたい。一人でも感じてくれて、気づいてくれたら、他の子に分け与えるだろう。一人の子に与えることは、宇宙を変えることに匹敵するんだ。 思いやりのバトンをしっかりと渡したい。子どもたちを信じて、託したい。
2008.01.26
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無意識に働きかけたり、感情に働きかけるのはいいのですが、問題は、どんな内容か、です。(昨日からの続きです) ワクワクにも、いろんなレベルがあります。 この社会は、こぞって一人ひとりが自分の利益のために最大限の「努力」をする「競争」によって、栄えていくという前提で成り立っています。 いわば、「エゴの追求」です。これは、教育についても、本音の部分で流れています。 自分が誰よりも、優秀である喜び自分が、誰より強い喜び誰よりも、いっぱいお金を儲けられる喜び誰よりも、いっぱい注目と愛を勝ち取る喜び 確かに、これらも、ワクワクなのです。そして、これが社会を発展させてきたのです。そして、これらは、理性的・知的でさえあるのです。 しかし、これらは、宇宙の法則のごく表面でしかありません。(勝手に断定しちゃいます)浅はかで、限定的な、人間の知性が判断した蜃気楼です。 証拠に、「勝ち組」で、幸福も勝ち取った人はどのくらいいるでしょう? しばらくすると 奮闘努力が、かえって、幸福から遠ざけてしまったことを思い知るのです。 幸福は、教科書に書いてあること、少なくとも受験勉強の論理には、無いということ。そりゃ、受かったときはうれしいし、能力開発できるのもうれしいです。でも、これって、恋愛のときの情熱、幸福感と同じです。すぐに、恋愛の苦しさ、地獄、そして結婚後は、相手のイヤな面が見えてきて、伴侶を選ぶ判断を間違えたと、思うことと同じです。 私たちが願うのは、子どもたちが、「幸せに生きる」ことです。ここのところを、真っ正面から、受け止めるべきだと思います。人から、ほめられることでもありません。スターが幸せな人生を送っていますか?昨夜もテレビで、趣味の悪い成金の番組を流していましたが、もう「哀れ」というしかありません。涙が出そうです。 様々な方が、様々な分野から、この世の究極の原理は、宇宙は、一つの生命体であり、その命の源は、「無条件の愛」であると言っています。科学と宗教も接近してきていますが、結局、そこに行き着くのでしょう。 「無条件」。これは、非合理。不条理。理性が受け入れられないところです。人間の知性は、条件がなければ評価できません。でも、この理性をぶっとばしたものこれが、宇宙の姿なんだとしたら。 これこそ、不思議の原点です。なぜなんだろう?じゃ、私たちが日々努力する意味は、何なんだろう?どんどん疑問が出てきます。無限の不条理の中に、真理はあるようです。 まず、自分を無条件に愛すことができなくては、人を無条件に愛すことはできません。自分と他人は、つながっていて、実は、一体だから。 でも、自分を正直に見るとやっぱり、条件付きでないと愛せない自分がいます。これは、理性がまだ、ガードしてるから。宇宙の根本と一体となって、宇宙イコール自分の本当に自分とつながれば、可能なのでしょう。 世に言う、成功哲学のうさん臭さ。エゴのために、無意識を使うなんて!!最後、ひどい目に遭いますよ。きっと。 逆に、無条件の愛がすべてを生み出しているのだったら、その波動に乗って、人生を生きたら、意図せずに素晴らしい世界が開けることは、当然です。これこそ、信仰というより、物理法則みたいなものです。 ふり返って、寅さんがやってきたこと。このブログもそうですが、うさん臭いですね~。ぷんぷん。売名行為も多々あります。これで、子どもたちに良い影響を与えられるのか? この世の秘密は、悟りを開かない限り、永遠に謎ですが、いろんな方から、いただく、釣り合わない愛情、温情、思いやりに幸せの奥義を垣間見せていただいています。本当にありがとうございます。
2008.01.16
