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連休から、さっぱり更新できなくてすみません。私は何度も、教育の「押しつけ」のいやらしさと、危険性を書いています。先日、森の声さんから、教育とは何かという羅針盤が必要だ、とコメントをいただきましたが、全くその通りだと思います。 教育とは何か、人は人をなぜ教育するのか?人が教育されるとは、どういうころなのか? これを根本から問いなおしていくと近代国家が作ってきた「学校」というものの意味を根っこから問い直すことになります。 近代国家の学校では、どんなにキレイ言を並べても成績で子どもを評価する一定の尺度があります。そして、それは、国家建設のために有益な基準につながっています。(実は、その実態は、すごく薄っぺらなものなんですが) その尺度から言えば、知恵遅れなどのハンディキャップをもった子は、役に立たない子という評価をどうしても与えられてしまいます。(表立っては言ってはいませんが)そして、福祉の世界に飛ばされてしまいます。 こんなのは、本来の教育ではないことは、明々白々です。根っこから間違っています。(と言っても、明らかだと思うのは、この科学寅さんだけ?) 学校は、これこれを学びなさいと、一定の課題を与えるわけです。その選定自体に、大人の価値観や効果評価が、 当然入ります。しかし、この全体、複雑にすべてにつながった「ホール」の宇宙において、より善いカリキュラムの基準なんて、無限大にあるわけです。 少なくとも、子どもの数以上にあります。それなのに、全国一律なんて、押しつけでないわけがないでしょう? 自然な人類の成長から観れば、学校というのは、と~っても特殊な色眼鏡で子どもを見るところです。そして、大人たちは眼鏡をかけていることに気づきません。これこそ、最大級の押しつけです。 なぜ、押しつけが危険なのか? まず、押し付けられたものは、やる気を奪うからです。また、一つの色眼鏡だけで、子どもを見ることは子どもの潜在力を殺し、成長する力を奪うからです。それぞれの子どもの固有の成長力に沿っていません。 偶然、(突然ですが)youtubeで、「特攻隊」の映像を見てしまいました。讃美する人が多いんですね。深く、深く考えさせられます。 あれを飛ばさせた指導者も、乗り組んで行った若者も、みんな近代国家の学校が作ったのです。彼らの悲劇を無駄にしてはいけない義務を私たちはもっています。(彼らに続けという意味ではありません!) 特攻隊は、決して、現代には関係ないこととは思えません。 一人一人の国民を幸せにするために、国家を強くしようとしたはずが、いつの間にか、本末転倒になってしまったのです。 国を守るのは、当然と言えば当然ですが、 (単純な戦争反対は言いません)国力が劣っていれば、特攻しかないという何と貧困な単一発想しか浮かばない、そういう教育を学校はしてきたわけです。 もし、本当の教育力があれば、非常事態に際して、さまざまな解決策を出し、また、多様な議論をしたはずです。 実際、戦争に負けて、日本は実質的に勝ったようなものです。勝利の道は無限なのです。 押しつけを基本とする学校教育は、優等生に、自分は「物事がわかっている」という錯覚を与えます。これは、このように見るべきだ、と一つの基準をもって安心させてしまうのです。 学問の基本は何でしょうか?それは「ソクラテス」の言うように「無知の知」です。自分は何も分かっていないことを認識することです。だからこそ、いろんな意見を求めるのです。自省をして、多角的な意見を求めるのです。 ところが、学校秀才になると、自分の判断に自信をもち、それにとらわれ、多角的なものの見方ができなくなります。そして、他人にも、それを「押し付ける」ようになります。 私は、明治国家が、軍備拡張に励んだことを非難はしません。世界情勢から、日本の置かれた立場を考えれば致し方なかった。しかし、一つの成功体験から、単一思考になっていく姿そして、そのお先棒をかつぐ「教育」 そもそも、(話は前後しますが) 教育は国家や政治と切り離されるべきことです。教育は、人が人として生きる意味そのものです。もちろん、国家の影響を拭うことはできません。しかし、国家は、あくまで個人のサポートに徹するべきであって、国家のためというテイストを出した途端に、おかしくなります。「学問の独立」は、お題目ではありません。重大な理由があるのです。 国家は、いろんな多彩な教育を自由に選べるようにサポートするだけでいいのです。 それは、結局、国家のためにもなるのです。なぜか?戦時中の硬直的な単一思考が招いた悲劇を思い浮かべれば わかるように、あの当時以上に、現代は、問題が複雑です。何が正義かなんて、簡単に割り切れません。多面的なものの見方ができることすなわち、多様な考えの人材を豊富にもっていることこそ、危機対策なのです。すなわち国力なのです。 何が正しいのか、専門家でもわからないのですから、人それぞれが、それぞれの天分において、それぞれの道を歩むべきなのです。 そうでないと、みんなが同じ方向に歩むと、「全滅」の危険性が増大するのです。 話は、最初の問題にもどります。教育とは何か?私もまだ、一言では言えません。が、少なくとも、ハンデキャップをもった子どもたちを、劣った人たちと見る世界ではないことは、確かですね。(キレイゴトではなくですよ)福祉政策の問題にしている限り、教育は教育とは言えないはずです。 当然、社会の金銭面からの尺度からも自由であるべきです。 確か、ねむの木の宮城まり子さんも、この怒りから、思わず学園を作ったのでしたっけ。 私は、多様な意見の大切さに気づいてもらうために、科学実験教室を今日もやっております。
2009.09.26
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「俺は人を殺すことなんて、どうってことないと思う」こんなことを言う少年に、何て言ったらいいのだろう?本心は、もちろん、人を殺したいということじゃない。それだけ、自分の心は、痛んでいるんだ、ということをアピールしたいのだ。 教室を抜け出し、校舎を破損して回る子廊下に寝そべる子 みんな、その行為自体が良くないことは、十分にわかってるんだ。その上でやっている奥の心を理解してやらなければならない。 人間は、どうしても、自分の思考フレーム(常識)から自由になることが難しい。その現象が受け入れられないものだと、すぐ否定しまう。我をふりかえって、素直に気持ちを表現していただろうか?裏腹のことばかりしてきたじゃないか。 大人は、子どもに気遣うということが少ない。だから、言葉や行為の奥を読むという一歩踏み込みが足らない。 奥を読むどころか、踏みにじることの方が多い。子どもにいかに敬意を払うかなのだ。私も含め、肝に銘じたいと思う。
2009.07.28
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ここ、3日間、猛烈に忙しく(言い訳)更新できませんでした。中身がとっても濃く、いっぱい書きたかったのですが、書きたい時に、書けない。何とか、日常的に書けるように習慣づけようっと。 その一つ。例の反抗性障害の子ですが、昨日も、いや~な空気が、教室を覆っていました。 私は、休み中に、ひらめいたのです。彼の世界を見るのをやめようっと。 そして、私の楽しい世界・ワールドをガ~ンと確立して、その世界に子供たちを招きいれようっと。招くってのは、格好いいのですが、こっちの世界に心を拉致しようって、覚悟を決めました。 そして、突然やってきましたチャンス。理科の授業をやらせもらいました。 そしたら、そしたら、授業をリードするカタチで乗ってくるのです。 そもそも、珍しいことには、関心を奪われてしまうのがADHDですから。当然ですね。 あのとき、私は何も実験道具を使いませんでした。ただ、みんなの脳みそに働きかけただけです。 これは、授業だからではありません。日常で、すべて、こちらの世界を確立すべきです。見たくない世界に、わざわざ注目する必要は無いのです。それは、現実から目をそむけることとは、違います。「現実」を「創って」しまうのです。 つづく。(別の記事にするかも)
2009.05.26
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昨夜もテレビで、「片付けられない女」、(女だけではありませんが)の特集がされていましたね。 科学寅は、ADHDの子には、ずいぶん慣れて(?)いるつもりで、忍耐力も・理解力もあるつもりでした。そして、先日も、この日記で、もっともらしいことを書いています。 しかし、昨日、私はある子に暴力を伴いながら、ひどい説教をしてしまいました。全く、お恥ずかしいことです。本当に私は未熟です。きっと、その子は、それでも、今日はケロっとしているだろう。心の奥底では、傷を負いながらも。 その中学生は、実は、まだ正式な診断を受けていないのですが、典型的なADHDです。この子をそう言わずに、誰を言うのか、ってもんです。本当は、素人の診断は禁物なのですが、その前提で臨まないと、彼にとっても、周囲にとってもとても悲惨なことになってしまう。 「何で、病院に連れていかないんだ!」素朴にそう思います。これは、明らかに親の責任です。ご家庭にも、いろんな事情があるのでしょうが、親の責任とは、そこにこそ、あるんじゃないでしょうか? 彼の場合、何より問題なのは、二次障害を起こしていることです。 子どもが抱えている困難さを周囲が理解して対応しきれていないために、本来抱えている困難さとは別の二次的な情緒や行動の問題が出てしまうものを、二次障害といいます。 うつ病になる子もいますが、 その子に場合は、典型的な反抗挑戦性障害です。自分にとっていいことであるとわかっていながら、まず、反対してしまうのです。とにかく周囲に対して挑戦・挑発的で、反抗的な態度・行動を当然のようにしてしまうものを反抗挑戦性障害と言うそうです。反抗期の限度を明らかに超えた行動です。 そして、彼の場合、すでに反社会的行動をとってしまう「行為障害」にまで発展しだしています。人や動物に対する過度の攻撃性や暴力、重大な規則違反などです。 もはや障害ではなく、「非行」とほぼ同義で扱われるものになってしまいます。 このままでいくと、「DBD(破壊的行動障害)マーチ」や「反社会性人格障害(ASPD)」へと発展する可能性すらあると思います。 もっと早い時期に手を打てなかったのか、とつくづく思います。教師とすれば、その子も大切ですが、周囲の子を守ることも、さらに大事です。いざとなれば、腕力ででも止めなければなりません。 その子を叱りとばすシチュエーションも、できれば、他の子に見せたくはありません。 怒らなくてもいい場面設定を作るしかない。 彼が、非行に走る前に舞台環境を整えなければならないのです。 これは、とってもチャレンジングなことで、私にとって、最高の修行の場なんだと思います。 しかし、彼のことを専門に考えられる先生ばかりではない。いろんな場面が次々、発生する。 このまま、適切な理解の下で十分かつ適切な指導・療育が受けられないと、彼の治療は(もう、私の頭の中は、教育というより、治療ですが)困難極まりなく、また予後不良という悲しい状態になってしまいます。 一刻も早い、診断と、投薬が必要だと、つくづく思いました。その方向で働きかけようと思います。 また、学校だけ、家庭だけでもその重荷をかかえ続けることが、実際問題、困難です。困難なのに、悲鳴を上げないことは美徳でも何でもない。責任感というものは、たいへんな時には、SOSを発することです。 そういう意味で、地域社会の協力も必要で、そのモデルが、在宅緩和ケア支援センターのボランティア育成に見ることができると思います。そちらに、医療から見た、ボランティア育成を書いていきたいと思います。
2009.05.21
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先日の「ほめて育てる」ことの根っことしてとってもピッタリの手紙(ストーリー)を見つけましたのでご紹介したいと思います。これは「鏡の法則」の野口嘉則氏が知人の話を、若干ストーリーを変えてムービーとしたものです。youtubeでもアップされています。『心眼力 ~柔らかく燃えて生きる30の智恵~(CD付)』の発売を記念して制作された動画の中のメッセージです。「鏡の法則」は宗教のようだと批判があることは承知しています。たしかに、反証が可能なことではありません。ですから、少なくとも科学的な法則ではありません。しかし、現実、私たちが生きていく上では役に立つ「仮説」も、どんどん使って今を生きていかなくてはなりません。その意味で、あくまで宗教に一歩踏み入れた仮説としてとらえれば、とっても意味のある「法則」ではないかと思います。少なくとも、これで、営利を得ようとしなければ...ねでは、 僕を支えた母の言葉僕が3才のとき、父が亡くなりその後は母が女手ひとつで僕を育ててくれた仕事から帰ってきた母は疲れた顔も見せずに晩ごはんをつくり晩ごはんを食べた後は内職をした毎晩 遅くまでやっていた母が頑張ってくれていることはよくわかっていただけど僕には不満もいっぱいあった僕が学校から帰ってきても家には誰もいない夜は夜で 母は遅くまで内職そんなに働いているのにわが家は裕福じゃなかった遊園地にも連れて行ってもらえないゲームセンターで遊ぶだけの小遣いももらえないテレビが壊れた時も半年間 買ってもらえなかった僕はいつしか母にきつく当たるようになった「おい」とか「うるせー」とかなまいきな言葉を吐いた「ばばあ」と呼んだこともあったそれでも母はこんな僕のために頑張って働いてくれたそして僕にはいつもやさしかった小学校6年のときはじめて運動会にきてくれた運動神経が鈍い僕はかけっこでビリだった悔しかった家に帰って母はこう言った「かけっこの順番なんて気にしなくていいおまえは素晴らしいんだから」だけど僕の悔しさはちっともおさまらなかった僕は学校の勉強も苦手だった成績も最悪自分でも劣等感を感じていただけど母はテストの点や通知表を見るたびみやっぱりこう言った「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」僕には なんの説得力も感じられなかった母に食ってかかったこともあった「何が素晴らしいんだよ!?