教室の中の出来事は、すべて教師に責任があるんです!
これは、もちろん、客観的なことではありません。
でも、これは、魔法のような効果をもたらします。
子ども様子は、すべて、すべて、親の責任です。
こう考えた方が、事実はどうであれ、幸せへの近道です。
(と思います。)
この世を楽しくする魔法は、独我論・唯我論にあるような気がします。
独我論って?
説明面倒なんで、Wikipediaからでも、調べてみてね。
つまり、ふつうの常識人間は、事物を認識するとき、
何らかの客観的な事物が存在し、
感覚器官を通じてその事物が意識の中に現れると考えます。
例えば、「私はリンゴを見ている」というとき、
私の認識とは無関係に存在する客観的なリンゴがあり、
私の視覚を通じて、私の意識の中に、
主観的なリンゴの形や色が現れる。
これが、事物を説明するにあたっての常識的な考え方です。
これに対して、独我論は、
私の認識とは無関係な事物の存在を否定するのです。
リンゴが存在するのは、私が認識しているときだけであり、
私が認識を止めると、リンゴもまた消滅する
(見えなくなるのではなく、存在しなくなる!)。
全ては私の意識の中にのみ存在し、
私の意識を離れては何物も存在しないのです。
これが独我論の基本的な世界観です。
このような一見突拍子のない発想には、
結構な根拠があります。
普通、私が認識しようとしまいとリンゴは存在する、と言いますが、
「私」はそのことを論理的には証明できないのです。
なぜなら、認識の前に存在するリンゴを認識することはできないからです。
いかなるリンゴも、私の認識後にのみ存在するのであり、
認識されていないリンゴについて何かを説明することはできないからです。
これには、いろんな批判がありますが、
一面の真理であることには、違いないでしょう。
実は、もう一つの側面、
私の嫌いな、スピリチュアルな面から、
なぜか、ビビっと来るものがあったのです。
『ホ・オポノポノ』という究極のハワイアンヒーリング法、知ってます?
これは、相手の事を考えながら自分に向かって
『 I am sorry 』、『 Thank you 』、『 I love you 』を
心の中で繰り返すというものです。
この方法で治療をした結果、
何故か病院の患者(精神病)が、治ってしまうそうです。
詳しくは、これも自分で調べてみてね。
ここで注目すべきは、
患者には、一切、接触しないんだそうです。
『 ごめんね・ありがとう・愛してますよ 』を
相手のことを思いながら
心の中で繰り返すだけで、
自分と相手が同時に癒されるという
簡単なこのヒーリング法
私は、なぜか、妙に納得してしまうのです。
これまでのアファメーションやヒーリングは
相手を何とかしようと思ってやっているから効果がなかったのです。
自分の中に問題の要素がある。
癒されるべきものがある。
実は自分にこそ、フォーカスすべきだった...という気づきです。
この手法は、我々の常識とはまったくかけ離れている様に見えます。
そこでは、自分以外のこの世界のすべては、
別の次元にある私の魂が作り出した幻想であり、
自分に責任があると考えるわけです。
例えば、もしも今、自分が誰かのせいで嫌な気持ちになり、
それは当然癒されていない感情なので、
通常は相手を変えようとしてあれこれ考えたり行動しますが、
そうではなくて、
まず自分の中のそのマイナス感情を癒すことを試みるのです。
そうすると結果的に世界が=相手が癒されるというのです。
このとき必要なのは、
ただ、「ごめんなさい」、「ありがとう」、「愛しています」と
心の中で繰り返すだけでいいんだそうです。
ここでは、もう誰かを変えようとか癒そうとする必要はありません。
ただ、自分の中のマイナス感情を癒すだけでいいのです。
自己のマイナス感情が癒されたときに、
結果的に世界は癒されることになります。
やっぱり、人に怒ったり、非難するのは、ダメですね。
もちろん、ダメはダメで、否定すべきは否定し、
ぶっつぶすべきは、ぶっつぶすんですが、
日本の教育制度も、どこか山奥の学校の問題も、
すべて、科学寅さんのせいだ、と考えると、
何より私が成長できるし、なぜか、相手も癒されていくような気がします。
これは、全く科学的じゃないですよ。
ただの、自分の心が元気になる、呪文みたいなものです。
少なくとも、対立軸ではなくて、
創造軸で、モノゴトを考えている自分に気づくのです。
そして、創造は、楽しいお遊びです。
私は、学校文化の、「こうあらねばならぬ」というのが大嫌いです。
ところが、学校の問題点を指摘するのに、
この嫌いな学校のルールを使って、闘ってるんですね。
何てバカなことをやってるんだろう。
特定の先生を非難するのも、
学校教育を批判するのも、
「ねばならない」を使っている自分がいます。
これには、自分でがっかりしてしまいます。
私は、生命って、そんなもんじゃないって思うんです。
そう、理屈じゃなく感じるんです。
そもそも、どうしようもないのが、人間です。
その、アホらしさ、を楽しむ以外にないじゃないですか。
極端な話しですが、
たとえ、ヒトラーのような人が出て、
虐殺を行っているとして、
それを阻止しようと、全力を尽くすのは、当然ですが、
(その場に立たなくては、できるかどうかは、わかりませんが、)
できれば、怒りではなく
楽しみながらレジスタンスをしたい。
ディズニーランドで遊ぶテンションで
レジスタンスをし続けたい。
人が殺されるのは、当然、悲しい。
しかし、そういう時代に、生きて、
活動できること、その命を讃美したい。
レジスタンスができることを、
冒険ゴッコとして
遊びつくしたい。
どんな事にも、瞬間、瞬間、
最大限、全力を尽くして
楽しみながら、生きていたい。
この瞬間で人生が終わってもいい
くらいの、瞬間に生きるものでありたいなあって。
例の問題が、もし表面上、片付いたとしても、
でも、根本的な問題は、さらに、ドーンと、
かえって眼前に迫ってきます。
でも、それで、敗北とも思いません。
また、正義は我にあり、とも思いません。
勝ち負けを考えるような、
そんな狭い世界では、この世はありません。
どんなところからも、
楽しいことは、い~っぱい作れるのです。
私は、カンボジアのストリートチルドレンの
笑顔。
あれが基本だと思います。
東大を出ても、自殺をする人がいる。
なら、ストリート・チルドレンの方が、断然、幸せではないか?
社会体制や、指導者の愚劣、
それへの批判は、手抜きはできませんが、
その再創造のエネルギーの素は、
輝く笑顔でありたい。
どんなドロドロとしたところからも
生まれてくる、笑顔。
これがエネルギーの素でなければ、いけない。
(あ、また、ねばならない、を使ってしまった!)
愚劣さを包み込んだ、楽しさを
いつも味わっていたい
と思います。
いや、愚かだからこそ、楽しめるのかもね。
私がどんな人間か、ってのも、
私にとっては、どうでもいいことで、
ただ、楽しんで熱中しているかどうか
だけが、関心でありたい、という心境です。
人間は、無限に楽しいことを、紡ぎ出せるんですから。
楽しさの伝染病 2009.08.06
自分を好きになる難しさ 2009.07.21 コメント(4)
PR
Freepage List
Category
Comments