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「センス・オブ・ワンダー」森の声さんから、コメントでいただいたキーワード。 そうです。「不思議感を育てる教育」。欠落している。これに真正面から、取り組んだ研究はあるのだろうか? 通常の教育では、不思議を大切に、と言っても不思議を見つけたら、それが不思議でなくなるようにお勉強しましょう、というものだ。 これは、センスオブワンダーではない。 どんどん、不思議が広がることの快感。一緒に、不思議がる大人がいることの喜び。 これは、幼児期、少なくとも、小学生の低学年までに体験させなければ、身につけられない感覚かもしれない。 中学生になると、もう、この世のことはだいたい「わかっちゃった。」になる。「必要なことは、その都度、調べれば用が足りるもん。」となる。 一見、脈絡はないが、ピンときた言葉。合気道の植芝盛平翁の(合気神髄より)「たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気が吹き上がり、私の身体を包むと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味も分かり、この宇宙を創造された神の心がはっきりと理解できるようになった。その瞬間、私は「武道の根元は、神の愛-万有愛護の精神-である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた・・・・その時以来私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我が物と感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切無くなった・」 武術をやりながら、「強くなろうという執着が消える」 これは、科学をやりながら、この世の法則を全部わがものにする執着を消すことと同じではないか? 霊妙なものに対する、尊敬と感動。 何より、この世に無条件の愛というものがある不思議と感動。 (ちょっと論理はぶっとびますが)この世が意識でできているとすればすべてのことに意味がある不思議と感動。 「不思議」は小さなことの中に見つけやすいものです。しかし、大人になると、視野が広がるので、小さなことが、相対的に小さくなる。(あたりまえ)そうすると、「不思議」が目に入らなくなる。 「不思議」は、あたりまえの中にこそある。宇宙空間が本当は、あたりまえ。地球上の重力の世界こそが、不思議なのに、それに気がつかない。花が咲く不思議。人間が生きる不思議。人間が生まれる不思議。 これから、学校で子ども達と会う不思議。(やや、遅刻だ!)コメントへの返信、今できなくなっちゃった。
2008.01.15
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どうも、子どもの成長にとって、阻害要因は、理性と知性じゃないか????用語に問題があるとすれば、理性と知性に関わる「意識の部分」が必要以上に刺激され続けることです。 現代の学校教育を中心とした、日本の教育界が自信をもって育てた「よい子」たちが、多かれ少なかれ、挫折しているのを見ると、どこか線路が脱線していると疑わざるをえないでしょう。 シュタイナー教育でも7歳までは夢の世界、14歳までは、感情を育てる時期と言っているのを思い出しました。 人間が生きるということは、99%無意識の力に依存しています。目に見えるものだけでも、心臓を動かし、血液で栄養を運び、免疫の働きをし、・・・・・生きるということは、無意識の舟に乗っていることです。こことの関連を考えない、顕在意識の教育は、全体の機能不全をおこしてしまいます。 知性や理性は、人間が生きる上の、極小さい部分なんだということこれを思い起こして、全人的な教育をターゲットにすべきです。 科学史の歴史も、もう一度、学び直してみようと思います。何が、科学を推進してきたのか?常識的には、人間の理性の勝利とみなされていますね。科学の歴史は、宗教の迷信に打ち勝ってきた歴史だと。 しかし、近代科学の誕生も、そのエネルギーの元は、実は、宗教エネルギーでした。ある意味、魔術的だとも言えます。その情熱がなければ、人類は、法則を発見しようとさえしなかったでしょう。理性が先にあったのではないのです。 じゃあ、何と戦ってきたのか?それは、人間のちっぽけな理性に結びついた、「こだわり」ではなかったか?? 私は、科学教室を通して、考える楽しみを味合わせてやろうと思ってきました。でも、何が楽しかったのか?何が子どもたちを惹きつけてきたのか?とふり返ると、理性や知性が打ち負かされる瞬間だったのではないでしょうか?ないでしょうか?って皆さんに聞いてもしかたがないのですが。 いろんな考えがありえて、どれも単純には否定できないこと。この世の真実は、私たちの理性の常識を越えたことが多いこと。だから、狭い知識にとらわれないで、のびのびといろんな想像をしてみることこそ、マジメなことなんだ、何でも考えて(思いめぐらして)いいんだ、っていう解放感。 これは、普通言われている、理科の力とか、考える力というものとも違うと思います。 さらに、ふり返って、現代社会で活躍してきた人。企業戦士でもいいでしょう。