どうせ俺はダメな人間だよ」それでも母は自信満々の笑顔で言った「いつかわかる時が来るよおまえは素晴らしいんだから」僕は中学2年生になったころから仲間たちとタバコを吸うようになった万引きもした他の学校の生徒とケンカもした母は何度も学校や警察に呼び出されたいつも頭を下げて「ご迷惑をかけて申し訳ありません」と あやまっていたある日のこと僕は校内でちょっとした事件を起こした母は仕事を抜けて学校にやって来ていつものようにあやまった教頭先生が言った「お子さんがこんなに"悪い子"になったのは ご家庭にも原因があるのではないでしょうか」その瞬間 母の表情が変わった母は あきらかに怒った眼で教頭先生をにらみつけきっぱりと言った「この子は悪い子ではありません」その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った母は続けた「この子のやったことは間違っています親の私にも責任がありますですがこの子は悪い子ではありません」僕は思いきりビンタをくらったようなそんな衝撃を受けた僕はわいてくる涙を抑えるのに必死だった母はこんな僕のことを本当に素晴らしい人間だと思っていれくれていたんだ...あとで隠れてひとりで泣いた翌日から僕はタバコをやめた万引きもやめた仲間たちからも抜けたその後中学校を卒業した僕は高校に入ったが肌が合わなくて中退したそして仕事に就いたそのときも母はこう言ってくれた「大丈夫 お前は素晴らしいんだから」僕は心に誓った「これから僕が頑張ってお母さんに楽をしてもらうぞ」だけどなかなか仕事を覚えられなくて よく怒鳴られた「何度同じ事を言わせるんだ!」「すこしは頭を働かせろ!」「おまえはほんとうにダメなやつだな!」怒鳴られるたびに落ちこんだけどそんなとき僕の心には母の声が聞こえてきた「大丈夫 おまえは素晴らしいんだから」この言葉を何度もかみしめたそうすると元気がわいてきた勇気もわいてきた「いつかきっと僕自身の素晴らしさを証明してお母さんに見せたい」そう考えると僕はどこまでも頑張れた仕事を始めて半年くらい経ったときのことだ仕事を終えて帰ろうとしていたら社長がとんできて言った「お母さんが事故にあわれたそうだすぐに病院に行きなさい」病院に着いたとき母の顔には白い布がかかっていた僕はわけがわからなくて何度も「おかあさん!」と叫びながらただただ泣き続けた僕のために身を粉にして働いてくれた母縫いものの内職をしているときの母の丸くなった背中を思い出した母は何を楽しみにして頑張ってくれてたんだろう?これから親孝行できると思っていたのにこれから楽させてあげられると思っていたのに葬式のあとで親戚から聞いた母が実の母でなかったことを実母は 僕を産んだときに亡くなったらしい母はそのことをいつか僕に言うつもりだったんだろうもしそうなったら僕はこう伝えたかった「血はつながっていなくてもお母さんは僕のお母さんだよ」あれから月日が流れ僕は35才になった今あらためて母にメッセージを送りたいお母さん僕とは血がつながっていなかったんだねそんな僕のためにお母さんは昼も夜も働いてくれたねそして お母さんはいつも言ってくれた「おまえは素晴らしいんだから」ってその言葉がどんなに僕を救ってくれたかどんなに僕を支えてくれたかあれから僕なりに成長し今は結婚して子どももいるよ規模は小さいけど会社の社長になって社員たちと楽しくやっているよまだまだ未熟な僕だけど僕なりに成長してきたと思うその成長した姿をお母さんに見せたかったよ「おまえは素晴らしい」て言ってくれたお母さんその言葉は間違っていなかったっていう証拠を見せたかったそしてそれを見せられないことが残念でならなかっただけど最近気づいたんだお母さんは最初から僕の素晴らしさを見てくれてたんだよね証拠なんてなくても心の目でちゃんと見てくれてたんだよねだって お母さんが「おまえは素晴らしいんだから」ってって言うときはまったく迷いがなかったからお母さんの顔は確信に満ちていたから僕も今社員たちと接していてついついその社員の悪いところばかりに目が行ってしまうことがあるついつい怒鳴ってしまうこともあるだけどお母さんの言葉を思い出して心の目でその社員の素晴らしさを見直すようにしているんだそして心を込めて言うようにしている「きみは素晴らしい」っておかげで社員たちともいい関係を築け楽しく仕事をしているよこれもお母さんのおかげです。お母さん血はつながっていなくても僕の本当のお母さんありがとう
2009.05.19
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教育者は、子どもをコントロールしようという知恵を絞ります。しかし、コントロールしなければならないということは相手を信頼していないということ。 その人がその人にとって一番良いことを選択できない、という前提に立って、物事をすすめています。 子どもに限らず人間は、信頼されているとき、自分を信じることができます。同じイメージが子どもの中にも共鳴して現れてくるのです。 自分でさえ信じられないものを、自分が尊敬している人や自分より仕事を良く知っている人が「君にはできる」と信頼してくれるとき、本音で信頼してくれるとき、意識の底の方から、大きなベクトルが上を向いて現れます。 もちろん、小手先の手段としての「信頼」ではだめです。本音の信頼には、即効性があります! しかし、それにも関わらず、私たちは、すぐコントロールを試みます。それは、子どもが自分と対等に思えないからです。自分が上だと思っているから。 そこには、相手を理解し、自分も理解してもらった上で、何かを生み出そうというコミュニケーションが存在しません。 コントロールに頼ってしまう圧力があります。教育者としての役割・義務です。 ここにパラドックスがあります。 教育者にとって、教育者という役割教育者としての義務を意識しているとその勤めを果たせないという大いなる矛盾にぶつかるわけです。 不思議なようですが、考えてみれば、当然のことです。「~~せねばならない」からは、楽しさ、創造性、ワクワクが生まれてきません。いや、殺がれてしまいます。 教師は教師を忘れるところに、活路があるような気がします。
2009.01.18
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モノゴトを見るには、「仮説」が必要です。つまり、目的意識的に見ないと、見えてこないのです。 これは、人を見るにも、当てはまるでしょう。 ある子が、急に、自分の世界に入って外との一切の交流を遮断してしまいます。 ある時は、ペンを走らせていながら、外からの呼びかけに反応しなくなります。 先生は、当然、怒ります。まるでバカにされているようなもんです。 そういう日は、決まって、あくびをしていました。もしや、・・・・・・P.「昨日、何時に寝た?」正気に戻ってから、聞くと、12時とか返ってきます。 もしかして、目を開けながら、寝ているのではないか? だとすれば、叱るのではなく冷たいタオルを首筋にあてて、目を覚ましてたら、いいのではないか? って、実験をしたら、その後、大丈夫でした。 ある不登校の子が、すぐ切れてしまいます。 なぜだろう?ふと、「一般には、常識と思えることがこの子には、常識に思えていない」ことに気がつきました。 もしかして、応用力、類推力が、低いのではないか? だから、人間関係についていけないのではないか?そんな推測を立て始めています。さらに、実験?をすすめて、効果的な対策を考えたいと思います。 自分自身についての、仮説です。私は、いろいろと頑張ろうという意欲と意志は充分もっていると思うのですが、寝てしまいます。 ふり返ってみると、私は、徹夜をいまだかつてしたことがありません。いや、しようと何度もしましたが、できませんでした。 寝てしまうのです。どんなに重要な宿題を前にしても、そういう時ほど、寝てしまうのです。 この歳になって、気づくのも、情けないのですが、私は、人一倍、睡眠が必要な体質のようです。 だったら、睡眠を前提に、リズムを作ったほうが、効果的かもしれません。 短時間の睡眠を数多くしてみよう、っと。 て、結局、夕べ、仕事をしないで、寝てしまった言い訳を何とも、まわりくどく書いちゃったわけです。 実験テキストの原稿、すみません、今日からはじめます。
2008.07.15
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モノゴトは、自然に見えるのではなく、こちらから、主体的に問いかけなければ、何も見えないものだ。 子どもの姿も、仮説をもって、問いかけて、(実験をして)、たしかめて、はじめて見えてくる。 教育は、常に、名探偵の推理力とそれの検証作業だとも言えるんじゃないだろうか? もちろん、子どもに対してよりも自分自身に対しての方が、推理も面白い。自分くらい面白い素材(なぞ)はないと思います。 そうすると、どんなときでも、ワクワクできます。
2008.06.30
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わかることが大事だ。と、考えるから、みんな、「わかろう」「わからせよう」と努力しています。 だから、教室で、みんながわかったような顔をしているとき、「俺、あれもわかんない、これもわかんないんですけど。」と言うと、ギョッとされます。「エっ?!」ていうもんです。 でも、しばしば、同じ事を、本当はみんながそう思ってたりするんですね。そうすると、最初に手を挙げた人が勝っちゃう。 お父さんの会社での会議のときもそうですね。エライ人が、とうとうと演説をしているときに、「わからない」ということは、大変なことです。 創造性が大事だ、ということは、大勢の人が同意するけど、創造性って、「わからない」ことから生まれるのではないでしょうか?わからないことを「わからない」と言う勇気は、本当に自分を大事にする発想から出ることです。 みんながわかったような顔をしているとき、「わからない」と言うことから、創造性がスタートするのです。 だいたいにおいて、わからないことが気になる、ということは、他の人は、その部分を切り捨ててしまっているのに、それを大切に拾う力ですから、「わからない能力」というのが、あって、それが、とっても大事だ、と言えると思います。 もちろん、その逆も真なりで、みんなが、大したものじゃない、と言っているものに、自分が素晴らしい面を発見したら、それを堂々と、取り入れることも、立派な力です。日本国内で発表しても、誰も目を向けてくれなかった論文が外国で、評価された途端に、注目されるなんて、日本に、創造的な目がない証拠です。 結局、創造性は、他人の目を意識して、本当の自分を大事にしないところには育たないのです。自分というものを決定的に大事にする。他人の目にとらわれずに、自分自身を大事にしていくことです。 昨日、さくら・さくらんぼ保育園系統の大崎市のさくら保育園での保護者向け講座の打合せをさせていただきました。すばらしい保育だと、いつも感心しております。 特に、自分の感覚を育てることに留意されていることを見るにつけ、彼らが、とても頼もしく見えてきたところでした。 こういうところで、保護者向け、講演をさせていただくなんて光栄の至りです。
2008.06.28
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【6月11日 AFP】の記事です。注意欠陥多動性障害(ADHD)に関連した遺伝子が、遊牧生活においては人間を環境に適応させる影響力を持つかもしれないとの研究が、9日の生物学誌「BMC Evolutionary Biology」に発表されたそうです。 米ノースウエスタン大学の研究チームは、ケニアの遊牧民を対象に行った調査で、ADHDとの関係が指摘されているドーパミン受容体遺伝子が、牛を放牧する遊牧民の集団においては良好な健康状態と理想的な体重をもたらす一方、最近定住して農業を営むようになった彼らの親族では栄養不良を引き起こした可能性があることを突き止めたんだそうです。 研究を主導した大学院生(人類学)のダン・アイゼンバーグさんは、「人間の数ある個性の一部が、状況に応じて進化上有利になったり有害になったりする可能性を示唆している」と指摘しています。 「ADHDを単に病気としてではなく、適応要素の1つとして考えられるようになるかもしれない」と述べました。 ん~、そうかもしれませんね。ADHDは、産業社会や、学校生活では、不利になるでしょうが、こういう環境は、人類の歴史の中では、特異な世界です。 自然の多様性というものは、すごい安全保障をもっているものです。いろんな人がいるからこそ、人類は生き延びてきたのです。命のリレーはつながってきたのです。 今後もどんな、過酷な試練が待ち受けているかわかりません。自然は、あらゆる事態を想定して、大きな愛の手で、守っていると言えるかもしれません。 ある局面では、不利になる特性が、別の場面では、生き残りのカギとなるんですね。人と違うことを恥じることはないのです。違うからこそ、意味があるのです。(功利的な意味だけでなく)多面的な見方ができるように、本人も周囲もトレーニングをしていきたいものです。 欠点を矯正するよりも、 その人の特性に合わせて、活き活きと生活できるようにバックアップしてあげることが基本なんだろうなあ。
2008.06.11
