1-1



 第一節 神の死

   真理の消失

 ニーチェの出発点は、「神は死んだ」という根本認識である。ニーチェが1882年の『悦ばしい学問』の<気違いじみた男>と題されたアフォリズム125で「神は死んだ」と初めて言ったとき、そこではニーチェはこの言葉を「気違いじみた男」と呼ばれる人物の口を借りて語らせている。
「諸君はあの気違いじみた男のことを聞かなかったのか。―真っ昼間、提灯をつけて、広場にでて来て、絶えず「俺は神様を探している!俺は神様を探している!」と叫んだ男のことを。――そこにはちょうど、神を信じない人々が大勢集まっていたので、たちまちひどい物笑いの種となった。神様が行方不明になったのか?とある者は言った。神様が子どものように迷子になったのか?ともう一人が言った。それとも隠れんぼうをしているのか?われわれが怖くなったのか?船に乗っていったのか。移民というわけか?――彼らは口々に叫び、笑った。気違いじみた男は彼らの中に飛び込んで、鋭い目つきで辺りを睨めまわした。「神様がどこへ行ったって?」と、彼は叫んだ、「諸君に言ってやる!俺達が神様を殺したのだ――諸君と俺がだ!俺達は全部神の殺害者だ!だが、どうしてそんなことをやってのけた?どうして俺達は海を飲み干すことができた?水平線を掃き消すような海綿を誰が俺達にくれた?地球を太陽から切り離すようなどんなことをおれたちはやってのけたのだ?地球は今はどっちへ動いていくのか?俺達はどっちへ動いていくのか?すべての太陽から離れてか?俺達は絶え間なく突進していくのではないか?それも、後ろへか、横へか、前へか、四方八方へか?。俺たちは無限の虚無の中を迷っていくのではないか?むなしい虚空がわれわれに息を吐きかけているのではないか?たえず夜が、いっそう暗い夜がやってくるのではないか?真っ昼間から提灯をつけなければならぬのではないか?[…]神様は死んだ!死にきりだ!そしておれたちが神様を殺したのだ![…]こうした行為の偉大さは、俺達には偉大すぎはしないか?こうしたことをやってのけるというには、少なくとも俺達自身が神々にならなければならないのではないか?これより偉大な行為はかつてなかった、――そして俺達の後から生まれて来るものはみな、この行為のおかげで、これまでにあったすべての歴史より一段高い歴史に属することになる!>」(「ニーチェ全集」、白水社、第Ⅰ期第十巻P.195、以下同書からの引用の場合は「全集」と略、原典Nietzsche‐Werke, Kritische Gesamtausgabe[Ⅰ‐ⅧAbteilung]),herausgegeben von Giorgio Colli und mazzino Montinari, Walter de Gruiter, Berlin /New York〔1969~〕Ⅴ2,158ff)
 それまで「神」は、人間がそこで生きているこの世界を超えた彼岸からこの世界のすべてのものを秩序づけ、人間に生きるべき方向を指示してきたのであったが、それゆえその「神」を殺すという行為は途方もなく大きく、その結果生じた疑念もまた大きい。「太陽」とは、その光のうちに現れる真理と関係している。「水平線」とは、事物がそのうちで認識される範囲、すなわち真理である。ニーチェがここで語っているのは、現代世界における真理の消失という現実的な根本経験である。「俺達が神様を殺した」と「気違いじみた男」の自覚が明確であるのは、そのことが、明白な取り消しようのないこととして残されたからである。しかし一体ニーチェの言う「神の死」において死んだ神とはいかなる神であったのか。現実的諸力を及ぼしていた生ける神とはどのような神であったのだろうか。
「根本においては何が起こったのか。<目的>という概念によっても、<一>という概念によっても、<真理>という概念によっても、存在の全体的特質は解釈されないことがわかったとき、価値喪失の感情が生まれた。そのことによって、何かが達成されたのでもなければ、到達されたわけでもない。出来事の多様さの包括的な統一が抜け落ちている。存在の特質は<真理>ではなく虚偽である。……真理の世界を確信する根拠が全くないのだ。
 要するに、それによって世界に価値を与えてきた<目的><統一><存在>が、再びわれわれによって抜き取られ、……今や世界は無価値のように見える……」(Ⅷ2,11〔99〕)。
 ニーチェはここでギリシャ形而上学における存在の特質としての<真理>について語っている。よく知られたニヒリズムの定式にはこうある。「ニヒリズム。目標が欠けている。<何故>に対する答えが欠けている。ニヒリズムとは何か。―最高価値が価値を喪失することである」(Ⅲ2,9,〔35〕)。ニーチェはここで、プラトンの言う<善のイデア>たる最高価値・最高善の消滅を語っている。永遠なる同一性の原理に支えられたギリシャ形而上学の真理においては、真理の認識可能性の根拠は神であると考えられていた。

