先日、チリの鉱山からの救出劇のとき、
ラジオで、これにちなんで、「栄光への脱出」のメインテーマが
流されました。
粋なことをやるな、と思ったのですが、
パットブーンが甘美に歌う歌詞を聞いて、
ゾ~っとしてしまいました。
This land is mine.
God gave this land to me.
This great and ancient land to me.
And when the morning sun reveal her hills and plains,
then I see a land where children can run free.
So take my hand and walk this land with me.
And walk this golden land with me.
Though I am just a man when you are by my side
with the help of God I know I can be strong.
To make this land our home
if I must fight,
I'll fight to make this land our own until I die,
this land is mine.
こりゃ、こりゃ、「出エジプト」じゃないか?!
そして、明確に、露骨に、他国の侵略を宣言した歌じゃないですか!
私は、この映画を見たことは無いので、
ネットで簡単に調べたら、現代のイスラエル建国の映画化だそうな。
ちょうど、先日、生徒に、「十戒」の映画をちょっと見せたばかりだったので、
あの精神が、脈々と受け継がれていることに、
私は、改めて世界の歴史を思い、戦慄を覚えました。
私は、もと、クリスチャンだったので、常識ですが、
聖書になじみの無い方のために解説しますと、
もともと、あのイスラエルの土地は、ユダヤ人の土地ではなかったのです。
モーセが神様から、言われたので、奪いに行ったのです。
これらは、出エジプト記や申命記やヨシュア記や民数記を読めば明らかです。
あそこは、そもそも、先住民カナンの人々の土地なのです。
それを、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」
などという手前勝手な理由で侵略したのは
聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」であることは、
客観的な事実です。
自己防衛戦争を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々です。
それは、聖書を読んだだけで、繰り返し繰り返し耳にタコができるほど語られているので、
誰にもわかることです。
でも、これも、神様が命じたことだから、正義に戦いになってしまうのです。
次のように
「 あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、
多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、
ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、
すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、
あなたの前から追い払われる時、
すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、
これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。
彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。 」
(申命記7章1~2節)
あれ? キリスト教は愛の宗教で、
右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、という非暴力の宗教なのではなでしょうか?
無条件の愛に多くの人が魅力を感じているのではないでしょうか?
ところが、です。
その神様が、侵略せよ!
人を殺せ! と命令されると、
信仰者は、全知全能の愛の神様が命じるのだから、
不完全な私の考えでは、到底及ばない、
深いお考えがあるのだろう、と思考停止をしてしまい
簡単に、殺人マシーンに変身してしまうのです。
これは、オーム真理教の事件で、
麻原の殺人命令を、神の深いお考えだと信じた
高学歴の若者が、正義や愛の名のもとに、犯していった犯罪と
根本的に、全く同じです。
神の命令によってなされる殺人は「正しい殺人」になるのです。
旧約聖書と言えば、世界の三大宗教の、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典です。
その聖典が、神自身の殺人や戦争や略奪を明確に書いているのですから
世界の宗教史において、殺人や戦争や侵略が正当化されてきたことも
不思議でも何でもないでしょう。
十字軍戦争はもとより、
北米大陸へ移住してきたピューリタンたちが、
先住民たるアメリカン・インディアンたちを虐殺して、
合衆国を建設してゆく過程のなかで、しばしば自分たちを
モーセやヨシュアに率いられてカナンに侵入していったイスラエル人になぞらえて、
自分たちをあたらしい神の選民「新イスラエル人」と自称して、
新国家建設(先住民文明壊滅)にいそしんだのも、このためです。
もちろん、人間には戦わなければならない時があります。
しかし、どんな時にも、そこには躊躇というもがあります。
それは、複数の意見・考えを思いめぐらすからです。
敵の兵士にも家族があり、ドラマがあるんだろうなあ、なんて。
ところが、そういう自分自身の思考回路をストップさせてしまう
魔力が信仰にはあります。
これは、つきつめると、人間的な判断よりも上位にあるものを置き、
そのもの(しばしば神ですが)の意思を先行させる考え方にあります。
敬虔で謙虚な信仰者は、常に、
自分の「人間的浅はかな判断」や
「おのれの小賢しい知恵」を捨てることを求められます。
科学は、本当の科学は、この
人間的な浅はかな判断を大切にします。
小賢しい知恵の積み重ねこそ、未来を切り開いてきたのです。
21世紀の現代、まだまだ、思考停止になっている国や場面が
いっぱいあります。
日本の私たちの生活にだって、ゴロゴロしています。
中国の学生を笑ってばかりはいられません。
相手の思考停止には、こちらも思考停止で応えるのではなく、
「神の勝利」ではなく、「人間の勝利」を目指したいものだと思います。
昨日は、小学校が振替休日だった関係で
科学寅さんは、大忙し。
ダブルヘッダーで、だいぶダイエットになりました。
ありがとうございます。
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