自己責任について


僕は「非難」と「批判」という言葉を使い分けていますが、「非難」というのは、感情にまかせて悪口を言うことを指すときに使っています。「批判」という言葉を使うときは、曲がりなりにも論理的な指摘があって意見を言うときに使っています。

レッテル貼りというのは、「非難」という言葉にふさわしい行為で、まともな「批判」ではないと思っています。

僕が問題にしていたのは、人質3人の基本的なものの考え方が、いわゆる「左翼」的だと言うことでバッシングされていることを取り上げて、レッテル貼りの曖昧な定義を使ってのバッシングは、少しも論理的な批判になっていない、感情的な非難に過ぎないと言うことを語るための、言葉の定義の問題です。我々の生活と関わりがあるということで「右翼」と「左翼」の言葉の定義を問題にしたのではありません。

論理的に考える対象として、この二つの言葉を取り上げるのでなければ、厳密な定義はいりません。でも、批判という論理的な営みをするのなら、論理がかみ合わないときは、言葉の厳密な定義が必要だろうというのが僕の意見です。


「自己責任論」批判 決定版 04月22日(木)

宮台真司氏とともに「マル激トーク・オン・デマンド」を作っている神保哲生氏が、素晴らしい「自己責任論」批判を書いている。神保氏は、世界の非常識である日本の常識に、確固たる反対の声をあげた勇気ある知識人の一人であると思う。そのジャーナリスト精神の高さを次のページを見て味わって欲しいと思う。

自己責任というのなら、政府の自己責任こそ問われるべきだ

この中から、僕が共感した部分を引用しながら感想を書いてみたいと思う。まずは次のところだ。

「まず、彼らは退避勧告が出ている紛争地イラクに危険を承知で出かけて行ったのだから、これは冬山登山や台風下に遊泳禁止地帯でサーフィンをしていて遭難した人たちと同じだ、という議論があるようだが、この喩えは本質の部分で大きくすり替えがある。冬山登山や台風下のサーフィンは、いずれも人助けのために行うものではない。しかし、彼らのうち少なくとも2人は人道支援として、イラクで困っている人たちを自分たちなりの手段で助けるためにイラクに向かった、いわば人助けのためにそこに居合わせた人たちではないか。」

たとえというのは、物事を理解するのに役立つものである。それは、問題をより単純化し、難しい部分をより分かりやすいものに変えてイメージすることで理解を助ける。しかし、たとえがたとえとしてふさわしいものであるのは、その構造が同じであると言うことがなければならない。構造が違うものであれば、そのたとえは論点のすり替えに近いものになる。その論点のすり替えを見事に語った部分として上の言葉に僕は共感した。たとえというのは、正しく使えば理解を助けることになるが、間違って使えば理解を誤らせることになる。対立物の統一というものがここにある。弁証法的にとらえることは、物事の理解を深めるものだと思う。

本当の比喩というのは次のように使わなければならない。

「日本という国は、火事で燃えさかる家に人を助けに入った消防士やボランティアが、怪我をしたり中に閉じ込められたとき、彼らの行為を責め、後にその料金を請求するような国に成り下がってしまったのだろうか。
 言うまでもないが、人道復興支援のため日本政府は自衛隊まで派遣しているのだから、今のイラクを火事で燃えさかる家と考えるのはごくごく自然なことのはずだ。」

このたとえと、「自己責任論」を語る人が使うたとえと、どちらの方が構造的に共通点があるというふうに判断するだろうか。それは、彼ら3人をどう見るかと言うことにかかわってくる。彼らに対して、偏見を呼び起こすような報道がかなりあったが、それによって彼らを偏見を持った目で眺めてしまうと、「自己責任論」者が語るようなたとえに心を動かされてしまう。しかし、パウエルさんが語るように、3人を「良い目的のために行動を起こした尊敬すべき」若者たちととらえれば、神保氏のたとえに共感するだろう。どちらに賛成するかは、事実の問題と言うよりは、それを見る側の姿勢にかかわってくるのだと思う。

「十分な経験を持たない人間を紛争地や被災地に送り出せば、トラブルになる可能性は高い。それは、政府に迷惑をかける可能性があるからまずいのではなく、そもそも人道支援NGOやジャーナリズムの目的に照らしたときに、有効な活動の妨げになるからまずいのだ。何らかのトラブルに発展すれば、他のNGOに迷惑がかかったり、二次災害を引き起こす可能性もあるだろう。」

この言葉は、今回の3人に向かって語っているのではなく、一般論として神保氏は語っている。今回の事件からの教訓として考えなければならないだろうというものだ。今回の3人が、この批判に値するかは、今後の事実の解明によって判断しなければならない。

この批判に対しては、3人を支持する側から反発があるそうだ。しかし、神保氏は、このような批判もあえてここに載せているのは、これこそがジャーナリストのセンスなのだと、この文章を巡る様々の意見交換の中で語っている。それもこのページを見る中で読んでもらうと、神保氏のジャーナリスト精神の高さを感じてもらえるだろう。