そういう人が、知性や理性で、勝負をしてきたのか?違うでしょう! 逆に、理性や知性を働かせないで(コントロールして)感情や感性を活き活きと働かせた人が、活躍できている。 この事実に、教育関係者は、まっすぐに向き合う必要があると思います。 もちろん、バランスの問題です。しかし、どちらが土台か、ということをわきまえれば、授業方法も、教員の適性も、全然変わってきちゃいますよね。 ターゲットは、無意識と感情なのです。知識は、それにオマケでついていくだけです。豊かな潜在意識的なイメージの世界を創るのが、教育です。この「豊かな」という意味には、宇宙全体の無限の豊かさが含まれます。 そもそも、理性の最前線の量子物理学では、因果律が(常識的なレベルでは)通用しないことが、わかっているのです。この宇宙の根本原理が、理性的でない(狭い意味で)可能性が高いのです。 昨日の日記にも書きましたが、保護者・教育者が、わくわく・夢中になって生きている必要性が、はっきりしてきましたね。 すべての授業が、ワンダーランド。学校もワンダーランド。とすると、会社も社会も、人生そのものワンダーランド。 どんどん、ドンドン、イメージを膨らませよう。すべてのものと対話ができるまで。
2008.01.14
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寅さんの中の、思考実験的な試行錯誤です。 現代の社会では、「私」という存在が基本になっています。私を大切にする。私の価値を最大限にする。強い私をつくる。自己を肯定する。これが教育の基本にもなっています。 全く大切なことで、異議をはさむつもりはありません。しかし、世の中がこぞって、強くあれ! 存在意義あるものであれ! 勝ち組になれ!って、意識している風潮の中では、かえって、その逆張りの方が、意味深いような気がします。 もちろん、「強さ」って何を言うのかが問題です。その延長線上の、自己を肯定するって何か、という問題も。 寅さんは、ある人たちを見て、思うのです。 自分が弱いと思ったり、何もできないって思うことも素敵な美徳って言うか、魅力のような気がします。もちろん実際は、この世の中の誰にも役割があり、強さも持っているのですが。それを意識することが、一番大切なことなんだろうか?「自分」を意識するから、人と比べてしまうんじゃないだろうか? 最初から、最後まで、周りのヒトに意識をもっていったらどうだろうか?周りに生かされていることを徹底的に意識する。それを感謝し尽くす。まずは、それだけでいいような気がするのです。そして、私の方から何か恩返ししなければ、と意識した時点から、傲慢さがアタマをもたげてきて、私がしてあげているんだ、ってなってきます。 でも、何かをしてあげてるってのも、幻想なんですよね。実際は、させていただいているのです。じゃ、能動的にすることって無いのか?私は、ただ現状を愛おしむこと。それが自然に何かのアクションにつながるのなら、それでいいし、「愛する」という思いだけでも、十分のような気がします。自分が何か確固たるものをもっていなければ人を愛せないかというと、そうじゃない。自分が何でもないと思うから、愛する意識が生まれるんじゃないかと。少なくとも、真実の愛は、そんなもんじゃないと思うんです。 聖書に「自分の命を差し出す」ことが愛のように書いてあるところがありますがそれも、まだ、「自分」があります。本当に愛すると、「自分」は無くなってしまって、相手だけが存在する世界になるんじゃないでしょうか?対象が人間に限らずですよ。 そして、人間の幸せって、自分が大きくなることよりも愛する対象で意識がいっぱいになって、 自分が無になるところにあるんじゃないでしょうか? 科学的に言っても、そもそも、「私」っていう存在は、様々なモノやコトとの関係性において認識されるものです。いわば、情報の交差点に過ぎない。 我を忘れさせる教育が必要な気がします。 以上、試論でした。この論の欠点はいっぱいあります。相対的なバランスの問題として、とらえてください。
2008.01.09
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病院の医師の激務が報道されています。そのことについて、先ほど紹介した、穂波の郷クリニックの三浦先生に尋ねると「あまり医師に同情しなくていいですよ。」「忙しいのは、専門に凝り固まっているから。他の医師や部門と連携することができれば、相当に解消する。」とのこと。 なあるほど。こりゃ、学校の忙しさにも言えることじゃないだろうか? 専門バカになっちゃうと、目の前の自分の担当こそとっても重要で、代替が効かないように思っちゃうものです。 しかし、世の中、絶対にはずせないもの、取り替えのきかないものって、あるでしょうか?百歩譲って、あったとしても、背景が変われば、不必要になるものばかりです。 本当の障害は、本人のこだわりの意識でしょう。 もちろん、組織員としては、上から言われたことは、問答無用で受けなければなりません。しかし、その大義名分に飲み込まれてしまっては、本末転倒。 何より身を滅ぼします。 外面は、従順に従っても、精神は、かる~いお遊びのノリでいるのが本人にとっても、組織にとっても最も良いのだ。 常に違う考えもあることを意識すること。一つの平面上をマジメに突き進むと、必ず行き詰まる。問題解決というのは、別の平面上に出ることを言う。 って、最近思うんだなあ。 軽く考えることが、大切だよおお。大事な問題ほどね。
2008.01.07
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あけましておめでとうございます。幸せなお正月を過ごさせていただいています。 ところで、今年のテーマは「頑張らない」です。先日は、「マジメに生きる」という言葉を使ったりして、誤解を生みますよね。言葉ってのは、難しい。と言うより、言葉ってもともと、魔法の呪文だったわけで、謎がつまっていていいんだと思います。 「頑張らない」ってどういうこと?人間のちっぽけな理屈にとらわれないということです。「これをやらなくちゃ、日本の教育はお終いだ」、なあんて考えないってこと。 もっと、簡単に言いますと、寅さんは、やっぱり「フーテンの遊び人」だってこと。で、何が、マジメな生き方かっていうと、「楽しさ優先主義」に徹するってことです。 子どもたちを教化しようとか、感化しようとも思わない。結果としてそうなるのは、いいですが。 これって、普通、「不真面目」な生き方ですね。こんな私ですが、使いようによっては、役立つかもしれません。今年もよろしくお願いします。m(_ _)m
2008.01.01
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今年は、寅さんにとって、転機でした。私の努力によるものではなく、いろんな立場の方々に支えられて実現した転機です。 NPO関係の皆さん、教育委員会の方々、学校の職員の皆様、PTA・保護者の皆様、公民館・児童館の皆様、子育て関係の皆様、そして、子どもたち。君たちの笑顔は、宝石よりも美しい。そして、そして、家族。女房。 どれ一つ、歯車が狂っても、寅さんは、ここに存在していなかったでしょう。おっと、このブログでつながっていただいた皆様のお力もあったればこそです。 私の能力は、私の物ではないと、思います。ときどき、自分の力だと思うと、恐ろしくなって、肩が凝るんですが、もともと、小さい意味の自分ではありません。もっと大きなものから来る、素晴らしいパワーです。 だから、毎日活動している、大きな意味での自分を拍手して、誉め称えてやらなくては、と今日反省してました。 大きな自分にブレーキをかけているのは、小さな自分ですから。 プラス思考よりも、楽しさ思考で、めくるめく平成20年にしたいと思います。皆様の上に、さらなる幸せな新年が来ますように。ありがとうございます。
2007.12.31
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笑顔に自信をもっていた寅さんでしたが、意識しないうちに、知人に激写してもらった、写真集を見て、衝撃を受けました。そりゃ、笑顔もありますが、8割は、暗い、疲れた顔です。え~? これが? しかし、これが真実なのでした。 人に囲まれている時ですら、こうなのですから、一人でいる時なんか、もう悲惨です。 でも、逆に希望が湧いてきました。まだまだ、笑顔(活き活きとした表情)を広げる余地があるってことが、わかったからです。 私は、「笑顔というより、活き活きした表情」=感動 だと思っています。どんな小さなモノゴトにも、感動する人間でありたい。これこそが、マジメな生き方だと思っています。 今、こうして、一人でパソコンに向かっているときも、この環境に、心から感謝し、感動することが、本来の姿のはずです。全世界に情報発信なんて、こんなスゴイこと。 ブログは、いろんな気づきを与えてくれて、いろんな、人とのつながりを作ってくれる。目がキラキラで、当然ですよね。 もし、本当に、「マジメ」に生きたら、スゴイことになる予感がします。「実験」をするぞ!
2007.12.29
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