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あなたは、人に変えてもらいたいと思いますか?私は、人から意図的に押しつけられて、自己変革させられることに、生理的に拒否反応をしてしまいます。 もちろん、変えて欲しいと思うことはあります。でも、それは、自分が、こう変わりたいと思う時です。あくまで自分の意志です。 学校のように、有無を言わさず、その場にいなければならない時その講師が、自分を変えようと、あの手この手と、働きかけてきたら・・・・・・ 昨日、実験教室をしながら、ふと自分の間違いに気づきました。 お陰様で、昨日の実験も、大成功と言って良いでしょう。子どもたちのアンケートと感想もお見せするのが、恥ずかしいくらい、最高なものでした。そして、間違いなく、子どもも、ご父兄も、先生も私の意図する方向で影響を受けてくれました。 しかし、何度も言いますが、私の実験が、何が楽しいか、っていうと押しつけが無いからだと、(自分では)思っています。実験の解釈を押しつけないことです。 自由に考えることができるので、子どもたちは、勝手に、自己変革していくのです。 科学寅さんだけでなく、人はみんな、他人にコントロールされたいとは、思わないものじゃないでしょうか? だとすれば、大人ができるのは、基礎的な概念理解につながる骨太の問題を提供してあげるだけ。そして、いろんな自由な考えを受け止め、揉(も)んでやることだけです。 あとは、お日様と水のように暖かく、明るい空気を守ってやれば、子どもは、勝手に素晴らしく成長していきます。 それ以上でも、それ以下でも、教育は無いんじゃないでしょうか? え?それも、子どもを変えようという手段じゃないか?大きく見れば、そのように見えるかもしれません。しかし、そこには、本質的な違いが大きくあると思うのです。 実験教室の「ベテラン」になってくると陥りやすい落とし穴があります。 子どもは、こうすると、こう変わるはずだ、という。 そういう先入観をもつと、その子の素晴らしさを見失ってしまいます。こう変わるべきだという姿勢で向かったら最後あっと言う間に、教室は楽しくなくなります。 ベテラン教師の問題も、そこにあるのかもしれません。
2008.06.11
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明日から、PTA行事の科学実験教室巡業がはじまります。その際、私は、何を伝えたいのか、まとめてみました。 これらは、印象づけるために、強調され過ぎているかもしれません。しかし、ここから、議論が巻き起こることを、実は、期待しています。お母さん、そして、先生方に、問題意識をもってもらいたいと思うのです。 箇条書きをお許しください。(ワープロ文章です) 子どもたちの学習意欲の低下が叫ばれています。しかし、子どもたちは、人に言われて、学習意欲を湧かすことはありません。そこで大人は、アメとムチを使いますが、それは、後で大きな後遺症を残します。かえって学習意欲を根っこから殺してしまうでしょう。 子どもが目を輝かせて取り組んでいる姿を見たことがあるでしょう。切り口を変えれば、多くの課題が、ワクワク・ドキドキになります。アートやスポーツに熱中する目も、科学や学問を楽しむ目も、根っこは同じです。まず、大人が常識を変えてください。 ○ 学習や研究が、ゲームよりも、「楽しい」ことを 大人が体験し、実感してください。 大人が楽しそうにしていることには、 必ず子どもは、食いついてきます。 ただし、学習が楽しくなるには条件があります。 それは「自由」です。 ・ 発言・発想の自由があること。 (これが日本の社会に欠けています。) ・ やりたいことだけやれること。 学びたくないことは学ばない自由があること。 ○ 程度が低いから落ちこぼれる! やさしい問題ばかり与えるから、やる気が起きないのです。 もっと、ワクワク・ドキドキの「こういう勉強をしたかった!」という 現代人にとって歯ごたえのある問題を与えてやってください。 たとえ、今、子どもが理解できなくても、 楽しいことにトライした、という記憶だけでいいのです。 次につながっていきます。 ○ うんと基礎的なことは、先生たちも知らない。 大人がみんな答えを知っている必要はありません。 お父さん・お母さん・そして先生までが、 「わからない」ということをアピールし 一緒に謎に挑戦してみましょう。 本当の学力をもっている人こそ、 知らないことがいっぱいなのです。 実は、現代の最先端科学でも、 わからないことだらけなのです。 本当の基礎の基礎さえ、わかっていません。 だから、この世のことは、わかっているというスタンスは、 百害あって一利無しです。 ○ ヒネクレ者がいなければ進歩は止まる。 ヒネクレた質問や、会話を面白がる、 おおらかな雰囲気をつくりましょう。 ○ 「間違えるから楽しい」 間違えることを楽しみましょう。 自分のアタマを働かせるからこそ、 間違えるのです。 間違えたら、ほめてやりましょう。 ロボットは間違えません。 ちょっとやそっと、教えても、 子どもの「主体性」は簡単にはつぶせません。 すぐに言うことをきかない、 子どもの「主体性」をほめてやりましょう。 教えてはいけません。 子どもに判断させ、実験や検証をさせましょう。 教えたって、身につきません。 ○「難しいことと、易しいこと、どちらを先に教えるか」 多くの場合、最初に、刺激的で難しい問題にあたった方が、 やる気が湧きます。 わかりやすい問題をやっても、自信はつきません。 従来の易しいことから難易度を上げるカリキュラムは、 人間のやる気の原則に反しています。 ○ 興味(好奇心)がなければ認識できない。 好奇心はどんなときに起こるでしょう。 認識のズレを発見し、「いづい」状態のときです。 謎があるからこそ、好奇心が生まれるのです。 この好奇心が無ければ、 見れども見えずの状態になります。 学力とは、いかに多くの好奇心=「謎」をもつか、です。 わからないことバンザイです。 ○ 簡単に分からせる教育は、 子どもの好奇心を殺し、学力を殺します。 問題のなげかけ方によって、謎もいっぱい湧いてくるのです。 興味も湧いてくるのです。 「ありのままの観察」はありえない。 どんな観察にも、認識のバイアスがかかっています。 だったら、謎を呼び起こすバイアスをかけてやりましょう。 ○ 教科書を読んで、「わかる」方がおかしいのです。 教科書の記述も論理の穴がいっぱいなのです。 簡単に納得しない子を育てましょう。 「みんながわかっても、ボクだけは、わからない」子こそ、 日本の明日を支えます。 日本の星です。 以上、私は、板倉聖宣教の「信者」かもしれません。信者は、板倉先生の最も嫌うところでもあり、寅さん自身も信者ではないと思っており、ただ、納得して、確信しているだけだと思っているのですが周囲からは、そう見えても仕方がないでしょう。 また、私のようなフリーの立場だから、こんなことが言えるんだ、ってお思いの方もいらっしゃると思います。 確かにそうなんですが、フリーじゃない先生への「束縛」というものも、正体見たり、枯れ尾花、ということが多いように思うのです。この点について、別に書きたいと思います。
2008.06.09
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わからないよりも、わかる方が良いに決まっている、と思われています。しかし、今の学校教育の中で、本当に自分のアタマでわかって心で納得して、「わかった」と言っている子がいくらいるでしょう? ほとんどの子は、本当は、わかっていないのに、「わかった」ということにしているだけではないでしょうか? 分数の割り算は、なぜ逆数を掛けるのか?意味をしっかりイメージできていないのに、なぜか、そうすると正解をもらえるということでそう計算させられているだけではないでしょうか? まだ、納得していない場合「わからない」と言えることが、いかに大切な能力であるかその子の将来の伸びに影響を与えるか見えてくると思います。 昔から、日本の学校では、質問が異常に少ないことが特徴になっています。先生が説明をして、「分かりましたか?」と聞かれて、「はい。」と答えるのが、良い生徒だと刷り込まれているからです。 「わかりません。」「納得できません。」「こういう場合もあるんじゃないですか?」なあんて、発言しようものなら、先生の言葉をよく聞いていなかったか、先生のことを信用していないのか、どっちかだとしてすぐにBADマークがついてしまいます。 これからの子どもたちには、自分で問題解決する力が必要です。創造性が何より必要です。本人にとっても、社会にとっても、死活問題です。 だとすれば、自分が納得しないことについて「わからない」と言える子が、社会にとってのお宝であるはずです。納得できないことを、ごまかさないことこそ、創造性の土台だからです。 別の角度から見れば、自己肯定感が育っているかどうかでもあります。 とにかく学校の権威主義は、創造性の敵です。学問の敵です。 自分が納得できていないのに、テストの点数を上げるために、テクニックだけで答えさせることは、その子の自己肯定感を、深く傷つけているんじゃないでしょうか? そして、先生の説明や、教科書の解説は、本当に、自分のアタマで考える子にとって納得できる内容になっているでしょうか?私は、ほとんどの場合、(私の授業も含めて)不十分なものだと思います。 だったら、わかってもらっちゃ困るのです。そう簡単にわからないで欲しい。 多くの場合、学校教育の成績優秀者が社会で、良い仕事ができないのは、当然だと思えてきます。だって、自分をごまかすことに、慣れすぎてしまっているんですから。 もともと、創造性というものは、それが画期的であればあるほど周囲から評価されないものです。だからこそ、創造性なんです。 日本人は、智恵で生き延びていくしかありません。 教育が国家の大きな戦略ならば、創造性を伸ばす教育とは何かをもっともっと議論して欲しいものです。
2008.06.08
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有名なピグマリオン効果という現象があります。ピグマリオンという名称は、ギリシャ神話で、ピュグマリオン王の恋焦がれた女性の彫像が、その願いに応えたアプロディテ神の力で人間化したと言う伝説に由来しています。人間は期待された通りに成果を出す傾向のことを教育心理学でも、マーケティングの世界でも指して言います。1964年にアメリカ合衆国の教育心理学者ロバート・ローゼンタールによって実験されたものです。もともとは、その前年、ローゼンタールとフォードが大学で、学生たちにネズミを使った迷路実験をさせるのに、ネズミを渡す際に、これはよく訓練された利巧な系統のネズミ、これはまったくのろまなネズミといって渡したところ、その二つのグループの間で実験結果に差異が見られたことから、発しています。前者のネズミを渡された学生たちは、ネズミを丁寧に扱い、後者のネズミを渡された学生たちは非常にぞんざいに扱い、その両者のネズミへの期待度の違いが実験結果に反映されたものとローゼンタールは考えたのです。そこで、これは教師と学生の間でもありうるのではないかと実験したのです。 まず、小学生に普通の知能テストをさせ、その結果を担任の教師にこのように報告しました。「このテストは将来の学力の伸びが確実に予測できるものです。まだ研究中なので結果を教えることはできませんが、先生にだけ、将来伸びる子の名前を教えましょう。」しかし、そこで教えられた数人の生徒は知能テストの成績に関係なく、ランダムに選ばれた子でした。それから1年ほどしたあとで、再び知能テストをしたところ、名前をあげられた子は、そうでない子に比べて明らかに成績が上がっていました。 こんな実験は今では倫理上も許されないのでできませんが、 要するに、教師が特定の子どもに根拠のない予見を持ったということです。予見に基づいて何が起こったか。教師には意図的に悪い魂胆で、一人一人の子どもを差別しようという気持ちがあったわけではないと思います。現実に平等に子どもを扱わなくてはいけないと当然思っていたでしょうし、教員である限りはそういう職業倫理を持たなければいけません。 しかし、知らず知らずのうちに教師の側がある予見を持つことによって、子どもと教師との関係自体が1年間で大きく変わったということです。それも、表面には出ない、隠れた次元の部分で大きく変わったのです。そのことに、教師自身は意識的ではないだろうと思います。しかし、意識的でない部分によってこそ非常に大きな影響が出てくることが、教育やマーケティングの世界では、しばしばなのです。だから、教師は、常に、自分の意識下をチェックしなければならない。また、教師個人だけでなく、学校としての意識下の「常識」が子どもの可能性を奪っていることも気づかなければなりません。認知スタイルには熟慮型と衝動型というようなものがあります。熟慮型とは、1つの課題に取り組んだときに時間がかかるが正確にできるというものです。衝動型とは、早いけれども間違いが多いというものです。子どもの気質からして、どの文化の中にも熟慮型と衝動型という2つのタイプの子どもがいるのです。 ところが、日本の学校の中では、熟慮型の認知スタイルを持った子どもに圧倒的に有利な学校教育の体制ができ上がっています。衝動型の子どもには、いろいろなところでそれが不利益になっていきます。子どもが持っている固有の傾向性があり、ある意味では衝動型の子どもの方が創造的だとも言われています。しかし、日本の学校教育では非常に低学年の段階から何を奨励しているかというと、すべての子どもが熟慮型になるようにという方向づけをしているのです。 実際にアメリカと日本の小学校の中でどんなことが行われているかを比較してみると、日本で行われていることは明らかにすべての子どもを熟慮型に育てる教育と言えるそうなのです。 子どもといつも接している大人が、子どもというものをどのように考え、本当のところ、わが子をどんな子どもだと思っているのか、これは、子どもにとって本当に大切なことです。教育は、詰まるところ、コレなんだろうと思います。もし、子どもの可能性を「押しつけ」でなく、無限大に信じ続けてあげれば、どんな奇跡が起きることでしょう。ただ、これは意識下の問題ですから、真剣に意識しては、逆効果になると思われます。だから、何度も言うように、「楽しんで」「遊びの気持ちで」「頑張らないで」接することが、何より大事だと思います。<関連記事>教師の科学観をチェックする問題をアップしました。↓好奇心魔法学校を のぞいてみる?
