全59件 (59件中 1-50件目)
27日の「今夜はナゾトレ」で、「徒然草」の著者を「吉田兼好」としていた。 これについては前にも書いた。 今では、兼好が「吉田」と名乗ったことはないというのが定説になっており、「兼好」か「兼好法師」ということになっているはず。 前にも公式サイトのツイッターで指摘した気がするのだが、見ていないのだろう。
2023.06.28
コメント(0)
13日放送の「ネプリーグ」を見たら、終盤で、文学作品の作者名を答える問題があり、その中に、「徒然草」があった。 その問題の解答に行く前に終わってしまったが、終了後示された正解は「吉田兼好」となっていた。 昔は、「吉田兼好」と言ったし、私もそう習った。しかし、今は「吉田兼好」とは言わないのが普通のはず。 後世のでっち上げで「吉田兼好」とされたらしい。 最近は「兼好」あるいは「兼好法師」と呼ぶようだ。 そもそも出家しているので姓はないはずで、「吉田兼好」と呼んでしまっては二重の誤りになるのではないか。
2023.03.14
コメント(0)
いよいよ最終巻。 平家討伐に活躍した義経は頼朝に追討されることになる。 有名な「静御前」が登場するのはたった一回。「白拍子の娘の静という女」が義経のために働く場面が一回あるだけ。 平家の物語だから、と言ってしまえばそれまでなのだが、こちらとしては物足りない。 「義経記」では重要人物として活躍するらしい。 義経の悲劇は、朝廷の定見のなさにも原因がある。 十一月二日には頼朝に背くよう下し文があり、同じ月の八日には義経追討の院宣が出される。 ただ義経を利用しただけなのだ。 「平家物語」では義経の最期については語られない。京を脱出して北を目指したところまで。 署名の「平家物語」にふさわしく、生き残った平氏の最期が次々に語られ、建礼門院の晩年を語って終わる。 「平家物語」は語り物だったので、筆録されたものはいくつか種類があるのだが、それだけ好まれたということなのだろう。 成り上がる話よりも、滅びていく話の方が好まれるのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.02.04
コメント(0)
義経の進撃が続く。 しかし、後の不運の伏線が張ってあり、「逆櫓」で梶原景時と対立する。 「嗣信最期《つぎのぶさいご》」で初めて義経の来歴が、相手の口から、平治の合戦に父が討たれて孤児となったが、鞍馬の稚児になり後には金商人に従って、食糧を背負い奥州へ放浪して下ったと語られる。 山場の一つは那須与一が扇をいるところ。 解説によると「与一」は「余一」で、十一番目の子という意味なのだそうだ。 見事に扇を射落とすところまではいいのだが、その後、それに感心した平家側の男が、船の上で舞い出すと、それまで射殺してしまうのはいただけない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.02.01
コメント(0)
一の谷の合戦以来、平家は衰える一方。源氏の進撃が描かれるのか、と思っていたら、平家側の話が多い。もっとも「平家物語」なのだから当然だ。 源氏にとらえられた重衡、屋島から脱出して出家した維盛の話が続く。 あまり「身分」というものを意識させる話はなかったのだが、「請文」で、時忠が、法皇からの使いの顔に焼き印を押すのには驚いた。 「藤戸」では、土地の者に浅瀬を案内させた佐々木三郎盛綱が、ほかの人に地形を教えられては困る、と、その者を殺してしまう。戦功を競っているとはいえ、あまりにも非道だ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.01.26
コメント(0)
義仲追討の軍が進撃し、「宇治川先陣」「木曽最期」「坂落」「忠度最期」「敦盛最期」と山場が続く。 源氏側、平家側それぞれに悲劇がある。 「三草勢揃」ではじめて「武蔵房弁慶」が登場する。 一の谷と鵯越《ひよどりごえ》はどうしても結びついてしまうが、実際には、鵯越は一の谷に接しているわけではないそうだ。 「越中前司最期」では、敵に情けをかけたために越中前司はだまし討ちにあって命を落とす。これが戦争なのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.01.24
コメント(0)
木曾義仲の進撃と平家の都落ち。 合戦の場面が多く、面白くなってきた。 「名虎」の段において「相撲の節」がある。 今の相撲とは違って、遠くへ投げている。柔術に近いものなのだろう。 その次の段の「緒環《おだまき》」に登場する維義《これよし》の出精にまつわる話は、その段の名の通り「おだまき型」の話。 源氏も平氏も、それぞれの武将は恩賞を求めて戦うはずなのだが、物語の中ではそういうことにはなっていない。 武士としての名誉、後世に名を残したいという思いで命をかけて戦う。 従って、敵であっても、すぐれたものには賞賛を惜しまないし、その武士の命を助けられなかったと残念に思う。(「瀬尾最期」) 最後の「法住寺合戦」で、やっと「九郎冠者義経」が登場する。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.01.21
コメント(0)
木曾義仲の進撃と、都落ちしていく平家。 合戦の場面も多い。 時代が違うと感じさせるのは「篠原合戦」で、十八歳の若者が、一度は命を助けられながら、その相手の高橋判官長綱を討つところ。すぐれた敵であれば、討ってしまうのだ。 斉藤別当実盛の活躍も生き生きと語られる。 老武者として侮られたくない、と、髪を黒く染めての出陣というのは印象に残る話だ。 平家の都落ちでは、貴族化している平家の様子がわかる。 俊成に歌を託していく薩摩守忠度《さつまのかみただのり》、名器である琵琶をもとの持ち主に返しに行く経正《つねまさ》。 とらえていた東国のものたちを「心は東国にあるのに、魂の抜け殻ばかり西国へ連れて行ってもしょうがない」と逃がしてやるのも印象に残る。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.01.14
コメント(0)
電車の中でしか本が読めないので、仕事が始まってやっと読み終えた。 高倉院と小督《こごう》という女性との悲恋が語られるが、それもまた、入道の横暴を語る挿話となっており、こんなに非道なことをしたから、ひどい死に方をするのだ、ということになる。 木曾義仲が挙兵し、入道は高熱を発しながら死んでいく。 清盛入道は悪行を重ねた者だったということになっているのだが、なぜか、その死を語ったあとに、じつは慈恵僧正の生まれ変わりである、という話になっている。 驚いたのは、伊予国より飛脚到来す。(p106)で、この頃から「飛脚」というものは存在したのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2010.01.04
コメント(0)
