ひだまりじょさんいん

ひだまりじょさんいん

出会い



1996.3看護大学3回生に進級前の春。
看護大学には、3回生から選択過程で助産婦を取れる枠があった。
その試験が迫っている。
私は別に助産婦という仕事に興味がなかったが、
「そういえば、私は助産師の何を知っているのだろう?」とふと思う。

助産婦という仕事を後から知って、なぜあの時選択課程に進まなかったのかと
後悔するかもしれない。

私は、助産婦はどういう仕事をする人か知りたい。
助産婦はたぶん赤ちゃんを取り上げる人のことなのだろう。
私の助産婦に対するイメージはかなり漠然としている。
どうすれば助産婦という仕事を知ることができるだろうと思ったときに、
とても単純に「出産の場面をどこかで見学させてもらえないだろうか」と思った。

さっそく、母性看護学担当教授に相談をした。
運良く、近くの産婦人科と、正木助産院で
お産のときに呼んでもらえる約束を取り付けた。

とても楽しみにしていた。
「赤ちゃんが生まれる=感動」「神秘的」というイメージを持っていた私は
いつ呼ばれるかドキドキしながら、お産を待った。

教授に紹介してもらい2日目の夜、ついに呼ばれた。
産婦人科が先だった。
白衣を借りて、分娩室に案内された。
とても広い部屋に分娩台が一台、妊婦さんが一人、隣に夫とお母さん、
寒寒とした床の部屋で妊婦さんは分娩台の上で一人頑張っている。
隣についているのはだんなさんと妊婦さんのお母さん。
私もどうしていいのかわからず、ただただ見守るだけ。

産婦人科に当直指定していた看護婦らしき人は、
他の仕事も一人でこなしていて忙しい様子でよく妊婦さんをおいて出て行く。
私は不安になった。妊婦さんは、何度も何度もきばって疲れてきている。
勿論その看護婦さんはベテランで、もう生まれそうという直前には
きちんと傍で指導し、医師を呼び、会陰切開、医師が取り上げベビー誕生。
とても元気な赤ちゃん。
完璧な連携プレーだった。けれども私には、とてもあっけなかった。

感動というよりも、むなしさと、何か違うという違和感が残った。
お母さんの頑張っていた姿はしっかり目に焼き付いているけれど、
私の見たかったものはなんだったのだろう・・・。

私は助産婦という仕事と、お産という出来事は実際にはこういうものなので、
それなら別に私は選択しなくても後で後悔はしないだろうと思った。
後、まだ正木助産院からお産の連絡がない。
助産院ってどんなところだろう?
昔で言う産婆さんで、家でお産したりするのだろうか?
前の日のもやもやした気持ちがすっきりしない。
もうお産を見るのはどっちでも良くなっていた。
でも、せっかく先生が紹介してくれたのだから、もう少し待ってみよう。

産婦人科でお産を見た次の日だった。
私はこの日を絶対に忘れないと思う。

正木助産院から電話があった。どうやらお産らしい。
もやもやした気持ちを引きずりながら、助産院へと向かった。

普通の家。戸をあけて、一瞬にして、「これだ!!」と強く思った。
本当に直感が先にきた。私のしたい仕事がここにはあった。
妊婦さんと家族を取り囲むとてもあたたかい雰囲気、
私が昨日産婦人科でのお産に期待していたものすべて、
きっと、それ以上のものがそこにはあった。
家族に見守られ、祝福されて赤ちゃんはでてきた。
そこに立ち会っていたすべての人に祝福されて。

私の見たかったお産は、愛情にあふれたお産だったのかもしれないと思った。

ここでは、正木先生と、妊産婦さんが一対一の関係でいろんな事を聞いたり、
教えてもらったりして、お母さんと子どもが正木先生に見守られて育っていく。
だから、看護婦や助産婦が入れ替わりたちかわりする病院と違う
独特のあたたかさがある。

機械に囲まれているでもなく、親しい誰かの家に遊びにきたような
ちょっとうれしい気分になれる暖かいここ独特の雰囲気が気に入りました。

この日は、正木先生以外に助産婦さんが2人お手伝いで来られていた。
皆表情が生き生きしていた。私も助産婦になったらあんな良い表情ができるのかな?と嬉しい希望でいっぱいになった。

助産婦になろう、正木先生みたいに・・・。
1996年3月28日、お産を見せてもらった後、堅くこころに決心した。



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