   ニーチェの形而上学理解

「……私が目指しているもの、すなわち相変わらず、科学への信仰の基礎である形而上学的な信仰があるということ、――今日の認識者であるわれわれ、神なき者、反形而上学者であるわれわれも、自分の熱情を、千年昔の信仰が火をつけた火事から、すなわち、神は真理であり、真理は神的であるという、プラトンの信仰でもあったキリスト者の信仰からもらっていること……はもう理解されたことであろう。しかし、このことがますます信ずるに値しないものになれば、誤謬、愚かさ、虚偽は別として、何ものももはや神的でないことが明らかになれば、――神自身がわれわれの最も長い間の虚偽であることが明らかになれば、どうであろうか――」(Ⅴ2,259)。
 ニーチェがなぜギリシャ形而上学を問題にするかが、このアフォリズムから明らかである。彼の企ては、ヨーロッパ史全体を学問への信仰の歴史に還元しようとすることであり、学問における嘘の発端を確定して、「隠れた歴史」(Ⅴ2,78)を暴露することである。形而上学の神そのものが最も深い虚偽であることが明らかになれば、学問一般の根拠喪失が生ずる。ならばニーチェの言うとおり“神の死”は「近代最大の出来事」(Ⅴ2,255)であろう。すでに近代の物理学や天文学によって、どこにも中心を持たない無限の空間的広がりとしての無機的宇宙が誕生し、もはや現実の世界はギリシア存在論の意味でのコスモスとして理解することは不可能となっていた。デカルト的な理性が築く単なる延長物としての世界、すなわち近代の機械論的な自然の出現と共に、神の恩寵の徴を秘めた生きている自然は消滅する。
 ニーチェは「キリスト教的信仰がなければ、君たち自身が、自然や歴史と同じく、怪物と混沌となる」というパスカルの予言は実現されたと語る(河出書房版世界の大思想Ⅱ9、「ニーチェ 権力の意志」、原佑訳〔原版理想社版「ニーチェ全集」所収〕、以下WMと略記。アフォリズム番号83、P.44)。パスカルの洞察は、当時の幾何学的諸成果を前提とした結論である。しかしニーチェはキリスト教をも「民衆向きのプラトン主義」(Ⅳ2,4)という定式のもとに形而上学へと還元してしまうのである*1。形而上学的な「神の死」の体験は、超越的な彼岸における絶対的存在から人間の生を意味づけ支えていた世界のすべての根拠を失わせる。「人間はコペルニクス以来、中心からXのほうに転がっている」(WM1,P.12)。ギリシア的コスモスの崩壊によって、不動の地球を中心にして、“階層”や“目的”のようなタームで表せる有機体主義的な秩序によって人間中心主義的に意義づけられていた世界構造からその成立基盤が奪いさられ、世界と人間を共通に支配する普遍的理性といったものへの信頼は消失し、人間は「虚空をさまよう」ことになる。
 人間理性は、神的なものの現れではなく人間固有のものとされ、神と人間、真理と人間、理性と神の真理との連続性が切断された。ピヒトはカントについて端的にこう述べている。「カントの、およそあらゆる認識の真理が根拠づけられる対象とカテゴリーの一致による真理概念の構築は、逆に、真に存在する神に関しては何も知り得ないということの証明となる」*2。もっとも、「思惟の可能性は、思惟せられるおよそ一切のものが根元的統一に関連づけられることにのみ依存しているから、最高の諸カテゴリーは、思惟ならびに思惟が認識する自然の最高の諸規定である」*3。事実、カントは「我が頭上の星空と我が内なる道徳法則」にたいする驚嘆と畏敬によって、コスモス及び人間のヌースへの“ある究極的なもの”の“現象”を認めてもいる。しかし、あらゆる作られたものを神としてはならないといういわば反自然的なキリスト教的動機によって、人間的自由が新たな形式において根拠づけられ、自然と神との合一からの脱出が計られる。「理性は理性の自己了解を『自然的素質』という概念において基礎づけようとするが、それは自然から全く独立したあらゆる時代のあらゆる人間によって、同時に自然的素質であることを要請するほどに自然から独立でなければならない概念であるが故に」*4、理性は理性自身を破壊してしまう。神の真理の現れとしての“自然”は、人間固有の自然的素質へと変質させられる。

