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第一節 創造としての真理
学問そのものの問題
「当時私が捉えることができたのは、何か恐ろしい危険なもので、必ずしも種牛ではないが角のはえた問題、とにかく新しい問題であった。今日であったら、私はそれは学問の、初めて問題化した、問題的なものとして捉えられた学問そのものの問題であったと言うことであろう」(Ⅲ1,7)。
ここで「問題」となっているのは、形而上学時代には問題になることがなかった実在の認識という理念それ自体である。彼にとって形而上学の絶対的な神に基づく学問知は<信仰>であり、「学問の秘義伝授者ソクラテス」(Ⅲ1,95)を攻撃することによって彼はヨーロッパ形而上学全体の基礎を破壊しようと試みる。ニーチェによれば「学問の問題は、学問の地盤においては認識され得ない」(Ⅲ,1,7)、というのも従来の形而上学的体系の枠内にとどまった思惟によっては解釈学的循環が不可避的だからである。認識の確実性を保証する体系という、思惟における一切の形而上学的前提と、思考主体の主体性そのものから自覚的な脱出が試みられねばならない。そのような“試み”によって「哲学に対する今のわれわれの立場の新しさは、われわれは真理を持たない、というまだどの時代も抱いたことのない確信である」(Ⅴ,1,3,〔19〕)というニーチェの確信が可能となる。
真理の光と、理性すなわち自然の光の調和によって、理性は存在するものを認識できると考えられてきた。しかし生得観念の真理は、欺く神の想定を退けることによって保証されていたにすぎない。ニーチェはデカルトの方法的懐疑に“道徳的な先入見”すなわち神の誠実性への“信仰”を見て取る。「私から見て、デカルトは不徹底である。確かなものを持とうと望み、<私は欺かれまいと欲する>時に、<それはなぜか>と問う必要がある」(Ⅶ3,40〔10〕)。「人間は本来、ずっと切れ目なしに欺かれていることによって生きているのではないのか」(「全集」Ⅰ、二「真理のパトスについて」P.327)。自然の光の根源として神がすべての主体の主体であり、近代哲学における主体概念は神の存在論的証明に基づいていたが、「神の死」によって主体の確実性は破壊され、理性はこれまで前提としていた永遠性と自己同一性を剥奪される。学問を確かなものとして認識しうる地盤はじつは存在しない。「認識が究極の目標として達成するものは、ただ―破滅のみである」(同上書、P.328)。ニーチェの哲学においては、真理を確実性のうちに捉えるに至るためにやむにやまれぬ誠実な真理への意志によってわれわれが認識体系を構築していく、ということはもはやあり得ない。しかしそれは、盲目的な非合理主義を意志する道しか残されていないということではない。
「多神教において、人間の自由な思考や多面的思考が既に形成されていた、新しい独自の目を創造し、そのつど新しいより独自の目を創造する力が。あらゆる動物のうちで人間にだけ、永遠の地平や遠近法が存在しないのは、このためである」(Ⅴ2,169)とニーチェがいうとき、彼はすでにアプリオリに与えられた認識の体系の内部に立った認識という前提を捨てている。しかしそれは新しい真理の肯定、価値の価値転換の可能性の条件となる。体系形式においてその確実性が保証されていた学問的真理は、“知ること”と“知られるもの”との同一性を基盤としていたが、“知られるもの”はもはや人間の真理に関する“試み”に任ねられるしかない<謎>となる。新しい学問において“知ること”は、「新しい独自の目を創造し、そのつど新しいより独自の目を創造する力」(Ⅴ,2,169)によってはじめて可能となる。ニーチェにおいて真理の光を見る「目」はあらかじめ与えられている光を見るのではなく、プロメテウスのように「自分が光を熱望することによって」光を創造するのである(Ⅴ2,219)。真理の<創造>はわれわれに課されるものとなると同時に、課されるものを創造する「作用」それ自体*15である。
真理の創造
「Ⅰ 真理を墓場から呼び出すこと。
真理を創造したのはわれわれなのだ。われわれが真理を呼び覚ましたのだ。それは勇気の最高の表現であり、力の感覚の最高の表現である。
従来のあらゆるペシミズムへの侮蔑!
われわれは真理と戦う、――真理に耐える唯一の手段は真理に耐える存在を創造することであるのを発見する。進んで再び愚かになり、真理に盲目になるというのなら別だが、われわれにはもうそれはできない!
蛇の頭を噛み切ろう!
われわれは最も重い思想を創造した。――次は、この思想を軽やかで悦ばしいと感ずる存在を創造しよう!
創造しうる為には、これまで与えられていた自由よりももっと大きな自由を、われわれが自ら自分に与えなければならない。そのために、道徳からの解放と(将来の予感!過去ではなく将来を祝おう!将来の神話をつくろう!希望のうちに生きよう!)至福の時たる祝祭を通じて軽やかになること!それから再び幕を下ろし、思考を次の確かな目標へ向けるのだ!」(Ⅶ1,21〔6〕)。
ニーチェにおいて創造はニヒリズムの肯定であり、さらには肯定の肯定である。弁証法的な生の高次の解消や生の義認の代わりに生を肯定するのが「生そのものの至高の表現者」(Ⅶ2,25〔484〕)ディオニュソスである。ドゥルーズも指摘しているが、『悲劇の誕生』において「ディオニュソスは肯定的なまた肯定する神としてはっきり強調して示されている」*16。ニーチェにおいては肯定すなわち創造は、あらゆる否定的要素から、あらゆる従属から切り離され、それそのものとして提示されていなければならないのである。この点に関して「もし意志が単に解放者―可能の領域において未来を創造し、自分に降りかかることを自分に必要なことに解釈し直す解放者―だとしたならば、意志の「必然性」とは単に「困窮の転換」だということになり、自分から出て自分へ来る永遠の避けがたいファートゥムたる存在の最高の星に対して祝福する肯定でもあるとはいえなくなるであろう」とのレーヴィットの指摘がある*17。既に初期の『反時代的考察』にニーチェは書いている。「ただ現在の最高の力を持ってしてのみ君たちは過ぎ去ったものを解釈することが許されるのだ」(「全集」、Ⅰ二、「歴史の功罪」六P.167)。そういうニーチェにとって「『世界過程』などという言葉を口にし、自分の時代をこの世界過程の必然的結果だとする」(同上書、P.184)するヘーゲル的な“困窮の論理”は如何にして克服されるかということは課題なのである。それは生が「幸福や溢れんばかりの健康、存在の充満」によって「最も恐るべき真理」を意志する能動的な力であることによってである。一切価値の価値転換は、弁証法的に止揚された一切の矛盾よりもさらに「高次の歴史に属する」(Ⅴ2,158ff)出来事である。
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