
昭和20年代前半、まだ街中には空襲で焼け落ちた
屋敷のあとが残り、爆弾の爆発したあとは、
ちょっとした池になっていて、子供の遊び場に
なっていた。疎開先は石川県の金沢市だったらしいが、
このときの事は全く憶えてなくて、かろうじて
焼け残った中学校、鉄筋コンクリート3階建て、
屋上には爆弾が貫通した穴があいていたけど
不発だったのだろうか、残った1階部分の教室を
ベニヤ板で仕切った仮設の住宅で生活していた
ところから記憶が始まっている。窓は竹の桟に
アブラ紙を張ってガラスの代わり、台所はなく、
廊下にコンロを置いて炊事をしてた。
夕方になると廊下は煙が充満、いろんな匂いが
こもっていたのを思い出す。
そんなとき入学した小学校の始めての運動会。
都会の真ん中の小学校(文京区)だったけど
周囲には畑がひろがっていた。その運動会で
1年生がこの 「カモメの水兵さん」
で踊った。
白いパンツと白いシャツ、白い帽子を被って
踊っていたとき、パンツのゴムが切れて
片手でパンツが落ちないよう必死におさえて
踊ったこと。これだけはいつになっても忘れ
られない。