ジャーナリストというのは、どちらの立場に立ってもいけないのである。あくまでも第三者として客観的な情報を提供するのがジャーナリストの役割なのである。その上で情報を、それぞれの立場で受け取る人はいるだろうが、自分の立場だけから見る見方は、判断を誤らせる可能性がある。ひいきの引き倒しになってはいけないのである。それだからこそ、すぐれたジャーナリストの報告が、どちらの立場のものによっても価値あるものとして存在するのである。ある立場に立っていても、本当にすぐれた人なら、客観的な情報と客観的な批判を受け入れることが出来る。それは、自分の立場からはなかなか気づかないものなので、それを提出してくれたことをかえって喜ぶだろう。

僕は、ジャーナリストではないから、心情的にも現実的にも、一庶民として、反権力であり彼ら3人を支持する立場だ。政府の側の論理のあらの方によく気がつく。それに反して、3人を支持する側の論理のスキはなかなか気づかない。反対の側がそれを指摘しても、反対の側の全体の論理のずさんさから、正しい指摘であっても気づかないことが十分あり得る。しかし、神保氏のように客観的な観点を持った第三者の言葉なら、それを受け取ることが出来るのである。すぐれたジャーナリストの必要性は、このようなところにあるのだと思う。

「人助けに行って、人に助けられていうようではダメだ。ニュースの取材に行って、自分がニュースになっているようではダメだ。
 NGOセクターもジャーナリズムも、この機会にその点を十分に反省、確認した上で、今後更に有効な活動のために生かして欲しい。」

このような指摘は、反対の側からされたら、素直に受け取ることは難しいだろう。神保氏が語るからこそ、これを真摯に受け止めることができるのだと思う。

「そもそも日本では少なくとも法的には、イラクは戦闘地帯ではないことになっている。だからこそ、イラク特措法に基づく自衛隊の派遣が可能となっている。そこに「危険を承知で行ったはず」という政府の主張には始めから無理がある。政府が退避勧告と非戦闘地域という2つの相矛盾するメッセージを発していることにも、今回の事件の原因の一端があるし、その点においても政府の責任が問われる。」

という指摘は、今回の「自己責任論」批判の本質にかかわるものだと思われる。政府が、このように無理な論理を使ってでも「自己責任論」を展開したがったのは、そもそも上のような指摘の事実に含まれる矛盾を、なんとか露呈させないように、人々の目を別のものに注目させるために仕組まれたものと、僕も感じる。

危険なところに行ったのだから「自己責任」だという政府の主張は、安全だから自衛隊を派遣したのだと言うことと整合性をとれない。この一方の矛盾を覆い隠すために、もう一方を声を大きくして言い立てるしかなくなったと思う。

「今回人質になった人道支援活動家やフリーのジャーナリストの多くが、イラクへの自衛隊派遣には反対していた。その彼らがイラクで人質になったり遭難したりすれば、「ほら、やっぱりイラクは危険じゃないか」との認識が改めて広がり、イラク特措法の前提要件が崩れるばかりか、国論を2分する中で強行したイラクへの自衛隊派遣への批判が高まる可能性が高い。結局今回の政府の一連の反応の根底にあるものは、それを恐れているだけのことだったのではないか。」

という言葉には、僕が感じていたことをもっとも適切な言葉で表現してくれていると感じる。僕も、今度の事件が、イラクがいかにひどい状況になっているかを、多くの日本人に教えてくれただろうと思っている。これをきっかけにして、イラクの虐殺されている側の人々と、日本の多くの人が連帯感を持つことが出来たら、彼らの命がけの行動も、結果としていい方向へ向かうことになるだろうと思う。そうなって欲しいものだ。

神保氏の最後の提言は、これに共感し、応える人間がたくさん出てきて欲しいものだと思う。

「紛争地帯に軍隊を出す決断を下しておきながら、「非戦闘地域」「人道復興支援」などのレトリックで議論のすり替えを繰り返してきた自らの矛盾を覆い隠すために、善意の市民を生贄に差し出すような政治家たちを、私たちは許してはならない。」

この文章のあとには、この文章を巡る意見の交換が書かれている。この議論の水準の高さは感動すら覚えるものだ。論理や議論に関心のある人は、ぜひごらんになっていただきたいものだと思う。このページがもっとメジャーになり、多くの人々に影響力を与えてくれれば、日本の民主主義も大いなる発展の方向に行くんじゃないかと期待できるんだけれどなあ


自己責任論 04月18日(日)

今朝のヤフーを見ていたら、次のニュースが目に入った。

「航空機、健診は本人負担 外務省、3人に請求へ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040417-00000136-kyodo-pol

この記事によると、「外務省邦人保護課によると、邦人救援のため航空機をチャーターした場合、同じルートを飛んでいる民間機のエコノミー片道正規料金を請求するのが規定」と報じられている。だから、この記事は単なる事実を知らせているだけのことだ。しかし、以前のこのような事件で、この種の報道がされたのを僕は覚えていない。

どのくらい金がかかっているのかを知らせて、「迷惑をかけている」と言うことを見せるためにわざわざ報道しているのだろうか。これも一つの「表現の自由」なのかな。僕には、世論操作の一つのように見えるけれど。それもかなり姑息なやり方だ。この3人の自己責任に対する見方は、やはりパウエルさんの次の言葉、

「危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを日本人は誇りに思うべきだ。もし人質になったとしても、『危険をおかしてしまったあなたがたの過ちだ』などと言うべきではない」

が正しいのだと思う。このパウエルさんの言葉が、先進民主主義国の常識なのか、パウエルさん個人の考え方なのかは重要な問題だと思う。今日本では、この言葉に対して正反対に近いような考え方がマスコミに溢れている。日本の常識は、世界に通用するものなのか、それとも世界の中では非常識なのかをよく考えてみたいと思う。