2008.05.20
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寅さんは、いわゆる扱いにくい子、とずいぶんつきあってきたと思います。 大人の側が勝手に期待する、「枠組み」に入りたがらない子とも言えるでしょう。 こういう子に対して、私は、当初は、何か、面白いものを見せたり、面白い話をしたり、さらには、ビックリさせれば、こっちのものだろう、と思って、そういう方面に力を入れたものです。科学実験も、実は、その発想の延長でありました。 でも、その「仮説」は、すぐに間違いだということがわかりました。どんなに自信作を提示しても、こちらの言葉自体が、全然、入っていかないケースがずいぶんあるんです。 せっかくの寅さんの、「珠玉の問いかけ」が、むなしく墜落していきます。 試行錯誤の末、血の涙の末、寅さんは、いつの間にか、どんな子にも効く、特に初対面の子と、とにかくコミュニケーションがとれる必殺技を発見するのです!!! それが、・・・・・・ それは、ジャーン、「同調」です。いわゆるオウム返しです。(なあんだ、ですよね) でも、同じ言葉を返すだけじゃありません。同じ行動をします。まるで鏡のように。 同じ視線で、同じものを見ます。同じ表情をします。同じ呼吸をします。そして、同じ感情を味わいます。 そうすると、必ず、不思議なことに、心を徐々に開いてくれます。そして、こちらを意識してくれるようになります。同調してくれる人がいることは、とっても心地よいものだから、その快感にはまると、今度は、向こうから、同調しだします。こちらが、ちょっと違ったことをしてみます。すると、子どもが合わせてくるようになります。 そうなったら、はじめて、こちらが用意した問いかけや、仕掛けが、意味をもってくるのです。 ほとんどの場合、学校では、一方的に子ども達に対して、問いかけます。指示を出します。 それって、深層心理的には、相手を信用していない、相手を非難することと同じようです。 考えてもみてください。大人同士だったら、まず、お茶のみ話、世間話でもしてから、「ところで、実は~」と入ります。 会話の基本は、キャッチボールと言われますが、ホントの基本は、キャッチです。ピッチャーではなく、キャッチャーの立場に常に身を置くことです。自分から、勝手に話題を振らないで、相手から話題をふってもらうというスタンスです。 キャッチャーは、返球のとき、ピッチャーよりも速い球で、全力投球などしません。ピッチャーが、きちんと取りやすく返すことが目的だから。キャッチャーは、投げることが目的ではないのです。 教師、キャッチャー論に立ってみると、子どもが急に生き生きとしてきますよ。
2008.04.12
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アインシュタインも学習障害、ディスレクシアであったという説があります。彼の『自伝的ノート』(1949年出版)によると、両親が心配するぐらいに喋り始めが遅く、10歳近くになってもまともな会話が出来ず「のろまな奴」と呼ばれていじめに遭っていたうえに、担任教師に退学を勧められるほど「落ちこぼれ」扱いされていたようです。 実際に、生涯小学生のようにスペルを間違えることがままあり、「R」の大文字を鏡字で書き続けていました。 トムクルーズもそうですが、才能をもった人が、学校の学習には、非常な困難を覚えることが、多いということを、例外としてではなく、もしかして、教育の根本的な欠陥ではないかと考えてみた方が良いのではないかと思います。 私は、子どもが怠けていると考えるのは、ほとんどの場合、間違いだとの思いを最近強くもっています。 怠けているのではなく、多くの場合、人並み以上の苦労や集中をしていることが多いのです。逆に集中して、ふつうの子の何百倍も脳を使っているのです。そのために、頑張ろうとするからこそ、認識が歪んでしまうことが、とても多いと思われます。学校で主流の条件反射的な、パターン学習で努力をしても、それが報われない子どもたちがいます。人並み以上の努力をしても、簡単な漢字やひらがなさえかけない子は、いっぱいいます。この子たちは、アタマが悪いのだろうか? 鏡文字を書く子・画数の多い漢字が書けない子・文章を1行飛ばして読む子・勝手に文末を変えて読んでしまう子、そんな子どもたちが少なからずいます。 他のことは、みんなと同じようにできるのに、パターン学習ができないと、怠けている、努力が足りない、集中力が無い、などと決め付けられることがしばしばあります。また、親の育て方が悪いと言われることもあります。また、教師の対応が悪いと言われたりします。 人間の認識、ものを見る、わかる、というのは、脳が創造しているのです。電気的な刺激をありのまま、反映しているのでは、全然ありません。いわば、芸術の創造活動と近いのです。 ちょっと「高度な」認識のクセをもっている人は、たとえば、ピカソやダリみたいなアートの世界を脳の中で繰り広げていると考えられると思われます。 創造することと、学習することは、全く同じではないにしても、ピアジェの理論から言っても、似通った点が多いのは間違いないところです。 学習障害をもった人たちが、ふつうの人より、創造的だとするならば、本来、学習能力は、普通より高いはずです。 しかし、実際はそう評価されることは、まずありません。これは、学校教育の主流が、条件反射で覚えさせるという学習スタイルに頼っているからではないでしょうか。 問題を解決するとき、なぜ、そういう答えになるのか、納得しないまま、ひたすら機械的に反復し、記憶する方法を学校では学ばされるわけです。 「学習障害」という言葉さえ、疑問になってきます。多くの問題をかかえた子は、「条件反射的な、パターン化した学習方法には、向かない」脳のクセをもっているだけと言うべきでしょう。 だとすれば、彼らの学習スタイルは、逆に、教育で目指すべき方向でさえあるはずです。 もちろん、社会生活を送るにあたって、困難が減るように特定の訓練をする必要はあります。しかし、その訓練は、決して、パターン学習ではなく、逆に、意味のあるイメージ操作訓練なのです。 彼らに有効なイメージ訓練は、もしかして学習理論に革命さえもたらしかねない、人類のお宝じゃないか、って最近、思いだしています。
2008.04.10
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いよいよ新学期ですね。(寅さんのところの中学校は、明日からです。) 先生方は、いろんな準備を重ねて、そして、いろんな思いを重ねて、新しいクラスの生徒を迎えていると思います。 最初が肝心とばかり、威圧しようなんて先生は、論外ですが、明るく、信頼があふれるクラスになるかどうか、あれこれ、秘策を練っておられることと思います。 テクニックとしては、自己紹介のアイデアなど、いろいろありますが、それより、何より大切なのは、先生の一人一人に対する気持ちの放射だと思います。 自分が教わった先生の中で、今でも親しみと感謝の気持ちをもって思い出すことのできる先生は、どんな先生だったでしょう?きっと、「自分に気持ちを向けてくれた先生」だったはずです。たくさんの生徒の中の一部分としてではなく「ひとりの人間として自分のことを観てくれた先生」だったはずです。 もちろん、数的には、先生と生徒は、1対30くらいですし、先生は、忙しい!一人ひとりとじっくり向き合う余裕などありません。それに、生徒も一人の人間であり、他人ですから、完全に他人のことなどわかってあげることなどできっこありません。 しかし、「わかってあげたい」という気持ちを生徒に向かって放射する、その「努力」に意味があると思います。 ある自己暗示の本で、「努力の継続は、潜在意識に対する最強の暗示を構成する」と言ってました。「生徒に、気持ちを向けよう」と努力することで、潜在意識は、それが重要であることを理解し、生徒に関するできる限りの情報を集めようとし始めるのです。意識ではなく、潜在意識がそうするのです。 そうすると、特別に意識していなくても、生徒に関する情報が、次から次へと、向こうから飛び込んでくるのです。 そうすると、ふと、子どもの変化に気づく。何気なく声をかけてみる。それが、絶妙のタイミングになっていくのです。生徒としては、自分を観てもらえているという、安心感。 そんなの、あったりまえだ、と言われる方、その方は、きっと群を抜いて優秀な先生であることでしょう。失礼いたしました。 生徒を観察しようという潜在意識は、生徒の潜在意識に必ず働きかけていると思います。そして、その反作用で、必ず生徒の方も、先生を理解しようと心が動くはずです。
2008.04.07
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「勉強したくないことを勉強する子は悪い子です。勉強は本来とてもたのしくてすばらしいものです。その勉強をいやいやながらすることは大変悪いことです。むりに勉強しなければ、いつかは勉強というものはすばらしいものであることを発見することでしょう。それまで待ちなさい。」 これは、「仮説実験授業の研究論と組織論」(板倉聖宣)の中の最初にある「仮説実験授業への招待」にある文です。 この文章に出会って、寅さんは、のめり込みました。
2008.04.04
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森の声さんが、教えるということについての本質に迫ることを書かれていたので、思わず、私の頭の整理のために、記しておこうとおもいます。 私達は何かもっともっと本質的なところで勘違いをしているのではないでしょうか。"教えれば出来るようになる"という考え方は自分の頭で考えていない人間の発想です。お勉強だけで生きてきた人間の発想です。(この辺は養老さんが「バカの壁」でも書いています。)まず、"教える"ということが効果的に働くのは相手が"教えてもらいたい時"に限ります。確かに、教えてもらいたい相手に教えた時には教えたことが実になっていきます。でも、教えてもらいたくない相手にどんなに一生懸命に教えてもうざったがられるだけです。これは勉強でも同じです。ですから、教育の場ではまず"学びたい"、"教えてもらいたい"という気持ちをどのように育てるのかというところから始めないと、全てが無駄になります。子どもたちから、"先生、もっと教えて下さい"、"もっと知りたい"という声が出てくるような教育でないと子どもたちの身になっていかないということです。 私たちが、簡単に学習できるものと、学習できないものがあるのは、学習する側の認知構造によっています。同じ文章を読んでも、ちょっとした前提の違いで、理解は、ガラっと変わってしまいます。たとえば、文章の中に「手に馴染んだ道具」、「糸の張られた道具」「単なる道具でなく彼の分身のようなもの」という言葉が出てきた場合、もし、この文章のタイトルが、「ウィンブルドン」だったら、当然、ラケットと答えるでしょう。しかし、もし、最初に「ライブハウス」という題がついていたら、ギターだと思ってしまいます。一言も、その単語が使われなくても。 認知構造の中にあるものが違えば、対象から取り出す情報や意味が違うんです。 もし、この文章が、フーテンの科学寅さんではなく、人気タレントが書いていたら、どう受け取るでしょう?もし、ヤンキース松井選手が書いていたら、結婚との関係を、いろいろ疑うでしょう。もし、この文章を福田総理が書いたら、もしかしたら、政局になるかもしれません。 教えるということは、認知構造に働きかけるわけです。相手のフィルターへの尊重がなければ、意味をもちません。 子どもが教えてもらいたい意欲をもっていない、ということは、それを受け入れる認知構造をもっていないということです。 だから、効果的に教えるためには、「先行オーガナイザー」が必要です。まず、先に、認知構造を整えるのです。 細かい例では、 歴史年表のデータを教えるより先に、時代背景や物語を教えるのです。動物のデータを教えるより先に、動物の分類の意味を教えるんです。 この先行オーガナイザーを、ゆとり教育と称して省略してしまうと、かえって、理解できなくなります。一見、詰め込む情報量が多くなるように見えますが、かえって、頭を整理させてくれるのです。いわば、ファイリングです。どんな分類にするか、どんなキャビネットを組み立てるかです。 当然、子どもの発育段階に適したキャビネットを組み立てるように、指導しなければなりません。ここのところの教材研究つまり、受け取る側の認知構造の研究が、まだまだ足らないんじゃないか、と思うのです。
2008.03.27
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2008年、早稲大学ラグビー部が慶應義塾大学を破り、大学日本一となりました。チームを率いたのは、名将、清宮克幸氏(現サントリーサンゴリアス監督)の後を引き継いだ中竹竜二監督です。 中竹監督はどのようにして常勝軍団を作り上げたのでしょう?そこには、目標達成に向けて最大限の能力を発揮できるようにする「ゾーン・メソッド」と呼ばれるメンタルトレーニングの方法を監督自らが使ったのです。 これは、指導書へのヒントになると思いますので、ちょっと一部を紹介させていただきます。 中竹監督は、特定の選手のことをありありと想像して、そのイメージの中でまるでその選手自身になってしまったかのように、その人のある場面の状態に入ってから「今目の前に監督が来たら何て言われたいと思うか」といった問いかけをします。 この状態を「選手のステートに入っている」と呼びます。ステートとは、身体感覚を含めた意識状態のことで、正確には「ステート・オブ・マインド」と言います。 このステ-トに入るという状態は、ほかの監督や経営者やミドルマネジャーが「たぶんあいつはこうだろう」と語るのとは全然違うんです。中竹監督が選手のステートに入る時は、数十秒の沈黙があって、その間に選手を取り囲む情景や選手自身の姿をありありとイメージします。 そうすると、なぜ、この選手は、こういう場面ではこういう行動を取ってしまうのかまた、対戦相手は、何に脅威を感じているのかがわかってくるのです。それで適切な手を打てるわけです。 私たちも、子どもの行動が理解不能だ、などと言わないで、子どものステートに入る練習をしたいものです。そのためには、常に、観察が必要です。また、自分の精神状態を、流れるようにすべてがうまくいく意識状態にもっていき雑念が消えて五感が研ぎ澄まされ、自信に満ちあふれ、頭がフル回転する意識状態にチューニングすることが必要のようです。
2008.03.18
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先ほどのチューニングの件ですが、自分の戒めのために、書いておきたいことがあります。 それは、子どもの今、もっている現状、ありのままにチューニングすることです。 この、あったりまえのことを、なぜ書くのか? しばしば、大人は、こうあって欲しい、こうあるべきだ、または、指導要領上、ここまでは理解するべきだ、というラインを引いてしまって、そこにチューニングをしてしまいがちだからです。 そのラインから、子どもを見ると、至らないところばかりが見え、子どもを変えてやろう、という視点で臨むことになります。 そうすると、多くの場合、子どもを一方的にこっちの意図する方に引っ張って変えてやろうとしてしまい、その結果、子どもの反発を誘うだけで、結果的に、効果的なリードができないのが、日常じゃないでしょうか? ああ、何て、私たちは頭が固いのでしょう?一定の「客観的基準」なんて、クソ食らえ! です。 子どもの現状は、千差万別なんです。「この子は、何が問題か?」って、見るのではなく、「この子は、今、何ができるのか?」を考えればいいのに。 子どもの現状こそが、バイブルなんです。 固定的な基準で人間を捉えることは、一人ひとりの現実と可能性を、かえって無視してしまうことになりがちです。 子どもの今の姿にチューニングし、そこを出発点とした可能性を信頼する。それに応えて、子どもは自らの力で確かな変化の道を歩み出すのもののような気がします。 これが、コミュニケーションの基本じゃないでしょうか。そこからしか、子どもたちの信頼をつかむことはできないでしょう。信頼さえつかめば、先生の言葉は、きっと入るのです。すべては、信頼の上にしか、教育は載りませんから。
2008.03.15
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再び、ボランティアネットワークを復活させようと全力少年している寅さんです。(明日には、ここにも書きます。) 私は、自信をもって、ジコチュウー人間でありますが、でも、だからこそ、周りの人とつながっていると実感し、孤立していない、と感じるとき、幸せだなあって思います。子どもたちの心とつながっているな、と感じるとき、自分の心が大きく広がっているなあって、快感を覚えます。 共感する力は大切ですよね。これによって、私たちは、子どもの感情、思考、欲望、衝動を抑圧させることなく、非難することなく、ありのままの姿で受け止められます。 しかし、現代の教育によって私たちは、知性を心から切り離してしまっているんじゃないでしょうか? 社会の最前線組織では、共感や優しさを犠牲にして、知的な任務遂行が強調されています。それが「シブイ大人だ」と見られます。 人に共感すると、声には出さなくても「女々しいやつだ」「ひ弱だ」と見られる心配があります。 どうしても学校で良い成績をとるということは概念的な知識を習得することばかりに、なってしまいがちです。 共感力は点数になりません。どうしても、協力やあたたかい関係よりも競争や頭の回転の速さのほうが強調されます。 「学力向上」という合唱のなかで、これから、さらに知性とこころの分裂はますます広がるんでしょうか。感情や精神面を統合することなく認知面の発達ばかり強調していると内面の分裂を招く心配があると思います。 実は、新しい脳、大脳皮質の機能は、なんと大きくは「抑制」なのです。 無意識の衝動のなにが適切で、なにが不適切か判断し、不適切な動きを抑制して、脳から出さない。それが抑制という意識のはたらきです。 この抑圧は、まず、自分自身の受け入れを抑制してしまいます。教師が、子どもを受け入れるには、また、親が子どもを受け入れるには、まず、自分を受け入れ、自分に深く耳をすますことが必要なのに。 まず、自分の存在をありのままに受け入れることです。言い換えると、自分の行動や地位によって「自分の善し悪しを計らない!」、ということでしょう。 自分の行動や地位に頼って、アイデンティティを築こうとするなら自己の外面ばかりがふくれあがり、内なる自己を見いだすことはできません。 どんなに社会的な要求が強くても、先生は、教え子の成績が表面的にはすぐにめざましい向上しなくても、上司からの評価によって、教師としての自分をつくる必要はないのです。 むしろ、大切なのは、自分の内面とのかかわりです。自分自身を受容するということです。 自分を受容できていない教師に担任される子どもこそ、可哀想です!!もちろん、先生は、自分に向けられる評価を知っておく必要はありますがだからといって、それを物差しにして、先生が自分の価値を計る必要はないのです。内なる核心である「自己」が、最終的な基準を与えてくれるのです。 内なる自己に触れることは、自分の世界に閉じこもることではありません。むしろ、他者に開かれるのです。他者のありのままのを受け入れ、自分の中に包み込むことになるのです。 「ルビンの壺」で有名なデンマークの心理学者、ルビンは自分を共感的に受け入れるとは、たとえば「自分の子どもに接するようなものです」、と語っています。 「私は自分に、愛する子どものように接しています。子どもを大切に思うとき、その子のすべての面が、かけがえのないものになります。その子を見守りながら、生き生きとした人間らしさがほとばしり出るのを、心待ちにしています。・・・・・・私はその子を裁きません。その子のすべてを受け入れているので、その子は私を恐れる必要がありません。その子をありのままに愛しているので、傷つけようとも思わないし、実際傷つけることはできません。このように愛に恵まれているので、誰からもいくら非難されようとも萎縮することも、恐れることもありません。」
2008.03.12
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今、今月から開催される自然体験教室の打合せをしています。 地元では、超有名な長靴和吉先生こと、高橋和吉、元校長先生の主催です。県内外の自然系の先生方が勢揃いします。寅さんは、スタッフとして、その先生方と接せられるだけでもワクワクしてます。 全国から、大崎に指導者から、子どもまで、年間を通して来られるのですから、これは、地域興しにつながります。今日、市にも相談に行ってこようと思っています。 ところで、私たち大人は、子どもたちに「教えよう」としています。しかし、何かを「わかる」というのは、教えられたから「わかる」のでしょうか? 実は、現代科学でも「わかる」ということは、はっきり「わかっていない」のです。わかった結果どうなるのかは、わかっても、わかる瞬間は、わからない。(寅さんは、いつもいろんな仮説を立てて楽しんでいますが今、こんな仮説をもっています。) 記憶をただの暗記だと考えるのは、あまりにも薄いというのは誰でもわかることです。じゃ、教えられて、イメージをもつことか? イメージをもつ、イメージを簡単に浮かべられるというのも 実は、意識的な努力ではできないものです。 無意識の世界が耕されて、初めてイメージが浮かびます。 表面的な意識だけでは、「りんご」というものは データでは羅列できますが、 赤いイメージさえ、浮かべられません。 そもそも「赤い」というイメージさえ、どうして持てるのか脳科学的に大問題なんですから。 単純なイメージでさえ、もつのは、すごいことなのに、新しい論理や思考回路を作って「わかる」っていうのは、神業です。 私は思うんです。「わかる」っていうのは、 自分で新しいことを考え出すっていうよりも、 意識の底にもともとある智恵に、つながったときのことを言うんじゃないかって。 今ある論理から、新しい理論や、 新しい思考回路ができるのは、 単純な因果関係では説明できないものです。 そこには、一段高い次元へのジャンプが必要です。 このジャンプ力こそ、無意識を通して、宇宙のパワーが働いているんじゃないか? そして、このパワーは、生命の進化の本当の主役だったりして。 微生物にも働く、このパワーと結びつくのは、当然、顕在意識ではなく、無意識の世界のはず。 とすれば、ある意味「トランス状態」に入れれば、 どんな障害をもった子も、智恵の泉につながることができる。 トランス状態っていうのは、何も、催眠術ショーみたいなものじゃなくて テレビコマーシャルをみていても、なっています。 このパソコンを打っている状態も、一つのトランスです。 リラックスしながら、特定のものに集中し、 意識が狭まると無意識の領域が広がる。 絵で解く算数で有名な、どんぐり倶楽部の方法が有効なのもそれを子ども達が、絵を描きながら、イメージを操作しているからです。つまり、お絵かきしながら、無意識につながっている。 「どんぐり」は、教えるのではなく、 子ども達に、無意識の世界に入らせているのじゃないかな? 自分の無意識を探検させ、発見させる。 さらに、そこをさらに深く入っていくと、 集合的な無意識というんですか、 人類共通の無意識の智恵の宝庫にたどり着くんじゃないかって。 とすると、無意識の智恵により、深くアクセスさせるためには、 どうしたらいいのか、ってことになります。 豊かなイメージの世界に入れるように 教師を含め、あらゆる環境を整えるられますし、 普段の日常生活での、接し方、 話の仕方まで見つめ直すことになるんじゃないかと思います。 この場合、教師の役割は、決して「教える」ことじゃない。ほとんどの場合、「教える」ことは、智恵に結びつきません。そうじゃなく、子どもが、自分の智恵の宝庫の扉を開けることの「お手伝い」をする。触媒になること。触媒になるってことは、一方的に刺激を与えることではなく、逆に子どもに影響されることで刺激を与えるのです。少なくとも、協働作業です。待つことが、圧倒的に必要です。これは、子どもの潜在的にもっている智恵への深い尊敬がなければ為しえないことです。 そして、この智恵へのアクセス・プロセスは芸術的なこと、ファンタジーのイメージ、宗教的なことと どうしても結びついてきちゃうでしょう。 まずは、リラックスこそが、良い教育環境だと。
2008.03.07
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教室である子がおふざけをやめない。怒鳴りたくなります。しかし、彼がふざけ続けているのは、どんな背景があるんだろうかって、思いめぐらすと、怒りが好奇心に変わります。 人の行動や発言には、必ず背景があります。その人にとっては、必然なのです。たとえ、それが悪意であっても、本当にふざけであっても、ふざける必然があるのです。 こう考えると、話が通じない相手、石頭の相手、というのは、自分の予想もつかない背景別名、認識フィルターをもっているということで寅さんは、極力、好奇心の対象にしてしまうよう努力してます。 昨日、騒いでいた子は、前の時間に叱られて、一人隔離され、孤独を味わったことから、その反動で、私や級友を試していたのです。(あとでわかったことですが) 私が彼のふざけを受け入れ、逆に他の生徒が、彼を叱ることからガードしてあげて、彼の主張を全部黒板に書き出し、他の意見と一緒にしながら、比較対象できるようにしてあげました。いかにも、浮いた意見だというのが、はっきりします。 私の実験には、興味をもっているようなので、「人間」は近寄ってもいいと許可するとその間だけ、「人間」になってくれました。 何度か繰り返すうちに、いつの間にか、席についていました。 給食の時、彼が私の給食を運んできてくれました。率先してするのは、はじめてのことです。彼の精一杯の気持ちと受け止めました。 あきらかに、おかしな行動の場合、背景に違いがあるというのは、すぐ気づくことができます。しかし、微妙な違いは始末に悪いものがあります。 たとえば、科学の言葉の「質量」にしても、ニュートンが言った「質量」と アインシュタインが使った「質量」では、その意味は、まったく異なります。背景にある理論がまるで違うからです。 今の皇居にある「場所」を教えるのに、江戸時代の地図を持ち出して、江戸城を指し示すのとカーナビで示すのでは、緯度経度は合っているでしょうが意味が全然違うのと同じです。 宗教間の対立って、ほとんどこの問題です。それぞれが必然なのです。 でも、宗教だけじゃないですね。「なんで、こんなことがわかんないんだ」という言葉は、私たちの周り、いたるところにあります。 政治の舞台でもそうですし、国際問題もそうですね。また、教室でも、「何でこの計算がこうなっちゃうんだ」っていつも驚かされます。しかし、それぞれ、認識の必然性があるのです。ある子にとっては、一時記憶が極端に薄いことから、直前の数字を忘れてしまうことからきていたりします。 背景というのは、認識フィルターとも言えるし「仮説」とも言えるでしょう。もし、先生や親の話が子どもに通じていないなら、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、同時に、相手の仮説を自分が理解していないことでもあります。 だったら、怒る前に、「この人は、どんな仮説の世界に生きているんだろう?」って、好奇心をもって、相手の心を読んでみればいいのです。 たかが仮説、されど仮説です。 お互いの拠って立つ仮説を相対化して見てみることは、科学の基本でもあり、また、これを「思いやり」と言うのではないでしょうか? 科学を学ぶ意義には、あるひとつの仮説を絶対視しない訓練があると思います。これができない科学は、ダメとは言いませんが、面白さの半分を失っていると思います。 世の中に100%の客観なんて未来永劫ありえないのです。客観と言っているのは、ある意味、主観の寄せ集めです。では、私たちは、何を努力し、目指しているのか?単純な一元論や二元論を離れることです。客観的な唯一の仮説は、思想統一と同じです。目指すは「インター・サブジェクティブ」訳して「間主観性」です。まさに、主観と主観の間です。バラバラな主観的な仮説同士を、どうやって翻訳し、全体をうまく協働させるかです。難しい言葉を使いましたが、つまり、「相手の立場になって考えてみる」ってことなんだな、つまり。 寅さんのアタマも、仮説だらけ。あなたのアタマも、実は、仮説でいっぱいなんですよ。すべては、仮説に過ぎません。すべてです。
2008.02.20
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「五感力を育てる」を読みました。斎藤 孝さんと、現代人の五感の喪失をレポートした『五感力喪失』の著者、山下柚実さんが、"五感喪失"時代の処方箋を子どもたちに授けたい、子どもたちの身体を救おう!とまとめた1冊です。現代の子どもたちは、五感を統合する力が欠けているようです。コミュニケーション力の土台として、感覚の発達と統合が何より、大前提ですが、その感覚を統合する機能自体が衰えているのではないか、という危機感で貫かれています。ADHD児の特徴的な行動が、感覚を呼び覚ます刺激訓練で良くなっていく事例に目をとっても開かされました。 これまで愛情や心の問題とされてきたことも、身体や五感の変化の中で起こったことかもしれないと思わされます。学習も、心理的な面ばかりを重視して、身体や感覚を大事なものとしてとらえることが、学校をはじめ、社会で欠けていたようです。 学校は、「変わった子」の問題点ばかり指摘するのではなく、具体的にどういう援助や刺激を与えつづければ、希望が見えるのか、具体的に、前向きに 家庭に対し、また社会に対し発信すべきだろうと、つくづく思わされます。そのためには、まず、知らないと。ね。 また、子どもによって、感覚のアンバランスさが、千差万別なんで、統一的なマニュアルなんて作れないこと。だからこそ、子どもを見て、知ることの大切さ。 それにしても、社会が便利になったことの代償が、子どもたちの本来の感覚を奪っていることは、全くの皮肉です。 でも、「親は子どもに対し、五感を研ぎ澄ますチャンスは、その気になりさえすれば、実はいろいろなところにあるんだと教えてあげることが非常に大切ですね。そうした経験を重ねていけば、豊かな「五感力」は、必ず育っていくと思います」と・・・・・・。その実践として、巻末で『「五感力」を育てる10のメソッド』を提言しています。「親子で楽しみたい7つのメソッド」「五感が目覚める3つのメソッド」とあり、親子で、先生と生徒で実践できるものばかりです。 多くの教育関係者と保護者に読んでいただきたい一冊だと思いました。
2008.02.05
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裸の大将で有名な山下清さんは、知的障碍と考えられていますが、彼のように、ハンデを背負いながら、芸術など特別の領域で傑出した才能を示す人は、結構多いものです。 寅さんの担当している学級に、自閉の子がいますが、彼女は、とってもイラストが上手。それと、すごい物知り。さらに、歌も小さいときのから、完璧に覚えている。 最近、高機能自閉症児が大人になったんだろうなあ、って人を大学や大学院で見かけます。彼らは、対人関係はぎこちないもののユニークな研究者であることが多いです。 考えてみれば、アインシュタインも、小さいときは、自閉的な変わりものでした。動物行動学の父と呼ばれ、ノーベル賞を受賞したコンラート・ロレンツも、少年時代、人と交わらず動物と遊ぶことばかりに没頭してました。明らかに自閉症的な子どもでした。 一緒に動物行動学でノーベル賞を取った、ニコ・ティンバーゲンも、子ども時代は、自閉症的な少年で、何と、彼は賞を取ったあと、小児自閉症の心理療法の開発に没頭しました。 天才モーツァルトは、ADHDだと言う学者もいます。 天才も障害者も、ふつうの人とは違い、常識の世界からは逸脱した「異常」であるという点では同じです。 人の考えつかないことを考え、人が思いもよらないものを創り出す天才的な才能。これは、人並みはずれた努力によってももたらされるけれど、たしかに、並外れた構造をもった脳みそからも生み出されているのだ。 だから、脳が、人と違う構造や機能をもっていることが、必ずしもマイナスではないことは、明かだ。新時代の旗手は、異形の脳をもった人たちから生まれる可能性が高い。 人類は、進化の過程で、いろんな性格を許容してきました。それが、環境の変化に対する安全保障でもあったのです。変わり種の存在を尊重することは、いわば、保険をかけるのと同じであると言う人もいます。 そういう功利的なためばかりでなく、宇宙の原理として、幅の広い個性を認める常識を広めたいものです。 しかし、教育の現場を見ると、学校が批判されることが目立ちますが、実は、最初の一番のネックになっているのが、両親や身内であることが多いように思います。まず、親が、現実を受け入れなくては、せっかくの可能性を活かすことができません。ムリにみんなと同じにするのではなく、また、隔離するのでもなく、柔軟にあらゆる可能性を、みんなで探っていけば、必ず幸せなポジションが見つかるはずだと確信します。 もちろん、教職員の意識改革と技術革新が必要です。どっちもどっちですが、やっぱり、親がまず、本当の理解者になってあげるのが、何より幸せに直結するでしょう。 数年前に、学校の補助員のためにセミナーを自主的に開いたときの、公演録を小冊子にしてあります。教員補助の先生ばかりでなく、親御さんにもぜひ、理解していただきいた方が良いんじゃないかと思います。ご希望の方には、喜んでおわけしますので、(実費だけでいいです)ご連絡ください。あとで詳しくご紹介したいと思います。講師は、障碍児の治療と学校現場の指導で有名な東北大学の小児科ドクター(当時)横山浩之先生です。大崎の子どもたちは、大勢お世話になっています。
2008.02.05
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子どもから尊敬される親でありたいという願いから、知ったかぶりをしてしまう親御さんがいます。しかし、本当は、それとは全く反対の反応を見せてあげるのが、子どものためにはいいことだと気づいて欲しいと思います。 コミュニケーションが、学力には、とっても大切なことですが、子どもの年齢が低ければ低いほど、親を驚かす話をすることがとってもうれしいものです。子どもが話してくれた内容がたとえ自分の知っていることだった場合も「初めて聞いた!」「初めて知った!」という顔をしてあげれば、効果は何倍にもなります。 反対に親に、知ったかぶりをされて、軽く受け流されてしまうとせっかくのコミュニケーションパワーが、しぼんでしまいます。 それにしても、誰かに何かを伝えることが嬉しいのは、人間のもっている不思議な性格ですね。普通、有利な情報、「あそこに美味しい果物がある」なんて人に教えないで、自分だけが独占する方が有利なはずです。 でも、きっとそういう性格の部族は、人類の進化の過程で早く滅んだんだと推察されます。そして、情報を伝え合うことがうれしい遺伝子をもった部族だけが生き残った・・・・・・。 それはともかく、科学の発展も同じようなものです。人に喜んでもらえることを伝えたくて、研究をしてきました。だから、科学は、その土台から社会的なものなのです。 子どもが何か話してきたときに、「へえ、そうなんだああ!!」って、驚いてあげることは何よりの子どもへのプレゼント、特に子どもの脳みそへのプレゼントです。 これで、気分が良くなった子どもは、次の日も、みやげ話をもって帰ろうと思うに違いありません。そうすると、いわゆる「アウトプット意識」が高まるんです。つまり、どう話してやろう、と考えながら、授業を聞くようになります。それで、授業で学んだことの定着率は飛躍的に高まるのです。それまで、受動的だった学習スタイルが主体的に変わります。自分なりに何かを見つけようと積極的な姿勢を持つようになれば、学力に良い影響が出ないわけがありません。 学校や塾でも、そういう「おみやげ」を意識してネタを作って欲しいものです。私の実験は、大人こそ、間違うものですから、ぜひ、話してくださいね。 アホになれる親、バンザイ!
2008.02.01
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大人と子どもの脳みその違いは、大人は、「演繹的」な考え方ができるのに対して、子どもは、論理的思考力を司る、前頭前野が発達してませんから大人のように、「こうあるべき」「こうあるはずだ」または、三段論法など理屈で理解しにくいことがあります。 では、どうやって、認識を深めているのかというと、体験の積み重ねによる「帰納的」な思考です。いろいろやっているうちに、何回も表れてくるもの、それを印象的に記憶に残すのです。 ですから、科学教室でも、法則の説明から入るのは、子どものためにならないと思います。一見、クイズの「あてっこ」みたいなものでも、関連する実験を、次から次と予想を立てながらこなしていくことにより、次第に法則の輪郭が浮き出てくるのです。そして、それを使えば、未知のこと、自分がまだ知らないことを正しく予言できるようになると、大感激が待っているのです。 よく、知らないことを説明できたり、解釈できたりする子がいますが、「説明」というのは、結構ごまかしがききます。聞きかじった知識を使って 何となくわかったような気持ちになって、気持ちがいいだけです。 そうじゃなくて、結果を「予言することができる」というのは、白黒がついちゃうことです。自己満足で、気持ちいいでは済みません。 こういう予言ができるようになるには、系統的に、あらゆる場合の体験や実験を感動をこめて経てこなければ、不可能です。 少なくとも、子どもらしく体で、原理原則をつかまえたとは言えません。 先生の言われた通りを憶えて、いつも正解を出す子がいます。しかし、私はこういう子は、自分の頭をスポイルしている可能性が高いと心配になります。 子どもは、自分に正直なら、(自分の頭で考えたら)間違うのが当然だからです。 単に親や先生から、「よい評価」を得たいためだけに勉強しているのではないでしょうか?そうだとしたら、極めて危険です。 幼児教育学者の平井信義教授は、「幼児や学童が、いつも素直で、いつもまじめに学習するという話しを聞く度に、私は身震いすることがしばしばある。真の子どもは、けっしてそのような姿を示さないから、そのような子は、単に仮面をかぶっているにすぎないのである。それを見破る目を、両親も先生も持たないと、じつに危険である」(雑誌「幼児開発」)とおっしゃってます。 特別に優等生ばかりのクラスがあります。そこで、寅さんの実験に挑戦してもらうとある問題では、だいたい全員正答になります。しかし、ある問題では、きれいに、全員間違います。普通は、半々くらいに分かれるのに。 これで優等生は、頭がいいのではないことがわかります。心理学者なのです。先生の心理を読むのです。問題の流れを読むのです。ところが、ひねくれ者の寅さんが、流れに沿わない、前の答えを使うと間違う問題を出すと、きれいにコケてくれるのです。 とんでもなく、やさしく考えるとわかる問題も、優等生ほど、よく間違います。だから、優等生からは、嫌われます。 子どもは、間違えてなんぼ、なのです。ここのところを見失わないで、指導していきたいものです。間違うことを怖れないように。さらに、一歩すすんで、間違うことを楽しむように。
2008.01.31
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畑野そらまめさんの日記に刺激を受けまして、基本的な言葉の意味の理解ができていない恐ろしさを算数の分野で、自分の教育指導のために、まとめたいと思います。 私は、主に、特別支援教室(中学)でのことを想定していますが、実は、普通の子にも、あてはまることが、とっても多いことが受験指導などで感じています。 本当の基礎的な部分のチェックから疑うべきです。「おいおい!そんなことが?」と思わず言いたくなることばかりです。「数字は読めるか?」「数の概念はあるか?」「計算記号は読めるか?」「計算記号の意味はわかっているか?」「桁の概念はあるか?」「概数・近似値などはわかるか?」まずは、日本語の問題です。「123」を 「いちにさん」としか読めない。「ひゃくにじゅうさん」と読めない場合。文章題の場合、その言葉がわからないとアウトになります。 さすがに加減乗除の読み方は、まずできますが、長い計算を読めない・書けないというケースはあります。「括弧の読み方が解らない=優先順序を理解していない」は多いです。これには括弧の読み方がわからないということと、短期記憶メモリーが少なくて全体を把握できないという原因があるようです。 また、分数は、その表記と読み方を、分母と分子を反対にしてしまいます。書くときに上(分子)から書いてしまうからです。ただ、真分数で分子が「1」の場合は大丈夫です。「2分の1」や「3分の1」は「視覚的に覚えやすい」からでしょう。しかし、桁数が大きかったり、仮分数の場合は必ずと言っていいほど間違えます。さらに、中学生では「正負の概念」と「計算記号」が混乱しているケースは極自然ですらあります。同時に、「正負」は数直線上の「方向」を表している、つまり、「数とはベクトル(大きさと方向がある)である」のに、「数とはスカラー(大きさのみの存在)である」と頑固に思い込んでいて、「正負の数」という概念になじめないことが多いです。 言葉の上でも「たす」と「プラス」、「ひく」と「マイナス」の混乱は良く見られます。「計算記号=処理」「正負記号=数自体」という違いが解っていない。こういうことも「自然にわかる」と思っているでしょうが実は「意識して教えないとわからないこと」になのです。「負」の概念の視覚化、イメージ化が、ポイントです。 さらに、×、÷の意味が理解できていないことは、本当に多いです。九九ができたり、計算問題が当たっていても、実は、わかっていない! 「スイカの一切れ」と「○分の一」が同じということが理解できません。そもそも「1」というのが具体的な「1個」ではなくて「単位という概念」であるということが理解できない。 かけ算も、ある数を概念上の単位とするわけですが、それが難しい!たとえ答えが当たっていても、計算過程を記述出来ない場合、重症だと思った方がいいです。すべて暗算でする子も、疑うべき。 「桁」という「n進法」の概念と、「横に一つずれること」これも実はとっても難しいところです。 また、「小数点」という概念も理解してもらうのに、非常に、時間がかかります。概数についても、とても抽象的な概念ですので、身につけるのは大変です。しかし、社会生活上、大切なことですよね。 このように、できる生徒や教師が、思いもよらないところで、引っかかっている場合が、とっても多い。これでは、数学がキライになります。 これは、中学校の指導の問題というより、明らかに、小学校のそれも低学年からの指導の問題だと言えるでしょう。 数学は、土台さえ、しっかりしていれば、後でいくらでも取り返しがつきますが、イメージ化の能力自体をスポイルされた後では、たいへんな苦労を覚悟しなければなりません。 文科省の危機意識と対策は、逆行していると疑った方がいいかもしれません。
2008.01.29
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科学キライの子は、本来いない、というのが私の主張です。同様に、算数キライの子も、本来いないのではないか、とわかってきました。 どちらも、計算技術問題ではなく、イメージの遊びだからです。 特別支援教室は、現代教育の問題点を浮き彫りにしてくれるある意味、素晴らしい実験場だと言えるでしょう。陰山氏らの方法,特に100マス計算に対しての批判が最近、増えています。 寅さん自身は、大学受験の時、超高速学習法を取り入れ、奇跡的に合格した経験をもっているので、つい人に奨めてしまうのですが、これは、抽象的な思考力と理解が一定レベルにあった人間。たとえば、寅さんのように、普段、じ~っくり、マイペースで独自の世界を歩いてきた生徒が試験用の最終仕上げをするときには、とっても有効なのでしょう。その意味で、陰山氏らの方法は本来悪いものではないのです。 しかし、思考力が発達段階にある小学生には、弊害があることは明かです。本来,2+4=6は、●● + ●●●● = ●●●●●● とイメージしながら計算するべきであるのに,九九の暗記と同じに、にたすよんはろく と「覚えればいいんだ」と思ってしまいます。単なる速さ競争は、考える大切さを殺してしまいます。子どものイメージ力の形成には、相当の時間が必要です。それこそ、待つことこそ、教育の本質です。上の2通りの「2+4=6」はとてつもなく、違うのですが,表面だけを見ては、子どもの危機に気がつきません。 科学の知識も全く同じです。「オームの法則」は、実は憶える必要すらないのです。電流とは何か、なぜ流れるのか、という本質をイメージできていれば「見えて」しまうのです。かえって、方程式ばかりを暗記すると、容易にひねった問題のワナに陥ります。 速度の問題を、方程式でしか計算できないなんて不便だと思うでしょう。 特別支援教室では、この欠陥がすぐに露呈するので教え方の穴がすぐにチェックできます。 しかし、子供の概念の形成について知らない大人は「にたすよんはろく」で良いと思っている。 考えて見れば、九九の暗記。これが最悪なのは,この暗記が、教育の成果だと思いこんでしまうことです。そして、子どもに、算数の本質を間違って伝えてしまうからです。 科学キライの本質も、全く同じです。
2008.01.29
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マジメに仕事をすると、ブログになかなか向かえないことがわかった昨日でした。ということは、・・・・・・。 幼児教育の重要性は、言うまでもありません。しかし、中学生の脳みその発育については、警鐘が鳴らされていないように思うのですが、どうでしょう? 寅さんは、毎日、中学生の常軌を逸した、ブレーキのかからない行動を見ています。また、小学生のときと比べて、人格から変わったような「変身」をいっぱいいっぱい見ています。 こりゃ、教育の問題という以上に、子ども達が、いや、人類が、思春期にかかえている脳の発達プログラムの問題ととらえるべきなんだろうなあ、って、穴を開けられた壁を見ながら、考えてしまいます。 単に、大人への反抗とか、自我の目覚めだけでなく、屋根に登ったり、壁を壊したり、放送室でイタズラをすることは、こうすれば、どうなるか、という予測能力を喪失させる脳みその混乱状態としか、考えられません。 人間の脳みそは、幼児期に固まるのではなく、基本回路が、思春期の時期に、大幅な組織替え、リストラをするらしいのです。ホルモンの関係で、情熱やエネルギーは、はちきれんばかり。しかし、それをコントロールする司令塔は、酒に酔ってる状態です。 身体は大人以上の子ども達に、大人の扱いをしたり、判断を任せることは、実は、たいへん罪なことなんだと、寅さんは、最近になって、気づいてきたところです。 小さい小学生の子どもには、留守番を任せない家庭でも、大人より大きな中学生には、簡単に任せてしまいます。しかし、中学生は、小学生以上に危険なんじゃないでしょうか? ダンプカーの運転手が、イカレテるんですから。 イカレタ運転手が、正気を取り戻すまで、適切なコントロールが必要です。まず何より、生命の危機でさえあるのですから。 しかし、同時に、幼児教育と同じく、この脳の発達の時期に、適当な刺激がないと豊かな発達を阻害してしまいます。脳の基本構造の仕上げの大事な時期なんです。一定のコントロール下の、たっぷりの自由と刺激が必要なのも明白です。 つまり、メリハリです。 私は、大ざっぱに見ると、中学校より小学校の方が、子どもの脳に対して、意識をしていると思います。しかし、小学生の脳みそは、どちらかというと安定期にあります。 それより、中学生の脳みそこそ、嵐のまっただ中なんです。この試練の嵐を乗り越えられるように、ナビゲーターが、もっともっと力をつけなければならないように思います。奮闘中の中学校の先生には、敬意を表します。ただ、社会全体として、危機意識が薄いと思うし、中には、お手上げ状態の先生もいらっしゃるんじゃないでしょうか? 社会全体で、ヒゲのはえてきた「赤ちゃん」に面倒を見るエネルギーを注ぎ込まなくては!
2008.01.18
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私たちは、子どもを、「ありのままに」見ているでしょうか?私は、子どもをよ~く見ているから、わかっているんでしょうか? 脳みそのトリックに気をつけましょう。 「子育て」は、どうしても主観が入りやすいですが、「科学」なら大丈夫じゃないでしょうか? 普通、科学ってのは、客観的なもんだと思いますよね。科学の「理論」は色メガネをはずして、世界をありのままに観察して、もし、実験結果と合わなければ捨てられる。 そして、観察や実験結果をよりうまく説明できる別の理論にとって代わるとされていますよね。 ところが、どっこい、現実の科学の歴史は、「見れども見えず」の歴史なのです。 科学哲学者の、トーマス・クーンも、「パラダイム・シフト」の中で通常科学においては、「反証例によって理論自体が却下されることは極めて稀」であると述べています。 むしろ、反証例が挙がれば、科学者たちはそれをそれまでの理論の枠組みの中で解決可能なパラダイムととらえてしまい、経験的事実を説明できるように「改善」されて、そのパラダイム内でより強固な理論へと修正されるのです。 ですから、よほどのことがない限り、人間は、ひとつのパラダイムから逃れられないのです。科学でさえ、そうなのです。 私たちは常に、自分の色眼鏡を通して「事実」を見ているんですねえ。N・R・ハンソンは、『科学理論はいかにして生まれるか』(講談社)の中で、「私たちの認識は、データの蓄積と共に生まれてくるのではなく、それを見る主体側(観察者)の解釈系とでも呼ぶべきものが、同じデータを前にしながら異なった認識結果を生みだし、その結果異なった知識体系や理論体系を造り上げるのであり、これは「客観性」を標榜しているはずの科学がどうしても避けて通ることができない特徴である」、と述べています。 面倒くさい言葉で、イヤになっちゃたかもしれませんが、つまり、色メガネをかけるからこそ、モノは見えるのであって、メガネ抜きの「事実」はない、ということです。 科学者さえ、こうなのですから、子育てや教育現場では、なおさらですね。 有名な「ジャストロー図形」(ウサギにもアヒルにも見える絵)や、老婆にも若い女性にも見える絵のことを思い浮かべてください。見ているモノは全く同じなのに、見る側の解釈によってそれは全く違ったものに見え、しかもそれらを同時に見ることは不可能なのが、人間の認識です。 ウサギの中にアヒルを見ることはできず、アヒルの中にウサギを見ることは決してできないのです。老婆と若い女性の場合もそうです。 この場合、客観的なデータって、何でしょう?インクの粒々でしかありません。それを勝手に、人間が解釈しているのです。 同じように、特定の人を思い浮かべて、「ありがとう」という感謝の気持ちで見た時と「バカヤロウ」という非難する気持ちで見たときは、明らかに、違った事実が見えます。 同じ人なのに、昨日までの恋人が、今日は、憎しみの対象となります。 これらは、急に「事実」が発生したというよりも今まで、見てても、意識にのぼらなかった部分が、急に気になってきたことによって、別の図柄が見えてきたのです。科学においても、「パラダイムの変革」においては、これまで見えていた科学像ないし事実は消滅し、新たな科学像、事実が浮かび上がってくるのです。 科学者でさえ、こうなのですから、保護者会や、学校側と保護者など、立場や価値観が違う人同士で、コミュニケーションがうまくいかないのはあったりまえです。うまくいく方が、おかしい。 だから、相手が理解しないから、といってカッカしないように。 同じ「子どものため」という言葉を使っても、パラダイムが違う人との会話は、共通の価値基準がないために、ズレてしまいます。 そもそも「見る」って、何?ただ、見てるんじゃない? 何の努力もない?いやいや、私たちの脳みそは、すごい努力をしているのです。自分に都合良く解釈しようと、ね。外の世界をそのまま「見ている」わけではないのです。 光の「電子信号」を「解釈して」、初めて「見て」いるのです。 しかも、「見て」から「解釈」しているわけではないのです。「解釈」と「見る」は、同時並行なのです。解釈がなければ、「見る」こと自体ができないのです。 だったら、だったら、幸せ大好きな寅さんは、こう考えてしまいます。イッヒッヒ。自分にとって、幸せに「解釈」してしまおう。 すべての子を「素晴らしい子」と見ちゃおう。うちの家内を「絶世の美女」と見ちゃおう。我が家を「幸せ満載の家庭」だと見ちゃおう。 え?、そう簡単にパラダイムシフトできない?実は、と~っても簡単なんですよ。人間の脳みそは、不合理なことがキライなんです。何とか、つじつまを合わせたいと願ってるんです。 これを逆手に使うんです。「うちの子は、素晴らしい」と30回くらい叫んでみましょう。言う前と言った後で、子どもへの感覚がまるで違うでしょう? 脳みそは、「素晴らしい」という言葉を聞いて、「何であのガキが素晴らしいんだ?」「どこかに良いところを見つけて納得しないと、気持ち悪いよ~」って、必死になって、良いところを探してくれるんです。 そして、いつの間にか、良いところが引っかかる情報網をアタマにセットしてくれるんです。そして、これは、「だまし」ではありません。これも、「事実」なのです。 ですから、幸せになるのは、簡単ですね。こんな安直なことでいいんだろうかってもんです。 私の科学教室の目標は、このパラダイムシフトを起こさせることだとも言えるなあ。
2007.12.15
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あなたが、もし、あと余命いくばくも無いとなったら、何をしたいですか? 考えたくもないですけれど、もし、子どもがあといくらも生きられないと、自覚していたら、そのお子さんは、何をしたいと言うでしょう? 先日の障碍児医療などで有名な弓先生の講演で聞いたのですが、早老病など、11歳くらいまでしか生きられないと自覚している子どもに最も大きな希望は何か?と聞くと決まって、「勉強したい」という答えが返ってくるんだそうです!これは、どこの国でも同じだそうです。 じゃあ、普段、「勉強したくない!」と言っているうちのガキどもは、一体何なんだって思っちゃいますよね。 でも、本来、子どもは好奇心の塊なんですね。自然に育てれば、必ず自発的に勉強する本能をもっているということでしょう。 皮肉なことに、いかに教え込むか、という技術よりも意欲を阻害している要因を取り除いてやる技術が、大人の第一の課題になってきています。 人をコントロールしようという思想。これが癌だと思います。 人を解き放ち、内奥に閉じこめられている自発的エネルギーを引き出してやること。これが「Education]です。 事実、興味を示し、乗ってきたときの子どもたちの集中力は、すさまじいものがあります。あの津波のような激流の前には、ただただ、脱帽しながらガイドを務めさせていただくしかありません。 明治に、「教育」という言葉を使いだしたときも、異論がありました。「発育」にするべきだ、って意見もありました。「開智」という案も。 子どもを、もっともっと、もっと! 信じるべきだと思います。
2007.12.10
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「楽しい授業」の11月号の特集を読んで、そうだなあって、思ったことです。 「理科好きの子どもを作ろう」と言われます。私たち大人は、子どもたちを理科好きに「する」のでしょうか? そもそも「人間を作る」っていうことは、粘土や人形じゃないんですから。 どうしても、先生という稼業は、子どもを変えてみたい欲望をもってしまうんじゃないでしょうか。 寅さんも、しばらくはそうでした。私と接した子が、翌日から、違った姿になっているのを見たい!って。 しかし、それは、逆に恐ろしいことですよね。私が理想とする子どもの姿が、本当に良いのかどうか。いろんな子がいて、いろんな生き方があって、いいはずです。 それに、だいたいにおいて、そうそう人間は変わりませんって。1年間接したからって、本質は変わりません。一生かわらないものかもしれません。ただ、その本質が光り輝くか、曇ったままかってところなのでしょう。 少なくとも、たった1時間や2時間の実験授業で、人生を変えるなんて意図するほうが、恐ろしいことです。 しかし、長い人生の中で、あるとき、ふと、昔の体験と重なって、「ああ。こういうことだったのではないか。」「こう考えてみればいいんじゃないか。」って、ヒントになる時が、本人は気づかないところで起きると思うのです。記憶は、決して無くなりませんから。 それは、とても大きなことです。子どもに超長期の時限発火装置をセットしているのです。 私たちは、そういう緊張感をもって、子どもに接するべきでしょう。 もちろん、科学が好きになった、って言ってくれるのはうれしいし、明日から、行動がちょっと変わるかもしれません。でも、人間が人間に影響を与えるというのは、小賢しい人間の理性が意図する次元では捉えられないものだと思います。 大地を吹き渡る風にように、自然に接するのが、一番。子どもは、大人のお陰で、教育されて成長するのではなく、太陽の力で、自然に成長していくのです。
2007.11.03
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個性を大切に、子どもの才能を伸ばす?もっともらしい言葉だけど、寅さんは疑問をもってしまいます。 子どもの個性って、誰が評価するわけ?子どもの才能は、誰が判断するわけ? あなたは、あなたの本当の才能がわかりますか?自分でわからないから、親や先生が判断する? 「あなたは、こちらに向いている」とアドバイスしてもらいたいですか?あなたは、自分の人生を他人に決めてもらいたいですか? たとえ、親でも、違うんじゃないでしょうか? その子の魂の輝きは、親にも、漠然としかわからないもの。親の想像を超えたところにあるものです。 結局、本人に聞くしかないのです。本人が気づくしかないのです。自分は何をしたいのか? 本当は、大人も誰もが、本当の自分の人生を活き活きと生きたいんです。 ところが、いろんな常識が、パタパタパタンとフタをしています。 子どもにも、いろんな「常識」が降りかかります。それらは、誰が常識にしたものでしょう?その子にとっては、関わりがないことです。 常識は、ほとんどが、他人の幸せのための、他人の目的から生まれました。親子の間でも、そうです。我が子のために、と信じてますが、子どもにとっては、それは自分の人生じゃないのです。 常識に従わないと、社会でうまくやっていけない?表面的には、そう思えます。しかし、自分の人生を歩んでいない子は、必ず将来心にポッカリ、穴が空いていることに気づきます。それにに耐えきれず、何かで埋め合わせをしようとします。 しかし、本来の自分以外のもので、心は埋められない。それで、さらに、他人の誘導にひっかかり、本当の自分から遠ざかっていくのです。生命の輝きとは無縁の人生を終えるのです。 不思議なことに、 自分の人生を生きていくことが、結局は、社会にもっとも貢献をし、社会から評価されます。これは、断言です。 戦争に協力しないことが、日本のためになったことと同じです。 社会からの評価を求めないで、自分に正直に生きると社会から評価されるのです。 今、社会で活躍している一流の人は、常識的な評価基準にとらわれないで仕事をしたから地位を確立したのです。流行を作る人は、今の流行にとらわれません。流行をつくる人と、追いかける人、どっちが幸せでしょう。いや、どっちがセンスが良いでしょう。人が作った流行通りのファッションを着ている人は、ほとんど、不格好です。似合ってません。いかに流行遅れの素材でも、自分のセンスに忠実なファッションこそ、エレガントなのです。そういう人が評価され、それをマネする人が生まれ、流行となるのです。 もっと大切なことは、自分の魂に忠実に、生きると、エネルギーを消耗しないのです。疲れるどころか、さらに、どんどん元気になっていくのです。 自分の目標なら、不自然な力みがありません。何かを望んだときに起きる、「引き寄せの法則」の裏法則恐ろしい「反作用の法則」にひっかかりません。なぜなら、その目標は、正直な自分自身だから。無理矢理や、いかにも、いかにも、がありません。全く自然なのです。だから、まるで、努力しないのに、世界の方が動いてくれて、奇跡のトビラを開いてくれるのです。 自分の本当の道なら、オリンピックに出ても、自分を見失いません。 この成果は、英才教育の比じゃありません。 子どもに、自分の道を歩ませることです。本当の気持ちに気づかせることです。 そうだとしたら、そのための前提条件があります。 それは、本当の自分がOKだと、自己肯定感をもたせることです。 ほとんど子は、本当の自分は良くないんだ、と洗脳されてます。本当に自己を表現したら、怒られるし、親を悲しませると信じています。誰が洗脳したんでしょう?親です。先生です。この呪縛を解いてやらなくっちゃ。
2007.10.25
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教育って、子どもから自信を奪い去るもの? だったら、要らないんじゃない? 勉強ができない子は、もちろん自信を失います。でも、それ以上に、勉強ができる子から自信を奪い取っていることに気づいていますか? それは、自分の外に作られた基準に一体化してしまうからです。本当の自分を出す芽を殺されてしまうからです。 勉強ができない子は、かえって、別なところで勝負しようとします。だから、本来の自分に目覚めやすい。しかし、できる子は、飼い殺されてしまいます。 世の中のスターを見渡してみてください。学校の評価基準と合ってますか?とんでもない人たちばかりですよね。 本物のスターほど、学校の基準とは別の基準をもってることがわかります。少なくとも、人マネではありません。 オリジナルな、それでいて、本来の自分を自然に生かした自分だけの基準です。 人は一人ずつが生まれながらにスターです。もう、何も要らないくらいスターとして必要なものは、すでに持っています。小さい子には、小さい子なりの。大人には大人なりの。 それなのに、スターと呼ばれる人がほんの一部なのは、なぜ? 社会は、大いなるワナを仕掛けて、子どもたちを、そして人類の光を奪い去っています。「こうしなければ、スターになれないんだ。」「社会は厳しいんだ。」「これができなければ、君は生きていけなくなるんだ。」 そして、 「ぼくには、あれができない。」「あの人にほめられるようになりたい。」 と思うようになります。 誰も、その子がもってる光をほめたたえる人がいません。だれ一人として同じでない、オリジナルな光はか細く弱々しく内側にともっています。 何かを付け加えることではないのです。それでは、かえって光を隠してしまいます。覆いを取ってやればいいだけなのです。 昔、あるとき、ある人が、勝手に作った基準が、いつの間にか、モンスターに成長して、みんなで合わせようとします。そして、みんなで自分の判断を放棄してます。人の判断を自分の判断だと思いこんで一体化してます。 考えてみてください。特殊学級の子に、受験勉強させる意味を。 どんなに頑張ったって、普通学級の子にやっと追いつくかどうか。 じゃあ、この子は、「できない子」とレッテルを貼っていいのか?いわゆる「かわいそうな子」なのか?一生、人様に面倒を見てもらわなければならないから、「一人前」ではないのか? 特殊学級の中でも、優劣が如実に出ます。できる子は、優越感をもち、できない子は、「自分ってやっぱりダメなんだ。」 でも、実は、普通学級の子も、特殊学級の子と、本質的に何も変わらないんです。外側の基準をのさばらせておく限り、み~んなが被害者なのです。誰もが、人様に支えられて生きていくのです。 絶対的な自分への自信。自分本来への信頼を覆い隠すものは、すべて敵。 特殊学級の子こそ、スターに育ちやすい。少なくとも、そう手助けをする存在でありたい。
2007.10.24
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中学校の文化祭をハシゴしてきました。自由に任されたときの、中学生のパワーは、大人の想像を超えるものがあることを、つくづく思い知りました。 これが、あの生徒たちか?同じ子だとは思えません。 斬新な青春ドラマを観ているようでした。(実際、その通りですね) 教育って何だろう?信頼して寄り添う姿勢なんだろうか? 一つ前に、図々しい教師を、って書きましたが、これは、押しつけとは違います。押しつけは、相手がイヤだとわかってながら、無理矢理押し込むことです。 本当の「図々しい」とは、相手も喜ぶはずだ、と「わかっちゃってること」「当然なこと」を当たり前にするだけです。押しつけてる気持ちは、みじんもありません。(別の角度から見れば、超押しつけ??)図々しい本人にすれば、図々しいとは思わないのです。そこが、ポイントですね。 で、当たり前のことを当たり前に、生徒を信頼するのです。そうすると、当たり前に、生徒は返してくれます。 上級生のこのステージ・パフォーマンスを観た下級生は、来年、もっと素晴らしいものを創ってくれるに違いない。これこそ文化だ。文化祭だ。 今日は、商店街では秋祭り。寅さんは、あちこちハシゴの繰り返しです。
2007.10.20
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科学寅さんは、中学校の特殊学級で、いろんなタイプの子のサポートをしています。ある子は、字面は読めるのです。しかし、内容理解が困難です。 こういう壁は、人間の認識システムをあらためて、考えさせられる良い機会です。 普段、私たちが文章を読んでいるときというのは、私たちが意識していない記憶システムが、総動員されてるんですね。まず、ある長さをもつ文章を理解しようとするときは、次々に目に映る一文字一文字を、一時的に記憶システムの中に蓄えて保存し、後で、総合して文字列として再構成しなければならないんです。すごいでしょう!? さらに、単語や文を理解するということは、文法や単語の知識を記憶貯蔵庫から取り出してきて、保存している文字列と照合して意味を確定することなのです。 パソコンでも相当高度な働きですよね。 で、もって、肝心の文章の内容を理解したり、覚えたり、さらには、表現したりという、ふつう授業でやっている読解の働きは、その次の段階に初めて出てくるんです。 子どもがすぐに、本を読めなくても、当然ですよね。 そして、読解困難な子には、短期記憶(作業記憶)が弱い子が多いのですが、その子向けのトレーニングを用意してやらなければいけません。一般の子と同じメニューをしていては、ますます本読みが嫌いになります。 さ、今日も行ってきます。
2007.09.21
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ご案内です。この度、古川第二小学校PTA研修委員会が事務局になって、特別支援教育理解のための講話の会「身近にいる支援を必要とする子どもの理解と支援」が開催されます。 日時:平成19年10月6日(土) 10:00~12:00会場:大崎市立古川第二小学校体育館講師:宮城県特別支援教育センター 教育班 主幹 千葉道夫 先生 「相談コーナー」も開設されます。(午後1時半から4時まで 要 予約)参加申込み:古川第二小学校教頭先生まで 電話 0229-22-0540 FAX 0229-22-2805 こういう講座は、とってもありがたいことです。役員の皆様、ありがとうございます。そして、ご苦労さまです。ADHD,学習障害、アスペルガー、自閉症、ダウン症などなど、症状や程度はさまざまですが、学校には特別に手助けを必要とする子どもたちが大勢います。調査によれば、その割合は、義務教育を受けている子どもの6%だそうですが、広く見れば、もっとだというのが、現場の実感です。 これらの子ども達に対して、学校では、組織をあげてどんな対応をしていこうとしているのか、教師はどんなことに注意をしようとしているのか、保護者は、地域は、どう関わっていくべきなのか、居心地の良い社会、多様性を受け入れる社会を創るためにぜひ、多くの方々に知っていただきたいと願います。もちろん、私も参加します。
2007.09.11
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一つ前の投稿に関連して、ぜひ、おすすめしたい文章があります。寺田寅彦(日本の物理学者 1878~1935、随筆家、俳人でもある)の「科学者とあたま」という随筆です。 60年以上前に書かれたものですが、全くカビの生えていない内容です。ちなみに、寺田寅彦の作品は著作権が切れてます。科学者とあたま(抜粋) 「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧(あいまい)不鮮明から生まれることはもちろんである。 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密(ちみつ)な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。 しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事(さはんじ)の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須(ひっす)なことである。 この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者(いなかもの)であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。 頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。 少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。 そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。 () 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸(しがい)の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。 () 頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。 人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。 しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。 つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。 この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。 これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子(こうし)のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子(ろうし)やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉(ばしょう)や広重(ひろしげ)の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。 これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。 またこれを読んで会心の笑(え)みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。 これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。(昭和八年十月、鉄塔)「寺田寅彦随筆集 第四巻」
2007.09.08
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末の娘(中1)の特技は、質問と「ありがとう」です。上のお姉ちゃん、お兄ちゃんに比べると、学力や理解力は、一歩も二歩も遅れているのですがよくまあ、こんなことまで恥ずかしくなく、聞けるもんだ、ということまで気軽に、しかも、真剣に聞いてきます。そして、教えてもらうと、必ず「ありがとう」と心を込めて言うのです。彼女の頭脳の理解システムは、それ自体としては、ちょっと問題あるのですが、それはともかく、周囲の人間にとって、真剣に質問されて、「ありがとう」、と言われるのは、とても生き甲斐を感じさせてくれるものです。今朝も、しばらく、教科書を前につきあってしまいました。さきほど病院の朝の受付に行って帰ってくる途中、大きなカバンを3つもかかえて、エッサ、エッサと走ってくる女の子がいます。末娘です。カバンを持ち歩かない子さえいる中、遅刻しても気にしない子がいる中、花も恥じらう女の子が、なりふり構わず走る姿に、「恵みだなあ」って、神様に感謝した次第です。
2007.01.10
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ADHDのT君小学2年生の暮れには、既に母親から、見捨てられたT君すべては、ボクが悪いんだと思いこんでいるT君両親の離婚も自分のせいだと思っているT君生まれて来ない方が良かったと思いこんでいたT君どうしても、字が覚えられなかったT君指示に従えないT君学校で、先生に怒られてばかりのT君クラスメイトにバカにされ続けてきたT君仲間はずれのT君でも、理科だけは、天才だったT君4年生にして、遊びでも、敵に塩を送ることを体得したT君5年生で半導体の研究をしたT君いつも自分のアタマで考えていたT君離ればなれになった妹に、これ以上優しくはできないだろう、というくらい優しいT君そんな君が、今、立派な学生になり、筋の通らないことに反対し、お父さんをしっかり支えている。君の苦労は、決してムダにはならない。必ず報われる。そうに決まっている。君に出会えて、私は幸せです。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.20
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「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。「どんぐりと山猫」(宮沢賢治)あらゆるものに、仏を見ることすべての人にある仏を拝むこともちろん、すべての子どもにある神を拝すること(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.19
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うらしまたろう ふるだて かつあき 小2こくごでうらしまたろうならいましたぼくはうらしまたろう だめだとおもいます。おとうさん おかあさんにだまっていつまでもりゅうぐうで あそんでいたからです(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.19
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明るいトーンの学級懇談会づくりこの本と、同じ著者の 「明るいトーンの個が育つ学級づくり」お母さんにもおすすめです。私たちは、しばしば、標準値より上なら、「よくやった」、下なら、「何、やってるんだ」と言ってしまいます。その常識をひっくり返す、指導方法です。効果バツグンです。たとえば、授業開始。チャイムが鳴ります。先生が入ってきます。ガヤガヤ。ドタバタ。「何やってるんだ。何回いわれたらわかるんだ。」「だれだ、一番うるさいのは。」これは標準値がある場合の指導方法です。これが、絶対無、絶対否定からの発想ですと(寅さん流解釈)「おはようございまーす。おぉ、元気がいいな。さぁ、席に着こう!」「いやー、元気があっていいなあー。先生が来るまで、自分で考えて何でもいいからやっていた人、手を挙げてごらん。」「おぉ、三人もいるんですか。すごいですねぇ。たいしたもんですねぇ。」もし一人もいない場合「いやー、正直でうれしいな。全員が手を挙げるよりうれしいな。」子どもたちは、見事に伸びていきます。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.19
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昨夜のコンサートは、良かったんですが、裏方では、たいへんなことが起きてました。終了が予定より1時間も延び、この辺の田舎にとっては、もうお休み時間なのに、最後の最後にアフリカンのパーカッションが私たちも腰を抜かすばかりのドラムを打ち鳴らしたのです。当然、クレームの嵐。先ほど、ご近所にお詫びして歩いてきました。主催者も、醸室内の店長から、相当しぼられていました。また、管理人として、私の責任ものがれることはできません。でもね、歩き回りながら、なぜか、とっても清々しいのです。彼らの尻ぬぐいをしてあげているということが、うれしい自分に気づきます。私はこれまで多くの方々に尻ぬぐいをして育てられてきました。今も、多大な迷惑をかけています。その一端でも、お返しができる立場っていうのは、ありがたいなあって思うのです。あやまりに歩くことによって、ご近所とさらに、つながりを深めることができます。あ、こういう生活があるんだ、って気づかされます。来春以降、私はこのホール管理人の立場を変わることになると思うのですが、貴重な経験だ、お宝だ、と思います。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.18
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うちの末娘(中1)が、最近、筋肉痛を理由に学校へ行くのをしぶっていました。「部活をしていれば、当然乗り越えなければならない壁なんだから、」って、励まして行かせていました。ところが、昨日、女房が病院へ連れていくと何と「腰椎分離症」1ヶ月の運動停止とコルセットでした。娘の場合、生まれつきのようで、ここに来て、発症したようです。気づいてやれなかったことと、サボリぐせではなかったことがわかりました。でも、何とか明るく前向きにしてくれているので、助かります。昨日は、その娘の学年の親子綱引き大会娘も楽しみにしていたのですが、残念。娘のクラスは、学業は学年中ビリなんですが、スポーツは1番です。ここで勝たなければ、良いところが無いじゃないか。ところが、最初、チームワークが悪く、連敗。しかし、途中から、目覚めて勝ちだします。最後は、それまで最強の全勝チームと対戦し、勝ってしまったのです。その喜ぶこと喜ぶこと。そして、僅差で2位が決まったら、また大喜び。クラスによって、雰囲気がずいぶん違います。さめたクラスがほとんどです。成績も悪く、先生の言うことを聞かないクラスがとっても元気が良いのを見ると、「健康が一番」と思ってしまいます。心身ともに。うちの担任の先生が、子どもと一緒に熱くなっているのが印象的でした。こういう先生だから、何とか、まとめてくれているんだと思いました。ありがたいと思いました。ところで、こういう普通じゃない夫に、女房はよく明るくついていてくれるもんです。朝食をいただきながら、陰で手を合わせました。(激励いただけます方は、クリックをお願いします。)
2006.12.14
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愛とは、何でしょう?真実の愛とは、他者の考え、言葉、行動をコントロールし、変えようとすることでしょうか?いや、違うと思います。もちろん、安全確保や人生上の指導で、無理矢理でも、方向転換させなければならないことはあります。しかし、それは例外的な局面です。「愛」とは何でしょうか? 完全な無条件の愛こそが、本当の愛と言えると思います。条件をつけないのです。たとえ、犯罪者になったとしても、愛していくのです。愛とは、他人にすべてを与えることじゃないでしょうか?それには、すべての〈自由〉も含まれます。また自分自身に、すべての〈自由〉を与えることです。愛とは、他者がやりたいと思っていることを、尊重し、受け入れることです。愛とは、他者の願望や意見を、たとえあなたが同意しなくても、あるいは、理解できなくても、尊重し、受け入れることです。(注意)子どもを愛するということは、子どもをあるがままに認める(まるごと認める)ことで、子どもが欲しがるものをすべて与えることではないことは、もちろんです。「自分とは違う相手の意見を受け入れる」という愛の精神。これが、日本の教育界で、議論不足だと思います。どう思われますか?私の理解では、もともと、日本の学校は、コントロールの思想でスタートして今日まで至っているように思います。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.12.12
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ご縁があって、中3の子、2人の受験指導をはじめました。数学ですが、分数、割り算、小数点、比例、メチャクチャです。よく、これまで、ガマンして授業を受けてきたね、って、ねぎらいの言葉をかけてしまいました。こりゃ、拷問だったろう。2次関数どころの話しじゃありません。 でも、こういう子が、相当いるのでしょう。学力向上が叫ばれていますが、こういう基礎の基礎が抜けている子の補修は、塾や家庭教師が穴埋めしてやるしか、ないんだろうなあ。中学校の先生の責任とは言えないでしょう。なら、小学校の先生の責任か。 うん、そうだよなあ。基礎の基礎が抜けたまま、中学校に上げてしまった。でも、なあ。現実的な忙しさを考えると、70%の責任としか言えないかも。 なら、現実的に、置いてけぼりの子は、どうすればいいんだ。地域から、補助の先生をいっぱい投入して、フォローをしてやるしかないと思います。 今日、一番心配だった、勉強アレルギーというか、トラウマの部分は、何とかクリアしたようです。数学とは、何なのか?数学が好きな人のノーミソは、どう違うのか、ということを解説したつもりです。明日、また来るので、いよいよ患部にメスを入れます。 とにかく、ご縁に感謝。 (共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.11.03
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先日の講演会で、南修治さんのCDが紹介されました。中学生の気持ちを、こんなに言い表している詩もないじゃない?3つばかり曲を聴きましたが、うっすら涙をうかべているお母さんもいました。 わかってほしい愛されたいと求め続けたのにこんなに傷ついてしまったよ心の中の このやるせない思いを誰か抱きしめてくれるのならぼろぼろになって生きていくなんて何が楽しいものかひとりぼっちで生きていくなんて誰がすすんで選ぶものかわかってほしい、ただそれだけなんだ姿、形、言葉じゃないんだわかってほしいただそれだけなんだ心の叫びを聞いてほしい愛されたいと求め続けたのにこんなに傷ついてしまったよとがめられれば その言葉の数だけ心は痛んでいくばかり本当はこんなことはしたくないのにせずにはおれないのは何故ちょっとした勇気があればいいのに身体が動かないのは何故わかってほしいただそれだけなんだ心閉ざすそのわけをわかってほしいただそれだけなんだ強がり言ってるそのわけを愛されたいと求め続けたのにこんなに傷ついてしまったよ押さえきれない怒りと悲しみを誰かにぶつけてしまうのさ本当の自分を伝えられるものならば投げやりになることもなかっただろう共に泣いてくれる人が一人でもいたならば心を開くこともできただろうわかってほしいただそれだけなんだ悔しくてたまらないこの気持ちわかってほしいただそれだけなんだ悲しくてたまらないこの気持ち 南修治さんのHPがありますので、ぜひ、ご覧ください。(共感いただけました方は、クリックをお願いします。)
2006.11.03
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