ホリスティック・セラピーから

感情を解放する



 相手の短所が気になる度に、その自分の感情を抑圧したり、無視したりし続けていては「受け容れ」ていることにはなりません。相手の短所(と自分が感じるもの)も含めて、目を逸らさずに相手を見つめていく、そして相手の状態を現状のまま敬意を払って受け容れる、ということが大切なように思うのです。

 相手が怒りっぽいとして、相手の怒りが出てくるたびに、自分にも怒りの感情が出てきたり、或いはその場からただ逃げ出したくなったりするかも知れません。しかし、そこに出てきている感情は自分の中から出てきているのです。相手の怒りはそのキッカケとなっただけ。相手から怒りの感情が出てきても、自分の心には波風がたたないこともあるかも知れません。つまり、相手が自分の前で怒っているのは、ある意味では自分が内部に持っている感情を表面化させる「機会を与えるため」だった、という風に考えることも出来ます。これで自分は表に出したかった感情を表現することが出来たわけです。自分を少しだけ自由にすることが出来た。その意味では相手に感謝しなくてはいけないくらいです。

 また、相手からどのような感情が出てきていようとも、それは相手が内部に溜め込めた感情を出しているだけで、その場にいる自分自身の価値にはまったく関係ないことです。自分の価値を規定しているのは、社会の「常識」でもなくて、特定の人による評価でもないのですから、相手が自分をどのように思おうとも自分の価値は変わりません。だから相手が感情を出していても、それだけで自分が何かを失っているわけではない。

 もともと感情というものは素直に出してあげれば、体のシステムを素早く通り抜けて、そのまま出て行ってしまうものです。小さな子どもが、ギャーと泣いてもすぐ気分と取り戻して機嫌よく遊びだすというのと同じです。その感情はその場で完全に表現されて、体には何も残りません。

 でも大人はそうはいかない場合が多いです。公衆の面前でギャーと泣くことは「出来ない」ので、その感情を内部に溜め込みます。十分に表現されなかった感情は内部に残り、体のシステムに負担をかけ続けます。感情的なしこりがあるだけ、体内の自由なエネルギーの流れが阻害されます。体はこれをどうにか表現してしまおうとしてそのキッカケを待っています。その時に、自分の目の前で怒っている人がいると、その相手の感情に共鳴して、自分のなかに溜め込まれた感情が外にでてこようとします。

 そのキッカケを目の前の人は提供してくれました。自分のなかに感情の波をたてる相手(の「欠点」だと感じられるもの)は、そのために自分の目の前に現れてくれた。自分がその気付きを得ることが出来れば、外的な状況は自分には必要ではなくなるので、相手の状態がまったく変わらなくても(相手は相手のペースでしか変わらないから)、その状況が気にならなくなったり、目の前から消え去ったりする、と思います。




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