Hug育(はぐはぐ) 育児は育自

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●言うこときかんと・・・


これも今で言う立派な虐待だろうね。
遠い記憶ながらにも、いい気分ではなかったし、悲しくもなった。
親にしてみても虐待っていう意識もなかっただろうし、悪いことをした私・言う事を聞かないで手だてのない私にとってて、都合のいい切捨て口上でもあっただろう。

聞けば、近所の子や従兄弟たちも、み~んな多かれ少なかれ言われていたみたいだった。
大きな川があった地域環境のせいか?(小学校区内に3つの橋があった)。
私の記憶にある所でも、その橋のあたりの土手にはバラック小屋とかがいっぱいあって、子供心なりにも「ここは・・・」と一線を引いていたような場所だった。(そこは小学生のうちに全部撤去されて無くなってしまった)。
失礼な言い方、虐待と言うよりも、「あんたはそんな所の子だよ」っていう差別的発想の方があったのかもしれない。でも、今では「も~、いつも橋の下の子やから橋の下に行け!ってばっかり言われてたよね~」と、笑い話にしかならない。

行為を止めさせるために、私も僭越ながらアノ手コノ手アコギナ手も使っている。「○○せんと鬼が来るよぉ~!」「○○やったらオバケ来るけんねぇ」
真剣に聞いてハッとする子どもを見ると、「しめた」ものだ。
でもって、何となくうれしかったりする。「うん。この子には、まだファンタジ~があるんだ~」なんて親バカを含んでる。
かくいうお姑さん(ババちゃん)も「食べモン粗末にしよったら、鬼が来て~・・・」と、孫と格闘している。
2才になったばかりの娘に、食べ物を粗末にするとどうなるかだの、農家の苦労を話してもど~にもならんでしょ。鬼が来るからちゃんと食べてよ。それで充分。

さすがに、小学生ともなると、「鬼が来るからきちんと食べろ」「オバケが出るから宿題しろ」と言っても通用はしない。
ファンタジーからは逸脱して、現実的な言い方になる。
「宿題しないならTVも見る必要なし」「ちゃんとかたずけないなら、これ全部ステル」
行為を止めさせるのではなく、行為をやらせるために、別の行為を制限する。よくよく考えてみると親の卑怯な手だ。
でも、せっぱつまった現実の時間の流れ、生活の流れの中では、よくよく考える間もなく、常套手段として卑怯な手立てもアリなのだ。
なぜ、それをしなくてはいけないのか・・・、わかるように教える時間の余裕はない。

我が家は上の小学生の子どもにはあまり卑怯な手は使わないように「は」している。
きちんと食べなくても結構。宿題しなくても結構。かたずけしなくても結構。
・・・だが、それは、卑怯なオドシをされるより、もっともっと恐ろしい結末が待ち受けている。
当人が困り、当人に跳ね返ってくるだけのことなのだ。宿題忘れても私は先生に怒られることもなければ、イヤな思いもしない。かたずけしなくて、大事なものが無くなっていても、それは私の知ったことではない。ちゃんと食べなくて、後でお腹が空いても、私には全然関係ない。身を持って体験しないと、その時、その場で言いくるめて表面上なっとくして行動するだけじゃ、本人に得るものはないのだ。

高尚な先生に言わせると、何たる親、何たる虐待、と言われるかもしれないが、全然平気。
私の子だもの、きっと大きくなって、「お母さんにあの時、こんなこと言われた」って笑い話になるに違いないって。
それよりも、2才の子がいつこのテが通用しなくなるか・・・そちらの方がおおいに問題なのだ。今のところ、「鬼」よりも「カビるんるん(アンパンマンの)」が来る方がよっぽど恐ろしい、夢のある娘ですー。


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