日記帳とペンと内なる天使♪

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2020.11.24
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本当に気まぐれに書いてます笑

気分が乗った時に書くのが一番なので。

幸せの基準は人それぞれなんですよね。

例えば。

『可愛い服を着ることができたら幸せ♩』

という人がいるとします。

すると、可愛い服を着るとその人は幸せな気分を満喫できるわけです。

批判する人というのは、可愛い服を着ることができたら幸せな人のことを批判し、あえて嫌な顔をして見るんですよね。

すると、幸せに浸っている人は、途端にそんな目を向けられて不安になります。

私、人を不快にさせていたかな・・・と。

人目が気になるって、こういうことかなと思うんです。

本当はこうしたい・・・のに、自分が何かをしようとすると、途端に不安になって人目が気になるってものすごくあるんですよね。

私もそうでした。

どうして人目が気なるのか、どうして劣等感があるのか、人よりも劣っていると思い込んで、自分の好きに生きると睨まれて笑われて後ろ指を刺される。

だから、人目が気になって怖いから、したいことを抑える。

したいことを抑えても、更に更にもっと人目が気になる。

相手は自分の批判でこちらが躊躇しているのが楽しくて仕方がないんです。

こうなるとループにハマるわけです。

人前に出るのが怖くなってしまうし、監視でもされているかの様に感じるし、好きなことをすると、真っ先に嫌な人が飛んできて嫌味を言うとかね。

・・・もう怖くなるわけです。

まぁ、私自身もこんな訳のわからない抑制の中で生きてきて、明らかに変な空気感もあるし、抑制も感じてきた訳です。

この抑制って、人の目でもあるんです。

この図式ってね、幸せになろうとする人と、

その幸せになろうとしている人を抑えて「そうはさせるか!」の人かなと思うんですよね。

可愛い服を着て、「わーい!着たかった可愛い服を着ることができて、めっちゃ幸せ〜!」とう喜んでいるその横で、

「うわ・・何あれ、ダッサ!あり得ない!」といった言動や目線を浴びせる人。

するとこれをされた幸せな人は、急に自分のしていることが不安になってしまい、何もできなくなる訳です。

これ、至る所にありますよね。

要は、幸せになろうとする人と、それが許せなくて足を引っ張る人という構図です。

実はこんなものに引っ張られていたんですよ。

逆に、これを読んでいるあなただったら、同じことを、幸せ感じている人に対してしますか?

しないでしょ?

だって、その人が幸せを満喫しているんだから、微笑ましい気分になって見ているでしょ?

でもね、世の中には、自分で自分のことを幸せにすることができなくて、幸せな人を妬んで、批判して馬鹿にして、蔑みの目を向けて、そうすることでその人に勝った気分になっている人がいるんですよね。

たかが人目じゃないんですよ。

アゲの場合、敏感なので、じと〜っとみる蔑みの目線を見ると、胸がウッと苦しくなります。

急に幸せ気分から転落して、今度はその目線が怖くて仕方がなくなって、幸せなことができなくなってしまうんです。

人目が気になってできなくなるのって、こういうことかと思います。

今はあらゆる情報が交錯しているから、何が正しいのかわからないと思う。

ネットのコメントを見ても、批判がすごいし、こんな批判にさらされたら怖いとかなりますよね。

思い切ってこんな感じのコメントをずーっと見てたら、似た様なタイプが多い気がしてきました。

この人たちが喜ぶのは、当人が好きなことを発信したことを、批判されて叩かれることで、当人がものすごく傷ついてメンタルぐしゃぐしゃになることです。

その向こうで酷いコメントした人がニヤリとしているんです。このダメージってすごいんですよね。

嫌だったら幸せな人を見なければいいじゃん?って思うんだけど、そうじゃない。しつこくしつこく追い回して、その人の欠点を探しては論い、みんなで共有して「うわ〜」とかやってる。そして「いいね」をもらってる。

人を批判して承認欲求を満たしているとかね。

こういう人たちって、こんなことで楽しんでいる。

すると、まともに自分の幸せを満喫しようとする人たちは、叩かれている人を見て怖くなる。

何もできないと思うんですよね。

これが服に限らず、思想でも、スピでも、趣味のことでもなんでもそう。

自分の言いたいことを発信したとして、次に浮かぶのが批判されて叩かれたら・・・と考える。

この、批判される人たちありきで自分の幸せを追求して満喫するかを見ていかないといけない、と思っている。

要は、この批判する人たちに認められることばかり考えてしまっている。

今、世の中が混沌としているんだけど、こんな人が心の中で主役になっていて、自分のしたいことが批判されそうで、怖くて仕方がなくなっているんだけどね。

でもね。

この人たちって、自分の幸せを追い求めてもいない、

何かに従って不平不満で生きているだけで、

誰かが素敵でいい暮らしして、いいもの食べて、幸せ満喫しているのが腹立たしくて仕方がない。

なんでこんなのの承認を得ないといけない訳???と思いました。

この様に、人の幸せに対して批判的な人は、自分たちの幸せに対して努力も向上心も、覚悟もないので、全般的に悲観に捉えている訳です。

だから辛いことは我慢しないといけないと漠然と考えている人達が圧倒的に多い。

幸せいっぱいや、幸せになろうとしている人を見ると、蔑みの表情や批判的な言葉を向けることで、相手の足を引っ張ろうとしているんですね。

そして、批判的というのは、ある意味「現実的」としている訳ですが、実は、幸せになろうとか、自分の人生をより良くしようと考えている人と、批判的な人との「現実」とは、かなりの差があるということです。

幸せになろうとしている人の現実と、この様な批判的な人の現実という物を同じ尺度で捉えてはいけないかと思うんです。

人の足を引っ張って満足するだけの人たちと、

自分の人生をより良くしたいとしている人の現実は、違って当然。

だからこの辺は惑わされないほうがいいです。

また、低い人は(サゲ)は幸せになろうと努力しないし、上が見えないです。上の世界がわからないんです。

ですが、アゲの場合、上がなんとなく分かっている。

だからワクワクもするんです。

こうしてみたらどうだろう、といろんな希望を持っているんですね。(この辺が魂レベルの差だと思うんですが)

なので、批判的な人の意見は実は参考にならないという訳です。

批判的な人の水をさす言葉とは、一見現実的な様に見えて、アゲの現実とは違うものです。

その人たちの現実に戻す言葉が、サゲの言う水をさす言葉ということです。

幸せになる覚悟がないから、アゲが幸せになろうとするとその言葉を使ってアゲを落とそうとするんです。

そして、サゲ自身も自分に対して同じことを日々しているんです。だから、どうせ幸せになれないと踏んでるし、諦めている。

幸せになろうと目をキラキラしている人がいたら、躍起になって足を引っ張って、自分たちの現実まで引きずり落とすんですね。

さっき、桜井識子さんのブログ内で、

「お前は……批判をする人間のために書くのか?」

という下りを読んで、ハッとしたのでした。

先日、食事をした際になかなかパンが出てこなくて、いつ出てくるのかなーと思ってたら、とうとうデザート直前まで出てこなかったんです。

伝えたらパンと一緒にこのチーズとワインをサービスでくれました。

が、この中の一つのナッツの上のチーズが、食べるとすごいニオイで。

昭和的な古い病院の玄関の消毒臭いといった表現がピッタリ。

ナッツと共に、サービスで頂いたワインで流し込んで頂きました。

好きな人は好きなんだろうなぁ〜。

ウェイターさんに聞いてもよく分かっていなくて、最後までなんていうチーズなのか分からなかった。

なかなかいい経験でした笑笑

散々食べた後にやってきたパン。

腹八分目が一気に満腹に!






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最終更新日  2020.11.24 17:31:03


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