時は治承四年。いよいよ頼朝の挙兵。富士川の合戦(というか、平家の勝手な敗走)や東大寺・興福寺の焼失など劇的な出来事が続く。 読んでいて意外だったのは、常磐御前の話が出てこないこと。これから義経にかかわる話のところで出てくるのだろうか。 解説によると、「方丈記」の記述をそのまま、あるいは若干つくりかえてとりいれている部分があるそうだ。 言われてみれば、まさに「平家物語」の時代を生きた人なのだが、「方丈記」には源平の抗争の話はなかったような気がする。 「五位鷺《ごいさぎ》」の名の由来が、まさに「挿話」として語られている。(p100) 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.22
コメント(0)
源頼政の挙兵によって平家との間に戦闘が繰り広げられる。 僧兵を味方に付け、平家と闘うが敗戦。 戦闘の場面は躍動感がある。 「長刀に乗らんととんでかかるが、乗りそんじて、ももをぬひだまにつらぬかれて」(p113)など、実際にありそうな戦いぶりだ。 太刀の使い方にも名前が付いていて、「蜘蛛手《くもで》、かくなわ、十文字、とんぼ返り、水車、と自由自在にかけまわって、八方すきなく斬りまくった」(p206)という具合。 面白いのは浄砂房という僧兵の論理で、合戦の中で思いのままに奮戦し、満足すると、去ってしまう。 集団で生死を共にするという武士の倫理とは異なる行動だ。 頼政がヌエのような鳴き声の怪物を射止める話はこの巻の終わりにある。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.14
コメント(0)
巻第三は、前巻末で簡単に述べられていた、鬼界が島に「赦文《ゆるしぶみ》」が送られることになったきっかけから、一人残された俊寛の失望、その俊寛を訪ねて行って再会し、帰京して娘にその最期をつたえる有王の話と、ここだけで物語になっている。 解説によると、「平家物語」の他の系統の本では、赦免の使者が訪れる場面は異なった描かれ方もするそうだ。 他の二人が赦免されるのは、信仰を失わなかったため、というのが中世文学らしい。 そのあとはまた、清盛の専横、次々に失脚していく平氏以外の公卿たちの話が羅列のように続いていく。 失脚・左遷が続く中で、突然「行隆《ゆきたか》之沙汰」というところで、それまで貧窮にあえいでいた左少弁行隆という人物が現れて、この人だけはなぜか地位を上げられ、家中こぞって大喜びという話が挿入される。他の公卿の没落との対比なのかもしれないが、解説によると、この人物は、「平家物語」の成立に関係ふかい一族であることは判定できそうである。(p233)とのことだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.10
コメント(0)
反平家勢力は、その作戦がことごとく失敗し、平家一門が隆盛していく過程が語られているのだが、清盛が出てくることはあまりなく、失脚したり、流罪にされたりといった、敗れた側を語ることに紙筆を費やしている。 第二巻は、鬼界ヶ島に流された三人のうち、俊寛は帰ることができなかった、というところまで。 いや、長い長い。 仏教徒との対立が多く、その因果として平家の滅亡があるような口ぶりで、長編の仏教説話という印象を受ける。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.12.04
コメント(0)
「源氏物語」は挫折したので、今度は「平家物語」に挑戦。 源氏との戦いがたっぷり描かれているのかと思ったら、最初は、清盛を中心に平家が成り上がっていく過程が延々と描かれていて、門徒との衝突やらなにやら次々に事件が起こるのだが、全体像が全く把握できない。 それでも、読めなくはないので、二巻までは読んでみよう。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.11.30
コメント(0)
ちゃんと読んだことがないなあと思って手に取った。 第一巻は「桐壺」「帚木」「空蝉」。 以前から感じていたことがだが、どうも話が好きになれない。 この話を現代の皇室に置き換えてドラマ化したらどうなるか考えてみればいい。 訳文は自然で読みやすい。 平易な表現を心がけている。 こんなものがある。 「少し鼻毛の長い話だが」(p52) 「かわいげもへちまもなくなりましょうから」(p107) 「あれから幾日も経《た》っちまいました」(p133) 「女もあいつ馬鹿野郎《ばかやろう》だと思うだろう」(p155) 「まだこのおぼこ娘の頭には」(p157) どうも最後まで読み通せそうにないので、第一巻で挫折。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.11.26
コメント(0)
ほかの本で読んだことがあるはずなのだが、覚えていない。 改めて読み直した。 もっとも驚いたのは「あふくま川」。「阿武隈川」のこと。福島県出身のわたしにはなじみのある川だ。 「語釈」によると、古歌では「あふ隈」「あふくま」が多く、その「あふ」に「逢ふ」を掛けて詠んだものが多いので、歌枕としてはオウクマガワと呼んでいたものであろうか。西鶴著『本朝二十不孝』(貞享三年刊)巻三に「大隈《くま》川」とあり(p89)ということだ。「あふくま」なら「オウクマ」になるわけだし、「あふくま」に「阿武隈」の字を当ててしまったがために「アブクマ」になってしまったのかもしれないのだ。 有難《ありがた》や雪をかほらす南谷(p209) 羽黒山での句。「かをらす」ではなく「かほらす」になっている。 正しくは「かをらす」。「シクラメンのかほり」の仮名遣いが間違っていたのを思い出す。 「雨月物語」を詠んだ時に感じたのだが、江戸時代は、仮名遣いはけっこういい加減なのだ。 言うまでもないことだが、「おくのほそ道」は、事実を記したものではなく、俳諧にあわせて半ばフィクション化している。 創作意識というものがあったのか、と思ったが、これが一般的だったのではないだろうか。 こんにちでは、「日記」には真実が書かれていると思ってしまいがちだが、「土佐日記」だって創作としてかかれている。 「日記は創作だ」と肝に銘じておこう。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.07.14
コメント(0)
「蛇性の淫」「青頭巾」「貧福論」。あとは解説と秋成小伝。 「蛇性の淫」は翻案もので、「貧福論」は観念的すぎる。 読んだことはあるはずなのだが、「青頭巾」がやはり怖い。 「吉備津の釜」のような女の執念よりも、男の妄念の方が恐ろしい。 男女の愛憎よりも人を虜にするものがあるのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.07.04
コメント(0)
「白峰」「菊花の約《ちぎり》」「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」「仏法僧」「吉備津の釜」。 このうち、「白峰」と「仏法僧」は幽魂との対面ということがあるばかりで、筋立てというほどのことはない。 対話の中に、作者の意が込められているのだろうが、よくわからない。 「浅茅が宿」も「吉備津の釜」もだめな男の物語。どうしてこう自分勝手なんだろう。 「菊花の約」も、命をかけて約束を果たすという話ではあるが、主人公の方は、生活力は感じられない。観念の世界に生きている。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.07.01
コメント(0)
冒頭しか知らなかったので通読してみた。 出発から都の元の家まで五十五日間。 ほとんどが船路で、日が悪かったり天候が悪かったりで、同じところに何日も停泊していたりする。 ただし、どこまで虚構なのかわからない部分もある。 驚いたのは、一月二十日のところで、阿倍仲麻呂の「あまのはら……」の歌がしるされているのだが、〈参考〉によれば、この歌は、『古今集』以前のいかなる文献からも見いだすことはできない。(p151)のだそうだ。あるいは貫之の創作ではないかといったら、いい過ぎになろうか。(p152)とまで述べている。 「爪はじき」 二十六日に出てくる語。今でも使う語で、漢語で書けば「弾指」。 〈注〉によると、元来は密教の行法のひとちで「たんじ」。(p178)だそうだ。先年、宴席の葬儀に参列したが、密教系だった。僧侶が、何度か、人差し指を伸ばすようにして「パチン」と音を立てていたが、これだったのだ。 漢文体ではなく仮名を用いて書かれたという点は画期的だったのだが、漢字で表記しなかったために解釈が分かれてしまうところもある。本文には特に漢字を用いなかった。仮名文学としての最初の作品に、このように、永遠に解決の方法もない問題の出てくるのもいたし方のなkことである。原初形態がほぼ察知できるにもかかわらず、読解が二通り、三通りにもなってしまってきている。(p271)とのことだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.06.11
コメント(0)
第九。「我は閻羅《えんら》王、汝が国に地蔵菩薩と称《ます》す」(p86)とある。 閻魔と地蔵菩薩は同じと思われていたらしい。 物語らしくなく、単なる筋書きだけのようなものもある。 しかし、読ませるためのものではなく、語って聞かせるときのネタ帳のようなものであったらしい。 第二十一の「解説」には、在俗の僧がこれを庶民に語る場合には、適当な潤色が、臨機応変に行われたと思う。『日本霊異記』には、筋書きだけで、説教場での潤色を期待する類のものが少なくない。(p149)とある。 このことは巻末の解説でも述べられている。 『西遊記』の成立過程が想起される。 第二十四。「供養の物がなくて、どうしてお経を読みえよう」(p169) なんと、布施という善行がなければ仏教は相手にしないらしい。 第三十。 「暦」が出てくる。語釈によれば、「当時は中国の大衍暦《たいえんれき》によっており、私寺などでも広く用いられていた。」(o215)のだそうだ。 一部の人は、日付も把握していたわけだ。 著者は、このほんの前に小学館の「日本古典文学全集」で同じ「日本霊異記」を担当している。 しかし、解説によると、「この本野訓読法の欠点を、さらに今般の講談社学術文庫本によって修正しようとしました」ということである。 学問、研究に終わりはないのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.06.03
コメント(0)
第七に「俗姓は鋤田連《すきたのむらじ》、後に姓を上村主《かみのすぐり》と改む」という文がある。 「村主《すぐり》」といえば、スケート選手を思い浮かべる。珍しい姓だなあ、と思っていたが由緒のある姓らしい。 語釈によると、「上村主」は「朝鮮系の帰化人で、上が氏《うじ》、村主《すぐり》が姓《かばね》」なのだそうだ。なぜ「村主」を「すぐり」と読むのかは説明がない。 当時の朝鮮音のなごりなのだろか。それとも「すぐり」と言う語があって、それに意味の上で「村主」という字をあてたのか。 同じく第七に「神通《じんつう》を以て」と言う句があり、現代語訳では「神通力《じんずうりき》」となっていた。「じんづうりき」ではないのかと思って辞書を引いたら、現代仮名遣いでは、なんと「じんづう」ではなく「じんずう」となっているのだった。知らなかった。 これはわかりにくい。 第十。「常に鳥の卵《かひこ》を煮《に》て食らひ」と題にある。 「卵」を「かひこ」と言ったのだ。「蚕」は外来のものであるし、卵を指す「かひこ」が先にあって、形状が似ている蚕の繭も「かひこ」と言うようになったのか。あるいは語源は全く異なるのか。 第十三。 吉祥天女の像に欲情した男の願いを、天女の像がかなえてくれるという話。 「深く信仰すると、神仏に通じないことはない」という話になっていて、これでは、煩悩もかなうと言うことになってしまうのだが、かつてはこういう素朴な信仰だったのだろうと思わせる。 第三十四。 貧しい女が、求婚して通ってきた男をもてなす料理がなく、観音菩薩に願ったら、観音が隣人に姿を変えて料理を持ってきてくれた、という話で、子供の時に、何かの本で読んだことがある。 その時は、たんに客が来ているということしかわからなかったが、これを読むと、かなり強引に求婚して男が一方的に女のところにやってきているのである。 それでいながら、何か食わせてくれとはどういう了見だ。 女が貧しいのはわかっているのだから、自分で何か用意して来いよ、と言いたくなる。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.05.28
コメント(0)
遠い昔に読んだことがあったのだが、「今昔物語」を読んで思い出したので再読。 「今昔物語」の原形がいくつもある。 仏教を尊いものとして説こうという説話集ではあるのだが、仏教とは関係のないものもある。それだけ古い話なのだろう。 驚いたのが、「第三十一」の話。 仏道を修行していながら、富と美女を手に入れたいとばかり願っていて、仏教の力でその願いが叶ってしまう、というもの。 財産や女をすてて修行するものでなかったのか。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.05.22
コメント(0)
震旦の世俗説話集。 「世俗」とは言っても、始皇帝の話などで、民間の話は少ない。 第七に「野(都-者)《のべ》にあさぢ」という表記があり、おおざとだけで「べ」と読ませている。 ひらがなの「へ」の元の字は何かというのは、本によっては、「辺」だったり「部」だったりするのだが、これからすると「部」なのかなあ。 仏教説話集のはずなのだが、孔子や荘子も登場する。 巻九では「孔子」に呉音で「くじ」とかながふってある。 仏教からはなれて、「物語」であることに重点が置かれてきているようだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.04.23
コメント(0)
