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   ニヒリズムの到来

 「ニヒリズム」それ自体は、「神の死」に対する基本的な反応の仕方である。それは形而上学の解体による時代の現象として到来するニヒリズムであり、「いかなる真理も存在しない」という端的な命題の自覚にすぎない。それは、「知恵への道。道徳克服のための指針」というアフォリズム中の、「崇拝心を砕くこと(最も堅く束縛されているときに)。自由な精神。独立。砂漠の時代。崇拝される一切の批判。(崇拝されぬものの理想化)、転倒された価値評価の試み」(Ⅶ2,26〔47〕)といわれるニーチェの第二段階*10、“自由精神”におけるニヒリズムである。それは、これまで人間の生存に意味と価値を置き与えてきた不変の最高の諸価値、存在、目標、秩序、統一のすべてを無に帰する実証主義的精神であるが、「まだ決定的でないニヒリズムとして、宙に浮いている懐疑主義であり、吟味の途上の最初の試みである」*11。“自由精神”がもたらすのは、従来の拘束からの自由でしかない。従ってその精神は自己自身に対して不自由なことにまだ無自覚である。しかし物事を裏面から見透かす自由精神は、いずれは価値の価値転換をもたらさざるを得ない。
「自分の運命が私にはわかっている。いずれ、私の名前には、――この世に存在したことのないような危機とか、深刻な良心の葛藤とか、従来信じられ、勧められ、聖化されてきた一切に逆らって下された決定とかいった――ある恐ろしいことの思い出が結びつけられることになるであろう。[…]私の真理は恐るべきものである。というのは、これまでは虚偽が真理と称されていたからである。[…]真理が数千年間の虚偽との戦いに入ったからには、われわれは古今未曾有の衝撃、地震や地殻変動を経験することになるであろう」(Ⅵ3,363ff)。
 ニーチェによれば、「神の死」の後に到来するというニヒリズムは「われわれの価値や理想の徹底的に考え抜かれた論理」である(Ⅷ2,11〔411〕)。ニーチェは、自身が徹底的に“反時代的”に考えざるを得なかった理由に対して既に自覚的なニヒリズムの観点から歴史全体を振り返ろうとする。精神的な運動のすべて、すなわち歴史そのものがニヒリズムの運動であったというのがニーチェの洞察である。
「突如、真理の恐ろしい部屋が開く。もっとも重大な認識に対する無意識の自衛や用心、隠蔽や防御が存在する。そのように私は今まで生きてきた。あることを自分に隠していた。しかし、たゆまず率直に語り、石を取り除いてきたことが、私の衝動を非常に強くした。今度こそ最後の石を押し転がすのだ。すると最も恐るべき真理が私の前に立っている」(Ⅶ1,21〔6〕)。
 プラトン以来のヨーロッパ哲学は、現実の外に、肉体から分離された精神のみが近づきうる超自然的原理を設定し、それとの関連においてこの自然界の諸々の存在者の存在の意味を理解してきた。自然的存在者は、形而上学的原理に服従する限りにおいて初めて存在者としての資格を認められる非存在、単なる素材にすぎない。ニーチェは、これまでヨーロッパ文化の支柱かつ文化の目的であった形而上学的原理が、実は無を欲する意志の投射であったことを明らかにしようとする。「人間の意志は目標を必要とする、――そして何も欲しないよりはむしろ無を欲する」(「全集」Ⅱ三、『道徳の系譜』Ⅲ一、P.121)。それによって形而上学的認識の追求がすべて徒労に帰することに耐えねばならないという「最も恐るべき真理」が現れる。「何のための真理か。―これが最も強い衝動、真理への意志となった。ツァラトゥストラはそれ以外ではあり得ないのだ!」(Ⅶ1,16〔63〕)ハイデガーは「ニーチェ(白水社、薗田宗人訳、ⅠP.95)」において、真理への意志というニーチェの言葉をこう解釈している。「真理への意志とは、ニーチェの場合常に、従ってここでも、プラトンおよびキリスト教的意味での<真なる世界>への意志を、超感性的なもの、即自的存在者への意志を指している」。しかし上のニーチェの言葉から考えれば、それは形而上学からの断固たる超出を意味する。
「私の教えの結果は、ものすごく荒れ狂うに違いない。私の教えのために、無数の人々が破滅せねばならない。
――真理に関する試みを行おう!そのため、人類が破滅するかもしれぬ!さあやろう!>」(Ⅶ2,25〔304,305〕)。
 ニヒリズムは、ニーチェにとって、これまでのすべてを嘘に帰する否定的な力であると同時に、歴史上はじめて嘘を嘘として正確にとらえることができるという肯定的な意味を持つ。そして彼は、ニヒリズムという「神の死」への反応の仕方を克服しようと考える。「私の哲学―いかなる危険があろうとも、人間を仮象から引き出すこと。生の破滅を恐れないこと!」(Ⅴ2,13〔12〕)と彼は自らの使命を自覚する。「何ものも真理ではない。すべてが許されている」(Ⅶ2,25〔304,305〕)というときのツァラトゥストラの「真理」という言葉は、従来の形而上学的原理における真理という意味と、いかなる真理も存在しないという事実が真理であるという「最も恐るべき真理」としての意味との二義性をもつ。ニーチェにおいてニヒリズムとは、「最も恐るべき真理」が現れてくる過程である。科学的な精神によって考え抜かれた認識は、同時に自覚的なニヒリズムの実験へと導かれざるをえないことをニーチェは発見する。真理はわれわれに試みを課し、それに耐え得ないがゆえに破滅するものが多く出る。弱い人間達が、嘘すなわち仮象を嘘だと認めることができないことをニーチェは見抜いていた。そのようなニヒリズムは受動的な、「結果を伴わない冷淡な認識」であり、「何もそこから生まれない真理」(Ⅲ1,281ff)である。「最も恐るべき真理」に耐え得ない人々は、これまでそれと知らず虚偽のうちへと逃走を繰り返してきた。

   真理からの逃走の発見と知的誠実

「最も偉大な思想からの従来の逃げ道と逃走の試み。
ニルヴァーナ、虚無に至福を感じる思想。
彼岸での不可思議な変容と永生(キリスト教)。
公共の利益(bien public)としての動物化――幸福主義者、社会主義者、イエズス会士の結論。
われわれの精神への絶対的懐疑と気ままな実践。<行為のことなど何を知ろう!>」(Ⅶ1,21〔6〕)
 ここでニーチェは、四つの逃走の形式を述べている。ピヒトによれば最初の二つは、仏教とキリスト教が、此岸において「最も恐るべき真理」に耐える、というわれわれの生の使命からの逃走である、ということであり、第三の形式は、オプティミスティックに現状に満足することにより、絶えざる人間の自己超克という使命から逃走することである。第四の形式は、自由思想家に代表される近代の知識人が、もはや真理を真剣に受け止めないように説くことである。それは真理への懐疑に必要とされる真剣さと責任からの逃走である*12。これらの逃走に対し、ニーチェは最も恐るべき真理を引き受けようとし、それを自ら欲する。
「芸術と真理との関係について、私は非常に早くから真剣になった。今でも私は、この分裂を前にすると深い驚きを感ずる。私は最初の書物をこの分裂に捧げた。悲劇の誕生が芸術を信じている背景には、真理を持って生きることは不可能であり、<真理への意思>はすでに退廃の兆候である、という信念がある」(Ⅷ3,16〔40〕,7)。
「善と美は同一であるということは、哲学者にとって恥ずべきことである。まして、それに<真理もまた>と付け加えるならば、その男を殴りつけるべきだ。真理は醜いものだ。真理のために破滅しないために、我々は芸術を持っている」(Ⅷ,3,16〔40〕6)。
 啓蒙が神の死をもたらし、善、美、真の統一が壊れた後では、真と美は分裂し、従って真理と芸術との分裂が生じてくる。それはニーチェの形而上学からの離反の結果である。「<真理への意志>はすでに退廃の兆候である」のは、これまでの学問が提示してきたものが何ものも真理ではないからであり、「最も恐るべき真理」に耐え得ないがゆえにそれを意志しない者の、虚偽への逃走の事実が同時に明らかになったからである。ニヒリズムは「われわれの偉大な価値や理想の考え抜かれた論理」であり、「これらの<価値>の価値がもともと何であったかを見つけだすためには、われわれはまずニヒリズムを経験しなければならない」(Ⅷ2,11〔411〕4)のに、「恥ずべき」哲学者は逃走し続けている。従って実は驚くほど「真理は醜いもの」である。
 しかしわれわれを「最も恐るべき真理」であるニヒリズムの認識へと赴かせる真理への意志は、認識に苦痛をもたらす。というのは、ニーチェにとって生は「幸福や溢れんばかりの健康、存在の充満」であるべきであり、その「過剰故の苦悩」であるべきなのだが(Ⅲ1,6)、認識は、事物の底を見透かし、それが考え抜かれればニヒリズムに至らざるを得ず、認識の深まりが生の弱さをますます暴き立てざるを得ないからである。人間の生を維持するに必要とされる諸々の崇高な価値は、“神の死”によって偉大な価値そのものを剥奪された。「それ自体で」偉大なのものはもはやなく、あらゆるものは生を維持するために必要であるにすぎないことが暴露される。認識は、直接、人間の生を支配する力であった。科学も、生を支配する力の一形態であった。そのように認識は、生がその上に立って安泰を得ている諸価値の虚偽性を暴くことによって生の基盤を一旦破壊するが、それにもかかわらず真理に耐え、真理を欲する最終的な肯定を真理への意志は意欲する。そのような知的誠実はニーチェの啓蒙に対する態度そのものである。彼は「神の死」を全身で受け止めようとする。その真剣さは、生を振りかざす非合理主義者の態度ではなく、徹底的な合理主義的認識者の態度である。
 ニーチェはショーペンハウアーの無神論について次のようにいっている。「この箇所には、彼の誠実さのすべてがある。絶対的で誠実な無神論が、まさしく彼の問題設定の前提なのである。ヨーロッパ的良心の最終的かつ苦労して獲得された勝利、真理への二千年間の訓練のもっとも影響ある行為、結局、神への信仰において自らに虚偽を禁止する行為としての前提なのである。……キリスト教の神に勝ったのは何であるかがわかる。それは、キリスト教的道徳そのものであり、ますます厳しく解された誠実という概念であり、あらゆる犠牲を払って科学的良心、知的清潔さに翻訳され純化されたキリスト教的良心の聴罪師の鋭敏さである」(Ⅴ2,282)。ニーチェの言う「絶対的に誠実な無神論」は、ロマン主義の非合理性とは無縁である。科学の進歩によってそのような誠実な無神論が登場せざるを得ないのは、「まさしく、われわれがキリスト教から成長し、われわれの先祖が、彼らの信仰に従って財産も血も、地位も祖国も喜んで犠牲に捧げた、キリスト教の仮借なき誠実さを備えたキリスト者であったからである」(Ⅴ2,313)。ニーチェにおいてはそのキリスト者がプラトン主義者でもあるからこそ、ニヒリズムは学問そのものの問題なのである。

   ニヒリズムの徹底

 真理への意志をして「最も恐るべき真理」の肯定へと向かわせる知的誠実性は、認識者の生を破滅へと導く。それはまだ不完全なニヒリズムであるからこそ生を促進しない。ニーチェによるニヒリズムの完成は、肯定への意志のみがなしうる。ここで、肯定的な真理への意志と、否定的な真理への意志の存在が、顕わになる。「能動的」かつ「肯定的」なニヒリズムは、「最も恐るべき真理」を意志する「精神の上昇した力の印としてのニヒリズム」(WM22,P.19)である。最も恐るべき真理を自ら意志せず、その到来から逃走し続けたままでいる精神の様々な運動は、弱さゆえに「最も恐るべき真理」を意志できずにいる。それが「精神の力の衰退や後退としてのニヒリズム、すなわち、受動的ニヒリズム」(同所)である。ニーチェにとって問題なのは、どのような質の力が意志を支配しているかということである。「私たちの<認識作用>は、量を確立することに制限されている。しかし、私たちがこうした量の差を質と見なすことを妨げるものは、何もない。質は私たちにとっての遠近法的真理であって、いかなる<それ自体のもの>でもない」(WM563,P.247)。ドゥルーズによれば、ニーチェにおける「力」の本質は他の諸力との量の差異である*13。量そのものが量の相違と切り離せず、そうした量の差異が力の質として表現される。「われわれは、単なる量の差を何か量とは根本的に異なったものとして、つまり相互にもはや還元しあうことのできない質として感ぜずにはいられない。」(WM565,P.248)。力の諸関係は世界のありようの基礎だが、力の質の関係というものが存在する。ドゥルーズの解釈では、それは能動的な力と反動的な力、支配する力と支配される力との関係として考えられており、意志は、必然的に他の意志に対して行使される意志である。「意志(力(への)意志)とは力の差異的な境位である」。命令する意志と服従する意志との関係の内に真の問題がある。意志は複合的な事象であり、力は最初から複数的である*14。以上の解釈からすれば、「一つの同じ力」と思えるのは錯覚であって、力とはもともと<それ>として自己同一的であることはないことになる。弁証法における差異は運動を産み出す原理であるが、それは諸力の質、諸力の関係がそこに由来する差異論的なものを誤認していることになる。確かに、弁証法的意識において自己は本来的に同一性として存在しているから、自己がいつも同一性を欠いており自己に還元し得ない他者との関係を含んでいる、ということは考えられない。ニーチェは次のように言っている。
「存在の価値についての大きな疑問符がどこにつけられていたかが、これでわかるであろう。ペシミズムは必然的に――インド人やわれわれ、つまり<近代人>やヨーロッパ人におけるように――没落や衰退、奇形、衰退した本能の印なのだろうか。――強さのペシミズムというものは存在しないか。幸福や溢れんばかりの健康、存在の充満から、生存の困難や恐ろしさ、悪や謎のほうを好む知的傾向というものが存在しないだろうか。もしかすると、過剰故の苦悩というものが存在するのではないだろうか。敵として、自分の力を試してくれる貴重な敵として、<恐れる>とは何かを教えてくれる敵として、恐るべきものを熱望する、目つきの鋭い魅惑的な勇敢さというものが存在するのではないか」(Ⅲ1,6)。
 ニーチェはヘーゲルに代表される従来のヨーロッパ形而上学における、理論的オプティミズムの閉塞的正当化を看取していた。「最も衰退した生を生きる者」(Ⅴ2,301ff)は、形而上学の理論や体系によって、超感性的なものや自我や主体を、必要から正当化する。ヘーゲルにおいては、精神の自己実現として歴史が捉えられ、「生存の困難や恐ろしさ、悪や謎」はそれ自体の正当な位置を認められていない。そこにニーチェは形而上学のオプティミズムにおける自己保存本能を読みとっている。「理性とその諸範疇とへの、弁証法への信頼、それゆえ論理学の尊重は、これらのものが生にとって経験によって証明済みの有用性をもっていることを証明するだけであって、これらのものの「真理」を証明するのではない」(WM507,P223)。自己保存のデカダンスに対抗し、絶えざる<自己超克>をめざすのが“絶対的で誠実な無神論”である。「何かによってわれわれこそ良きヨーロッパ人であり、ヨーロッパの最も長期にわたる最も勇敢な自己超克の相続者であるとすれば、それはこの厳格さによってなのだ」(Ⅴ2,282)。彼の思惟は、絶えず己の存在が差異化されることを目指す“悲劇的”思惟である。「自分の力を試してくれる貴重な敵」ニヒリズムという「恐るべきもの」に耐え、それを「熱望」し、自己超克せんと意欲する力への意志は、新たな真理を自ら創造することによって自己を超出し、自己同一的な主体の破壊へと至る。




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