哲学



ニーチェの非形而上学的真理概念

 この論文の目的は、ニーチェの思想において「真理」の概念が総体的にどのように考えられ、彼の思想においてどのような意義を有しているのかを明らかにしようとするものである。その際従来の解釈者の内容を検討し、それらの解釈に対する解釈を試みている。ニーチェを解釈することはニーチェも目指した思惟の実践を遂行することであるから、論文自体が解釈の実践の試みとなるように努めた。

 第一章 
 ニーチェ自身が直面していた問題と課題を、彼がおかれていた思想史的な問題の場から明らかにすることを目的とする。ニーチェの真理の問題において特に重要となるのは、知的誠実とニヒリズムである。知的誠実は真理への意志を意志せしめる原動力である。
 ニーチェの形而上学に対する徹底的な批判的洞察の重要点は、批判の「観点」の設定の仕方が特異であること、すなわち歴史的・心理学的に学問それ自体を問題にするという手法の特異性にあり、それが彼に従来の学問の形態を超出させることになるのである。形而上学に対する「解釈」、「価値評価」が思想の内容それ自体へと変容する。しかしその解釈はあくまで真理を追究する知的誠実性ゆえの必然であると同時に試みであったのであり、その二義性は真理の認識における分裂を招来する出発点となっている。「絶対的(無条件的)で誠実な無神論」の徹底が思想の従来の自己保存の形態を超克し、真理の肯定は、「創造する真理」の創造となる。
 単に形而上学が恣意的な構築物であり、一つの「価値評価」なのだ、という認識はまだ、「何ものも真理ではない」という「最も恐るべき真理」の肯定によるニヒリズム克服の一歩手前である。既に「与えられている」ものを解釈したり評価したりするのではなく、積極的な意味と価値を「与える」ことが認識の内容となる。
 「認識されるもの」はあらかじめ与えられてはいない。ニーチェにおいては、認識主体と、対象の一致はない。認識されるものと認識するものとの一致はありえず、主観が客観に相応することもあり得ない。したがって誤謬が真理である。真理とは、誤謬のことである。

 第二章 
 創造するものとしての真理が、ニーチェ思想の従来の哲学に対する新しさとなっている。それは確実性と同一性の真理の基盤を破壊することによってなされている。そして破壊と不可分であるという意味での肯定は弁証法的な否定の肯定ではなく、全く新しいものの肯定すなわち創造である。
 創造するものとしての真理はニーチェにおいては<芸術>といわれる。それは新たな世界正当化である。そして真理への意志が誠実であり続けようとすればニヒリズムに真向かうしかないことが、創造の必然的契機となっている。
 ニーチェは「悲劇の誕生」において、自らの課題を「学問を芸術の光学のもとに、芸術を生の光学のもとに見ること」だといっている。彼にとって問題は、学問と芸術との関係、そして芸術と生との関係である。それらから初めて彼の考える「光学」に基づく真理が明らかになるのである。ニーチェの思想において学問と芸術と生がどのように考えられていたか、そしてそれらの連関から彼がいかなる真理概念を構築したのか、そして彼がその真理概念によっていかなる問題を解決したのか。
 ニーチェの学問に対する態度であるが、彼は従来のヨーロッパ形而上学における、理論的オプティミストの正当化を看取していた。形而上学は、理論や体系による自我や主体の正当化である。そのような形而上学におけるオプティミズムの現状維持に対し、彼は絶えざる自己超克を説く。彼の思惟は、絶えず己の立場が相対化されることを目指して思惟する。彼は形而上学から離反し、自己同一的な認識主体の破壊を行う。
 ニーチェにおいて芸術は、「何ものも真理ではない」という真理を肯定する誠実な真理への意志が新たに認識の枠組みを構築する思惟、すなわち「創造」と呼ばれる行為によって、思惟自体を創造することであり、それが彼においては芸術の最高の形態なのである。そのような肯定的創造は、生が「最も恐るべき真理」を意志する能動的すなわちディオニュソス的な力であることによってなされる。

 第三章 
 真理と虚偽に関するニーチェの思想の「形」ともいうべきものを規定させている、従来思想との関わり合いを考えるとき、特にニーチェのカントとの関係が明らかである。ニーチェにおいてはカントの言うようなア・プリオリな認識様式は存在しない。認識の破壊的側面は、ア・プリオリなものが虚偽であるとの洞察である。その洞察のうえでニーチェがいかにニヒリズムを克服しようとしたのかを、ニーチェの真理の問題との関わり合いのなか考え、その際何人かの代表的な解釈者の解釈について考える。
 ニヒリズムにおける時代の時間性はいかにして克服されるかという問題について、レーヴィットとピヒトはそれぞれニーチェの時間性からの超出とニヒリズムの克服について論じている。レーヴィットの解釈では、ニーチェは時間の外への自己超克によるピュシスとしての生の本質との合致・産出と破壊が不可分である生の必然と人間的自己再生意欲との一致といったニヒリズム克服を考えている。
 ピヒトの解釈では、ニーチェは時間のなかで超越論的に将来へと企投していく実験哲学の、時代に対する責任性への意欲からなる克服を考えている。ニーチェは、従来の学問の閉塞的独断的自己正当化の枠に閉じこめられてきた真理の概念を、広く将来の創造へと開かれた真理の形態へと解放しようとする。生は真理への意志によって絶えず未知なる将来へと向かう。彼にとって解放とは、従来の真理からの解放と、未来への真理への解放という二義性をもつ。
 ニーチェによって将来へと開放される真理の形態は、「様々な価値評価を超え出て、構築しつつ排除し破壊する思惟様式としての正義」であり、それは、「生そのものの至高の表現者」である(Ⅶ2,25〔484〕)。それはニヒリズムに対する反運動としての「最も恐るべき真理」への意志によって現れる真理形態であり、破壊され排除されつつ構築される別の生を支配してきた従来のヨーロッパ形而上学の真理から離反する、一連の運動の表現形態である。
 ニーチェにおいて認識とは、評価する行為の実践[プラクシス]であり、その都度の遠近法的な態度表明である。従来の認識は、生成する存在者に規則性や形式を押しつけ、それを「図式化」(Ⅷ14,152)することであった。ニーチェは形而上学の一方的な「真なるもの」の押しつけによって失われた、純粋な生成を取り戻そうと試みる。純粋な生成は、絶えざる「世界審判」の思惟実践によって純粋に生成する生において創造される。生は絶えず認識の枠組みを構築する。生は自然のなかに現れると共に自然を構成する力である。
 ここで「真理は、それがなければある特定の生物が生きられない一種の誤謬である。最終的に決定するのは、生にとっての価値である」ということが問題となる。真理はプラグマティックなものでしかあり得ないのか。
 真理はそれ自体として分裂しており、仮象の生成は不可避的であるというピヒトの解釈から、いかにしてニーチェにおける真理の構造が解釈されうるか。世界は生み出された仮象であり、仮象の産出が「生の条件」となる。
 第四節  力への意志に関する問いがどのように力そのものの質への問いへと徹底されなければならないのか。そしてニーチェの思想における遠近法的価値評価が、ニーチェのカントにたいする批判のなかでいかにして形成されていったか。ドゥルーズのニーチェ解釈について。
 思惟と生との関係において、新たな形での思惟のあり方、すなわち生の可能性を極限まで追求する力への意志の自己肯定という概念がピヒトとの対比点として明かである。
 第五節  ニーチェの思惟はドゥルーズのいうような「能動的な力」の絶えざる自己贈与的創造である。ニーチェの思想においてはパトス的なものがニヒリズムの克服において重要である。
 ニーチェにおける生とは、思惟行為によって生の可能性の条件を絶えず企投され、それによって初めて将来の生への突破が可能となる生である。そのため絶えざる価値転換にさらされる此岸における生には、すがることができる安住の地はない。ニヒリズムの到来によって自己同一性の原理に基づく形而上学的真理は仮象であることが暴露され、人間はもはや永遠性のうちには安らうことができない。すなわち生に停止点はなく、目的としての終点は存在しない。生とは絶えざる能動的な動きそのものである。そのような生の可能性を極限まで追求するものとして思惟もある。彼は、生とともに開かれる真理の形態を創造する。己の生を己で知っているということはなく、生は思惟され続けることによって開かれていく未知なるものである。真理はそのように思惟してしまう能動的な力の自己発現、企投、贈与としてある。
 結論として、ニーチェの真理の概念においては、生のあり方として絶えず無制約的な純粋性を目指す<ディオニュソス的なもの>の概念が重要な解釈のカギとなること、そして生の相関的・質的生成における<力>そのものが問題であることが示される。




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