震旦孝子譚。孝子の方よりも親の方が無軌道だったりするから驚く。 第二の孝子譚として知られる孟宗の話など、母親の方に問題がある。「此の母、世を経て、笋《たかむな》なければ飲食《おんじき》する事無し。』って、タケノコがないと何も食べないって、ただのわがままではないか。 第五は、山中で虎に出会ったが、孝心が虎を動かし、助かったという話。 「参考」で「虎はわが国に生息しない」と言われてみればその通りで、なぜ「とら」という和語があるのか諸説あるらしいが、「虎」と表記される猛獣がいることは知られていたわけだ。 第六は、亡母の遺品を大切にし、記憶にもない母を恋い慕ったという話で、奇跡も何もない。人情話の一挿話のようだ。 第三十六は登場人物の多い長い話。幽明境を異にしてしている者同士が交流したり、死生談義をしたり。 死後の世界については中国土着の信仰と婚前となっていて、道教の受容というか一体化がみられる。 第四十三は、継子が継母の策略にはめられて、というところで危機一髪になるのかと思ったら、何と、孝のために自害してしまう。孝とは恐ろしいものなのである。 第四十四は、なんと干将・莫耶の話。眉間尺による敵討ちまであって、読み物としてよくできている。 最後の第四十六は何とも理不尽。 たまたま一緒に暮らすことになった三人が、年長者を父として孝養を尽くしているのに、その父役の男は子供役の二人の孝心を試そうとする。本来無縁の人たちなのに、なんという非道な男なのだ、と義憤に駆られるのだが、そんな男に対してでも父に対する孝養が純粋であれば奇跡が起こるという話。 奇跡が起こらなければどうなっていたのだろう。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.04.17
コメント(0)
仏教経典霊験譚。昔、震旦でこんなことがあった、という話の連続で、ほとんどが、一度死んで生き返り、法華経を聞いたことがあるとか、読んだことがあるとかいう生前の善根で生き返ることができた、と語るもの。 たまたま聞いただけでもこんなにいいことがあるのなら、わざわざ学ばなくてもいいのではないか、と思うのだが、積極的に学べばもっといいことがあるということなのだろう。 第十四は、法華経を唱えていたため、口と舌だけが腐敗しなかった人の話、というのだが、こうなってくるとありがたいのかどうかもわからない。 「日本霊異記」にどくろと舌だけが残っていて経を唱え続けているという話があったのを思い出した。 第二十六は転生譚。役人として出世した男が、自分が前世ある男の妻だったことを思い出してその男の家に行く。 これもこんな目にはあいたくない。今の自分は男で、元夫だった男と再会して親しくなるのだが、こんな場合、どう接すればいいかわからない。 最後の第四十八は法廷もの。ここまでくると、著者もストーリーテラーとしての腕に磨きがかかってきたのか、有罪か無罪かを巡ってのやりとりなど、話のふくらみがある。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.04.15
コメント(0)
巻六は「震旦」編。いまは「しんたん」と読むのが一般的だが、この本の頃は「しんだん」と読んだようだ。 死後蘇生して、地獄の有様、仏教に触れたことによって生き返ることを語るものが目立つ。 巻三。 「参考」に、超越的な禅の教えと道教の尸解《しかい》の術(死んで神仙と化す術)との結びつきが考えられる(p67)とある。言われてみると、死んだはずのものが生きている、というのは仏教説話らしからぬ。生まれ変わる方が仏教らしい。 第六。 玄奘三蔵の話。たどるたどる足の向くままに歩いていると(p98) 「たどるたどる」という語は原文ではどうなっているのかと思ったら、原文も「たどるたどる」だった。 巻末で、各話の表題の「語」を「こと」ではなく「ものがたり」とよむことにしたことについて述べられている。 体系本以来「こと」ととなっていたそうだ。今でもおそらく、「こと」と読むのがい一般的なのだろう。しかし、ここで述べられているように「ものがたり」と読んでいた可能性もあるわけだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.03.31
コメント(0)
いよいよ天竺編は終わり。 後の方になってくると、「お話」を「語る」ことを意識したような、物語性の強い話が目についてくる。 「第二十五」の猿の肝の話などは、昔話の元になったのだろう。「第十九」の亀の話は「浦島太郎」とのつながりを感じさせる。 理解しがたい話もある。 「第三」は、宝物を盗んだことがきっかけで富と地位を得た男の話で、「善悪は同じことだと知るべきである」(p73)と結んでいる。 これは、語釈によれば、仏教の至極である諸法不二、すなわち絶対無差別の理に基づいて言ったものということなのだが、どのように受け止めればいいのかわからない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.03.17
コメント(0)
僧法霊験譚集。 第十四夫婦のうちの一人が僧を供養しようとするときは、心を合わせてすべきであり、片方がそれを制止するようなことがあってはならない(p145)など、相変わらずではあるが、単純に布施を求める話ばかりではない。第十七には(仏は)一羽の鳩《はと》のために身を捨て、七つの虎に命を与え、眼をくり抜いて婆羅門《ばらもん》に施し、わが血を出して婆羅門にもなせるというような(p166)というように、仏の側に施しを求める話もある。第二十七には、「芥子《けし》を呪《じゆ》して」(p251)と、語釈にも、「開けゴマ」の発送に通じるものがあるとあるように、合理的な説明のないものもある。話自体が、岩の中に入っていった人たちがその後どうなったかを語っていない不思議な話である。第一に「無学」「有学《うがく》」という語が出てくる。 「無学」は「もはや学修すべきものがないの意」(p34)ということで、そういう意味があることを初めて知った。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.03.13
コメント(0)
巻三は、釈尊の入滅まで。 とにかく布施をしなさいという話が続くが、善根の大切さを説くものも目に付くようになってきた。 第五の仏の弟子同士で競う話は、結びが、「まして末世の僧が互いに知恵や験力《げんりき》をきそい合うのはまさに当然というべきである」(p50)となっていて、語られている当時は競い合うことが多かったのだろうということがわかる。 第二十三は、慳貪女が和尚に助けを求め、「さまざまの財宝を持って来るように」といわれて、仏のもとへ財宝を持って行き、教化《きょうげ》を受けて阿羅漢果《あらかんか》を得るという話。とにかく仏はいろんなものを受け取る話が多いのだが、受け取った財宝はどうしたんだろう。 その使い道については語られていない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.03.06
コメント(0)
巻二もまた、僧への接し方によって、転生して財宝を得たり苦難にあったりという話ばかり。もし比丘に布施を行おうとするなら、ほんのわずかでも物惜しみしてはならない(p308)というところなど、かなり露骨に感じるのだが、語り手はそうは思っていないのだろう。 目についた言葉。 「第二十三」で「手巾《たのごひ》」という語が、訳文でも「手巾《たのごい》」。 わたしはら「てぬぐい」にするところだ。もちろん「たのごい」の方が由緒ある語なのだろうとは思う。 著者は1916年生まれ。出身地はわからない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.03.01
コメント(0)
いくつかの話を知っているだけで、全体像は知らなかったので、一度は読んでみようかと挑戦。 仏教説話集だとは知っていたが、巻一はひたすら仏の話。 出家に至る経緯、前世など、仏の話が延々と続く。 仏となってのちの話では、とにかく僧侶に布施をすればいいことがある、という話ばかりで、語り手の魂胆が見え見えなのだが、どんな話でも細大漏らさず集めようという姿勢が感じられ、また、そのおかげで研究者は助かっているのだろうし、わたしの、楽しみのために読もうという姿勢が良くないのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.02.27
コメント(0)
恥ずかしながら、読んでみるまで、どんなものなのか全く知らなかった。 いずれも、実際に事件があって、それが祭文などで広く知られ、半ばフィクション化したものを西鶴が小説として再構成したものなのだった。 「八百屋お七」は知っていたが、「お夏清十郎」も「樽屋おせん」も知らなかった。 後の二つは、「おさん」の出てくる暦屋の話、最後は、薩摩の「おまん」と源五兵衛。 「好色」とは言っても濡れ場があるわけではなく、一途な恋愛であったり、浮気の果ての逃避行であったり、全くの偶然が生んだ悲劇であったりする。 驚いたことに、物語の中に矛盾が多く、やっつけ仕事のような印象さえ受ける。 読み手は皆、大筋は知っているので、細かいことは気にせず、絵と文だけを楽しんでいたのだろうか。 各巻ごとに、原文、訳文、注、鑑賞の順に並んでいて、原文はとばし読み。 訳はわかりやすく、「ここが機会《チャンス》だと」(p129)「ダイビングの上手な者」(p258)などという砕けた口調もある。 1984年第1刷ということで、その当時の江戸研究では常識となっていたのかもしれないが、男にのみ離婚請求権のあった封建体制の中で(p184)というのは、今日では誤りと言われるのではないか。 三行半についての評価は、今日では違っていて、結婚する時点であらかじめ三行半をもらっておく女性もいた。 あるいは、西鶴の時代はまだ男優先だったのだろうか。 原文と訳文だけならたいした分量にはならないのだが、注や鑑賞での考証や諸説の紹介が詳細でやや厚めの本になっている。 ただ「こういう説がある」というだけではなく、誰の説であるかを明示し、また、自分の説も、以前の考えを訂正していたりして、専門家向け。 この本が書かれた時点での、「好色五人女」研究の総覧にもなっている。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.01.23
コメント(0)
1979.11.10第1刷。1988.7.15第5刷 こういう書物があるとは知っていたのだが、中身は全く知らなかった。 「伊勢物語」を意識したものなのだ。 この物語に限らず、「伊勢物語」の影響は大きかったらしい。 こんなことが書いてある。『伊勢物語』の呪縛《じゅばく》?かかっているのが古今歌人である。なんでもかでも、自分の恋も「昔男とその相手の女」流に形づくろうとする。(p182)ということなのだそうだ。お手本があって、それにあわせなければならないと思い込んでいたらしい。 中身は、短い話で、歌のやりとりが中心になっている。 原文と訳文が並んでいるのだが、和歌には全く興味がないので訳文だけ読んだ。 これじゃ、読んだとは言えないね。 この本の著者は、専門の研究家で、筆写本を見て、書き誤りではないかというところも指摘するほど。 しかし、お堅い人ではなく、訳文はやわらかい。 ある歌の訳文には、「あなたのおナゲキでござんしょう」などというのもある。 突然、大学の先輩の話など持ち出したりするので驚く。 興味深いのは当時の生活で、妻どい婚は知っていたが、男から訪ねるばかりでなく、第十一段と第二十四段には、女の方から遊びに来る話がある。ただし、友達であって、妻ではないらしい。 男が通うが基本ではあるが、複数の「妻」がいて、一人のところに毎晩通うとはかぎらないわけで、女の方でもほかの男を通わせていることがある。 その状態を、著者は、平安朝は一夫多妻ではない。もはや、多夫多妻である。(P104)と言い切っている。 あっ、そうか、と思ったのは、「漁色家《ぎょしょくか》(p216)」。なんとなく、「りょうしょくか」と読んでいたが、考えてみれば、「漁」を「りょう」と読むのは「漁師」の場合のみで、あとは「ぎょ」だった。 自分の間抜けさを思い知った。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2009.01.14
コメント(0)
読んだのは集英社版。1986年1月22日第1刷。1986年4月14日大6刷。「わたしの古典」というシリーズの1冊目。 古事記は何度も読んだ。 したがって、たいていの話は読んだ記憶のあるものなのだが、田辺聖子の訳文を読むという点で新鮮。 田辺聖子はあまり読んだことがなかった。 ところどころに田辺聖子の中があって、彼女がどういうことに興味を持ち、何をおもしろと思うのかということがわかる。 「古事記」そのものもおもしろいものなので、読む価値がある。 それにしても、後の方になってくると殺しあいなど、どろどろした話になってくるのが不思議だ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板
2008.12.02
コメント(0)
1987.7.1。大修館 ずっと前から自宅の本棚にあったので、当然一度は読んだはずなのだろうが、全く記憶にない。 全三巻のシリーズの第一巻で、「総説」「インド説話」「中国説話」の三章。 日本の説話が、外国の説話をどのように受容してきたか、ということを、説話の実例を示すことで説明している。 収録されている説話を読むだけでもおもしろい。 以下、気になったこと。 インド説話の「一角仙人」に「東・西・南・北・中のすべてのインド」という文章があり、「今昔物語集」の原文では「五天竺皆」となっている。 東西南北の四方だけでなく、「中央」も数えるというのは、中国の五行に通じる。 「獅子の妻となる王女」は、王女が覚悟の上で、というのではないが、異類と山中で暮らし、異能を持つ子を産む。「八犬伝」の源流の一つなのではないか。 「孟宗の筍」は有名な孝子譚だが、タケノコは、生えてきたからといって即座に料理して食べられるものなのだろうか。 あく抜きなど手間がかかると思うのだが。 この故事にちなんで「孟宗竹」と呼ばれる竹があるわけだが、「今昔物語集」では、竹の名の由来については触れていない。 孟宗竹が日本で広まったのは江戸時代になってかららしい。 たしか薩摩が江戸に持ち込み、そこから広まっていったものだったはず。 「竹取物語」があるくらいだから、竹そのものはあったのだが、「孟宗竹」は新顔なのだ。 「戦々兢《きょう》々としている人が以外に多い」(p252)の「以外に」は誤植。 最後の「双龍の闘い」の「補説」によると、動物報恩譚にはけものへんのつく動物はあまり見えないそうだ。 「けもの」とは一線を画する生き物でないと語りにくいのだろうか。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板
2008.10.24
コメント(0)
以前「八犬伝の霊玉の大きさ」で、第四十三回に「頭髪の中や、耳の中、口の中に隠していた」という描写があることを述べた。 第八十二回には、毛野の言葉の中に、老母草《おもと》の実ぐらいの大きさの真白の玉とあった。 やはり小さいようだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ クチコミblogランキング TREview
2008.05.19
コメント(0)
中公新書。1980.11.15。 だいぶ前に一度読んだのだが、最近「現代語訳南総里見八犬伝」を読んだので、再読してみた。 「八犬伝」の謎解きの本である。 全体の構成を知ってから読むと、この本に書いてあることがさらによくわかる。 犬士はみな、その成長の過程において辛酸をなめる。 貴種流離譚(本書でこの語が使われているわけではない)になっているのだ。 白井喬二の訳も読んでいて、故意にか偶然にか「今畜生に、身を棄《すて》、命をとらする」という原文の一部を省いている。(p45)と指摘している。 原文で読んでいて、重要なところだと思っていたので、訳文にないことがひっかかったのだろう。仏に祈る呪具である「数珠」に、儒教の徳目が刻まれているのだから錯綜には違いないのだが(p35)など、言われるまで気づかなかった。 「八犬伝」を読んでいて、「江戸が出てこないなあ」とはわたしも思っていた。 当時はさほど繁華な土地ではなかったはずだが、江戸の周囲の土地が出てきても、江戸そのものは出てこない。 これは筆禍を恐れてのことだったらしい。「浅」は普通センを音とするが、ザンの音もあった。(p201)とあるが、とりあえず引いてみた「学研漢和大字典」、三省堂「全訳漢辞海」には「ザン」の音はなかった。 この本が書かれた当時はSFブームだった。特撮映画やアニメ隆盛の時期だった。 「あとがき」に、いま、小説・映画・テレビ、劇画のどの分野でも、スペース・ドラマや伝奇幻想物がたいへんな人気である。とある。 ここでは、SFという語は使っていない。当時、「スペース・ドラマ」という語は聞いたことがなかった。 SFの舞台は宇宙とは限らないので、この語は適切ではない。 なお、この本は、手を加えられて「完本八犬伝の世界」として新たに出版されている。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ クチコミblogランキング TREview
2008.05.09
コメント(0)
いやあ、長い道のりだった。 八犬士が全員集合して終わるのかと思ったら、そこから延々と続く。 最後に登場した親兵衛の都での話、里見家の宿敵・扇谷との大決戦などが下巻の大半を占めるのである。 水滸伝や三国志演義を下敷きにしているのがよくわかる。 NHKの人形劇「新・八犬伝」では、全員がそろったとたん、どこかへ消えていってしまっていた。あれはあれで余韻があった。 元の話では、里見家は十代にして滅ぶ。現実的すぎる。 そもそも、伏姫などの霊的な力によって守られている里見家と犬士の壮大な物語のはずなのだが、書名通り「南総」が中心で、天下を取ったりせず、南総が平和であればそれでいいという小市民的な性質が強い話なのだ。 訳者の後書きによると、翻訳と言うよりは、白井喬二による再創作と思った方がいいようだ。そうでなくては読み通せなかったろう。楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ クチコミblogランキング TREview
2008.04.25
コメント(0)
1956年3月25日初版発行。河出書房。 いやあ、長い長い。 犬士が出てきたかと思うと、出会ったり別れ離れになったりして、8人そろうということがない。そろうまでの波瀾万丈で読者を引っ張っていく趣向ではあるのだが、複雑に入り組んでいて、今誰と誰が一緒にいるのかわからなくなる。年表が必要だ。登場人物の数は少ないのに、「水滸伝」より入り組んでいる。 馬琴の頭の中では、混乱することなく整理されていたのだろうか。 「八犬伝」というと、わたしにとって懐かしいのは、NHKで放送されていた人形劇「新・八犬伝」。 「♪夕焼けの空を君は見てるか~」 調べたら、劇場版が残っているんだね。 脚本は、「時をかける少女」を「タイムトラベラー」にした故・石山透さん。 これまた調べたら、「新・八犬伝」の小説版があるのだった。 ちょっと興味を引かれるなあ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ クチコミblogランキング TREview
2008.03.25
コメント(2)
1978.11.10。第1刷。1988.10.20。第7刷。講談社学術文庫。 「十六夜日記」の作者の、十八歳の時の回想。 恋人に裏切られた衝撃から衝動的な行動を取ることになるのだが、その恋人とのことはほとんど語られない。 一時の激情から、自ら髪を切って、雨の中を寺に向かうあたり、ドラマのようだが、実際にあったことなのだろう。 とにかく、感情の赴くままに行動する。 出家したかと思うと、母の再婚相手が遠江に誘ってくれたのに同行し、遠江に行ったかと思うと、乳母が病気だと聞いて京に引き返す。 周囲の者は彼女に振り回されて大変だったろう。 こういう行動は、当然周囲には知られているわけで、それでも求婚者が現れ、子供が生まれ、その子どものために訴訟を起こして鎌倉へ向かったりしていたわけだ。 精神的なエネルギーの高い人なのだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2008.01.23
コメント(0)
49歳までのことが記されている。 「とはずがたり(上)」とは趣が異なって、人生が下り坂に向かっている。 出家し、関東に遊び、西国にも足を運ぶ。 求愛に困るというよりも、生活に困る状況になっている。 過去の確執を心に抱きながらも、懐かしい気持ちで人の死を悼み、かつて接した人に近づく。 作り物ではない、真実の迫力がある。 長期間に渡る記録なのだが、その都度覚え書きを残しておいたのだろうか。 人とやりとりした歌など、そういつまでも大量に覚えていることはできないだろう。 人生の記録を残しておいたということは、それだけ自分自身に対する愛着が深かった、ということなのだろう。 だいたいの内容がわかればいいという方には、マンガ版もあります→ 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2008.01.18
コメント(2)
講談社学術文庫。1987.7。 鎌倉時代に、京の公家社会で、数奇な人生を生きた女性の回想。 十四歳で院の寵愛を受けることになったといっても、数え年だから十二歳か十三歳なのではないか。 しかもその時にはすでに恋人(文のやりとりだけだったらしいが)がいる。さらに、即妙に恋の歌を詠んでやることもできる。 何という早熟。 当時としてはさほど珍しいことではなかったのだろうが、その論理・倫理は、現代とは全く異なる。 強いて言えば、今までに読んだことのある本の中では、ラクロの「危険な関係」が近いかもしれない。 しかち、あちらが恋愛を遊戯化しているのにくらべ、こちらは、自分の存在をかけた切り合いである。 院が、この女性に愛人がいることを知って、わざと、その男もいる屋敷内で、彼女をほかの男に自由にさせたりする。 信じがたい行動をとる登場人物が多い。人名は隠してあるが、フィクションは少なく、これはこの人のこと、というのがほとんどわかっているそうだ。 政治の中心が移ってしまったので、ほかにすることがなかったのだろうか。(12月19日読了) 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2007.12.27
コメント(0)
講談社学術文庫。1981.10.10第1刷。1989.7.30第6刷。 これまたきちんと読んだことがないので読んでみた。 「虫めづる姫君」は有名だが、男が出てくるとは知らなかった。 どの話も、結局は男と女の話になっていく。 それが最も重要なことだったのだろう。 女は、経済力のある親がいなければ全く無力であり、男は、親の意向に振り回されることが多くて主体的ではない。 宙ぶらりんの男と女の話ばかりという印象を受けた。 男の場合は、生まれた家柄で身分が決まってしまうし、女の場合は、しっかりした後ろ盾や乳母がなければ、暮らしが成り立たない。 気になった言葉。「もどいている」(p89) 「~もどき」という名詞形は目にするが、動詞で目にしたのは初めてかもしれない。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2007.12.08
コメント(0)
1982.8.10第1刷。1989.2.15第7刷。 収録されているのは「一寸法師」「道成寺縁起」「横笛草子」「鏡男絵巻」「鉢かづき」「長谷雄草子」「猫の草子」。 「解説」のあと、長いものは何段かに分けて、本文、現代語訳、語釈、鑑賞と並んでいる。 その「解説」が独特で、冒頭にあらすじが書いてある。それを読めば、話が最後まで分かってしまう。 入門書なのだし、あらすじを知らずに読んだ方がいいのではないかと思うのだが、何か考えが合ってのことなのだろう。 「道成寺縁起」と中国の「白蛇伝」の関係について触れていないのは物足りなかった。 なるほど、と思ったのは、「鉢かづき」の鑑賞。 「平安時代の物語の舞台は、ほとんど都の中にかぎられていた。」(p149) したがって、「竹取物語」も「源氏物語」も、「冒頭起筆には、時間の明示はあっても空間指定はなかった。なくても十分にわかったのである。」のだという。 しかし、おとぎ草子になると、作品の空間世界が大きく広がり、「河内国」というように、どこに住んでいる人か記されるようになり、「それが物語的ではあっても平安期のものとは大きく違う印象を与えるのである。」という。 「むかしむかしあるところに」という昔話ではなく、伝説に近いのだ。 なんとなく、室町時代に物語として意識的に書かれたのが「おとぎ草子」かと思っていたが、そうとはかぎらないらしい。 巻末の解説によると、「おとぎ草子」は、絵入り本として「婦女子に提供された作品」であって、成立時代によって「おとぎ草子」かどうか区別されるのではなく「読者層の違いによって生じたテキスト形態の差によって区別すべきだ」という説もあるそうだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2007.11.30
コメント(2)
角川文庫。1952.1.15初版。2002.5.20改訂83版 前半に原文(とはいっても、もちろん、段落わけや漢字にするなど、手が加えてあり、読みやすくなっている)と注釈があり、後半が現代語訳。 もちろんわたしは現代語訳だけ読み、気になったところだけ原文やその注を見る、という読み方で読んだ。 橋本治の訳で読んで以来で、全体を(現代語訳とはいいながら)全部読んだのは初めてかもしれない。 内容は多岐にわたり、何かに対する見解だったり、ただの覚え書きだったり。 現代なら「ブログ」にしそうなものなのだ。 「凡例」によると、 現代語訳は、本文に即かず離れず、しかし、現代語として通る場合はなるべく逐語訳に従うこととして、正確を期した。 ということだ。 最初に訳したのが1951年で、1957年に、「大幅に改訂し」ている。 その改訂時の「現代語」が読めるという点でも興味深い。 268ページから269ページにかけて(第1116段から119段)あたりは、思い切って遊びもいれている。 「必ず才能の浅い人がすることなんだそうな」はとくに変わったところのない訳しかただと思うが、「その他のものは、嫌なもんだ」や「上流社会にまではいりこむことでござんす」などは、斬新な訳だったのではないだろうか。 訳で、裏は塵《ちり》が積もり虫の巣で鼻もちならない恰好《かっこう》なのをよく掃き拭《ぬぐ》って(p345)の「鼻もちならない」で連想するのは「自慢する」ということだけだったのだが、それでは意味が通らない。 げんぶんでは「いぶせげなる」。 辞書を引いたら、「鼻もち」は「くさいのを我慢すること」で、従って、「鼻もちならない」は、「そのにおいに我慢できない」ということだった。 人の態度が我慢ならないというのは、派生的な意味だったのだ。 索引がついているのは便利。 語の上に「○」がついているのとついていないのがあって、その違いは何だろうと思ったら、「凡例」に、索引中、○をつけたのは、いわゆる古文での常識語である。とのこと。 「試験に出る古文単語」としても使えるように作ってあるのであった。 なお、「徒然草」のさわりだけ知りたいという人には、橋本治の訳の「絵本徒然草(上)」「絵本徒然草(下)」がおすすめ。 「徒然草」成立についての見解も説得力がある。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ
2007.09.29
コメント(0)
土曜日は終日雪。午前中に灯油を買いに行き、ついでに買い物をして帰宅し、あとは、雪かきを2回した以外はずっと家にこもりきり。 ということで、『北越雪譜』から「雪蟄《ゆきこもり》」を。 送りがなは現代語の本則に合わせて修正してある。 ルビは省略してある。()の中は割り注。 およそ雪九月末より降り始めて、雪中に春を迎へ、正、二の月は雪なほ深し。三、四の月に至りて次第に解け、五月に至りて、雪全く消えて夏道となる。(年の寒暖によりて遅速あり。)四、五月に至れば、春の花ども一時に開く。されば雪中にあること、およそ八か月、一年の間雪を見ざること、わづかに四か月なれども、全く雪中にこもるは半年なり。ここをもつて家居の造りはさらなり、よろづのこと、雪を防ぐを専らとし、財を費やし力を尽くすこと、紙筆に記しがたし。農家はことさら、夏の初めより秋の末までに五穀をも収むるゆゑ、雪中に稲を刈ることあり。そのせはしきことの千辛万苦、暖国の農業に比すれば百倍なり。さればとて、雪国に生まるる者は、幼きより雪中に成長するゆゑ、蓼の中の虫辛きを知らざるがごとく、雪を雪とも思はざるは、暖地の安居を味はへざるゆゑなり。女はさらなり、男も十人に七人はこれなり。しかれども、住めば都とて、繁華の江戸に奉公すること年ありて後、雪国の故郷に帰る者、これもまた十人にして七人なり。胡馬北風に嘶き、越鳥南枝に巣くふ、故郷の忘れがたきは世界の人情なり。さて、雪中は廊下に(江戸にいふ店《たな》下)雪垂《ゆきだれ》を(かやにてあみたるすだれをいふ)下《くだ》し(雪吹《ふぶき》をふせぐため也)、窓もまたこれを用ふ。雪降らざる時は、巻いて明かりをとる。雪降ること盛んなる時は、積もる雪家を埋めて、雪と屋上とひとしく平らになり、明かりのとるべきところなく、昼も暗夜のごとく灯火を照らして、家の内は夜昼を分かたず。やうやく雪の止みたる時、雪を掘りて、わづかに小窓を開き明かりをひく時は、光明赫奕たる仏の国に生まれたる心地なり。 このほか、雪こもりの艱難さまざまあれど、くだくだしければ記さず。鳥獣は雪中食なきを知りて、雪浅き国へ去るもあれど、一定ならず。雪中にこもりゐて朝夕をなすものは、人と熊となり。楽天ブログランキング←よかったらクリックしてください
2006.01.22
コメント(0)
この冬は厳しい寒さながら、私の住む茨城県南部には雪は降らなかった。 そのせいか、寒いのに霜柱ができず、不思議に思っていた。土も乾ききっていたのだろ。 しかし、昨日の朝、起きたら雪が積もっていた。 雪にちなんで、『北越雪譜』から短いのを一つ。 題は「沫雪《あわゆき》」。ルビはほとんど省略してある。(ここから) 春の雪は消えやすきをもつて抹雪といふ。和漢の春雪消えやすきを詩歌の作意とす、是暖国の事也。寒国の雪は冬を抹雪ともいふべし。いかんとなれば、冬の雪はいかほどつもりても凝《こほ》り凍《かたま》まることなく、脆弱なる事淤泥のごとし。故に冬の雪中は、橇《かんじき》、縋《すがり》を穿きて途を行く。里言には雪を漕ぐといふ。水を渉る状に似たるゆゑにや。又深田を行くすがたあり。初春にいたれば雪悉く凍りて、雪途は石を布きたるごとくなれば往来冬よりは易し(すべらざるために、下駄の歯にくぎをうちて用ふ)#[()の中は割り注]。暖国の抹雪とは気運の前後かくのごとし。(ここまで) 「冬の雪はいかほどつもりても凝り凍ることなく」というのは、パウダースノー状態ということだろう。それだけ気温が低いのだ。楽天ブログランキング←よかったらクリックしてください
2006.01.11
コメント(0)
例年にない厳しい寒さと大雪で、困っている人が大勢いる。亡くなった方までいる。 我が家では、今朝、洗濯物を干す前に竿を拭くために、布を濡らそうとしたら、屋外の水道は凍り付いていて水が出なかった。 子どもの頃のことを思い出した。 30年ぐらい前までのことだと思うのだが、冬になると、夜、寝る前に、水道の水を細く出しっぱなしにしておいたものだ。 そうしないと、朝、水が出ないだけでなく、凍って膨張し、水道管が破裂することもあったからだ。 後に、発泡スチロール製の保温剤が作られ、水道管が保護されるようになってからは、夜、水道を止めておいてもいいようになった。 寒さと雪、というと、思い出すのは鈴木牧之《すずきぼくし》の「北越雪譜」。 雪の中での暮らし、風物、逸話をまとめたもの。 1837年(天保8)に出版されるまでに紆余曲折があり、日の目を見るまでに時間がかかった本だ。 熊に助けられた男の話、吹雪や雪崩での遭難、鮭をとる男と妻の哀話など、印象に残る話が多い。 今は売り切れ絶版状態らしいが、校註北越雪譜改訂で読んだ。私は鈴木牧之記念館で買い求めた。校注が丁寧で、良書である。楽天ブログランキング←よかったらクリックしてください
2006.01.08
コメント(0)
司代隆三(ポプラ社。1974.12第1刷、1984.9代8刷) 百人一首は、母親が好きだったので、子供の頃から親しんでいた。 高校生の頃は、何も見ずにほとんど暗唱できたと思う。 しかし、子供のうちから覚えるのも善し悪しで、今でも、ほとんどの歌は意味がわからない。ただの呪文のようなものでしかないのだ。 これではいけないと、「マンガ百人一首」というのを数年前に買ったことがあるが、通読できなかった。 一首ごとに、見開き2ページで、マンガでその内容を説明する、というものなのだが、得にできないものの方が多いのではないか、という気がした。 「朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれ渡る瀬々の網代木」なんて、霧が晴れてきて網代木が見えてきた、というだけで、ストーリー性などない。 今度こそは、と、図書館で目についた本を借りてきた。 中学生あたりを対称にした本らしく、ですます調でルビも多い。 知らないことばかりで勉強になった。 今、大河ドラマで放送中の「義経」の時代をはさんで活躍した歌人も多い。 小野小町については、次のようにある。 貫之《つらゆき》が小野小町《おののこまち》を、衣通姫の系統《けいとう》の人だといったのは、衣通姫の優雅《ゆうが》な歌をうけついでいる人だといったのですが、それがいつしか、美人《びじん》の血統《けっとう》の人だと考えられるようになってきたようです。そして、このことから小町は、衣通姫のように絶世《ぜっせい》の美人と言うことになってきました。(P85) 昔から美人の誉れが高かったのではなく、あとからそう勘違いされて、それが定着したというのである。 百人一首については、定家が、後鳥羽上皇を忍んで、小倉山の風景が浮かぶように歌を選んだのだ、というのをテレビで見たことがある。 しかし、この本では、後鳥羽上皇と定家は仲がよくなかったということになっている。
2005.06.30
コメント(0)
寂聴今昔物語(著者:瀬戸内寂聴|出版社:中央公論新社) 瀬戸内寂聴が、『今昔物語』の中から面白いと思ったものを随意に口語訳したもの。 全体の構成などは特に考えていない。 全部で45話。 仏教説話もあるが、生々しい男女の関係を描いたものも多い。原典にそういうものが多いのか、それとも著者の好みか。 瀬戸内寂聴の本を初めて読んだが、文章は読みやすくわかりやすい。
2004.04.16
コメント(0)
全59件 (59件中 1-50件目)