一国の首相が、状況が想定外だからと、辞任してしまったり、
離党すると宣言した人が、翌日、「やっぱり離党しません。」なんて、
常識ある大人のイメージからは、ズルイ、卑怯と思ってしまいます。
これは、子どもの世界も同様で、
やっぱり、「尊敬すべき大人は、自分の世界観、人生観の
自説を確立して生きるべきで、
成熟した人間は、軽々しく自分の意見を変えるものではない」
と、子ども心にも、思っているようです。
で、子どもたちだって、自分を立派な人間だと思われたいようで、
授業の中でも、予想や意見の変更には、こだわってしまいます。
しかし、学習するってことは、自説を強化するだけではないはずで、
マジメに学ぶ人ほど、新しい世界に遭遇するはずです。
そうして、進歩していけば、当然、意見が変わるのです。
もし、幕末に、尊皇攘夷を貫き通していたら、どうなったことでしょう?
意見の変更が裏切りだと、ずっと負い目を追っていく社会というのは、
良い社会でしょうか?
それは、一昔前の社会状況です。
すなわち、意見が、特定のグループの利益を代弁していた時代の話です。
利益代弁者ではなく、社会の真理・社会の法則を追究しなければ、
結局、利益になると思って活動したのに、
反対の結果をもたらすことも少なくありません。
で、真理の追究のためには、
いろんな意見が自由に出される環境が必須です。
その意味で、自分の意見もコロコロ変われる環境が、
どうしても必要なのです。
政治家の社会への公約というのも、重いものです。
ですが、誤りに気づいたら、素直に予想変更し、
意見修正できることこそ、21世紀には、大切な資質だと思います。
意見変更を認める風土作りは、
学校での教育現場から、育まなければなりません。
クラスでも、誰かが、思い切って、
「僕、予想を変える」と発言すると、
そのあと、何人もが雪崩を打ったように、
予想変更に手をあげます。
誰ちゃんが、意見を変えても、非難されなかった、
という事実を確認すると、
安心して、立場を変える者が続出するわけです。
もちろん、そんな時、人の顔色を見て、
自分の立場を変える子どもが、必ず出ます。
正義感の強い先生は、
そういうのを、ズルイ!と、思ったりしちゃいますが、
私は、そうではないんじゃないか、と思います。
自分で判断がつかないことって、確かにあるわけです。
そういう時、多数派につく、というのも、
立派な判断でもあるわけです。
また、誰ちゃんの意見に従うというのも、
その子なりの考え方なのです。
我々大人だって、同様の判断をしているわけですから。
しかし、授業の中で、実験してみた結果、
多数派の予想が間違うことが、しばしばだ、という事実に何度か出会うと
最初に、自分の頭で考えた予想にしておけば良かった、と悔やみます。
そして、自立した意見をもつようになってくるのです。
日本のこの混沌とした状況というのは、
私は、決して、悪いもんじゃないと思います。
もっともっと、みんな悩んで、政治家ひとりひとりが
自立した意見をもつようになるまで、進歩していって欲しいと思います。
その方が、これから、未体験の問題解決にあたらなければならない日本にとって、
単に安定した政治状況よりも、危機を乗り越えていく、
そして創造的な社会を作っていく可能性が高まると思うからです。
いつもの、ヒネクレ意見でした。
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