古山明男さんのブログ「変えよう日本の学校システム」
の中の
子どもたちが威圧されていること
に全く同感いたします。
いつものsatomutaさんのご紹介です。
本当にありがとうございます。
以下、引用です。
教育でいちばん大事なことは、
子どもが取り繕わなくて済むことだと思う。
分からないことは分からないと言い、
木登りして落ちても叱られないと感じていることだと思う。
普通の学校にこれが乏しい。
先生たちがあたりまえと思っている学校文化は、
子どもたちを威圧して成り立っていると思う。
このことの実証的なデータをとりたいが、
学級内に入って観察はできないので、
私が述べるのは、学校外で子どもたちと接することからの推論である。
とくに重要なのは、学校に入学しての、最初の2週間くらいである。
ここが決定的な時期である。
この間に、生徒への威圧が起こっていると思う。
あの「生徒一同、起立!」」というような号令体質。
教室で、なんとか座らせておこうとするための、
さまざまな精神的罰、はずかしめ。
「生徒になめられないようにしよう」とする、
先生たちのさまざまな工夫。
一罰百戒をねらった叱責。
これらが、教育機関を成り立たせるための最低線を超えてしまっていて、
子どもたちに無用の怯えや緊張をもたらしているのだと思う。
もっとも手こずる子どもたちでも
おとなしくなるようにできているのだから、
気の弱い子どもたちには、大きなストレスになる。
このストレスは、先生からは見つけにくい。
学校では良い子にしていて、家に帰ってきたとき、
親に対するぐずりやわがままになるのである。
子ども本人も、その理由はわからないままやっている。
親も原因がよくわからないまま、手こずるのである。
親戚、知人の子ども達が育つのをずいぶんと見たが、
例外なく、小学校に行くようになると、
大人の話に素直に耳を傾けなくなった。
揚げ足取りや茶々を入れるのが多くなる。
話を逸らせるのが多くなる。
強い刺激で振り回してもらうような遊びを好むようになる。
おおむね、子どもたちが騒々しくなる。
こういうのは、恐怖があったり、威圧されてしまったときの、
二次的な症状だ。
荒れ、すさみの症状の一つだと思う。
この状態の中で、単に、子どもを自由にしようとか、
のびのびさせようとすると、収拾のつかない状態になりやすい。
学級崩壊は、自由主義型の先生のほうが起こりやすいものである。
二次的な症状が出て来たのを、
"元気な子どもたち"と捉えることが多いが、それは違う。
子どもがほんとうに元気なときの特徴は、
一心不乱さと、天真爛漫さのようなものだ。
安定した子どもは、事物だろうが、大人の話だろうが、
注意力のすべてを傾けてその中に入り込んでくるものだ。
そのときに学びがあるし、
その学びは人間全体に深く染みこんでいくものである。
テストで、期待された答えを出すのとは違う、
もっと深い学びである。
天真爛漫さは、
いっさいの先入観がないときに現れる。
それは、権威、権力による圧力が痕跡を残していないということだ。
小学校に適応できるようにするために、幼児教育が訓練的になる。
中学校に適応できるようにするために、小学校教育が抑圧的になる。
逆だと思う。
適応しなければならないのは、
小学校や中学校の学校文化のほうだと思う。
その文化は、当たり前の空気になっていて、
先生たちが気付いていないと思う。
その背景にはまた、
授業遂行が至上命令となっている官僚機構的学校がある。
学校は、教育学や子どもの研究をもとにして作られたのではない。
官僚機構が、国家や産業の発展のために訓練的な教育機関の法律を作り、
施設を建て、人を雇用して運営させているものなのである。
以上です。
昨年の「文字」は、「偽」でしたが、
この偽という字、良く見ると、
人の為にすると書きます。
自分の楽しみのため、自分の本当の意欲ではなく、
人に良く見せるため、よく評価されるために頑張るのも
偽なのだと思います。
ということで、学校は、偽を作っているんだなあって、
最近、教会の牧師さんから教えられたところです。
↓教師の科学観・教育観を問う問題の後半をアップしました。↓
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