自己責任というのも、無条件に、自分のやったことの反動は自分で何とかするべきだというふうにとらえるのは、短絡的すぎると思う。やはり条件が大事なのではないかと思う。もし、無条件になんでも自分で責任を取るべきだと考えるのなら、政府などはいらなくなる。この考え方は究極的には無政府主義と同じだろうと思う。

この考え方は、力のあるもの富める者に都合のいい自己責任論だ。自分で何とかするだけの力のあるものならば、その人間はこの自己責任論を採りたくなるだろう。それだけの覚悟を持って主張する自己責任論ならいいのだが、政府が責任逃れをし、政府にとって価値がないと思われる人間を見捨てるための合理性をもたらすための自己責任論であるならば、異論を唱えなければならないと思う。

実際には、パウエルさんも語っているように「良い目的のために」と言うことが条件として大きくかかわってくるのではないだろうか。宮台氏なども、物見遊山のバックパッカーと人道復興支援に取り組もうとしているNGOあるいはNPOの活動家とは区別すべきだと言うことを語っていた。物見遊山の人間が、自分ではなんの準備もせずに危険地域で危険にあったというのなら、山の危険を知らずに軽装備で登山をして遭難した人間と同じようなもので、多くの人に迷惑をかけたと言われても仕方がないだろう。ほぼ全面的に遭難した人間に責任がある。

しかし、人道復興支援に出かけた人間が、それなりの情報を収集し、気をつけて行動していたにもかかわらず、予期せぬ状況で危険な目にあったという場合なら、その責任の重さはかなり違ってくるのではないだろうか。自己責任というのは、そのようなことが分かった時点で問題にされるべきだというのは、江川紹子さんも語っていた。

自己責任というのは、このように条件によって変わってくるのではないかというのが僕の考えだ。しかし、どんなに甘い考えで遭難した登山者であっても、遭難した時点で見捨てると言うことはないだろう。だから、自己責任が判断できなくても、危険な目に遭っていればそれを救うことに全力を尽くすのは、その時点では正しい判断だろう。その時点で自己責任論が出てくると言うことが、政府の責任逃れ以外の何ものでもないと思うのは、論理的な帰結ではないかと思う。

冷静に考えれば、自己責任論が起こってくる方がおかしいと思うのだが、これが大きな声になって世論が高まっているように見えるのは、「自衛隊撤退」の問題が絡んできたからではないかという考えもあるようだ。「自衛隊撤退」は、政府の政策と真っ向から反する要求で、政府に反対する人間が、政府に助けを求めるのはけしからんという感情的な反発があったように感じる。

宮台氏によれば、これが「サヨ批判」に結びついて人質3人に対するひどいバッシングにつながったと言うことだ。「サヨ」というのは、いわゆる「左翼」のことを軽蔑的・差別的に呼ぶときの偏見に満ちた言い方を指すらしい。これは、政府に反対するものを十把一絡げにレッテル張りをするときに使われるらしい。僕などもおそらく「サヨ」と呼ばれているのだろうと思う。人質本人や家族の意見が、自衛隊派遣反対のものだったので、彼らも「サヨ」にされただろうということは容易に想像できる。

宮台氏によれば、「左翼」の中に、確かに批判に値する人たちもいるということだ。しかし、そういう人間たちもいるからといって、自衛隊派遣に反対しているというだけで、そのようなものと同じだと短絡的に判断するのは、右翼の側も単純すぎるものだと思う。もっと深い考え方をして欲しいものだと思う。今の人質3人に対するバッシングは、おそらくこの世論操作に乗って騒いでいる短絡的な愉快犯的なものが中心になっているのだろうと思う。

宮台氏は、この人質事件がきっかけで、脅されたことの結果で自衛隊が撤退するような形での撤退は、論理的にもあり得ないと言うことも語っていた。むしろ、この事件のために撤退するチャンスを失ったという判断のようだ。イラクの情勢が撤退すべき情勢になったとしても、この事件の間に撤退することは出来ないと言うことだ。僕もそれはその通りだろうと思う。しかし、だからといって、自衛隊撤退を叫ぶことまでも間違いだとは思わない。たとえ自衛隊撤退があり得ないことだとしても、自衛隊撤退を叫ぶ人間もいるのだと言うことを示すのは、ある意味では国益に資することだと思っているのだ。

日本国民のすべてが自衛隊派遣を支持しているのだと言うことを示したら、日本人全体がイラクの反米勢力にとっては敵だと言うことになりかねない。今日のテレビを見ていると、イラクでの反米感情というのは、もはや過激な反米勢力だけにとどまらず、普通の市民の間にも広まっていると言うことだ。日本人が一枚岩ではないということを示すのは価値のあることだと僕は思う。

そういう価値があることを、「サヨ批判」を展開する人間にも考えて欲しいものだと思う。「サヨ批判」をする人間は、とにかく政府批判をする人間は「サヨ」だと短絡的に考える。しかし、その勢力があるからこそ、間違った道を修正するきっかけも生まれるのである。もし、この声をすべて封じてしまったら、取り返しのつかないほど間違いの結果が深刻にならない限り、それを修正することが出来なくなる。

自己責任論は、江川紹子さんが言うように、これから正しい議論が始まるべきだ。それと同時に、国家の責任も議論すべきだろう。個人の責任だけを問題にされてはいけない。

最後に一つ付け加えておきたいのは、人質本人や家族が、感謝の気持ちが足りないという批判に対するものだ。迷惑をかけたのだから、謝罪をしなければならないし、感謝の気持ちを言うべきだろうというバッシングだ。そういうことを主張する人たち、特に政府関係者は、次のような言葉にはどういう反応をするだろうか。

「「外相の感謝、伝わらない」=クベイシ師が不満表明-イラク邦人解放」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040417-00000426-jij-int

感謝の気持ちが足りないという批判をした政府関係者の人たちは、そういう批判を自分たちに向けられた以上は、深く反省してもらいたいものだ。こういう態度だから、次のようなことも言われてしまうのではないか。

「「日本政府は解放望まず」 クバイシ師が痛烈批判」

「イラクで拉致された日本人解放に貢献したイラク・イスラム聖職者協会のクバイシ師は17日、高遠菜穂子さん(34)ら3人の解放の際に川口順子外相が同協会に言及しなかったことに触れ「日本政府は人質が解放されず、日本人が誘拐されたり、殺されたりした方がいいと思っているはずだ」などと痛烈に批判した。
 同師は「日本政府は(事件を)イラクでの自衛隊駐留を正当化する口実にしたがっている」などとした上で「多くの日本人が自衛隊駐留に反対しているのに、日本の外相が日本人の望みを感じようとしないことに心が痛む」と述べた。
 同師は、17日に日本大使館職員から、人質解放への感謝と、外相が聖職者協会に言及しなかったことを謝罪する書簡を受け取ったとしている。」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040418-00000003-kyodo-int

3人の誘拐された事情が詳しく報道されたときに、正しい意味での自己責任が論じられることを期待したい。その際には、必要な情報がすべて報道されるよう、表現の自由を守って欲しいものだと思う。


自己責任論(その2) 04月19日(月)

昨日私書箱メールに、パウエルさんの言葉についてのものが入ってきた。それは、パウエルさんが、「自衛隊を派遣していることも誇りに思うべきだ」というようなことも発言していたが、これにも触れるべきだったのではないかというものだった。

僕は、この言葉は、パウエルさんの立場から言えば当然出てくる言葉であって、さほど言及する必要を感じなかった。もしもこれと違うようなことをパウエルさんが語ったりすれば、それは驚きだから、必ず取り上げただろう。当たり前のことを語っただけだから、知らせるほどのこともないかなと思ったのだ。それに、あそこで問題にしていたのは、人質になった3人がイラクでしようとしていた行為に関するものだったので、自衛隊派遣についてそれが正しいかどうかを論じる必要もないと思ったのだ。

僕は、単純に必要がないから言及しなかっただけなのだが、人によっては、そこに何か意味があると読みとる人もいるのかなと思った。しかし、すべてのことに言及していたら、何を主張したいかポイントがずれてしまうから、取り上げていないことは、あまり大したことではないと考えていることだと受け取ってもらえたらありがたい。

そんな風に考えていたら、実は、このことは取り上げるだけの価値があることかもしれないという考えも浮かんできた。パウエルさんが小泉さんを評価するのは、ブッシュ政権の中枢にいるその立場から言って当然である。特に自衛隊派遣を評価するのは、その立場から言って当たり前だ。そのパウエルさんでさえ、人質3人の行為を誇りを感じるものと賞賛するというのは、その考えは、立場を越えた民主主義国家の常識なのではないかという僕の考えを証明するものかもしれないと思えてきた。

もし小泉さんが何を言っているかを知っていたら、その立場上パウエルさんは、このことを言えなかったかもしれないが、それを知らなかったのかもしれないな。もし、知っていたとしても、こう語らずにはいられないとしたら、民主主義国家で教養ある人間は、誰でもこのように考えるのだということの証明になるだろう。パウエルさんが、立場から語る言葉を聞き流していた僕に、それに注意するよう促してくれたこのメールに感謝したい。

さて、自己責任論の続きだが、「マル激トーク・オン・デマンド」で宮台氏が紹介していた、松沢呉一氏の「黒子の部屋」というページに、「自業自得って…」と題された一文がある。この自己責任論は、実に見事なものだと思うので、僕の日記を訪れる人にも、ぜひごらんになっていただきたいと思う。

「松沢呉一●黒子の部屋687」

この文章で共感するところはたくさんあるけれど、松沢さんに送られた、人質3人を批判するメールに対して次のように答える言い方は全くその通りだと思う。

「Kさんに対して言いたいことは、沢辺さんに言いたいことと一緒です。人を批判するのはいい。しかし、その辺のつまらん情報に踊らされるのでなく、自分の頭を使って想像力を働かせ、ちゃんと批判しましょうよ。人質やその家族に対するバッシングを「Publicity」901号(http://www.emaga.com/info/7777.html)では、子供のイジメに喩えてましたが、どこかの誰かちゃんの真似して人を叩くさまはまさにイジメ。」

バッシングする言い方は、どれもこれも同じ言い方で、しかも非論理的だ。感情にまかせて書いているとしか思えない。それに対する批判として、上の言い方は的を射たものだと思う。

松沢さんは、「危険なことをわかっていたのだから助ける必要はない」という考えを「愚劣な意見」と一蹴して、それに対して次のような批判を展開する。

「この考えは自分に適用できるだけのことで、他者にまで押しつけてはいけません。こう考える人だけが助けを求めることなく死ねばいいのです。」

つまり、今自己責任論を展開して、人質を助ける必要はなかったと語る連中は、危険だと分かっていることを自分がやろうとするときは、決して助けを求めないという覚悟を持って主張しなければいけないのだ。そして、それは自分がそう主張するから、自分は助けを求めないということであって、人に押しつける権利はない。そんな主張をしていない人は、助けてもらう権利を放棄していないのである。少なくとも、国民としての義務を果たしている人間だったら、その権利を主張することが出来る。納税の義務、勤労の義務、教育の義務を果たしている人間なら、国民としての権利を主張できるはずである。

しかし、この権利を放棄した人間に対しては、国家は権利を保障する必要はない。3人の人質は、この権利を放棄したとどこかで語っていただろうか。自己責任論を語る人間は、自分に関しては、この権利を放棄しているのだと宣言しないと、論理的な整合性がとれないだろうと思う。松沢さんは、この論理を実に痛快に具体的に語ってくれている。

「インドに行ってコレラに感染しても、アメリカに行ってピストルを突きつけられても、車が事故ってドアにはさまれて動けなくなっても、寝たばこで火事になっても、近くにある原発から放射能が漏れても、すべて「自業自得」ですから、誰にも助けを求めずに、そのまま死ぬとよろしい(原発の場合は「危険なことを承知の上でそんな場所に住んでいた」という意味です)。
でも、あの3人はそんな考えをもってはいないようですから、なんとかして救出すべきで、「危険を知っていたのだから助ける必要がない」という人たちは人のことをとやかく言わず、とっとと自分が勝手に死ねばいいだけのことです。」

さらに次のようにたたみかける。

「「自分には理解できないから」「自分はやらないから」と他人に「自業自得」なんて言いながら、別の危険なことをやっている人たちは、他者から「自業自得」と言われても、それを受け入れるしかありません。
となれば、自分がわずかにでも危険とわかっていることをして、なおかつ救出を求めたいのなら、そのようなことを決して言うべきではないということになります。」

松沢さんがこれだけ厳しいことを言うのは、「こういう人たちは「自己決定・自己責任」という言葉を理解できもせずに使っているのではないかと疑え」ると思っているからだろう。自己責任の正しい意味については次のように語っている。これも全く同感だ。

「「自己決定・自己責任」はそういう目(危険な目)に遭ったことについて、犯人以外の第三者のせいにすることができないだけのことで、救済されることや正当に防衛することを放棄したものでは全然ありませんよ。」

このあとの文章は、あえて危険な地に出かけていく人間の精神の高さを語って、感動的でもある文章だ。ぜひ全文を読んでもらいたいと思う。最後に、次の言葉を引いておこう。これも、声を大にして訴えたいことで、まさにその通りと大きな声で言いたいものだ。

「で、「自業自得」なんて言っている人々が屁をこきながらテレビで観ているニュース映像はいったい誰が撮り、雑誌の記事は誰が書いていると思っているわけ? ロボットか。イヌとかネコか。それとも亀か。カメラマンや記者が、危険なことをわかっていても現地に行っているからでしょうが。
そういった報道があるから、ファルージャで何が起きているのかを不十分ながら知り、北朝鮮がどうなっているのかをさらに一層不十分ながら知ることができるわけです。」


言葉の定義 右翼と左翼 04月20日(火)

何かの議論をするときに、言葉の定義の違いをそのままにしておいて議論をしても、その議論が実りをあげないというのは、考えてみればすぐ分かることのように僕は感じる。論理というのは、ある命題と違う命題のつながりを判断するものだが、前提となる命題が違ってしまえば、結論が違ってくるのは当然だ。だから、結論が違う両者が、その前提を検討せずに、結論だけを闘わせても議論にはならない。

両者のそれぞれの前提を認めれば、論理的にはどちらも整合性をとれるということはいくらでもある。今回世論の問題になっている「自己責任」の問題も、「自己責任があるかないか」という結論を議論しても仕方がないと思う。問題は、自己責任というものをどうとらえるかという、前提にかかわる部分を議論しなければならない。どちらが考える「自己責任」の方が、普遍的な妥当性を持っているかということが重要なのだと思う。

僕は、「危険を承知でいったヤツが自分で責任を取るのが当然だ、助けを求めるなんてけしからん」という自己責任の定義には賛成しない。松沢呉一さんが語るように、それは、そのような意味で「自己責任」という言葉を定義している人間が自分自身に適用すればいいものだというふうに考える。他人に押しつける定義ではない。松沢さんが語るように、危険をもたらした責任者(この場合は誘拐犯人を指す)以外に、その責任が追及できない、あとの責任は自分に帰するというのが正しい「自己責任」の定義だと思う。この自己責任の定義は、救いを求めることと対立はしない。むしろ、あのように立派な行動をしている人たちを見捨てるような、そんな情けない行動を日本人が取るということに憤りを感じる。

この問題があれほどの世論の対立を引き起こした原因の一つに、右翼と左翼というような問題があるのではないかというのを、「マル激トーク・オン・デマンド」での宮台氏の発言から聞いた。この二つの言葉も、各人にとってその定義が大きく食い違うものもないのではないか。「サヨ」という言葉で左翼批判をしている人間たちが、左翼に対する基本的な知識を全く欠いて、その批判する左翼と同じやり方で批判しているのを宮台氏は指摘していた。

「サヨ」に対して、右翼を揶揄するときは「ウヨ」という言葉を使うらしい。これは、どちらも相手をバカにして感情的にすっきりするために、批判をするというよりも悪口を言っているだけのような気がする。だから、このような言葉を使って発言するようなものは、まともな議論ではないので中身そのものを論じるだけの値打ちはない。しかし、この現象を眺めてみると、いろいろと考えさせられるものも出てくるので、こういったものを議論するというよりも、考察の対象として感情的にならずに冷静に、その本質を考えてみたいと思う。

だいたいが、「サヨ」とか「ウヨ」とかいう言葉には、最初から相手をバカにしたいという価値判断が含まれている。これは、まともに相手を批判できれば、このような言葉を投げつける必要はないのだが、それが出来ないので、相手を貶めるような言葉を投げつけて相手を出来るだけ低い位置に落としたいという感情を感じる。戦時下の「非国民」という言い方に通じるようなもので、一つのレッテル貼りの効果を持ったものだろうと思う。

レッテル貼りというのは、そのレッテルを貼ったものの悪いイメージを相手に重ねることで、相手を貶める効果をねらっているもので、論理的に批判できないときに使いたくなるやり方だ。これは、右翼的な立場だけでなく、左翼的な立場でもたくさんのレッテル貼りがこれまで生まれている。これは、あとになって真実が分かれば、レッテル貼りに過ぎないことがよく分かるのだが、渦中にあるときはなかなか気づかないので被害が大きくなってしまうことが問題だ。今回の人質3人とその家族に対しては、「自己責任論」で非難する人間のほとんどは、このレッテル貼りに過ぎないような気がするが、真実が分かるまではなかなか世論が静かにならないだろうなという感じもする。

犯罪報道にしても、逮捕されたというだけでもう犯人だというレッテルを貼るような報道が多い。しかし、もし冤罪だったら、そのレッテル貼りによって受ける不利益は計り知れないものになる。偶然、犯罪の場面に立ち会うという可能性は誰にでもあり得る。だから、レッテル貼りを容認するような社会は、実は我々にとっては非常に危険な社会なのだと思わなければならないが、社会はどうもそのことに鈍感なような気がするのは僕だけだろうか。

レッテル貼りに敏感になり、そのような煽動や宣伝に踊らされずにすむようにするには、言葉の定義というものにもっと敏感になる必要があると思う。言葉というのは、悪いイメージを持っている、レッテル貼りに役に立つ言葉として短絡的に受け止めては行けないのだ。立場が違えば定義も違う。敵対する側を「テロリスト」と呼ぶのは、もうすでに立場からする定義が入り込んでいるのだと受け取ってその言葉を見なければならない。

さて、右翼と左翼という言葉の定義をちょっと詳しく考えてみよう。辞書的に見ると次のような感じになるだろうか。

右翼 〔フランス革命における国民公会で議長席から見て右側に保守派のジロンド派が座ったことから〕保守的・国粋主義的な思想傾向。また、その立場に立つ人や団体。

左翼 〔フランス革命時、国民公会で急進派のジャコバン派が議長席から見て左側に座ったことから〕急進的・革命的な政治勢力や人物。ことに、社会主義的または共産主義的傾向の人や団体。

歴史的には、フランス革命の時の状況から考えられた比喩的なものの言い方らしい。本質は、右翼は「保守的・国粋主義的」、左翼は、「急進的・革命的あるいは社会主義的・共産主義的」ということにあると思う。しかし、これは言葉を言い換えただけで、「保守」「国粋主義」「急進」「革命」「社会主義」「共産主義」という言葉は、また定義の難しさがあって、こう言い換えたからといって、議論するときの定義の違いが埋められるという期待はなかなか出来ない。

宮台真司氏は、「マル激トーク・オン・デマンド」の中で、富の再分配政策を支持するのが左で、それを拒否あるいは出来るだけ極小化するのが右、というような定義をしている。抽象的な議論の出発点としては、価値判断を含まない定義なので、議論が出来そうな定義ではあると思う。しかも、再分配政策を支持する人間は、社会主義的・共産主義的でもあるし、現実がそうなっていないときは急進的・革命的にもなるだろうから、辞書的な意味との整合性もとれる。再分配政策を支持しない人は、自己責任を徹底させるという道を選びたくなるだろうから、現在の体制を変えるよりもそのままにしておきたいと考えるだろうから保守的な考え方とも重なっていくだろう。

右翼・左翼を議論しようとしたら、このように価値判断から離れた定義のもとに議論すべきだろう。僕も、右翼や左翼というのは、単に立ち位置の違いにすぎないものだと思っている。問題は、どちらの立ち位置に立って考える方が、自分の理想とするものを実現する道につながるかということなのではないかと思う。再分配政策により、弱者にも温かい手をさしのべることが自分の理想につながる道ならば、そういう人が左翼に心を引かれるのは当然だ。逆に、自助努力によって、自分の力でなんでも解決していくのだというのが理想だったら、右翼的なものに心を引かれるだろう。

しかし、日本では、右というと日の丸や君が代に一体化するという、大いなるもの崇高なものとの一体化の心情を持つものが右ということになっている。さらに左も、マルクスや紅衛兵に一体化する心情を持つものが左になっている。こういう心情的な右翼・心情的な左翼という発想をすると、本来はあり得ないような右翼的・左翼的発想が出てしまう。これが「ウヨ」「サヨ」と揶揄されるようなものにつながっていくのだろう。

自助努力によって、自分の力で解決するのが右翼ならば、日本に軍事的な脅威を解決する力がないからといって、アメリカに追従してそれに全面的に頼るなんていうのは、本当の右翼の側から見ればなんと情けない考え方だと思うだろう。小林よしのり氏や西部邁氏の、イラク戦争反対の発想は、ある意味では本物の右翼に近いのかなとも感じるところもある。詳しく読んでいないので、そう言いきることは出来ないが。

イラクで人質になった人たちは、世界中から見捨てられていたイラクの人たちの側に立って、イラクの人々のために活動をしていた。その人たちに共感して支持するのは、十分左翼的な位置を持った感情だと思う。だから、彼らを左翼ではないかと感じるのは、言葉の使い方としては間違っていないと思う。しかし、左翼だからと言って何か悪いことがあるのだろうか。協力して何かをしていこうと考えるか、困っているかもしれないが、自分で努力して何とかしろと考えるか、基本的な姿勢の違いに過ぎないのではないか。そこでは良いとか悪いとかの価値判断はできないと思う。

レッテル貼りというのは、正しい批判を殺すことにもなる。目をくらませてしまうのだ。右翼も左翼も十把一絡げにして論じられるほど単純ではない。右翼の中にも、左翼の中にも、すぐれた人もいれば、どうしようもなく非論理的な人もいるというだけのことではないかと思う。レッテル貼りをすることなく、正しく批判し、正しく評価することが大事だろうと思う。



反政府・反権力ということの意味 (6) 04月24日(土)

イラクでの人質本人とその家族に対するバッシングの一つに、政府にたてついていたのに、政府に助けを求めるなんてけしからんという感情的な反発がある。僕は、これはおかしいと思う。もし本気でそんな感情を持っていたとしたら、これは近代民主主義国家の国民としての自覚を欠いていると言わざるを得ないのではないだろうか。未だに江戸時代のような「お上意識」という封建主義的な感覚しか持ち合わせていないのではないかと疑う。

アメリカの憲法には、国民が政府を倒すことの権利が書かれていたように記憶している。政府が国民にとって、抑圧をし、権利を押さえ込もうとするようなものなら、国民の利益を守るために政府を倒すのが国民としての自覚であるような印象さえ受ける。

政府というのは、たまたま現在の時点で権力を持った勢力に過ぎない。日本の国そのものを象徴するようなものではない。その政府に反対の立場を取るのは、単に現在の時点で利害が衝突しているということに過ぎない。利害が衝突していれば政府に文句を言う方が当然の行為だ。我慢して耐えなければならないと言うのは、近代民主主義国家の国民としては失格だ。我慢すれば、不正を温存する可能性がある。そうすれば、不利益は自分だけにとどまらず、他の人間が不利益を被るのも結果的には容認することになる。

イラクで人質に取られた人々が、日本国民であることを放棄した人々であれば、政府はその人たちを見捨てたとしても非難はされないだろう。しかし、彼らは国籍を放棄したり、他の国を生活の基盤にして、日本とは縁を切っていた人たちだろうか。日本国民であれば、たとえ反政府の姿勢を持っていようと、その国民の生命・財産を守るのは国家としての義務ではないのだろうか。その義務を果たさないことの根拠としての「自己責任論」は、政府の側の「政府無責任容認論」に過ぎないと思う。

国民は、むしろこのような無責任な現在の統治権力としての政府を、批判し打倒するくらいの気持ちを持っていいんじゃないかと思う。現在の政府に逆らう人間は助けなくてもいいなどという非常識な考え方を許してはいけない。政府などは、民主主義国家なら世論によっていくらでも変わりうる存在だ。スペインを見ればよく分かる。その時々の世論によって選択されるに過ぎない政府が、恣意的に守る国民と守らない国民とを差別するようなことを許していたら、国民の自由を弾圧することになるのではないか。これは民主主義の破壊だと思う。

マスコミに載ってこないニュースを伝えるフリーのジャーナリストは、結果的に政府を批判し、反政府の立場に立っているようなニュースを伝える場合が多い。しかし、ジャーナリストの基本姿勢というのは、神保哲生氏も語っていたが、どちらの立場にも与しないと言うのが正しいと思う。あくまで中立性を保ち、重要だと判断した事実を伝えるというのがジャーナリストだ。

事実の重要性を判断するときに、どちらか一方の側に偏らないようにするのが、ジャーナリストとしてのセンスと言うことになるだろう。かつては、本多勝一さんのように、朝日新聞というマスコミの中にいながらも、そのジャーナリスト感覚を失わない人もいた。しかし、現在のマスコミでは、ジャーナリスト感覚を持っている人はもはや生き残れないのではないかという気がする。マスコミは、権力側の立場からの事実を大量に送りつけるだけで、中立性を守るようなポーズに役立つような、本質的ではない反対の側の事実を時々伝えるだけだ。

今や、反政府の側からの重要な事実はどのマスコミも報道しない。このバランスを埋めるために、フリーのジャーナリストが存在しているという感じを僕は受ける。イラクのような危険地帯へ向かう人々は、まさにこの偏った報道に対するバランスを保つために、我々に貴重な事実を伝えてくれているのだと思う。彼らがいなければ、我々は物事を深く考えるための材料を失ってしまう。そういう意味で尊敬されるべき人々なのだと思う。

その彼らが命の危険のある誘拐をされたというのなら、彼らの救助に全力を尽くせと言うのは、民主主義を守ることになるのだと僕は思う。現在の政府が、その努力を怠るのなら、政府の義務を果たしていないと批判するのが正しいと思う。その義務をちゃんと果たす政府を要求するのが、民主主義国家の国民としての自覚である。

さて、マスコミが流さない貴重なニュースを送ってくれるジャーナリストの報告を一つ紹介しよう。非常に危険であるということが日本人の誰にも分かるようになったイラクで未だに活動を続ける勇気あるジャーナリストである。綿井健陽さんは、イラクにいるからこそ知り得る貴重な情報を送ってくれる。「これが“非戦闘地域”の実体だ!」(週刊金曜日)と題された報告で次のように知らせてくれている。

綿井さんは、3人が人質になったと報じられた4月8日に取材のために、危険だと言われたファルージャ近郊に向かっていたらしい。そこで取材をしようとしていたら、次のようなことがあったらしい。

「写真を撮ろうとすると、群衆の中から若い男が飛び出し、体当たりしてきた。別の男性が私に向かって石を投げた。石はめがねの右側に当たった。群衆の人たちからも「日本人も米国と同じ。おまえたちは出て行け!」と罵声を浴びせられた。
 幸い他の人が止めに入ったので、事なきを得た。これまでイラクでは私が外国人ジャーナリストだと分かると、「どんどん写真を撮れ」「俺の話を聞いてくれ」と、むしろ取材を要望されていたので、これには衝撃を受けた。」

今までは、日本は直接占領統治に加担していなかったので、日本のジャーナリストは、イラクの人々の声を世界に伝えてくれる貴重な人々だと受け取られていたのだろう。それが、自衛隊を派遣したことで、占領統治側の人間だと判断する人々が出てきたことをどう受け止めるかということが大事なことだ。この人々は増えていくのだろうか。それともごく一部にとどまるのだろうか。

綿井さんのこれまでの仕事を知ったら、イラクの人々の態度も変わるだろうが、まず日本人と言うことで上のような対応が出るということの意味を考えなければならない。それだけ感情的な反応になると言うことは、イラクの人々の絶望もそれだけ深いものがあるのだと思う。このような事実があるというのは、イラクに行かなければ分からない。次のような報告もある。

「気になった出来事がある。サマワの小学生たちに自衛隊から贈られた文房具セットだ。同封された白い紙には、「サマーワの友達へ こんにちは、私たちは日本の子供です。皆さんのために勉強道具を贈ります。皆さん、頑張ってください。日本の子供たちより」と、日本語とアラビア語で書いてある。
 一人分が500円。これが詰められていた段ボール箱には、値段表が日本語で書いてあるままだった。
 しかし、それよりも一つ気になったのは、「日本の子供たちより」という言葉。これは実際には自衛官OBたちからの寄付で購入されたものだ。「ウソだ!」と言いたいのではない。ただ、いくら相手が子供たちでも、「日本の子供たち」という言葉を、こんな時だけ都合よく利用するのは、どちらの子供たちにも失礼だと思っただけだ。これが自衛隊が行っている、文字通り子供だましの「人道援助」の一つの側面である。」

これはまことに公益性の高い情報だが、マスコミでこういう記事を見たことは全くない。イラクは危険だからと言うことで、マスコミの記者はみんな退避勧告に従って出ていったように聞いている。政府の情報を垂れ流すだけなのだから、本来はイラクまで出かける必要がないのだから、危険だからそこを出るというのはまことに合理的な行動だ。しかし、イラクに誰もいなくなったら、イラクで何が行われているかは、我々は知りうる方法がない。外国人ジャーナリストは報告しているかもしれないが、日本人の多くは、外国メディアに接することが出来ないので、そのニュースは分からないだろう。

ファルージャのことについては、綿井さんでさえ分からないらしい。そこで次のようなニュースも伝わってくる。

死者数めぐりせめぎ合い ファルージャ住民側と米軍

この記事によると、「中部ファルージャの戦闘での住民の死者数をめぐり、約270人とする米占領当局側と、「600人以上」とする住民側が対立している」そうだ。これは、ファルージャに行って、実際に見てこないとどちらが正しいか分からない。

米軍側は、一般民衆であっても武器を持った人間は、すべて武装勢力だと言いたいのかもしれない。しかし、僕は、訓練されていない、自らの誇りを守るために立ち上がった普通の人々は、たとえ武器を持っていようと「市民」であると思う。武装ゲリラではなく民間人だと思う。アメリカが数えている270人という数だって、とんでもない虐殺を示す数だ。600人だから悪くて、270人だったらやむを得ないと言うのではない。しかし、この数字にしてもなんとか小さくしようとするアメリカ側の欺瞞というのを我々は感じなければならないと思う。それを鋭く撃つ事実を報告してくれる、本物のジャーナリストを我々は支持しなければならないと思う。




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