   評価の問題

 ニーチェとこれら形而上学との関わりは、いかなる意味を持つのか。レーヴィットによれば、ニーチェが「ソクラテス以前のphysikoi(自然学者たち)を追想しつつ――人間を一切の事物の自然のなかへ<訳し返し>、超世界的及び背後世界的になった形而上学において、世界の永続的なphysis(自然)と<肉体の大いなる理性>を、基礎になるもの・常に存在するもの・不変に留まるもの・回帰するものとして、再び承認せしめようとする大きな試みを企てた」ことによって、ニーチェの著書は「未来の哲学の前奏」となっているという*5。しかしニーチェにとって形而上学が問題的となっているのは、それが現実の生存に意味と価値を置き与えてきた諸力であるとニーチェが判断する限りにおいてである。というのもニーチェは、ヨーロッパ形而上学を真理への意志の一形態と見、その背後に弱者のエゴイズム、弱者の意欲する「力への意志」が働いているとする“デカダンスの徴候学”(WM38,P.25)を展開するからである*6。
 「生には、力の度合い以外には、価値を持つものは何もない―まさに、生自身が力への意志であるとするなら。道徳は出来損ないのものどもがニヒリズムに陥らないように防ぐが、それは、道徳が、各人に無限の価値を、形而上学的価値を与え、この世の権力や位階のそれとはそぐわないある秩序のうちへと組み入れることによってである」(WM55,P.35)。その「力への意志」説と、「永劫回帰」説をレーヴィットのように形而上学的に考えることは正当であろうか。ピヒトは、ニーチェは「自己自身の思惟を世界史という悲劇的な舞台上のひとつの行為として解釈する」*7から、ニーチェによって「考え抜かれた論理」(Ⅷ2,11〔411〕)であるというニヒリズムの到来も歴史のなかでの「ひとつの出来事」としての思惟にすぎないと考える。それまで歴史を支配してきた形而上学的な意味からの解放という、ニヒリズム到来の意味それ自体を思惟は絶えず解放し続ける。「いかなるもののみが認識であり得るのか?―「解釈」であり、意味の置き入れであって、―「説明」ではない[…]。事実というものはなく、すべてのものが、流動的で、捉え難く、逃げ去ってゆく。最も持続的なものはやはり私たちの私見である」(WM604,P267)。
 ニーチェは“神の死”によるニヒリズムの到来を次の二世紀の歴史の必然として語るが(Ⅷ2,11〔411〕)、“神の死”はヨーロッパ形而上学の歴史の必然であるのか?その際ピヒトのように現代哲学の状況からニーチェの洞察を現実歴史の地平へと統一しようとする試みは、「神の影を描く様々な洞窟」(Ⅴ2,145)ならぬ“ニーチェの影を描く様々な洞窟”の建設である。「一切価値の価値転換」の問題は、われわれの価値評価の問題である。ハイデガーは価値転換を存在の歴史の必然的帰結として解釈する可能性を考える*8。しかし重要なことは、コスモスとしての自然の崩壊が、啓蒙期から十九世紀に至る科学の進歩によってもたらされた啓蒙の結果であることをニーチェが徹底的に認識することによって、彼にとって学問が学問そのものとして問題になってきた、いわば問題が問題として“生成した”、ということである。ニーチェにとって“神の死”とニヒリズムの到来は、他ならぬ学問の進歩によってもたらされた形而上学の自己崩壊である。そのことを、非合理主義的精神によってではなく、徹底した合理主義的精神によって彼は認識していた。
 『人間的、あまりに人間的』以降登場する「自由精神」とは、「近代科学の成果を全権委任で駆使しうる」*9批判的精神であると考えられる。それはニーチェにとっては「ロマン主義」のごとく己の理想を周囲に同心円的に拡大し押しつける非合理主義的精神の対極であろう。というのも「〔永遠化への〕意志は、自分の苦悩の最も個人的なもの、最も個別的なもの、最も狭苦しいもの、本来的な特異体質を、拘束力を持つ法則や強制に刻印を押したがり、自分の像、自分の責め苦をすべてのものに押しつけ、押し込み、焼き付けることによってすべてのものにいわば復讐する」(Ⅴ2,301f)からである。意志のその「価値評価」が問題なのである。一切の形而上学的な自己同一性の原理に支えられた真理概念の可能性を断念した後、いかなる真理が可能であるかを、彼は徹底的に考え抜くことになる。ニーチェの問題は、如何にして誠実に価値評価するか、ということである。それが実は、誠実な価値評価の至りつく結論になることを自覚するような形で、彼は価値転換を遂行する。確実な意味を見いだすことは、ニーチェにとって問題ではない。ニーチェにおいて哲学とは価値評価の企てである。それは“あまりに誠実な企て”なのである。




© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: