暖冬傾向で、ゴルフ場の予約が多い!
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
072226
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
”ロゴスに訊け”池田晶子 著
池田晶子さんの”ロゴスに訊け”からの抜粋です。
昨年、2009年の確か夏ごろに読んだと思います。
気になったところをパソコンに入力しておいたものが先日出てきました。
自分で時々読み返すためにも、ここに載せておくことにしました。
(文章の最後の数字はページです。)
それぞれの文章に対して、自分が思ったことなんかを、
追い追い、付け加えていこうかなと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、人に媚びを売るようなものが、哲学であるはずがない。
哲学とは、それをするものに、返す刀で覚悟を問うものだからである。
周りがそう動くから自分もそう動く、という群れとしての習性を、わたしはほどんど持ち合わせていない。
なぜ皆はそう動くのか、考える方が面白いのである。
飛脚の出現以前には、人は、遠路はるばる出かけて行って、じかに話した。
ということは、つまり、そのようにしてまで話す必要のあることしか話さなかったということである。
つまり、言葉は大事なものだった。言葉はそれ自体が価値だったということである。
そんな時代が、かつては確かに存在したのだ。32
あるいは、他人の心、なぜその人はそうなったのかといったことも、わからない事柄である。
おそらくそれは、他人どころか本人にすら、決してわからないような事柄のはずである。
だから私は、この種の事柄について断言しないし、断言できないのはこのように分からないからだと示して、その責任を取ることにしている。38
真正の謎は、それを捉えた者に、必ずや覚悟を要求するものだ。捉えてしまった限り、全生涯全宇宙と引き換えに、それを考え抜くしかないと、人は知る。
なぜなら、謎は他でもない、この私だからである。どうやってこの謎から逃れることができようか。
この絶対永劫不可解の前に、この世の生活や生命がなんぼのもんじゃい!44
形而下において、一は一であって、ニではない。物質のきまりである。
ところが、形而上においては、一は二であり多であり全である。一がすなわち全である。なぜなら、”私”が誰でもないからである。誰でもないから、”私”がすなわち”われわれ”であるということは、こういうことだ。45
・・・そう考えていると、この世界で生きることには、やっぱり特に意味は無く、ここに生まれたから生きているしかいい様がありません。
その上で、”どう生きていこうか”、と考えた時、結局"真善美に生きる”しかないと思います。55
書くということはそれ自体が欠落のしるし、そのぶんだけの"不幸”の自覚もありもするし。55
”何が悪い”という言い方で、外的な道徳への異議を申し立てているのなら、外的な道徳にとってはなにも悪くない。
そもそも外的な道徳は、それが外的であるというまさにその理由によって、人の行為を規制する力は持たないからである。
善悪が人の行為を規制する力を持つのは、それが内的なものだと知られている時だけだ。
別の言い方をすれば、悪いことが悪いのは、それが社会にとって悪いからではなく、自分にとって悪いからだと知っているからである。63
第一、快楽といったところで、「しょせん」この世の快楽ではないか。つねづね私はそう思う。
快楽は快楽というひとつの価値なのだから、したがって悪いことではない。
しかし、それはしょせんこの世の価値だということを知らないから、人はそれに執着し、その価値を失うまいとして、逆にその価値を失うのである。浅はかにして愚かなるわれわれ。
「しょせん」この世と言うからには、まるで私はあの世の価値を信じているかのようである。まさかとんでもない。
この世以外のどこにあの世なんてものがあるのか、知っているなら教えて欲しい。
私が知っているのは、この世が実はあの世であるというこのことだけである。
この世がそのままあの世であると言うこのこと以外の確かなことを、私はどうしても知ることができないのである。
いや、これは本当に可笑しいのである。「霊は存在するのか」「心はどこにあるのか」と問い返せば、誰もが一瞬は答えに窮するに決まっている。
そのことがどういうことなのか、実は誰にもわかっていないのである。にもかかわらず、お盆が来れば親の墓参りへ行くし、心が傷つけば悲しかったりするわけである。
つまり、それがどういうことなのかわからないことを、しかしわれわれはぬかりなく生きている。われわれの人生とは謎そのものなのである。
こんなふうな視点を一度獲得すると、人生とか世の中とか、要するに一切合財が一種の冗談みたいに見えてくるのが面白いのである。
お辞儀をして戦没者の霊を慰めていると思っているのはその人であって、じつはそこはカラッポなのかもしれないし、心が張り裂けんばかりに悲しくても、「何が」実際は張り裂けているのか、よく考えるとわからなかったりするわけである。
われわれは、存在のからくりにダマされて、あれこれやってるからくり人形みたいなものである。
自分が何をやっているのかわからないことを、とにかくみんなで一所懸命にやっている。やっぱりこれって可笑しいじゃないの。90
しかし、自慢ではないが、そんな人(信者や信奉者)は未だに一人も現れていない。
当然である。私が語っているのは、あくまでも存在の謎であって、いかなる解答でもないからである。
もしも何か解答めいたことを述べれば、そんな気になった信者めいた人も出てくるかもしれないが、何しろ私は解答なんぞ知らないのだから、そんなことは語りようもない。
逆に、いかに語れないことを語ることにこそ、この仕事の命を賭けているのだから、もしも信奉者、追随者なんぞが現れたら、それは物書きとしての敗北であると私は思っている。97
事柄の詳細にはこれ以上立ち入らない。きりがないからではない。無意味だからである。
人によって全部が違う個々の事例の、そのいちいちにおける善悪、是非を、当事者以外の他人や社会や法律が悪いと言おうが、己が(魂が)善いと直感するなら、臆せずそれを為すだけだ。
結果としてそれが闘いになるのなら、結果として闘い続けることになるだけである。
人が自分のために生きるとは、そういうこと以外ではあり得ないはずなのだが、善悪の判断を他人に委ねて、どうして人は自分のために生きていると思っているのだろう。105
天は天として、ある意味で無情である。そのように在るようにそのように在るだけなのだから、そのように在る自分を幸福だと思う以外に幸福などないのである。
なのに人は欲深だから、どこか別のところにそれがあるように思い、それを請求する。
請求しようにも、誰に請求すればいいのかわからないから、それを社会に請求する。
これが今日通用しているところの「権利」の正体で、あげく、生きるにも「権利」死ぬにも「権利」、産む産まないも全部が「権利」である。
自分の幸福を他人に請求して、誰の人生を生きているつもりでいるのだろう。
「権利」を掲げることで、「幸福」を逃しているのは他でもないその人なのである。
権利があるのに叶えられない自分は不幸だと、当然思うことになるからである。108
驚くことをしないから、文句のひとつも出てくるというわけである。109
「わかる」の経験において、自他の区別は消失する。177
答えがあると思っているから、問いが立つわけである。178
その、「わかった」とは、つまり、どういうことなのか。そこからこそ問いはじめてしまうからである。
科学が答えとするものが、哲学にとっては問いだからである。179
宇宙大の合わせ鏡と化した理性にとって、「わかる」とは「わからない」と「わかる」ことに他ならないからである。179
言葉というものは、正確に使われるほど、誰のものでもなくなる。
言葉の使用は人物の大きさによって、おのずから決まるのである。184
理性に沿って正しく考えてゆけば、ああいった事柄は、じっさい、不思議でもなんでもないのである。
存在が存在すると言う言語道断の不思議に比べれば、幽霊だの臨死体験だのなんてのは、それこそ吹けば飛ぶような屁みたいなもんなのである。
そういうどーでもいいことに驚いて騒いでいるよりも、もっと大事なことに驚いて、考えたらどうだろう、といつも思う。189
彼ら自身も、そういった自分の能力を、超能力だなんて思ってやしない。当然だろう。
それが彼らにとっての「自分である」ということ、すなわち常識だからである。
多くの人には見えないものが見えたり、感じられないものが感じられたりするのは、たとえば私が、多くの人には考えられないことが考えられたりするのと同じことである。
人にはそれぞれの才能や得手不得手がある。それだけのことではなかろうか。
彼らもそれらをそうと心得ているので、皆普通以上に真っ当である。189
ああいった能力を特別視する理由はもうひとつ、それによって、何かご利益があると思うからだろう。
ああいった能力の恩恵にあずかることによって、うまくゆかない物事が、うまくゆくようになる。
俗に言う、"神頼み”である。しかし、物事がうまくゆかない理由は、多くの場合、そのようにして自己の利益をのみ求めるというまさにそこにあるのだから、
やはり同じことである。
自己の利益と全体の利益とが合致している場合には、往々にして物事というのはうまくゆくものなのだから、結局のところはこれも当たり前だけれども、
すべては自分の心がけなのである。正しくない望みはサイババにだって叶えられないか、叶えられても早晩そのツケは自分のところへ返ってくるはずである。190
だから、多くの人が感じるところの「不安」というのを、わたしが特に感じないのは、やはり先に言った生死への腹の括り方と、その「自分」というものの意識のもちようが、いくぶん違うところにあるように思う。
人が、「自分だけが別だ」と思いたくなる、その「自分」というのが、私にはあまり強くないのである。
より正確にいうと、「自分」とは誰のことなのか、私にはまったくわかっていない。
したがって、「自分と他人」という区分の仕方も、じつはよくわかっていない。どこまでが自分で、どこまでが他人なのか、考えるほどにわからなくなるのである。
ある意味では、すべての他人が自分みたいなもので、「自分だけは別だ」、だから「自分だけ良ければ良い」という発想にならない。したがって、これを裏から言えば、すべてが他人すなわち成り行きまかせなので、不安など感じようがないのである。195
ジャーナリストの人々なども、悲愴な使命感によって、これと似たようなことを言うけれども、それとは違う。
あの人々は、自分と世界とは別のものだと思っているから、悲愴な使命感にもなるのだが、そも自分とは世界であるなら、そんなものはもちようがない。
「自分が何かをする」という意識が、彼らにはもはやないのである。196
「神々の遊戯」は私も好きなフレーズだけれども、これを言い換えてみると、人類は総体としてさまざまな経験をするものだと見る鳥瞰的な視野をもつことである。
ただし、矛盾するようだが、この場合、「自分だけば別だ」という意識であっては、この鳥瞰的視野は獲得できない。これは「高みの見物」ではないのである。自分は自分でありながら、そのまま世界であり全人類である。こうわかっているからこそ、遠く広く見晴るかすことが可能になるのだ。同時に、たかだか数十年である側の自分の人生のあれこれは、あんまり不安でなくなるはずなのである。196
万巻の書物が一冊の聖書に如かないように、人類の知識と知恵とは、究極の一冊、究極の一語にに集約されるはずである。
われわれに本当に必要なのは、その一語だけのはずである。読者として私は、そのようなものをのみ読みたいし、著者としての私は、そのようなものをのみ書きたいと思う。203
人は幸福を求めるから不幸になる。205
生活のためとか自己顕示とか、そういったことは私の場合は書く理由にはならない。
生活のためならば、もっと割りのいい仕事はあるだろうし、そも生活・・・(※抜粋がすこし抜けています※)餓死することよりよいことかどうかわからない。
自己顕示や意思表明を表現の原動力としている人は多いが、そんなものが言葉(ロゴス)の正確さと両立するわけがない。
で、そんなふうにして言葉それ自体を追求してゆくと、当然言葉の向こう側へ出てしまう。
正確には、言葉がそこから出で来る源としての、言葉自身の再深奥なのだが、この場所は、したがって、言葉では語れない。言葉以前の全意味全感覚によって充溢したある意味での存在そのものの光景に、人は必ず絶句する。絶句して黙り込む。言葉では語れないのだから、黙り込むしかないのである。207
絶句の裏側にあるのは、沸騰する全肯定である。221
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
ぶらり、歴史の旅、歴史探訪(歴男、…
ゐのくち式両吸込渦巻ポンプ(埼玉県…
(2026-05-05 21:51:14)
☆留学中☆
米国大学院2年目の学費
(2025-07-02 00:03:00)
やっぱりハワイが大好き!
2026 Hawaii 自炊ディナーはホットプ…
(2026-05-15 07:29:08)
© Rakuten Group, Inc.
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Mobilize
your Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: